「普通の人」の存在証明を。「対談」私たちの地下水脈とは―横田町ドキュメンタリー映画際より。 民映研通信懐炉の号 VOL.23 NO.84 2004.1 <2004年(平16)>
 「普通の人」の存在証明を。「対談」私たちの地下水脈とは―横田町ドキュメンタリー映画際より。 民映研通信懐炉の号 VOL.23 NO.84 2004.1

 土本典昭 ドキュメンタリー映画監督
 姫田忠義 民族文化映像研究所所長
 川村雄次 ドキュメンタリー映画祭実行委員

 昨年の10月25日、26日に、奥出雲の横田町でドキュメンタリー映画祭が開催された。上映作品は、土本典昭監督の『よみがえれカレーズ』『水俣―患者さんとその世界』と民映研の『奥三面一山に生かされた日々』『たまはがね』『周防猿まわしの記録』。これからを生きる機軸となるものが、これらの映画から見出せるか。その問いを投げかけながら開催された二日間の最後に、実行委員の川村さんがコーディネーターとして加わる形で、土本典昭監督と民映研所長の姫田との対談が行われた。
 (記録:宮森健次<あくしゅの会> 編集:岩井友子)

川村 今回のドキュメンタリー映画祭に来られるにあたって、土本さんは姫田さんからビデ才を送ってもらって勉強されたということなんですが、何か感じられたことはありますか。

土本 姫田さんの存在は、そりゃあ大きいですよ。この人はなんていいますか、独立独歩、わが道を行く方で、ぼくらはプロフェッサーと呼んでるんです。撮る時期がまた、その時にしか撮れない時期に全部撮っておられるので、いい仕事をしておられるなあと思ってね。だから姫田さんのお名前はよく知っておりました。だけど「何見たかなあ」と思うとちょっと心細かったので送っていただいたんです。
 ぼくの地域の杉並区で、六年くらい「杉並記録映画を見る会」というのをやっていて、『越後奥三面』をやらせていただいたときに姫田さんに来てもらったんですけどね、ぼくは何の理由だったかどうしても出られなかったんですよ。皆はそのときに、ぼくと姫田さんと初めて会ったと思っているんですけど、今日、ここの庭でわあわあ喋ったのが初めてなんです。だけど、旧知のような感じがあるんですね。
 姫田さんとは、会っても会わなくても何も変わりません。会えば会うでためになるし、会わなきや会わないで尊敬してるしね。何か、そんな感じですね。
 
姫田 何か言われなくても言いたい(笑)今日は 『よみがえれカレーズ』を見させていただきましてね。「こういうふうに土本さんのことを考えたことはなかった」と思いました。ポール・エリュアールという人が書いた『状況の詩』という、ぼくらが青年期に感化を受けた書物ですが、あえて今日はその『状況の詩』を刻む人という表現を思い浮かべました。

土本 『よみがえれカレーズ』ですが、あの題名を付けるときには参っちゃってね。アフガンにおいても、政治のトップじゃなくてね、いわゆる地下の人物の存在と文化と精神が絶対手がかりだ、と。ですからカレーズつていう題名を付けるって言ったら、カレーズなんて分からないからやめろと皆が言うんですよ。それでも敢えてつけさせてもらいました。今はこういう題名をつけさせてもらって良かったと思います。
 9 ・11以降、アフガニスタンの都市の名前やカレーズなんてことを多くの人が勉強したことを考えると、十何年早かったかな、とも思いますが。

姫田 水俣のシリーズを記録なさった、そのお仕事も、日本のある状況を、そして日本だけではない人類の状況を示してくださっていると思います。そして今日、改めてアフガンの状況を見させていただきましてね、ぼく自身がちょうど、十九七〇年代にパキスタンとイランに行っているんです。カイバル峠まで行きました。七七年くらいでしたか、テレビ番組で、農業の状況を取材するためにアフガンに入りたかったんですが、入れてもらえませんでした。
 当時、既に石油問題でアメリカとソ連の問題は出ておりましたですね。今、イラクの大問題が出ておりまして、どうしたらいいだろうかという大きな課題が噴出している。そういう時代の状況を、よくぞお伝えくださったと改めて思いました。この人は状況の詩人だと言っていい、とぼくはそう思いました。

川村 基層文化という姫田さん的な感心から興味を持たれる、ということもありますか。

姫田 例えば秋になって水を皆で引きますよね。あの広漠とした乾燥地帯でね。日本人なら「本当に作物ができるの?」と思うかも知れませんね。だけど、実際はああいうところこそ、人類の文明の発祥と言っていいほどのものを生み出し、人を養ってきた世界だと言えるんじゃないかと思います。
 しかもあの中近東の地域で発達した水利の問題というのが、実は今日西ヨーロッパ世界の潅漑と無縁ではない。つまり、十字軍の連中が学んで持ち帰ったことなんですね、このことをぼくはバスク地方で教わりました。それほどの地域なのに、乾燥地帯だし、一方では文明地帯といいながら一方では遅れた生活の場であるような印象を日本人は持っているんじゃないかと思うんですね。

 あの『よみがえれカレーズ』のなかで、設問ひとつひとつにお答えになっている、アフガニスタンの人たちの持っている人間の根強さ、威厳。しかも虚飾がない。あの表情そのものをぼくなりに言わせていただくと、それは基層文化なんです。
 基層文化というものは、物質的であろうがなかろうが、人間が生み出したもの、体現しているものと思っております。
 しかもそれはしっかりと根付いている、自然から教えられた人間のありかたであると思っているんです。そういう意味で、あの地下水脈というものがどれだけ素晴らしいものかということを、今日、まざまざと見せていただきましたね。あの地下水脈を活用するために、秋になったらどう、春になったらどう、ということをやはりやっておられるんだ、ということを改めて教えられて、そういう自然との対応関係がよく出ている、基層文化という観点から見ましても貴重なフィルムだと思います。

 普通の人を撮りたい

 土本 学問的な観点というのとは、ぼくは少しアブローチが違うんですね。西欧社会の言うことを 徹底的に疑う人間なんですよ、ぼくは。
 あるとき、ソビエトを横断して、『シベリア人の世界』という映画を撮りました。上映が決まっていたんですが、ソビエトがチェコスロバキアに侵入したので、二週間前にストップされたんです。
 一九六九年でしたが。
 その後、七九年の末に、ソビエトはアフガニスタンに入った。その時代を横並びにしてみますとね、文化大革命が中国ではありますね。イランでは王政が倒される。パリの五月革命もあり、もう湧きに湧いた時期です。六〇年代後半というのは、すごい時期ですよ。
 ソビエトの侵攻で、東西冷戦の雰囲気が強くなってきた。その頃ぼくは下北半島の恐山の近くで、漁民の、原子力船むつへの反対運動を腰を据えて撮っておったんです。そうすると目の前に津軽海峡がありますね。そこをソビエトの潜水艦が通っているというので、それをいかに止めるか、なんて話も出たりしました。
 ソビエトがアフガニスタンに入ったのは、あれは侵略じゃないですよ。協定に基づいて、アフガニスタンが進駐を要請したんです。だけど進駐と言っても軍隊ですから、ぼくは困ったことになったなと思いました。それだけのお金を使うなら、発電所を作るとか、道路を造るとか、教育とか、そういうことのほうがもっとお金が役立つだろうにと思ったし、東西冷戦の時代にみすみすソビエトが入ってくるのはまずいに決まっているというのがぼくの考えでしたから。
 もっと他の方法がないかと思っている一方で、アメリカは大義名分を得てすごい勝ち名乗りを上げるし、日本も難民を支援するということで何億円というお金をポーンと出していい顔してる。こんちきしょう、と思ったですね。
 パキスタンのペシャワールを中心にマスコミがいろいろ取材するんです。パキスタン側のことやパキスタンに流れ込んでいる反政府のリーダーとかは取材するんです。で、ぼくが苛立ったのは、アフガニスタンで生活している普通の人はどうしてるのか、ということなんです。
 五百万人難民が出ているけれども、アフガニスタンの人口はいまだにはっきりしない、二千万だか三千万だかもわからない。アフガニスタンに残った千五百万、あるいは二千五百万の人たちはどうしてるのか。その普通の人をぼくは撮りたかった。その人たちがどういうふうに考えて国を作っているのか、これを知らないで何を言ってるんだというふうに思うんですね。ヒーローとしてのゲリラ、ヒーローとしてのムジャヒディン、ヒーローとしてのイスラム原理主義者、そういうことを描いてくれと言った人にはカチンときた。アフガニスタンに行ったのは、それが理由です。
 人って記録しているうちに人と出会います。で、なんてこの人たちはここに生きてるかと考えると、ヒマラヤみたいな山がど真ん中にあって、万年雪が溶ける、地下に入る。あとは砂漠。だけど地下を掘れば、イランから伝わるあのような固有のカレーズ(地下水脈)が脈々と続いている。これはびっくりしました。             
 このフィルムを今年、ぼくはアメリカに持っていきました。アフガニスタンについてのこんなフィルムがあったのか、というのがアメリカやヨーロッパの反響です。そう言った意味でこれからね、イラクのことも含めて彼の人々の精神性や文化性の歴史をどう考えるのか、という反省が生まれてくるだろうと、そうなってほしいと思っていますけど。                    

川村 上本さんが政治的な意向からアフガニスタンに入られて、カレーズまで至ってしまったという過程は面白いと思いますね。土本さんが水俣に出会っておられたその時期に、姫田さんは基層文化という言葉に行きつかれていくわけですが、どのように出会っていかれたのか、教えていただけますか。

姫田 土本さんが今、普通の人に出会うために、ということをおっしゃってましたね。まさにそれですね。同じです。ただちょっと違いがあるかなと思いますのは、土本さんは根っからの映画屋さんという感じがします。ぼくの場合は一人で旅をしていました。
 その一番最初はやはり国境に行っています。最初は対馬でしたが、それははっきりと意識して行った最初の旅です。対馬というのは、古代の自村江の戦い以降、日本の一番古い国境ラインを引かれた地ですから。それと、北海道ですね。北海道にも、今おっしゃっていたソビエトとの関係がありました。
 対照的な話があるんですが、一九四〇年代後半、朝鮮海峡で漁船が次つぎに拿捕されるという状況がありました。マスコミ報道のなかには、日本は武器を持っていないからこんなことをされるんだ、という論調も出てきていたんです。「拿捕されてなぜ黙っているんだ」と。ところがソビエトとの北方に関してはね、武器で撃退せよ、なんていう論法は一切でなかったですね。ぼくはそれを「なんだ」と、不公平だと思いましたね。そんなこともありましたが、今も変わらないですね。日本人には、そういう点があると思います。

 録れない、撮れない。それも記録

川村 対馬での出会いをお話しいただけますか。

姫田 対馬へ行ったとき、廃寺に泊めてもらったんです。そのお寺のすぐそばの家へお風呂をもらいにいって、そのときに、家のおじいさんが「あなたに見せたいものがある」と見せてくれたのが、赤茶けた新聞に包まれた借金証文でした。自分のおじいさんやお父さんが手放した田地田畑を取り戻すのに懸命に働いたんです。それを焼くにしのびなくて、ためておいたんですね。で、「私はあんたにここれを見せるために生きとったようなもんや なあ」とおっしゃったんです。
 ぼくはまだ三十歳で、何もできない人間でしたから、そんなことをおっしゃってくださるな、と思いました。と同時に、そんな人間でも役に立つことがあるんだ、と思ったんです。
 役に立たなくてもそばにいる、「そばにおらしてもらう」ということなんです。そして、普通の人の存在証明をしたい。一人一人厳として存在している。どれだけのものが残せるかはわかりませんが、せめて縁あった方々の存在証明を撮るようになったんです。

川村 お話を伺っていると、土木さんが十六本の水俣映画を撮られた、その始まりが一九六五年の『水俣の子は生きている』という映画でしたが、その後、水俣の地で始められた「遺影集め」が浮かびます。どうして、水俣とそんな深いつながりになったんでしょうか。

土本 話すには時間が足、りないね(笑)水俣の患者の亡くなった方の、写真と小さい略歴ね、それの収集をやったんです。一九九四年から九五年まで、一年かけて。九六年に東京で「水俣展」をやることになって、その中心をどうするか、というときに、アウシュビッツでもそうですし、沖縄のひめゆりの方々の写真、あるいはチリのアジェンダの場合にしても、写真が胸を打つわけです。それでプランをたてたわけです。どこからも金が出ないから、女房の貯金はたかしてね。それで五百枚の遺影を集めました。結果、十万人くらいが見てますけども。
 話はとぶようですが、これは本当に礼を尽くしたうえでやりました。どんな団体の力もない、有名人の力もかりない。取材テープもなく、メモもしない。一切しないでお参りして、写真の接写だけをしてきました。名前を地図に写しまして、集落の片っ端から歩いたんです。電話でやるとすぐ断られましたので、ともかく門口に立つ、と。 
 そういうことをなぜやったかと言いますと、ドキュメンタリーというのは木当のことをどう見るか、ということだと思います。石牟礼さんの『苦海浄土』という本があります。ぼくも大好きですけども、読んだときにこれの映画化はできないと思った、そのところからぼくは水俣を撮ってるんです。
 というのは、ぼくは水俣病事件の被害者というのは、ものすごい存在だと思っているんです。もう言いようがない。僕は言葉の人間じゃないから、尊いとも清いともなんとも言いようがないです。
 しかし、魚を食べるという、何万年もやってきた人間の暮らしのなかで初めて、今世紀一九五六年前後に水俣で大変な悲劇が起こる訳です。ネコがかわいそう、魚がかわいそう、ミジンコがかわいそう、そういう食物連鎖で最後に人間が倒れる訳ですが、これは防ぎようがない。
 しかもなったときに、絶対に根治しないってことが医学的にわかっている。
こういった悲劇を、われわれはどうやって医学的に教えてもらったか、あるいは社会的に教えてもらったかというと、その人たちの語りと体験と、解剖なんですよね。胎児性の子どもの発見も、解剖して、お腹の中の胎児は大人と違ってどういうやられ方をしているのかということを確認した訳です。同様の患者が十何人も確認されたんです。これ、なんて言っていいんですか。なんて言っていいか、まだ迷っているんですけど、そういう存在なんですね。
 だからその人たちを撮らなきゃぼくは嫌だし、実名で撮ることは、敬っているから出すわけです。どこかで記憶してほしいから、忘れてほしくないから。その人のことをね。
 そういうことで徹底してやってきましたけど、抵抗は多いですよ。罪の意識というのはある訳です。想像ですけど、迷惑被った人はいっぱいいると思います。
 ぼくは、撮影のときに必ず了解をとりますけど、でも、時間がたてば状況は変わります。撮ったときはまったくオーケーと言ったけど、娘に言われればNGだとか。そういう変化は山ほどあります。 
 じゃあ、それをどうやってぼくはお詫びするんですか。世の中に発表しちゃった以上、できませんね。ですからね、お詫びが遺影集めだったんです。だからお詫びのときは、一切記録は残しません。

川村 土本さんが遺影を集められるときに、ぼくは一度だけお供したことがあります。土本さんの作業の現場を見ることができて、そこに人間の身体としてではなく、社会の病としての水俣というのを、まざまざと総体として感じていらっしゃるような気がしました。その「社会の病」というのを考えたときに、そこをずっと見つめてこられたのが姫田さんだと思っています。

姫田 ぼくの体験も、土本さんのように、まさに生死の問題でしょ。人間の社会の、そしてその基盤にある自然の。そこに対面しているわけでしょう。そしてまず、それを受けとる以外にないんですよ。それを言葉にすることはできません。土本さん自身が言葉にならない。つまり、絶句するわけです。
 ぼくの場合も、ノートも取らない、録音機も回さない、カメラもしまう、というのが二年、三年とあった場合もありましたね。「お前たちが撮ることで、わしらが偏見を持たれて、奥まったところで、暗いところで、貧乏で、とそういうふうに思われて、わしらは自分の出身地の名前が言えないんだよ」と。

土本 確か『越後奥三面』のなかで、マタギの人の寄り合いで、姫田さんが「とにかく邪魔しないようにするから撮りたい」と言うんですが、長老が「できん」と言いますね。あのシーンを撮っていたということは、姫田さんのひとつの表現だと思って感心しました。撮れない、というのも映画なんですね、ドキュメンタリーなんです。ホイホイ撮れたらおかしいですよ。やらせなんて言語道断でね。
 ぼくがさっき、遺影を撮るとき記録しない、と言ったのは、威張って言ってるんじゃないんです。遺影というとね、ビデ才を撮りにきた人に対してどう気構えしたらいいのか、というのを思いますよね。で、ぼくたちの行動を見ている訳です。ぼくはね、アウシュビッツが載った写真とかそういうのを刷って、手紙にいれて、悲劇はこうやって残すんだって言ったつもりだったんですが、チラッと見るだけです。あとはぼくたちの態度を見つめるんですね。そういうときにテープレコーダーなんかを出したりしたら、「あんた、何のためだったんですか」てことになる訳ですよ。「ぼくは映画作家ですから」と言ったとしても、「記録するとね?」つてすぐに切られてしまう。だから、何もしないと決めました。今でも、「テープ回しときゃよかった」というのはあります。メモは大変な分量を書いていますが、不正確なんですね。その日間いたことを、夜に書くんですから。名詞がわからないというのが多いんですよ。だから、記録というのは本当にちゃんとした方法でやっていくというのを大事にしています。
 姫田さんの本を読むとね、やっぱり簡単に人を撮らせていただく、というんじゃなくて、撮ることによって相手が解放されていくって言うかな、相手に生きていてよかったというのを残していくというか、人々とのつながりを作って生んでいくことをやっておられるなあと思います。すごく共感を持っています。
 姫田さんは、映画を誰に見せたいか、ということをよく言っておられますね。ぼくもそれなんです。やってきた仕事をNHKでやってくれれば助かるんだけど、やめてほしいというところもあるんです。面白いですね。テレビは飯食いながらパッと見たら、うちのじいさんが映ってたってことがあり得るんです。ところが映画というのは必ず足を運んで、考えて見るわけです。そこが決定的に違います。で、撮ったものを誰に見せるかってことをやる訳ですね。一般の都会でするのは人せでいいです。でも、どこかの場所で映画を見せるというのは大変なことです。
 姫田さんの場合も、ぼくの場合も、シャープにあるのは、誰に見てもらったら最低いいか、ということだと思います。場合によっては一人でもいいってところがあるんじゃないですか?

姫田 本当にそうですね。昭和三年組、一九二八年生まれどうし、ある種の世代性も感じないではないですね。

土本 いや、まったくそうだと思いますよ。ぼくたちの世代は、価値観のまったく転倒した世代ですよ。敗戦が十七歳でしよ。十七歳というのは十八歳でもなく十六歳でもない、大変な年齢だとぼくは思っていますが、本当に国のために命を捧げること、チャンスを失ったら困るから早く戦争に言って天皇陛下万歳と思った最後のバカの世代なんです。

姫田 まったくそうですね。ここ(学校)にいちゃならん、というような意識でね。

土本 天皇が腹を切るかと思ったら生きてるしね。戦犯はそのまま生き残ってるし。だから反逆精神というのは抜きがたい。大人に対する不信とか、指導者に対する不信とかね。

姫田 ぼくは十六歳で少年兵だったんですよ、土佐でね。内的な感覚なんですけど、歴史というのは硬いところを安心して歩いていくような、そういう感覚だったんです。ところが八月十五日の晩ですね。文字通り、コンクリートの道のような感じだったのが、突然空洞化するというか。それ以後数日間、真っ暗でまったく足が立だない、足を下ろすことができないという感覚なんです、昼間でも。すくんでいるんですね、泣くしかないんです。よく泣けたと思いますよ、泣き続けているんですから。
 そのなかで模索が始まりましたね。十六なんていう年代は、大人でも子どもでもないようですけれども、もう性根を持っていますから。教育観次第で、人を殺せと言ったら殺しに行っちゃうわけです。
 昔の村入りは、だいたい十四、五です。二十歳は、あれは徴兵制の結果ですからね。成人式すませるまでは大人ではないなんて、嘘言え、という感覚があります。今、おっしゃった反逆というのをぼくなりに言わせていただきますと、それは絶対化しない、ということです。「絶対」という言葉に対しては猛然とした反発心があります。

土本 姫田さんの言葉を読んでいくと、本当に民俗学をハートを込めてやっている。絶対値として確信を持っておられたのは、自分の映画にしかできない仕事への確たる精神がおありだと思うんですね。
 例えばぼくにしても、大学同期の小川仲介にしても、社会の激動を何とか描いてきた。ところが姫田さんは地味ですよね。だけど、目立だない人々の生活にある知恵とか営みをきちっと正確に描き続ける、これがあとで光ってくる。そういう意味で、姫田さんとぼくは同じ闘いをしているなあ、という共有感があります。だから、会って喋らなくても信頼しています。どうぞおやりください、ぼくもやりますってね。

 他者を知る手がかりに

土本 イスラムについて、ぼくも勉強途上ですが若い人に言います。イスラム主義とかイスラム原理主義について書かれた本は、よくよく注意して読んでください。一番いいのは、難しいかもしれないけどサイードね、この間亡くなりましたけど、あの人のを読んでいくといいと思いますね。
 それとコーラン。流し読みでもいいから読んでください。例えば「天国とは目の下に川流る土地」つてあるんですよ、わかります?
 それから、イスラムがユダヤ教キリスト教を経て六世紀に生まれる訳ですが、一番の鍵は平等です。差別が出てきたから平等が一番中心になった。自由なんかじゃないですよ。金儲けの自由なんて自由じゃない。
 一夫多妻制なんて、読み直してごらんなさい。
 今の考えと全然違います。あれは孤児救済なんです。親が死んじゃって子どもが残った、というときの。ただし平等にしなければならないっていうからね、面白いのは映画にでてきた青年リーダーには奥さんが四人いるんですよ。で、ぼくが日本へ帰るときに、お土産に頼まれるものって何だと思いますか。精力剤ですよ(笑)日本最高の精力剤を買ってきてくれって頼まれるんです。というのは平等にしなきゃならないから(笑)分かりますか? 話は逸れましたけど、ぼくは欧米の考え方では、必ずレジスタンスが増えるばかりだと思っています。

姫田 今のお話で思い出したことは、アイヌ社会のことです。つまり孤児を救う。そのなかにはシャモ(和人)の捨て子もあるんです。アイヌに育てられたシャモつてたくさんいるわけです。
 平等ということを、アイヌの人だちは「神と人は平等である」という言い方をします。神そしてそういう心情なりイメージは、日本の村落社会の生活者のなかにはちゃんとあったと思います。捨て子を拾う習俗も、一般日本社会にはあった。庶民同士が助け合う。それが今、本当にむざむざと消えるに任されているとぼくは思います。それは
 本当に大事なことで、そういうことを次の世代が気づかないと、外来文化の踏襲ばかりになって、歴史を繰り返してしまう。
 そういう点では、人類は迷っているんじゃないかとさえ思うんです。
 日本人だけが迷っている訳ではない。そのときに、足がかり、手がかりになるのは、他者の考えや思想を勉強しあうことだと思います。他者を忘れたところで、自分だけ、なんていうことは違うと思いますね。

土本 ぼくの座右の銘があるんです、自分で作ったね。「考えるための道具としての映画」という言葉なんです。楽しむための映画があってよし、仲良くするための映画があってよし、いろいろあってよし。それにビデオが出てきて、何回でも見られるようになった。「考えるための映画」、これが、ぼくはこういったドキュメントに一番あてはまると思います。
 (2003年10月26日、横田町)