水俣を撮り続ける 『東京新聞』 6/18 <2005年(平17)>
 水俣を撮り続ける 『東京新聞』 6/18

 患者を普通の漁師や婦人として見る

 時代の変わり目には、優れたドキュメンタリー映像が生まれてくる。記録映画作家の土本典昭さん(七六)が、水俣病患者たちの撮影に執念を燃やしたのは、高度経済成長の限界が見え、隠されていた矛盾がちまたにあふれ出した一九七〇年代だった。水俣病患者の公式的な確認と、土本さんが映像の世界に入って、間もなく半世紀がたつ。時代と向き合うドキュメンタリーはどんなものであるべきだと、先達は考えるのか。真夏のような蒸し暑さのなか、額の汗をふきふき、東京都内の私鉄沿線にある事務所「映画同人シネ・アソシエ」を訪ねた。
 土本さんの手による水俣ドキュメンタリーは、第一作の「水俣の子は生きている」から、昨年の「みなまた日記」まで十七本。なぜこれほどまでに水俣を撮り続けたのか。白い開襟シャツの土本さんは、座布団にどっかと腰を落ち着け、話し始めた。
 
「僕としては水俣の仕事をはじめからたくさんやろうと思っていたわけではなくて、水俣病事件が積み重なっていくなかで、これはやっておかなければならないという気持ちが、次第に強くなっていったんです」 有機水銀の発生源だったチッソは、認定患者が最小限の段階で事件の幕引きを図ろうとしていたという。そんな現状に対する憤りを、患者の生活にレンズを向けることに昇華させていった。こうして完成したのが「水俣-患者さんとその世界」(七一年)だ。
 水面が揺れる不知火海の漁の様子からフィルムは始まり全編に患者たちの生活と漁の営みがつづられる。物静かな白黒映像が、緊張感を伴って見る者に迫る。世界環境映画祭グランプリを獲得するなど、国内外で高い評価を受けた。
 水俣病患者の就職差別や結婚差別が激しいころだっただけに、取材は困難だったという。「患者は苦しみのあまり犬のようにほえたり、よだれを出し続けたり、一番悲惨な病気と同じ。本人や家族は、世の中にさらされるのを恥ずかしいと思っていたから」
 心がけたのは、患者を患者としてみるのではなく、普通の漁師や婦人としてみることだった。「まずは趣味の話や漁の自慢話など一番したい話をしてもらう。そのうち(胎見性患者の)子をひざに乗せて酒を飲むのが楽しみなんだとか、日常の生活かぽつりぽつりと出てくるんだ」あくまで患者側からの撮影にこだわった。「根が深くて懐の深い話は患者の話だったし、真実はそっちにあると思っていたから」。あっちの意見半分、こっちの意見半分など客観的であるべきだとは思わなかった。
 撮り終えた後に、悲惨さに涙がにじんでくることも。自身を支えたのは「僕が撮らなくてはならない」という使命感と、「患者も、みじめ一方ではない。生活の中では自分を慰める方法を知っているはずだ」という庶民の知恵への確信みたいなものだった。
 その後も、機会あるごとに水俣入りし、フィルムに収めるとともに、八〇年代以降は若者問題や原発・核問題、内戦続くアフガニスタン問題などに対象が広かっていった。

 ドキュメンタリーは、人々が直面する厳しい現実など、社会の矛盾を撮影対象とすることが多い。それだけに、敷居は高そうに感じるが、目指す若者は多いという。日本だけでなく、アジア各国で優れた作品が制作されている。
 「ドキュメンタリーの良さは民主的なこと。横のつながりだけで、個性ある仲間が寄り集まってくる。でも、自立したフリーランスでなければいいものはつくれない。それは経験が言わせることだ」 「僕は借金で作品を撮り、その売り上げで借金を返した。常にリスクを背負いながら。僕の作品が永久に保存されれば、それでいいんだ」
 昨年は二回、都内と高知市で回顧展「土本典昭フィルモグラフィ展」が開催された。「回顧展は生きているうちにやるべきではないんだけどね」と照れ隠しを口にするが、多くの観客が作品を見に来たことに目を細める。回顧展は、今夏も都内で行われる予定だ。

 事務所の机には、ナチスの圧政に抵抗したドイツの詩人ブレヒトの一節が張り出してあった。「虚偽や無知とたたかって真実を書こうとするものは、五つの困難にうちかたねばならない」で始まる前衛的な表現者の心得ともいうべき詩で、書く勇気と賢明さ、真実を武器にする技術、判断力、真実を広める策略を説く。
 「この言葉が好きで、若い人がくるとわたしているんだ。君にもあげよう」とコピーを一枚渡された。最近は、本やネットマガジンなどの著述にも力を入れており、事実を追い求める情熱は今も変わらず熱いままだ。
 (市川真)