記録映画の本性はコミュニケーションである 『未来』 7 No.45 7月1日号 未来社
「よくこんなに撮れましたね。プライバシイーのない時代だったんでしょうか」と、水俣映画を見た今の記録映画志向の若い人によく質問される。患者がカメラの前で、それがなきもののように語り、ときに激情をぶちまけるカットも自由に使っているのが驚きなのだろうか。いまのテレビは神経質すぎるほど気を使っている。撮ろうとしても「声だけなら良いが、顔はやめてくれ」と言われ、撮る方としても、自己規制せざるを得ないという。「ボカシて撮るくらいなら撮らなきゃ良いでしょう」と言ってみるが、それでは身も蓋もない。答えにもならないが、「撮れないものは撮らない」というほどの意味なのだ。
水俣でも、ついに撮れなかった人の方がむしろ多い。天草離島の生存者で毛髪水銀の最高値 600ppmの女性がいた。五年間、お願いしたが撮れなかった。理由は「もうきたないから」という。かつてはモダンガールとして、上海で水商売していた人だ。若き日の写真を見せてくれたが、日本人離れした美貌だった。それが今、這うようにしか動けない。老いても美しさは偲ばれる。ただし笑んでいてくれれば…である。話好きの方だった。その聞き書きは不知火総合学術調査団の角田豊子さんにして戴いた。レポート『水俣の啓示』下巻、『天草の女-嵐口の一老女の話』が仮名だが彼女の個人史である。団長色川大吉氏が絶賛した出色の記録で、何故、多量の水銀に冒されたかまでを克明に描いた傑作になった。あえて言うが、これには長期の“映画の行動”があったからこそ、角田さんに生かして戴いたとものと思う。その歳月が無駄にならなければ「撮らないことも映画だ」と思う。
仮名ということでお分りのように、文字でなければ記録できないものもある。そこで映画の可能性を探るにはただの“善人性”ではいかない。知能犯すれすれの企みも要る。相手の心理を察知することだ。たとえば最重症胎児性患者は不思議に聴覚が敏感だ。会えば分る。では声に慣れてもらおうと、一声かけてみることにした。ロケ宿の向かいの家だから楽である。そのうち、はじめの怪訝そうだった顔つきが変った。映画『水俣-患者さんとその世界』のなかの上村智子さん一家のシーンの撮影前の準備である。
彼女の顔写真と言えば、上眼使いで引きつった表情があたかも胎児性の特徴のように定着された。それは畏れと緊張の余りの表情なのだ。それが訝しまれることなく世に通用している。それはリアルでは全くない。やがて彼女が私の声を覚えた頃、家族と一緒の食事シーンを撮った。父や母に混じって聞き慣れた声の人間が居ると彼女は思ったのであろう。ふだんの美しい顔になった。カメラがあっても、母が気にしなければ彼女も気にしないのだ。これは私にとって「患者は光っている」と言わしめた、宝もののようなシーンになった。これに比肩するのは、水俣取材での最古参の桑原史成氏の写真であろう。智子さんの成人式の日、父親に抱かれた名写真だ。映画カメラの長回しも、瞬間のスナップも違いはない。ともに胎児性の聴覚、“人間覚”を読んでからの撮影だったかどうかだろう。
もう、許されると思うが、ユージン・スミスの撮った母親に抱かれて入浴する「水俣の母子像」の、その後の話である。世界的に有名な水俣病の悲劇の象徴となった写真だが、撮影・発表の二〇年後、家族から日本での公開はやめるよう申し出られ、妻アイリーンさんはこれをすぐに承諾した。これをまわりでは「プライバシー問題か、表現の自由か」と物議をかもしたものだが、父、上村好男さん発表した一文には「もう亡き智子を休ませてやりたい」と、生きたままの子を慮るような気持が綴られていた。そのなかに母、良子さんの「そん時、智子の体が固くなって…」という話もあった。そう言われてみると、確かに智んの身躯は湯船に沈んでいない。不自然に浮いているし、表情も固い。つまり、裸身の恥じらいがあったことを良子さんは感じていたのである。当時、智子さんは十四歳、身躯は幼いが、感受性は人なみの女に近づいていたかも知れない。智子さんには抵抗があったのだ。その訴求力の絶大さ、圧倒的な感銘にいかに写真の評価があろうとも、両親の「もう十何年も働いたのだから…」という、たっての懇願には勝てない。アイリーンさんは正しいと思う。
前述の老女のように「撮れない場合もある」、また上述のように、例えOKをとったとしても、相手の感情が変わり、公開できなくなる事もある。それは生身の人間を映像で撮る表現である以上、知って置くべき事かも知れない。
もっと切実な私の体験を語ろう。この話の主人公となる浜元フミヨさんは一昨年物故された。私は三百字の、わび言を兼ねた「送る言葉」を弔電で打った。忘れ得ない話なのだ。
映画『水俣一揆-一生を問う人びと』の中の衝撃的なシーンに始まる挿話がそれだ。
チッソと患者の直接交渉の場で、補償の即答を渋るチッソ社長に対し、中年の女性患者が「一家みな病気になったお陰で私の嫁入り話も諦めた。私はいまも独りです。どうか私の一生の面倒を見てください!」と詰め寄った。フミヨさんは「自分より脇のモン(坂本タカエや坂本しのぶ)のことを思って言うた」という。「弟、二徳の面倒も見た。寝込んだ婆さんもおらした。私はおとこになったぞ!。水俣病の判(認定)もかろうた。この苦労を分るか」とかき口説いた。それでもだんまりの社長に、ついに逆上して「いいですか。私はあなたの妾にもなります、生きていくためには妾でもよかです」と激して、「私はなあ、この歳(四二)になっても処女でございます!」と言った。人間の魂魄に満ちた表現だった。カメラは回っていた。彼女はカメラも意識していたが、言葉が止まらなかったのだ。どこに「妾になります」と昂然と相手に言ってのけた女性があろうか。
映画の完成後、水俣で彼女に許しを求め、当地での上映の許しを頼んだが断られた。しかし、そのやりとりで分ったことは山ほどあった。
彼女は「この部落ではもっと笑いものになる。それが嫌だ。しかし…」という。私は問答の形で真意を聞いた。この水俣市ではカットして上映しようと約束した上で、いちいち尋ねた。「東京では?」。良いと頷く。「九州では?」、「熊本では?」と。村人の目の届かないところならともかく、麗々しくお膝元での公開は絶対、嫌だという。彼女には自分の真情を伝えたい意思はある。だから「水俣以外なら構わない」、「見る気で来てくれた人なら良い」と頷くのだ。観客、つまり一般の人には正しくこの気持が伝わると彼女も信じたい、この映画にはそうした(コミュニケーションの)力があることを十分に察知しているのだ。それが私を安堵させた。そしていう。「テレビじゃあなかもんな。映画じゃから」ともいう。テレビは見る積もりが無くても見る。映画は選択した人が見る。その違いを感じているのだ。便利なテレビと、反面その怖さを、いつも撮影される側の彼女は知悉していた。どの家のテレビにも映り、話の種になり、無責任な中傷や誹謗になるその怖さを嫌というほど知っている。彼等は病気もあって傷つきやすいのだ。
思春期だだ中の胎児性患者ほどそうだった。感受性と異性愛への憧れは正当に読み取るべきだ。それの失敗例は嫌というほど見てきた。若いTVディレクターの過剰なまでの親切が仇になり、取材を終えて引き上げるや、失恋したかのように大荒れに荒れた少女もいた。これも胎児性患者の嫌う“一人前のおとな扱い”にしなかったためだ。取材のための親切だと知るまでに、女のつもりだった心がを傷つけられたのだ。これは難しいことだ。しかし、こうした問題を避けて、仮に顔隠しやボカシなどしたら、その方がさらに屈辱と傷心を深める事になっただろう。
水俣を最初に撮ったTV作品「水俣の子は生きている」(日本テレビ「ノンフィクション劇場1965年)に、子どもらの肖像のプライバシイーを案じて、目貼りされた写真についてのエピソードがある。
主人公の女子学生のサークルの活動で、カンパのために使われている桑原さんの撮った胎児性患者の写真、そのいたいけない子どもの眼にテープが貼られていた。その目貼りを剥がすシーンがある。脈絡もなく、それを剥がし、元の写真の可愛い目許を手で撫ぜた。それは犯罪者扱い対する抗議であって、学生らに対してではない。公害の被害者に対する差別の裏返しに思われたからだ。九九年、「故川本輝記念洋上ツア-」で彼等との船旅の中でこれを見る機会をもったが、彼等からは剥がして当り前といった「フッフッ」といった笑みがもれただけだ。
それは私の匿名性否定の宣言ともいえるものだ。以後、水俣の十七の作品はすべて実名で通している。ペンではない以上、実像を声ごと撮るからには、そうするしかない。これについては「記録映画作家の原罪」という一編で詳しく論じたのでそれに譲りたい(『水俣映画遍歴』新曜社、八八年)。
最近読んだ佐藤忠男氏の文章には痛く啓発された。「(ドキュメンタリー映画の場合)それに映ることと、撮られることは誰にでもできるということである…。ただカメラの前にいて撮られるだけの者もまた、ときには極めて雄弁な表現者であるところに映像文化の重要な性格があるのだ…。人は誰でも自己表現できるし、現に表情で、姿で、行動で会話しているのである。それは誰にも理解できるものであり、現に人は、そうした表現によって絶えずコミュニケーションを交換しているのだ」(『映画の真実』中公新書 〇一年)。 映画のコミュニケーション性は、ここで言われるようにドキュメンタリーの本性ではなかろうか。
これを『水俣一揆-一生を問う人びと』の場合で考えたい。チッソの社長すら、映画の部分、部分では氏の人間性の伝わるものがある。その時々の感情も間違いなく伝わる。その全体の文脈のなかで、その立場があきらかになるのだが、私の父は患者とのせめぎ合いを観て、しきりに島田社長に同情し、考え込むのだった。後年、島田社長の娘さんも家庭の故人を偲んで映画に涙し、患者にも謝る気持になったという。映像の親和性、それがコミュニケーションを支えているのではなかろうか。では映像で悪(ワル)をどう描くかはいまだに分らない。多分、風刺か戯画であるかも知れない。
映像の親和性の典型例を挙げて見よう。『水俣-患者さんとその世界』のなかで、世界的にも“オクトバス(蛸)・シーン”として好まれている場面である。妻を自分の獲ったタコで狂死させたタコとり名人がいた。妻は水銀の多い腹わたを好んで食べ、激症型水俣病になった。彼は白身が好きで、未だにタコを手突きの鉾で獲り、食べている。その老人が妻の悲劇を語り尽くした後、あの水俣湾でタコとりの極意を見せる。そのタコとり爺さん(尾上時義氏)が鉾竿を持って微笑む一枚写真は、海外の映画祭の宣伝パンフにも登場した。よもやミナマタではもう魚など食べていないだろうと思われるのに、何たる漁民かと、その意外性にふき出したりするのだ。水俣でのはじめての公開の時もそうだった。このシーンは満場の歓声を浴び、尾上さんは一躍、観客の間で人気者になり、その後、全国各地でも、「タコとり爺さん」として慕われた。彼は絶大なコミュニケーションの役を果たしたのである。
映像は“肖像それ自体”を決して貶めること出来ない。「まして悪人においておや」かも知れない。プライバシー問題とは畢竟、その作者の意図如何であり、撮った者としての責任を忘れないという事に尽きるだろう。時代には関係なく、それが映画稼業の属性なのだと思うのだ。
(04,6,10)