書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 道東編 北方四島に目をむける
はじめに
北方四島の問題を意識しはじめたのは、近々この数年である。ニュース源は新聞からだ。
二十数年前、記録映画『シベリア人の世界』を作ったことから、以来、私はシベリアに関する新聞記事のスクラップを続けてきた。このパソコンの時代、データベースからスピーディーな検索ができる昨今、切抜きは手仕事もいいところだが、記事の大小、見出しの惹旬、地図、写真などが視覚的に見られるのがありがたい。
そのスクラップに、にわかに北方領土問題が登場してくるようになったのは、一九八五年三月十一日、死去したチェルネンコ旧ソ連邦書記長にかわってゴルバチョフ氏が後継者になってからだ。十月には、いわゆるペレストロイカをふくむ新綱領が採択され、十一月にはレーガン米国大統領と、ゴルバチョフ大統領との首脳会談へと、国際緊張緩和のうごきが一気に加速した。それにつれて北方領土の返還問題が浮上してきた。
八五年十二月末、新書記長のブレーンといわれるエフゲニイ・プリマコフ世界経済国際関係研究所長が訪日した。その折、一九五六年の、鳩山・ブルガーニン両首相の時代の日ソ共同宣言のうち、死文化していた領土問題に触れ、彼の方から「歯舞、色丹島二島の線でならあり得る」と示唆した。翌八六年夏には、この二島に限り、元島民の墓参が十一年ぶりに認められた。国後、択捉島への墓参はさらに先送りされたが。
いらい、北方領土関係の記事は増えた。同時に日ソ漁業交渉の軋轢も紙面に登場した。いわゆる二百カイリ時代の到来によるものだ。八六年四月に妥結した日ソ漁業交渉によってソ連の二百カイリ内の日本に対する漁獲割当てが一挙に四分の一に減らされた。オホーツク海でのスケトウ漁は打撃を受け、減船があいつぎ、漁業基地釧路、根室の疲弊が伝えられた。その記事も北方領土と平行して増えていった。
八六年七月、ゴルバチョフ書記長は極東ウラジオストクでの演説のなかで、アフガンおよびモンゴルからのソ連軍の部分撤退を公表するとともに、国内外を問わず立ち入りの厳しく制限されていた極東地域の”解放”を予告した。ソ連軍のアフガン問題解決の意思表示は私たちにあらたな時代を予感させた。ソ連のアフガン進攻が日本の「北の脅威論」の論拠であり、東西冷戦状況の固定要素のうちに大きなウエイトを占めていたからだ。
私はソ連邦に対して一貫してシンパシーを持っていたが、このアフガン問題には困惑を隠せなかった。ただ、メディアが反政府ゲリラ側にのみ軸足を置いて報道していることには不満だった。幸い旧友の高岩仁氏(カメラマン)の勧めを受け、首都カブールを二度ほど訪問したうえでアフガニスタンとの合作映画に着手した。
記録映画『よみがえれカレーズーアフガニスタンのひとびと』は、一九八八年、ソ連軍の撤退時からロケし、その完成まで二年近く費やした。これが半ば命取りの仕事になった。
私事になることをお許しいただきたい。私はその映画がほぼ完成のころ、アル中特有の発作に襲われた。アルコールが切れると思考力がプツンと途切れるのだ。四十年の飲酒の仕上げに、アフガンでウオトカを浴びるように呑んだ報いだ。真性アルコール中毒と肝炎で入院、私は死に損いのアル中患者として還暦を迎えた。妻の持病も悪化の一途をたどり、間もなく他界した。その後スクラップなども大幅に整理したが、「シベリア」と「北洋関係」のスクラップは捨てられなかった。
ある新聞記事からはじまった
本題に入りたい。この北方領土問題にかかわったのは一つの記事からだった。
一九九二年、六月十七日の朝日新聞紙面に、「北方領土映画、合作どうです」というロシア映画監督セミョーン・アラノビッチの呼びかけが載った。「私も返還論者」と見出して、「ロシア人が今住んでいる島が歴史的には仮のすまいである事を島民の側から描きたい」。北方領土返還は「私だけでなく、多くのロシアの知識人が支持している」。この映画で、日本人元島民家族を描くために、日本との共同製作者をさがしているというものだった。
氏はたまたま大阪・東京で聞かれたサンクトペテルブルグ(旧レニングラード)撮影所の映画を紹介する「レンフィルム映画祭」に招かれていた。氏の記録映画『私はスターリンのボディガードだった』も公開され、話題になったが、その機会に発言されたものだ。
その秋にはエリツィン・ロシア大統領の来日も予定され、ゴルバチョフ氏の失脚以後、初めての北方領土返還についての発言が待たれているだけに、この企画は時宜を得たものに違いなかった。しかし、同業者として気になった。たとえ氏が返還賛成論者であろうと、そのレッテルを貼ったまま、極東・北方四島に入れるかと懸念した。
北方四島の行政統括者、サハリン州知事フョードロフ氏は”返還反対” 論者で、ときには「極東共和国」を提唱し、コーズィレフ外相らの”二島(歯舞、色丹島)返還”すら認めていない。アラノビッチ監督はサハリン州政府の了解を取り付けているのか、フョードロフ知事がもし日本側の新聞からこの企画を知ったらどうなるか、ひと事ながら気が揉めたのだ。私の映画『シベリア人の世界』のささやかな体験からいっても、地方の中央への反発は燻っていて、案外こうした些事からややこしくなりがちなのだ。だが、この時、その協力者として私に声が掛けられようとは思いもしなかった。
話は知人のプロデューサーY氏からきた。共同演出でやってほしいというものだった。その時にはすでに、アラノビッチ監督は日本側にことを託して帰国していた。ロシア側では撮影は二か月後の九月から入る手順で準備を進めているという。まだ時間はある、入口で断る話ではない。私はY氏に自分の提案をした。
合作映画への提案・現地調査行
共同演出にあたっての私の条件は大雑把に言って次のようなものだった。双方のスタッフでロケハンを共にする事、レンフィルム側も日本・根室ロケに同行し、日本側スタッフもロシア・北方四島ロケに参加するという”相互主義”の提案だった。構成・編集も共にする事。もし合作映画の特性を表現するなら、日本側は「北方四島返還」の線で、ロシア側は、ロシアの多数意見である「返還反対」の線でスタートしたらどうか。撮影のプロセスを経て、かりに予期しない「第三の道筋」が見出せたら、合作記録映画として、まだ見たことのない類いの映画になろう・・・。
だが、困ったことに、事前にアラノビッチ監督と話し合う機会がない。東京とサンクトペテルブルグとの電話回線の状態は想像以上に悪く、日本側からのファックスへの返事も滞り、時間だけが空転していった。
「日本側の撮影は日本のスタッフで」というのがアラノビッチ監督の意向である。日本側としては元島民をはじめ現地根室周辺の調査だけは事前にやっておく必要に迫られた。つまり調査に限定して仕事をさせてもらうとして、合作記録映画の”共同演出”はその後のロシア側との連絡如何によって決めさせてもらうことにした。
ロケハンはカメラマンの大津幸四郎氏と一緒である。氏とは水俣病シリーズ・スタッフとして、気心が知れている。調査そのものは興味のある仕事だ。
予備知識を得るために、参考書籍を求めた。二、三年前から北方領土問題についての文献は相次いで出されていた。マスメディアも墓参に同行したり、特別取材して”知られざる四島”を報道している。その質は高く、参考になった。だが、元島民の体験記録のたぐいの書籍はなかなか見当たらなかった。のちに根室市で手に入れた本に『北方領土高校生が聞いた二〇二話』(北海道根室高校地理研究部、指導・山田豊治)があった。これは聞き書に加え、島ごとの歴史年表が作られていて、いまも座右にある。寡聞にしてその他の記録は知らない。
そこで十年分のスクラップの記事から個人名を拾いだした。返還運動関係者や元島民、漁民、漁協幹部、地元の知名人など、百名近くをリストアップした。
今回は北海道道東を調査のエリアとした。水俣病闘争のリーダーだった旧友がたまたま北海道選出の社会党参議院議員の秘書になっていて、広く北海道のネットワークの運動を担っていた。かれによれば、「札幌での北方領土問題の市民意識はほとんど東京と大差なく、北海道ですら、狩勝峠のむこう、釧路以東でなければ元島民の問題には関心がない」という。
その事には驚かない。よく分からないのは北方領土返還運動がすでに五千万人の署名を達成し、その先頭に元島民が立って訴えてきたにもかかわらず、その運動に”表現”が伴っていない事が不思議なのだ。水俣をはじめとして戦後だけでも沖縄、筑豊、三里塚、下北半島といった地から、少なくない記録や諸表現が生まれているのに比べ、その少なさが気になった。”国民的運動”といわれ、いまなお一万四百人の島民が生き残って、訴えているのにである。
根室、道東のひとびと。右翼はいなかった
私たちがようやく道東・根室を訪ねたのは九二年の七月下旬だった。
エリツィン大統領の”九月・訪日”を前に、現地ではさまざまの期待と思惑が出ている時だった。現地入り早々、私のある先入観は崩れた。
まず、気が抜けたのは根室の街に右翼の、ウの字の気配すらもなかったことだ。長年、右翼の街宣車に共通したデザインは北方領土の地図と「即時返還」の文字だった。
東京はじめ大都会の盛り場に陣どり、がなりたてる右翼の街宣車。その流す軍歌や愛国行進曲の合間々々に「返せ、北方領土」の声が飛ぶ。まさに北方領土返還運動は首都圏街頭では右翼の専売特許の観があり、通行人は否応なくそのスローガンを叩きこまれた。
彼等が凄まじい実力行使をしたのは、八〇年代半ば、ロシア漁船の日本寄港を阻止した時だ。
二百カイリ以後、日ソはおたがいに漁業水域内の操業を認め、”相互主義”にもとづいて便宜を供与しあった。長期操業の漁船に水・食料を補給し、船員の休養にあてるため、日本漁船はナホトカ港に、ソ連漁船は福島県・小名浜、のちに塩釜港に寄港できることになった。が、右翼は全国から百数十台の街宣車をその港、桟橋に集結させ、威かくした。警察も東北全域から延べ八千人を動員、右翼運動員との間にこぜりあいが絶えず、魚市場、市役所は機能麻痺に陥った(八五年)。小名浜と塩釜、ともに北洋漁業の拠点であるだけに、その受けた打撃は大きかった。この記憶はいまだに生々しく残っている。
その北方領土返還要求の中心地の根室・花咲港には、ロシアからカニ船が出入りし始めたからかれらはさぞワガモノ顔で港界隈を横行しているだろうと思っていた。しかし、一台も見かけなかった。
あとで聞くと、「北方領土の日」に一、二度それらしい集結は納沙布岬ではあったが、市中に街宣車が入ったことは滅多になかったというその理由を挙げるとすれば、根室市民の八割がなんらかの形で北洋漁業に関連しており、「右翼に利用されることへの嫌悪感がある」(北海道新関根室支局談)からだという。
ビザなし交流元年
その年(九二年)四月からゴルバチョフ旧ソ連大統領の公約どおり実現したビザなし渡航は、すでに北海道側から三班、元島民を主体に二百二十人、北方四島からロシア人島民、四班二百三十人に及んだ。但しその通訳は相互に二、三人しかなく、参加者全員の意思疎通は極めて不十分だったようだ。
「ロシア語通訳者は札幌だけでは間にあわず、東京からも呼んだでしょう。根室市役所にさえ、ロシア語を話せる人はなく、最近やっと一名、市役所に配属されたのです」(同支局談〉。
俄か仕立ての親ロシア的雰囲気と、「北方領土返還」の垂れ幕とが、閉じ町の中に混在していた。
道の密漁対策の強化
漁業基地根室では遠洋漁業は縮小を強いられてきた。サケ・マスへの依存の特に大きい根室ではその打撃は大きい。米園、カナダ、ロシア、日本四か国の「北太平洋サケ・マス保存条約」により、この年をかぎりでオホーツク・ベーリング海の公海部でのサケ・マス流し網操業は全面禁止に追い込まれた。
ロシア漁業代表は「日本の乱獲や不法操業がなかったら、この保存条約にまで追い込まれなかった」と苦言を呈した。
道当局による違反操業の取締りはこの年から目に見えて厳しくなった。
六月からのサケ・マス漁の解禁をまって出漁、日本の二百カイリから六百五十キロはみでた公海部で操業していた釧路の流し網漁船が、始めて水産庁の取締船に摘発された。ソ連の監視船には慣れている道東漁民も、道当局の”本気”に恐れをなした。「国際的信用を損ねる行為」(道水産部)。日ロ漁業交渉の場でいつもロシア側から日本の密漁問題が問われ、失点続きで、日本側はその立場をなくしていた。
その一方で「地元から見れば漁民に同情の余地はある。日本の領海ではマス(安値)ばかり、しかも例年の十分の一の漁獲割当量とあっては、高値のシロザケの群れを追うのは当り前ですよ」(北海道新聞釧路支社の記者)。
しかし一九九〇年、九一年、サケ・マスは史上一、二番目の連続豊漁となり、輸入とあわせ在庫十万トンに達し、サケ・マスは過剰ゆえの超安値(浜値)となった。かりに”違反”してシロザケを獲ったにしても、この浜値では採算は合わなくなっている。
その点、高値の座にあるのはカニだ。根室特産の花咲カニは北方四島周辺に生息している。カニの”越境“密漁は活発であり、それが衰弱した漁業の町・根室を裏で支えている。
そのなかば公然とヤミのカニ漁を担ったのは、いわゆる特攻船だったのだ。船外機を三台もつけ、ロシア国境警備船の目を掠めて操業する船だが、それが根室の船具、オイル業界を潤し、繁華街を脹わせてきた。これが昨九一年来、道当局の手で三十六隻、潰された。
ゴルバチョフ大統領の”九一年・訪日”に合わせた強硬策といわれた。この取締まりは、開きはじめた北方四島との日ロ交流の円滑化に配慮したものでもあった。
根室の”雪どけ”
北方領土への墓参は八六年、十一年ぶりに歯舞、色丹島から再開された。
第一段階は歯舞、色丹島の二島に限られ、国後島への墓参はその三年後の八九年、択捉島はその翌九〇年からであった。
再開後の初の墓参団の元島民一行は六十歳をこえた高齢者ばかりだった。八〇年代の新聞によれば、「島のロシア人住民との交流は全くなく、船着き場から墓所へ往復するのみ、島内を歩くのもままならなかった。カメラをむけるにも、スパイ視されるのではないかとビクビクした」(北海道新聞)。
九二年からのピザなし交流の場合には、万事が変った。「歓迎、友好、乾杯だった」(元島民各氏の印象)。
その前年、九一年二月、ロシア人の根室立入り制限はほぼ解除された。しかし船員の市街での自由行動はまだ制限されていた。国境地帯の意識はまだ根室市には残っていたようだ。
「九二年四月、第一回のビザなし交流で、ロシア船でロシア人島民十九人が花咲港に着いた時、五百人の市民が出迎えたが、ロシア人たちに海岸にある防衛庁のレーダーサイトが見られるのを避けて、花咲港からの一直線の花咲街道を通らず、わざわざバスを迂回させてホテル入りさせた」(朝日新聞根室通信部・小泉信一記者)。
日ロ”勝手交流”
その後、間もなく”ビザなし”交流を額面通りに受けとり、堂々と国境を越えた”事件”があった。朝日新聞通信部の小泉記者はこの”勝手交流”に確信犯としての行為を見ているようだ。
事件の出だしは単純だった。色丹出身のSさんは当局に無断で色丹島に自分の持ち船を走らせた。三歳の時に島を出たSさんは墓参を通じて、色丹島のロシア人島民の有力者と知り合い、島で出来る事業を考えていた。だが、腎臓病の彼自身は定期的に人工透析に通う身で、墓参団やビザなし交流のスケジュールに合わせられない。そこで彼は息子に「あなたらといっしょに島にホテルを建てよう」とのメッセージを託して色丹島に行かせた。漁民感覚では色丹島は近い。色丹島側では何の答めもなく漁船を帰した。根室に戻つてのち、道当局から摘発された。
確信犯かどうか、それは行政の措置如何に掛かってくる。何の規則で罰せられるかだ。
「Sさんが色丹島水域に漁をしに行ったのなら罰則・海面漁業調整規則違反が適用できる。だが、色丹島に知人に会いに行っただけだ。色丹島は本来”日本固有の領土”で外国ではない。その日本領土に行ったのだから”密出国” には該当しない」。
Sさんがそこまで読んで、事を運んだのかどうかは問題でなくなる。これにどう裁きをつけるか。小泉記者は根室海上保安庁にも聞いた。「その海域を航行しただけではせいぜい”無通告航行”の規則無視で、軽犯罪程度にしかならない」。これは”くい違い行政”といえる。ロシア側に逮捕されれば外務省の対ロ折衝に移される。ここでは「日本は国境の線引きを本来認めていない」と身柄釈放手続きがとられる。密漁者のだ捕の場合はこれで処理し、釈放後、国内法で処置する。Sさんの所属漁協では”十日間操業停止”にするくらいが通例だった。このSさんの例は行政の盲点をついた前例のない事犯になったと小泉記者はいう。
海上保安庁・根室
根室海上保安庁は運輸省の所管である。海難事故の防止、救出が任務である。
オホーツクは「低気圧の墓場」といわれ、海難事故がすくなくない。海上保安庁はロシア国境警備隊と組んで、「海難、海上事故共同対策」を検討しようとしたが、外務省からクレームがついて進捗しないという。海難対策が必要なことは自明である。もし外務省が、二国間の国際的協議ともなればわれわれの職域だと過剰反応を起こしているとするならば、漁民こそ不運の至りというべきではないだろうか。
日ロ経済交流はロシアからのカニ・ウニ船で道が聞けた。カニを受け入れるその花咲港に入関部門がない。カニ船が入る日にあわせ、釧路入関から一名が交替で出張してくる。
海保や入関の困惑も、根室の日ロ関係の急速な雪解け現象のもたらした過渡期の問題であろう。あまりに根室市の逆境の時代は長く、国境地帯ゆえに苛酷であったことは確かだ。
ソ連時代から一九九一年末までに、根室・道東のだ捕漁船は延べ千二百八十四隻、だ捕された漁民総数は延べ九千百六十九人(うち自殺者二人)に及んでいる。一人十回だ補された者がいるとしても凄まじい数である。元島民もその中に含まれている。
元島民は北方領土返還運動の当事者として運動の先頭を歩かせられた。だからといって右翼とは一切縁を結ぼうとしなかった。根室では「島か魚か」と事あるごとに漁民と元島民は対立要素を抱え込んできた。漁業と返還運動の二律背反は現実問題として潜在し続けているだろう。私たちは足の竦む思いから抜け出られないでいた。
納沙布にて
私たちはレンタカーを駆って、まず納沙布岬に行った。岬の先端には一九八〇年前後にあいついで建造された「望郷の家」「北方館」「四島のかけ橋」がある。笹川財団の作ったタワー。それらのための広場を囲んで土産物屋やレストラン、カニ専門の食堂などがならんで、バスからの団体客を招いている。根室の観光名所はここしかない。
その一隅に「蝦夷土着民」騒乱の記念碑がある。この地域で、和人七十一人の殺害の報復として、メナシ(国後)アイヌ三十七名を処刑した旨記されている。幾組もの団体観光客が岬に立ったが、一瞥すらするものは少ない。碑文を読んでも、日本人”受難の碑”でしかない。
北方館には北方四島の歴史が展示され、一七九八年、択捉島にたてられた近藤重蔵の「大日本恵登呂府」の標柱や、一八五五年、プチャーチン・ロシア使節との間に交わされた日露通商条約(下田条約)のコピーなどが並べられ、説明文は戦前の文体に似ている。北方領土関連の年表を見ると、一九八〇年を境にこの岬に諸施設が出来、以後、現職の総理大臣として始めて鈴木善幸氏がこの岬に立ったと特記されている。それまで閣僚の視察はあっても、現職首相の現地視察はなかった。自治省が北方領土の六村を現行の「全国市町村要覧」に編入し、日本地図に四島を国境内に描いたのもこの頃からだ。一九八〇年は”北方領土問題元年” であったことを改めて教えられた。
それはソ連軍のアフガン進攻の年である。その頃、北の三海峡封鎖の声に親しんだものだ。
当時、私は津軽海峡の浜関根で原子力船「むつ」の母港反対の漁民たちと一緒に暮らしながら、映画『海盗り』を撮っていた。この映画の企画者で役者である松橋勇蔵氏の実家は母港予定地のそばの海端にあったから、朝な夕な、海峡を眺めない日はいち日もなかった。中曽根首相の「北の脅威論」が叫ばれた。浜関根では津軽海峡をソ連の原潜が通りはしないかと皆が気にしたものだ。沖のサケ・マス定置網が損傷でもしたらと案じたからだ。
だが、ここ根室ではなお欝陶しい海の日々があったろう。
北方館の展望所に数基の大望遠鏡がある。覗いて探すのは、つい、水晶島付近のロシアの国境警備艇になる。艇の舷側の隊員の動作まで分かる。これが視野のなかの焦点になる。
八〇年代前半には、旅行者はいまとは違った心理で、あの小軍艦風の艦艇を見つめたことだろう。