留学生チュアスイリン ナレーション <2000年(平12)>
留学生チュアスイリン ナレーション

*チュアスイリン 1962年シンガポールの高校を卒業直ちに来日、以来千葉大学に国費留学生として学んでいた。国を出る時、かれの国籍はまだイギリスであった。華僑系マラヤ人チュア君が文部省から突然国費留学生の身分を打ち切られたと聞いて、私ははじめて彼と会った。
*私は民間の留学生世話団体で働いている。私がチュア君と知り合ったとき、彼はすでに文部省を相手に国費打ち切りを不当とする裁判を始めていた。1964年暮れのことである。私は裁判のための資料を揃え、各方面に協力を仰ぐことから始めた。
*チュア君は生活の基礎を全く失い、マラヤ留学生たちに助けられていた。当時チュア君はマラヤ留学生とともに日本政府を相手に自分の権利を守る為の行動をはじめていた。日本にいる多くの国費留学生はいつ自分の身におこるかも知れないこの事件に深い関心を寄せていた。

*1964年 9月30日、チュア君は公然と訴えた。一年前、マレーシア連邦が成立したとき、イギリスから完全に独立していないとして 180名の留日マラヤ学生が反対し、彼はたまたまその代表者だった。それから一年たって本国から通告を受けた。「直ちにシンガポールに帰れ 理由は反マレーシア、反国家活動による。なお日本政府に国費留学生の身分を打ち切るよう措置を要請した」との文面であった。突然であった、帰国がそのまま投獄に通じることをチュア君は充分知っていた。
*その翌日、文部省はチュア君の奨学金を打ち切った。一度も事情を聞かず、本人の意思を確かめることもなかった。千葉大からも除籍された。造船工学科に進む直前であった。大学だけは信頼していただけにこの決定は衝撃であった。
*私たちは学校に足を運んだ。学生ひとり見当たらない冬休みだった。
 <タイトル 留学生チュアスイリン>

*1965年は明けた。だが見通しは暗かった。
*恒例の新年宴会である。アジアとアフリカの留学生の年に一度のパーティー。チュア君は自分の立場を訴えようとはしなかった。ひとびとの楽しみのなかにいた。マラヤ留学生は「可愛いあの子」を歌った。

*裁判は進んだ。法廷は傍聴の留学生でいつも溢れるばかりだった。だれもが前面にたってチュア君を守ろうと思う。だが国費留学生であるかぎり文部省の圧力を恐れた。
*アジアに背をむけるな。ここにいる一人のアジア人を見捨てるな。私はひとり呟き続ける。政情不安なアジアの情勢の反映であるこの事件は留学生を不安な日々に追いやっている。

*アジアの留学生はアジアに対する日本人の関心に敏感であった。今日のベトナムが明日の祖国の姿でないと誰がいえよう。
*チュア君の事件を日本でもっとも権威ある雑誌のひとつが取り上げ、千葉大の内部事情を知らせた。私たちを励ましたのは必要な教授会の議を経ないで除籍していたという新しい事実であった。そのことからこの論文は大学の自治を強く訴えていた。私たちは千葉大に何度も足を運んだ。教授たちはチュア君に同情的であった。だが学長が判をついた文書が出された以上、それが偽造であろうとも、除籍は事実として残る。教授たちは再び入学させようと動き始めたが、彼等だけの力ではどう仕様もなかった。

*春休み、学生有志がチュア君のための集会を開いた。千葉大でははじめての集まりだった。チュア君の目は学生がどれだけ支援の活動をしてくれるのか、その一点に注がれていた。チュア君は祖国を語り、現在までの経過を語った。だが千葉大で留学生と日本人学生との交流がほとんどなかっただけに、学生の反応は鈍かった。私は焦りと苛立ちを隠せなかった。
*大学に籍がなければビザの更新はできない。そのビザの滞在期間はあと一か月に迫っていた。

*四月、新学期を迎えた。十五日、三日間の忘れることの出来ない闘争、チュア君のための闘いはこの日から始まった。集まった学生にはチュア君の名も耳なれず、留学生問題といってもすぐに響いていかなかった。そしてこの日、大学当局では私費留学生としてチュア君の再入学を認めるかどうかを最終的に決定する評議会が開かれている。チュア君にとって最も重大な日であった。
*次第に学生が集まってくる。だが学長の意思を覆すことが出来るだろうか。一か月前の学長会見の記憶がよみがえる。学長はチュア君の再入学を拒否し終始笑みを浮かべていた。
*チュア君は細かく実情を話しおえた。学生の数は 500名を超えた。評議会はチュア君のことでひとつの決定に近付きつつあった。

*三月、チュア君は東大と法政大の編入学の試験を受けたことがある。チュア君は千葉大への復学しか考えなかった。だが、もしビザの切れる四月二十九日、どの大学にも学生としての籍がなければ強制送還そして投獄という最悪の事態も考えなければならなかった。私はこの状況での受験が彼にとってどれだけの負担であるか分かっていた。だが、敢えて勧めた。
*かれは数日間受験に没頭した。シンガポールからの通信は両親の心痛を伝えてきている。身の安全のために住所を秘密にする生活が続いた。そして学生でありながら、ずうっと教科書から遠ざかることを余儀なくされていた。
*法政には合格、しかし千葉大に戻ることが出来ない情勢では日本のどの大学にも自分の籍はないように思われた。

*評議会は夕刻終わった。私たちは待たされた。新聞記者発表の日であった。大学新聞の記者がその発表から締め出された。学生も大学当局に異常なものを感じとった。
*新聞記者会見はおわった。新聞記者の口から初めて結果を聞かされた。チュア君と私は学生とともにその結果を聞きたかった。当局は別々に会うといって譲らなかった。あきらかに一つになることを恐れていたのだ。

*真夜中、寮や下宿からも大学本部に集まってきた。学生たちは学長に説明を求めた。全員徹夜を覚悟していた。
*チュア君のなかでなにかが堰をきった。日本学生への信頼が初めて芽生えたように私には思えた。

*二月十三日、アメリカの北爆が開始されて三日後、南ベトナム学生のデモがあった。これは日本で初めての記念すべきベトナム戦争反対のデモとなった。
*アジア人留学生が街頭にでたのは初めてだった。留学生たちは日本人の反響に耳と目を研ぎすまして粛然とただ歩き続けた。

*あくる十六日、徹夜した学生たちは朝から集会を開いた。大学当局はこの日再び会議を開くことになっていた。学生はそれを待った。留学生もつぎつぎに参加し始めた。
 パキスタンの学生…
 ある中国人学生…
いままで留学生がこのように公然と意思を表明したことはなかった。チュア君と同じ圧迫を受けるかもしれないのに。昨日までは予想もしなかったことだ。この日ここの学部の学生3000人のうち、半数ちかくが参加していた。

*全学の学部長が集まって会議を開いていた。何時おわるかも知れない会議のためにみんなが座った。
 学校当局の基本方針は全然かわっていなかった。
私も学長もチュア君のビザの期限ぎれがせまるとともに追い詰められた。

*翌十七日、臨時評議会が招集されたそれに出席しようとする留学生部長を見つけて、学生はその責任を問うた。教授会を経ないで除籍した責任を問い、評議会でチュア君を復学させるよう詰め寄った。評議会の前に突然開かれた留学生部の決定は大きく作用するだろうと誰もが感じていた。それを聞かせて欲しいと要求した。
*口を閉じた学部長に代わって留学生部の一教授が答えた。教授の口振りから私費再入学を許すだろうと学生は直感した。
 インドネシアの学生…。

*会議は始まった。だが終わるまで十一時間かかるとは予想しなかった。学生はクラスやサークルごとに待ち続けた。
*チュア君は見違えるように元気になった。夜食用のパンの指図に歩きまわった。
*評議会は夜半にいたった。偽造された除籍決定をどう説明するかが恐らく討議の中心だろう。学生は除籍処分を取り消してはじめて大学の自治は回復出来ると確信していた。
*午前一時…。
 それから一時間以上たって大学新聞の記者から結果を聞いた。私費ではあるが学生の身分を八か月ぶりに回復し、ビザ更新の条件はほぼ出来た。チュア君は第一段階を今突き抜けることができたのだ。
*評議会は私費再入学の結論をわずか数行発表し、そしてそれだけで充分ではないかというように学長たちは帰っていった。

*四月十五日、ビザ更新の最終日、私費再入学の手続きは辛うじて間に合った。私としては処分取り消しによる復学であってほしかった。だが、この日に署名しなければ、チュア君の上にさらに大きな不利がくるだろう。今日ビザの手続きはどうしても終えなければならないのだ。
*八か月の苦しい日々はこの証明書にかかれた平凡なひとりの留学生に戻るためであった。三年で除籍され再び三年に入学して、チュア君は千葉大学の一学生になったのだ。

*自分で留学の地として日本を選んだ以上私は日本に失望したくないとチュア君は言った。国費打ち切りという不当処分に対する裁判はまだ終っていない。私もまだチュア君と離れることは出来ない。

 企画 チュア君を守る会
 製作/工藤充   演出/土本典昭   演出助手/四宮鉄男
 撮影/瀬川順一 瀬川浩 身内哲雄 黒柳満
 音楽/三木稔   打楽器/田村拓男   解説/大宮悌二
 録音/ミネオスタジオ