水俣ノート「新日本文学」11月号新日本文学会
そこで映画を撮ることは、そこで生活者として息づくことだとまで強弁する気はないが、スタッフとともにこれから四・五カ月はここに居ようと、宿をつくり、食費を計算し、フトン・枕のたぐいを買い、蚊帳を求め、やれ中古テレビだ、ボロ自動車の修理だのといっている間に一カ月たってしまった。
暑い中でわめきたてる油蝉から、ミンミン蝉、蛙とすず虫、そして漁村につきものの大小雌雄さまざまの宿なし猫の声にとりまかれ、今も走る蒸気機関車を畑一つへだてて眺めながら、朝、昼、夜、いわばぶえん(無塩)の魚の菜をとって、生活している。ようやく水俣病多発地帯の部落とその人々が生活的に眼にうつりはじめたにすぎない。カメラをむけるときほ一拍子遅れて、まだ鮮かという心象の表出までにはいかない。見知らぬ外国、見知らぬ日本の土地にいったときに、いつでも、「おまえは、ここで生き、ここで死ぬとしたら……?」という設問を下して、その土地がよくも悪くも、因縁の地としてかかわることをまず第一の義としてきた私は、ここでもそれを試みる。水俣病があろうとなかろうと、ここに足をとどめる人は、嘆息をこめてこの不知火の海にひきこまれるだろう。ここは全く”おんな”の海だ。不知火の字から想う南の海の雄々しく猛きおもかげは完全にうらぎられる。台風がふきあれても、外洋に面した鹿児島や天草とちがって、四囲を島々でかこまれて内海でしかないこの不知火は、風が水面をしぶいてすぎるだけだ。また、そのおだやかな海にのみつりあった、大きくて二トンあまりの小船によって、海面と海底を深くへだてても六十米足らず、その底まですけて見える明視性をもつ海底の魚を相手にしてきた彼らにとっても、やはり、台風は台風であり、小さな港に舟をもやい、雨戸をとざして、難のすぎるのをじっと待つ。「この海で死んだ人はなか!」と誰もが言う。畑もちで海を知らない女房に櫓のこぎ方を教え「ここでシケたら舟底にねておれ、漕ごうとするな、風と潮で自然と岸に運んでくれる。ここで死んだものはなか……」と安心させる男たち。彼らはこの海が”おんな”みたいだ、というとわらう。おだやかで、やさしくて、湖のような海は、荒磯で鍛えられた漁師の荒くれさをもたない。顔つきは、けものの心を知るサーカスの調教師のように、さかなどもに対してもの分りのいい通じあったもののもつやさしさがある。だから”おんな”という比喩に対してつかみがたいから、笑って応じないのだ。しかし、その海の風景に、黄色のはい煙をまきちらし、今も白いカーバイト残渣を青い海にたれながすチッソ、海辺まで占鎖した水俣の工場群のあれすさんだ色と構造物のくねまがった風景を、一つの展望の間で見まわし、重ねながら、チッソの水銀で犯されつづけた漁民の様をチッソに強姦されつづけた”おんな”という意味と重ねあわせたとしたら、私は、なぐり殺されかねないだろう。しかしそうなのだ。事実なのだ。十七年間、忍従というにふさわしい心で死者四六名、胎児性二二名をふくむ一二一名の患者、未認定を加えれば、つまりあるがままに体の異常をしらべ、それを水俣病とする常識の世界があれは、何百、何千という人が水俣病といわれるだろう-それ程の毒を、彼らの海にまきちらされ、あげくに有機水銀に犯されながら、何と長い年月、耐えしのんできたことか。
国道三号線が海ぞいを走っている。福岡・鹿児島間をむすんでいる。旧国道が、漁業部落と山のみかん畠の人々をおのずとその道でへだてていたたたずまいは、新国道三号線で図式的に分断された。そうして一見、陸にみえる出月部落に私たちはいる。水俣病以来、漁師はチッソの下請、運転手、土工等にかわり、いまは漁業を専業とする人は稀になったが、話題は、仮の職業である運転手、土工についてであることはめったにない。海のこと、漁のこと、魚の話であるほかは、水俣病をめぐって生まれた暗く黒い世間話が、井戸端会議的に早口に投げかわされる。人の噂は見知った人に限られ、部落部落した小世界が日々語りつがれる。私がいつもパンツ一枚になりたがること、だらしのないこと、便所の扉をしめないことが、ずけずけと家の女主から言われ出す。はじめの頃の、よそものへの優しい心づかいが、荷厄介になりはじめると、こらえ性もなく悪口となって私に投げかえされてくる。ああ、と思って毛沢東語録の八大規律をひもといて読みなおしたりするものの、これから数カ月はここに棲息しようとする私たちにとって、化けの皮は早くはがれるに限る。ことばもはじめは、テレビで標準化した言葉に近く喋りかけてくれて、方言音痴の私をやや安堵させたものの、今は、土地もの同士の水俣弁でまくしたてられ、かえって難解の度をましている。面とむかっての話のしあいは、ほぼ分るようになったが、相手の見えない電話ではその限りでない。そこでもっぱら車を馳せて、直接面談で用をたしている。とにかくに一カ月、私はよそものであることをかくさずに居据る風体でここに居つづけているにすぎないが、ここのもつ人の情と自然は、やはりこらえがたく、私をしびれさせる。水俣病が生れ、水俣病をも抱きかかえつつ今もある海と人との自然律は、私の中に気づかぬ間に風紋をつくってよぎっていくようだ。私も”おんな”の海に身を浸してゆく。
水俣市から岬一つめぐった湯の子に市当局が水俣病の患者のために作ったといわれる湯の子リハビリテーション・センターが道一つへだてて海に面している。えにいわれぬ恰好の場所にある。ここに重症患者や胎児性水俣病の患児が入院している。水俣市当局が誇るだけあって、身障関係の専門病院として、小都市自治体の水準をぬいている。しかし今日、交通戦争の事故者で多くベッドは埋まって、水俣病患者の存在は見落しかねない。その二階の数病室に八名の胎児性患者、四階に大人になった小児性患者、成人患者が十数名いるだけだ。かつて、その救護のためにマスコミや外部の力を借りようという配慮のあった時期は、患者への面会は比較的容易であったが、チッソが調停委を介して、いわゆる一任派とよばれる患者及び患者家族を、本年五月、厚生省において、死者最高四百万という数字で”一任”という申合せ事項の一句をたてに補償処理をし終えてからというものは、その交渉の場の主役でもあった現浮池水俣市長の指示により、患者への面会には院長の許可が必要になった。さらには報道者への接触を病院勤務者全員に自戒するよう通達するなど、再び患者を洞窟の中にとじこめようとする気配が濃くなった。私たちが記録映画をとるといっても、その拠って立つ所が、訴訟派とよはれるチッソへの徹底抗戦派にあることは、ロづたえに知れわたっているので、その中に入ることは容易ではないのだが、カメラをもたなければ、その限りではない。私は時に、私の気持のままに”見舞い”に行きたくなる。
私が特にあいたいのは、その四階の成人水俣病室に十年余寝たままの松永久美子さんと二階の胎児性患者病室にいる山本富士夫君である。二人はその病気の最も残酷ないみで典型的患者である。病院が最も隠したがっている患者は松永さんであろう。それは、生きていることだけで水俣病のもつ罪悪を人に告げつづける存在だからだ。
私は患者の住む部落に入っている。一つの路の両側に軒を並べて患者や死者のいる家が並んでいる。そうした部落に”入りこんで″映画の仕事をすることが、東京では刺激的なまでな願いであった。健康体である自分の体をそこにさらすこと自体、臆するものがあった。
私たちが行商人のように仕事道具の一式をはこんで、この水俣に来て、宿を求めたとき、東京の告発行動以来深く知己となった石牟礼道子さんが、それならここしかないという患者宅を紹介してくれた。宿と食事の世話の二つの条件を考えた上での事である。その家は女あるじの家。そも両親二人を水俣病で失い、いまも進行性の水俣病で歩行困難になった弟二徳氏をみまもっている家なのだ。今、狂い死んだ両親は、金箔をついやした三尺余の仏壇と、ありたけの財産をついやして、海の見える墓地に供養の心をこめてひときわ眼につく大きな墓でしか、形をとどめていない。そのむかいの家には最重症といわれる脳児性患児上村智子ちゃんがいる。両親とも訴訟派だが、一軒おいてそのとなりは、一任派の首脳部のひとり中津美芳さんの家だ。まさに水俣病のある路地である。三十四歳の弟二徳さんは、理論的にも人間的にも訴訟派の若手リーダーのひとりで、ここに居るだけで患者家族や患者が、話をしに足を運んでくるのを見ていることが出来る。そして時折、むかいの上村家の無心な子供たちーその智子ちゃんの下に六人の兄弟が生まれ、ちょっとした幼稚園なみであるーのはしゃいだ声に交って、声にならない声がーうめき声とも声帯の感情ともいうべき声がきこえる。東京で水俣病の映画の準備をしていた頃考えていた患者部落のただ中の生活、その痛切な実存世界-そこにいま居る。上村智子ちゃんはもう十四歳になった。女のあかしもはやばやと来ようというのに、眼は虚空をにらみ、その眼は白い部分だけにむき返り、手の指は鶴のように内によれまがり、固着し、足はなえて、坐ることも出来ない。この有機水銀毒の作用の特徴として脳細胞をとかし消失せしめて、人間から人間をうばっているものの、胃と腸と心臓のいとなみはその直接の毒性からのぞかれている。したがって胸部、腹部はまだ人間であることをうかがわしめるものの、短小の頭蓋、骨だけの足、ねじれた腰をそれらとを重ねあわせると、形容しがたい残酷な人体となって私たちに迫ってくる。だが、この少女は、さだかではないが人の声を追い、それに応答するように表情がちらりとゆれるのである。母親と父親のひざにあって、感情のゆれの淡い切れはしを、親特有の解釈でくみとり、あやしかえし、語りかける。「ホラ美しい人形もろたぞ……ほれ、あいさつせんかい……」「ホラ、分るとですよ、ほれ、声は出しとるでしょ」と見舞いの人と子供との間にあって、魂の翻訳をしているのを見ると、私は私もいつかこの子に語れる日もあろうと思うことで、心の凝縮が融ける思いがするのである二徳さんは立派に語りかけ、その交流に関して時に患者であること忘れさえもする。時折、姉のふみよさんに対し、ささいなことで無性に怒り狂い、その病気特有の短気をかくさぬ時、改めて、彼が水俣病であることを知るのだ。ということは、私自身、この極限世界の人々を前にして、それと言葉と心を通わせあえるという一抹の可能性の前に、一抹の勇気と希望を無思慮にわが手にだき抱えようとしていることに気づくのだ。
私がリハビリテーション・センターにいき松永久美子さんと山本富士夫君を”目撃”にいくのは、交流不能な、つまり拒否に近く遠くへだたった世界にひとり生きる人間に会うためである。水俣病とは何かの原点に摶たれるべくして近づくのだ。この二人はともに、私のなれ、なじんだ水俣病のある生活をゴソッとそぎ落す慄然たる存在なのだ。
松永久美子さんの事は桑原史成の写真で、あるいは「生きている人形」という名で知られている。くどいようだが、およそ水俣病の患者の悲劇性をすべて背負っていることでは、彼女ほど、つよく鮮かなものはない。生きていれば部落随一の美人となっただろうという人々の嘆きは誇張ではない。それ程美しくあった少女だ。私は五年前に、日本テレビの仕事、ノンフィクション劇場の『水俣の子は生きている』という作品で初めて彼女に会った。私にとって、今回の水俣は、かつて迫り得なかった一つの課題へのもう一たびの試みであるのだが、実はは松永久美子との出会いが、私にとって、決定的であったことによる。というのは、映画で彼女を撮ることは極めてやさしい。何故なら、それに対し、何の拒否もかなわぬ無反応の人間だからである。私は、それ以前の、多くの映像をもって仕事をする人同様、彼女を撮ることになった。たしかに私は、この少女が、水俣市民の無関心の中で風化を強いられている様に対する痛みをもって、その姿をとることの意味を身にあかしとし怒りをこめながら撮影した。しかし、彼女が、まじろぎも拒否もしない無痛覚のままアップに耐えたときから、私は言いしれない気持の動顛を、ついに作品完成までおさえることもしずめることも出来なかった。何故?何のために?どの地点にたって私は撮っているのか?という自問の有無を、彼女自身が私に迫るという構造に、おのずとそうなるのである。その五年前、水俣病の原因は或る種の有機水銀であり、それが工場廃液によるものだということは熊大医学部研究班によりほぼ解明されていながら、宇井純氏の言う、いわば御用学者清浦・勝沼らによる異説により「中和の」時期にあり、水俣病を公害認定するに至らず(厚生省見解は昭和四三年九月)、またいまこそ献身的に闘っている水俣病市民会議(四三年一月発足)も、存在しない、つまり全くの風化期にあった。そして私自身が、個的に、創作を試みていること、それがTV局の受注として他律的にうけ入れている情況への反省とも重なって、今後、耐えて映画を創りつづけられるかどうかの根源的問いかけにつながるものであって、以来、その重い荷物から自由になることはなかった。それだけに五年後の今日、水俣の映画の話は、数カ月、念頭にあったが、いわば拒否反応の方が先だった。私たちにとっての映画同人の立場にある東プロの高木隆一郎からすすめをうけて、水俣に行こうと話しあっている頃、熊本・水俣から「水俣病を告発する会」の主力メンバーが大挙上京し、厚生省の仲介により、一任派とよばれる人々に対し調停委が決定を下す最終段階に、一つの直接行動をもって、その調停を阻止し、その犯罪性を一挙に明らかにすべく行動を開始していた。五月下旬より準備され五月二五日より二八日まで厚生省、チッソに対して闘われた行動の中で、多くの劇的な情況に触れながら、映画の人間としてカメラをもって参加することが可能だったにかかわらず、後ろめたさ故にそうしなかった。一尺のフィルムも一巻のテープも回さず、スタッフは、ただそのもう一人の身体でできる行動力だけで闘ってきた。坐りこみ、びらまき、デモ準備、カンパなど、そして一カ月ののち、東京の告発の会が自らの力で一つの組織体として結成のはこびに至った六月二八日東京大会の日からようやくクランクインすることになった。それは免罪ではなく、自己確認にすぎないものであった。
五年ぶりに、物言えぬ久美子さんに湯の子リハビリテーション・センターで再会した。それはすでに”老婆”であった。二十歳にして、すでに縮みはじめ、老残の臭いを身辺からただよわせる、人生を闘いぬいて、すでに廃者として終えようとするかのように老いていた。五年前、十四、五歳の彼女は、その眼も口も手も足も唇もうごかね水銀病患者ではありながら、その年頃のもつ生毛のぬけ落ちたような唇と、純な食物だけを取っている幼児のような唇と息のにおい、見えぬままひらかれた眼のキララな輝きのうったえるものが、そのまま幼児と少女の時間を深く二重にだぶらせていたのに、今、伸びる力を失い、停り、かたまり、全体に皮膚は角質化し、縮みはじめてさえいるのだ。一生をその忘失の中で駆け抜けようとしているのだ。その見開かれた眼は、私から言葉を奪い、胃と胸廓をけいれんに至らせる。私は、また再び五年前と同じ問いにむきあわされるのだ。山本君も同じだ。誰がきめたのか「この子は親も分らんとですよ」。その彼が、人に示すものは、焦だたしげに唸りながら、自分の頬を撲ちつづけ、そしてよだれのたまった唇をとがらせて唾をはく気配をくり返す。その眼は、見えるという。たしかに私たちを軽視しながら、その動作をくり返す。
ある日、私はその母親を水俣から車で一時間半の田浦に訪ねた。不知火特産のいりこ漁の乾し場で女組頭として働く彼女は、また水俣病かという周囲の人眼を気にしつつ言葉少なに語っていう。「あの子は私も分らんのです。家につれてかえってもうれしそうな顔もせんとです。すこしでも分ってくれれば張りあいがあるとですが……妙なくせが病院でついてしもて、腹はちっとも悪くなかとですげ、あげな唾をはくようなくせがついてしもて……私にもな、べっべっと……辛かね」
彼、富士夫君の口もとにうっすらとひげが生えはじめ、かいまみた陰部は大人のそれに近い。しかしおしめをかえられ、乳児のような身の屈伸をしいられながら、彼はうなり、自分の頬をたたき、唾を天井にむかって吐きつづけるのだ。生まれて以来、視力のほども聴力のほども痛覚も知覚も誰にも定かにためされたことはない。医学の一つの重要な方法である問診が一度も行い得ないからだ。何が認識されており、何が人間として形成されているのか、彼をとりまく人々に誰も分っていない。しかし何とすべて拒否的で、その徹底的であることか。在宅の患児や、人との親密な交渉に恵まれた患児が、ささやかながら情の交換として、かすかにうなり、かすかに快さを口もとにうかべ、あるいは、そのように受けとれる何ものかがあるのに、松永久美子さんとこの山本富士夫君には・絶対的な断絶があるのだ。私たちは映画をとることの営為の前に、この二人の私たちに問いかけるものに答えることから始めなければならないのだ。私たちは、
今、患者訪問からはじめている。死者四六人の遺族家庭、二二人の胎児性患者家庭は一任派たると訴訟派たるとを問わず、カメラをもって全記録すべく歩くつもりだ。それが撮れないものであってもその撮れぬこと自体、水俣のいまの現実であること、十七年にわたる放置への直接的な弾劾として、レンズに立ちむかわせるつもりである。そのあとは分らない。