随時連載「映画は生きものの仕事である」(4)「宜蘭国際緑色影展」(イーラン国際グリーン映画祭瞥見記) 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 11号 4月15日 ビジュアル・トラックス
台湾の宜蘭県で開催された環境問題に関する劇、ドキュメンタリーの映画祭に招かれ、四月一日から九日まで滞在した。その帰りの機中で十日ぶりに見た朝日新聞によって、イラクでの抵抗勢力による日本の青年三人の人質と自衛隊の撤兵要求を知り、今日十三日現在、まだおちおち寝付けない。これについてはまた機会を改めて語りたい。
さて、この“無名の映画祭”については、私とともに出席された山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下YIDFF)の矢野和之氏やアースビジョン(地球環境映像祭)の宇津留理子さんなどから或いは報告の機会があろうと思う。私としてもこれが誕生したばかりの映画祭だけに宣伝しておかないといけない。だが残念ながら折角資料を沢山いただいたものの、中国語、英語のため未だ読みこなせないので、一知半解とお断りしたうえで、“瞥見”のままを伝えさせて戴きたい。
この正式には「宜蘭国際緑色影展(イーラン国際グリーン映画祭)」はこれが第一回目である。私は一回性のイベントと思っていたが、最後の九日の閉会式での劉守成(リュウ・スウ・チェン)県知事の挨拶では、「この成功を励みに、これから毎年行っていく」と強調された。初耳だった。もし毎年の映画祭となれば…、人口数十万人規模の宜蘭県ではどうなるだろう。たしかに後で述べるように、宜蘭市は環境都市として他県にはない都市作りに成功している。しかし県の首都圏と思われる宜蘭市と隣接の羅東鎮あわせて十万人に満たない都市圏である。それにしては水位の高い試みに思える。常識ではそうだ。
だが、現在進行形のこの「緑色影展」のパワー、特に様々な視覚的宣伝は凄まじい。びっくりするほど魅力的なデザインのポスター、それも一畳大のポスターや会場周囲に林立するのぼり旗、店頭のポスターなど、多分千点以上が街中の公共施設、大学、学校、公園、ホテル、大きな商店、買い物センターなどに行き渡っている。まさに「インターナショナル/国際」と「グリーン/緑色」の、二つのキーワードが一斉に宜蘭を支配しているようだ。これは“ヤマガタ”の比ではない。これが関係者、特に女性の映画人、コージネーター、ボランティアの活気と相俟って、街の生徒・学生までを熱くしている。私ですらどれだけ上映会場などで彼等からサインを求められたか。ほかの外国映画人のなかには許婚との結婚式を急遽、宜蘭の道教寺院で中国式式服で行うチェコの監督まで現れた。参加者も浮かれている。その父親役に最年長の私がいきなり指名され“証婚人”をやらされた。これは全台湾のマスコミに報じられ、映画祭の盛上げに結果として寄与する事になった。明るい話だ。
本誌の伏屋博雄氏からこの映画祭の推進力は『陳才根と隣人たち』や『生命』の作家で知られた呉乙峰(ウー・イ・フォン)氏だとは聞いていた。この宜蘭県出身だ。この企画に当って、範をYIDFFに取り、呉氏は劉宜蘭県知事夫妻らと映画祭経験者らと共にヤマガタを見学したという。だが同じからずだ。ユニークな「緑色」を立てたのだろう。これが例年開催となれば、来年からは日本の映画作家の作品が宜蘭に招かれるだろう。うがって言えば、台湾のYIDFFにしたいといった意欲が伺えるからだ。
呉乙峰氏が二日目のセミナー「土本典昭の夜」で語ったことで印象的だったのは「1987年の戒厳令時代の終焉以後、自由な時代を迎え、本格的なドキュメンタリーが作れるようになった。その範は日本のドキュメンタリーであり、小川紳介と土本典昭だった。そして自分の作品のへの日本の友人の評価は台湾のドキュメンタリスト全体を励ました…」。これを聞いて、1989年以来、小川紳介が創設に尽くしたYTDFFの十年余の流れが、いかに戒厳令から解放された台湾の若い映画人を鼓舞してきたかを確認できた。私はこれを率直に受け取った。同時に日本の作家は宜蘭を舞台に相互に作品を競う新たな映画の場が生まれようとしているその時点に立ち会っている気がした。
だが、ここはいわゆる「テーマを掲げた映画」のいわば国際交流風のイベントであり、商業的映画中心のそれでもなく、かと言ってコンペで受賞作を選ぶものでもない。町おこし的な意味もあろう。ヤマガタと同じからずというのはそこだ。どうやら陳水扁派らしく、民主的な知事として声望の高い劉守成県知事、その夫人も20年来の宜蘭県の環境保護運動のリーダーといわれ、任期 8年の一年前の今年、仕上げとして“緑色宜蘭”のシンボルとしてのこのグリーン映画祭を実現されたようだ。そこで今回は特別招待作家としては日本の作家が相応しいと思われた節がある。そして気恥ずかしいことであったが、機会あるごとに知事の次にスピーチさせられた。道教の国だ、年長ゆえに…と割り切ることにした。これらは全て事前には知らされなかった事だ。そもそもすべては行ってから…ばかりのことの連続だった。
開会式の前夜、連れ合いの基子と宜蘭駅に到着そうそう、県政府の観光保護局長ツウ・サン・ヤン氏らに迎えられ、はじめて県政府主催の映画祭であることを知った。ツウ氏が会った最初の宜蘭県人になる。その彼から数冊のレポートをプレゼントされた。掲載写真から珊瑚の白化などの海の異変などの調査記録と知れたが、いずれもツウ氏の著作だった。いかにも青年学者然とした彼の印象から、「緑色」の意味が分かったから妙だ。
渡されたパンフによれば、主催は宜蘭県政府であるが、その映画祭委員会は前述の呉乙峰さんはじめ、コージネーターの游恵貞(ジャン・ユ)さん、日本映画研究で知られる張昌彦さんらや若い映画青年のボランティア集団で組織されている。さらに運営は宜蘭県の「社区(地域)大学」という名の学生・成人学級生徒(生涯教育をも含む)の教育機構がこれを担っていた。私が日本語しか分からないという事で、社区大学の日本語科の先生、生徒さん(といっても中高年)、延べ七名が選ばれ、毎日交替で食事から昼寝、外出など移動に自家用車で連れ添って下さった。みな質僕で人柄のよい点では生粋の“地方人気質”。白さんは先住民で日本大好きの方だ。「私たち高砂族は山に強い、アメリカ兵は山は駄目、だから戦争に行った」。これが自慢話なので複雑だ。「宜蘭はみんな親日よ」とも。
わき道にそれるようで恐縮だが、私たちの世話がかりの中高年ボランティアのことに触れておこう。最年長は70歳前後のいわゆる日本支配のときに義務教育で日本語を学んでいた世代で日本びいきと思われる方がた、60歳すぎの定年後、社区大学の日本語教室の成人生徒、それに日本留学経験のある30歳代の女性ラジオ・アナウンサーといった方々である。この人たちは元中小企業の社長や学校教師、二、三年前に新設された日本語教室の生徒になるまでの職業は色々である。日常会話は通じるが映画知識や環境問題には疎い点では共通している。ただ競うように宜蘭県の郷土紹介には献身的な方がたばかりである。私が「初めて台湾に来た人」ということでそれに拍車をかけたようだ。だから私の映画のスケデュール(Q&A)以外はびったり、宜蘭県の観光名所案内で埋められていた。「フィルムを少しは見たいのですが…」というが、地元のライオンズ・クラブの名士でいま日本でもそう持てない一眼レフのデジタルカメラを持つ最年長の朱さんは「映画はまたビデオでも見られる」とずばり、「今はほうぼうを観て、いずれ宜蘭県を映画に撮っては…」と明るいのだ。
また私が「日本海洋守護者」という宣伝文句でパンフや対外PRに喧伝されていたため、特別に海岸や漁港、魚市場などの視察がセットされていた。この「日本海洋守護者」には顔赤らむ思いだが、海岸線をつぶさに見ることができたのは収穫だった。ここの漁業がサバやアジなどの沖合漁業であり、海岸が港湾と河口以外はほぼ 100%が自然海岸であること、また街の公園化が実現されていて、水田とホテルが大通りをはさんで隣合わせ、朝などホテルの15階の部屋までカエルの大合唱で目を覚まされる。散歩した連れ合いの話では数十ヘクタールの運動公園の幾つもの池で、白鷺や鴨などが泥のタニシをつついたそうだ。
そして信じられないことだが、滞在中、吸い殻を一本も見なかった。「罰金があるよ」というのだが、塵あくたはましてない。
宜蘭市・羅東鎮とも工場のない農業県の都、自然と市民空間が入り混ざって、市民意識としての環境都市が定着している。これなら水俣型の公害とは無縁であり続けるだろうと思う。また“グリーン映画祭の街”というに相応しい景観の町に発展して行くだろうと思えた。この印象はスピーチに生かした。それが主催者の県と市民を大いによろこばせたが。
一方、映画祭そのものに触れ得たかというとまるで駄目だった。見た映画もインタビューの字幕(中国語)が読めず、通訳する方も画面のテンポに追い付けなかった。だから二本の映画を中途半端に見ただけという始末、スピーチでついに映画には言及できなかった。
弁解がましいが、今年二月、この映画祭事務局からシグロの山上小貴子さんを通じ、水俣映画四本を求められ、自選の上『水俣-患者さんとその世界』『不知火海』『わが街わが青春-石川さゆり/水俣熱唱』『海とお月さまたち』を出品した。そして「土本典昭の夜」という討論会もセットされたいたので、YIDFFに頼んで、台湾のドキュメンタリーのビデオを数本送って戴き、若手の作品もメモしていた。が、その用意を生かせなかった。
前に述べたように、観光に時間を割かれ、映画祭での作家の交流と相互批評といった機会は得られなかったからだ。これでは夫婦で呼んでくれたのに相済まない気がした。
心配していた中国語字幕はタイミングなどは完璧のようだったが、字がブルーのせいか白黒の場合はまだ良いが、カラー画面では不鮮明になり、観客にはさぞ辛かっただろう。
帰国してからプログラムを見ると、出品作品は広い幅で世界各国から集められていた。台湾の原発反対の記録映画はじめ各国の開発と自然保護の軋轢、矛盾をテーマにしたもの、グローバリズム批判のテーマ、自然保護の運動を描いたもの、生きものの世界の尊厳を見つめたもの、アフガニスタンの子供の記録、地震災害と人びとといった台湾の自然災害をテーマにしたものなどだった。米国、カナダ、仏、英、独、スエーデン、オーストラリア、ポーランド、ノルウェイ、チェッコなどの作家が作品を携えて参加していた。
連れ合いのメモによれば、全部で30本のうち、16ミリ作品は日本(私)の 3本だけ、米国、ドイツ、元東欧からのそれは劇場上映用か、35ミリ作品が 7本。あとの20本は台湾作品の10本を含め、デジタル作品ばかりだ。台湾のフィルムのドキュメンタリーの時代は終っていた。呉氏はデジタル時代で劇映画よりドキュメンタリー作品が勢いが良いという。
この傾向には驚かないが、液晶テレビ、デジタルカメラ・ビデオと携帯電話の普及密度は日本と同じか、それ以上だ。例えば、先住民の白さんの息子は大きな歯科医を開業していた。かれに私たちを紹介しようと案内された医院の六、七人の治療椅子の並ぶ治療室には、各患者用に目の前に14インチの薄型液晶テレビがセットされ、お好みの番組が見られるようになっていた。「なんとまあ」と絶句した。これがないと客が付かないというから、殆どの歯科病院にあるらしい。これが台北の一流の歯科の話ではない。ローカルの一都市の話だから全台湾ではどうなっているか。
また付き添いグループが歌好きの連れ合いの慰問にと、一夜、かれらの友人宅のカラオケ・ルームに招いてくれた。四百坪もある金持ちの家だ。そこには小劇場並のスクリーンと天井に設置されたDVプロジェクター、合唱用にと二本のマイクがひっぱられている。みな自家用族のためか酒抜きでもいい気分になるまで日本のナツメロなどを歌いまくるという。「ここは特別の物好きの場合ですか」と聞くと「そう10軒に一軒あるかなあ」という。連れ合いはカラオケにやや詳しいが、「こんなのはじめて」だそうだ。多分、映画会も出来るだろう。ついでに言えば小さな公共施設、学校にもビデオ・プロジェクターとスクリーンはあった。この中高年世代と付き合って、思わぬ世界を会間見たものだ。
台湾のドル準備高は日本についで世界第二位ときいてはいたが、これはその豊かさの授かり物なのか、台湾人は生来の映像好きだったのか。映画市場には限界があっても、市民社会全般では視聴覚産業はグングン伸びているという。戒厳令解除以後僅か16年である。
映画祭の作品はろくに見られなかったが、一週間の最終日、ここの社区大学の映画科の学生が「宜蘭国際緑色影展(イラン・グリーン国際映画祭)の記録」を 8分程度の作品に纏めて、閉会式の序曲風に市民とわれわれに公開した。これがテンポの良い編集で、この間の出来事と内外作家、そして作品のシーンも入れ込みながら超短篇に纏めていた。ラスト・タイトルにはキャメラマンの名は十数人列記されていた。そして前日までをフォローしている。編集は徹夜だったろう。私は導入部を見て、CMタッチかとやや斜に構えていたが、違った。つまりこれは撮った人にも見せる映像であり、宜蘭の市民にも見せるとあればCMにはならないのだろう。私たちを含め、外国人の人格的表現も伺える。例えば私の話の一番サワリを的確に捉えていて、ドキュメンタリーの質を持った映画だった。こうした映像レジメが会期内に出来、それが当たり前のように提出されるこうした映像文化(大衆的な集会の慣行も)の在り方はヤマガタでも見た記憶があるが、出来栄えとスピーディーさではどうだろうか。私は自分が写っているからか、こっちがいいと思った。
最後のまとめをしたい。当年44歳の中堅、あの呉乙峰氏は運動家の側面を持っていた。対談「土本典昭の夜」は卓抜した通訳・張昌彦さん(日本映画研究第一人者)を得て、若い作家たちに長時間、語れた機会だったが、そこで、呉氏が力点を置いて質問したのは「被写体との関係の作り方は如何、その困難だったケースの場合いかに克服したか?」、それと「あなたは学生運動や社会運動から映画を選んだのは、映画にどのような意義を発見したからなのか? 社会主義者と聞いているが、政治を映画で語ることはあるか」と聞く。それなりにお答えはしたが、最後に一言と彼は聴衆に向って言った「台湾には映画で描くに足る矛盾に満ちている、たとえば社会の不平等だ!」と。映画志望者、作家の多い会場はその時はさながら“呉乙峰教室”の雰囲気になった。女性が七割、緑色映画に惹かれていた。
では、これからの日本のドキュメンタリー志望者・作家諸君は何を描けばよいのか。何をこの宜蘭に運ぶのか。呉氏の言うような大きな矛盾は、日本にあるのか、ないのか。或いはいわゆる“私映画”はこの緑色映画の範疇に入るのものであろうか。そうした刺激的な問いを私も突き付けられた気がした。