残酷さに心凍る思い「聖教新聞」3月23日付
水俣の受難の人々の中で、残酷さにおいて心凍る思いがするのは、胎内で水銀におかされ、視力、聴力、歩行、排便、食事一切の人間的能力を、その根源的な脳の神経の消失によって奪われた胎児性水俣病の子供たちを目の前にした場合である。昔から難病、業病があるが、工場からの毒の流出によって、人間が初めて蒙った、今日これといった医療のきめ事もない全く新しい病気である。
ビールスによっておかされたり、脳神経が炎病を起こして病んでいるのではない。水銀によって、人間的な機能する脳細胞が焼かれて無いのであって、それ自体、再生もあり得ないのだ。その子が、今日、生きつづけていること自体、生命力があってのことであるにちがいない。その新しい意味で、放射能被害と歴史的に同じであろう。
その苛酷な遺伝性においてその人間の人知の結晶である科学的成果が、それを発明した人間自身を殺す時代の到来のきざしとして、そしてその殺人、傷害が、原爆が政治問題をかくれみのとし、水俣病が、高度成長下の無過失無責任の不幸として処理されているさままで、似ている。
私たちは、当初からカメラをその子らにむけ得なかった、その子供らは、どちらかといえば、生まれてからたえず観察の対象とされ、報道や医療者のカメラ、8ミリ、TVの前に身をさらしてきたので、当然のように萎えきってカメラの前に身じろぎもしない。それを撮るのはやさしい。しかしそれは仕事の中で、彼らを、自ら恥じない心でとれるまでが、私たちの映画のゆきつけるところと思い定めることとなった。
二か月もたった頃、私はこの疑問につき当たった。私が足しげく訪ねたのは上村智子さんである。最重症児であるが、いつも母か父に抱かれている。その手は、眼は見えず物も言えないが、かすかに人の気配に感応している。話しかけにこたえるのである。その応え方は、声帯をふるわせるといった方が適切なけもの声に似たうなり声である。そのむかいとなりの家庭・浜元フミヨさん方に寄宿していて、よく泣き声としか、あれが笑い声だったか、とうかつさを恥じた私たちは、その後、-応わかりかけていた胎児性の子供の性情をもう一ぺん見直す必要に迫られた。
これは書くのも情けない事実であるが、水俣市立病院の湯之児分院には、七人の胎児性の子供と、あと数人の最重病患者、とくに、生きているのが奇跡といわれる松永久美子さんが入院している。私たちは、撮影願いを提出しても、断わられつづけた。そこの患者はすでに一任派とよばれるグループであったため、零細な額の補償金をうけとっており「処理済み」の患者であり、親の希望で、今後は撮ってくれるなといわれているというのが理由であった。
私はその中のひとりY君について、こわいまでに強い印象を受けた。彼は十四歳、すでに性徴をもちはじめている。私は石牟礼道子の妹と、ようやく見舞の形でゆるされて面会にいったが、彼女のにおいにつきまとって髪をひっぱり、膚にふれたがって、遍むことがない。本能的に女を求めはじめている。彼は体は強そうであるが、喋れない、そして限もみえない、指をしゃぶりなから、時折りいらだたしく泣くと、自分のほおをはげしく叩き、そして、ぺっぺっとつばをはきとばすのである。出来る唯いつの攻撃的意思に思われた。
つきそいさんは「この子は親もわからん子でね……」とあきらめに投げやりになっていた。丁度その頃、田舎風の盆が近づき、一斉に家に帰る日がー間近であった。「もう、あの親はきよらんよ」とつきそいさんは言う。
私が訪ねたその母親は、車もかよわぬ水俣から十キロくらい北の漁村部落でイリコ漁の頭として働いていた。私の質問に、困感の色をうかべて「……どうしようかと思っとるので他の子は家に帰るといえば喜ぶとじゃけん、うちの子はいっちょう喜びもせんで…うちがわからんのです」家につれ帰るのももう体が重くなって背負ってつれ帰るにも車はなし、いっそ舟でと思っている、と語る。
「あの子は私の顔もわからんとです。私にも唾をはきかけて、あんなくせは病院に入れるまでなかったとです、唾をぺっぺっと……」といって小さくなっていく。
ここには明らかに、人間のかよいあう何物かを根こそぎ失った母と子があった。もし私が患者なら「意気地なし」と責めたであろう。しかし、ここまで追いつめた水俣に立ちこめる水俣病患者へのいわれない差別、圧力をすでに知らされている私には、それを責める気にはなれない。唯、黙するのみであった。
この映画の中で、私はとくに胎児性水俣病の子らをひたすら人間的に描いたつもりであり「お話」としてでなく、あくまでカメラを通して主張したつもりである「この子らを一体どうしようとするのか」その詰問はあくまでチッソ、厚生省に問いつづける。しかし私自身に投げつけられる。