女の海と毒 『草月』 76号 5月 草月出版 <1971年(昭46)>
 女の海と毒「草月」76号 5月草月出版

 水俣につらなる不知火海の海は見た人の心をうばう。内海に流れこむ汐が変わるごとに、縞目ができ、小舟が通ってもその航跡がとろりと残って消えない。
 私が最近作「水俣ー患者さんとその世界」を映画に撮るため五か月滞在したため、その魅せられ方も大きいかもしれない。しかし水俣病ー水銀汚染ー工場という初歩的な知識をもっている人でさえ、その光景のあまりに美しく、しなやかであるだけに、直撃をうけたように、海と毒の工場、その残酷な組み合わせに慄えるのである。
 患者多発地帯は魚とりの人々のすむ漁村である。その奥深い村からは、上手、下手に岬があり、その正面にいつも不知火の海を望ませる。日常の私的世界は、茫然たる程の自然である。いつ頃からか、あっという間に日本列島は、観光業者にくい荒らされ、自然が投機と人工着色の対象とされたが、水俣は、皮肉にも、毒の海、毒魚の海、水俣病の海として一点そこだけは外されてきたからだと云う。
 カメラを持って、ある種、胸苦しさを持って部落に入ったとき、私は海に女性を感じた。海を見ていると、業のような私の映画を作る仕事も、そこから始められるような許しとゆとりを啓示してくれるかのようだった。”おふくろみたいな自然だ”と思う。それは部落の生活の中で、心の底縁を占めるものとなるのに、そう日数はいらなかった。
 部落の人の印象に、母のイメージが圧倒的に強い。漁業から追われた男たちは、出稼ぎに行く。だから老人と女どもの村である。水俣病患者家庭は、看護のためにいつも女手を必要としている。女がせっせとその苦界を背負っている。浜辺に生まれ、育ち、嫁になり、母になり、媼になるまでに、塩辛トンボのように海の気にさらされた風姿となった。その上にさらに水銀の毒の気が重なっている。その女たちが私の映画の主人公であった。「水俣病になった子はどうしてこげん美人ばかりじゃろか」という。母たちの胎内で被毒し、脳を全壊した少女たちの像は美しいゆえにその無残を象徴する。それだけにカメラを向ける時に、何故か負ける。負けるのが私の人間の当然の始末のように、負け心を持たせる。私たちは素手で何度も母たちと会った。その胎児性の子供たちは十五歳前後になった。母たちは狼狽している。恐れていた通り、それぞれ初潮を迎えた。それは淡く、うすく、しかしじたじたとながいという。それを語る時の母たちに「おんなの困惑」が、女同志のともどもの難儀の思いに乱れて、おどろおどろと洩れ告げられるのだ。
 少女たち面影はは単なる美しさではない。十五になっても母の手によって生存を遂げている。地獄に落ちていながらそれを知覚せず母の乳房に近いところで息づいてきた彼女たちは童女というよりもはや幻想的ともいえる光をもって、そのまま「女」に変身しようとしている。昭和三十年頃、流産、死産、ブドウ状鬼胎等が妊婦にあいつだ。その中で生き残ったのが、胎児性の子供たちであったという。すでにその生誕において生命力を示した子供たち、それが一生に一度花咲くべく、体をつくりかえているのだ。
 「これは俺よりつよい。俺より人間だ!」私は深く動転した。子と女と母の代々をつらぬく、そのおんななるものが、根源性を告げてやまないのだ。「偉いな、いいやっちゃな」私たちは、どこか上下がひっくりかえった心で、この子らをあくまで美しく撮ろうと決心したのだった。それが果たせたかどうか、いまもって自覚にいたらずよわっている。