書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 道東編 元島民への歴訪の日々2
小型漁船ばかりになった港
根室を車で走りながら、漁港があれば降り、ひとまわり眺める。サケ・マスの漁期のせいか、中型船は見当たらない。納沙布にちかい歯舞港やとくに貝殻島に近い珸瑶瑁、温根元はコンブとりの小船ばかりで、仰ぎみるような大型漁船はなく、岸壁に立つと、遮るものなく広がる空と視界の良さが異様にさえ思える。
歯舞港(漁協)は二百カイリ問題以来の滅船で中型百二十七トン船が三十七隻あったのが、今では許可枠がある中型船はたった五隻、うち一隻しか操業していない(越湖漁協参事)。一九七七年の二百カイリ以来、アメリカ、カナダ、ソ連の漁業専管水域から締め出され、あいつぐ減船、廃船のつづいた根室のいまのさびれようがつたわってくる。とくにサケ・マスについて、母川主義が漁業資源保護にとって決め手となり、公海での操業すら規制されるようになった。
この年、二月十一日、日本、米国、ロシア、カナダの四か国は「北太平洋サケ・マス保存条約」に署名、調印した。戦後、昭和三十年代はじめ、水産庁主導で”沿岸から沖合・遠洋へ”とさけばれて以来、沖取り漁業は復活し急伸し、根室の根幹漁業となっていた。その沖合流し網サケ・マス漁が日本漁業専管水域以外では操業できなくなった。
根室市の人口は漁業最盛期、昭和四十二年・一九六七年の四万九千六百人から三万八千人に減った。市民の四割がサケ・マスに生活を左右されているといわれるだけに、死活の問題であり、いつも限られたパイをめぐる争奪をはらんでいる。ロシア側のパイであるだけに、越境操業についてこの根室では現役の漁業者からは道や水産庁のコメントのような”遺憾の意”や、反省・自戒の声は聞こえてこない。
冷戦たけなわのころのレポ船や、八〇年代後半の特攻船のもたらす利益が根室を潤してきた。ソ連・ロシアが日ソ漁業交渉で相互に確認した二百カイリ内の漁獲割当量を、それを決めたソ連・ロシア漁業自体が消化しきれていないことも読んでいた。
オホーツク海地先のカレイ、カニ、ウニにいたっては、「ロシア人はイワシかサンマが欲しいだろう。地先のものは日本人に取られるのを当たり前と思ってんじゃねえベか」(港の老人)といった冗談すら聞こえる。
国後島の旧家育ち・照井二郎氏
北方領土問題の映画の調査で、あらためて漁業の問題にふれずには映画は成立しないと思うようになった。だ捕体験もある漁業者に会いたいと小泉記者(朝日新聞根室通信部)に話すと、取っておきの人脈だがと照井二郎氏を紹介してくれた。
氏は国後島に生まれた生粋の元島民である。漁業経営者だったが、今は息子夫婦に割烹旅館を開かせている。サケ・マスの沖取り禁止による減船措置により、持ち船数隻をつぶし、陸にあがって間もない人だ。取材に応じたことはなかったという。
ほぼ私と同年輩の六十歳前半、顔が潮やけしている。言葉を慎重に選んで話された
「私の先祖は国後島では開拓のはしりだったらしい。ヒコ祖父さん、四代前の人、幕末に函館の雑兵だったらしい、嘉永年間の生まれでした。私の家は植内にあって定置サケ・マスをやり、昭和に入ってコンブ、カニにも手を広げて、財産は村では一番あったでしょう。私の家は旧家だったから島の倉庫には鍵のかかる懲罰部屋までありました。初期の漁夫には犯罪者や流れ者も混じっている。それらをかき集めて、漁夫として使った。それは酷い使い方だったらしい。アイヌの悲劇、和人を殺したアイヌにも酷い仕返しをしましたね(注、メナシ・国後アイヌの反乱)。しかし和人同士でも極めて酷い扱いをした。警察がないから、うちに懲罰の道具などがありましたよ」。
番屋には手錠や足かせもあったという。網走刑務所は海の向こうにある。懲役人を使役した北海道拓殖時代の話を思い出す。
氏は敗戦時は兵隊として埼玉の大宮にいた。復員して根室市に行き、そこで家族がまだ国後島にいることが分かった。密航船でソ連軍のいる島に逆渡航したという。若い体力、気力なしにはなしえぬ業だ。父母と妹を連れて根室にともかく落ち着いたとき十八歳だった。
だ捕とレポ船への勧誘
引揚げ後、すぐ食べられる仕事はやはり漁業だった。”賄い魚“(獲った魚の現物支給)を持って帰れるので漁船員に雇われた。漁の花形はサケ・マスだった。沿岸で主として十二カイリ内で操業した。そこでだ捕された。
照井氏の場合、当時、まだはしりだった無線機を船に着けたばっかりにみすみすだ捕されたという。「当時は船員十名位、エンジンは焼き玉の二十馬力の船でした。ソ連の国境警備艇は船足がめつぽう早かった。私は最後の最後まで逃げようとしたら機関砲で撃たれてね、燃料タンクに穴を開けられた。なぜそこまで無理したか、私の船は根室漁業無線局が開設された時、最初に無線をつけたんです。”無線機をつけてロシアに捕まったら、スパイ扱いされて大変だぞ”って言われていました。だからだ捕の瞬間は慌てた。無線機を海に捨てるまでは捕まるまいと、弾丸の飛んでくるなかで海に捨てたが、かえってそれが災いしました。真空管なんかがぷかぷか浮くもんだから分かってしまったんです、ハハハ。
捕まったら案の定スパイ視された。説明しても通じない。無線といっても幼稚な機械で”帰るぞ” ”採れたぞ”くらいしか通信できない代物なんですが、『これをアメリカに買ってもらって、スパイにきたのだろう』と疑われました。当時のだ捕は情報収集のためでしたね。だ捕の方の調べがついてから、じよじよにその方に話を仕向けてくるんです。私は漁労長でした。質問は漁のことではない。『根室にアメリカがどれだけ来ているか』、『日本の警察予備隊(当時)はどこでどうしているか』とか聞く。私は根室の地理には不案内だったんです。すると知っているのに答えないのだなということで、勇留島の税庫の防空壕を使った収容所に入れられた。一メートル半四方の部屋に入れられた。黒パンを一日ひときれしか貰えない。一般船員はみんな一部屋でごろ寝、栄養失調でむくんでいた。トイレに行ったときに庭のハコベの葉を取ってきて食べたり、それは酷いものだった。ひときれの黒パンをめぐって仲間同土のいがみあいです。情けない。そんなにお腹を空かしている時、調べの後で白い飯を腹一杯食べさせてくれて、『ところで、こちらの方に協力しないか』って誘うんです。六か月いました。海を渡って根室の祭りの太鼓が聞こえてきました。
折りも折り、島で労役として、だ捕された船の網でえびを採っていた。その最中に侵犯してきたアメリカのB29がソ連の戦闘機に撃墜されるのを目撃したんです。アメリカ側が領空侵犯した、それをソ連の戦闘機が撃墜した、これは事実です(注、一九五二年十月七日)。やっと根室に帰されたら、今度はアメリカのMPから尋問された。漁業者は全く米ソの両方から利用されましたよ」。
そのようなやりとりの積み重ねが、のちにレポ船として北方領土水域の漁を特別に許されるようになる。朝鮮戦争を経て、激しくなった冷戦のなかで、北海道の軍備情報はソ連の最も欲しいものだった。持っていったのは新聞の切抜き、警察や軍関係の人事移動欄、とくに顔写真入りのが喜ばれたという。照井氏は「情報なんて大したもんじゃなくても、相手は点数が稼げれば良いという風でした」という。密漁とレポ。海峡の漁民なら皆がそのような場合のことを考えて、漁をしていたようだ。
「やむを得なかった。その後、水産業界の役をしている時、東京の報道関係の目を避けて、熱海などで会合を持った機会に、そのことをいろいろ訴えたが、レポ船のことに及ぶと、"やぶ蛇になる”とか”まあ旨く(注、ロシアに)やらして貰っているんだから”とかいってみな逃げる。そうした漁業者のレベルでしたよ」。
漁業を引退しても
照井氏は中堅の漁業者であり、根室の漁業界に通じていた。それだけに二百カイリ以後、漁獲割当て量の縮小していくなかで、同業者がどう生き延びようとしているかを見通せる立場であった。氏は国後島民の会の副会長でもある。返還運動のリーダー役と漁業者の二面を持ちながら、漁業に力を入れてきた。「魚がいれば境界線を越えたこともあります」とみずからも密漁したことがあると認めている。逆境のなかから自立し船主になった。元島民としては成功者のひとりであろう。だが、業界の事情を知る立場から、減船に踏みきったものの、悔いが残って消えない。
「ニ年前(一九九〇年)までは持ち船五隻で、東経七十度のアリューシャン列島の近くまでサケ・マス漁にでてました。九〇年の減船でサケ・マスの漁業から手をひきました。しかし、違反覚悟で操業しているものは今、儲けている。百トンの中型船で一月半の水揚げが四億円というものもいる。かれらは決められた海域で取っている、協定違反はしていないという。そのかわり漁獲量は協定の割当て枠を超えて取っています。小型の十九トン船は、ただの何千万円しか取りようがないのに、片方は何億です。漁業界のリーダーとしては許されないことだ。しかし私が減船したのも資金力がなかったからです。この連中に肩を並べる仕事はできない。金を持っている連中は強い。金のない私らは落とされる仕組にされている。これは醜いです。根室のリーダーには展望がない」。
六十歳をこえたとはいえ、まだ闘志は残り、身悶えしている。漁業で生きてきた人生を、このまま朽ちさせたくないという気持がこちらにも伝わってきた。
レポ船と特攻船
根室海峡を自由にわたり、ソ連国境警備障によるだ捕の危険を免れる特権を持っていたレポ船については、西木正明の『オホーツク諜報船』〈角川書店)に詳しい。それによれば昭和二十三年にはすでに一隻が活動していた。その前年から北方四島、一万六千五百五人の島民が帰されていた。そのなかのソ連側になんらかのつながりをもった元島民からレポ船の歴史ははじまったと推定されている。フィクションで書かれているが、取材に十年をかけたドキュメントでもある。オホーツク海の”国境”の矛盾に、いかに、権力が振り回されたかを描破した小説だが、ジャーナリストらしい、脚で調べたドキュメントである。
ソ連との海峡を舞台としたレポ船を通じての諜報活動にたいして、警察庁外事課、公安調査庁が立ち向かうのだが、戦時中の機密保護法もなく、”日本固有の領土”の水域での暗躍のため、密入出国で検挙はできない、出入国管理令、検疫法も役に立たない。水産庁の漁業法違反を適用しても、ただの民事犯でしかなく、公安事件としては手を触れることはできない。その隙間をぬって、ベ平連は昭和四十三年(一九六八年)、十三名の脱走アメリカ兵をレポ船で三回にわたり国後に逃がした。問えるのは漁船に乗客を乗せてはならないという船舶職員法違反と出入国管理令、検疫法だが、証拠不十分で釈放せざるを得なかった。それは、最近の色丹へ”勝手交流”した元島民S氏に手を焼いたのと同じ理由である。
ソ連国境警備隊のレポ活動への誘いは、照井氏のような抑留時の説得のほかに、志願派、それにレポ船主からのノレン分けがある。ときにはだ補された場合の口利きの返礼として、有力なレポ船船団の系列につながるなど、”一種の海難保険のつもり”の類いまで入れるとその実数はつかみがたいという(八三・四・二、読売新聞)。
レポ船は七〇年代には八系統六十隻におよび、十トンから九十六トンまで様々だが、主に北方四島のカニ、ホタテ、ウニなどを獲っていた。このレポ船のドンだったK氏は入三年に”無許可操業”の容疑で逮捕された。自宅からは防衛施設のスナップや根室での返還運動集会の写真などが押収された。だが漁業許可証の又貸し(ノレン分け)や転売を禁じた道海面魚調整規則違反しか問えず、罰金で済まさざるを得なかった。
容疑者逮捕のきっかけは漁民からの密告であったらしい。
元島民のうち、返還運動のリーダーたちは四島の指導部にその身元や家族関係、公職や活動歴・経歴にいたるまで知られていた。”知らないようで全部知ってる”。このたびの日ロ島民交流集会の際にはロシア側に旧知の人のように扱われたリーダーもいる(箭波光雄、西田貞夫氏)。
八〇年代半ばからレポ船は下火になり、だ捕件数も減った。が、漁業者の密漁や大手の漁船の違反操業も絶えないようだつた。
その頃、日本水産界への内部告発ともいえる投書が朝日新聞「論壇」にのった(八三・六・二三)。「北洋漁業の違反操業は自殺行為。二百カイリ時代を自覚せよ」(渡瀬節雄・元大日本水産会専門調査員)元島民への歴訪の日々がそれである。サケ・マスはもとよりスケトウダラでは、隠し船倉に膨大な”隠し魚”違反を行っているが、水産庁の現場監督官が荷担している。金になるスケトウのタラコだけとり、魚身は捨ててその利用をかえりみない。同乗の監督官も獲った日付や漁獲地点の書き換えはもとより、漁獲量の水増しを黙認している。その見返りとして家を建てて貰った例もあり、ある若い監督官は漁業会社と現場監督の立場との板ばさみになり、自殺さえしたとバクロし、癒着と汚職の構造はロッキード事件と大同小異だ、と断じている。
遠洋からの撤退、海洋資源の保護の世界的高まりは、大型母船団漁業を誇る日ソ両国の漁業にも足かせとして働いた。なかでも北洋漁業は八〇年代に国際的”漁業新秩序”を作らなければ、にっちもさっちもいかなくなっていた。さらに八五年ゴルバチョフ書記長の登場と冷戦集結にむけて、状況はこのレポ船を不要なものにしていった。
それに代わって八〇年代末期に登場したのが特攻船である。この船体は四、五トンのプラスチック船で加速のために船外機エンジンを二、三基取り付け、そのスピードはソ連の国境警備隊をまくことが出来た。カニ、ェビ、カレイなど底に棲む高級魚が目当てである。これなら日本漁民の得意とする漁法を使えた。
「あれは暴力団の暴対新法以後の新商売だ」といわれるが、そのアングラマネーは二百億円にのぼり、疲弊した根室市を影で支えた。
「この根室市は魚依存型の都市だ。だから特攻船問題にも目をつむる。特攻船は歯舞、色丹島はおろか択捉島まで行ってカニを採ってくる。スピードアップしているので壊滅作戦に苦労したが、去年で終えた。だが特攻船のお陰で飲み屋は活気を帯びたし、油屋さんは儲かった。それが根室を潤したのも事実だ」(歯舞漁協・越湖英雄参事)。
湾中漁協の今むかし
根室市は人口三万規模の街だが七十もの町があり、漁協も根室(花咲)、歯舞、落石、湾中と四つある。この割拠性が根室の後進性を物語るといわれる。漁協はそれぞれに自民党の各代議士の支持基盤になっているらしい。
根室市湾中漁協は風蓮湖に近い内湾にあり、遠浅の潟に面している。このあたりにはコンブは無く、ホタテの栽培をしている。逆に落石漁協は「ここは太平洋が漁場で、北方四島とはほとんど関係がない」という。磯にコンブ礁を造成、それぞれ”つくる漁業、育てる漁業”を試みていた。
北洋漁業の基地根室・花咲港に比べれば、湾中漁協は街と村ほど違う。あまり目立たないだけに特攻船の出世する足場だという話もある。その目で船溜まりの船外機船を見ると、つい特攻船に見えてしまうのだ。
組合長の高橋敏二氏は若いひとだ。だ捕歴二回、現場から離れていないので逗しい。
「昨年のここの総水揚げは三十一億円です。むかしは二十億前後だったが、ホタテで伸びた。減船のあおりはあまり受けなかった方です」。
ホタテはここからオホーツク海側、沿岸一帯に育てる漁業として伸びている。この湾中漁協は組合員百三十五名だ。加工を含めてだが根室市全体で漁業・水産業関係四千七百三十人名(昭和六十年・国勢調査)という総数から見れば、やはり”村”規模である。その小人数の組合員のうち三分の一が島からの引揚げ者だ。”島が戻ったら帰る”という人もいるという。
戦後農村に帰った旧満州開拓地からの引揚げ者たちが、出身の村には土地がなく、僻地や荒れ地をあてがわれたように、島から裸一貫で帰ってきた漁民を引き取ったのは、やはりこのような町はずれの漁家集落ではなかったか。漁村の入会いから続く共同漁業権は通常、参入は難しい。とくにコンブに頼る歯舞ではコンブの権利を貰うのは容易ではないと聞く。どの浜も、いわば落塊した引揚げ者を入れることには抵抗があったに違いない。
ここでは島帰りの漁民と組んで、北方四島近傍の穴場でカニ、タラ、カレイの刺し網をしていた。「もとは四島の三カイリ沖まで操業できたんです。そこには魚が湧くほどいた。それが昭和五十何年頃ですか、二百カイリの設定があってからは島とこちらの中間にラインが引かれて漁場が狭められてしまった。それが痛かった」(高橋敏二組合長)。
あえていえば、ここから特攻船が出るのも無理もないように思える。暴力団とのつながりと言えば悪い響きしかないが、”組の若いもん“が漁業を覚え、働くのに何が悪いといわれたら、答えようがない。”密漁者”であることを咎めるムードは、ここには稀薄なのだから。
開拓地の自営漁民
最近、風蓮湖の奥に四十数年間、開拓地を開いて、漁業を営んでいる元島民がいると分かった。その開拓地・槍昔は冬は交通途絶の地だった。根室から国道四十四号線を厚岸に戻るかたちで一時間、脇道に逸れてジャリ道をさらに一時間。その途中にエゾシカを見たほかは人影はない。多分、野鳥の観察者くらいしか訪れないところだろう。その開拓地に戦後、国後、歯舞、サハリンから十八家族が入殖した。今日残ったのは八家族。当時の若手もみな中高年になり、分教場も廃校、かれらの孫たちはバスで厚床の小学校へ通っている。
訪ねた奥家義勝氏はひとり暮らしであった。
「ロシアの映画の下調査です」というと、ロシアであることが面白かったらしく、この間きたNHKの話から始まる。すべて自分で建てたという家には四十インチのテレビがある。そう広くない部屋に一見不釣合なほどの巨大さだった。「僕は最近テレビではじめて取材された。で、『島が返らない方がいいんだ』とマイクに喋った。それがカットされちゃって。放送日、自分が出るもんと思って、ボリュームをあげてもどうしても、カットされて出ないんだ。具合が悪かったんかな。それが本当の僕の気持、僕ばかりでなく、根室の人間もそう思っているのだが」と大笑いする。眼は底光りしている人だ。
「僕は国後の爺々岳の北、白糠生まれです。僕の父は大正元年に島に渡った。本来神主だった。神宮皇学館を卒業して、内務省から免許を貰って、北海道を祈祷して歩いていたらしい。そこで国後島に大きな漁場を持ってる人に頼まれて、四十戸くらいの部落の寺子屋の先生になったの。今でも根室市に教え子がいますよ。
父は白糠に定住してから人頼みの漁師をはじめた。むかしは三千円あれば親方になれた。根室にいる、いわゆる”仕込み親方”が、島の者の食料、漁具その他一切面倒を見てくれるわけ。サケ・マスを捕る。魚は冷凍などないから一切塩蔵しておくわけ。すると親方が年に何回か運搬船でもって引取りに来る。馬は二百頭放し飼い、そのうち製材にも手をだして、部落の親方になったんです。僕は昭和六年生まれ、かぞえの十四歳で郵便局に入った。父はなまじ教育があったので僕を根室の中学校にいかせたかったらしいが・・・。字を書く仕事は郵便局にしかなかった。徴兵で人がいなかったから、子供で入った僕はすぐ電報係にされた。郵便局に入って間もなく、昭和十八年に千人くらいの日本軍が北方警備に島に入ってきた。軍の電文は全部、数字の暗号でくる。宿直の時はひとりで受けて、ひとりで配達しました。誰かに召集令状がくると大変でしたよ。どんなところへでも馬に乗って、熊の出る山を越えて配達しました」。
ロシア人との共生体験
奥家氏は二年間、ロシア人と一緒に暮らした。
「僕が数えの十六歳の時には、うちから二十五キロくらい離れた『ベウスザウード』と呼んでいた製材場に泊まり込みで約二年間、引揚げまで働きました。ロシア人と全く同じ、配給物から給料まで同じ待遇だった。働けば大人も子供も同じ扱いなんです。ソ連はノルマ制だからいくら仕事をやっても同じなんだが、日本人は良くはたらくのよ。休みは、なし。革命記念日だけ。メーデー?そんなもんなし。労働組合?そんなものもなかったなあ。
ロシア人は男も女も働いていた。女は『レパザオード』という魚の加工場で働いていた。罐詰じゃなく塩蔵と”カクチョーナ(カプチョンカの訛りか)”とかれらのいう燻製を作っていた。遊んでいたものはいなかった。
村の”スタールスタ(村長)”は僕の親父だった。ちょうど僕らの部落に成田というウラジオストックにいた女の人がロシア語がすこしできたから、親父はその人を通訳として連れて歩いた。そのうちロシア軍の将校がきてすぐ玄関に赤い布切れを貼ってね。それに”スタールスタ”って書いであった。人夫が要るとうちに言いにきたな。
ロシア人がどうのこうのということは無かったね。民間人も大人しかった。ロシア人同士でもお互いに言葉の分からない人種が結構いた。何処からきたかときくと、ウクライナとかモルドバだとかいう。後からきくと”カタラシカ(カートルジェニックの訛り)”、いわゆる監獄に入っていた囚人もいたらしいな。
個人的にはロシア人はひとが良かった。ただ物をかっぱらっていく癖はあったけどね」。
氏のロシア語が正確な発音かどうかは分からない。しかし、氏、がロシア語を自分の言葉としていたことを伝えたいのだ。
「去年から花咲港にロシアの船がくるんで僕は時々遊びにいく。”おれは爺々岳”というと相手もそうだという。年齢から見ると向こうで一緒だったかもしれない。だから”島を帰せ”と言うべきか、それとも・・・迷うね。大体ぼくも足掛け十七年しか島にいないんだからね。何十年もいたという元島民はもう死んじゃっていないわけだ。僕も槍昔に来て四十何年経っているんだから。そうすると、あの頃生まれたロシア人のほうが島の暮らしは長いんですよねえ」。
奥家氏はたまにしか根室市にいかない。その時は時間を作って港に観察にいくらしい。
「ソ連はもとは国営で、大きな仕事が多かったが、ソ連邦が崩壊してからは小さい仕事をやるロシアの漁民が増えているんかな。かれらは漁労資材が手に入らないから、密漁者、が網を刺しにいくのを待っている。で、没収して使ってる。ご丁寧に刺し網を半分上げて持っていって、半分残した網にブイを付けてある。網全部を没収しないんだ。・・・最近も花咲港にいったら、ロシア人が、『国後島のウニはあらかた採って日本に売ったんで、今度は択捉島にいってウニを採る』と言っていた。日本の小さい船とか船外機を買って積んでいくんです。向こうでは丁寧に使っている。プラスチックのカニ籠も、向こうに密漁に行った連中の置いてった籠を没収して使って、採ったカニは日本に売っているんだ、ハハハ」。
氏は二年の混住の体験からかロシア語でじかに会話している。だからズバリと質問できるのだろう。ロシア人に好意的と思える氏だが、ビザなし交流などはしていない。なにがNHKでカットされるような言葉を語らせたのか。この開拓地は自力で開いた。それは父親が島でそうであったように、開拓者として生きた自負があるからではないのか。
島も風蓮湖も同じだ
氏の槍昔開拓について聞いた。
「僕は引揚げた直後、鉄道に勤めたんです。西和田駅の駅員になった。しかし給料取りが性に合わなくて開拓地の話に乗ったんです。しかし漁具もない、その支度や漁業技術も知らないので困っていたら、かつて島にいた人が『仕込んでやるから来い』というので、十八歳の年にその親方についてまず建て網を教えてもらった。で、十九の時にここに入殖したんです。
自分でやって見たら網を作る苦労はなかった。天性この仕事が自分に向いていたらしいんですね。いまだに漁師何十年やっていても、網をつくれない人は沢山いる。『奥家さんの作ったのは魚の入りがいいから作ってくれ』と隣近所から頼まれるし、若いものにも教えたし。島でもそうだつたが、ここでは助けあわなきゃ生きていけません。
ここはワカサギ、チカが多いし、冬ニシンも捕れる。風蓮湖の氷下網って有名でしょ。氷に穴を開けて、小さな建て網を仕掛けるやつです。結構捕れるんです。昔はマサカリで氷に穴を開けたが、いまはチェンソーだ。橇に変わってスノーモビルだ。どんどん楽になる。これが五百キロもの橇を引っ張る。だから今、手で力の要る仕事はやらんし、もう無いしね。金があれば良い」。
開拓から直し、継ぎ足ししてきた家である。お世辞にも美しいともロマンティックともいえない。しかし、母屋の数倍もある大きな仕事場と町の鉄工場なみの工具を揃えていた。
「うちにエンジンのついた機械が三十くらいあるし、ないのは旋盤だけ。溶接でもなんでもある。なにかが壊れたからといって時間かけて根室に行くわけにいかんしね。道具にしても船にしても、根室に持って行ってもここ(風蓮湖)の漁のことは分からんから、自分の仕事に合うようにここで作っている。僕の工夫したのをここでは皆で使っているよ」。
船本体も作り、その船外機船に網の巻き取りローラーをつける工夫までした。
「これは発明したもんです。船内にあるエンジンの軸につけるのは当り前、それを船外機に連結したんです。この風蓮湖は潟だから軽い舟じゃなきゃゃれない。網をあげるにはこれでピッタリ。これはアッというまに北海道で流行りましたな」。
奥家氏には特許などはどうでもいい風だ。
「ここじゃ、みんなこのローラーをつけてます。良いものは真似するし、部落では皆同じ水準になった」。
奥家義勝氏は私たちを見送りながら風蓮湖の船溜まりを案内してくれた。大津幸四郎氏は久し振りにビデオカメラを風景に向けた。元島民への歴訪の日々「最近、キングサーモン、マスノスケのこんなのが(と両手をひろげ)あらわれたんです。島のほうからやってきたんです。島では見たが、こっちでは滅多にいない。島は魚礁みたいなもんです。大きな養殖場です。島が返還されて、日本の漁業技術が入って、例えば、人工衛星なんかで使ったソナー(魚探)で漁業をやったら、ここはひとたまりも無いですよ。で、僕は島は返らない方がいいと言うわけ」。
風蓮湖には白い鳥がいた。が、私は船外機つきの舟に、どうしても目がいってしまう。「特攻船は下火になったとか・・・」というと、大声で氏は打ち消した。
「特攻船は無くなってない、今も真っ盛りよ。無くなったなんでいってるけど。ここから一時間以内に北方領土まで行ってしまう。操業は夜昼もなし。ただアレらは漁を終えてこっちへ帰ってからが厄介なんだ。カレイを捕ってくるわけ。僕らはカレイの漁の許可を持っているから、白昼堂々と岸壁で”網外し”をやるんだけど、特攻船は人目に付くことは避けるから、夜なかに”網外し”をやるわけだ。
地元のヤクザ連中だね。島あたりに行って見ると、取締りの目が一向に厳しくない、まあ目を光らせているのはソ連の警備艇くらいで、そんなのはかいくぐって逃げられるからなんともない。そんで芋づる式に増えてしまったわけさ。今でも、バカッ早い船を持っている人は全部特攻船ですよ」
ー道も漁業の監視などはしているんでしょう?
「さあ、日本の監督官はルーズだからなあ。まあ将来、北方四島でロシア人と日本人が一緒に仕事するのもいい方法だろう。そうすりゃ密漁なんかは無くなる。四島でやるなら漁業権をロシアから貰って、時期を一か月、二か月と決めて、それでやるのは出来ると思うよ。ロシアの監督官のほうがキチッとしている。日本の監督官よりもだ。そりゃロシア人にまかせた方がいい」。
そのロシア人観は混住体験からだろうか、氏の考えははっきりしている。
元島民の意見も各人各説、よそものには分からないことばかりである。
奥家義勝氏とその世界には開拓者の感触が色濃くある。これはロシア人にも伝わるだろう。
この開拓村も建て替えがすすみ、雪に強い尖った屋根の家が立ち並んでいる。息子さんらは根室市にいるが、氏はここをついの棲み処と決めているようだ。
ソ連を知る元島民・市民たち
根室市は千島列島の開拓・植民の窓口であった。徳川時代、ロシア皇帝エカテリーナ二世の近衛中尉ラクスマンが通商を求め、ここに錨をおろしたことは偶然ではない。その来訪から二百年記念の行事がこの年(九二年)四月に行われた。市博物館開設準備室はその資料集めに力を注いでいる。日ロ交流の歴史のある町へとイメージを変える準備ともいえる。
根室の市民は反ソ的であるといわれるが、同時にソ連を生活感覚で知る人がいたるところにいる。その意味で”知ソ派”の多い町である。
敗戦後一、二年にせよロシア人と混住体験を持っていたり、だ捕歴十一回という猛者もいる。抑留中に覚えたロシア語を喋り、島や収容所で顔見知りになったロシア人と組んで、サハリンに合弁設立の準備を進めている元船主もいるという。
私たちが訪れた七月末、大矢快治根室市長らは、前年、パラムシル・幌筵島のセベロクリリスク市、ボゴモロフ市長から申し入れのあった姉妹都市提携の話を進めるために北千島を親善訪問していた。根室市の歴史的・地政学的独自性を復活するかのようである。
北海道財界がサハリン、ウラジオストクとの繋がりを深めているなかで、根室市は目先の北方領土から思い切って眼をその先に転じ、ウルップ以北の幌筵島やカムチャツカとの経済交流を計っている。そこと貿易や合弁をするのになんの制約もない。
「試みにウルップ島(注、択捉の北東に隣接している)の開発で実績をつくり、それから四島に南下してもいいのではないか」(根室市日ソ友好親善協会・竹村孝章氏)という冗談もある。
海と自衛隊のない町ー中標津
不思議な現象だが、日ロの関係を、一歩引いた立場で見ているのが、道東の内陸、根釧原野の酪農の町、中標津のひとびとだ。根室市とは異なった北方四島へ見方がある。
道東の企業家たちは中標津空港を建設する際、千島列島からカムチャツカ半島路線を念頭に構想したという。まして「国後、択捉とのビザなし交流なら、大型ヘリコプターで三十分ないし一時間の距離ではないか」(中標津千島歯舞諸島居住者連盟支部長、萬屋努氏)という。中標津は海に面していない。つまり漁業利害が絡まない町である。それだけに、北方領土返還運動の渦中からはなれて自由な発想ができると考える。
たとえば、二年前、中標津の若手の市民運動家有志が発案し、根室支庁管内の市民のネットワークによびかけ、対岸の国後島に向けて道東からの照明投光器の点滅によって、”ラブ&ピース“の信号を”光のメッセージ”として送った(九〇年四月一日)。開陽台という”地球が丸く見える丘”からだった。国後島からは遅ればせながら、同じ光の信号が帰ってきた。それは道東の青年たちを狂喜させた。もたつく北方領土問題に条光を見た気がした。このシンボリックな着想は広い共感を呼んだ。元島民の運動に飽きていた中標津町民にも支持されたのだ。
なぜ中標津からだったか。その事情を発案者の松村康弘氏(空調関係、町会議員)に聞いた。その日、町はロシアの子供の受入れで賑わっていた。氏はその手伝いに追われていたが、快く時間を取ってくれた。
「島に光のモールス信号を送ってみよう、こんなことをゴルバチョフ書記長の登場(一九八五年)を見ていて考えたんです。五年前は仲間の『ふれあいネットワーク』に話をしても、一笑に付されました。ベルリンの壁が崩壊した頃から意識が変わりました。
中標津は面白い連中がいます。動物病院長の中田千佳夫さん(『光のメッセージ』会長)や自然保護運動、アイヌ問題などにも関心を持った仲間がいましたから出来ました。が、この町には海がないこと・・・それ以上に自衛隊がいないことが大きかった。
国後島に光を発射するならば、標津町からが近いし、羅臼の方はもっと近いんです。しかし、どの町にも自衛隊があって、多額の防衛施設周辺民心安定基金(補助金)を貰っている。これは町当局には無言の重しになっているんです。”北方領土の人々と対話をしよう”というのはここ道東では受けがよくない。町が『自衛隊がぐずぐず言って補助金を減らされたら困る』とか、『右翼が来たらどうする』と足をひっぱるのは目に見えています。標津には陸上自衛隊幕僚部二部別室という諜報組織がいつも双眼鏡で北方四島をみています。根室には”象の檻(レーダー装置)”がありますし、別海町には陸上自衛隊の駐屯地や演習場もあります。否応なしに利害関係があるんです。しかし中標津町は自衛隊員の募集事務所があるだけ。だから運動しやすかったんです」。
その後、光通信から一歩踏みだし、海峡の”国境線”に観光釣り舟をだし、島からのロシア側の船と接舷して、そこで贈物を交換したり、持ち寄った酒、ウオトカで乾杯する、いわば”海上民間交流”にまで発展した。九〇年からのこの二年で四回試みた。そこから島民の物不足も訴えられるようにもなった。
「一回目の洋上交流のとき、『耳の悪い女の子がいる。補聴器がほしい』といわれたんです。これを朝日(新聞)も毎日も大きく書いてくれて、個人やリオネットという会社からの提供で三個集まった。それを二回目の洋上交流で贈りました。喜ばれました。彼等は決して物乞いはしません。しかしこっちが助けたくなったら助けてもいいでしょう。二年前までは『不法占拠の島の人間に、援助などもってのほか』という風潮でした。こちらは逆に『隣人としては、持っていきたい時には持っていくのは勝手だろ』みたいな気持を押し通そうと思いましてね。そこで地域のみなさんに協力してもらって、カップラーメンを一万三千食くらい、じゃがいもを二・二トン、船に積んで持っていったんです」。
ビザなし交流はゴルバチョフ大統領の来日(九一年)の際にでた話である。それより一年先んじていた。”光のメッセージ”と呼ばれたこの運動は、ビザなし交流の始まった今日、すでに過去の伝説に近い。しかしそれへの一般住民の参加はまだできない。元島民の望郷の念に応えるのが第一義であり、参加資格はかれらと返還運動組織に限られる。
余談、だが、松村氏たちは知り合った島の有力者から”困った事情”を訴えられ、最近、国後島の新聞社に取材用の四輪駆動の中古車を送り、つぎにはその交換用タイヤを調達した。
同じ町の千島歯舞諸島居住者連盟支部長・高屋努氏は「すべて帰属がはっきりしなければ、交流や人道援助もできない。善意はわかるがやり方は良くない」と批判する。だが、松村氏たちは氏とも仲良くやっているところが中標津ならではである。
ロシアから根室を見る目
「日本とロシアとの生活格差は、日本がロシア人の十倍です。この格差のままどうして混住に移れますか」と、根室市日ソ友好親善協会の竹村孝章氏はいう。
「日ソ間では何をやるにしても北方四島が絡めば悪くなる。イベントをやるのは容易だが、私はもっと違うことをやろうとしているから慎重なんです。
長い眼で見れば、ソ連はちっとも変わっていません。貧乏はしていますが、世界一プライドの高い国民です」。
氏は市民運動には関係を持たない。「根室市」と冠するように、この地元に氏の親善友好運動を限っているようだ。事務局は市役所総務部となっている。極東は細かく回っているが、四島にはまだ足を運ばないでいた。カムチャツカに視察団を引率していったり、ラムシル・幌筵島との姉妹都市についても、大矢市長のアドバイザーとして応援している。
メモによれば氏の亡父は国後島の網元で、氏自身は島に渡ったことがない。父の水産加工を手伝っていた昭和四十年代、会社の持ち船十七隻がつぎつぎにだ捕され、父の没後、その会社を整理し、現在生コン会社の社長である。
昭和三十年代からこの運動をやってきた氏も、今は働き盛りの五十代である。
氏とはホテルのロビーで会った。
「この根室に中央の政治家が関心を持ち始めたのは昭和五十年代の後半からです。アフガン進攻(一九七九年)以来、ここは反ソ運動の先端にされました。ソ連人の立ち入り禁止地区だったし、ソ連人も恐れをなしていました。一昨年、私は皆を説得して、札幌のソ連領事館のアブドウラザコフさんご夫妻と娘さんを根室市に招待しました。あとでアブドウラザコフさんは『自分たちが根室に行ったら、殺されるんじゃないかとヒヤヒヤした』と冗談を言っていましたがね。根室には”島を取られた、かたきを討ちたい”という感情がある。私はこの”復仇”の撤回運動をしてきたつもりです。かたきと見るのはやめようということを言い続けてきました」。
ーあなたの日ソ親善運動になにか政治的な圧力はありましたか?
「根室ではこのホテル界隈にも警察の外事係が張っています。かれらの仕事ですから。むかしは親善運動をやっていると公安が気にしましたが、今では対ロシア関係のことは一応掌握していないと職務上具合が悪いという程度でしょうね」。
衆人に見られやすいロビーであるが、氏の声は大きい。そこへ札幌領事館の若い副領事アブラキシン氏が現れた。今夜はかれと会食の予定という。根室市では島のロシアの子供たちの歓迎会があるのだ。
竹村孝章氏へのお願いは、合作映画への理解と協力だった。
「ソ連で北方四島の映画を撮るとしても、あらかじめサハリン州やサハリンTVとの了解が必要でしょうね。極東ロシアのインテリは基本的にウラル山脈の向こうのインテリを信頼してませんからね。西のヨーロッパ・ロシアから来て、東で自由に振舞おうとしても出来ません。そのことはロシア人も知るべきでしょう。筋を違えて話を持っていったら、サハリン州は動きません。もう一枚岩のソ連邦ではありませんから。現に、沿海州とハバロフスクとサハリンはお互いに敵対的で、海上でだ捕合戦を演じています。各州の漁業権、入会権を巡ってです。サハリンの警備隊は他の州の漁船を捕まえています。私はつい先日、回ってきましたからわかります。
しかし、撮るとしたら今がチャンスです。この撮影のチャンスは、また閉じるかもしれません。四島はだれも外部からの人間を入れなくなるかも知れません。極東の各州も中央不信ですし、日本の外務省もビザなし交流に極めて慎重になってきています。今年のうちに撮ったほうがいい。私にできることは言ってください」。
今回の日ロ合作記録映画では、日本側スタッフも島を見たい。もうすでにいろいろなルートで作家や写真家は北方四島にいって取材している。なんとか島に渡る方法はないかと頼んでみた。
「それは私の口からは言えない。なによりサハリン州にビザ申請をして、州に入ることです。それから先のハプニングについては私は関知しませんし、その可能性は云々できません。北方四島へロシア政府のビザを取って入ることは、一応”国法”で禁じられていることです。それは、私の口からは絶対にいえません」。
取り付く島もない返事である。しかし暗示としてはこれで充分だった。ユジノサハリンスクにいって、そこから四島への入域を申請すればいい。
翌日、竹村孝章氏からホテルのフロントに分厚い『最新ソ連極東総覧一九八七年版』(島村史郎・木村汎・金田辰夫ー共同編集、エンタプライズ刊)が届けられた。「いつまででも結構、お貸しします。データはやや古いですが、ご参考のために」とメモが添えられていた。
大津幸四郎氏はアラノビッチ監督の参考に供するため、ビデオを回していた。氏と疑問を出し合いながらの調査は息を抜く間もなかった。現地はあまりに意外性に満ちていたからだ。
島民の望郷の念は確かだが、いわゆる根室市の北方領土返還運動”最前線”なるものについて東京で持っていた先入観は崩れた。しかし、かえってそれが面白いドキュメンタリー映画になる予感を与えてくれた。
一方、根室まできても北方四島についてのイメージは依然として把握できない。ロシア側は並行してその下調査をしているだろうか。
東京のプロデューサーY氏に電話したが、日本人スタッフのサンクトペテルブルグでの打ち合わせ用のロシア入国ビザは用意できたというテレックス以外、その後の連絡はとぎれているという。映画の先行きが見えてこない。竹村氏の「日ソ間ではなにをやるにしても北方四島が絡めば悪くなる」という言葉が頭から離れなかった。
ロシアの極東漁業について読む
眠れないまま、ホテルで『最新ソ連極東総覧一九八七年版』を走り読みした。定価一万八千円もする専門書であり、ソ連における極東の位置づけ、その歴史からはじまる文字通りの総覧である。そのなかの漁業の項目(担当・名和大作)に「極東漁業の現状」として、同じ国営漁業といっても、いわば大中小の規模に分類される漁業企業の差が書かれていた。
大規模なのは国営漁業である。ソ連邦・極東漁業総局には州単位の地方漁業局があり、その直轄の母船団をふくむ各漁業公団は最優先の位置におかれる。遠洋漁業の大型トロール船団もこれに所属し、ベーリング海、オホーツク、遠くはチリ沖にまでいって操業する。
中規模にあたる漁業コルホーズは、地先沖合の漁業を大型化する方向にあるが、公団のように母船・(洋上)加工船を所有していないから、その基盤は弱い。
小規模漁業がある。大型化、近代化から取り残された漁船が、沿岸漁業(いわば小企業であろう)に従事するのがそれである。そこには旧式な漁船と小規模な加工施設しかなく、都市部、消費地への輸送手段が整備されていないため、不振或いは停滞におかれている。
『総覧』の「極東漁業の現状」(執筆・名和大作)の一節に「極東の(ソ連)漁業は”漁獲量の増大”政策に従い、(極東漁業)公団のもとに、大規模漁業による集約的な漁獲体制を強力に推し進めた結果・・・非効率的な沿岸の小型漁船がとり残されており、現在、これら沿岸の小型漁船の再活性化をめぐっての漁業構造の見直しが、研究者を中心におこなわれている」とある。沿岸漁業がもはや存立し得ない現状に追い込まれているとも読める。どうやら北方四島には大国営漁業公団はなさそうだ。
色丹島にはソ連の極東最大の罐詰加工専業のコンビナートがある。しかし自前の漁労部門はなさそうだ。いくつか中規模の漁業コルホーズはあるようだが、北方四島は全体としては沿岸漁業の部類に属する。
『総覧』にある「非効率的な沿岸の小型漁船がとり残されており・・・」という指摘は、花咲港のロシア漁船の印象と重なるのだ。
カニ船を観察しながら、奥家氏のように島の資源と返還後の漁業の危機を予感している元島民も多い。やはり北方四島を見なければ済まない気がする。
沿岸漁業の町
私たちは根室から知床半島ぞいの漁協を訪ねた。別海、標津、羅臼と北上した。そこには狼室・花咲港のように遠洋漁業基地ではなく、主に沿岸漁業を営む漁家集落がつらなっている。
根室市からも見える国後島は野付半島からは至近距離十六キロ(九マイル)しか離れていない。昔、流氷が凍りついたとき、エゾシカが島に渡っていったという古老の話も領ける。野付半島の展望台にある超望遠鏡を覗くと、国後島の手前の旧泊村のあったゴロブニノあたりには人家や施設が見える。国後島への移住は他国へ行くといった大げさなものではなく、隣の浜に行くほどのたやすさだった。
戦後、だいぶ後まで羅臼へは根室、標津からは船でいった。羅臼から知床半島の漁場には、夏、いまでも船で通う。船で国後島に移り住むのはごく自然な人の流れだったろう。
八月はじめの日曜日、野付漁協参事の宮腰充氏を自宅に訪ねた。こちらのスケジュールにあわせ、つきあいゴルフを途中にして帰宅したという。熟年の教頭さんタイプのお方だ。氏は国後島の泊の最盛期を知っている。
「僕は国後の泊村の善平古丹いう町の出身です。やはりアイヌ語でしょうね。大正十五年生まれです。泊村の泊には村役場がありました。いま盛んにフルカマップ(ユジノクリリスク)に行きますから中心地みたいですけど、もともとは国後島は泊が行政の中心だったんです」。
-島での漁業の様子は?
「みな、一家でやる漁業でした。主にホタテ引きでした。当時十トン未満船ですね。あとはカレイの刺網とか、尾岱沼でも採れるエビ引きにカニ刺網、タラバガニです。善平古丹には大きなカニの櫨詰工場があった・・・昭和の早い時期にできたんでしょ、あの頃は『ホッカン、ホッカン(注、北海道漁業罐詰会社)』と言っていました。でっかい罐詰工場だから、百人以上働いていた。”バンコさん”と言う女工さんの宿舎があり、でっかい事務所があってね。泊は昔は、役所の出先は全部ありましたし、立派な村でした」。
島の年譜によれば泊に最初の小学校ができたのは明治十三年・一八八〇年、択捉島とならんで四島のなかでは最も古い。色丹島のそれは十数年後、水晶島は二十数年後の開設である。
「僕は横須賀海兵団に志願して入隊しました。大東亜戦争に参加して、各地を転戦、復員したのが昭和二十年九月一日です。ソ連軍がきて間もなく復員先から帰ってきた僕が最も手をやいたのは、家族の説得でした。兄嫁の母親がどうしても島に居たいと言って、用意した船に乗ろうとしませんでね。ようやく一家で引揚げてきたのは敗戦の年、雪の降る十二月でした。辛い経験をしました。島を逃げてくる時に家や財産を売り買い出来なかったということから、敗戦国になったということを実感しました。島に残るのも、逃げるのも勝手なんだから、家から我々が出てしまえば、そこに入りたい人は入るわけだし、飼い馬をおいていくからといっても、売り買いができないわけ。われわれは放棄して逃げて来るんだから、脱走だからね」。
だ捕の海から浜での養殖へ
国後、歯舞、色丹から引揚げてきた人も野付漁協に多数入れてもらった。新規に漁業組合に入るのは容易ではないが、ここの浜は受け入れてくれた。その事情は過疎漁村だった根室の湾中漁協と同じだ。
引揚げてきた野付のほうが、島の泊と比較にならないほど”貧乏漁業”で、漁法も遅れていた。島のほうが船も大型で、島周辺の漁業に適した発達をしていた。だから尾岱沼漁協(旧野付漁業会)に加入してからは、漁法も技術も進んでいた引揚者漁民が尾岱沼の漁民たちを引っぱっていったという。
泊周辺漁場に明るいので、もっぱら海峡の島寄りで操業した。戦後しばらくは、領海三カイリの線を越えて、自分の海の感覚で漁をした。だからここでのだ捕は頻発した。
「捕まれば泊に連れていって、そこで裁判です。この辺の人は三か月か、長くて六か月、抑留されました。けれど、船は帰さないんです。昭和二十年代後半が一番多かった。毎年、”だ捕の年”といってもいいくらいですね」。
だ捕にまつわる話は尽きなかった。しかし、だ捕保険が出来、相手の出方も分かり、海峡での漁の要領ものみこめてきた。その漁場が一段と狭まったのは一九七七年の二百カイリ宣言からだ。それから沿岸でできる漁業に取り組みはじめたという。
一九九〇年、野付漁協は総収入約百十二億円のうち、半ば五十五億円近くを野付湾のホタテの養殖で稼ぎ出し、四十億円をサケマスの定置網からと、この二つの魚種で総収入の八割を上げている。また、組合員の裕福さを示す指数になる漁協扱いの貯金(信用事業)も百億円を超えた。ここは今、育てる漁業の成功例として全国にその名を知られている。
漁協とはもともと「協同組合」だ
-ここの後継者はどうですか?
「ここは漁業後継者の本当に心配のないところです。後継者に嫁さんも来てくれる。嫁さんを探すのに無理しなくてもいいんです。いま平均一戸あたり一千万円の収入がありますから、ほどほどの生活が出来るようになったんです。普通、どこでも”漁業の後継者がいない、いても漁師の跡を継がない”という漁村は全国的に多いんですが、ここは本当に後継ぎを断わる話はありません。若い人が組合員の中心にいます。むしろ年取った組合員をどう稼がせるかです。年齢、六十五歳、七十歳はまだ働けますから。むしろそういった高齢者対策として、楽なアサリ漁をさせるとかしています。若い漁業後継者が居なくて困るうちなんかないんだから。娘さんしかいない家庭でも婿さんが来てくれるんだから」。
宮腰氏はこの漁協には全国から参観者、見学者が絶えないという。その際、ここの漁協の生き方を分かってもらうのに「譲りと協同」「積小為大」といった標語から説いているという。教頭先生の印象ははずれてはいないようだ。
「わたしどもは本当に困った時代があったから、昭和三十年代前半から、協同組合の本当の役割というのはなんだろうと考えた。一人のお金持ちをつくるよりも、一人の落後者も出してはならんということでお互いに助け合いをしようと。それが”協同組合運動”だと。そういう信念に立ちまして、皆さんがたの善意の金を拠出していただいて”事業資金のプール制度”をもうけ、困った人には無担保で貸出しして更生させたんです。サラリーマンの安定にみならって、漁家を月給制にしようと”月どり貯金”を積み立てることにした。老後に備えての養老貯金とか、奨学資金を積んで、組合員子弟の学校の学費を助けようとか、そんなことを”協同運動”としてやってきた。協同運動では抜け駆けは出来ません。銭金を儲ける話、銭金を取れればいい話にどうしても走りがちだけれども、”協同運動”という限りにおいては、物と心の調和を大事にしていこうということでやってきました」。
たしかに裕福な村である。二百カイリいご、沿岸漁業の活性化がさけばれ、育てる漁業、作る漁業へと政府は誘導してきた。ここの場合、沖合漁業がだ捕の危険と表裏をなしていただけに、協同組合主義に凝縮していった。氏には今、ホタテの過剰生産による値崩れが心配だ。しかし過密によるホタテの斃死は心配ない。養殖の漁場である野付湾に、潮の入れ替えは十分にあるという。密漁によるだ捕事件はここでは滅多に起きないと自信を持っていた。
「しかし、いい島ですよ四島は。本当に大事な島ですね。日本に返ってきた時になにをやればいいのかが大きな課題ですね。漁師だから魚とりだけすればいいという時代じゃないでしょう。どう日本人とロシア人たちと調和しながらその島を開発するか、自然を残すかです。僕が一番感謝しているのは、”ロシアのお陰で島の自然をそのままに残してもらったなあ”ということなんです。今後も自然をこのままにしておいてちょうだいねと。(ビザなし交流の際の島のスナップ写真を見ながら)本当にいい島ですよ。同じハマナスの花にしても、自然の浜に咲くのは本当に締麗なんです」。
この時期、「国境の海には鯨が汐を吹いたり、泳いでいるイルカがみえます」と氏は、別れ際に教えてくれた。だが、それを見る余裕はなかった。野付湾ぞいの国道を北へ、羅臼にいく道々、町の辻のファミリーレストランで子供づれ夫婦の食事風景にであった。都会と変わらない生活がある。
”嫁のくる漁村”、それは沿岸漁民の勝利宣言に聞こえた。
羅臼の漁協参事
羅臼は背後に山をもち、国後島の山々に対峠している。広い北海道の道東一帯で、なぜこんな急峻な山裾に漁村ができたのか不思議である。よほどいい漁場があり、ここに住みついたとしか思えない。
この日、日曜日のためか漁港も静かであった。しかし、この漁協ではだ捕事件が絶えないのである。海上保安庁の巡視船が二隻、岸壁のはずれに停船していた。
ここの漁船は流氷の時期にスケトウ漁のため氷の海に出る。その舳先が砕氷船の形になっている船ばかりだ。
埋め立て地に一台の古ぼけた右翼の街宣車が挨をかぶっていた。道東にきてはじめて街宣車を見たが、しばらく使われていないようだ。
この町では歯舞諸島の多楽島出身で、千島歯舞諸島居住者連盟支部長であり羅臼漁業の参事である高岡唯一氏に会った。昭和十年に生まれ、十歳の時に島から引揚げたという。
島では一家はコンブを採って生計を立てていた。ソ連軍のくるまえにはやばやと島から根室に引揚げたという。いまは奥さんとふたり暮らしだ。
氏は正組合員七百名を擁する羅臼漁協に勤めているが、漁仕事はしたことがない。昭和三十年、高校を卒業後、根室・羅臼間の定期船会社、羅臼運輸(株式会社)に勤めた。
「その当時は道路整備もされていませんから、羅臼も島と同じ状況だったんです。冬のくる前には、春になるまでの食料と生活物資を根室から船で運んでくる。まったく陸の孤島でした」。
定期船勤めの仕事だったからか、氏は道東の沿岸、それぞれの漁場の模様に詳しかった。
根室市は沖合と遠洋漁業の基地。別海は野付湾の浅い海の漁業。標津は日本屈指のサケ定置網でもっている。そして羅臼は冬のスケトウと深海の底刺し網と岩場のコンブと、道東では最も多彩な漁業をしている漁業一色の町だ。
スケトウは流氷の時期にオホーツクから南下し、ここ国後水道で産卵する。むかし、流氷期は漁を休み、海明けまでよそに出稼ぎにいくのが当り前だった。今、冬が一番忙しい。
「流氷期にここへスケトウがくるなんて、戦後しばらく経つまで知らなかったんです。ソ連のトロール船団が向こうでなんか盛んにやっているんで様子をみていると、海の深みでスケトウを獲っている。それでびっくりして真似たんです。で、船はみな木船から鉄鋼船に変えて、砕氷能力をつけるようになったんです」。
冬も操業できるので出稼ぎをやめ一年中ここで働けるようになった。
ここのスケトウ漁が実はソ連のトロール船の真似だったという。ソ連は五百トン以上の大型のトロール船で底引き網を引いた。だが、日本ではこの海峡での底引きトロール網漁は禁止されている。だから羅臼ではスケトウを底刺し網で獲っている。これは海底にかすみ網状の漁網を張って魚を採る漁法である。これにはマダラ、ホッケ、カニ、カレイも掛かる。このいろんな魚種を混獲できるのがこの網漁の旨味らしい。羅臼では殆どがこの小型底刺し網船である。
高岡氏のいうように、根室から稚内までの間に遠洋漁業基地はない。ほとんど沿岸領海内の漁業である。冬はほとんどの漁協は船を陸にあげ、海明けまでは休漁にする。ひとり忙しいのは羅臼である。だから、冬は暇な歯舞のコンブ漁民などはスケトウ漁の加勢に、羅臼へ泊まり込みで出稼ぎにくるのだ。
スケ卜ウの独占漁場、羅臼
北太平洋の大回遊魚のスケトウは魚卵のタラコは美味だが、身はおいしいとは言えない。敗戦後、都会では魚の配給といえば塩漬けのスケトウばかり、私も飽き飽きするほど食べさせられたものだ。いまでも食いたくない魚の筆頭である。白身魚のスケトウがかまぼこやはんべんの原料にならないかと、戦前からスリ身化の工夫を重ねていたが、スリ身にしてもパサついて練り物にならず、半ば諦められていた。
昭和三十年代、試作中に、食塩と誤って砂糖を混入したら、粘り気のあるスリ身になった。これを機にスリ身の原料魚としてスケトウが使われはじめ、やがて大量需要時代が訪れた。釧路のスリ身加工はその関連工場を含め三十三工場に増えた。
日ソ漁業交渉によって、北転船の底引き網によるスケトウ漁が、オホーツクでも許可され、北転船団の基地、釧路は活気に満ちた時期が二十年近く続いた。
二百カイリ以後、八〇年代に入ると、日本の北転船などの乱獲操業へのソ連の規制は強まった。
一九九〇年、ソ連では国内法により底引き網が全面的に禁止された。そのかわり、ソ連はオッター・トロール式といわれる、網を海底から浮かせ、中層を引く漁法にトロール船を改造した。これなら”着底トロール”とは違って海底を荒らさず、他の魚種の混獲も避けられる。そして、ソ連は「外国船(日本・北転船)にのみ着底式の底引き網を認めるわけにはいかない」と主張した。それには理があり、北転船は、同年、ソ連水域での操業をやめた。以後、スリ身の原料魚スケトウは米ソから冷凍ものが輸入されるようになった。そして国内のスケトウの有力漁場としては羅臼しか残らなくなったのだ。
羅臼のスケトウは八〇年代から好調だった。浜値も年々よくなり、漁獲量も増えた。むかし、スケトウはタラコ持ちのメスは高く、オスは超安値だったが、スリ身になると分かった時から、ほぼ同じ値段(一キロ・百三十円)で売れるようになった。かつてのニシンの最盛期に似た羅臼のスケトウ景気が続いた。漁船はその船体を砕氷力のあるよう開発し、最新計器を装備したし、馬力も格段にアップして、スピードを競った。
釧路に通ずる国道も立派になり、羅臼は釧路圏に直結した。家並みには”スケトウ御殿”が建ち、町は見違えるようになった。
だが、”国境線”での越境操業は一向に減らない。日ロの漁業交渉のたびごとにソ連側から克明な違反報告が突き付けられる。羅臼はその最もマークされている漁協のひとつである。しかし漁協の危機感はやはりスケトウ漁の最近の減少傾向に向けられている。
近年、ロシアのトロール船団がオッター・トロール漁法を装備してさかんに海峡に入って来るようになった。「向こうは秋のはしりから二、三千トン級のトロール船団十数隻が操業、流氷までに集中的にスケトウを獲りまくるので、めっきり漁獲量が減りはじめています。それがサハリンからのトロール船団か、カムチャツカからか。以前は五百トン船二、三隻だったですが、いっきょに増えました」。
海峡の”中間線”をはさんで、ソ連の大国営船団と日本の沿岸漁業者との争いの観を呈してきた。羅臼漁協は政府に陳情してソ連にトロール網漁を止めるように申し込んだ。
「むこうの答え方は『資源をお互いに論じるんだったら話し合う。けれども、自分たちの領海でやるし、いまの漁法は”着底トロール”ではない。中層引き網までやめろということには応じられない』ということのようです」。
ソ連のトロール船団が海峡の自国領海内とはいえ、オッター・トロール漁法で獲りまくっている。こちらは底刺し網だ。向こうは、一網打尽ではないか。いまいましい限りというのがここの漁民感情だという。
現実に、一九九〇年、十一万一千四百トンだった水揚げが、この年(一九九二年) は過去十年間で最低の三万四千五百トン、三分の一以下に激減した。あまりの急落に羅臼は泰平の夢をやぶられた。
「どうもオホーツクの漁業がどうなっているのか、皆目わかりません」と氏はいう。
”密漁・だ捕”合戦と並んで、これまでとは異質な”漁場・漁法”戦争の芽が出てきているようだ。
おもてに見えない根室市民
七月三十日、ロシア人生徒四十人が根室市、ほか道東の各所を訪問するため、花咲港に到着した。港には羅臼の太鼓グループが景気をつけて歓迎した。日本側は道東の教育委員会の根回しで各中学から選抜された生徒たちが根室に集まった。中心地の小学校の校庭では「日ロこども交流」の最初の行事である交歓運動会が催される。元島民の会の奥さんたちは野外バーベキューの準備に追われていた。竹村孝章氏夫人が肉に串をさしている。ふんだんに材料は用意されていた。
色丹島民の会の西田貞夫氏は、引率者のマロクリリスク小学校校長のヨシャコーワさんと並んで、上気した顔で応対につとめていた。しかし、一般市民の参加や、ぶらりと来て見る野次馬もいなかった。夏休みなのに、近所のこどもの姿も見られない。
市や支庁の職員はキリル文字で「ネムロ」と染めたTシャツをきて、汗だくで世話していた。
さきに竹村孝章氏に会ったとき、是非あうように勧められたのは、根室信用金庫の理事長大畑繁雄氏である。”元島民ではない人物”に会えということだったが、この地元財界のトップの氏自身、歯舞の志発島出身者だった。このこども交流に四百万の資金援助を申し出たなど、問題に前向きに取り組む人として一部に知られていた。
「私は二年間ロシア人と同居しました。島の先生は逃げたので、私が代用教員にさせられました。その後ロシア人の委嘱で視学になった。だが戦後の国語教科書はない。戦争中の軍艦や戦闘機のついたやつで教えていた。ソ連側は『日本人はサムライ止めろ』という。サムライとは軍国主義のことです。拳銃を手にして尋問されました。罰として防空壕だった収容所に入れられた。そこで一晩留置されたが、『私が居なければ、子供は勉強できないぞ』というと、彼等も私の言うことを聞きました。それ以後は一目置かれました。いやあ、こういう話をするのは初めてですが」。
ー地元の金融・信用事業からみて、北方領土問題についてどうかんがえますか?
「去年(九一年)十一月、根室市商工会議所でカムチャツカの視察に行きましたが、彼等の家の中は綺麗ですよ。
私はカムチャツカの方にいいました。『北方四島は共通の畑なんだから、お互いに生活ができるようにしたらどうか』と。と、向こうは『われわれには設備もないし金もない、日本は金があるんだから、うちの資源をどんどん買ってください。経済交流をしましょう』という。これはロシアのどこに行ってもそうです。
根室は千島列島があっての町だったんです。それはこれからも変わりません。但し、四島の問題では元島民の地権、漁業権をまずはっきり処理しないといけないでしょう。返還されても国が社会資本をどれだけ投下するか。大資本が島に入るかも知れない。だれがやっても、人間がどれだけそこに住むかがはっきりしないと”金”は作れません。住む人の頭数によって予算ができるのですから。しかしロシア人が現実に住んでいるんだから、その生活は保証しなければならないでしょう。今でさえ島の生活基盤はできていない。通信網はない、道路はない、港湾がない、官公署がない。これらは最初に要るでしょう。国としても租税のあがらない所に資本を注ぎ込むかどうか。あんまり甘えてはいられない。
ロシア人にも時をかさなければ・・・極東のロシア人には特にです。うちの線室信金に、ロシア人がドルを円に交換に来ています。もうそのうちに、北方四島は”円経済圏”になるかも知れません」
この大畑氏の意見では、根室市は経済交流の心構えは静かだが、熟しつつあるという。そのことは氏の態度にも滲みだしていた。根室には人材がいると改めて思った。
私たちはここで根室市・道東の調査にひとくぎりつけることにした。中標津を訪ねて、根室市を外側から見ることもできた。中段から沿岸漁業の実情にもいくらか触れ得た。
合作記録映画に向けてのステップをどう踏みだすか。そのことの重さが増してきた。そのためにも、根室から離れ、ある距離を置く時期にきていた。