書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 まえがき <1995年(平7)>
 書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 まえがき 

 この二年間、つまり一九九二年の夏から、私はオホーツク海にとらわれてきた。その間、北方領土に最も近い、その返還運動のシンボルの町、根室をはじめ北海道のオホーツク沿岸を夏と秋、冬の三季にわたり調査し、一九九三年にはロシア領オホーツク海の沿岸を一か月歩いた。
 私の三十数年間の記録映画の仕事のうち、なかばは水俣病事件についてであった。主な舞台は九州、水俣。琵琶湖ほどの面積の内海・不知火海の記録である。
 そしてここ数年は水俣・不知火海とオホーツク海、南北に目配りしながら地球と海の将来について考えた。水俣病により、私たちは単に「海が壊され、埋められ、傷つく」のとはまったく質を異にする「海の病む時代」のきざしを不知火海に見た。
 オホーツクは大海とはいえ、ロシア人はこれを”内海”と呼ぶ。そして帝政時代から”宝の海”と称してはばからない。地図で見比べると、オホーツク海をたわわなぶどうの大きな一房とすれば、不知火海はその一つぶの種核ほどしかない。その不知火海を見慣れた眼には、オホーツクは巨大で復活のエネルギーをたたえた海、まだ、すべてまだ間にあう、いわば可能性を残した海に思われる。だが、同じく閉ざされた海である。資源のかたよった乱獲、密漁の横行、さらに核廃棄物の墓場となっている今、この海もまた病む日を迎える。一旦病めば、とりかえしがつかないであろう。
 オホーツクの沿岸漁業に限っていえば、日本のそれより数十年遅れていた。ロシアの漁業者でミナマタ病などを知るひとはまず皆無といってよい。海の病む時代は想像すらしていない。そこに救いも憂いも覚える。
 一記録映画作家の私は映画を作るために見、知りえた人物と自然を語りたい。物ごとを鳥かん図的に見ることは欠かせない。が、私はやはり地を這う虫の眼のような見方しかできない。映像としての細部の発見を書きたいのである。北海道とオホーツクという魅力のある対象に出会ったからだ。北方領土からオホーツクへ、その遍歴の意図を、この二年間をリアルタイム的にお伝えすることでお分かり頂ければ幸いである。

 一九九四年一〇月