巻頭言 土本典昭フィルモグラフィ展2004 土本典昭フィルモグラフイ展2004実行委員会
今年、十数年ぶりで、全作品上映に近い「土本典昭フィルモグラフィー展」が開かれる。光栄な身に余る企画として感謝している。しかし、“全作品”に社会のニ-ズがあるかと思う。私個人にとっては、自分の仕事を振りかえる機会として大いに意味があるが、他人さまにはどうか。自薦や代表作ならともかく、すべての作品の総まくり、その高低を問わず上映するとは、と怯むものがある。六〇年代、TVの映画を多作した頃、その“作品の賞味期限”はせいぜい二、三年と思っていた。こうして何十年後に見られるなどとは当時、思ってもみなかった。何より記憶の薄れた作品も並んでいる。今回、リストアップされているので慌てて見た作品もある。ビデオ絵本『ひろしまのピカ』(87年)など、「ああ、確かに撮った!」と気づいた始末だ。また、PR映画もあり、依頼されて作った映画もある。人は「バラエティーがあって良いんじゃない」という。その通りだが、“自主作品”と並べて見るとその質の差は歴然としている。作品は正直なモノだ。また作家の命脈が尽きてもフィルムは残る。それらの事を悟らせるフィルモグラフィーなるものは怖い。時代の鏡に映った、ありのままの仕事が“小さな現代史”として眺められれば、もって暝すべきであろう。
「何があなたを撮らせ続けのか」と、この冊子を作る現代書館の村井三夫さんに突然聞かれ、咄嗟に「やり残したことはやらないと気がすまん質だらかでしょう」と答え、「宿題を忘れない優等生気質なんですね」と言ってから、“優等生”という語彙にはわれながら驚いた。普通は他人に言う言葉で、自分にはその意識もないはずだった。しかし、やり残したものがあると落ち着かないのは映画だけではない。
好きな言葉がある。『パルチザン前史』の主人公、滝田修(たけもと・のぶひろ)の処女作『評論集ならずもの暴力宣言』(芳賀書店1971年)の赤い表紙の文句-「決意したことを実行しないと心に負担が残っていく」というそれだ。私の場合「決意したこと」とまで煮詰まらないが、「実行しないと心に負担が残っていく」、そうしたテーマはあった。 例えば、七〇年代の日本列島改造計画。それを開発される住民の側から見た、仮題『日本資本主義発達史』-むつ小川原・六ヶ所開発の記録、あるいは、日本植民地時代からの『北朝鮮の人びと』といったテーマ。八〇年代には不知火海と水俣の再生を追う『海は死なず』-これは未完のままだが-これらが遂に、撮れなかった。しかし、前者は山邨伸貴・倉岡明子両氏の『六ヶ所人間記』(自主、85年)になり、後者は宮島義勇氏の最晩年作『怒りの拳で涙をぬぐえ』(自主、91年)になった。そして、私の負担感は払拭された。
それにしても水俣映画の十七本を除けば、寡作も良いところだ。最近、アメリカでも 「ミナマタのツチモト」と言われる。今年招かれた台湾の宜蘭「緑色影展」では、“日本の海の守護者”と宣伝に書かれた。もうミナマタのことは私のレッテルになった。
フランスのルサス映画祭では水俣特集があった。その質疑応答のあと、熱心な映画ファンから、遠慮がちに「あなたは漁民か、あるいはその育ちの人間か」と聞かれた。私は「泳ぎも出来ないし、ヨットも乗れない。釣りはした事がない。ただの記録映画作家だ」というと、信じられない様子だ。そのやり取りを見ていた主催側の映画青年が「あなた本当のシネアストだ」と握手してくれた。しかし、「あなたは漁民か」という質問は私には替えがたい賛辞だった。水俣の映画を正しく漁民世界の物語として見てくれたからだ。
アメリカのフラハティー・セミナーでは作家論として、『ある機関助士』や実験映画風の『ドキュメント路上』と作った作家が、あと社会派として水俣映画を十七本も作り、さらにアフガニスタンの“傀儡政権時代”のドキュメンタリーを作っている事にも興味をもたれた。三分の一は評論家と映画学専攻の方々らしかった。もう映画史家すら学問として独自に育っているアメリカである。この興味もたれ方は人ごとの様に面白かった。
「ミナマタのツチモト」は分かり易いブランド名である。その彼がアフガニスタンの映画も作ったという…それがアフガニスタンの私家版ビデオ(『もうひとつのアフガニスタン』、『在りし日のカーブル博物館』)の公開に繋がったという。つまり「水俣」が私の評価の基軸である。それで良い。
水俣というヤスリが私の映画方法論を錬磨してきたことを私は機会あるごとに書いてきた。そして水俣を作る四十歳過ぎまで、私は文章を書く事をしなかった。映画界に入って草々、ベテラン・キャメラマンの瀬川順一さんから「映画人はもの書きにはなるな。亀井文夫さんを見ろ。喋っても書かない」といわれ、なるほど映像で語ることに徹しようと思った。映画に転じて以来、十数年、わずかのレポートしか書いていない。それが水俣から変わった。対象の水俣病事件ゆえに多弁を要するようになったのかも知れない。自主映画の配給・上映に見習うべき先例がなく、専ら私が宣伝・広報にペンを取ることになったからかも知れない。いずれにせよ水俣は映画だけでなく、文字表現の世界へと私を引き摺りだした。「映像で語れ、もの書きになるな」という活動屋の美学はふっ飛んだのである。自主製作と水俣映画への出立は、遅きに失するにせよ、私に革命的変化をもたらした。
もうひとつの変化は映画至上主義からの剥離である。水俣には常に告発運動、社会運動が随伴していた。運動と映画、それを一緒にはしないことにした。すべては映像にすべしという職業的な映画至上主義がある。しかし、それを優先させたら運動はできないし、運動は映画のためにある訳ではない。つまり自己撞着するものである。よく言っても「二兎を追うものは一兎をも得ず」なのだ。水俣は運動の渦にある。いつも悩まされた。だから、「運動する時は映画は撮らない。映画を撮る時は運動しない」と決めた。これは良かったと思う。いわゆる党派的なリアリズムとは正反対の立論である。しかし、それを厳守した。
新しく作られたフィルモグラフィーの年表を、私の眼で早め繰りして見ると、映画運動をしている時期の映画はない。16mmカメラの時代である。行動が第一の場合は映画を控えた。それはごく自然にできた。例えば、七五年、カナダ水俣病に際してのフィルム・横断ツアーである。水俣病映画数本と映写機をもっての上映、啓蒙である。大津幸四郎君は映写マンであり、私は上映会の組織者だった。二人三脚で上映活動に徹した百日の旅だった。カナダに棲む日本人ボランティア、白人のインディアン水俣病の支援活動家、そのチームでの上映だった。そして有機水銀汚染のインディアン居留地はじめ、カナダ政府から州政府、主要大学、医大、市民グループから教会までの上映の旅がカナダ市民の誘致と相俟って、目標をほぼ達したのである。これは「運動する時は映画は撮らない。映画を撮る時は運動しない」ことで可能だった。
カナダ政府は水銀のでる工場廃水を停止し、事実上、の閉鎖に追い込んだ。カナダのTVは番組をもって報じたらしい。その代り、私たちには一フィートのフィルムも残らなかった。その翌七六のケベックのパルプ工場からの新しい汚染事件のためもフィルム・ツアーの四〇日の旅も文字にしたが、フィルムには残っていない。しかし、異国での映画の上映経験は、外国の映画祭でのそれとは全く別ものである。とくにカナダ・インディアン相手の映画上映は、英語を解さない人びとのために、映写をストップして、翻訳し、また回し、また止めるという曲芸まがいを強いられた。そして彼等の映像把握力に沿った方式を毎回工夫しなければならなかった。しかし理解した時の反響はソラ恐ろしいまでだった。その喜びは映画を作ったものの特権とも言えた。これは映画である。しかし作品歴には記録されない。これは常々、「記録者たるもの、映画が撮れなけば、写真(スライド)で、それも撮れなかったら、文章に…」と言ってきたわが身にとって、当たり前になって来た。
「もの書き」仕事の最たるものは、書き下ろしの『わが映画発見の旅-不知火海水俣病元年の記録』と『されど海-存亡のオホーツク』である。
前者は七七年、不知火海の汚染地一帯の漁村を、いわゆる水俣スタッフと言われる四人(カメラ助手、演出助手)と、テントとスクリーン・映写機を担いで回った四か月の記録である。これも撮影しないことで、村での上映を許され、その浦々ごとの映画会を実現した。観客のべ八千人、その中から、やがては水俣病の潜在患者が浮上したのである。その旅の記録は、七九年、筑摩書房から『わが映画発見の旅-不知火海水俣病元年の記録』として出され、絶版後の二〇〇〇年には日本図書センターから「人間記録シリーズ」の『土本典昭』として復刻された。これは表題通り、映画発見の記録であり、フィルムにならない“映画作品”だと思うのだ。
そして九五年、影書房からでた『されど海-存亡のオホーツク』である。これは北方四島の帰属問題、いわゆる北方領土問題から関わった一年余の旅の総記録である。大津幸四郎氏と組んで道東とロシア領のオホーツク海を歩いた記録である。日本人旧島民とロシア人現島民の状況を中心に据えつつ、北方四島の後背オホーツク全域とカムチャッカの旧漁民コルホーズまで訪ね、ソ連崩壊後のロシアの漁民社会の困難を記述した。そのオホーツクの旅は、大津幸四郎君が家庭用八ミリビデオでも撮った。メモ用の映像であり、TV放映は全く期待していなかった。九二、三年の極東には冷戦時の敵対感覚が残っていた時代である。日本外務省の島への渡航は島民の墓地へのお参りしか許されなかった。その北方四島への越境取材ものであり、フリーの私たちのみが出来た取材と言えた。
NHK教育はそのスクープと時事性も評価し、二夜連続番組にして放映した。NHKとしては全編八ミリ素材をOKしたのも初めてのことだったという。九四年、まさにいまの小型ビデオ時代の幕開けでもあった。
(2004/6/8)