書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 道東編 元島民への歴訪の日々1
千島歯舞諸島居住者連盟
根室市にきてから三日たった七月二十七日、やっと、元島民の訪問にむかう気持の余裕ができた。はじめに千島歯舞諸島居住者連盟根室支部へ。これは半ば表敬訪問のつもりだった。ある島民の意識調査によれば、元島民の八割は北方領土返還後に島に帰る気はないという。元島民に会うに当たって、「北方領土返還といわれるが、あなたは島に帰られるのか」と聞くのは禁句だとも聞かされた。支部長浜松義雄氏は返還運動歴三十年と聞いたが、温厚な方だった。大正十一年生れ、歯舞の志発島から昭和二十年引き揚げ、漁業をしながら根室を離れなかったのは、二島返還なら志発島へ帰れると思ったかららしい。
「私は志発島でしたが、当時、人口は二千五百人、その九十%が漁業でした。敗戦時は夏場だったので、出稼ぎを含め三千人はいたでしょう。私は幸い島を早めに脱出して、元家のあったここ根室に帰ったんです。苦労はしましたが、昭和四十年頃にはなんとか、生活を立て直しました」。
小泉記者は「不思議に元島民で暮しに困っている人はいない」という。浜松氏も漁業の現場から引退して、この連盟の仕事を”押し付けられた人”のようだ。もう悠々自適の境遇とお見受けした。私の意識のどこかに、引揚げ者は不遇であろうという先入観がある。それはまずなくなった。氏だけではない、その後も頑張りのきく苦労人タイプの方ばかりに会うことになった。
ー”ビザなし交流”でなにが変わりましたか?
「そうだね、今まではただ”返せ、島を返せ”と言ってきたが、今度、じかにロシア人に会ってみれば人間同士に恨みはないです。ビザなし渡航がはじまってから、困っているのは、一般の市民が島に行きたがるんです。私たち元島民が根室にがんばってとどまってきたのは、故郷をこの目で見たいという思いからです。われわれ元島民さえ順番があって満足に行けないでいるのに。順番ですか?元島民の高齢者からです、老い先の短い人から取り敢えず、です。われ先にというのはロシア人の島民もそうらしいですね。はじめは気乗りしなかった風ですが、根室を訪問して帰った人から”日本はすばらしい”と聞いて、第二回目からは申し込みが増えたそうですよ。島からカニを運んでいる船員からも”根室はなんでもある町、だ”とね。つまりこちらと島と経済交流をしたいという気持が強いです」。
この四月から日ロ相互に三回ずつの往来があったが、その都度、島の受入れ方が変わってきたらしい。お金にかかわる具体的な話だ。
「ビザなし渡航もはじめはお互いに”対等の原則”でいこうということで、相互に経費は船に乗るまでは自前。島に行ったらその経費はロシア側、日本側は花咲港上陸以後の宿泊費から交通費はこっち持ちという風に。第一回目はそれで良かったんです。
二回目からは、沖の本船から島までのハシケ代、泊まりのホテル代を払ってくれと要求されるようになったんです。”着いてから言われても困る。払えません”と、揉めた格好になって、結局、日本からいった本船の繋船料が十万円、ホームステイも有料になりました。だから貧しい生活なんだと思っていましたが、個人の生活レベルは高いですよ。私は択捉でロシア人の家にホームステイさせてもらったが、多分、上の階層の家庭だったでしょう、結構いい暮しをしていましたね。部屋には絨毯が敷きつめてある。ランドクルーザーなど二台の車を持ち、とても貧しい暮らしとは言えない。しかしアレはハイクラスだったからなあ」。
「私の言えることは、現在のロシア人島民はこの北方領土の歴史をまったく知らない。彼等は国家の命令で移住してきた。島のロシア帰属は信じて疑わないで暮していたんです。しかしビザなし訪問で人と人との繋がりが出来てみれば、決して敵対的ではないのは分かったし、人間関係の結びつきが信じられるんです。・・・困り方の察しもつきますよ、私も離れ島の人間でしたからね。かつて島は自給自足できたといいますけど、米、味噌、醤油や灯油から日用品一切は根室からの船に頼ったんです。その事情は、昔の日本の時代と変らんでしょう」。
「今年六月、サハリンで、北海道との交流集会がありましたが、経済交流は双方一致した意見でした。しかし、こうも言うんです。『日本がしないなら韓国やベトナムがある。かれらが島との経済交流に進出している。そうなれば元島民の帰る場もなくなるでしょう』。それはそうだと思いますよ。返還の日まで経済交流はストップ、ではうまくない。道東にはチャンとした経済人も居ますよ。しかしその人らに交流の枠はない。最近、一市四町(注・根室市、別海、標津、中標津、羅臼町)の代表の訪問計画も、”外務省の政策の埒外”としてボツになってしまった。一般人のビザなし渡航の許可は出ないんです。私らからは目と鼻の先でしょ。四百トンの大型客船でなくても、十五人乗りくらいの小型漁船を利用できれば、経費はグンと安いんです。そうすると、ビザなし交流も進む。それが本来の姿ではないですか」。
”島を返せ”、その当事者たち
ーもし島が返ったとして、元島民は島に帰りますか?
「私の場合?私は無理です。私も七十歳です。この年齢では島に戻っても仕事はできない。元島民の一番若い人で四十八歳かな、この人らなら、戻った島で何かやろうという気も起るかもしれませんが、さりとて昔のような生活には戻る気がしないでしょう。昔は灯油生活、電気はラジオの電池くらいでしたからね。いまは生活が違います。電化生活をあっちでもやろうとしたら出来ません。第一、子供の教育を考えたら、若い人も島には帰れないでしょう。ただしだ。ここから島に”通い”で漁業をすることはできる・・・」。
この”通い漁”の話は可能である。だ捕事件の多い歯舞、色丹島、国後島周辺の漁場は、普通の日本漁船なら日帰り仕事である。根室市よりさらに島に近い別海町や羅臼町からなら、国後島までは一時間で足りる。
「だいたい元島民も皆高齢化しました。見てください。人口五万人まで抱えていたこの根室も今は三万七千人です。地元の漁業関連者が不況で勤め先がなく、後継者は札幌などに出ていく。この現実から目を逸らすわけにはいかんでしょう」。
浜松義雄氏の話を聞くにつれて「千島歯舞諸島居住者連盟根室支部長」の肩書が色あせていくようだつた。返還運動の現役のリーダーとはとても思えないクールさなのだ。漁業の後継者は少なく、漁期には人手を道内各地や東北からの出稼ぎに頼っている。地元、根室高校の年々二、三百人の卒業生のうち、地元に残るのは四十人ほどと聞く。「島を返せ」というが、島が返った場合の当事者はいったいだれなのか。主役がみえない。
前「元島民代表」の話
東京での下調査のころからお会いしたいと思っていた人物に箭波光雄氏がいる。前千島歯舞諸島居住者連盟理事長であった。氏についてのメモをそのまま引く。
・・・箭波光雄氏。多楽島出身。長い間、元島民運動の代表的スポークスマンを勤める。最近、「日ロ島民対話集会」のパネラーの一人に元島民出身のヤクザを選んだことから責任問題となり、引責辞職。根室で大きな家具店を持つほか、金融業を営み、借金の取立てなどでヤクザとのつながりがあったと見られている。返還問題については極端な立場には立たない・・・
面談を申し込むと氏は電話で「自分が理事長を辞職し、なんの公的な立場でもないことを承知の上か」と念を押した。
氏の家は根室市の高級住宅地の豪邸だった。応接間には法律書がならび、弁護士の書斎風である。最近までテレビに出ておられたためか、私には初対面の感じがしない。
ーかねてからの疑問ですが、戦後、ソ連軍の命令によって島から一斉に退去したといわれるが、誰ひとり残ろうとしなかったのはなぜでしよう?
「どういう意味ですか?」
かれは私の質問に首をかしげた。
ー日本が侵略した中国の東北部・旧満州や朝鮮半島、台湾なら、”父祖からの地”ではなく、植民地、侵略の地だから一斉の引揚げは当然ですが、北方四島は日本固有の領土とその時もお考えだったでしょう?それなのにどうしてひとり残らず、島を離れたのですか?
「(苦笑しながら)あるロシア人があなたと同じ質問をしましたよ。今回、四島での交流会で年配のロシア人がね。『一夜明けたら日本人はいなくなった。私らは日本人は島を捨てていったとばかり思っていた。その後、島を開発するのに大変苦労した。何故、残っていっしょにやれなかったのか?』ってね。『私たちの話を聞く今の今までそう思っていた』というんだなあ。ロシア人は北方領土の歴史を本当に知らない」。
-私も似たようなものです・・・。
「私らが島を出たのは昭和二十二、三年頃、それまでロシア人と一緒に暮らしていたのが、突然『この先この島に居るのであれば、ソ連の国籍を取れ』というんだ。『われわれはソ連人になるわけにはいかない』と村の長を通じてきっぱり断った。そうしたら強制的に”日本に帰れ!”ということになった、強制的ですよ。『明日の、つまり何月何日何時までに全員集まれ、荷物はひとり百キロまで』という。今日言われでも明日までに百キロの荷物など纏められるわけがない。身の回りのものを持つだけでやっとでしたよ。そこから引揚げ船に乗せられて、サハリン経由で一か月かかって帰った・・・これが事実。島のロシア人はこういう経過を聞いたことはなかったというんだ」。
ー経過はそうでも、私の質問への答えにはなっていませんね?
「昨年(九一年)十一月、横路北海道知事が団長だった”北方領土会議”で、モスクワでソ連の最高会議の人に会いました。私はソ連軍が島に来た時の話から逐一話したんです。私らは敗戦、ということは知っていた。だからいよいよ外国兵が来たときはアメリカ兵が来たと思った。いくら島にいた人間でも一九四一年に、ソ連との間には不可侵条約(日ソ中立条約)が結ばれたことは知っていたし、その期限が一九四六年まであるということも知っていましたから、進駐軍は米軍だと思った。だがどうも兵隊の話し言葉が英語と違うし、"スターリン”の名がしょっちゅう出る。かれらは私たちに『アメリカ兵は居ないか?』と質問する。それでソ連軍と分った次第だと話した。で、放り出された顕末を話すと、パブリーンという議員が、まだうんと若い学者ですが『そうではないでしょう。われわれは日本人がここを引揚げるのもよし、ここにとどまるのもよし、あなたがたの自由な選択に任せたはずです。にもかかわらず、あなたがたは島を捨てて日本に帰ったじゃないか』と臆面もないんだな、これが。これでは返還には時間がかかると観念しましたね。それを見兼ねてか、サハリン出身の六十歳くらいのミハイルという極東問題小委員会議長が『われわれとしては遺憾の意を表しています』と言ってくれたんで一同、溜飲を下げたんだがね。ソ連の国籍をとることは出来ないですよ、日本人としてはね。そうでなければずっと居たね」。
昭和四十五年夏・多楽島
ーところで天皇の敗戦放送は聞くことができましたか?
「聞いた。あらかじめ八月十四日に『明日は天皇陛下の重大発表がある』と聞いていましたからね。どの島にもラッパばかり大きい乾電池式のラジオが二、三台はあったでしょうかね。十五日には皆誘い合って集まった。ラッパは大きいくせに音量がでないんです。誰かがラッパに耳を近づけて聞く。それをまた口伝えで聞かされる。そんな形で玉音放送を聞きました。日本が負けるなど思ってもみなかったが、その時点でそうかと承知はしました」。
「われわれの多楽島にソ連軍が来たのは九月三目だった。無血上陸です。誰の抵抗もなかった。日本の兵隊も大人しく武装解除された。戦闘は皆無だったですよ。ところが今年ビザなし渡航で色丹島に行ったら、そこに”勝利の広場“というのがあって、三メートルくらいの碑に鉄兜と銃剣が掲げられていて、いかにも”ここで戦闘行為があり、われわれはここでの戦いに勝ったんだ”といった碑が建っている。しかし実際は戦闘はなかったんだ、ハハハ」。
元理事長はソ連の不法な占拠を、島の生き証人として機会あるごとに国内外で語りつづけた。ソ連軍は千島列島のうち、北方四島は”日本固有の領土”として認識していた。北千島のシュムシュ島から島伝いにウルップ島まで南下してきたが、択捉島の手前でいったんUターンした。ところが、アメリカ軍が四島に手をつけていないと知って、サハリンからの別動部隊が択捉島に上陸し、さらに南下して歯舞諸島まで来た話をする。
「どの島も・・・択捉でも国後、色丹でも『この島にアメリカ軍はいないか?』と誰何して、居ないと分かってから上陸した。だからもし択捉以南の島に一本でも星条旗が立っていたら、ソ連軍は上陸して来なかったんではないかと言われているわけです」。
国際的に活躍したころの話になると氏は口が止まらなくなる。ニューヨークやロスアンジェルスで、ヤルタ協定を論じ、アメリカの責任をも突いた話が、不抜の論理であるかのように語られる。
やはり返還運動は元島民である箭被光雄氏を加え、八〇年を境に、国際化段階に入ったようだ。その功績は”不動”に思える。その氏がなぜ辞めたのか。それは後回しにして、しつつこく冒頭の疑問に帰った。
ーここに『高校生に聞いたこニ〇ニ話』という、元島民の聞き書を集めた本があります。島の良さがよく書かれています。それにつけても”島に残ろう、帰化なんかどうでもいい、おれはここに残りたい”という人がひとりも居なかったのは・・・?
「いや、実は居ましたよ。残りたかったという人は多かった。しかし根室の大空襲を知っていますか?丁度終戦の一か月前の七月十五日、根室が艦載機による大空襲に遭って。四十五キロしか離れていませんから多楽島からも黒煙が見えました。で、街の八割が焼けたという。根室に居る親戚や知人がどうなったか、何処にいるのか分からなくなった。そういう混乱の中、ソ連軍が上陸してきた。しかし、帰るアテがない。北方四島には富山や石川県出身者が多かった、だから田舎はあるんです。しかし列車が動いていないらしいという。これは動けないぞ、島にいれば米と味噌と醤油があれば生きられるから、島を離れたくない、島に暮らそうと思った人が大半だったでしょう。天皇の放送があっても、ソ連軍がきても、ここのほうがまだましと思いましたよ」。
「ソ連兵には警戒心はありましたが、感心したのは彼等の馬扱いの上手なこと、上手なこと。放し飼いの馬を、轡もつけず、長い脚で蹴って見事に乗りこなす。皆は『やはりコザックの末喬だなあ』と言ったもんです。困るのは土足で家に上がって来る。生活が違うからでしょうが、私たちにはそれが耐えられないんだ」。
「一方、ソ連兵も危険を感じるから銃は手離さない。たとえば私らは夜のイカ釣漁には、帆を架けて明るいうちから出掛けて、薄暮のうちにイカ漁をする。浜に帰るのは夜です。帆を架けて、音もたてずにスーッと帰ってくる。と、彼等はびっくりするんだ。こちらは沖からイカを振って『イカだ、イカ釣って来たんだ!』と合図したつもりでも、おどしに発砲されるということもあった。こうした危険な日々がつづくうちに島を抜ける人もいたが、”この島を離れない”という人も結構いたんですよ」。
ー女性への乱暴なんかは?
「それは多楽島ではなかったようだ。そのうちロシア人の移住者もくる、女性もくるようになったしね。昭和二十一年からは、私たちは普通のロシア人と一緒に島に住んでいたんです。ソ連が接収した島の水産加工工場を動かしてね、かれらに仕事や技術を教えたんです。こどもたちの学校も再開され、同じ校舎でロシア人のこどもと共学してました。日本人教員に島の中学卒を引っ張ってきてね。でも戦時中の教科書は検聞を受けて、軍国主義的なところは墨で消して、ハハハ。内地でも墨塗りがあったってね」。
私は改めて庭を眺める。石庭風に作られている。何気なく「立身出世」という言葉が浮かぶのだ。
ー僕は元島民の生活はもっと苦しいと勝手に思っていました。が、今は中流の生活を営んでいる人がほとんどと見受けられる。引揚げ後の生活はどうでしたか?
氏は私をなじるように睨み返した。
「私が返還運動を積極的にやりだしたのは昭和四十年からだった。その余力が出るまでに二十年かかりました。その間は食うこと、頭隠す(注、家に住めるようになる)ことに一生懸命だった。われわれが引揚げてきた時、根室は一面焼野原だった。兵隊が防空壕を作ったときの残りの材木と焼け跡からひろったトタンで作った掘っ立て小屋に住んだんです(涙ぐむ)。真冬に防空壕で寝ていた。夜中に便所に行こうとするが布団が持ち上がらない。布団の上に船の帆を覆って重ねていたが、それに雪が三十センチも積もって持ち上がらなかった。分かりますか、壁の隙聞からの雪で・・・。(鳴咽をのみこみ)食べるものは十勝まで買い出しにいった。手にいれた生で乾燥してないカボチャ、これが最高でした。生デンプンも買い出しに行った。私は十八歳、体も一人前で一家を支えていた。背中一杯に生デンプンを背負って列車の窓にぶらさがって・・・。そこに大雨が降ってきて、デンプンの粉は水を吸って重たくて。中標津で乗換えの時、あいにく警察の手入れがあったんです。ホーム側は危ないので、反対側の線路に飛び下りた。デンプンは背中で溶けてくるし、途方にくれたこともあったですよ」。
私も東京で貧しい戦後を生きた。多少の話にはたじろがない。しかし、陸の孤島のような当時の根室で焼け跡に生きる、厳冬を生き延びるのは想像しがたい。この胸を張って語って倦まない氏にも人にも言えない戦後があった。聞いたことでかえって寛ぎが出てきた。
箭波氏も漁船に乗り組んで働いた。返還運動に対して、市民の反対も強い。憎みあいもある。「矛盾した話だが」と氏は話をつづけた。
「そもそも北方四島返還運動の歴史は、終戦の一九四五年の十二月一日、当時根室町長の安藤石典がマッカーサー司令部に対し、『北方四島は北海道の附属島であるから、アメリカの占領下に組み入れてほしい。日ソ中立条約を結んでいたソ連の占拠する所のものではない』と要請したのがハシリ、返還運動の”第一号”なんです。先覚者だった。今でこそ”われわれはポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた”なんて理屈をいいますけど、私は”無条件降伏だ。戦争に負けたんだから何されてもしょうがない”という風に諦めていましたよ。私は一家の働き手でしたから、昭和四十年までは返還運動に関わる余裕などなかった、その後は先覚者の歩んだ道を継承すベく、いろんな会、組織を四つ五つ持ち、会長の立場にたって先導してきたつもりです。したがって、現在の姿だけみて『あまり苦労しているとは思われない』と言ってもらいたくない。いまを見てとやかく言われたくないんです。『元島民はいろいろ政府から補助金を貰って』という市民もいます。島民への補償は何程のものか、その額までは聞いていないでしょう?二十歳前の人は十年間で七千円、しかも国債でです。二十歳以上二十五歳までは一万八千円かな、それ以上は三万円、これも国債で、十年間でです。それがどれほど生活の足しになったと考えますか?」。
「かつては”島より魚”とか新聞にかきたてられる。今はこういう時勢だから返還運動を口にしない人はいないけど、島が無くなって、かえって暮しの良くなった漁民もいます。かつて島が在ったとき、島の産物があまりに豊富でしかも良質だったから、この根室半島に住んでいた人たちの生活は島の人たちよりずっと悪かったんです。例えば、コンブひとつとってみても、島のものが特等とすれば、根室半島のものは検査では三等でしか通らない。安いも安かった。ところが島がなくなった今の段階では、この半島の”三等コンブ”が、一等級で売れるようになった。で、生活は潤うようになった。だから根室半島でよく言われるのは『返還しないほうが生活は良い』という言葉なんです。ある漁協などは、極端な例で『まあ返還にまつわることは言わんでくれ』と新聞記者を押さえる。いかにも漁師らしい人だからってテレビの人がマイクを向ければ”島より魚が大事だ”という人が十人に七、八人はいるんです。根室半島で働いている漁船員には本州からの集団出稼ぎが多い。親方は根室の人かもしれないが、その人たちは歩合制だから”島より魚”という返事は当然出てくるでしょう。都会からポッとこっちに来た記者さんには、漁師の格好だけでは区別できないでしょう」。
-それにしても、なぜ辞められたんですか?やはりヤクザ問題ですか?
「一言、日ロ島民対話集会でかれに発言させたことで議長である私は退かざるを得ない結果になりました。その人だって、暴力団かヤクザか知らんが、その前に元島民のひとりとして連盟の会員にもなっていた。私は彼がビザなし訪問団で向こうの島に行ったり、”交流会(懇親会)”に出ることは阻止したけれども、対話集会の中で、一言島のことについて訊きたいといったことについて私は許した。”島のコンブの利用の道”という誰でも考えることです。それが政争の具に供されて困ったことになった。それだけです。もう理事長は辞めたのですから何もいいません」。
私の失礼な詮索はここで終わった。あとはいいたい放題の言葉が遊んだ。数言をとどめておこう。
「今のロシア人の漁法そのものは幼稚です、日本とは問題にならないぐらい幼稚ですからね。資源が枯渇するような方法ではないでしょ。ロシア人は労働時間制というのがあるから、のんびりやりますけれども、日本は夜でも魚がおればやりまずからね、根絶やしにしてしまう」。
「マスコミは四島の遅れた面ばかり言うが、もと島にいたひとびとから見れば、素晴らしく開発が進んでいると思う。冬の生活にしてもセントラルヒーティング方式のペチカだし。われわれはランプ生活をしたわけですよ。それが今、電気の生活だもの、格段に進んでいる。道路が悪い、ヒドク悪いといっても、我々の時代は島の交通は馬が頼りだった。”けもの道”がついていれば良しとした。だが今は自動車の通れる道はついている。石ころを混ぜた道であろうが、ところどころに穴ぼこがあろうがです」。
「やはりわれわれが味わった苦労をロシアの島民たちに味あわせるわけにはいかない、そういったことだけマスコミに取り上げられて弱ったもんです。一方で、非常に厳しいことも言っているんです。しかし、真実というものがそこにあるわけですから、こちらの気持が分かるんです。あそこでは”隣は何をする人ぞ“じゃ生活できないな、島では」。
島の話は終わったが、いったいこの人が口をつぐんだ”政争”とはなんであろうか。
私と同じ六十歳台で、まだまだ引退する年齢とは思われない。饒舌を楽しんで終わった裏には、かれが四半世紀に及んだ千島歯舞居住者連盟との縁をキッパリ切った快よさがあるように思えた。
望郷者の地図
元島民の団体は千島歯舞諸島居住者連盟であり、市町ごとに根室支部、羅臼支部などがある。親睦団体として、島ごとにそれぞれの島民の会がある。当然のことだが北方四島は一つにまとまった地域形成をしていたわけではない。島はそれぞれに根室や函館と線でつながっていた。たとえば、国後、択捉間の横のつながりはほとんどない。大きな国後島、択捉島では同じ島内でも、隣部落との交流さえ乏しかったようだ。敗戦時まで、北方四島の全容をつかんでいたのは、役場、警察、軍の守備隊あたりではなかったか。その元島民のなかで、国後島の手描き地図を作ったという部川鶴之輔氏に会った。七月も末に近いというのに、平屋の質素な住まいには細火にしたストーブがともっていた。
国後島で部落長をしていたという部川鶴之輔氏は奥さんとふたり、慎ましい老後のくらしぶりである。市役所で「どなたか元島民の方を」とお願いすると、かならず紹介される古参らしい。話ずきであり、私たちにもすぐうち解けた。
-部川さんのご一家は何時頃、国後島へ行かれたのですか?
「私の親父は九州の福岡で、明治九年生まれです。親父は小学校を出て、坑夫をしていたが、国後の硫黄鉱山が稼ぎになるというんで、二十歳の時に来たという。坑夫として働きに島にきたのがそもそもの始まりなんです。私は若い時分、体はあまり丈夫でなかった。徴兵検査のとき執行官が、『おい部川、お前は重労働をやると二十五歳までは保たないぞ』と脅かされたもんだ。八十五歳の今もこうやって元気でいますけれども」。
来訪の目的を述べ、ロシア映画人といっしょに北方領土の映画を作るといったためか、一気に氏の持論らしい”混住論”がでてきた。
「私は国後だが、私個人の意見はロシア人と日本人との”混住”です。相手も五十年も住んどるのに、ここは日本の領土だから帰ってもらわなきゃ困るというんでは、話は通らないと思いますよ。国土の”領有権”は日本だと、但し、”居住権”についてはこれを認めて混住にする。それしか方法がないんじゃないか。いま住んでいるソ連の連中にしても、そのほうが良いでしょう」。
これは、一九九二年年頭の宮沢首相の「ロシア住民に”永住権“を検討」という談話や、四月の、渡辺外相のホンネといわれる「北方領土・ロシア”施政権”の容認」発言などを積極的に認めての氏のコメントらしい。
ーあなたの体験から、ロシア人と混住できると思いますか?
「私はソ連人とも何回も会っているが、日本人に言わせると、失礼だが牛耳りやすい人種じゃないかと思うよ。ただ、自分のものと人のものの区別がはっきりしない。社会体制の違いというのか、国のものは自分のものだからかなあ」。
著名なロシア研究者木村汎氏の論文で読んだことのある”占有”と”所有”を同義語とみなすロシア人の法感覚の論を、この老人からアッケラカンといわれ、拝聴することになる。
「混住でいい。領有権は日本のものにして、それでお互いに手を携えて生活していこうということで話が落ち着けばね。ソ連のほうも、エリツィンに変わろうが、樺太の長官(フョードロフ知事)が変わろうと、そのことについてどうのこうのということはないと思いますよ。ご承知のように現在のソ連の財政は大変ですしね。日本だっても大金持ちの国って・・・事実はそうでもないが、ロシアと比べると良いでしょ。やはり”共存共栄”していくほかない。どう考えてもそうなる」。
地図を見せてほしいとお願いすると、畳二枚を横に長くつないだような大きな巻物を広げた。地形図というより一戸一戸の住宅、駅逓、学校、警察署まで詳しく書きこんである図録である。氏の住んでいたフルカマップの北東にある集落、植内をはじめ、全島(注、千四百戸といわれる)が記憶を頼りに復元されている。
かつて東京・九段会館の返還運動の全国大会に展示され”望郷の執念の結晶”と報道されたものだ。
ーなぜこのように島の事情に明るかったのですか?
「私はもともと島にいた時から水産物の検査員をやったり、統計調査員をやったり、島全体にかかわる仕事をしていたのでね、年にニ回、島をぐるっと管内くまなく歩きました。馬で回って二日はかかりますよ。国勢調査も二回やってるし」。
国後郡は、昭和には泊と留夜別の二村に分かれていた。しかし、漁業組合は漁家集落ごとに、泊村では西浦、泊、東沸と三つの漁業組合があり、留夜別村には植内、留夜別の二つの漁業組合と、全部で五つあった。明治十三年からあった五つの旧村が、そのまま漁業組合として残った形だ。この五つの漁業組合のメンバーごとの部落会があった。現在、その部落会(親睦団体)が集まって「国後・島民の会」としてまとまっている。北方四島をうって一丸とする、とまでいかないのが千島歯舞諸島居住者連盟の悩みと聞いた。
「(地図をさらに広げ)これが国後の沿岸の全図です。これ、一軒一軒です。ほとんど家のない海岸はないんです。縮尺してますけど、人家のない浜はない。隙間なく住んでいた。オホーツク側の西海岸は切り立った崖ですから人は住めない。太平洋側の東海岸はなだらかないい土地です。西海岸・オホーツク海側は夏場だけ寝泊まりする小屋がある。これは十月末か十一月になると、全部解体して、山の陰に置いて、次の春にまた建てて使うんです。西海岸はそうです。東海岸は四季を通じ定住しますけど、西には住みません。みんなは島だから大したことはないだろうと思うかも知れないが、島は大きいんです」。
なるほど、北海道の羅臼の丘から見ると、国後島の海峡側、西海岸には人家や村が見当たらない。無人の島にさえ見える。漁家と前浜の連なった村は太平洋側にあったという。それも今はフルカマップ(現ユジノクリリスク)に集中し、図に見るかつての漁家の連珠はきれいになくなっている。
「墓参が始まってから私は四、五回も行っているが、自分の家らしい家屋は残っていないんですよ。ソ連の連中が新しく建てたものばかりです。植内の墓地も、去年いって見たらぜんぶ草やぶになってしまってね、諦めて途中で戻ったんです」。
この地図は根室に外国人が来るたびに開陳する。しかしロシア人の訪問者には見せていないという。「この住みかたは懐かしいですよ。誰でも人間であるからには、野なかの一軒屋であっても、自分の家が一番良いと思ってると思う。それが跡形もないのは佐方がない。今のロシア人に、過去はこうだった、ああだったと言えば、感情的に面白くないでしょう、きっと。まあ交流に差し障りになるとまずいからソ連の人には見せていない」。
むらの暮らしの始まりと終り
氏は測量・統計の仕事に詳しいらしい。島での土地の取得の方法はどのようだったか。
ーその浜で、どうやって土地を手に入れましたか?
「波打ちぎわの浜には自分のものには出来ない”地面”があるんです。満潮の時の海(渚)から八間(十四、五メートル)は官地です。だからどこの船が来ても海岸には上がれるわけ。それから陸に私有地があったり、借りた土地がある」
ーじゃあ家を建てれば私有が認められた?
「そうです。家を建てて事業(漁業)をするような格好になれば許可になる。個人にも団体にも。それが固有未開地だとなればときにや取り払われることもあるが、まあ許可された。私も四千坪ばかり持っていて登記した。何十年住んでいても自分の土地を獲得するのは大変でした」。
出稼ぎから移住、開拓から定住、そして私有にいたる経路は、北海道開拓史に重ねることができる。ここでの生活の話に移ると、相好を崩して島自慢を始める。
「とにかく国後というところは林業は出来るし、農業は出来るし、それに海の仕事はある。とにかく一応生活していくのに、米、味噌、醤油、それに電気が無かったから灯油ーこれだけあれば。魚や野菜、イモ、カボチャ、なんでも自給自足できるんです。
野菜ですか?出来ましたとも。島の寒暖の差は根室より少ない。冬でもそんなに寒くありませんし、野菜なんか家庭菜園があれば買うということはありませんよ。山菜もわらびも採れるし、蕗はでるし、ありとあらゆるものが春の雪解けから雪の降るまで採れるんです。それほど地味の肥えた良い島なんです」。
-浜には船着き場はなかったんでしょ?浜での船の上げ下ろしは?
「ウインチの巻き揚げです。東海岸は平坦な浜ですから。この浜にだれもが小屋をもっていた。夏しけは沖で漁をする。時化る十一月頃から翌年の四月頃までは浜で流れコンブを拾うわけです。マスなどは手づかみです。磯の仕事をやる連中はほとんどコンブ、そしてカニ、海草、ギンナン草とかフノリとか海苔とか、年中仕事をしなければなかなか生活はゆるくない(楽にならない)。浜はコンブを掛ける竿の干し場がつづいていてね。東海岸沿岸は刺し網でサケ・マスをとったが、オホーツク側の西海岸はサケ・マスの定置網が主でした。ホタテなんかもいましたしね。非常に住み易いんです」。
-(馬の放牧地が地図のいたるところにある)これは個人の放牧地ですか?
「放牧の馬は二千頭もいました。その時分には漁業だけで生きるというのは困難なので、私は漁業組合の理事をしていましたから、組合員に副業として馬小作、親馬を貸して持たせた。種馬(雄)一頭に雌馬四、五十頭の群れで放牧しておく。で、子(馬)が出来たら返済するという条件でね。元島民は本州方面でも馬小作人をしておったからね、飲み込みは早いのよ。で、補充用の軍馬の産地になった。寒い北支(中国北部)に強いってね。島じゃひとりでは生きられないって分かってる。漁業組合を強化して、お互いに助け合おうということで、販売も購買も全部組合がやりましたよ。とくに戦時下では統制が行き届いていました」。
その暮らしの仕組みは敗戦後まで維持されたようだ。
日本軍のこと、島民脱出のこと
日本軍の武装解除の時とソ連軍の占領当時の話は淡々としていた。
国後島には四、五百人の陸軍の一個大隊がいたが、一戦も交えず、粛々と撤退したようだ。植内の部落には無線もなく、軍からの情報が途絶した後は、なにも分からなくなった。
「終戦のあと九月一目、フルカマップ(古釜布)にソ連の軍艦がきた。その頃、道の根室支庁から連絡があって『外国の船が行くかも知らんが、ただし住民に危害は加えないはずだから、落ち着いて応対するように』というお達しがあったんですよ。ソ連軍とは言わなかったがそれが最後の無線でした」。
「で、ソ連軍がきた直後です。顔見知りの島の大隊長だった松本大尉がひとりで植内にきて旅館に泊まって私を呼んだ。当時私は三十三歳だった。隊長は『実はソ連軍から呼び出しがきたんで、フルカマップに行くんだが、武装解除されると思う。もしもう一度、私がここに立ち寄らなかったら、武装解除されたものと思って、部落の皆に連絡してくれ』と言って、なにかを覚悟した顔で別れにきましたよ」。
「あとで聞けば、軍隊全員がサハリンかシベリア送りでしょうが、ソ連の船に乗せられた直後、沖の船上で斥候隊五、六人が秘密裡に選ばれて命令を受けた。『泳いでまず国後へ上陸せよ。着いたら、どういう風にしてでも根室に行って、必ず国に報告せよ』といって海に飛び込ませたそうですよ。それが運の悪いことに、時化にぶつかってそのまま全員溺れ死んだそうです」。
部落ごとに分断され、孤立した状況のなかで、島からの脱出は、植内部落に関しては、氏の判断にかかっていた。その判断のきっかけをソ連軍将校が教えてくれたという記事に記憶があった。
「そうです。島のソ連軍のなかには時計やカメラを盗むものがいて手を焼きましたが、将校のウスチメンコというのがいて助かりました。”今後、そのようなこと、があったら、ソ連兵にこれを見せろ”とロシア語の文書、きつい警告文を書いてくれたんです。それは効きましたな。かれは日本語がペラペラで、日本人そっくり。聞いたら『私の母は日本人です。夫婦でカムチャツカで働いていて、父は亡くなった。そこで母はソ連人と再婚し、生まれたのがこの私だ。で、日本語は母親に学んだ』というんだ。日本の血を継いでいるだけに好意を持ってくれてね。いっときの平和が保てた。しかしかれが言うには、『ソ連という国は一旦掴んだものは、(と砂を掴んでね、握って見せて)絶対に手放さない!あんたもまだ若いんだから、そこを良く考えて処置せよ』と言うんだ。昭和二十年の秋でした。
根室に帰るのにいろいろな方法を考えましたよ。島の西端の泊からなら、当時の船でも一時間くらいで北海道の岸にいけますが、植内からはそうもいかない。それに来年の春もカニ漁業をやるつもりでしたから、五トンクラスの動力船が五、六艘ありました。カニも大事だが、のんびりもしておれんというので、予定を急逮変えることにしました。『ソ連の隊長がまさか嘘をいっているわけではなさそうだ。来年度になると沿岸警備隊が入ってくる。そうすると島からは出にくくなる。今ならソ連兵の鉄砲は空砲だから、兵隊が銃を向けて撃ってきても、それは心配するな。絶対に危害は加えないからといっている』といって、皆に島からの脱出に踏み切らせたんです。・・・まず島の外から来たお医者さんとか学校の先生から脱出させた。ついで女子どもを早めに根室に出して、私は十一月に脱出して帰ったんです。親戚が根室にいましたから」。
いま五人の子供たちは、成長し、東京、札幌などで一家を構えているという。だれも島に帰る気はない。「島が戻っても”開発”はいけない、島が汚染されるだけ。ゼロから”開拓”から始めよ」と町の若いものには言っているという。
島の旧漁業権
部川氏の戦後は返還運動よりも漁業権の補償についやされてきた。それが国後島の細部に詳しい氏の仕事になった。その問題は後に訪問した桝潟喜一郎氏の所見にゆずる。
戦後、昭和二十七年、漁業改革で一斉に日本全国の旧漁業権がいったんは白紙にされ、それにともなう補償はなされた。しかし北方四島の漁業権の処理は凍結された。北方領土の帰属をめぐる国際問題の影に追いやられ、総額二百九十八億円相当という四島の旧漁業権の補償が宙に浮いているというのだ。「私の生きているうちにこの漁業権だけは解決したいとおもうが、どうやら危ない」と氏は苦笑する。
「私らは水産庁などへ陳情する際、タラバガニなどを手土産に持っていくんです。ほとんど毎年やっている。だから長官らは私のこともよく知っている。この土産は喜ばれる。えらい人が『わたしゃタラバガニが大好きだが、どこで採れるのか』と聞くもんだからガックりします。『水産庁がそれを知らんでどうするか。皆北方四島から持ってくるんだ。冗談言うな』って笑ってやった。そんなもんです。
右翼ですか?ここ根室には右翼はいない。右翼からの誘いもない。右翼の連中が来れば警察からも連絡があるはず、それくらい私らは厳しいつもりです。陰ではやっているかもしれないが、表立ってやるほどの度胸はない」。
部川氏の身辺に読みかけのコピーなどが散乱している。人生の残り時間の大切さを知っている人の気ぜわしささえ感じられた。地図つくりの準備に二年、書き込みに同じ時間をかけたという。だが”望郷”といったセンチメントのなせるわざではない。あきらかに戦後処理をもとめて、説得材料を自力でつくることから始めた、元島民個人の闘いであったのだ。かくしゃくとした活力が氏には残っている。だが、老いは呵責ない。
花咲港のカニ船
九一年七月二十八日、火曜日である。花咲港に北方四島から通称カニ船の来る日だ。
ロシアのカニ船と中古車買いあさりの記事がひところ目だった。
スクラップブックなどからのメモによると、花咲港には週二便(火、金)入港している。船員には日本円五万円が渡され、廃車寸前の中古車などの購入費にあてられている。五万円以下の物品なら個人の土産・携行品扱いになり、日本通産省の輸出許可はいらない。
一九八八年ころから、小名浜や、新潟、酒田港出入りのソ連の木材運搬船の船員がはじめた日本車買いは、日本の中古車市場にも刺激になった。業者はソ連船の繋留地さきに即席の売り場を確保して販売する。それが根室の花咲港にも伝播した。最近、カニ船には船員手帳を持った非漁業者が乗船している。車を買う目的のロシア人ビジネスマンも船員の中に潜り込む。だから花咲港通いの船員の人選やローテーションには、利権がからんでいるという。
ロシア人はカニが根室(日本)でこんなに高価なものとは想像もしなかった。近頃、ロシアではやる”物々交換”の感覚のせいか、カニを現金のように扱い、根室市内からのタクシー代にカニ三匹を出したという話。市内でのタラバガニのマーケット値段がずばぬけて高いことに気づき、個人的に直接カニを専門店に持ち込んだが断られたともいう。
私たちもそうした花咲港の新風景に興味を持った。野次馬根性まるだしで足をはこんだのだが、あとあとまで心に残る見聞となった。
花咲港のセンターには、日本語、英語、そしてロシア語で書かれた歓迎パネルがある。”根室市へようこそー北方四島は日本人の領土”とある。変な交易場の風景である。
午前九時、私たちが現場についた時には、荷役の最中だった。涼しい夜を選んで運搬し、早朝に入港するケースが多い。
岸壁には塗料が剥げ、錆びて褐色の運搬船ダンガラ号(百七十二トン)が横づけされている。ロシア人乗組員約二十名、この日、下ろしているのは馬糞ウニといわれる茶色のとげの短いウニだ。卵巣の質は高級である。
荷請け人はアシヤ交易(大阪)。岸壁でネクタイ姿の係員が直接、品質検査と計量をしている。ウニの口の凹んだものは痛んでいるとして、その場ではねられる。凡そ半分は返品扱いで、わきに小山をなしていた。真夏であり適温を維持していないため、ウニが痛むのだ。船倉からプラスチックの魚函をあげるのだが、ロシア漁船員のウインチの扱いは遅く、手際がよくない。岸壁には日本側の冷蔵車が扉をあけて待っている。あきらかにイライラしているが、手をだせないでいる。税関が規則を掲示し、ロシア船の舷内への立ち入りを禁じているからだ。仲買人、埠頭荷役は”手伝いたいのは山々だが・・・”とぶつぶつ言っている。
ロシア船づきの日本語通訳も他の乗組員同様、舷をまたぎ、船から離れることは自粛している。通訳氏はごく最近、サハリンから国後島に来た朝鮮系ロシア人崔仁植氏(日本名・斎藤正夫)。不慣れなせいか、殺気だった現場のやりとりの通訳にはオタオタしている。
「こんなにキャンセルされて」と私が絶句していると、崔さんは「つい先日は八割がはねられ、帰り船に乗せて帰った」という。帰りに海中投棄したらしい。
ロシア人はウニを食べるのですかと聞くと、「私は食べますが・・・」といって崔さんは首を横に振った。それにしても、保冷技術や輸送技術を伝えていればウニも生きる。炎天下、数トンのウニの斃死の山は天災ではない、人災であるだけに悲惨だ。
国後島のユジノクリリスク(旧古釜布)からの運搬船は手続き上、ロシア・サハリン州から来たことにされている。北方四島との直接の通商行為は日本では禁じられているからだ。”政経不可分”が日本政府の方針だ。「”四島が経済的に豊かになることは、返還を鈍らせることにもなる”ということでしょう」と業者は苦笑する。サハリン州、カムチャツカ州、千島列島でもロシア領の北千島からならいいが、北方四島からの直接輸入は出来ない。だが、ロシアからみれば、四島はサハリン州の一地区・クリル諸島なのだから、ロシア側の輸出関係の書類はサハリン州籍の企業名になっており、サハリン税関のサインつきのものだ。だが実はウニが国後島、択捉島近海で採られ、花咲港に直行してきていることを知らないものは現場にはいない。釧路税関からの入関の制服係員もあえてほじくらないだけだ。外務省の方針はここでは笑えないマンガである。
活きカニと中古車
岸壁に続く空き地にすでに十数台の中古車がある。普通か軽のライトバンが多い。売り主の日本人は値段の交渉程度のロシア語は使えるが、いざという時は船べりに居る崔さんを呼ぶ。それも制服の税関の眼を盗んで小走りに行き来している。なんでこんな不自由さがカニ船埠頭の日常になっているのか。歪んだこの情景には暗い気持ちになる。大津氏もやりきれないのかカメラを止めた。
ロシア人船員はメカに強いらしい。車体の傷をあらため、エンジン部を念入りに点検している。とくに技術に詳しい”エンジニア”もいる。とりわけ配線やプラグ、ボディーの下回りには気を遣っていた。
午後、もう一隻のカニ運搬船アメテイスト号(百七十三トン)が入港した。この船はカムチャツカからから二日かかって来たという。タラバガニの多くは択捉島からではないかと荷役の人はいうが、七月はカニの脱皮期、本来は八月中旬の入荷が見込まれていた。日本では活きカニは主に高級料理店にまわされる。タラバガニは脚が揃い、フンドシのしまったものしか合格しない。見るところ三分の一ははねられている。荷役の扱いでカニの脚のもげたものが多いのだ。
「活きカニの扱いは無理だなあ」といった荷受け側の表情だが、やはり手が出せない。ロシア船員のチーフははねられたカニを自分で確かめ、匂いをかぎ、「やはりはねられても仕方がない」といった顔付きでメモを取っている。業者によれば、この船のカニは脱皮したばかりで肉がすくないらしく、安値で引き取られている。「ロシア人は時期を見て捕らない」。
タラバガニの脚しか食べないロシア人は、日本側の姿かたちに厳しい活きカニの選別をなかなか理解できなかった。取引きの初めは、ロシア漁船員は「食べられる部分だから、カニの脚でも、カニはカニ」と主張したようだ。荷役の人も「カニの船積みの技術と冷蔵を改良すれば、不良品を少なく出来る。が、現状ではそこまで指導するわけにはいかない」。カニもときに八割を”返品“したという。
のちに歯舞漁協に寄って聞くと、地元のカニ専門の漁民もそれを案じている。
「ロシアからのカニの輸入は花咲港だけでなく稚内、函館にもはいっている。従ってカニが市場にだぶつきはじめた。去年の三分の一の値段に下がった。ウニも同様です。ウチにとっては死活の問題だ。ロシア人のカニの扱いは良くない。あの人たちは罐詰作業しかしないでしょう。罐詰工場では甲羅はガパッと取る、脚だけぶつ切りにして煮るんでしょ。その習慣のため、活きカニの扱いには慣れていない。自分が損するのに。でも、ロシアのカニだからって叩き買いしてるわけじゃないでしょ」(越湖英雄参事)。
ともあれ安い浜値にせよ、タラバガニの二、三匹で、彼等の一か月分の給料にあたる。これでは頭が変になって不思議はない。このカムチャツカ船の場合も乗組員に日本円を持たせていた。通訳氏によれば船長が六万円、一般船員三万円ずつ円貨を支給されている。船員たちは荷役を終えたあと、出港時間を見計らって、根室市内まで買い物に行くこともある。車代を節約し、三、四キロの道のりを歩くという。タクシー代にカニを出したというが、新鮮なカニなら料金の十倍の値打ちはあったろう。
ロシア船員の平均年齢は三十歳台にも満たない。ウニ・カニの扱いに慣れるのに俊敏な目つきである。いわゆる”ノルマ仕事”ではない。”これが四島の漁民だろうか。ただの運搬船船員なのだろうか”。ーそのロシア人ひとりひとりの日焼けした若々しさを眩しく眺めながら、どこに”漁師”がいるのか、ロシアの漁民に会ってみたいとこの時、思った。
世界にアンテナを張る蕎麦屋のあるじ
知らない土地にきて人を尋ねる場合の私の手引きは個人名を拾ったスクラップである。佐藤良三氏(択捉島出身・大正七年・一九一八年生れ)。択捉島への墓参が再開されたのを機に、それまでの”北方四島、一括全面返還”の立場から、”日ソ共同管理” ”国連の信託統治”の可能性を探つては如何という立場になった人だ。氏が択捉からの引揚げ者でつくる「択捉会」の会長であるだけに、”元島民から出た妥協案”として注目された(九〇・九・一〇、朝日新聞)。当時の全国世論調査は二島及び四島返還が七十九%というなかでは、地元根室、しかも当事者である人の言としては異色とされた。
氏は緑町繁華街に蕎麦屋を開き、経営は安泰となった。今は引揚げ船内で生まれた長男に代を譲っていたが、その手伝いに多忙で、時間が取れないという。私たちは昼食をとりにいき、粘った。客のやや減った頃合に話を聞いた。
氏は私たちの勉強の程度を試すように、意見をぶつけてきた。ソ連邦の解体によって続発している地域紛争、国境確定の争いなどをあげ、話について行くのに汗をかく。
「北方四島にせよ、色丹島、歯舞諸島の二島返還にしろ、ソ連がこれを認めたら、ソ連圏内の領土問題に一斉に火が着くんじゃないのか、モルドバやアゼルバイジャンやタタールのように・・・。中ソ国境問題でも解決してないでしょう。日本の北方領土問題だけではないでしょう。そんなことはとっくにお分かりでしょう?
この問題がこうまでこじれたのはアメリカにも責任がある。昭和四十五、六年の連合軍の占領政策に間違いがあったんだ。日本の力、潜在的軍事力を借りるために”領土”を引っ掛けてきた。そのトルーマンの冷戦政策と無縁じゃないですよ。そうじゃありませんか?」
この人は戦後史をなんどもひっくり返し、考えて見たようだ。私には氏の個人史の片鱗でもいいから知りたくなった。島の時代、社会主義への思いが氏にあったようだ。
「私は択捉島にいた時、社会主義をすこし勉強した。まだ二十歳代でした。日本の満州事変いらいのことを考えると、資本主義に疑問をもつようになって、進んで社会主義を勉強もしました。ロシア語も少しは話せるようになった。しかし、やはりソ連邦は高級官僚の天下、真の平等ではない、階級の上下があると分かってから社会主義に批判を持ちました。古いタイプのロシア人はいいですよ。ニコライ二世か三世か、帝制時代を知っているロシア人とならば話は合ったし、理解もしあえる。だが、ソ連邦の時代しか知らないロシア人には日本人の考え方は通用しない。
私は択捉島で二年、かれらと暮らして分かったのは"なにも好き好んで島にきたわけじゃない”という人間、例えば、ウクライナ人がそうでした。今、四島に残っている一万八千人のロシア人はほとんど強制移住で来た人たちですよ。親しくしたウクライナ人が何人もおったが、『何故ウクライナのような土地のいいところからこんな所へ来たの』って聞いたら、年寄りたちはそのいきさつを誰がいうかでひと悶着だ。『お前言え』『いやお前喋れ』と言いあって、やっとひとりの爺さんが、自分の奥さんを戸口に立たせて耳をつけさせてね、軍人は堅い靴を履いているから足音で分かるさ。それでやっと私に教えてくれた。結局は強制移住さ。日本に帰ってからウクライナのことを読んだ。ウクライナは昭和五、六年に食糧飢饉で百十五万人、餓死したんでしょ?歴史に残っている。ウクライナ人はそのことを忘れてはいないよ。北方四島のことをいうなら、かれらの歴史も知らなきゃ。日本人の目からだけ見ていてもわからんでしょう」。
氏はかつての墓参訪問には行ったが、ビザなし交流には参加していない。あえて行かないのだという。墓参にいった時代と、氏のいう今年からの”官製”のビザなし交流とは一線を画している。
”共同管理論”や”国連信託統治”といった氏の二年前の発言は、当時、盛り上がりつつあった政府主導の返還要求の世論形成に反するものだった。その発言は批判はされたが、まだしも自由に意見を述べる雰囲気はあった。今、元島民の知見を尊重する風潮はない。返還推進の原則に反した”交流”は異端視される。元島民のリーダーが返還に暖昧では、”官”が困るのだ。
択捉在住約三十年、元島民三千七百六十人(敗戦時の人口)。氏はその択捉会の会長であり、千島歯舞諸島居住者連盟の名誉顧問、返還運動のいわば重鎮である。その立場から、箭波光雄前理事長の辞任(前出)についても、”自分に相談がなかった”と批判的だ。
箭渡理事長の辞任の理由は、ヤクザの日ロ島民対話集会への参加、発言である。しかし、それはけっして箭波理事長の独断でもひとりの責任でもない。なぜなら行政へも問題にされた人物の乗った出席名簿が提出されているし、道庁の領土対策本部も、根室市の北方領土対策係も連盟も事前に了解していたという。それが理事長だけの首をきるとは何事だ。
「私は名誉顧問だから”一寸言いにくいが”といって私にも相談すべきだ。それが組織だ。かりに処分するとしても、監督官庁に始末書を出すくらいのことで何故済まさなかったか」。
箭波光雄氏と佐藤氏との共通点は”断固、四島一括全面返還”の意思がないことである。そして島民主唱の時代は去り、国家がリーダーシップを握る時期が来たと認識している点でも一致している。
”固有の領土・固有の固とは何か”
話はもとに戻る。なぜいまの”交流”に乗りにくいか。氏は個人的な問題意識だがと前置きして・・・・・・。
「私が島になぜ敢えて行かないか。それには現在のソ連の状況を把握して相手の質問にも答えられるようにしなければ私の仁義に反するんです。ただ、行くだけではどうしょうもない、お互いに腹を割って話したい。そのためには、準備と勉強がいる。例えば”北方四島は日本の固有の領土”と言っただけで済みますか?
だいぶ前、外国の報道関係の人と話し合った時に、『あなたは元択捉の人だそうだが、”固有の領土”って何ですか?』と聞かれた。では”固有の土地“というのはなんだ。先に住んでいる人間というならアイヌの人たちでしょう。先住民族といえばアイヌですよ。その外人記者はよく勉強している。驚くほどだ。私は困ってしまって、『歴史的に見て正しいんだ』と言いました。すると『歴史の経過としてなら分かる。しかし世界に”固有の国”と言っている国はひとつも無いですよ』というんだ。『国連に百七十いくつかの国が加盟しているが、自分の国を”固有の国”と言ってる国はひとつもないですよ』とね」。
元島民からアイヌを北方四島の先住民として語られたことはなかった。箭波光雄氏はテレビ番組のなかでそのことを問われたが”アイヌはすでに日本人になっている”とこたえ、まともな返答になっていなかったと記憶している。佐藤氏の論理には動かし難い体験が裏打ちされている。
-択捉にもアイヌの痕跡はありましたか?
「ええ。紗那、留別、内保、エタンシャナという所にも広くいました。特に蕊取郡蕊取村(択捉は三郡三村だった)には多かった。竪穴の住居跡は至る所にあったし、石の槍とか骨の槍とかが、私のこどもの頃にはすぐ見つかりましたよ。
明治七、八年に日本の名字を付けられてから分かりにくくなったね。もともとはアイヌの名はあったと思うが、今は日本の名前になっている。その頃、名字帯刀を許されたらしい。
昔は道東から択捉に出稼ぎに行った人でアイヌの女性と結婚した人は何人もいたでしょう。その混血はめずらしくはなかった。しかし婚姻屈は出さないまま引揚げてきた。だから戸籍上では”その女性の生んだ子”つまり私生児扱いになって、相続やなんかで泣いてる人も元島民にはありますよ。択捉にはそういうケースが多い」。
「私は四年前に朝鮮半島に行った。何故行ったか。日本人のルーツを自分で確かめたかった。事前に特に勉強してから行きましたよ。西暦五~六百年ごろの王家の墓を見せてもらいました。見たらその文化の高さにびっくりした。鉄を作る技術にしろ、金銀加工の技術にしろ、同じころの日本の飛鳥時代の技術と比べてどうですか?
私のふた親は日本海出身です。同じ日本海に面した石川県と富山県にも行きましたよ。根室や四島はそこらあたりの出身者が多いんだな。
日頃は戸籍など気にしないが、引揚げ者に対して特別交付金が貰えるようになって、出身地の役場から戸籍を取り寄せた。それを辿ってご先祖さまを調べた人がいたんですね。すると先祖を六代目まで辿ると父方がぷっつり切れているんです。一人や二人の例じゃない、申し合わせたようにそうなんです。その切れる理由は結局、父方は朝鮮なんだ。朝鮮から渡ってきた、難破してそこに辿り着いた。あとは中国人、琉球の人だ。そうしか考えられない。”固有の領土”つてなんだろう。外国の報道関係の人は、『日本人は世界の歴史をもっと勉強しなくちゃ』というんだ。こうしたことを考えて、択捉島のロシア人にも話せる心がまえがなくて、ビザなし交流だからと言って、ハイハイと行けますか!」(びっくりするほど大声になった)。
択捉は栖原家の島だった
以下、氏の「択捉島」をまとめておきたい。島の生活は四島に共通することが多いが、漁業の制度とその変遷には択捉島固有のものがある。とくに漁業権の在り方が特異である。
「私は大正七年生まれ、島の学校は高等小学校までの八年制だった。その頃はまだ開拓時代の名残りの草小屋、屋根も壁まわりも草で葺いた小屋が一軒残っていたな。われわれの両親は明治の終り頃に島に渡ったが、やはり始めは草小屋から始まったらしい。しかし家らしくするのは早かった。えぞ前浜には流木があるし、裏山にいけばトド松、蝦夷松の群生林。小屋作るったって簡単だ。そりゃ皆盗伐です。
島の真ん中の北緯四十五度で、南と北では気温ががらっと違うのをご存じですか。植物の分布状態も違う。北緯四十五度から北はカムチャツカ系植物、その南は北海道系で気温も北海道や国後島と同じです。南ではマリモも松茸もとれた。
海からはサケ・マスが採れる。米、味噌、醤油があれば生活できる。キャベツでも人参でも大根でも馬鈴薯でも種を撒けばなんぼでもとれる。
私の家はよろず屋で、食料品、雑貨の配給店。副業的に海草を採っていました。
北方四島は同じ根室支庁管内だが、この島の経済は函館の人が握っていた。国後島や色丹島、歯舞とはそこが違うんです。ここの漁場を開拓したのは栖原角兵衛という人だ。これが幕末のころから南樺太に相当の漁場を持っていた。明治政府は千島・樺太交換条約(明治八年・一八七五年)の時に、その南樺太の漁場を放棄させる代りに、択捉の漁場を無条件で与えるといって、かれに承知させた。それで択捉の漁場は栖原角兵衛個人のものになった。で、かれは函館の経済力と結びついて択捉を開拓した。この島、だけ函館の人脈が握ったんです。それは昭和十五年まで続いた。それまでは漁業をする人は、個人で栖原と賃貸契約して、漁場を利用できたんです。良い漁場は栖原が握って、あまり良くない漁場は賃貸で人に貸して儲けた。
ところが戦争がはじまった。昭和十六年からは戦時経済になって、それまでの半統制の魚が全部、統制経済になった。島の漁業権はあらかた国策会社の『択捉漁業株式会社』に統合された。地方自治体の村長が国から協同組合の組合長に”任命”されるようになった。ぜんぶ国の命令で変わったさ。それからです、物資が函館経由ではなく根室支庁経由で流れてくるようになったのは。・・・いまでも栖原家の漁業権は生きているそうですよ」。
なぜ海から足を洗ったか
択捉島生まれで商家の育ちであり、商品の流れや人の出入りを見、いわば函館の空気を吸って大きくなった人である。択捉島の北は無人の千島列島がつらなり、パラムシル・幌筵島、シュムシュ・占守島、そしてカムチャツカである。千島列島最大の島である。島の総延長二百三キロ余というからスケールが大きい。
「択捉島で四季を通じて働いていた人はまず七千人から七千五百人かな。五月から十月の漁期には三、四倍も季節労働者がサケ・マスの定置網の仕事に来ました。捕鯨会社も四、五箇所あったから。鯨油とりのための工場もあって賑やかでしたよ」。
氏の根室市での戦後の仕事を聞いた。
「根室市に引揚げてきてからはゼロからやり直し、三十一歳なんてトシになってから漁船に乗りました。ご飯炊きして漁を覚えた、ご飯炊きは一番の下積みです。それを二年何か月かやり、それから四年目に認められ、五年目に漁労長になりました。オホーツク海の漁船二艘の責任者を六年やってから、私はこの蕎麦屋の商売に切り替えました。魚の資源の減り方が手にとるように分かりましたからね。年々減るのが恐ろしかった。
昭和二十九年頃に五十二トン船でタラを釣りにいったことがある。その時、二、三日でもうタラが獲れて獲れてすぐ満船になったのが、その二年後は一週間かかってやっと満船。こんど三年目になって、稚内から底引き網船がきて漁場を荒らしたから、一月経っても五十二トン分が取れない。で、六年目になってタラ釣りは廃業でした。オホーツクの魚には、回遊魚と、根着魚といって、底の海草の根に卵を生む底魚とがある。一旦、底引き網でそこを荒らされたら、回復するのに五、六年はかかりますよ。その点、イワシとかサンマとかの回遊魚は違う。今の日本のような漁法をしていたら世界中の魚は無くなる。もっと規制するべきですよ。資本主義の悪いところはそこにある。北方四島周辺も危ない感じがするでしょ。カニは乱獲です。見ましたか、花咲港を。
今、四島のロシア人が合弁で漁業をしたがっている。日本は”北方領土ではやりません”でしょ。”日本がだめなら北朝鮮があるさ”で、国後島なんかで合弁の操業が始まっている。カニ、ウニの獲り尽くしが始まってますよ。この調子で四、五年経ったら、ロシア人の生活を賄うだけの水揚げだって無くなって、島から一人去り、二人去りして行く、というのが私の考えだ。島の前浜の資源が減っていくことは目に見えているからだ。そのうえ日本と企業合同して、島の前浜で新式の漁法でやったら五年と海が持たないというのが、十一年、船に乗って漁をした私の言えることだ。それにしても、三十歳過ぎてからのご飯炊きは参ったな」。
私たちの長話にいやな顔ひとつしないで蕎麦を打っている働き盛りのご子息を見ながら、これでは島に帰ってまたゼロからやろうという話はなかろうと思う。しかし「二・三世は皆戻りたがっている」という記事もないではない。佐藤氏は辛辣にそれに答える。
「そりゃ報道関係は”若いものも出来たら戻りたい”って書くよ、作文でなら。しかし現実はどう思うね。島に行った場合、孫の教育のこと、年とってからの医療の問題を考える。どうするね。漁船、漁具を揃える費用は何処から出る?考えてごらん。そう簡単には行かれない。そんな作文では駄目だ。だから行ったとしても島は過疎化してしまうに決まっている。いま、島が戻って、ヒョッとして島流しにされるのはオレじゃないかつて、一番心配しているのは誰か。公務員でないの。役人、警察官、郵逓関係、義務教育の学校の先生方だよ。私はそう思う。島が帰ったら行政上、半強制的に赴任させられる。単身赴任で行けと言われる。内心ヒヤヒヤしているでしょ。どうだね。俺はあえて物に書かないが、それが現実ではないの」。
氏には択捉島の頃、”外”から島に赴任してきた人々の顔が浮かんだのだろう。
それにしても氏は自分の体験からソ連・ロシアのひとびとを見る眼を養い、独自のアンテナをはって日ロ関係を分析し、かつ自分の去就をきめている。
タラ漁の経験から海の資源の限界や漁業技術の開発競争とその行く先を見届けようとしている。
戦後、どこの海にも魚は湧くように増えた。同じ話を不知火海でも聞いた。漁師が戦争で根こそぎ海からいなくなったからだという。魚たちの天敵は漁師だった、海洋では大漁業企業だったのだ。戦後は魚でもコンブでも、海のものなら何でも金になった。大資本漁業の再登場までは沿岸漁家は空前の栄華を見たといわれる。佐藤氏は雇われ漁業者として船に乗った十一年の体験から、漁業基地、根室市の二百カイリ以後の七転八倒は見えていたのだろう。”海は休ませれば、必ず魚は帰ってくる”と佐藤氏はいうが、現実もまた氏の危倶通りに荒廃に向っている。
根室は”魚か領土か”といわれる矛盾をいつも抱えてきた。根室市に居住する北方四島からの引揚げ者八千人余の帰趨と、最盛期五万人の市民の糧である魚、すなわち漁業といずれが大事か。元島民も根室に漁業の仕事があって再起ができた。北方領土返還要求国民運動の主役として、襷を掛けて、全国に、あるいは海外に出掛ける元島民の”出世ぶり”(ある漁民)に根室市は冷ややかだったのも当然であり、その風圧を受けることも元島民は痛いほど知っていた。この現地事情のなかで元島民ゆえに背負わされた「返せ、ふるさと北方四島」の主役の座は、考えれば苛酷である。
現地・根室市の利害に献身的に関わったのは、昭和三十七年に貝殻島のコンブ漁を取り戻した高碕達之助氏(大日本水産会会長)だけだといわれている。もともと北洋漁業の経営者で民間人であって、政治家ではない。しかし根室半島のコンブ漁業者を救った。高碕氏の顕彰碑が納沙布岬にあるのも頷ける。かれは貝殻島コンブの恩人なのだ。
その納沙布岬に首相がきたのは貝殻島コンブの解決から十八年経った一九八〇年、北方領土返還運動の推進宣言を自ら”国境”の岬に立って示すためだ。その日も沿岸漁民は密漁していたかも知れない。「もともと日本の固有の領土であり固有の水域なのだから国家に逆らっているわけじゃない」と。こんなマンガ的図式になる。佐藤氏は苦笑する。「政治家は選挙でここへ来るだけ、北方領土問題では票にはならないもんね」。
元島民の最長老、国家補償を求める
親しくなった朝日新聞根室通信部の小泉信一氏に「元島民には賢者がいるね」というと「ここは人材が多いからおもしろい」。ここでの仕事は飽きないし、ここから日本とロシアがよく見えるというのだ。
そうした人物のひとりひとりに会うことになる。千島歯舞諸島居住者連盟根室支部の浜松義雄支部長からは、記憶力抜群で元島民の最長老である桝潟喜一郎氏を紹介されていた。歯舞諸島の水晶島から歯舞村村会議員に出ていた人だという。歯舞村長も勤め、子息は北方領土問題担当の市役所総務部の領土対策課(のちの国際交流課)に勤務している。
敗戦時、九百三十一人が住んでいた水晶島は納沙布からわずか七キロ。歯舞群島は全体では五千四十三人が当時居住していた。旧歯舞村の一部であり、行政的に区分された色丹島、国後島、択捉島とは違い、漁業権も根室半島の歯舞とつながっている。それだけに越境してだ補された例は多い。歯舞地先の海という、一衣帯水の近さが”罪”を犯させる。諸島にはロシアの国境警備隊の見張り所がある程度で、無人島である。
コンブの島
桝潟喜一郎氏は隠居所のような住まいにひとりぐらしである。八十八歳の独居老人。強い老眼と白内障のほかは、体の不自由はなさそうだ。
話は立て板に水というか、多弁を楽しむ風である。要点を絞って紹介しよう。
「よく言うでしょう、島は良かったなんて。それは嘘だ。貧乏な暮しだった。仮住まいのバラックで、酷い暮しだったというのが本当の話だ。
そもそも、うちの親父は石川県の能登の門前町の出で、北前船の船頭だった。新天地の北海道にきたが、目が出ないので水晶島に流れてきた。北海道開拓の失敗者、敗残兵になったものが島へくるんだ。親父もそうだつた。
島は魚もコンブもあるが、島からじゃ鮮度が保てない、消費地が遠いから魚粕(魚肥)さ。もっぱらコンブだった。これが中国貿易の花形だったんだ」。
桝潟喜一郎氏は小学校高等科しか出なかったが、二十歳すぎまで弁護士試験を受けようと思って勉強した。青年団長から、若くして村議に推薦された。歯舞村村長にたよりにされ、無報酬の村議を引き受けた。村議会がある日には、前日から根室半島まで行かねばならない。往復にはふた晩泊まりだった。規定の船賃、宿代はでたが、最低、倍はかかった。その分、持ち出しだったという。
「この島ではコンブに頼ってさえいれば生活できた。魚は腐るがこれは干せば腐らない。採りさえすれば確実に金になる製品だ。だから生活できる。そのコンブも今考えると目茶苦茶だ。目方を重くするために、わざと砂つきコンブのまま売るんだ。砂浜にコンブを干す、砂が落ちれば目方が減る、減れば損、という考え方だもの酷いもんだ。コンブの製品検査があって砂は落とせと言われるが、本気でタワシで擦ると、入貫五百匁のコンブから一貫二百匁の砂が落ちて、七貫目になる。十五%が砂だ。”コンブを三年売れば、一年分は砂を売ったことになる”とたとえでいったもんだ」。
コンブが一気に需要を増したのは戦争のための軍需品となってからだという。第一次欧州戦争で、火薬の原料の沃度カリが儲け仕事になった。傷薬のヨーチンの材料にもなった。大戦景気で当時、島は潤った。
島の土地はあらかたが根室の有力者、藤野家所有の土地だった。明治のころに開拓地として国から払い下げられた土地だった。コンブは干場なしにはしごとにならない。一軒で五、六百坪要る。この干場の借用料は高かったので、大戦景気で儲かった金で争って浜に近い干場を買った。「沃度カリで親父は大正時代の金で数万円儲けた。それで四百坪の干場を坪一円か五十銭で買った」という。
やや詳しくこの紹介をするのはこの土地、漁業権が今、桝潟喜一郎氏の取り組んでいる国家補償請求につながっているからだ。土地は根室の地主から買い、登記されている。
この火山灰地の偏平な神の小島にソ連軍はさしたる関心ももたなかったようだ。島民は桝潟氏の見識にたよっていた。
「二年間、”ロスケ“(元島民がしばしば遣う言葉)と一緒に居ましたよ。根室市は空襲でその八割が焼けちゃうし、島には当分もつだけの米を隠したしね。欲で島にいたわけじゃない。私は少し物知りの人間だったから、明治、大正の戦争の後始末のことは知っている。だいたい平和条約は三年かければできるだろう。遅くとも昭和二十五年にはすべて完結するだろうと思ったの。これが見込み違いだった」。
島には日本の守備隊はすでに降伏していなかった。四、五人のロシア兵の偵察があったが、すぐ引揚げた。のちに守備隊の取り調べの供述から、島うちに米が備蓄されていることが明るみにでた。氏は国後島にひっぱられて、「日本軍の糧秣の米を勝手に処分した」疑いで調べられたが、シラを切り通した。そして村長とも連絡員ともいえる役職を命じられ、百六十戸の島民の責任者にされた。村の利益を断固として擁護すれば、相手も一目置くものだと思ったそうだ。
「そのうち色丹島からロスケが常駐するようになった。私も少しはロシア語がわかるようになって、ロスケを相手にやりました。むこうは『労力奉仕をしてくれ』というんだ。隊長に『お金を払うのか?』と聞くと、『ニェット(いいや)』だ。私が『お金を払わないなら、食べ物なりをよこすのか?』と言い返すと、相手はもうお手上げさ。夜間外出が禁止された時も話をつけた。夜、六時になったら出歩くなという。が、ちょうど博打の時間でしょ。みんな仕事もできないから博打くらいするさ。それを相手は集会と誤解して嫌がった。その後も相談ごとには集りは欠かせないでしょう。だから『どうぞソ連の監視を出してくれ』と言ってやった。それからは集まろうが、博打しようがお構いなしさ。在る米と自給自足のキャベツ、人参、物々交換なんかして二年間生き延びた。だから最後まで島にいた二十四軒は平和にやれたの。仕方もないしな」。
昭和二十二年、全島民がサハリン経由で帰り、根室をはじめ各地に散った。
漁業権はどうする
桝漏喜一郎氏は島に帰れる年齢ではない。子息と成人した孫は歯舞漁協からコンブ漁の権利を貰い、氏は彼らに養って貰っている。島に二回墓参にいったが、海からの風雪で火山灰台地の墓は跡形もない。残る仕事は部川氏とおなじく国家補償を請求することだ。千島歯舞諸島居住者連盟の名誉理事として、あとはそれに集中したいという。
部川鶴之輔氏の話と桝潟氏のそれを総合すると国家補償の輪郭は次のようなものだ。
戦後の全国の漁業改革のさいの旧漁業権の消滅にともなう補償に相当するものを、北方四島の住民・漁業権所有者に払ってほしい・・・
部川氏の説明はこうだ。
「二百九十八億円というのは北方四島の漁業権を全部引っ括めたもので、定置網に漁業権を持つものも、個人の漁業権も含めた全部の総額です。コンブ・海草の類いから魚など水産動物まで、全てに関わる漁業権の補償です。昭和四十三年当時、北海道水産会が窓口になって、北方四島・全島の漁業権のリストを作ったことがある。例えば、占有漁業権としての定置網などは国後島に三百以上、択捉あたりは千百四十六もある。ほとんどサケ・マスの定置網漁業です。あと海草とか水産動物とかです。
二百九十八億円という額は、私が島に居た当時の水揚げの三年平均の漁獲に当時の価格を掛けたものを、現在の価値に直して出したものなんです。
政府は『元島民が補償要求するのは分かるが、政府自体が北方四島の帰属がどこか分からない現状では漁業権の実態はないに等しい。領土問題が解決すれば補償は出す』という。そう言われればと、われわれも一応納得して引き下がった」。
北方四島の漁業権は島ごとに事情がちがう。すでに佐藤氏の話にあったように、択捉島の場合には栖原家の独占的支配があり、千を超す定置網の漁業権は、戦時中の統制で「択捉漁業会社」一社にまとめられている。国策によってまとめられたもので、個人の権利は半強制的に「択捉漁業会社」に盗られたとするものもいる。
色丹島などは単一の漁業組合が漁業権を人聞の戸籍謄本と同じように残していて、すっきりしている。島の漁民社会の成り立ちによって四島それぞれに事情は違っているようだ。戦後、四十七年、元島民の最長老ですら、島での生活の歳月より、根室での市民生活の歳月の方が長くなった。
島に帰れる機会を戦争終結から五年後と見た桝潟喜一郎氏の予想は外れた。昭和二十六年・一九五一年のサンフランシスコ条約にソ連が参加しなかったために棚上げされていらい、五十年近い歳月が流れた。その間に元島民は島に戻って生活する気持を失い、島の財産権の国家補償を願うようになった。
桝潟氏の試算はもっと四捨五入になる。
「私たち元島民の土地、漁業権はいったん国家の手で解決することだ。コンブの干場にも使用権があってしかるべきだし、バラック同然の家でも今日の価値にかえれば、最低でも二千万円でしょ?漁具一戸あたり最低一千万、この長い不法占拠による漁業権の不行使・漁が出来なかった損失の代償に一千万円、最低漁家二戸あたり四、五千万円は補償して貰いたい。ほかの鉱山権などは別扱いにする。全部で五千億円くらいで片づくのではないですか」。
桝潟氏は混住論者に近い意見を持っている。かりに島が戻ったとしたら、さらに社会基盤の整備に五千億円かけ、ロシア人も帰化し、働いてもらったらいい。四島問題の当面の解決に一兆円あれば素晴らしい島になるという。「安いもんではないですか」と氏はいう。
一兆円とはなかなか庶民の弾きだせる数字の桁ではない。日本は金もちの国になった。
その年の秋、ロシア民族会議の北方領土公聴会で”四島を四百億ドル(五兆二千億円)で売り渡せ”という意見もとび出した。国際問題解決の際に語られる金額の桁は億単位から兆単位になった今日、氏が北方領土問題の解決に一兆円と値踏みしても怪しむに足りないかもしれない。戦後、旧植民地、侵略したアジアからの引揚げ者も丸裸で日本に帰った。殺されたアジアの民衆への謝罪もなされていず、まして補償もない。敗戦で失った地には北千島もあり南樺太もある。「北方四島は日本固有の領土」といって特別扱いできるものだろうか。また根室市の年間予算二百億円前後(一九九〇年)の実態のなかで、その数字は市民にどう受けとられるであろうか。さらに漁民にはどうか。
そこに長老の長老たる所以がある。元島民長老たちの主張には”納得のいかないことには納得できない。ちゃんと国家は答えてみろ”という意地がある。政府が”漁業権はないに等しい”といって、島の漁業権を封じるが、元島民にしてみれば、仮に島が返っても、もう漁業のできる年じゃないしその気もない。それを国は分かっていてとぼけている。「北方領土が帰ったら解決する」とはオトボケもいいところ。桝潟さんらは万事承知の上で「人間をバカにしちゃいけないよ」と、”愉快犯”といっては失礼だが、国に啖呵を切っている爽やかさがある。北方領土が返るというフィクションにかじり付いているのは誰だろう。
こども時代に島を去る・西国貞夫氏
四つの島の人にそれぞれに会う予定で歩いた。歯舞諸島の出身者から国後・択捉島の元島民に会った。色丹島はもっとも話題の多い島である。
北方領土返還は歯舞諸島・色丹島の二島からはじまる可能性が高い。日本の世論もそう読んでいるし、ロシア人島民も色丹島が先に返還されると予想している。数十日後に来日を予定されているエリツィン・ロシア大統領の訪日の際、四島一括返還は絶望的としても、色丹島の返還はあるかも知れないとして、色丹島出身の元島民はビザなし交流に最も積極的だった。
水産物の仲買の会社社長の西田貞夫氏を自宅に訪ねた。氏は「北方領土居住者総青年連合会」会長であり、色丹島民の代表格である。五十七歳とはいえリーダーの中では若い方である。メモによれば、彼は”混住”などは非現実的、平和条約をむすんだ上、ロシアはいったん日本に返還すべきだとの原則論をもっている人である。
ニ日あとに道東を訪問しにくる島からのロシアの子供三、四人のホームステイを引き受け、この日はその準備に当てていた。壁には日本語・ロシア語の日常の挨拶の言葉が貼ってある。
ロシア人のこどもとの個人的な付き合いは二年前からだが、という話に続いて・・・。
「根室は本来、反ソ的な町です。ロシア人とつき合う気はないんです。ロシアのこどもにホームステイさせようと市が呼び掛けますけど、一般からの引き受け手はゼロです。僕も意外でした。"ビザなし交流”で確かにロシア人と親しくはなった。しかし、こっちの元島民の代表が島で『あなたがたロシア人と島で一緒に生活したい』なんて言っていますが、あれは外交辞令ですよ。ホンネはロシア人と一緒に住むことを嫌っているんです。そうなら、”島が返還されたらロシア人は出て行ってほしい”というべきです。僕の立場はそうです。
最近、お辞めになった千島歯舞諸島居住者連盟の箭波光雄さんが去年の秋、『貴方たちと一緒に暮らしたい。私は日本の代表です』と言った。その言葉はそのまま残っていますが、僕たち多くの島民はやはりロシア人と一緒の生活は希望していないというのが実情ですよ。そんな一連の態度なんで、箭波さんは今回、連盟の理事長の座から下りなければならなくなったと思いますよ」。
箭波理事長に同情的な人の話をすでに聞いている。しかし、西田氏のような立場からみても、理事長の辞任の理由はヤクザがうんぬんといった単純な話ではなく、どうやら”路線”の違いが表面化したもののようだ。いずれにせよ西田氏が箭波氏の言動を”外交辞令”と批判していることは間違いない。
「日ロ交流の感想として、よく、『私たちが島を去った戦後のあの悲しみと苦しみを、今のロシア人には与えたくない』という人がいます。そりゃあかつてのわれわれの引揚げは悲惨なものでしたよ。しかし、その時代と現在とでは条件が違ってます。今なら世界の注視の中で、ロシア人島民は島を離れてどっかに帰るんであって、日ロ両政府が責任をもってかれらの世話をするでしょう。宮沢(首相)さんも渡辺(外相)さんも、”移住の便宜は計る”とはっきり言ってるんですから。われわれの引揚げのときとは条件が違います」。
宮沢首相のこの発言は知られている。この九二年一月、ニューヨークでエリツィン大統領と会談した。その中身として、首相から政府・自民党首脳会議で報告されたもので、「北方領土への残留を希望するロシア人には永住権を与え、法的地位や権利などについても柔軟に対応する」(朝日新聞、九二・ニ・四)。ロシアの最高首脳にアメリカで伝えたのだから”国際的公約”と認められるのは当然である。西田氏はそれが混住論の根拠になったことに苛立っているらしいのだ。
「”一緒に住みましょう”という混住の話は、現地を知る僕には”何をいうか”ですよ。僕の家はシャコタン斜古丹(現マロクリリスク)の海ぞいにあるんですが、斜古丹はもともと三百七十戸のところに、今三千人も住んでいる。ロシア最大規模の罐詰工場もあるし、山の中腹まで家や団地が建っていて、もう割り込む余地はないですよ。”西田さん、どうぞ”って言われても、僕は斜古丹のどこに家を建てたらいいの?現地のことも知らないで。僕たちになんの相談もなかった。ですから無責任にそういう事を言ってほしくない・・・歯舞諸島は無人島だから別ですけど。色丹島の場合、斜古丹も穴澗(現クラボザボツコエ)にも帰っていく余地がないんです」。
氏は古い写真を取り出した。旅館風の生家の玄関をバックに撮った家族の記念写真である。両親に寄り添っている小学生が当時の氏である。色丹小学校は明治二十七年に開設した。敗戦時、氏は四年生、在校生徒は四十人だった。六年生の秋まで二年、家族全員が島に残った。
「さきごろ亡くなった父はこっちにきてからは島のことは一切喋りませんでした。聞かれでも忘れたあとか言って。
僕の父は九州の先の五島列島の出身です。捕鯨で有名なあの五島です。役場の給仕をしていたらしいが、友達に北でも捕鯨があるからと誘われて島にやってきたんです。父は島では庖と旅館をやったり、飲み屋もやってました。そのころは若い女を置いて運搬船や捕鯨場の若い衆相手の商売をしていました。女は客をとったでしょう。屋号は『色波』といいました。
こっちへ帰つてきたら家はないし、資本はないし、いろんな物を行商して歩いたり、夜店を出したり、あとでは食堂をやって僕らを育ててくれました。だから島当時のことは思い出したくない、思い出すと悔しさの方が出てくるんでしょうね」。
棄民の記憶
敗戦時、色丹島の人口は千数十人、昭和二十年九月一目、ソ連軍六百名が上陸して占領の時代を迎える。根室市全焼の噂は伝わっていたという。「根室出身の人たちは帰るのをあきらめてましたね。帰る気になればいつでも帰れる。根室には比較的近いし、タラ船などやいろんなのがあって、船には不自由しなかったから。混乱に乗じて島から脱出するものも多かったですよ。根室にはちゃんとした住まいがあり資産があるが、色丹島では仮住まいをしていた人は出ていきましたが、島に全財産をつぎこんだ人は帰ろうとはしなかった。うちがそうです」。
この島への最後の連絡は、西田氏の記憶では、「外国軍が日本の軍隊の武装解除に来るだろうが島民に危害は加えない。平静を装って、島に残ってほしい。もし日本人が島にいなければ島は占領される可能性があるから島を守ってくれるように」。氏は軍関係の指示だったと聞かされた。だからというわけではないが、と氏は続けた。
「ロシアに対しては島を追われたという悔しさも憎しみもありますけど、今、あすこに居るロシア人には関係のないことです。僕らは逆に日本に対して”何故、僕らを島に放りっぱなしにしたか”って聞きたいんです。二年あまり僕らがあの島にいるのに、その間、なんの連絡も、なんの指示もしてくれなかった。そのことに腹が立つんです。食う物のことはまあ日本も食糧が無かったでしょうからいいとして、たまに手紙でもあれば励みにもなったが、全くなんの音信もないんです。島民のなかには一度脱出してから、再び島にソ連兵の目をかすめて家財道具を取りにきたり、日本の軍隊が残していった軍需物資が相当あったから、それを盗みにくるものもいる。日本の情報はそんな行き来の人からしか聞けませんでした。行き来はあったんです。みんな船は持っていますから。戦後、島の軍の隠匿物資によって一代を築いた人もいるんです。ですから引揚げといっても、その一人一人の実態はよく分らない。いつどのようにして帰ったかによって天地の差があるんです。
終戦のすぐあとに帰ったもの、二年も三年も苦労して帰ったもの・・・元島民といってもいろいろです。『色丹会』は会としては纏まっていますが、他の島の会との折り合いが悪い。結局、四島の中に沢山の会があるが、自分たちの故郷の島のロシア人と親しくなったのはそういない、色丹島はまずまずでしょう。それが他から見れば妬ましいというか、目の敵なんだなあ、残念ながら」。
西田氏は元島民のなかでもかなり屈折した人に思える。幼児体験としての消え難いものを持った、大人の浅ましさを見た、小学生の眼で”見るべきものは見つ”であったのか。
「僕の島での経験では、ロシア人は個人的にはいい人種だなと思いましたよ。ソ連兵もはじめに思ったより悪いことをしなかった。しかし半年くらいは娘さんたちを部屋に隠しましたけどね。日本人の大きな家は明け渡しを命じられて、僕の家の旅館もロシア人が住みついたんで、僕たちは倉庫で暮らしました。翌年の春、将校連中は家族を呼び寄せる、そして民間人も仕事のために入って来た。僕もロシア人の子供と同じ校舎で勉強したりね。
二年たっても日本から何の連絡も来ない。食糧も送ってこない、これは困ったと思っていた頃に、ソ連から『日本に帰す、これは強制でないから残りたいものは残って良いが、しかし残るものはソ連の国籍を取れ』といわれたんです。仕方がない、とりあえず一旦は帰ろうということで、昭和二十二年の秋に、全員ソ連の船で樺太を経由して帰ってきました」。
帰国船一週間
氏の語る中でもっとも劇的部分は帰国船の体験である。西田氏の話にでるソ連の船は、ラーゲリについて書かれた原暉之『インディギルカ号の悲劇・一九三〇年代のロシア極東』(筑摩書房)を読むと、ラーゲリに送られた囚人護送船のタイプかも知れない。「船倉にいくには狭い階段しかなく、換気装置はおろか、初歩的な設備もなく・・・便所はデッキだけ、間に合わせに作られた物だった。・・・船内の囚人は二千人、囚人は船倉にざこ寝した」と記されている。
「樺太の真岡からは日本の赤十字の船でしたが、島から真岡まではソ連貨物船でした。北海道は近いのに、じかに行かないんです。それはひどい船!僕は今だから言えますけど、僕の青春時代にはあの時のことは二度と思い出したくなかった。大きな貨物船に何百人も乗せられて。まずトイレがない。船の甲板から十何メートル下の船倉暮らしを一週間です。食べ物はない。みんな自分たちのもっているものを食べるだけ。・・・船内にトイレがないと、どういうことになるか分かりますか。甲板で用を足すしかない。甲板で用をたすにも、縄バシゴで上がっていかなければできない。若い人や大人は良いけど、年寄り、子どもなんかは酷かった。若い女の場合は見ていられなかった。甲板のクソは波を被ったら船倉に降ってくる。ハッチを閉めたら窒息する。そして泣く人、わめく人。着の身、着のままで、シラミはたかる。皆裸になってシラミとりですよ。樺太の真岡(現ホルムスク)に着いて、日本の赤十字船がくるまでひと月学校に収容されましたが、ここにもろくなトイレがない。十月の末から十一月ですから樺太の寒さは酷かった。日本に辿りつくまでに四週間か五週間かかりました。その間、寒さと栄養失調でバタバタ死んでいく。となりのお婆ちゃんがさつきまで生きていたのにもう死んでいる。佐藤良三さん(前出)の息子さんのように赤十字の船の中で生まれた人もいますが、ロシアの貨物船だったら生死のほどは分からない。生きていられたかどうか」。
聞いているのも辛かった。しかし、戦後の外地からの引揚げには悲惨な話は数多くある。
私は西田氏を国の方針を支えてきた返還論者と見ていた。どうもそうではなさそうだ。氏が私に分からせたいのは何かを考える。ひとつには小学生の眼にやきついた光景の始末であろう。それはどこにぶつけても返事が返ってこない類いのものではないのか。
「いつも言うんだ。僕らは”引揚げてきたんじゃない。あの島にいたかった。居れなくなって帰ってきたんだ”と。いずれ帰るために家はあるんだと。子供の頃の懐かしいものは全部あすこにあるんだ。その朝まで寝ていた布団も、敷いたままにしてあるんだと。僕らが帰ったらそれらがそこにあるはずだから、僕らはそこに帰るんだ。無かったらそれは誰の責任なのっていうんです」。
氏にはあの島の家の光景が今もそのまま在ってしかるべきという思いがある。それは幻視の世界に固執するのか、さもなければだだっ子のないものねだりに等しいと言うべきかも知れない。大人になっても、子供の時間が強制冷凍されたままなのだ。
氏の言外の訴えは、国から見捨てられ、連絡ひとつなしに過ごした”小国民”の憂欝かもしれない。国は色丹を無人島扱いしていた。国家は自分らを捨てた。ソ連は憎いがロシア島民は憎めないし、日本の国をなじるのも本意ではない。それが氏を屈折させている。
「私の生家は在るはずなんだから、誰かがそれを管理しているべきだ。例えば雲仙で住民は普賢岳の噴火で疎開させられても、あれはちゃんと保存されている。僕らもあれと同じです。全部そのままそこに置いて、身近かなものだけ持って帰ってきているわけですから」。
もう生家は跡形もなく、氏の幻視の中にしかないが、”色丹島は私のふるさと、郷里だ。そこに家も僕のものも全部残っている!”と心情披瀝することで、氏は国民的返還署名運動の先頭にたった。その与えたインパクトは強かった。だが、地元の根室市で叫べたろうか。
この”望郷の島”のイメージは東京の集会や全国の返還運動の集会では通じたであろう。だが、氏に矛盾の感情はなかったろうか。ソ連・ロシアへの恨みと日本国家の仕打ちへの憂欝とが氏のなかでどうなっていたのか。
「矛盾していますが・・・」
西田貞夫氏は今色丹島のロシア人にもっとも知られた人である。「カレンダーのない国ロシアヘカレンダーを贈ろう」。それを斜古丹の小学校に贈りたいと氏は新聞紙上で訴えた。一九八九年のことだ。反響は大きかった。氏のもとに届けられた四百部のカレンダーと菓子類を島に送った。それに添えて「どうぞ、これを家に掲げて、毎日、日本人(島民)のことを思い浮かべてください。そして色丹島は私が子供のころに遊んだ故郷だということを知って下さい」と手紙を出した。返事は来なかった。ひと月のち、また手元に集まったカレンダーを追加として送った。そのすぐ後に小学校の校長ヨシャコーワさんから礼状がきた。生徒からは島の絵が贈られてきた。その手紙で斜古丹の小中学の在校生は七百五十人、穴澗は六百五十人ということも知った。敗戦時、日本人生徒は四十人、いまの色丹島には計千四百人いるのに驚いたという。
校長との文通は二十通以上、そこには教材不足が訴えられていた。教材用具のチョークやバレーボールやサッカーの球、石鹸三百個などを学校の子供あてに送っている。無欲の行為だが、私情は込められている。氏は「ロシア人はプライドの高い人種だから」と懸念しながら手紙に書いた。「僕たちが遊んだ思い出の島で、日本の贈物で遊んでほしいのです」。そして時には校長夫妻の私的な”おねだり”にも応じているらしい。
翌年、”日本の子供たちを連れて島に来てほしい”旨の招待状が届いた。根室市を通じて外務省に「ぜひ実現したい」と申し込んだが、外務省は音沙汰なしだった。二年後の今年は行政の主導で日ロのこども交流が実現した。氏はそれを懸命に手伝っている。
”島を返せ。家を元通りにして返せ” ”平和条約を機に一旦は島を去るべきだ“という持論と、島に贈り物をし、人脈をつよめる行動は矛盾している。この矛盾に通底しているものはなんであろうか。氏にただすと「多分、島での子供のときのことが忘れられないんでしょう。それだけに島のロシア人の子供たちにも楽しくやってほしいと思うんでしょうか。矛盾してますね、確かに」と答える。島に生まれて十二年、根室市で四十五年。子供心に刻まれた故郷とはこのように幻視的なものか。単純にひとつには括れない根室人を見た気がした。