杉並上映会『パルチザン前史』と『留学生チュア・スイ・リン』
土本典昭
こんばんは。どうも今日は長い時間、映画につきあって頂いてありがとうございました。『留学生チュア・スイリン』は時々見ていたんですが、何年ぶりかで『パルチザン前史』を見まして、ちょっと呆然としています。つまり『パルチザン前史』を作った時代には片言隻語まで具体的にイメ-ジがずっとつながって見られたんですが、いまから27年前の映画で、あの時の時代背景から時間がたっておりますから、いろんな学生の用語にいたるまで注意して聞かないと聞きわけられないようなところも私自身にもありまして、あの映画の時代と今との時間のへだたりを考えたさせられたわけなんですが、十分にお話できるかどうかわかりませんけれども。
今日出ました質問を紹介します。
質問「撮影しようと思った動機はなんですか」
質問「いま滝田氏はどうしていますか」
質問「チュア・スイリンのその後はどうですか」
質問「『パルチザン前史』の主なメンバ-のその後はどうですか…、“革命ごっご”はいまどう思いますか」
質問「『パルチザン前史』は『水俣』などほかの作品と違って語りにくいところが多々あるとお察しします。よろしければ四半世紀たった現在、お感じになるところを監督にお話頂きたいと思います。ちなみにこの映画に映っている学生の一人は私の大学の恩師でして見たくないと頑なにいっていました」
たしかにこの質問をなさったお気持ちはわかりますし、「革命ごっご」という言葉もまんざら当たっていないわけでもないと思いますけれども。頭を20数年前にフィ-ドバックしてみますと、『留学生チュア・スイリン』を作った時代から『パルチザン前史』の時期までに4年たっていますね。その間に、全共闘の時代がありまして、『留学生チュア・スイリン』から『パルチザン前史』の間まででも、大学に対して若いエネルギ-のぶつかり方に凄まじい変化がありました。『パルチザン前史』を撮った年の一月には東大全共闘が占拠していた安田講堂から強制的に排除されまして、いわゆる東大落城があった年で、関西は一拍おくれていわゆる全共闘運動の最後の幕をひかされるという時期だったと思います。
『留学生チュア・スイリン』について
その時代に私はなにをしていたかといいますと、『留学生チュア・スイリン』の1964年ころと『パルチザン前史』の1969年ころは一番作品を次々に撮っていた時期です。テレビのドキュメンタリ-も撮っていました。私が映画を撮り始めました1960年代、映画人としてなにを撮らなければいけないかを真剣に悩んだ時期がありました。私は岩波映画で自分の仕事を得て、もっぱらPR映画の制作に関わってスタ-トしたもんですから、よけい自分自身にいろんな思いがあって、どうしても社会参加した映画が撮りたいと、少なくとも人間を素材とするドキュメントを撮りたいと、1960年代いっぱいかかって輾転反側しながらそういう題材をもとめていました。『留学生チュア・スイリン』を作ったときはテレビのドキュメンタリ-番組をもっぱらやっていた時期でした。
日本テレビのノンフィクション劇場でして、これは大島渚が『忘れられた皇軍』などを撮りましたが、比較的私に体質があっていたもんですから、『留学生チュア・スイリン』も実はテレビの番組として私は企画をしたんです。しかし映画のクレジットタイトルでは企画は『チュア君を守る会』になっています。ノンフィクション劇場は、私が題材を探してきて、それを企画にあげてOKされれば作品に仕上げていくという、わりと作家を尊重してくれる番組だったものですから、私はいろんな企画を考えました。その中に『水俣の子は生きている』も含んでいまして、それは作ることができました。
『留学生チュア・スイリン』は、私がたまたま朝日ジャ-ナルを読んでいたら、国費を打ち切られたマラヤの留学生がいるという記事がありました。打ち切られたことで非常に苦難の道を歩んでいる、けれども教授会の対応は非常にずさんだったという、たいへん突っ込んだ評論でした。これはぜひフォロ-しなければいけないということで、企画をたてながらチュア君を探したんですが、チュア君は居どころを絶対に人に知られないように半分もぐった生活をしていたんですね。英領マラヤ(現シンガポ-ル)当局から、指名手配されているような雰囲気がありまして、どこで拉致されるかわからない。拉致されて本国に強制送還されたら、彼自身がどう処分されるかわからないということで、日本人を信用しないというよりも、日本人に対して心を打ち明けませんでしたから、彼は居所をかくしているような状態でした。その彼を助けていたのが、いまでもアジアの問題に多く発言している田中宏氏でした。いまは一橋大学の教授だと思いますが。彼がチュア君のことを支えているとわかりまして、彼も留学生問題をやるのはチュア・スイリンが始めてだったわけで、非常に初々しい青年でした。田中氏とチュア君を絶対にテレビで出そうということで煮詰めましたが、撮影開始の前日になってテレビ局から検討した結果『留学生チュア・スイリン』は作ってほしくないといわれました。いま文部省と訴訟になっているから、その裁判の一方に組みするような作り方をしたのでは問題がおきるから、この問題をテ-マにする番組は作らないでほしいと、明日からのクランクインは止めてほしいということです。
その当時まだ映画界全体としては、そういうことに異議申し立てをするような作家の運動はゼロでした。まして自主制作、自主上映という運動は、戦後しばらくの間は東宝を中心として劇映画の独立プロ運動があったんですが、その後、十年ぐらいの間はなにごともなくて、記録映画の世界でもまったくありませんでした。後になって、小川プロや青林舎が水俣や三里塚を作り始めますが、そういうこともまだ起きていない時期でした。私は作るなといわれたことに対してどこにも話をもっていきようもないですから、友人のプロダクションにカメラを貸してほしい、フィルムを使わせてほしいとお願いしました。日本人に対して絶望して不信感をもっているチュア君が、田中宏さんと相談の上で映画で身をさらしてもいいと決意しているのに、私がノメノメとテレビ局がダメだといったから、残念ながらやめますといったのでは話にならない。ですから、自分たちスタッフは全部ボランティアとしてつくると、そのかわり機材とか一切贅沢は申さないから最低限撮れる状態を援助してほしいと、藤プロダクションのいまも元気で活躍しているプロデュ-サ-の工藤充氏に頼みました。彼は因みにいいますと有名な羽田澄子さんのご主人で非常にしっかりした方です。
この映画は工藤氏の了解のもとにスタッフを集めて、我々の手で仕事の合間をぬってチュア君を撮り続けたフィルムでつくられました。のちには60年代の自主制作、自主上映運動のぶりっかえしの最初作品が『留学生チュア・スイリン』だといわれますが、そういうように目的意識的に自主制作、自主作品をやろうと思ったわけではありません。しかし、大変に困難な条件でしたけれども、ともかくチュア君の決意に応えたい。フィルムはどういうものが出来るかわからないけれど、チュア君がいずれシンガポ-ルに帰る時にもっていってもらいたい。チュア君が自分の国に帰って、文部省からの圧力を受けながら、このように自分は勉学してきたと言えればいいだろう。だから誰に見せるというのではなくてチュア君に差し上げるというようなつもりでした。機材などもいいカメラは使えませんから、初歩的な16ミリカメラで長まわしもできない、もちろんシンクロも出来ないカメラでしたけれども、出来るかぎりのものを撮ってお渡したい。作りかたにはいろいろ難があるかもしれないが一生懸命つくってチュア君に差し上げたいと思って作りました。それが1964年です。
流れた『チェ・ゲバラの伝記』の企画について
それから私はテレビで『水俣の子は生きている』を作ったり、それからちょっと毛色の変わったフィルムですがシベリアを横断するというフィルムを作っておりました。それは『シベリア人の世界』というフィルムです。それを撮りましてまもなく、私の友人の黒木和雄氏からキュ-バと合作でキュ-バの実情を反映した劇映画を作ろうという話が出まして、その映画のプロデュ-サ-として手伝ってくれといわれました。それは『パルチザン前史』を撮る一年くらい前になりますが、キュ-バとの合作『キュ-バの恋人』のために多少の力を貸しました。そのときに黒木監督の作る劇映画と並映する映画としてして私は一本のフィルムを念頭においていました。それは映像による伝記『チェ・ゲバラ』をどうしても作りたいということでした。キュ-バのイカイクIKAIC(映画局のような機関)に口頭で申し込んだ段階では、キュ-バにあるチェ・ゲバラのフィルムをできる限り出しましょうということでした。
チェ・ゲバラはキュ-バにおける独立した武装闘争をしきったコマンド(指揮者)です。キュ-バの政府軍の中で建国時代にいろんな大臣も担当してたいへん有名な方だったんですが、私がキュ-バにまいりました1968年ごろには彼はボリビアのゲリラを組織していました。キュ-バではだいたい自分のやることは見えた、なによりもラテンアメリカの革命闘争の根拠地を作らなければいけないということだったと思うんですが、彼はボリビアにいって命を失いました。その彼の軌跡を映画にしたいと思ったわけです。その時にいわゆる革命闘争における軍事問題の武装の問題というのは、チェ・ゲバラの本を読んだり、キュ-バ革命を僕なりに読んで、革命に武装はどうしても合い伴うものである、それなしには権力は獲得できないというようなことを、チェ・ゲバラの問題に関しては非常に切実に思いまして、そして彼の本を読み、彼のフィルムなどを集めていました。
キュ-バで何時間もあるフィルムを一コマ一コマみながら、ゲバラの伝記にふさわしいフィルムを集めたんですが、あまりに丹念にいろんなシ-ンをピックアップしたために、キュ-バの映画作家から自分達が作るべきテ-マのフィルムを日本の映画作家に根こそぎ提供するわけにはいかないと、あけすけにそういわれました。私もまったくその通りだろうと思いました。私がピックアップしたフィルムはキュ-バにはたいへんに参考になったそうですが、キュ-バから一部ならいいが全部お出しするわけにはいかないということになって、その企画はお流れになりました。
『パルチザン前史』について
黒木監督の『キュ-バの恋人』は、リバイバルしたらいいと思うんですが、津川雅彦がフ-テンの寅さんみたいにキュ-バに舞い込んで、キュ-バの先端を生きているような女性ゲリラ志願者と出会って、珍問答をしながら魅かれて行くという非常に不思議な話なんですが。その劇映画は出来ましたが、それと並映して作ろうと思った『チェ・ゲバラ』はついに出来ませんでした。そのうち日本で学生運動は澎湃としておきてきました。私などは政治的な関心がないわけではないですが、学生運動の流れについてはよくわかっていなかったですが、チェ・ゲバラの映画がだめになったことで同じ主題を日本で撮ってみたいと思っていました。その当時私の周辺には、土本がそういうものを作るというので非常に多くのサポ-タ-がいました。雑誌『情況』編集長とか学生運動にくわしい朝日新聞の記者とか『朝日ジャ-ナル』の担当者たちでした。そういう人たちから日本で映画を撮るならば、とてもおもしろいグル-プがあるからそれを追ってみないかと言われました。それは京大で「反大学」を組織しているグル-プで、関西で最小の人数の集団でしかないけれども、それだけに言っていることは非常におもしろい。それからどうも軍事ということも真剣に考えているらしい。きみがチェゲバラを撮りたいと外国にいろんな範をもとめていたかもしれないけれど、日本にそういうものがあるなら撮ってみないかということで、2~3か月リサ-チが続きましたけれども、ある日滝田修と名のっていた竹本信弘氏に会いました。そして私がチェゲバラのいきさつから全部話して、日本における現在の学生運動の中で非常に私もおもしろいと思うあなたがた集団を撮らせてくれないか、ついてはあなた自身を撮らせてくれないかという話をしました。私はなかなか引き受けないと思ったですが、話して一拍おいてから、滝田は「それはおもろいから撮れ」というわけですね。俺は撮られてもかまわないし、全然隠す必要もないんだ。我々は大衆的にやっているんだから、どうぞ撮ってくれというようなことになりました。それで京大全共闘の中でとくに文学部を中心に生まれていた「京大パルチザン」というグル-プを撮ることになりました。カメラマンの大津幸四郎と私を、彼等は京大の学内に築いたバリケ-ドの中に入れてくれまして、カメラをもったまま学生といっしょに毎日生活するというところから撮り始めました。
『パルチザン前史』を撮った動機と聞かれれば、私が学生運動を見続けきて権威のある見方が出来たわけではなく、特に詳しくもなかったですが、「京大パルチザン」と名乗る京大のグル-プに接触でき、特に竹本との間に信頼関係が出来たといいますか、そういったことから中で撮影を始めました。これが既成の警戒心のある集団でなくて、みな元気がよくて、映画でごらんになったような若者なんですが、私たちに対してもほとんど警戒心がないんですね。それだけに彼等を裏切ってはいけないということで、彼等と生活をともにし、いっしょに酒をのみながら、これから大学の中でどうしていくのか、その時いろいろな政治的なプログラムがありましたので、佐藤首相が訪米するとか翌年には70年安保があるとかいろんなことの流れのなかで、京大はなにをするのかという彼等の話を毎日毎日日記のように撮っていったというのが『パルチザン前史』です。
「前史」とつけたのは、私は「パルチザン5人組」というのはアイデアとしてわかるけれども、非現実的ではないかとずっと思っていました。この映画に登場するいろんな話はそのままみなさんに伝えていますが、学生運動の中から共産主義的な労働をし、「組」的な団結をもち、5人を単位とした武装集団をじんわりと作っていく以外に我々の行く先ないという考え方は気持ちとしてはよくわかるし、心の響きかたはするんですが。しかし、実際にもう一つ見てみますと、別な学生からも「義理と人情でいままで培ったつき合い以外に闘いの絆はないわけだから、それを延長していけばパルチザン5人組的な形勢も考えられないことはないが、自分はとてもじゃないけどマンガチックでやってられない」という意見も出ました。その話はなかなか聞き取りにくかったと思いますが、「やはり暴力も考える、その暴力についての「組」的な団結、闘う人間としての武装集団というものを考えるけれども、なかなかそうはならない」という学生に対して、滝田修がしきりのその形成を説くわけですが、滝田自身もどこか一発、自分の言葉がすべっているんではないかという感じはしていたと思います。
フィクションとなってしまった最後のシ-ンについて
今日みていて、この映画で一つフィクションがありました。これは最後のシ-ンです。最後に琵琶湖のほとりで何人かが水路工事をやっています。これは京大闘争が終わったあと残ったパルチザンの一部隊だったわけです。それに滝田は「組」的には加わっておりません。私がその部隊を撮るといったら、では俺も出なければいけないなというんで、私もあいまいにそうだなといっているうちに、ロケ-ションに合わせて彼は3日ほどいって働いたわけです。彼以外は半年、一年とあそこで働いたと思いますし、いろいろ「組」的な団結もしたグル-プですが、滝田自身はそうはなりませんでした。ならないと思って撮ったわけではなくて、ひょっとしたら彼もそういう道を進むのではないかと思いながら撮りましたけれども、結果的には一つのフィクションになっていると思います。そうならなかったという意味で一つのフィクションになってしまったと思います。これは映画を作った人間として忸怩たる思いがあります。ただこの映画を見ながら私が思いますのは、京大の学生運動が終わって行くなかで出口をもとめた一つの選択として、「民衆の中へ」という発想に単純化できないと思いますが、人々のなかに入って働きながら、学内で作り上げた人脈と考えかたを煮詰めながら、皆でなんかやっていくんだということについては、僕はそうあってほしいと思ったところがあって、それによりそって滝田修の話を聞きそれを構成したと思います。その意味ではそうあってほしいという僕の思いがわりと色濃くこの映画には出ているかなと思っています。その点ドキュメンタリ-としてはどうだったろうかと自分でも思いますけども、あの時としては目一杯のそこのところで彼等の動きをつらぬく赤い糸を描きたかったといま思います。
いわゆる滝田修について
滝田については年配の方で学生運動に関心のある方はおわかりだと思いますけれども、このフィルムを撮って2年後に彼は全国に指名手配されます。1971年8月に朝霞の基地ので自衛官が殺されるという事件がおきます。学生運動の一つの軍事組織であった赤衛軍と名乗る人達が、兵器を盗むということだけでは済まなくて出会った自衛官を殺してしまったという事件です。そのバックにいる教祖的な黒幕という意味で滝田が全国指名手配を受けます。この指名手配は当時は相当きびしいものでした。指名手配の気配を察するや滝田は地下に潜行します。そして関西を中心に彼は潜行していたんですが、半年もしないうちにどまんなかの東京に出てきます。いまだから申せますけれども彼のたよりとする一人は私でした。私はそういうことには不慣れですが、日頃はおしゃべりなくせに、言ってはならないことはいわないという多少の心掛けがありまして、彼を数年間はフォロ-しました。彼はその潜行を延べ10年間続けるんです。そして捕まってから判決がでて自由な身になるまでにさらに6年数か月かかっているです。彼は1940年生まれですから捕まったのが32歳、潜行10年数か月、未決通算6年数か月、全部で17年、権力に逆らい通した。最後まで無実を主張し殺人幇助の罪名で有罪になった。5年の刑でしたがそれ相当を長い未決の通算で充当され、判決からまもなく長い未決の生活を終えて出てきました。出てきた時が50歳です。彼がなぜそんな長くがんばり通したのかというのはいまだに良く分かりません。彼自身のいうところによれば、僕のことをドロちゃんというんですが、「ドロが俺の映画を撮らなかったら俺の人生は変わっていたかもしれない」と、これは嫌味ではなくて冗談をいうんですが。そもそもこの映画が出来てからというものは、彼は全国の全共闘の人達のところへ映画についてまわって話をしました。彼自身が過激派の教祖といわれながら、すこしも物怖じしないでどこでも話すということで、彼はある一時期の運動のなかでの大変な才能のあるアジテ-タ-になったわけです。そのことを彼は責任としてとらえ直した場合、自分はどんなことがあっても朝霞事件の根本のところにおける無罪性を権力に売り渡すわけにはいかないと、とことんまで骨をへしおられるまで彼は潜行し、がんばるわけなんです。誰も助けない、誰も助けないといったら嘘になります-、多くの人に助けられましたけれども、かっての仲間たち自身が警察に追われていますから、仲間がちょっとでも動けば芋ずる式にやられるわけで、京大パルチザンの連中は彼の逃亡には手を貸すことが出来ませんでした。そういった意味では非常に孤独な中にあって、彼は時には閉所恐怖症になったり、誰にも会わないで籠っているわけですから、いろんな屈折をしましたけれども、10年間警察の追跡を振り払って逃亡を続けます。その逃亡の中で自分で何冊かの本を書きます。自分はなぜ闘うのか、中間報告という形で逃亡の記録を書いたりして、そして逃げ通しました。潜行10年をこえあらゆる点で警察の包囲が狭まったと思いますけれども、彼はほとんど捕まるのを覚悟で自分の隠れ家のそばの公園で、自分を世話してくれる女性とまるで捕まるのを待つかのように時間をつぶしながら逮捕されていきます。最後の瞬間まで公然と首をまっすぐにしてすごしていた。私はその彼をずっと見ていまして、映画に出てあれだけのことをしゃべった、自分は人を惑わしたかもしれないし、人に影響力を与えたかもしれない自分がどう生きなければいけないかについては、彼はそうはいいませんけれどもやはり筋を通そうとしたと思います。それがちょっと周囲にはわかりにくくて、何をお前は逃げているのか、逃亡の意味はまったくないのではないかといわれたりしますけれども、彼はそれには耳を貸さないでがんばりました。強盗予備は10年で時効といわれていたので10年まではがんばったんですが、それが殺人幇助に切り替わりまして、あと何年逃げていいか分からないというようなことで、彼も考えるところがあって捕まる道を選んだと思います。しかしながら一貫して映画にでた責任もふくめて、彼の生き方を見せてくれたと僕は思っているわけです。
記録映画はその時に全く没入して撮りますけれども、撮ったときには2~3年間見てもらえばこの映画を作った役割はすむだろうぐらいのつもりで作っているんですね。これが27年たっていまここで見られて、そしてその登場人物はどうやっているかと、あの当時の革命的だと思っていたようなややマンガチックなことについてどうだろうかと聞かれますと、たしかに今日見ていてもどこかでマンガチックなんですね。本当のところ確信ももてるはずもないような状況の中で彼自身の言葉を紡いでいかなければいけない、そのことで闘っていかなければいけない、その闘いが出来るかといえば次々に不発に終わっていく、そうこうしているうちに京大パルチが衰弱していき、さらに彼が地下に潜るというような形でうまくいかないわけで、その映画を作った時の私の思いから考えれば、いま見ると私自身がつらいところがあります。この質問の方が書かれた「革命ごっこ」という言葉もそれほど悪意とは思いません、そういうところもあったかもしれませんが、私には彼の17年というものが重とうございます。
ちなみに彼が現在なにをしているかといいますと、私は電話したり会ったりしますけれども、具体的にはなにをしているかあまり正確には申し上げることが出来ません。ただ一つ申し上げておくのは、彼は17年の空白をへて世の中に出て、本当に社会とのつながりをズタズタに切られておりました。これという職業的な技術も持っていませんし、今となっては政治的な組織との関わりも持てません。獄外に出てから2年3年と苦しんだと思います。その後、もと京大パルチザンのメンバ-であった友人のプロダクションでテレビドキュメンタリ-の企画を担当します。自分で企画を探して売り込んで報酬をもらうことを始めました。それは娑婆に出てから3年たってからのことです。彼はアジアの問題をやりたい、日本の現在の資本の進出をこの目で見てきたいとタイからインドネシアから歩いてきて、日本のODAは間違っているし、日本は新たな形でアジアに苦しみを与えている、そういった番組を作らなければいけないといっていました。そういう仕事が次々に出来ているかどうかは別として、現在テレビの企画をペンネ-ムでやっています。みなさんがごらんになった中で彼の番組があったかもしれません。『パルチザン前史』に登場した人たちはそれぞれいろんな仕事についています。京大の教授になっていった人、梅棹忠夫さんの系統の研究機関の教授になった人、京都のその他の大学の教授になった人、その他の分野で活躍している人もいます。楽な道ではなかったですがそれぞれに切り開いて、自分たちのパルチの時代をどこか梃にしてやろうとしておられると私は理解しております。私がもっている彼等の情報が少ないので言い切れるものではありませんが、あの時代の自分達のしてきたことを反芻しながら、いまがんばっておられるのではないかと思っております。
チュア・スイリンについて
『留学生チュア・スイリン』について申しますと、チュア君はその後千葉大学を卒業しまして、大阪市立大学工学部の造船科を出ましてから国にかえりました。私がフィルムをもっていけといったんですが、もっていくもっていくといいながら持っていきませんでした。現在はシンガポ-ルにおいて、海上で石油をとるときに櫓を組みますが、そういった方面の造船の技術者になっています。直接に船を作る仕事ではないんですが、南沙諸島などで今後考えられる海上石油基地の、シンガポ-ルでベテランの技術者になっていると聞いています。彼は日本における『留学生チュア・スイリン』の時期の学生の支援に対しては非常に感謝していまして、そのことは彼の日本に対する感じかたをいまもって非常に親日的な部分を作っていると私は思っております。一番最近あったのは十数年前で、風のたよりで聞いたことを申しましたので現在はどうかわかりませんが、私としてはかかわってよかったと考えています。
再び『パルチザン前史』について
非常に気になる添え書きがしてある質問ですが、「この映画に登場している学生の一人は私の恩師で、『『パルチザン前史』は見たくない」といわれたと書いてありますが、一つ思い当たることがあります。京大パルチザンの連中を全部集めて完成試写会を京都でやったことがあります。その時にさきほど申しましたことを含めてみんなにあるパニックが走りました。つまり最後のシ-ンで共産主義的労働団パルチザン5人組が出来ているように思われるけれども、琵琶湖に一か所そういうものがあるだけで、実際には出来ていないのにこの映画は出来ているように撮れているではないか。この映画の最後のシ-ンはフィクションだという批判がその時からありました。私にはそのことについてはわかっておりますから、それはフィクションだと申し上げたんですが、そういった当時の京大パルチザンの方の印象として、だいたいのことはその通りかもしれないけれども、最後の勘所の共産主義的労働団というものは実現されていないのだ。ですから、描かれた集団の当事者たちに、ともかく映画全体がもう一遍問われてしかるべきだという感じをもっておられる方がいて不思議はないと思います。たぶんその先生が見たくないといわれた理由を忖度すれば、ラストのフィクション性にあったかなと思いますし、今日ごらんになって頂いた方にも、うどんをすすりながらああいった労働を続けていくかのように映画が終わっていることについて、私はひとことお詫びしておかなければいけないと思いますが、実際には最後に撮り終わったシ-ンで、その後どういうことになるかということについてはわからないまま編集構成したというのが偽らないところです。
ただ司会の工藤さんからおっしゃっていただいたように、ある時期の学生たちの青春特有の伸びやかさとしたたかさと苦渋と、闘いの手応えも、それを失っていく悲しみもこの映画はお示ししたのではないか、その意味では感傷的になることではないんですが、あの時代を考える一つの素材として受けとっていただければたいへんありがたいと思います。
工藤
どうもありがとうございます。春のショア-の上映会、秋には東京水俣展の大成功で新しい一つの時代を僕たちは迎えているなと考えているんですが、土本さんが上映活動を含めて今後どのようなことを考えているかおられるかお聞きしたいと思っています。
土本
水俣東京展は四年かけて作りあげたもので、映画を作るぐらい力がいったんですが、微力ながら私もそれをやりまして、現在はそれをやった意味がどのように水俣に返っていくだろうか見ているところです。水俣の問題だけで東京で大きな展覧会ができるとは、水俣の人達は考えられなかっただろうし、自分達はまだ東京の人に思われていたのかというような気持ちも湧いたと思います。私が東京展で水俣病で亡くなった人たちの遺影を集めて東京で発表しましたので、それが水俣にどういう影響をもたらすだろうか、つまり水俣の人達がこれからは自分の水俣病を隠さないで世の中にだして、教訓として水俣のことを明らかにしていこうというふうに展開してくれることを望んでおります。そういうことをきっかけにしてまた水俣のことを考えていきたい。いまはわりとゼロの地点に立っているという感じでおります。