映画的真実とは何か-運動のプロセスの軌跡とカオスとして経る時間と- 『放送批評』3月号 放送批評懇談会
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記録映画にたずさわるものとして、「真実」をえがくことは常識、であるとされている。確かに、映画はすべて記録であり、事実をうつしとる。音を獲得してからは更にその信憑性は高められている。同時録音による撮影手法はもう一般的になって、臨場感あるリアリティの創造にさしたる困難はなくなった。だが、「真実」をたてまえとする記録映画が、時に虚偽をあえて描く場合すらある。私が映画の仕事に入って始めての仕事は、本当らしい嘘を、ある目的のためにえがくといった種類の映画づくりから始まった。いわゆるPR映画である。産業映画とか「社会人」映画とか広報映画といった名の下で、その企業や集団のもつテーマを集約的に表現する仕事である。そのシーンの一つひとつは事実であり、実在の現象である。鉄を作る工場の描写にうそはない。しかし鉄を作る労働者の現実も、その利潤追求のメカニズムも、或いは公害とむすぴつく工場内のあらゆる廃棄物も登場するわけではない。鉄で作られた製品紹介となると鉄の時代といった形の新たな需要の刺激のパターンがくり返される。鉄の工場はまともにその全部をとりあげれば、実に興味ある素材といえるその工場の正社員(労働組合員)と下請け孫請けの最下層労働者の差別とその労務管理(不況時の人員の減らし方はつねに臨時工への恣意的な首切りによって支えている)をとってみても一つの工場の在り方から日本の現実の総体がうかがい知れるのである。そして最も興味あることは、立入禁止の門をくぐって、企業の秘密の中枢部門に立入れる場さえ獲得するのである。しかしPR映画をとる場合、そのテーマ性はシナリオによって極めてしぼり上げられ、シナリオの段階ですでに「傍見」できない構造となっていることである。もし労働者をとる場合でも「快適な省力システムの中の労働者」であり、「きたえぬかれた眼で見守られる品質管理者」としての彼らであり、溶鉱炉の出銑員の活動は、男の中の男の仕事として雄渾なまでにうたい上げられるといった程の労働者像としてである。どのようなPR映画にせよ、反資本主義的な視点や、労働組合的な立場で映画をとることは許されない。それへの手かせ足かせとして、映画の製作、管理のシステムは、第一にその作り手の人間をまるごと頂くことであり、そのシナリオ、製作過程、音楽、コメント、編集、そして最後の録音まで、確実にそのテーマにしばり上げることである。そして尚、そこに映画としての「真実」と美を要求する。そして多くの場合異色さをあらかじめ求めるその時の資本家の末端の宣伝を担当する係員は総資本のイメージを彼なりにくみたて、製作費の代価を得るべく、一見実に「映画的」な完成度に対して熱烈な努力と、感性をもち、極めて作家的である場合さえあるのである。
世界の古典といわれる記録映画の中に、このような作業を経ても尚、「真実」に迫り得た作品もある。ヨーリス・イベンスのサイレント時代の作品「吊り橋」などはそれにあたる。だが多くの場合、いかに作家が健斗しようと、映画としての個有の城砦をもって、その彼らの意図から独自の作業をすることは至難のわざである。日本でそれを始めて意識的に方法化し、圧倒的でチミツなイメージで資本と交換不能の映画を作り出したのは黒木和雄氏の岩波映画時代の作品「海壁」「わが愛北海道」それに私の「ある機関助手」などであろう。だがそれも極めて屈折した表現をもってであり、総資本の意図と正面から対置できたわけではない。だが、この修業時代に学んだことは、映画美という砦の作家の個有性のもち方と、「映画的真実」の虚妄性についての認識と、逆に言えば、映画のいつわりの作られ方についての裏面からみたテクニックである。擬似的な「真実」を作る映画の職人としての分身を一方の私が冷酷に解剖的に見つめられるさめた体質をやしなわされたと同時に、満足出来ない心理、更にすぐれた方法の追求への飢餓感をのこすこととなった。そもそも映画的「真実」と映画個有の美の関係は函数のような対立する概念である。真実は美しさをともなって表われることがあろうーとするのは願望であって、私の場合忘れることはない。
「ある機関助手」など自分と対象との関係を白日にさらすということを殆んどしなかった。車輪の重さ、その軸の輝き、壊れるばかりにきしむ鋼鉄のかたまりの運転室、ころがる豆タン、視力とカンによる労働、その労働の質、人間の眼と手でしか守られない安全、こうした事実の圧倒カをもって、国鉄当局の「安全運転カンパニヤ映画」に立ちむかおうとした。そのために、ロングをとれば、その相対的な心理のゆとりにつけこんで、国鉄当局が、この映画の深部にある「事故こそ必然」といいうるまでのアーナキーな交通の構造描写を「毒」として抜き去るであろうと気づかったせいである。この映画はそれなりに一つの統一した肉体をもち、完成度をそなえていたため、厳しいチェックの中でもほぼその原型を保ち得たものの映画的な方法によって私の見た「安全なるもの」の「真実」を形成したのであって、思想的に自由に国鉄当局をみつめたものではない。いわゆるPR映画の枠という傷痕をひたいに印した映画なのである。
最近になって、私は好運にも、岡山大学の映研の人々による映画塾で東宝が所有している亀井文夫氏の「上海」にはじめて接することが出来た。この映画はひろく知られるように、日本のドキュメンタリー映画の戦前段階のピークを築いたものといわれている。昭和13年の発表であるが、実際の製作はその前年であり、生々しい上海の占領地帯の記録である。翌年に「戦う兵隊」そして「信濃風土記」をとって、以後監督の地位をうばわれ、投獄される。そうした歴史が示すように、数少い戦争状況下の抵抗の仕事としてのこされている。私にとって羽仁進氏しか実際の師を得なかったが、いわば勝手に亀井氏をもうひとりの師とさせてもらってきただけに、「上海」を今頃見るだけでも怠慢のそしりはまぬがれ得ないが、批評や作品についての評価を聞いてきた。だが、私は見終えて、一つの落着に似たものを感じないわけにはいかなかった。いわゆる「映画的真実」についてである。
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この映画は
厳しい文化状況の中で厭戦思想を確実に色濃くのこした抵抗精神に支えられた作品であることは疑い得ない。私も戦中に育ったものとして、当時の映画の思想統制がどんなに完全に敷かれていたかを体験的に知っている。戦争中に戦争を描いた映画が、主な特徴として亀井文夫氏の仕事をのぞけば、「日本ニュース」によってごくハイライトを綴ったいわゆるニュース映画タッチの短尺のフィルムであり、氏の「上海」「戦う兵隊」のような長篇ドキュメンタリーはむしろ例外としており、陸海軍の情報部後援という丸ごと軍部の中枢に授けられ、おしみなく実際の軍を動員し、兵器を登場させた「一億一心」型の映画の主流は圧倒的に劇映画を軸に展開された。「ハワイ・マレー沖大海戦」「あの旗を撃て」「燃ゆる大空」といった戦意昂揚映画は、当時の新鋭映画作家、カメラマンの登場と共に次々に打ち出された。私たちはこれらの映画によって、その劇的な意図にどっぷりと浸され、映画の中で「大東亜共栄圏」のイロハをおそわり「鬼畜米英」を骨肉化し、死に急ぎの情をすら抱いたものである。そうした、戦中の戦争映画が、そのいい例が、いまの日本の特撮映画の源流といわれる「円谷映画」の「ハワイ・マレー沖海戦」である。この映画が、真珠湾を再現し、精巧な模型とふんだんの実戦用軍用機、艦艇、そして軍隊を大道具、ロケ地、エキストラに用いて、映画的にいって技術的には一つの蜂を超え、そのリアリズムはわけなく「映画的真実」のさまをとって、当時の、この成功によって、戦時中のいく多の戦争映画は、東宝特撮郡を中心とする戦争のイミテーション表現にほぼ彩りつくされることになる。そして亀井文夫氏はこれら登場前に検挙され、映画法のA項により映画監督の鑑札をとりあげられ、以後、敗戦後まで、その記録映画の仕事を扼殺されている。
この簡単な氏の足どりをみるだけで当時、「上海」「戦う兵隊」「小林一茶」等がどのように日本の記録映画史の中で重い意味をもっていたかが覗われるのだが、軍部が昭和初期、モスコワの映画大学に学び、共産主義者の亀井文夫氏を、この一連の映画の作りとして方法論に打ちかてなかったからだろうと思う。
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改めて「上海」を見、私は彼の創作過程の彼の闘いの地点を見ようとした。そしてひとつの落着を感じたのは次の理由による。彼の映画はニュース映画や戦争のハイライトでは決して成立しない映画描法として長篇ドキュメンタリーを通じて「真実」を語ろうとしたことがまずある。戦火の一応去った上海の中で、一発の実弾も発射されず一すじの曳光弾も登場しない。戦いのやすみの間のチグハグな平穏、その不安定の中に、カメラの視座をおいている。これは勇ましい話ではない。しかし、この戦争の奇妙なダレた間の中を丹念にカメラは物を言うことを求めて歩き出している。その語りの実証的な方法は、強い説得力をもち、解析的なモンタージュによって、あの外国租界のある国際都市上海のその特殊性をフルに利用し、その租界を死角として戦った中国軍の戦闘を再現し、難民と化した中国民衆を生活者の群としてとらえながら、決して易々と日本軍にかいならされるいわゆる「支那の民」でなく、むくつけの敵意をもつ中国民衆として率直に映像にのこすことに成功している。と同時に、大カッコというべきまとめ方を粉飾せざるを得ないシーン、その与えられ、ふちどられたテーマに即していることを見ないわけにはいかない。つまり、映画的「真実」としてその生きた体をつくり上げているのである。誤解をおそれずにいえば、分裂症的な映画の内容を辛うじてその映画手法においてまとめ上げるという離れわざを演じているのである。この映画は、くり返していうが、昭和十二~十三年の間に作られた作品であり、すで三五年を経過している、三五年前に、これだけの映画方法論が展開されたことがひとつの驚きであると同時に、一方、今日も、私の映画の修業時代についてふれた、テ-マ性の枠ぐみと、その映画としての「真実」とその映画の完成度の関係について考える地平からみればなおかつ、ドキュメンタリーの超えなければならない蜂が35年間、いまだ乗り越えがたいものとして依然として胸つき八丁の様を呈しているし、この課題はいまも重いのである。
この映画の魅力は、画面とをモンタージュの主知主義的な冷徹さと、軍部の検閲をうらに読みとらせるようなブッキラボーなナレーション(松井翠声)と暗示的な音楽の効果、そして、当時の記録映画としてほ劉期的ともいえる同時録音であった。そしてそれらよりももっと新鮮な衝撃はカメラ・ワークである。移動撮影、手持ちカメラ、自動車移動等をつかって、状況のもつ材質感や、おかれている状況の空間の中でどのように異質なものがふくまれているかを示すワイドな視点の描写であり、何気ないスナップにこめられた感覚的ショットである。たとえば、激戦地をトロッコでゆっくり巡回し、その一木一草まで戦争の残り火をかぐようなゆるやかな移動、平和な農村風景が、カメラの解剖にそって見るとき、水たまりが、橋を落してつくった防衛線であり、墳墓がその外景のままト-チカにかえられ、銃眼がとりつけられて、そこで執要な抵抗がつづけられていることを語るシーン、あるいは当時中立であり、日本陸戦隊の立ち入り禁止の英領租界と壁一つでつながる中国人居住区のスラムを陣地とし、食糧や水をその中立区の仲間から補給されて、その迷路を一つ一つの戦闘作戦上の重要な砲火点にかえ一つのアパートの一室一室までも抵抗戦術の上で巧妙な陣地にかえたことが、目撃者として瓦礫の町を移動するカメラでかたられる。かつての中国兵のいた家のネグラに落ちていたパンの包装紙から、それが英領租界からはこびこまれたものであると説明する。くり空けられた壁からの白い光線が逆に、かつて暗い闇を思わせ、その暗みも防護の方に変えていたことを思わせる。これらのシーンのモンタージュはまさに驚異的ともいえる。日本軍によって、ここを陥落させた栄光を背後に語りながら、この映画は、無敵といわれた日本軍の苦戦を物語り、中国兵士ののこした人間の匂いを感じさせつつ、その戦闘力が実に強くねばりづよいものであったことを同時に物語ることに成功している。その戦場のあとのシーンのフィルムに、もし、解放後、中国の手で、ナレーションが入れられれば、そのモンタージュと音楽のまま、中国の解放戦史の一シーンに変りうるのではないかと思わせる程である。上海のある地区に入場した時のパレードのシーンもそれに似ている。占領の初期に、あいついで出来る、日本人の店、バーまがいの慰安所とのシーンと重ねると、その一見のんびりした勝者の入城の光景の中で前列に日の丸の旗をふる日本人居留民の人人、そしてごくわづかに中国人の列のうしろに、まさに固くとざされた黙した貝のような顔つきの中国人がぶあつく列をつくって、日本軍のパレードをみつめている。そこには決して八紘一宇にとけむすばれないであろう生きた中国人の顔がみえるのである。又、日本軍の支配下の上海、その夜の路上で餌を求めて走る犬の数ショットは、決して、アップでなく、闇夜に小ねずみ程の大きさに映じて走りまわるのだが、それをモンタージュによって一つのシークエンスにまとめ上げた力はひとえに亀井文夫の方法の成功といってよい。
だが、これらのシーンが見事に成立しているだけに眼立つのは日本軍と日本人小学校のシーン、中国の子供と彼らの教育にたずさわる元教師らしい兵士の学校風景、そしてラストにおかれた食糧支給のシーン等に見られるどうしようもない宣撫斑的なパターンである。又、町の水道や交通の復旧の扱いも同様、占領者の「配慮」について描いた部分ではついに彼は映画的な完成度をすてきれていない。当然、自己分裂的な主題をまとめ上げることは、思想的には不能であるはずである。しかし感性的には、つまり映画的には、それは一つの流れとなってまとまり得る実例を示しているようだ。くり返していうが、この映画が、陸海軍の情報部の管理の下に作られた古典である。そこまで言うことの酷さを思うけれどもその映画的な「真実」の求め方を云々するとき、このパターンは、今日も尚問題としてある、安堵する中国人民の顔、母親の表情、そして赤ん坊の可憐な顔で終る。当時としてほ、このシーンが、この映画の中に示した作家抵抗を減殺しないまでも、時局のテーマにははまったものとしての観賞観を与えたのではないだろうか?同時録音を通じて語られる将校の話、戦闘の回顧談、空襲をして帰還後の兵士の戦果話、中国人の小学校で鬼ごっこをしている兵士、上海の治安や食糧事情について語る彼らの話、それを語る表情にみられるのは、今日も変らぬ日本人の顔であり、青年である。軍服を着た一日本人であり、その人々によって語られる「上海」である。それらのシーンがラストに至って、ないまぜられ、一つのテーマ、「聖戦」の糸によってラストに浮上し、中国人の赤ん坊の顔に至っておわる。一つの円環をとじる。これに対して、先にるるのべた批評眼にみちた数々のシーンも一つの「立体観」として残されはするが、究極にはその与えられたテーマの中に入っているかにみえる。つまり辛うじてそのことによって戦争遂行下に映画としての「市民権」を得たのであろう。
以下は、彼がその後、「戦う兵隊」において更に「上海」の方法をすすめ、「小林一茶」を作ったのち検挙されたときの理由とされているものである。
15年をへた今日、この作家の歴史は改めて見直されなければならない。今日記録映画にたずさわるものは、彼のなしおえた地点から先の峰をこえなければならないのだが、現状において、尚も「映画的真実」に依ってドキュメンタリー方法が構築されてはいないか?つまり亀井文夫氏の方法をどの地点で突破できているかである。
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最近、五年間私はテレビ・ドキュメンタリーを作る機会はなく、主として自主上映を求めている。これについて、いまそのよしあし適否を問題にしない。しかし、テレビ・ドキュメンタリー、とくに民放において、私の危惧は、「政治的に偏してはいけない」「公平を欠いてはならない」「裁判中のものについて判断を下してはならない」「公序良俗」等を云々されているとき、それにまともに歯むかって歯をくだくことをさけ、迂回線を通ってその作家にとっての「真実」を描こうとする努力がよみとれる。その際に、上記の禁止された「テーマ」をあえて映画的或いはテレビ手法的に表現する方法上の闘いに収れんされすぎてはいないだろうか?
今日、体制の「真実」に対し、主として価値観の転倒を挑発し、シチュエーションを仮設して、「真実」の構造を洗い、破壊し、もう一つの見地のあり方を示す。そこには「真実」はすでに相対的な世界にしか所在しないという強い認識がある。事実の背後には、埋もれている堅い岩盤としての「絶対的真実」が超越的にある。それを探り堀りおこすのだという静的な「真実」のみ方、そのアプローチの方法は、その事自体すでに体制側の好んでとる意識の構図であるという認識がめばえている。「真実」が、紙一重で虚構に化るという認識は、生中継であますところなく報道された「連合赤軍」事件の数日をもってしても明らかである。だからといって、つまり、一つをあらかじめのテーマにして「思想的」にドキュメソタリーを組み立てることも、また一つの虚構であろう。だからといって「真実」に対して、不可知論を相対させ、映画的な方法によって一気に主観的な作家にとっての「真実」を映画、テレビのドキュメンタリーの中に展開させることも、またひとつの映画的、テレビ的なるものへの物神化を感じないではいられない、高い技法と低い次元の視覚的感性との安易なむすびつき程ダルな作業はないのだから。
私は「映画的真実」の概念をまず疑いたい。「映画的」といった特別の修辞を附して、「真実」とむすびつけることに対して疑いをもつ。そうしたことばのもつ暗示によって、映画のドキュメンタリーが、体制、反体制ともに、どれだけの相対的な交換可能な映像をなげかけあったことろであうか。つまり、「映画による、映画にとっての真実」というものがあるとすれば、それはその映画をつくる人間とそのプロセスのもつ一つの創造上の運動の中で、「真実」なるものに対して、いかなる作業が根本的におこなわれ、いかなる道すじをへて獲得され、いかなるみつめなおしをへて、その誤りや偽りがとりのぞかれ、いかなる作家、及びそのスタッフの費任において、「映画」として提示されたかのすべてを、つまり全プロセスをまるごと明らかにするものでなければならない。そこでは不可知論でも、相対論でも、まして絶対論でもない、「真実」へのアプローチの軌跡とその法則がにじみ出るはずである。これは予定されたシナリオや、意図をときに自己批評の対象とし、ときに「否定」すらしかねない。映画の完成度や、その美学すら内から破壊するかも知れない。一つの予断をもった主調を失語症におとし入れる経過を孕むに違いない。そのカオスの渦をカメラとテープに記録し、それを改めて、映画に写しとられた現実としてみるとき、見たことのないイメージが出てくるだろう。「真実」はつねにおどろきをともなうものではないだろうか? 自分らの昨日のイメージ、あるいは撮影前のイメージを超えるものとしてでてくるのであって、「ねらったものがドンピシャリ」といった結果は、その日に「運動」なるものが皆無であったことにすぎず、それは驚きでも、発見でも、まして、「真実」へのアプローチでもない、つまり、知りつくした現実の一片でしかないのではないか? 自分たちで、撮影しながら、自分たちが驚きと衝撃をもってうけとる映像は何もハイスピードやコマ落し、赤外線写真といった非肉眼的カメラアイの駆使ではない。いわば、映画の運動、たとえていえば、作家の内部の運動、スタッフひとりひとりの運動、撮るものと撮られるものとの関係、その間の運動といった、いいかえれば、映画をとることで始まったつきあいの中で新たにとり出された現実のつながりが、一つの「真実」といった未だみたことのないイメージとしてその形をとるのではないか?そこには「弁証法」そのものが、観念的にあるのでもなく「映画的真実」が特殊に、閉鎖的にあるのではなく、一つの人間のぬききしならないうごきとその外化としてある。
映画は結果において九〇分なり一〇〇分なりの時間としてあらわれる。しかしそこには数日、数カ月の時間としてそのままある。それは「日々」であって、その日を追っての発展が当然ある。それがドキュメンタリー映画がカオスをへないわけにはいかない時間としてある。自らとったフィルム上の「現実」をくりかえしうたがい批判する時間がかぶる。今日とれたもののいささかの虚構性をも、明日洗わなければならないものとしてある。その作業は映画のスタッフ、そして映画にかかわったすべての人間が、そのフィルムに根痕をとどめることから、いささかもそのうそをゆるせず、そのかかわり方を問いあう無形のコミュニティがあるかどうかによるだろう。この無形の委員会に似た映画づくりの上の組織と運動は、それ自体、つきあいとか一運托生とかいう義理も人情もからみあったものであって、その渦の中には、体制側のもつ管理したテーマも、枠も製作の機構ももはやそこには足をふみこめぬものとしてあるだろう。そうしたプロセスを「真実」なるものをとぎ洗う作業に不可欠のものとするとき、おそらくは、そのかかわった人間全体が、群としてその映画を「真実」と錯覚し、表明してもあたりはばからぬものとなり得ているのかも知れない。そしてはじめて映画は一つの存在を主張できるものとなるだろう。