水俣病を生んだ人間差別とその荒廃『大宮高校新聞』4月11日号
水俣病や公害のことを考えるとき、必ずその予兆があことが分ります。そのきざしの根っこには必ず人間の差別と、それへの怒りすら失った人間性の荒廃があります。水俣にしても、チッソは、メチル水銀の毒性については知らなかったとか、それがアセト・アルデヒド工場の工程の中で生まれるとは知らなかった。だから過失ではないと無過失責任という法理論の逃げ道に身をすりよせていましたが、裁判の過程で明らかになったことは、それがチッソの数十年の労働者殺しつまり事故死や職場災害のたびの逆げ口上であったということです。
およそ化学産業は近々百年の人間とのかかわりしかなく、白然の生物、食物とのかかわりに比べてとるに足りぬほどの”実験”しか経ておりません。もし新技術開発やコストダウン、合理化に役立つとはいえ、猛毒や危険薬品を触媒や薬品や農業に使用する以上、徹底的な追及が使用前になされていなければなりません。サリドマイドにせよ、カネミ油症にせよ、水銀農薬、DDTやBHCにせよ、実用によってあらわれた実害によって始めて中止しています。常識ではこれを人間実験といいます。その実用期間は実は追試期間であるべきです。しかし、その時には工場はその生産に全力をあげ、その生産機構を完成させ、膨大な利潤を生んでいるので止められない-これが目下の図式です。公害を生む現代の構図です。チッソは半世紀ほど前、ドイツから空中窒素固定法の特許を買い、その後も、アイデアをすぐ生産にとり入れるということで時代の先端を切ってきました。しかしその新設備をあつかわせるに当って、工場長は「死ぬ危険もあるが、それでもよいというだけの気持があるか!」と言って、採用の時からある暗示を与えて危険な工場に配置したということです。ある労働者の証言によると「カリ工場では建物に有毒ガスがたちこめ、ガラス戸のガラスや壁のスレートを事故をよそおって破り、そこから首を出して外の空気を吸っていた…。」又、水銀工場での水銀漕の掃除のたびに、マスク一つで手ぬぐいをかぶり、食堂に入るときには、髪や首もと、服をはらうと、食卓の上にキラキラと水銀の粒がこぼれた-ある工場の作業は普通の服は二日ともたずやけ焦げた。そこでフェルトの服を支給された。だが体中がかゆく、熱くなるので、一日に数回、服をぬぐ間も惜しく、そのまま水風呂に飛びこんだ……そして労働者の体に異常があっても、すべて外の原因にされた。-これらはチッソの第一組合のパンフに「裁判の記録」として一言一句再録されている証言です。
つい先頃のチッソ石油化業五井工場の大爆発事故が、第一安全弁、第二安全弁のスイッチもともに開けたままになっており、それは忙しい中での手間のやりくり上、その方が操作が手軽だったからという。ミスを承知のミスです。これがチッソの労働者=人間観そのものでなくてなんでしょうか。
明治の末、漁村に工場を新設した東大出の秀才、野口初代社長は地元出身の労働者を大きく差別した。社員=学歴のあるものには銀バッチに特製社宅、そして、食堂まで一般と区別した。地元の労働者は、小学卒、十人に一人という難関をパスして、まず「ボーイ」と呼ばれ、社宅の便所掃除、奥さんの買いものの手伝い、つまり下男を二、三年やって、やっと準備工、給料は日給で一日五十銭、ボーナスは社員二カ月~五カ月というときにも、日給の十日分。そうしたムキ出しの差別に慣らすことが、生死の境もあやうい工場で牛馬のように働かすための精神的トレーニングであった-ということです。こうした戦前史がそのままどこかに今日のチッソと、地元漁民、患者の関係を規定しているのだと思います。水俣病そのものの恐ろしさも勿論ですが、こうした病気を今日までごまかしとおどしでかくしつづけてきたチッソの差別、そして現実を受け入れてきた地元の人々の人間的荒廃、それがないまざって、階級闘争よりもっと深刻な生きものの闘いにまでなったのです。
海の汚れは大正時代からで、その都度、めぐされ金で処理してきた。その時から、自然の荒廃に耐える漁民の負の心理、漁民の荒廃が前駆状況としてあったと思います。したがって水俣病は必然的に法則的に発生したのであり、決して過失ではなかったのです。(一九七三年十一月二十日)