随時連載『映画は生きものの仕事である』(8) 雲南省昆明市、映画の夜明けのくに(2) 『ドキュメンタリー映画のメールマガジンneoneo』 5月14日号 ビジュアル・トラックス
昆明に行く前から、あるときめきを感じたのには理由がある。私の“辺境好み”に加えて、私と同じ戦中世代なら、中日戦争の末期に、新聞紙上でこの昆明の字をしょちゅう見ていたことを思いだして戴けるだろう。それは当時、奥地の重慶にあって日本に抗戦し続ける国民党・蒋介石政権に対し、中国の連合国…英、米からの膨大な軍需物資、生活物資が、英領ビルマから昆明へと送られ、それが中国政権を支えた。その当時の“援蒋ルート”としての昆明は中学生だった私の記憶にやきついている。
だが、テレビ時代は秘境・雲南として度々取材されたが、とくに日本と同じ米作民族としての少数民族、恋歌の共通点や斜面の見事な棚田などが日本農業のルーツとして描かれたこともあってその印象は強い。その辺境での映画祭とは…やはり魅力的であるのだ。
二年前から、全中国からドキュメンタリー作品を応募し、コンペティションを含む催しが隔年ながら、一週間にわたって開かれるとなれば、昆明は全中国規模の記録映画運動の新しい焦点に地と見て良いだろう。しかし、「ドキュメンタリー祭」とは名乗っていない。マルチ・カルチャーの“ヴィジュアル(映像)フェスティバル”となっている。音楽・舞踊も付帯したお祭り風の行事スタイルであるが、この形にせよ、中国の当局に定例的な映像フェスティバルを認知させたことは大きい。それまでの雲南省の映画運動の発展の特殊性、つまり省内の少数民族の文化の記録から生まれた雲南の映画民族学(あるいは映画人類学)といった運動の実績が意識的に前面に打ち出されて成功したもののようだ。
私の偏見に近い見聞によれば、民衆による自主的なドキュメンタリー映画を奨励し鼓舞したという政権は聞いたことがない。ドキュメンタリーといえば左翼映画視される時代すらあった。右も左もいずれの政権当局もどうもドキュメンタリーとは肌が合わないようだ。その点、社会主義ソ連の映画史ひとつとっても、革命後の数年、レーニンの存命の時期以降は衰退の一途を辿ったようだ。あのジガ・ヴェルトフがそうだ。レーニンの楽天主義…「すべての現実に重要な映画はニュース映画から始まらなければならない」という言葉通り、縦横にドキュメンタリーを開拓した彼も、その集大成である『カメラを持つ男』(1929)を最後に、創造的な活動をやめた。
あと社会主義の映画はキューバ、ヴェトナムの一時期の映画以外には、ドキュメンタリーらしい記録映画を生んでいないと思う。では、中国の場合はどうか。この際で言えば、雲南の場合はどうであるか、だ。
今回も『雲南ドキュメンタリー映画祭』とは名乗れなかったものの、98本の作品が集まり、そこからエントリー作品も選ばれるとなれば、立派な“ドキュメンタリー映画祭”ではないか。だが“ヴィジュアル(映像)フェスティバル”が正式名称である。
その組織構図を見ると、雲南省の社会科学院を主体に、協力団体として雲南図書館、博物館、雲南省映像人類学研究センター、雲南大学映像人類学研究所、それと同格に山形国際ドキュメンタリー事務局(以下 YIDFFと略)が並んでいる。どこにも“官僚”は介在していない(カタログより)。さらに中国の映像の権威・中央TV(CCTV)も、地元の雲南テレビすら組織に入っていないのには驚く。
その総責任者は学生主任風の若い人類学者、雲南記録映像の組織の郭浄(ガオー・ジン)氏であった。全く権威のかけらも身につけないお人がらである。だが和淵(ホー・ユエン氏自身、少数民族ナシ族の出身という)さんらと組んで、この“映画祭”を実現した。
良く有り勝ちの儀礼的な宴会をするのでも、とくに自己紹介のスピーチをする機会もないのが、むしろ快かった。おそらく官製の映画祭とはあらゆる意味で決別していた。それでいて体制に反する意図はない。その慎重さは練達されたものに思えた。
三月二十四日、夕方、広州空港から到着した昆明市は一目、“辺境の街”のイメージを払い除けるに足る近代都市だった。高層ビルの目立つ人口 260万の大都市である。
雲南名産のたばこと携帯電話の広告が各ビルの屋上に並ぶ。だがガスで靄がかっている。昆明空港には、作家でこの“映画祭”の組織者の和淵(ホー・ユエン)さんが出迎えてくれたが、やっぱり!というべきか、チャーターの車もない。タクシーを拾うのにも私まで手を挙げて躍起になる始末だった。いかにも数人のボランティアで汗をかいている風だ。
会場は名勝地、翠湖のほとりに、七年前に出来たという図書館である。そこに大中小の三ホールがあった。すべてにビデオ・プロジェクターが常備されている。この図書館内だけで全プログラムを消化できたし、さらに食事や喫茶には大きい少数民族経営のレストランがあった。たがその“映画祭”事務局たるや、空き部屋に机とソファーのみ、飲み物とパンが食いかけのままといった学生の部室風そのまま、何の接客の体裁もなかった。
部屋では出品参加者や映画青年が映画の合評や議論をしているようで、外国人の私も欧米からの作家にも特別の客扱いは皆無のようである。そのがさつな雰囲気がいかにも生まれたての“映画祭”のようで、「これは大学の映研(映画研究会)だな」と思わざるを得なかった。まして商業主義とは全く無縁である。だが、“アンテナ”の鋭い英国の映画人で、日本の伊丹十三作品を一手にヨーロッパ配給したジェーン・バルフォア女史などが、めぼしい出品作に目配りをしている。2003年に登場した王兵監督の超長編「鉄西区」のように、何が彗星のように登場するか分らないのが最近の中国なのだ。
藤岡さんも作品探しが主な仕事であろう。忙しくしていた。
昆明市は「海抜千数百メートルの高地だから、以前は空気は綺麗だったが…」と和淵氏はいう。だが市の中心街は車の排気ガスでビルは霞んでいた。私の作品の選考は和淵氏がしたらしいが、彼が水俣のほかに、『ドキュメント路上』を選んだ理由が頷けた。
ここで話が脇に逸れるようだが、通訳さんに触れておこう。私は海外に行くに当たって言葉の問題には悩まされる。同行の連れ合いも私同様、英語も不得手である。その配慮を強くお願いしていた甲斐あってか、今回、さいわいにも雲南大学の日本語教師の経験を持つ若い趙妹嵐さんが“生活通訳”として常時身辺に付いてくれた。趙さんは映画も公害問題も彼女の関心事ではないことを断りながら、私たちの滞在中の対人関係を取り持ってくれた。
問題は上映後の作品に関する一問一答などの場合である。その突っ込んだやりとりの通訳が難しいのである。言葉の翻訳力に加えて、映画の主題への理解が必要だし、映画特有の言葉、テーマ特有の表現に加え、私の映画の場合、公害問題や有機水銀中毒の解説まで求められる事になる。だが学者の会議ではない。場はあくまで“映画祭”なのである。その流れに通訳は眼を配らなければならない。外国での映画祭の成功か否かはどのような通訳者に巡り合えるかに懸かっている。その点では昆明での私は自由に喋れることが保証されていた。上映会の場での通訳には、日本の映画人にも知られた王衆一(ワン・ジョンイ。『人民中国』日本語版編集長)氏と、在日留学七年の女性記録映画作家で、小川紳介の著作『映画を穫る』の中国語版の翻訳者でもある馮艶(フォン・イェン)さんが昆明に招かれていたからである。
この受け入れ態勢が生きたのは、“映画祭”のいわば目玉である質疑応答のやりとりであった。前号でも触れたように、『ドキュメント路上』のテーマは、すでに道路などの社会基盤の整備が、一応、一段落している欧米など先進国と違って、中国では現実の、そしてこれからのシビアな問題なのだ。
ちなみに、朝日新聞 (04,9,1)によれば、21世紀に入って、中国の交通事故は年間10万人、一日あたり 300人という。「それは大型旅客機が毎日一機、墜落している計算」(同紙)という。映画『ドキュメント路上』は、1963年、年間交通事故による死者、最高の 1万2000人に達した時点で作られた。これが40年後の現在ではどうだろう。…日本の自動車保有台数7400万台に対し、死者は年間7900余人。中国のその台数は三分の一の2400万台、それに対し、死者、年間10万人は「世界最悪の数字」(同紙)である。
では中国政府の交通スローガンは何か。一貫して「以人為本(人を最優先)」である。それは全く正しい。映画『ドキュメント路上』が描いたのも、この理念を失った、都市(まち)作り、道路作り、交通倫理の衰退への警鐘であった。それらは東京オリンピック(1964)の直前という事情からより混沌としていた。映画はその東京市民、つまり自分自身の無関心さへの自己批判を込めたものでもあった。自分にとっても痛みを持つ映画名なのだ。だが中国で、これから述べるような捩くれた反響を誘うとは予想もしなかった。
2008年、北京は三年後にオリンピックを迎える。これを期に各都市では大規模な工事が始まっている。これには多分、「住民の我慢」も求められているであろう。そうした意識からか、批判の声も上がった。辛辣で皮肉な、「日本から公害反対の水俣病映画はともかく、とくに選んで四〇年前の交通事故批判の映画を持ってきたのはどういう意図か」という質問である。通訳の王氏は咄嗟に、これは会場の討論を誘ったほうが良いと判断したのだろう、私の返事を促した。私は「いや、これは私の選んだ作品ではなく、昆明の事務局で選ばれた作品で、とくべつな意図はない」と答えた。さらに「しかしは四〇年前の古い映画を、何故いまさら出す気になったのか?」と探るような質問が続いた。これにも私はその真意を計りかねた。その辺りから会場に質問者に向けてのブーイングが起きた。質問者の近くにいた女性などは突っ立って彼を罵っていた。見れば、写真で見覚えのある、あの小川紳介のフィルムを生かして『満山紅柿』を作った彭小蓮(ポン・フォン)監督だった。彼女はコンペの審査委員として参加していたのだ。「もうこの質問の通訳はやめなさい! 監督に失礼ではないか!」と怒っている(…と王氏は逐次翻訳してくれた)。
王衆一氏は「受けて討論しましょう」と言う。さらに質問者に具体的な発言を促した。これは理由ある話だった。「いま中国は自動車産業によって雇用は増え、都市活動は活発になり、かってない繁栄を受けている。これも自動車産業がもたらした恩恵ではないか。なぜ車社会を悪く批判ばかりするのか。中国の躍進に歯止めを掛ける気か!」と叱咤せんばかりだ。「この映画は作者(日本)の中国批判に思える」というのだ。それを聞くや、観客の中から、「ここは映画の場だ。映画がとしてどうなんだ?」という詰問も出たらしい。私は話題を広げ、このフィルムの来歴にも触れた。「この映画は今も公開の機会を失して、四〇年間非公開のまま眠っていたものだ。数年前まで、私もオリジナルなニュープリントを見たくも見られなかった。それが版権を持っていたプロダクションが倒産して、はじめて私の自由になった。最近、欧米でも呼ばれ、アジア各地の映画祭にも出品を求められるようになった。決して、中国の車社会への批判のために意図的にここに持ってきたわけでないことを知ってほしい」。
…だが、日本の道路事情はどうか、それを述べた。「日本でも未だ人間優位の交通倫理は確立していない。歩行者が陸橋の階段を上り下がりして道路を横断する場合もある。足の弱った七六歳の私にはよく分るが、街はまだ“歩行者優先”“人間優先”とは言い難い。車社会なのだ」と実感を述べた。これは観客に伝わった。この映画を自分はこう見たと意見を述べる人が続いた。会場にひとつの結論が生まれたようだが、質問者はさらに言葉を継ごうとした。が、彭小蓮監督は「この分からず屋の言葉を翻訳する必要はない!」と憤然と怒鳴った。それも王氏は逐次訳してくれた。
散会後、王衆一氏は「これは一種のナショナリズムです。先進国と肩を並べるようになりたいという考えからです。多分、中国人の六割はこの質問者と同じでしょう」と言った。私は「なるほど、そうか」と思う。「こうした血の流れるようなやりとりのある映画会は日本でも少ないでしょう」。そう言って私は王衆一氏の通訳ぶりに心から感謝した。
発展途上国での公害問題にもこうしたネジレた論議がある。「発展優先の社会にあっては、やむを得ない公害に眼を瞑らなければならない場合もある」というのがそれだ。十数年前、中国東北にも水銀汚染があり、水俣病問題が深刻になった時、中国側の担当者が水俣を視察した上で日本の研究者に質問した。「この被害を金銭で補償するほうが、工場を失う損害よりは安くつくのでははないですか?」と。これには耳うちされた原田正純医師も絶句したという。施政者なるものの本音、人間差別が根底にあっての思想であろう。だが、「先進国は今になって、公害の恐ろしさを押しつけがましく語り、発展途上の自分たちの立ち遅れをそのままにしておけというのか!」。こうした発展願望のみの思想が、民衆にはびこらせるのは実はたやすい。政府をはじめ、権威のある官僚、ご用学者、“専門家”が「安全神話」を語り続ければそうなるのだ。私はそれを看過できない。その恐ろしい人間への背信を、私は水俣病事件史で見続けてきたからだ。
中国の現在について考えるのに格好の映画上映会になった。予想を超えた反響のもたらしてくれたものだ。それは四〇年前の『ドキュメント路上』がいまもなお物議を醸すに足る現役のフィルムであったことを、再確認することになったのである。
(次号に続く)