書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」あとがきにかえてードキュメンタリーは個人の”社会性”の表現である
今回の『土本典昭フィルモグラフィー展2004』は敢えて言わせて貰えば、戦後の半世紀近いのフィルムのドキュメンタリーの推移を、一例としてこの回顧展で一考させられる企画でもあったのではないでしょうか。私は自作をそうした映画の歴史として回顧しました。その都度、当時のカメラマンやスタッフの記憶が具体的に映画の一カット毎に蘇えり、画面から現場が見える。例えば「見た事のない絵を撮ろうよ」と汗をかいた細部の記憶の復元ゆえに、作品まるごとの漠然とした“回顧趣味”を超えたものでした。そして今、思えば、当時のマイナスの条件に足掻いた結果、その足踏みが工夫に繋がったのです。
もう映写フィルムは音声を獲得していたものの、カメラといえば二十数秒しか撮影しない手巻きのボレックスやニュース専用のフィルモの時代(この頃は重い録音機を演出担当が担ぐことが普通)でした。やがて四百尺、十分間駆動するアリフレックス、そしてアートンといった、“究極のドキュメンタリー用カメラ”にまで到達しました。このような進歩を見ながら、専ら、フィルムに親しんだのが私の世代です。それを異とも奇ともしなかたのは当然です。ですが、その五〇、六〇年代、初期の手巻きカメラでは、長回しなど精々ゼンマイ一杯、フィルモでも四十秒間しか回りませんでした。七〇年代にようやくバッテリー電源による同時録音カメラを使えるようになり、ドキュメンタリーの撮影手法は一挙に多彩になりました。それらはシネマベリテなどの産みの親になったカメラです。それまでの多くの制約は映画技術にはつきものと思っていましたから平気でした。撮りながら、その都度、撮影、編集に工夫を凝らす楽しみがありました。今回、五九年、実作三作目のテレビ映画『年輪の秘密』を見た黒柳満カメラマンから、「本来、僕のキャリアの作品だから見たが、今見ても見られる映画だった」という感想を聞きました。私は当時の楽しんだ工夫と表現が蘇って、いまなお鮮度を保っていたかと喜んだものです。
あるマイナスが、後まで私を助けた例を挙げれば、十六ミリフィルムの編集の工夫です。当時フィルムのオーバーラップやフェイド・イン、フェイド・アウトなどは現像処理が綺麗にいかず、技術料はやたら高かったので、そうした手法を使わない繋ぎ方を探しました。劇映画では小津安二郎がオーバーラップやフェイド・イン、フェイド・アウトなどと使わず、カット繋ぎを貫いていました。それは私を鼓舞するものでした。私は岩波映画で“編集の神様”といわれた伊勢長之助氏の編集を盗みました。氏は「オーバーラップすればどんなカットでも繋がるもんだよ」と苦笑しながら、自分では滅多に使いませんでした。すべてカットの絵柄と間合いの呼吸でした。数学的な計算も感覚的な摘み方もありました。映画職人になるのかと仲間に笑われましたが、いまも生理にまで編集感覚が浸透していると言えるでしょう。言いたいのは編集の方法論にもその時代々々の技術の限界との相乗作用があり、順応するものだという事です。
私はもとよりフィルム至上主義者ではないつもりです。日進月歩のビデオの技術革新からすると、解像度もその保存性もフィルムをはるかに凌駕し、劇場の大スクリーンに耐える高性能も指呼の間でしょう。時代の推移への順応には楽天的ですが、ことドキュメンタリーのビデオへの順応についてはばらついています。ビデオの革新性には飛躍があるからかも知れません。但し、私にはフィルム育ち特有の職人的尻尾があります。それが嫉妬になります。長回しなどが出来なかった思いが恨みとなって不意に出てきたりします。
数年前、ロシアの某監督のアフガニスタンとウズベキスタンとの国境でのロシアの兵士たちの退屈な守備任務と生活を描いた五時間余のビデオ作品を見ました。その監督がビデオで撮影したもので、公開に当たって、感想を求められました。しかし、そのトップシーンから面食らいました。三〇分余の砂丘のロング・ショットのフィックスです。時間経過の意味もなく、魅力ある風景でも、意味のあるサイズでも、描写の美しさもない理解に苦しむ長回しだったからです。「ビデオならこんな長回しは易々として撮れるでしょう。しかし、フィルムでもこれだけの長いフィックスを撮りますか?」と監督に聞きたかった。ビデオカメラを手にして、スイッチをいれっぱなしにしてみた素材から工夫したという印象でした。それでも面白ければ良いのですが、退屈の一語でした。しかし、この作品を佳しとする人が意外に多いのには驚きました。カット割りや編集のセンス、生理的リズムへの配慮などはビデオの映像には不用なのでしょうか。以来、私はもう一度、映画を勉強しなおさなければと思いました。
フィルモグラフィー展はその良い機会でしたが、もう“古典”と扱われかねません。最近、パソコンによる映画製作を教える学校の映像講座の生徒募集に「もはやフィルムの映画製作は伝統芸能です。これからは…云々」という謳い文句があり、これにはしばし抱腹絶倒しました。が、これからのドキュメンタリーを志す若いひとにとって、私の“古典映画”は果たして役に立つだろうかと怯みもしました。
そうした時、私を励ますのは“映画の学習はその歴史から始まる”と言うなんとかのひとつ覚えの言葉です。私は迷うとエリック・バーナウの『世界ドキュメンタリー史』(映像記録・七八年刊)をひもとき、とくに映画の初期、リュミエールからジガベルトフ、さらにドキュメンタリーという言葉の生まれた英国のグリアーソン時代までを集中的に読むことにしています。そして私の好みですが、カメラ自体の発達、周辺機材の整備。音響、とくに同時録音などがどういう表現をもたらしたか、つまり“時代と映画技術のからみ”を読み込むのを楽しみにしています。
八十年代に物故したバーナウの記述にはビデオは殆ど取り上げられてはいません。しかし、彼に質問したら、ビデオの時代をまっすぐに見て、「もう一度、リュミエールやジガベルトフの時代に帰ったね」と言うような気がします。撮影と編集・構成となんでもこなして当たり前だった百年前、映画の黎明期の映画の営為が個人に託された時代に再び一回りして回帰しているのではないか、それほどビデオは映画の原理と未知の可能性を併せ持っていると思うのです。
さて、フィルムの場合、ビデオと同じようなひとりでの撮影は今はない、録音を考えると無理です。私の映画の現場は少数主義でしたが、カメラマンとその助手、助監督兼録音と私の四、五人が最低単位で、予算のない自主製作ではこれは普通でした。また、移動する車の一台に乗れる人数の場合、いつでも話せ、意思統一も出来ることから、ドキュメンタリーの足腰には格好のシステムであったと思います。
私の敬愛するアメリカのフレデリック・ワイズマン、「偉大なドキュメンタリスト」と言われる彼はいまでも、このシステムです。彼は自分で録音マイクを駆使し、その音源の方向をカメラマンに示唆して、人間を描き、あの豊かな言葉のモザイクを綴っています。さらにスタインベックによる編集作業の中から映像、音声をロールに細分、並べて順序づけ、その巻きの太さを見比べて計る…そうした手作業のなかで思索し、創作すると言います。私とは三才違い、ほぼ同世代ですから、余生をビデオには向けないでしょう。しかし私は既にビデオの良さを知った人間として、フィルムとビデオと複眼的にならざるを得ません。
ビデオの良さはだれでも作家になる条件を具有していることです。特権はなくチャンスは公平です。そして大量生産社会のなかでカメラ機材、記録用テープは誰にでも手の届くところにあります。映画学校などは不用、基本的に学歴社会ではありません。車社会ですから、車があれば、撮影旅行も機材運搬も個人の生活感覚で処理できる。まるで良い話ばかりですが、但し生活手段は別の問題です。それと上映の道を切り開くこと、そして再生産のできるように収益を生み出すこと、それらは簡単ではないでしょうが、「まずはじめに撮影ありき」という原則はだれもがクリア出来るでしょう。これはスタッフを確保するだけで消耗したフィルム撮影時代とは大きな違いです。特に長期取材の場合、自己負担の限界まで取り組めますし、自由度は大人数のスタッフよりはるかに大きいのは当然です。その事から異色の映画が生まれています。もうご存知の中国の王兵監督の『鉄西区』がそうです。連れ合いの収入の助けをかり一年半の間、ひとりでビデオを回したようです。その実像をチラッと窺い知れるカットがその中に一シーンありました。普段は努めてカメラの存在を消していますが、夕日の影として腰だめした小型カメラを手にした監督の路上の影を写したのです。夕景の壊されてゆく町を歩く労働者のフォローショットに、斜光線ゆえ路上に、影を落した王兵監督自身の影が続きました。これが九時間半の大作、総時間三百時間のなかの一ショットだけに、作家のその弧影には粛然とさせられたものです。しかし、別の角度から見れば、仕事の時間だけカメラが存在するというより、生活時間のすべてにカメラが携行され、あたかも携帯電話が風俗になったように、王兵監督のビデオカメラは彼の生活の一部品、対話や関係つくりの“一私物”として、周りに認められているのでしょう。この機微について佐藤真が書いています。「王兵のカメラの対象との距離のとり方には、ワイズマンの冷徹さとも、小川紳介の親密さとも違い柔和な透明さがある・それは、溢れんばかりの情熱を内に秘めながら、木偶坊の如く微笑んで。小さな小さなデジタルカメラをそっと構えているという感じなのだ」と。この作家像はカメラを身から離さず、いわば無選択のように記録していく作家の日常まで暗示しているようです。
日本のビデオ作家も「まず撮影ありき」という初動は共通しています。決して企画書やシナリオではなく映像から入っています。これが数千万円を見込まれたかつての記録映画製作にはなかったことです。そして同時に日本でもドキュメンタリーの話題作は殆ど個人のビデオで撮ったものであることを再確認できそうです。幸い、シンポジウムの講師にビデオで作品を発表している佐藤真、森達也、藤原敏史、新進の今田哲史などの他、最初に韓国のキム・ドンウォン監督などを迎えました。彼等はフィルム時代の作家の何を伝承し、何を相対化するかを暗示する配置にもなりました。まさに現在形のシンポジウムであったでしょう。
それは同世代の佐藤忠男、黒木和雄、高木隆太郎、時枝俊江、鈴木志郎康の諸氏によって、“個展”に拘らず、ドキュメンタリー映画の方法論、技術論、製作論の歴史を語る舞台にもなったと思います。
最近、映画作りは詩人に似てきたようです。自作の詩の朗読が親和性に満ちた酒場で朗唱され、その反応がただちに詩人に返されたような雰囲気を思います。その直接性が噂をさらにげていく。
コミュニケーションを核とするドキュメンタリー運動は究極には協同主義の一翼であり、平和主義的大衆社会の願望を土壌として発展してきたのではないでしょうか、ドキュメンタリーは個人の社会的表現の産物と言いたい。映像の主人公とは、非戦の“詩”で結ばれているものでしょう。
韓国のキム・ドンウォン監督のビデオ『返還日記』は現代の壮大な叙事詩といえます。彼の映画運動の究極は民主主義そのもの、アソシエーション社会そのものといって過言ではないでしょう。彼はどんなにかつての立ち退き反対の記録映画の出演者と付き合い続け、ていたことか。その一人、屋台のおかみさんから「このひとには生きていて貰わなければ困ります」と慕われているのを、ソウル訪問の際に見ました。そして私らにまでに屋台の海苔を抱えきれないほどくれました。それがキム・ドンウォンさんの気持に沿った挨拶と察しているのです。彼は“仲間”、いわゆる映画監督ではありませんでした。
商業的劇映画にはカリスマ“監督”が必要とされるかも知れません。しかし、ドキュメンタリーに連なる集団の中では、それぞれが作家であり、観客であり批評家です。個人でありながら、それぞれの作家性を助ける社会的人間の架空幻想から、映画なる創造物を産み落すのではないでしょうか。