書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 道東編 道東をめぐって考える
「島を返せ」の主役は不在
一九九二年四月からゴルバチョフ旧ソ連大統領の公約どおり実現したビザなし渡航は、やはり画期的な出来事だった。元島民とロシア島民の直接交流は参加者数、相互に二百人以上にのぼった。しかし、中標津の青年のロマンチックな海上交流を別にすれば、この間、一般市民の交流の希望は満たされていない。
そもそも元島民たちのロシアとの初の接触はソ連軍だった。「なぜアメリカ軍でなく、ソ連軍なのか」。驚きと、その後の苦労はやはり並大抵ではなかった。封鎖された島社会だっただけに情報がない。どうすればいいかの判断材料は決定的に不足していた。それは日本本土の被占領下の生活と全く違っていた。
私にも占領外国軍と直接に接した体験がある。十九歳のころ、通訳の助手として半年問、立川米軍基地で働いた。基地のアメリカ兵士は粗野で、日本人労務者の使役ぶりは荒っぽかった。基地近傍の娘たちの受けた性的被害を見たし、白人米兵の黒人兵への差別も見てきた。
一方、私がアメリカに羨望の念を持ったのは、その豊かさであり、文化の香りだった。アメリカ映画に見る市民の生活の一端、車社会、電化生活、脂したたるビーフに憧れた。その生活はアメリカ基地でも同じである。当時、腹ペコの私は僻みと物乞いの衝動に悩まされた。当時、もし、私たち世代に「アメリカ国籍を取り、アメリカで働かないか」という誘いがあったら、皆が口を揃えてイヤだといったかどうか怪しいものだ。
その当時の体験と重ねながら、私は元島民の話を聞いた。ソ連軍兵士が土足で家捜しした、威張り散らして取り調べたなどという話を聞く一方、元島民に乱暴をしたソ連兵は罰せられたとか、文句をいえばかえって重用された(根室信金・大畑氏ほか)などを聞くと、日本人島民もソ連軍もともに離島の中に押し込められ、狭い島社会での共住に、それなりに知恵を出しあったと思う。
島での日ロ住民の混住の時期、生活の苦労ではほぼ横ならびだった。同じ給与、同じ待遇であった(国後島・奥家氏)。高級官僚はいい思いをしているが、島に移住したウクライナ人の貧しさ、その辛そうな過去には同情さえした(択捉島・佐藤氏)。漁業の仕事は日本人が教えた。ロシア人は懸命に覚えようとした(志発島・大畑氏)。
ロシア人は黒パンと塩づけサケ・マスの食事だった。野菜の作り方は日本人にならった。時計などを持つロシア人は滅多にいなかった。暮らしの中身ではロシア人と日本人とは、その辛さはあまり隔たっていなかった。
「ソ連はいやだが、ロシア人は個人としては悪くない」と誰もがいう。社会主義にも馴染まなかった。お国柄にさほどの魅力はない。日本人としての生活に、自負も愛着も持っている。「帰化して、島に残れ。自分たちにロシア人になれというのか」。これが一斉引揚げのきっかけになり、北方四島からは、日本人は一家族も居なくなった。
あれから五十年近い歳月は過ぎた。「今でもこんなに困っているのか」。ロシア人現島民の昨今の物不足に元島民は同情する。ロシアでは稼ぎ頭である漁船員でも”日本円にして月二千円”の月給しか貰ってないそうだ。それは日本人平均の百分の一じゃないか。「いま島で暮らせば、私は今の資産で一生らくに暮らせます」(中標津・高屋努氏〉といった冗談がでて不思議はない。それがいつしかロシア人への軽視と哀れみを誘いかねない。「この格差のまま、混住などに移れますか!」という根室市日ソ友好親善協会の竹村孝章氏の言葉は、日ロ島民間にあるうわベの友好親善の偽善性を射抜いている。
下調べの折、墓参団の元島民の平均年齢が、”ニ世をふくめても六十三歳”とあった記事を読み、正直に言ってこれじゃ日本側(島民)の負けだと思った。ロシア人島民の平均年齢はその約半分、しかも子沢山で老人の少ない典型的なピラミッド型の年代構成を見せていた。日本の辺境に若者が背をむけてから久しい。だがロシア人は老若男女、子供たちまで島にいる。その差は歴然としていたからだ。「このロシア人に島から出ていけと言えるか」(箭波光雄氏)との元島民の帰国談が物議をかもした。”当事者”である元島民の口からは出てはならなかった言葉。外務省の方針「ふるさと四島一括返還・政経不分離(経済交流への制約)」の方針に反するからだ。しかし、今回のビザなし交流で島を訪れた元島民は「返還は望むところ。だが、よしんば島が返らないとしても仕方がない」という気持をもう隠してはいない(野付・宮腰氏ほか)。この変化は突然だったのだろうか。
元島民が真剣に帰島を思った時期は二回あった。一回目は一九五六年十月、鳩山首相とフルシチョフ政権との「日ソ共同宣言」の時だ。この宣言の日、根室では歓呼の声があがり、提灯行列で祝賀した。たとえ歯舞、色丹島の二島にせよ、昭和二十年代から続いた”だ捕の年”はこれで終わりと思ったからだ。二回目は七三年の田中・ブレジネフの「共同声明」であった。元島民が”現役復帰”の夢をもち得た年齢だった。この不発は希望の火を吹き消した。
もう島での生活に復帰する体力、気力は使い果たし、根室などでの生活が根づいていた。それから以後二十年、この冷戦の終わらない如く、島は返るはずがないと諦めつつも、元島民は返還運動のたすきを掛けて全国署名運動の先頭にたった。
にわかに信じがたい展開が生まれたのはゴルバチョフ大統領の一九九一年の訪日前後からだ。
返還運動を進める国に返還後のイメージがなかった。”まさか”の展開である。漁民の希望は具体的である。北方四島周辺の漁場が手に入ればいい。明解である。だが、島の住民、本来的な意味で当事者に祭り上げられていた元島民はどうすればいいのか。それには準備もなければシュミレーションもしてはいない。この展開によって、矛盾は露呈した。「島を返せ」の主役は不在だったのだ。それが今回の調査での発見であり確認であった。
もひとつは漁民たちが、”島は魚の遊び場、天然の魚の増養殖地”(野付漁協・宮腰参事ら)とみて、むしろ現状の”国境の固定”を認めていたことだ。
北洋にむけての大漁業基地だった根室のかげにあって、その遠洋漁業権を持たなかった道東の漁村(町)はひたすら前浜で活路を開いた。オホーツク海沿いの野付半島、羅臼、知床、サロマ湖、紋別などの漁協は隣の漁協との境をまもり、沖の国境線の領海域までの矩形型の限られた漁場の条件のなかで、”育てる漁業” ”つくる漁業”を作りあげてきた。
「ロシア人の密漁はみたことがない。ノルマの国だから、全然ない」(択捉島・元島民)。
むしろ、かれらには道や国の水産行政への批判がある。力と金のある漁業資本と水産行政(規制監視)側の癒着を見てきた。正直ものが馬鹿をみるという悔しさがあるのだ。
「島の魚の資源保護の監督はむしろロシア側にやってもらった方がいい。日本の役人は御免だ」(奥家義勝氏)といってのける。元島民出身の漁民の中にも、環境破壊を免れた四島を目前にして、”帰ってくるな、北方四島”というに等しい声が聞こえたのだ。
北海道の首都・札幌
札幌市でのスケジュールは多忙をきわめた。真先に紹介者を通じてウタリ協会に面会のアポイントをとろうとしたが、全国的な会議を控え、その余裕はないと丁重に断られた。
北海道庁では北方領土対策本部を表敬訪問した。ビザなし交流の最盛期であり、参考資料をいただくにとどめた。ただ、日本側の報道関係者やカメラ取材についてはもうすべて決まっている。ロシアとの合作映画であろうと例外は無いですよ、と念を押された。
北海道新聞は当然ながら、もっとも経験が蓄積されている。社会部の三浦寿美夫次長に会い、北方領土取材の際の手順や心得について懇切に教えていただいた。
「映像のお二人を前にして申し訳ないんですけれど、特にテレビ取材班が一昨年あたりから取材に入りましたが、その場所にいかなければ仕事にならないせいでしょうが、向こう(南クリル地区委員会)のいうがままのお金を払った。”絵になる所を撮りたい”ということで、相手のいうままのお金を出した。島の当局から外貨稼ぎの絶好の標的にされました。”こんな風にやればこれだけのお金が入ってくる”という前例を残したのは事実ですよね。だからあなた方も、島でお金がいくらかかるかは一種の気合いみたいなものです。まあロシア映画なら話は別でしょうが」。
氏は社の取材費のおおよその数字を教えてくれた。日進月歩というか、外国人ツーリストむけのサービス会社もできるらしいから”一セットいくら”という値段に落ち着くでしょうという。帰りながら、”ニューヨークのホテル代、車代を思えばなんということはないさ”と強がりをいうものの、気は重かった。
根室市で取材中に是非あうように薦められたのは北海道地域総合研究所の荒井信雄氏である。横路知事のブレーンというだけではなく、大矢根室市長の助言者でもあり、北千島列島との提携について助言した方と聞いている。根室市でなければ発信できない情報がある。そういって励ましていると竹村孝章氏から聞いた。
氏はモスクワの大学をでたあとも、商社活動を通じて長年、ソ連邦・ロシアにかかわってきた。年齢から察するに全共闘世代ではないだろうか。混血、長身。ロシア人といわれても区別できない。プラウダ、イズベスチャ、そして極東の地方新聞も読み、解析しておられ、そのレクチャーはおおいに参考になった。だが、氏自身、影響力あるオピニオンリーダーである。私には氏の話のディテールを詳説する自信はない。しかし、映画についてとくに指摘されたことを紹介しておきたい。
「この合作記録映画がもし、返還賛成論の視点で出来上がったら、日本人が映画を見て、”それ見ろ、ロシアでも『日本の主張(返還論)が正しい』と主張する映画も出てきたじゃないか”、ロシアにも返還賛成の気運が強くなったんだという風に短絡しませんか?それでは根室の人もロシア人も賢くなれない。現状は、日本人にとってもロシア人にとっても想像を超えた事態にあるのだから、両方の人たちに賢くなってもらうには、どういうメッセージを送ったらいいのか?
一九四五年以後の日ロの問題、元島民自身が『解決など有り得ない』と思いこんでいた問題を解決していくプロセスが、今後、一番大事になるでしょう。今島のロシア人を一番理解できるのは元島民です。これは疑いない。彼等の長い経験が無駄にならないような、また、ロシア島民の経験も生きる映画であってほしい」。
氏の「ある結論を持った決定論で映画を撮らない方、かいい。問題を抱えたひとびとの解決への”プロセス”を撮ってほしい」という薦めは私には適切だった。
”合作記録映画”をおりる
この旅のあいだじゅう、大津幸四郎カメラマンはあらゆることを想定しながらロケハンしていた。私は共同演出を引き受けるかどうか迷う。氏とは職能が異なるからだ。
冒頭にふれたように、合作記録映画についての私なりの条件がある。相互に道東、北方四島を同行取材し、意見と見方をクロスさせて最終構成と編集にいたるというものである。しかし、この企画はあくまでアラノビッチ監督の発意によりはじまったものだ。
プロデューサーY氏はレニングラード(現サンクトペテルブルグ)に行き、解決しようと提案してくれたが、この間の連絡不通の状況や監督の作品志向を考えると、その場では契約調印が精一杯で、とても共同演出の打合わせの余裕などアラノビッチ監督側にあるとは思えない。
すでにロシア側の製作部は北方四島に出発し、ロケ本隊もロケハンなしに島に入る計画らしいからなおさらだ。もうロシア映画の製作システムで動いている。私のドキュメンタリーの方法論などは入る余地はない。今回、担当を調査に限ったことは賢明だったと思った。
私はメモと調査資料をそっくりアラノビッチ監督に渡し、監督はそれを参考にして自由にかれの”ロシア映画”を作ったらいい。彼ももともとそのつもりだったに違いない。
札幌の宿で、私は自分の去就をプロデューサーY氏に話した。Y氏は困惑された。しかし幸い氏の合作への決意は堅く、監督との約束は果たすことに変わりなかった。それが私には救いだった。
その後、アラノビッチ監督へ調査メモを届け、報告書全文はプロデューサーに提出した。
同監督のロケは九月から始まった。大津氏は日本側カメラマンとして、その協力監督にはロシア語のできるO監督、がこれを担当した。この映画『アイランズ・島々』はスタートした。
私は自分勝手に”幻の日ロ合作映画論”を立てて、ひとり相撲を取ったようだ。何時か機会があり、同監督に会ったらその喜劇的一幕を語りたい。いまは映画の成功を祈るのみだ。
だが、この主題は混沌としたまま私の中に根を広げ、私の映画を作るしかないように私を追いこんでいった。つぎには空白感と欲求のないまざった時間がきた。
私の企画つくりの準備は秋口からはじまり、資料さがしと図書館通いの日々を送ることになった。
激動のロシアに振り回される
その秋、北方領土問題はさらに先行きの見えない状況になった。一九九二年、九月九日、エリツィン・ロシア大統領の訪日は突然”延期”されたからだ。それは、次回の日程も示されず、キャンセルに近いものだった。
ロシア安全保障会議は「大統領に全会一致で訪日延期を勧告した」として、「北方領土問題が延期の最大の理由である。ロシア内の特定勢力は、この問題を訪日目的の九十九%を占めるほどにしてしまった」(フィラトフ・ロシア最高会議副議長)と延期の理由を述べた(九二・九・一〇、朝日新聞)。
宮沢首相はじめ政府の対応は一応冷静であった。不快感をもちながらも、沈静化を待った政府、控え目な発言に終始する外務省幹部たち。これにくらべ、核心をついた処方せんを書いていたのは自民党役員会である。
「訪日延期によって北方領土の返還(要求)機運を後退させてはならない。政経不可分の原則について、国論が二分しないように」と外務省官僚首脳に注文している(九・一二、同紙)。根室にしてみれば、現状固定であり、島との漁業、経済交流はいままで通り返還問題と不可分と考えよということだ。だが同じ日に報じられた「色丹島の二百七十八ヘクタールを、カジノやゴルフ場などの観光開発をする香港企業に五十年間賃貸する」(朝日新聞他各紙)のニュースには政府のみならず元島民も動転した。それが全く同じ時だけに元島民の不快感はあらわだった。それはまたサハリン州当局がモスクワ中央に抗して、極東には独自の裁量があることを挑戦的に誇示したこととも感じた。やがてこの問題はジョークだったかのように立ち消えた。
しかし、韓国漁船の四島水域内での操業問題や、「クリルを経済特別区に解放する」(ガイダル首相代行発言、九・二二朝日新聞)などの変化球がつぎつぎに繰り出された。
一方、右翼がその『麦の会』(関西系)の代表団をロシアに送り、ロシア科学アカデミー東洋研究所カピツァ所長(元外務次官)はじめ要人と会見し、ロシアの領土問題解決の難儀さに理解をしめした。"なにが起きても不思議ではない”( 木村汎氏のコメント)不透明さの中で、北方領土問題の解決は当分、留保の時期に入った。
気になった、流氷の記事
私は映画(テレビ)の企画にあたって、もう日々の動きにつられるのはやめ、長期の構えでこの北方領土の機軸はなにかを考えることにした。
日ソ漁業交渉の舞台であったオホーツク海、それを戦前の北洋漁業の歴史にさかのぼり、これが世界三大漁場として特徴づけられているわけなどを調べるのに追われた。
たまたま古い九〇年二月当時のスクラップを繰っていて、オホーツク海に面したサロマ湖での極地研究の記事に目を止めた。
「夏場に大量発生すると思われていたプランクトンが、二月、流氷(結氷)の下でも高い活動を見せている」という国立極地研の報告である(朝日新聞)。
それによれば、オホーツクの豊穣さを裏付ける研究が、南極大陸の極地のそれとあいまって、あきらかになりつつあるというではないか。海氷が世界の好漁場の条件、とするものだった。私は方々へ電話をかけ、北海道、紋別の北大流氷研究施設にまで連絡を取った。
記事はあらまし、つぎのようなものであった。
「氷を通してかすかに日差しが届く世界で、生き物たちが盛んに食物連鎖の歯車を動かしている。”魚をもって来る”といわれる流氷の下にも、同じような生物群がいる・・・。
氷の裏側に付着する”アイスアルジー”というケイ藻類は光合成で太陽エネルギーを取り込んで増殖し、自身はほかの生物のえさとなるので、水中の”第一生産者”となる。研究グループが注目しているのは流氷、魚たちが流氷を好む秘密の一つがこれではないか、ということで、目下、研究が進められている」。
アレッ、二年も前の話、だと自分を叱った。この記事はオホーツク海全域の流氷と漁業に新たな視点のあることを教えてくれた。それはさらに流氷の生まれるアムール川でさらにシベリアの針葉樹林帯の乱伐による温暖化の問題へも繋がる。羅臼の流氷期のスケトウ漁の激減にも関係があるのか考えた。すくなくとも、オホーツク、日本海、北太平洋の近未来に関わる話である。構想は一気に膨らみ、オホーツクの全体像を構想した企画への意欲が湧いた。
終りのない企画書『されど海』
秋いっぱいかけて企画書(未公表)を書いた。自分の映画のテーマの流れを示すもので、いわゆる構成案ではなく、自分のために書いたのだから四百字詰め原稿用紙で百数十枚になった。
その過程でテレビ局に提出してみないかとの友人T氏の薦めで、長いまま出した。
道東からオホーツクへの視野移動が明確なので、その一部、骨子を以下にご紹介したい。
企画書『されど海』
北方領土問題は今、混沌として解決の道が見えがたい。
エリツィンの本年九月の訪日中止後、ふたたび、半永久的に領土が固定化されたかに見える。「日本の固有の領土」論(日本)や”法と正義”( ロシア・エリツィン)も、ともにその時間の壁を前にして立ちすくんでいる。なぜか。本質的には日ロの国家がともに、この地域のひとびとがどのようにして生きていけるかについて、そのビジョン(展望)を示しえないことに帰着するのではないだろうか。
(北方四島の当事者)
島は実体的には”そこに生きる住民のもの”であろう。島が一つの”国家”であっても不思議はない。余談ながら択捉島だけでルクセンブルク、モナコ、シンガポール、ホンコンをあわせたより大きいから、ひとつの国家ができてもおかしくない。歴史上、先住民はクリル・アイヌである。当面の当事者は日本人の元島民とロシア人の現島民であっても、島の当事者はこの三者であろう。その三者に共有できる島の未来像はあるのだろうか。
国籍、制度、言語、文化、生活とその水準、そのどれをとっても、政府のいう”一定期間の混住”すら容易には想像しがたい。いま、発想の転換に当たって、まず「海を見よ」、その海から聞こえるものに耳を傾けたい。
(『されど海』の題の意味)
オホーツク海がこの企画の主な取材対象である。この海はひとびとが共生するに十分な豊かさを持っている。もともと世界三大漁場の一つであり、北方四島は幸いにも”帰属不明”の半世紀の間、稀有にも乱開発と自然破壊を免れてきた”残された地”である。それは島の当事者たちは自覚していたが、その生かし方はまだ決められないでいる。だが映画の中に、日本人島民、ロシア人島民、それぞれのイメージを語らせることはできよう。かりに”幻想”であっても、その依拠するところには揺るぎない海への思いがあろう。漁場争いとだ捕、違法操業と密漁者によって痛めつけられたオホーツク海ではある。されど海であるオホーツクといった文脈で『されど海』と題した。
(漁業からみる歴史の流れ)
日本人は海洋民族と自負している。海の幸は無主物とみなしてきた歴史的伝統がある。
だがそれが日本漁業の乱獲体質への弁解にはならない。二百カイリ設定や世界の海洋資源保護(海洋法)の声の前には”日本だけは別である”( エクセプト・ワンといわれる)は通じない。根室漁民の”悲劇”、だ捕事件も、国際的舞台で、ただの一回も第三者国の同情の対象になったことはない。圧倒的に日本の略取型漁業体質への世界の批判が強かったからだ。
(外洋型巨大資本漁業の再起から凋落まで)
戦後、昭和二十年代、近海では、マッカーサー・ラインを越える漁業紛争(日韓、日中間)が多発した。この近海での漁業紛争を避けるため、やがて水産行政の指導は”沿岸から沖合(漁業)へ” ”沖合から遠洋(漁業)へ”の合言葉で漁業の転換を計った。それは国際漁業紛争のない海洋の公海部への進出である。
オホーツクへの本格的母船団の出漁再開も昭和三十年・一九五五年からだった。戦前からの伝統を持つ北洋漁業諸企業は一斉に北太平洋、オホーツクに向かい、”北へ!“の昭和三十年代が訪れた。
一九六〇年から七〇年代が北洋漁業の全盛時代であった。日本の漁船団は資源的に決められた規制量の数倍も獲る不法操業を重ねた。例えば、魚槽を二重にする”魚隠し”から、魚の積載量を培やすため、船籍登記のあとから船体を輪切りにして船腹を継ぎ足す、いわゆる”おまけ船”まで出現した。そのやみがたい日本の乱獲体質への制肘として、米ソ加三国が協力して、「二百カイリの制定」を急いだ経過があるといわれている。
さらに海を持たない国々や発展途上国からの『海洋法』による海底資源などまで含んだチェックが進み、いまや、地球的規模での生物保護の国際管理体制が敷かれる時代をむかえている。
(ニ百カイリ以後の北方四島問題)
二百カイリ設定以後、北洋漁場が一気に狭められた。そのため、北方領土水域に視線が注がれるようになった。更に、アフガンへのソ連軍の進入で一気に高まった反ソ機運は、やがて「北方領土を返せ」の国民運動へと発展した。八〇年代は二百カイリ問題の現実化の十年であり、それは漁業規制・徹底的強化の十年でもあった。
今年、九二年をもって北洋の操業は完全に息の根を止められ、北方領土問題を抱えながらも外洋型出漁基地として栄えた根室もその役割を終えた。
さらに漁法にも制約をもたらした。海底の生物環境保護や水棲哺乳類の保護のため、底引き網の操業禁止についで、大型流し網禁止案が国連委で採択(九一・一二・六)された。
いまや北海道はそれらの直撃をうけ、他地方からの出稼ぎをふくめ五万人の漁業従事者が失職するといわれている(朝日新聞)。
根室の場合、沿岸漁業への回帰を飛び越え、一気に「買う漁業」の基地になった。
花咲カニ、タラバガニ、ウニなどの本場・根室の”ブランド”を維持するには、サハリン、カムチャツカ産はおろか、鮮度のいい北方四島産の輸入もいとわない。”領土より魚”が一層現実化した。
(島々の海の生態系調査と自然環境保護対策のいま)
いままで、島々を海の生態系や自然環境の視点から見る機会に恵まれなかった。「戦後四十数年間、開発を免れてきた北方領土の自然環境は、日本人にとってタイムカプセルのように貴重な存在」との専門家の指摘もある(北海道自然保護協会、俵浩三氏)。
道東の漁民は「島とは臍の緒でつながっているようなもの」という。採取だけの漁業から転換し、築きあげた「育てる漁業」の成果を空しくする虞れが、むしろ返還後の島からもたらされはしないかを案じている。だからこそアイヌや沿岸漁民が島に訪れ、自然の行方をかれらの眼で見る機会が待たれるのだ。オホーツク住民のその対話を映画で描きたい。
(なぜ、オホーツク海は世界的漁場なのか)
最近、寒い冬季には徴生物の活動は低下するとの常識が破られた。冬二月、氷の下で、植物プランクトンが繁殖し、夏に劣らない大量発生を見せるという研究が発表された。「流氷が魚を持ってくる」との説が学問的にも証明されたのだ。
シベリアの沿海州から間宮海峡、サハリン、そして黒潮との合流点の道東までの”流氷の地図”が描ける時代がきている。北方四島、道東の漁業の未来も地球的な規模で考えなければならない現代、国境がどのような意味をもち、あるいは無意味化するであろうか。
納沙布岬には島を見る大望遠鏡がある。だが足元の海を見ることは出来ない。
北方四島の夏と越冬、水中撮影、撮影船などによる海の描写は欠かせない。この企画は、在るべき北海道と北方四島の共生のビジョンを求め、オホーツクの四季をたどり、ひとびとの出会いを求めて歩く、ある旅の記録になろう。(以上が企画の骨子である。)
テレビ企画として
これを民放テレビ局につないでくれたT氏は企画書に定型はないという。局の担当責任者はこれを前向きに検討すると答えてくれた。T氏はスタッフにも参加し、助言者となった。十六ミリフィルム撮影と編集、仕上げの要望も満たされた。私は感謝した。
企画は真新しいものから出直すため、さらに調査を重ねることにした。
第一に、漁業について。一年の漁業の生活を撮るには魚の漁期を具体的に知らなければならない。その漁場の選択もある。サケ・マス漁を柱にしたいが、その船に同乗して撮れるかどうか。
第二に、流氷を見ていない。またそのメカニズムの撮影としての可能性はどうか。
第三に、アイヌのひとびととどう連絡をとり、撮影に協力してもらえるか。
第四に、北方四島に渡れるか、アイヌのひとびとの渡航も可能か。そしてアムール川河口(流氷の発生)にまでロケができるかどうか。
どれも難問題ばかりであった。たとえばサケ・マスを取材するには船の便が要る。今のサケ・マス操業の主役は十九トン船であり、狭くて数名のスタッフを乗せる余地はない。四百トン前後の船なら可能である。それが探せるかどうか。
しかし一番問題なのは北方四島へ渡れるかどうかだった。それが困難であることは分かっていた。一九八九年の閣議了解による実質的渡航封鎖は厳然と生きているのだ。
また、極東の外国人立ち入り禁止区域は九二年十月に撤廃されたものの、旅行や取材については分からない。肝心のアムール川河口についての記述は『ソ連極東総覧』に数行しかなかった。まず企画が成立するか否かは、取材地にいけるか否かによる。
シナリオ調査には、映画テレビの演出家・山邨伸貴氏と助監督の稲葉光宏君と三人でチームを組んだ。山部氏はすでに『東京クロム砂漠』『六カ所人間記』『夏休みの宿題は終らない』など社会ドキュメンタリーの連作がある監督だが、今後もオホーツクを撮り続ける仲間として演出補佐・編集を担当してもらった。テレビの仕事のキャリアもあり、民放局としても、山邨氏がいることで、安心して仕事を託せた。テレビの仕事は私にとっては十五年ぶりになる。 また調査の旅がはじまった。
冬の根室、ふたたび
年明けて一九九三年二月、私たちは根室に向かった。流氷は遅れ気味ながら接近している。また二月七日はビザなし交流以後初の「北方領土の日」を迎える。映画の際に期待したスケトウ漁は空前の不漁という。期待より不安に駆られながらの出発だった。
根室は暖冬の土曜日、明日は「北方領土の日」だというのに静かであった。
釧路からの国道沿いの港々の船は陸にあげられ、五月の海明けまで休んでいた。
根室市に到着そうそう小泉氏(朝日新聞根室通信部)の紹介で、国後島に滞在していた松井健二氏に会うことができた。松井氏はまだ若い方だが将来、極東やオホーツクで自分の生きる道をみつけたいと思い、商社に勤めながらロシア語を学び、商社員をやめ、ふらりと北方領土に行ったそうだ。
松井氏は島の新聞「ナ・ルベージェ(国境にて)」の編集部と電話連絡できる人でもあり、前出の”光のメッセージ”のグループからもその名を聞いていた。政治的には無色、ロシア好きの昂じた結果、北方四島に一年滞在した。いかにも北海道らしいスケールの人だ。彼は無論北方領土に入る方法は知っている。しかし、あまりに自分のことが記事に載ったので、日本外務省より、むしろロシア総領事館が日本に気兼ねして、サハリン行きのビザを出しにくいだろうと覚悟している様子だった。彼の翻訳で発行されている「国境にて」日本語版は北方四島事情を知る上で、私の参考資料になっていた。
二人の話では北方四島からのカニ船が、年末は週二回の入港日にはなんと日に十数隻も入港したのが、今年になってからはまだ数隻、ほとんどアテにならない落ち込みようだという。モスクワにあるロシア漁業省のクォーター(割り当て枠)の締め付けなのか、そうだとしても、その狙いがカニ乱獲の阻止にあるのか、外貨の管理方式の変換のためかよく分からない。根室のカニ卸業者は「またロシアが首を締める!」とその品薄に困っているという。
「北方領土の日」・根室市
昨年、ビザなし交流の一年で、根室はその機軸を大きく変えていた。「北方領土の日」を選んで市を訪ねたのは、その変化を街に見たかったからである。まず”北方領土返還”スローガンが引っ込み、”より日ロ交流を”となった。根室市民はこの変化に敏感だ。例えば、「北方領土の日」の市民主体の行事として、根室アマチュア無線クラブによる国後島のロシア人のアマチュアとの交信が行われている。防衛庁のレーダー管制内では考えられなかったことだ。
また、この十年余、北方領土の日の恒例行事となっている「根室少年弁論大会」のテーマが自由課題になった。去年までは”北方領土返還”が課題だった。
七日、町の公民館で「根室少年弁論大会」が開かれたが、中学生十人の入選者がつぎつぎに壇に立って話す内容はがらりと変わった。彼等にはビザなし交流で根室市と根室支庁四町を訪問した四島のロシア人中学生の印象が強烈だったらしい。とくにホームステイで彼等を招いたときの思い出が聴衆の耳を傾けさせた。その二、三の例を紹介しておこう。
「(ロシアの女生徒は)飲んだジュースの空きカンを、自分の部屋の飾りにと持ち帰ったことに感動した」(中標津、矢島さん〉。
「一、二時間の遊戯で気持の垣根が取れた。ロシア人島民にも住民権がある。花咲港での別れでは不覚にも涙がでた」(標津、家政さん)。
「島が戻れば乱開発は必至だ。かえって島は帰らない方がいいのではないか」(羅臼、千葉さん)。
聴衆には高年齢の人が多い。孫の話に耳を傾ける風情で聞き入っていた。「まともなことをしっかり言っていると思います、大人では思い付かないことを。十年前から比べると子供に教えられ、頷くことばっかりです」(根室育ちの母子会会長、松原マツさん)。
ヨチヨチ歩きのようだつたこども交流は大人の予想を超えた流れをつくりだした。
小漁業者に及ぶ不法操業、摘発の嵐
まえに触れた小型サケ・マスの違反操業事件(北海道海面漁業調整規則違反)はさらに追及の手が拡がっていた。この数か月、釧路、根室では家宅捜索と逮捕者が続出していた。
「公海でサケ・マス五・五トンを取った疑い」という、かつてなら十九トン程度の小型船なら”徴罪“として見過ごされていた事犯“である。海保は「逮捕は異例とは思わない。国際信義の問題もある」(結束好本部長)と表明した。
それまでは密漁者や特攻船しか挙げなかった海保が、こんどは道から正式に許可を受けたサケ・マス漁船を叩いている。それも小型船ばかりだ。今まで”おめこぼし”されていた、いわば個人漁業者たちが検挙された。
中型サケ・マスはもっぱらロシアの二百カイリ内で、ロシア監督官同乗で操業し、リスクを回避できている。
八八年、中型船業界はサハリンにサケ・マスのふ化場を作り、その見返りに旧ソ連の二百カイリ内での漁獲枠を得ている。小型船主は出遅れ、参入できなかった。政治力がなかったからだ。結局、サケ・マスは「ロシアの二百カイリ内で生き残る道を探すしかない」(道・国際課)のだが、資本力のある中型とそれのない小型との格差が、この事件で浮き彫りにされた。
さらに、道の水産部も国の水産庁も、去年までは漁獲割当量の三倍も獲っていることを知りながら黙認していたことも明るみに出た。
この摘発の嵐の中では、根室の漁協や船主のマスコミへのガードが堅くなるのは当たり前である。漁船に同乗しての撮影依頼にどこも応じてくれない。
オホーツクのサケ・マス漁が、今日まで、一度も映像になっていないわけが分かる。操業シーンは船主や乗組員にとって、いつ”証拠写真”に転用されるか分からないからだ。
色丹島出身の得納宏氏は笑って、漁船に同乗しての撮影は、今後も根室では無理という。
「いっそロシアの二百カイリで操業するサケ・マス中型船のほうが撮影にはオープンかも知れない。(同船する)ロシアの監督官は個室がほしいから、中型船(百トン以上)じゃなきゃ乗らない。その船ならカメラマンのひとりぐらい入れるかも知れない。小型は中型業者からソッポをむかれているし、ロシアの役人も十九トン船じゃ狭くて居場所もないと同乗を嫌うし、今後も小型はオホーツクには入れんでしょう」。
氏は島が返ったら息子といっしょに漁場を回復したいという人だ。刺し網の小型船主でもある。その目で中型と小型の差を描いてみせた。
得納氏は花咲港に家がある。ロシア漁船員船を見るのに慣れている。
「食習慣って変わりますね。島のロシア人は醤油の味を覚えたせいか、花咲港で醤油を何本も買って帰るんだよ。だ捕された船には醤油はあるし、抑留漁民からご馳走になって味が分かったんかな。四島には醤油が人気でここの店の醤油は買い占められそうだ。うちのかみさんが”レジであと回しにされる”って怒ってる」。
撮影依頼を兼ねて根室海上保安部を訪ねた。管理課長の竹本康雄氏は、最近はだ捕事件は年に二、三件という。だが、だ捕されていないだけで、北方水域の越境操業は日常的にある。新聞報道によれば、昨年十月十二日、ロシア国境警備委員会と海上保安庁の初の洋上協議で、ロシア側は「この九月、一か月だけでも、越境操業は延べ六百八十六隻あった」と数字を出している。
竹本課長によれば、百五十トンから五百トン、三十ノット級巡視船二隻による二十四時間の”中間線“パトロールをおこない、だ捕されるのを防ぐ”被だ捕防止活動”をしているという。その要領は「越境したら"だ捕される”と通告する。四島は日本固有の領土だから”行くな”と阻止はできない」という。密漁船と巡視船との間になんとも彼我あうんの呼吸があっての話だ。
択捉島に漁業指導に行く
夏、択捉島事情を話してくれた照井二郎氏は単身択捉島に行き、漁業指導をしてきたという。自分の船を減船で手放したことを悔しがっていた氏が、そのまま大人しくしているはずはないと思ったが。「民間外交をやってきました」と笑う。氏は「仕事を通じてみてきたから、外務省では分かりっこない現実を見てきた」という。
氏の確かめたことによれば択捉島の漁業は生きている。
「コルホーズの施設は”原始的”だが、塩蔵加工の原理にはかなっている。魚を処理工場に送るさい、樋状の落差を利用しているし、塩は岩塩だが、ボイラーで液化して精製したものを使っている。沖には十八隻もの大型運搬船を見たな。原魚は補給されてます。
ロシアの青年は島での生き残りに賭けていますよ。私が”この分なら島は十年で復興する”というと喜ぶが、すぐ、”ニェット!半分くらいが怠けものなのだ。それが問題だ!”と手を横に振るんだ。知ってますよ、自分らロシア人の欠点は」。
氏は楽観的に島の将来を見ている。
天寧空軍基地のウクライナ出身将兵の帰国が相次いでいる。約四千人ぐらいは減り、人口も落ちつくところに落ちついて、島の再建にとりかかるだろうという。
「サハリン州政府の援助?いやサハリン州はクリル(島)には冷たいです。百万以上の人間の住むサハリンと、人口、一万なんぼの島民とではくらべものになりません。サハリンでのビジネスはまさに戦国時代ですよ。合弁でも有利な条件が脇から出てくれば、たった今、結んだ契約もホゴにする。むちゃくちゃですが、山師のような日本人がバッコしているのも事実。日本人がロシア人をああいう風に変えたんです」。
照井氏は持って行ったニコン一眼レフを盗まれたといって頭を掻いたが、盗られる方が悪いとこともなげだ。それよりいい思いをしたことのほうが多いらしい。
「民間交流として、テンプラや塩辛を作ったら大好評で、講習会が次々、スジコに醤油をつけて食べることなど教えてきた」。まさに元島民の面目躍如といったところだ。
限度の見えた交流活動
”国境”を人の流れが越えてからわずか一年だが、交流の質がすでに問われている。千島歯舞諸島居住者連盟理事長職を辞した箭波光雄氏はすっかり隠遁生活に入っていた。
「僕は島では言いにくいこともきちんと言いましたよ、”まことに忍び難き四十七年でした”とね。だが第二陣から行政の長が団長で行くようになっても、返還の”へ”の字も口にしない。スマイル外交だけしています。ビザなし交流の直前、返還運動が風化してしまいはしないかと私も危倶した方のひとりだが、それが現実になりました」。
たしかに親善交流の建て前から返還要求の意思表示を慎んだ。だが、交流、乾杯でいいのか。根室でははやくもマンネリ化を恐れる意見が出はじめた。いままでのように交流の枠を島民に限っていては息が切れるし、友好々々の繰り返しでは意味がない。
「もっと相互に実のある往来に替えなければ、来年のビザなし交流は期待できない」(竹村孝章氏)。道東の一般の人土を加えない官主導型の交流にはいや気がさしている。照井氏のような”民間外交”への意欲はひとびとの気持にある。
中標津の『光のメッセージ』グループが島に食料、菓子類を送ったのは二年前だが、政府は昨九二年から五回の緊急人道援助(小麦粉、医療品など、一回三千万円前後)をおこなっている。もうこのグループの出る幕はない。市民運動のアイディアは別の方向にむけられざるを得ない。だからといって市民としては島への渡航が出来ないのだ。青年たちはその矛盾をしっかりと見ている。
力ニにみる変化
根室市にはカニ船の様子で島の資源を診断している人もいる。根室市日ロ友好親善協会の竹村孝章氏がそうだ。
「この二年間のロシアのカニ船解禁は島の資源の獲り尽くしにつながった。毎週、何十隻もの船を見ていると、従来のロシア側の規制で保たれていた漁業資源が枯渇していくのが分かる。いまは規制が緩んでいる。だいたいカニの居場所は日本人が知っている。カニの生息地を探すのには、日本の密漁者の獲っている地点を探しあてることが一番だというので、むかし日本のカニ密漁船を取り締まったロシアの元監督官を探して船に乗せ、当時、没収した海図、越境証拠品からカニの穴場を探すんです。日本の密漁者の獲った場所にカニ籠を入れる、これではもう獲り尽くしてしまうでしょう。だから最近はもっと深海にいるズワイガニ、アブラガニまで上げてくるようになった。だいたい日本人の活ガニ好みがその一因を作ってきたんです。茄でたカニの冷凍のどこが悪いですか。日本人は活ガニが一番いいと思うが、じつは中毒をおこしやすいし、カニは苦しんで痩せもする。カニは自分の成分に硫化水素を持っているから、海水から上げて空気に触れると自己分解して肩の肉がなくなるんです。そんな痩せたカニを持ってきて、日本で販売ルートに乗せている。ロシアの流儀はカニを獲ったらイキのいいうちに甲羅を外して、海水で洗って炊けばいい。それが一番と思ってきた。食性が違うんです。日本では活きガニが一番高いというので、扱い慣れないロシア人がえらい苦労をして持ってくる。稚内ならサハリンから近いが、根室まで運ぶのに時間がかかる。サハリンのカニは持ってこれない。それで近い四島のカニを、ということになる。今モスクワがコントロールしているようだが、四島の人に金が入るわけじゃないでしょ。モスクワ、レニングラードの人のほうがもっとお金で腐っていますよ」。
その夜、竹村氏は採れたての花咲カニをホテルに届けてくれた。これほど美味しいカニを食べることはもうないな、と言いながら皆で腹一杯食べた。
サケ、ホタテ、そしてスケトウの異変
オホーツク側の沿岸漁協では昨年来、元気がなくなっていた。流氷の遅れやサケの回帰の極端な減少、ホタテの市価低落、そしてスケトウ漁は依然として不振である。「漁業は十年単位で見ろ、その時その時で一喜一憂していたら身が持たん」。この不知火海の漁民の言葉を私は忘れてはいない。しかしその低落には思いあたるものがあるだけに、ここの漁民は憂欝だ。
コンブの生産に頼る歯舞漁協(組合員八百五十人)では、この一、二年流氷の接岸がないことで六百ヘクタールのコンブ礁に磯やけが拡がり、手あてに悩まされていた。例年ならば流氷がそれを削りとってくれるが、いまは石灰層(学名、エゾ石ごろも)に覆われ、雑藻がコンブ礁を荒廃させている。試作の駆除機で超高圧(百五十気圧)の水圧を噴射し、石灰層を削りとるという、気の遠くなる作業を試みていた。
安定経営をみせていた別海の野付漁協では、この数年、流氷がこないせいか、ホタテが栄養不良を起こしていた。肉質が落ち、水っぽくてまずいのだ。その上サロマ湖や猿払などがホタテ生産を競って、全道で三十六・五万トン分も過剰になった。単価は崩れ、来年は半値を覚悟しなければならない(野付漁協、宮腰参事)。夏に”協同組合”の理念を説いて倦まなかった氏はその教頭先生のような顔を曇らせた。「サケも前年度一万トンが本年度は半分の五千五百トンでしょう。流氷のせいと思いますが」。”つくる漁業” ”育てる漁業”はかつてない低落を味わっている。
道東のサケの回帰地帯を北上した。別海、標津を訪ねた。
平成三年・九一年に完成した、サケ定置網日本一の町、標津の誇りとするサーモン科学館は、サケ・マス研究の新らしい拠点である。水族館展示とふ化養殖と並行したみごとな設計思想がうかがえ、ここへのロシア人島民の見学希望が多いという。
ここの主任学芸員の小宮山英重氏は人の噂では”道東の全共闘”といわれるが、氏は私のその思い込みを笑って取り合わなかった。
根室から知床にかけて、この道東一帯がいかに生物の観察に優れた所か、オオワシ、オジロワシ、タンチョウ鶴。そしてシカにクマと挙げ、”ここは日本一の観察地です”と道東に赴任したことに満足していた。氏は専門分野であるサケ科の繁殖戦略(子孫作りの行動)、サケ科魚の生活史研究の場として、ここでの仕事に打ち込んでいる。
氏によれば今のサケの減少も生物界の法則であって、資源の維持という観点から見て昨年の回帰数三千万匹台(近年平均四千万匹)がほどほどである。もともと標津の八つの川での自然産卵は、明治二十二年の千百万匹が最高だった。だから、むしろ二千万匹前後が適当、と地元の漁民が聞けば、ガックリくるような見解を述べる。
回帰したサケに痩せた小ぶりのものが目立つようになったという。
「理由は不明だが、サケの体長が小さくなっている。それはサケが一年ないし二年間、餌を十分に摂っていないということだ。顕徴鏡拡大五十倍くらいでウロコをみると、サケの年齢と餌の量、つまり生活がわかる。去年の五年魚はプランクトン不足で絶食状態の年があったのではないですかな」。
栄養豊かなオホーツク、ベーリング海といえども、ふ化放流の激増によって、海洋のキャパシティの限界につき当たったらしい。例えばシロザケの餌はプランクトンやクラゲ(サケの仲間ではシロザケのみて大きくなってからはオオナゴ、コナゴ、イワシ、サンマだ。海の有限性をサケのうろこの年輪から読み取ったのである。
小宮山氏は撮影には好意的だったが、よく映画にあるような自然産卵のシーンはカナダの北あたりまで行かないと撮れないといわれる。道東の河川に朔るサケのほとんどはふ化事業所の仕掛けで採られ、採卵され、受精されるので、川での自然のままの交尾行動は氏自身、めったに観察できない。近くの小川に残された産卵の場はあるが、撮影には一週間は粘らないと駄目だろうといわれる。
近くの道直営のサケ・マスふ化場根室支場で聞いた数字によれば、サケ・マスはその九十五%が海岸の定置網に採られ、残りの五%が川を湖上する。その川に上ったサケの九十%が人工ふ化の水路に誘導され魚卵が採取される。その残りの十%以下しか天然の川に遡上しないし、遡上する場がない(技術専門官・稲垣和典氏談)。これは漁民への経済効果を考慮した「北海道海面漁業法」の施策の結果、そうなったという。
回帰したサケ・マスの〇・五%、つまり二百匹に一匹しか自然の川に遡れないことになる。サケの産卵行動の撮影のむつかしさをうらづける数字がこれである。
明治時代、河口の定置網により、川上のアイヌの集落に遡上するサケが完全に姿を消したという、北海道拓殖時代のアイヌの受難は遠い遠い過去の話ではないのだ。
スケ卜ウを訪ねて
羅臼は時化で漁を休んでいた。ここの若者の定着率は良い。自家用車の人口比は抜群に高いし生活は派手。地元同士の結婚の盛んなところで、やや早婚の風があると聞く。スケトウ不漁に替わるコンブやサケがあるものの、三年連続のスケトウ不漁のうえ、今年ももう勝負は見えていた。
ふたたび漁協の高岡唯一氏をたずねると、スケトウの産卵の地であることを忘れた報いではないかと反省していた。
「ここは産卵場所だから底引きトロールは禁止されているが、全船、刺し網を使って獲り過ぎたんじゃないか。外国では魚卵はあまり食べないが、日本人はタラコ、スジコに目がないでしょう。放卵、ふ化の時期に、魚卵(タラコ)を目当てに獲る。これではスケトウの産卵、繁殖の機会を奪っているようなものです。漁協では遅きに失したんですが、操業形態の再検討と漁民の意識をどう変えるか、会議をひらくことにしています」。
一隻でスケトウ、数キロという水揚げの日もある。まだ漁期の最中というのに、出漁も見合わせている漁船が多い。いつもは漁で汚れた網を洗うのに使われて人影のたえない埠頭が閑散としている。ロシアのトロール船も近頃は見掛けないという。どうなっているのか。
知床半島以北の沿岸漁業地帯
知床半島の根元の山あいを越え、斜里町にはいると、国道ぞいにタラの寒干しがブドウ棚畑のようにつづく。流氷はこの町の沖合まで来ていた。知床の山々に遮られ、国後島ははるかかなたに遠ざかる。この半島で海の模様は変わる。出ている漁船は見当たらない。
オホーツク海ぞいの網走市でスケトウの減少について行政の把握している情報があればと思い、道・網走支庁経済部水産課を訪ねた。ここの管轄は知床半島以北、斜里、網走、紋別などだ。
ここらの漁業はかつては沖合のオホーツク海で操業した。現在は地まきホタテ、サケ・マスの定置網、毛ガニが主で、結氷期はすべて休むという。
ホタテにせよ海の自然力を使い、餌の必要もなく、したがって投資は少なくて済んでいる。かつ資源管理のサイクルや捕獲量などがはっきりしている。例えばホタテ貝は四年周期、毛ガニは千五百トンに決まっている。だ捕などはここではよそごとのようだ。だが、調べたかったスケトウについてはとくにデータはなかった。
さらに道立網走水産試験場に行く。場内各所に、採ってもいい毛ガニのサイズ(甲長八センチ以上)のポスターや密漁防止の標語がある。
ここではスケトウの生活はほぼ分かっていた。
スケトウは国後水道の水深二百メートルの深みで産卵している。水温二度から五度、流氷下の水温が産卵に適している。スケトウには羅臼は絶好の産卵場のはずだ。しかし、その頃が漁期になっている。そのスケトウは浜値が高いから、乱獲しているのを防ぎようがない。それにしても近年のスケトウの激減の理由はわからないという。
「オホーツク海のロシア領海のスケトウの情報は全然こっちではつかめないんです。ロシアとの共同研究はなされていない。こちらではスケトウ資源の変化は解明しがたいです」(漁業資源部長渡辺智視氏ら)。
ここで分からなければ、あと分かる部門はないらしい。ここでスケトウ激減の原因を知ることは諦めた。
それにしても、なぜ一魚種のスケトウにこだわるか分かってほしい。
サケ・マスはベーリング海にまで回遊し、成長するが、スケトウはオホーツク海で育つ。ロシア・極東の魚種別の漁獲量をみると、サケ・マスがわずか一・五%なのにタラ類が七十三%をしめている。そのタラ類の九十五%、三百三十万トンがスケトウだとされる(一九八八年度統計・財団法人海外漁業協力財団『ロシア共和国(極東地域)水産事情等に関する調査報告書』より)。
その突出ぶりはまさにオホーツクは”スケトウの海”といってもよいほど、無尽蔵に思える。その産卵の地、羅臼沖、国後水道でスケトウ漁が十一万トン余から三万トン余に激減したということは、オホーツクの海の生産力は著しく弱まったことを意味しはしないか。
スケトウの動態を見ることは、オホーツク海を見る一指標に思えてならないのだ。
年中、稼働する加工場・紋別
私たちはオホーツク沿岸ぞいに北上しながら、港々に立ちよった。魚とひとびとの生活、とくに冬場のそれを見たかったからだ。
紋別の港では船を陸にあげ、休止している港の脇に、蒸気が息をふくように立ち上ぼる加工場があった。主婦たちが昼休みを終えて働きはじめていた。
休漁期にここの加工場がどうやって魚やホタテを絶やさないのか、私はそれまで知らなかった。飛び込み同様にして工場内を見せてもらった。
ここマルハ大洋の子会社シーフード工場では、近代化されたラインでホタテの水煮やサンマの照焼きの罐詰をつくっていた。
すべてオートメ化されているが、ホタテを詰める手作業は女性の仕事である。機械でつめたら肉身をほぐしてしまうからだ。八十人がそのラインに集中している。サンマの照焼きの工程は切り身から焼き上げからタレつけ、罐詰までほぼ計器の監視労働なのでほとんどひと気はない。
ここでは冷凍魚の貯蔵と移送、加工までいわゆるコールドチェーンの連鎖で動いていた。大きなマルハ大洋の冷凍倉庫が富良野にあり、そこから釧路、標津、十勝、ホロベツ、そしてここ紋別などの各水産加工場にトヨタのカンバン方式のように原料魚のサンマが送られてくる。だから、定時間の勤務で、一年中休みなく稼働できているという。
原貝のホタテは道南の長万部から噴火湾産のものが冷蔵トラックで補給される。流氷のため海路は使われていない。すべて陸送だそうだ。
人には珍しくもなんともないことだろうが、私には感得するものがあった。この加工場は年開通して、つまり周年稼働している。それには、原貝がここまで陸送される道路があり、冷凍冷蔵車、そして通信網、コンピューター管理などのネットがあって可能なのだ。しかし、真冬も働けるとは、恥ずかしいことだが知らなかった。私はホタテやサンマの産地でしか、こうした加工場は成り立たないと思い込んでいたのだ。
北方四島の水産振興のための”社会基盤の整備”というような、しばしば言及されている課題も、これと対照してみれば、いかに大変なことであり、総合的な技術がなければ成りたたないかにあらためて気づいたのである。
ここの工場長は十年ほど前からソ連に技術指導に行っているという。日ロ技術交流はこんな現場のひとびとによってすでに実行されていたのだ。
工場長は飛び込みの見学者の質問にも答えてくれた。ロシアの漁業技術の水準についてである。
「ソ連・極東のコルホーズの主な輸出向けの魚種はズワイガニ、タラバガニ、ツブ、毛ガニなどです。あちらの製造の欠点は洋上の大型加工船(カニ工船)に冷凍の設備がないことです。船体も古く、発電力が足りないので、カニの加工に必要な真水をつくる装置がないのです。これでは水を使つての急冷はできません。ファンで風を送って冷ましてる。これでは日本とは技術が開き過ぎて、なかなか指導も行き届かない」。
愛嬌も社交的な雰囲気もない、いかにも海の男の匂いのする方だ。北方四島のカニの獲り過ぎを例にして質問する。
「その点は計画経済だから大丈夫だと思う。ソ連・ロシアの良い点は資源の取り尽くしは絶対しない所です。クォーターで五万箱のノルマがあると決まれば、それだけで操業はピシャツとうち切る。日本のように”もっと獲る”といった欲はないから安心してます」。
私の質問に何をいうかという顔である。だがいつ頃の話だろうか。
「氷が世界三大漁場の条件だ」
サロマ湖では流氷博士といわれる北大の青田昌秋教授を、その湖畔の宿に訪ねた。教授は実験準備に忙しいなかで会ってくれた。今年は人工衛星をつかつての流氷研究をサロマ湖でおこなう。そのためカナダの学者との共同研究になる。いずれ流氷の発生地、アムール川河口にいくことになろうという。教授は”魚は流氷が運んでくる”という経験則を科学的に解き、私の短絡した解釈を戒めた。
「いや、アムールの流氷が魚の餌や栄養物を持ってくるという話ではない。そこからの淡水(川水)の供給が多いということが肝心な所です。川には燐とかカリとか含まれているが、全部が流れこんで海を作っている訳ですから。オホーツク海を上下の二重構造にしている。塩分の濃い下層と淡水によって塩分の薄められた上層との二重構造ということです。この上層の塩分の薄い層の海面が凍るんです。
同じ北の緯度なのに、日本海側もアリューシャン側も凍らない。ところがここオホーツク海は凍って、表面に薄い塩分の氷の層をつくる。その淡水を吐き出しているのがアムール川です。それはここでも同じです。このサロマ湖に流れる川も燐とかカリとかありますし。だからここで実験してみるんです」。
氏は四、五十センチの氷の厚みが、アイスアルジー(苔)付着と発生に一番適している、氷の裏面に届く太陽の光線が光合成をうながし、オホーツク海に漂っている数か月の間に、アイスアルジーができる、北の海というだけならどこにもあるが、オホーツクは独特の構造ゆえの生態系をもっているのだといわれる。
オホーツクでは、海面と深層との温度差で、下から湧き昇る対流活動が活発であること、それが深層の栄養塩や植物性プランクトンをまきあげ、稚魚の栄養になる。
「反対の例としては熱帯の海です。熱帯地方の海は表面がもの凄く暖かい。そして下に冷たい水の層が沈んでいます。太陽熱で表面は夏冬いつも暖かい。ということは対流しないということです。だから、熱帯地方の海の表面は、澄んではいますが栄養失調状態です。その反論もあるがね。
南極も同じです。世界の好漁場はみな氷のそばにある。例えば、密漁などで獲り過ぎて問題になるベーリング海も、北大西洋、カナダの北も”タラ戦争”をやっているように、氷で三大漁場が決まってしまう。とにかく魚が捕れることは証明されている。オホーツクは日本の東北、日本海の漁場の源流です。疑問点はありますが、研究中です」。
青田昌秋教授は多忙な方だ。明日はテレビの取材を控えていた。まだ出版にいたらないが、私の流氷研究の中身は分かってもらえるだろうと書名を教えてくれた。『白い海、凍る海ーオホーツク海のふしぎ』(東海大学出版会)という。私たちは三か月あとに手に入れたが、これがロシア語なら、オホーツク各地のロシアの学校に寄付したくなるほど、視覚的で完成度の高い本だった。
北海道のオホーツク沿岸をほぼ歩いた。そのどこに腰を据えても海と人のドラマがあり、番組は出来そうだった。流氷ひとつとっても自然科学的な映画、いわゆるネイチャーリング番組なら基軸は見えてきている。北の魚獲りの話にもなる。しかし、それは今の私の主な関心には座らない。すでに道東の取材で百人を超える人たちにあった。その人たちのまだ知り得ない世界がオホーツク海の向こうにある。同じひとつの海で繋がれている。調査目的の最後の課題が残されている。それはロシア極東と北方四島に行けるかだ。単純にいえば、アムール川河口やサハリンや国後、色丹島にカメラの三脚が立てられるかどうかである。その見通しなくしては、この調査は終りそうもない。
”北方四島口ケ”をさぐる
二月の根室はオホーツク高気圧におおわれ、つきぬけるような青さである。国後島は指呼の間に見える。その国後の羅臼山や爺々岳が白く凍てついている。こうべをめぐらせれば知床半島の知床岳、硫黄山と、これまた羅臼の連山である。国後島から見る北海道は美しいたたずまいであろう。
この道東対岸、北方領土に渡ることは格別困難ではない。前出の松井健二氏のような先例があるからだ。また”国禁”を犯すとはいうが、この映画(番組)が完成する一年後には、行き来が自由になっているかも知れない。この所、スピードある展開が北海道には起きているのだ。
中標津からサハリンへの臨時直行便が飛ぶようになり、稚内から船でのサハリン・ツアーも近畿日本ツーリストによってこの春から実現する。いずれも一年前には予想しなかったものだ。問題はロシア極東、北方四島の現地での撮影協力の約束を取らなければならないことだ。
根室市の竹村孝章氏は「この企画は東京のロシア大使館からモスクワ経由で頼むより、極東関係を具体的に掌握している札幌のロシア総領事から極東各州政府、州テレビ局に連絡してもらうほうがいい」と助言してくれた。但し北方領土行きには自分は関知しないと言い続ける。アブドウラザコフ総領事は万葉集も源氏物語も読めるほど日本語の達者なひとだから、直接会って企画を話したらどうか、その段取りは私が助けようという。
私はまず竹村孝章氏に手紙を書いた。それが氏の考えから、アブドウラザコフ総領事に回送された。これまでの企画から一歩さきに踏み出したものだった。その一部を抜粋させていただきたい。
・・・今、私は北方四島を”限られた目的”から見ることを戒めるようになりました。むろんこの企画の出発から、アムール川から、オホーツク流氷圏に視野を広げてみようとしてきました。しかし流氷という自然科学的な側面にとどまりません。人間がこのオホーツクにどのように生きるかが今回の主題です。
・・・オホーツクを考えるにあたり、サハリンとは何かを考えます。すでに禁断の解かれた島サハリンを、北方四島と同じモデルとして見直したいと考えます。大小はあれ同じくオホーツク海の離島です。二百年余にわたって日露にとって歴史的にも相互に乗り入れてきた”ゾーン”でした。北洋漁業、日ロ漁業交渉のジグザグですら、大括弧でくくれば、このオホーツクでの共生への歴史的、かつ未来の地球的思考への一ステップであったかもしれません。
・・・”混住”と簡単に言う前に、社会体制の違い、文化と文明の分岐と混合を知っておきたいと思います。そのいい例として、在サハリンの朝鮮・韓国人四万人の存在があります。ただに日本植民地時代の落し子と見るだけでなく、文字通り半世紀の”混在”を味わい、今日、朝鮮半島、日本、ロシアの三か国の文化を得手にして生きるしたたかな”共生体験の先輩”と見たらどうなるか。彼等から学ぶものは何か、です。
・・・この企画は根室海峡からはじまり、その海で終ります。その間に、オホーツク海を背景に、国籍、人種を超えてサハリン、北方領土、北海道のひとびとを描きたいと願っています。(以下略)
テレビ企画の座礁
山邨伸貴氏、稲葉光宏君そして私が九三年二月からほぼ一か月道東をロケハンしている間に、東京の民放局では北方領土行きについて、すでに総務庁に打診をしていた。その返事は今年(九三年)度分のビザなし交流に随行するテレビ取材の枠はもうないという、ニべもないものだった。もし北方領土を取材するなら、来年度のビザなし訪問時のマスコミ用同行取材班の枠を待つしかない。この時点でこの企画の実現性は大きく阻害された。
三月上旬、民放局のプロデューサーA氏と札幌で落ち合い、北海道調査の結果を検討することになった。北方四島についてはNGとの判断に傾くA氏と、それに固執する私とは一致点がないまま討論し、ともに疲れ果てた。A氏はアブドウラザコフ総領事に会うことも気がすすまない。この映画がロシア・極東、北方四島を取り込む規模の企画になるとは、A氏は思っていなかった。ただ、「オホーツクとそのひとびと」という企画の新しさに期待していたのだ。
”日ソ間ではなにをやるとしても北方四島が絡めば悪くなる”という竹村氏の言葉はそのままで的中した形になった。
三月七日、竹村氏とロシア総領事館に赴いた。この日は国際婦人デー、ロシアでは祝日にあたり、常勤者はいない。アブドウラザコフ総領事がわざわざ出迎えてくれた。
総領事はギリヤーク出身、在日外交官歴十数年のベテランである。日本人と間違えられ、ここに着任そうそうは、総領事館の警備の警官から、なにしに来たと絞られたと自己紹介して笑わせ、私たちの気分を和らげてくれた。この段階では企画を決定できていない。しかし、その方向だけは総領事には明言しておきたかった。言葉の壁も感じないまま、私は一気呵成に企画意図を喋った。思いのほとんどは述べた。言わなかったのは”北方領土行が局としては未決定であることの顕末”についてだけだ。すべてが”もし”のつく話だったが、アブドウラザコフ総領事はすべてを察知し「そのような企画は今大変必要だ。協力を惜しまない」といった。氏は私にシベリア、オホーツクに過大な幻想をもつなと、昨今、シベリアに進行している森林乱伐によるツンドラ地帯のメタンガスの問題などを話してくれた。
十分の面会予定が一時間余にわたった。この時以来、総領事とのつきあいが続き、のちのオホーツク調査には親身の協力が得られた。
私たちはその足で北海道のネット局をたずねた。報道制作局の部長は四島取材の経験ある記者、技術者を集めて身内として相談に乗ってくれた。ここでも北方四島行きについては具体的には助言しがたいという。北方四島取材は北海道のメディアにもむつかしい問題であった。
三月一O日、全員帰京した。企画はいわば半身不随のままである。オホーツクの自然と人間のモチーフは捨てがたい。企画をテレビ局に繋いでくれた友人T氏は間に挟まって、困り果てた。「企画は生きているが、方向の変更はしかたがない。知恵をだしてほしい」という。それは理解できるが、人間、内側から膨らんだイメージを転換するのに時間がかかる。まして、納得もしないまま、自分でその構想を殺いだら、ろくな結果にはならないものだ。
山邨伸貴氏にすべての交渉の重荷がかかった。企画自体が全うしていないのだから無理もない。テーマとひとり相撲を取る私の性癖はますます独りコマのように回っていった。資料の山のなかで、自分が滑稽な独演者であることを嘲った。スタッフもハラハラしながら見守っていたと思う。
三月末、この企画はキャンセルされた。やはり無理筋であったかと思う。
製作中止の直接の理由は”北方領土”問題ではなかったが、それが大きかったことはいなめない。「日ソ間ではなにをやるとしても”北方四島”が絡めば悪くなる」という元島民の述懐は私にさらに痛切に響いた。私はふたたび資料とむきあう日々にもどった。
「国境にて」日本語版を読む
話が重複して恐縮だが、根室市の松井健二氏から、国後島の住民、二千人余を読者とする「ナ・ルベージェ(国境にて)」の日本語版を送ってもらっていることはすでに述べた。週二回発行で購読料は年二十万円という高価なものだが、テレビ局の調査費から出してもらっていた。私で八人目の購読者、あと増える見込みはないという、超ミニコミ誌である。島から週二回、花咲港にくるカニ船に託して最新号、が届けられている。
これは読者がロシア人島民に限られているために、生々しく徴細にわたる情報がある。論説あり、レポートあり、犯罪事件速報あり、投書ありで、ロシア入社会の縮図がそこに見られた。
たとえば「海に秩序をもたらす」(九二・一二・一一付)にはこうある。
「・・・カニの漁期がはじまった途端にわがユジノクリルチャン(国後島民の自称ロシア語のよび名)の漁師以外の人間がくる。サハリン人、プリモーエ人、マガダン人、ハバロフスク人、カムチャツカ人だ。彼等によって百トン以上の毛ガニが採られた。多くの”ヨソモノ”が、どこで誰に出されたかはっきりしないニセモノの漁獲許可証で採っていることは、もう秘密ではない・・・。もうひとつは外国人密漁者の問題だ。日本人は野付水道の領海内で五百トンのエビを採っている。わが漁師たちでさえ三十トンしか採れないのに・・・」。
だからエンジン馬力のある監視船をほしいと結んでいる。
さらに例をいくつか引こう。
「島に外車(日本中古車)が五百台もあり、交通事故が絶えない。日本車にはいいガソリンが必要だが、島には灰分の多い工業用ガソリンしかないからピストンの弁が焼け焦げた。面白いことに車の二十%はジーゼル車、だが、どこで給油できるの?」。
「前掛けが足りない」では、国営時代には保証されていた罐詰加工工場への国家の援助が打ち切られて久しいが、その現状はさらに悪化していると、ユーモラスな書き方だが、自嘲気味だ。
「色丹島のコンビナート”オストロブノイ”の従業員のぼろぼろの作業衣は人間を原料や薬品から身を守るというより、グロテスクな格好をしてみるためにあるようだ」。
「種芋を分ける」には、野菜や食糧自給に追われているが、いい種苗や種イモの補給が途絶している。道東から贈られた種イモは色丹島代表に渡され、そのままになっていた。それがどうなったかについての報告がある。
「ビザなし交流で北海道にいった色丹島のアリャベーフらは人道的支援として贈られた二十トンの種芋をもらった。自分のわずかな畑では受粉できないし、高収率の品種なので、国後島に分けることにした。この友誼的行為は賞賛されていい」。
地区当局の告示は窮迫する島の事情をあからさまにしている。「国後島の電力事情は三月三十一日から朝三時間、夜三時間になった」など。
利権と汚職を指摘する批判的記事がある。「誤りは始まったか」と題する記事では、サハリンのフョードロフ州知事の手中にある漁獲枠(クォーター) の配分権を、国後島の地区行政に引き渡してほしい、なぜならそれを巡って、すでに島の有力者とサハリン州当局との間に汚職の噂が立っている、として、
「このような”誤解”を避けるためにも、カニ、エビ、ウニの略奪(ロシア人による)を監視し、クォーターに関する地区代議員の小委員会をつくるべきだ」とある。
「イカはいりませんか」の記事は原料魚の消息を報じている。罐詰加工工場はこのところ、需要のあるサンマやマイワシなどの原料供給が続かず、月の半分仕事があれば良いところとして、
「”漁業コンビナートが原料魚がなく操業停止”という決まり文句には残念ながら慣れっこになった。ノルマどころではない。やっと冷凍ヤリイカの胴体二百トン、脚八十トンがはいったが、あとの見込みはない」とある。
生活の辛さ、給料の遅配(四か月)、帰郷のアテはあるが引越し料がないとの嘆き、その引越し用コンテナの払底、離島ゆえの物価高への苦情があからさまに出ている。それでいて努めてユーモアをよそおう書き手の気持が伝わる。
記録と統計はソ連以来の伝統なのか、たびたびでている。グラスノスチ(情報公開)の時代だ。空き巣ネライ、倉庫破り、など犯罪統計とともに、島の失業者が二か月で倍増し百人を越えたなどの数字もある(地区統計局)。
四月六日付には「国後島非常事態宣言」の決定が掲載されている。個人家庭、幼稚園などへの送電停止、文化行事の禁止など、すべてがエネルギー不足のための緊急措置である。
一方、”夢のように素晴らしい”サハリン州政府経済局の「クリル特別経済(自由化)ゾーン条例案」が出されている。それによれば「在留外国人の出入りと滞在は簡素化され、外国人の企業活動をロシア国民と全く同じにする」。つまり日本との経済交流促進策である。解説は、「案だけならいくらでも出せる。幾つだしたら気がすむのか」と噛みついていた。
冒頭の記事にあるヨソモノとは極東各州からの漁業者であり、島周辺の日本向け海水産物が争奪されているとし、その加害は日本人の密漁と同じだと断じ、自衛措置として、自前の監視船の要求に言及している。島での資源の乱獲や、カニ・ウニなどの漁場争いがロシアの漁業界内部にもあることも始めて知った。こうした批判的ジャーナリズムが島に存在しているのだ。
北海道地域研の荒井信雄氏(前出)がいった「日本人は北方領土問題について二、三の意見しかもたないが、今のロシア人は十通りもの意見を持つ。自由な言論を持つ個人が極東にいることを知ってほしい」との言葉を思い出すのだ。
むかしの北洋漁業、『日魯漁業経営史』を読む
愛読したものに日魯漁業企画による『日魯漁業経営史』がある。これには日魯漁業の前身・堤商会が誕生した明治三十九年から、第二次世界大戦後の北洋漁業の再開までが社史としてまとめられている。ロシアの帝政時代、”露領漁業”をみとめた日露漁業条約から、ロシア十月革命勃発の際、海軍の護衛のもとで”自衛操業を敢行”した、大正十年前後の国権をバックにした漁場の争奪、そしてソ連邦との新日ソ漁業条約をむすぶにあたって、あまたの露領漁業を日魯に大合同し、北洋漁業を一社で独占した、いわゆる日魯の黄金時代が詳しく記されている。
その日魯の前史がある。日本人漁業者のオホーツク進出の勢いに脅威をかんじた帝政ロシアは漁業規則をつくって日本人の漁業を禁止した(明治十二年・一八七九年)。困った漁業者は「買魚」、つまり原料魚を買う形式をとって、サケ・マスを獲り、日本に運んだ。明治十年代から二十年代にかけての「ニコラエフスク買魚時代」がそれである。ニコラエフスクとはアムール川河口の漁業の町の名である。
「日本漁船は漁夫、用塩、漁網、食料を満載して、沿海州、黒竜江(アムール川)方面にわたり、(名目は)これら資材をロシア人に貸して漁業を営ませ、その漁獲物を持ち帰る。事実上は日本人による漁業経営であった」。
これは百十年前の”買魚漁業“の記述だが、いまの日ロ合弁とどこに決定的な違いがあるのか。
一九〇四~五年の日露戦争は中国、朝鮮への進出のための大陸侵略の戦争と思っていたが、この勝利でかちとった国益は”満州鉄道と露領漁業”の二つだという。北洋漁業そのものが日露戦争の戦果であったのだ。
日露戦争直後のポーツマス条約では「オホーツク・ベーリング海に瀕するロシア国領地の沿岸における漁業権を日本国民に許与せんがために協定を約す」(講和条約十一条)として漁業権を全面的に認めた。領土はロシア、漁業は日本人も自由、というものだ。
さらに日露漁業条約(一九〇七年)が調印され、有効期限十二年とされた。これには「漁業労働者の国籍、日露人の同一待遇」の文言があるが、お飾りにすぎず、日本人による漁場の専有が確定的になった。
むかし、サハリン島に一番乗りした吉益外起四郎(貫効丸)は、「魚が川の中からどんどん湧いてくるよう。引き網だけで千五百石(注、七万五千匹)、三日たったら船に積み込めなかった」(青木久『危機に立つ北洋漁業』三省堂)と、その漁場のゆたかさを記している。
国際商品としてのサケ罐
社史は伝説的な日魯漁業の創始者堤清六(当時二十六歳)と平塚常次郎(当時二十五歳)の出会いの場所、沿海州アムール川河口に突き出たブロンゲ岬での邂逅にページを割いている。買魚に来ていた平塚、日用雑貨の見本を持って大陸商売の下見にきた堤が北洋漁業の将来を読んで、盟友の契りを結んだ。平塚は日露戦争従軍後、ロシア人名義の買魚免許を得て、ブロンゲ岬に組末な漁舎を建て買魚と漁労に従事していた。
かれらは明治四十三年・一九一〇年にはカムチャツカ東岸のウスチニ・カムチャツカに北洋最初の罐詰工場を、翌四十四年、西海岸オゼルナヤに自動式罐詰工場を建設した。ここの「あけぼの印」の罐詰は、主に英国を中心に欧州へ輸出され、欧州戦争(第一次世界大戦)では軍用携行食品として飛ぶように売れた(前掲書)。
ロシア革命の大変動も、北洋漁業は強行的に切り抜けたようだ。
”血で飼う買った贖った国権事業”である北洋漁業は大正二年には、租借漁区二百十五、従業員が一万三千人の大産業になっていた。
大正六年・一九一七年、ロシア十月革命の勃発は北洋漁業にロシア漁業資本家の漁業権をまるごと吸収する機会をもたらした。カムチャツカの首都ペトロパブロフスクの最大の漁業者デンビー商会(社主アルフレッド・デンビー)が破産にあたって、その支配する河川漁区、海面漁区、罐詰製造工場二十か所を函館で売りに出した。高価なベニザケの漁場として有望なことから三菱合資(岩崎小弥太ら)がこれを買い取った。
のちにソ連の国営化された漁場のサケ・マスも日魯漁業を通じ、三菱商事が販売した。これが日ロの合弁企業の最初のケースといわれる(『日魯漁業経営史』)。
ロシア革命に干渉し、米英仏日のシベリア出兵が始まる。日本軍七千人が最大の外国干渉軍だった。漁業権を堅く握っていた日本は反革命政権・シベリア自衛軍政権に日露漁業条約の有効持続を確認させ、サケ・マス漁業を続けた。
大正九年・一九二〇年五月二十五日、ニコラエフスク(尼港)で百数十人の日本人が殺され、オホーツク沿岸で百五十マイルに及ぶ二十六の日本人漁区が焼討ちにあう(パルチザン首領トリアピーチン)。日本人漁業者でつくる露領水産組合は海軍の戦艦・石見、特務艦・関東の護衛のもとに漁労した(前掲書)。
筆者にはその歴史を今のオホーツクに辿りたいものがある。半恒久的な罐詰、塩蔵加工の工場をロシア領の極東沿岸に持ち、第二次世界大戦の敗戦近くまで稼働していた。敗戦後それはどこに行ったのか。おそらくソ連の漁業に受け継がれたに違いない。しかし戦後四十数年、日本の漁業設備や船舶はスクラップ・アンド・ビルドの波を幾度も迎え、設備更新を繰り返している。塩分の多い加工場などは錆びないわけがない。漁法は残っているのか。
北洋漁業時代にも漁法と漁法の争いが日本企業どうしで起きる。昭和に入り、カニ工船や大規模な流し網漁が勃興してくる。当時は領海三マイル時代であり、その沖は"だれ憚ることなき公海”(前掲書)である。カムチャツカの川の河口から棚上するサケ・マスを建て網で採る露領漁業は、新興漁業企業の公海操業の流し網により、母川に湖上する魚をさらわれる。
「昭和七年度の許可した流し網は総計五万反、その延長千五百マイルにも達し、カムチャツカ半島の東西を包囲してなお余りあるほどの長さだった」(前掲書)。これが日魯の既得権である露領漁業を犯した。
「日魯が漁獲した魚の一部には、ウロコが剥脱しており、流し網の網目から脱網してきた痕跡が多く」とその被害を述べている(前掲書)。日本漁業者聞の争いである。
この争いのパターンは戦後の日ソ漁業交渉の中にそのまま見られる。”母川主義”といい、”漁法の問題”といい、資源問題などにいたる日ソ・日ロ交渉の積年にわたる争点は、すでに日本が自国漁業企業の間で争い尽くしたことばかりではないか。
戦後の日ソ漁業交渉史をソ連の資源大国と日本の水産ナショナリズムの激突のように見ていた私の常識は崩れた。
なぜ露領なのにロシア漁民はいなかったのか。
この北洋漁業の従事者にロシア人漁民がいた話は聞かない。この『日魯漁業経営史』によれば、昭和三年・一九二八年の日露漁業条約の改定の際、ソ連側から露領漁業の従業員のうち何割かをロシア人に当てるよう要求があったという。「初年度、一割から増やし五年度は半分をロシア人に当てて欲しい」。ソ連邦としてソ連漁民に漁業技術を習得させるための狙いがあったろう。しかし、この要求は「ロシアは海洋国にあらず。未熟なソ連漁業労働者は熟練を要する日本式海上漁労には不適当」との理由で退けられた。
帝政ロシア時代からソ連邦の時代まで、求められてきたロシア人漁民の雇用問題には終止符がうたれた。いま風にいえば、”漁業技術移転の拒否”であったろう。
このオホーツクにおける水産日本のエゴイズムの歴史は国家が意識された明治からはじまっていた。その正負の遺産がオホーツクにいまもある。
かりに、その根室海峡版が北方領土問題と漁業の問題であるとしたら、現実はごく分かりやすくなるのだ。
『ソ連極東総覧』を読む・ソ連漁業”大艦巨砲主義”
ソ連邦の漁業のなかでオホーツクはどんな地歩をしめているのか。そしてその現状は。
以下、『ソ連極東総覧』(一九八七年版)からのノートである。
極東地区はソ連の中で海洋の持つ意義が最も高い。極東全体が”ソ連の魚工場”といわれている。極東のソ連邦全体の水産製品に占める割合は高く、一九八〇年で、魚類の三十%以上、罐詰・ビン詰の四十%。飼料用魚粉の四十五%を極東で生産している(注、極東の人口は七百五十三万人)。
ブレジネフ時代の一九八二年、ソ連共産党はソ連国民一人あたりの魚類消費量、年間十七・六キロを、一九九〇年に十九キロに引きあげる食料計画を採択。さらに国民の嗜好にあわせ”量より質”の政策を推進した。
過去十年、ソ連の総漁獲量は九百万から一千万トンを維持している。うち極東の漁業基地(オホーツク・ベーリング海から南太平洋まで含む)からの漁獲量は四百八十万トンと、総漁獲量の約半分を占める。
極東漁業のシステムは主に母船を中心にした船団による操業である。地上の漁労本部と連絡して計画的に漁場での漁労をしている。魚群の分布、移動を探索するのに、かつては航空機まで使った。
大型トロール母船には処理工程、急速冷凍・貯蔵機能があり、工場労働をしており、数百人の男女従業員を擁している。周辺で漁労する船からの魚などを母船に揚げ、罐詰・ビン詰に処理加工する。この母船(加工船)の製品は運搬船で大陸の港にはこばれる。加工材料や物資を補給する補給船団もセットになっている(一大船団で動くことから、日本では”大艦巨砲主義”といわれている。日本の遠洋母船団も同質だが)。
また『総覧』にはいくつもの問題点が指摘されている。
・大国営漁業部門では・・・
「まず第一に運輸部門が足枷になっている。港での荷役作業の遅れ、接岸の順番待ち、冷凍貨車の不足からくる原魚運搬船の時間待ちと無駄な停船。母船への物資補給の不足が続いている」。
「漁船間の流れ作業が円滑を欠く。漁労船から母船への魚の引き渡しに手間取る」。
「船舶の補修面にも問題がある。漁船の定期検査・修理がノルマに追われ不十分」。
・中規模漁業部門では・・・
「中規模のコルホーズに不利益が出ている。オホーツク海、日本海、太平洋沖合の伝統的な漁場において操業する漁業コルホーズは、国営公団傘下の漁船と異なり、母船・加工船を持たないため冷凍保存ができない。母船に漁獲物の引取りを拒まれ、停船においこまれるケースがある」。
・沿岸の小規模漁業では・・・
「大型化の大船団の編成から取り残された中小漁船は極東各地沿岸に散在しており、旧式な漁船と主に塩乾用の小規模な加工施設しか所有しておらず、しかも僻地にあって、都市部への輸送が困難を極める」。
これらの再活性化をめぐっての漁業構造の見直しが、研究者を中心に行われている。チンロ(太平洋漁業海洋研究所)の公表研究によれば、
「資源量の減少していたものも回復している。しかし単一魚種だけを取り出した場合、資源変動の幅が大きい」。
「現在の漁業は選択的に特定の魚種だけを漁獲しており、生態系に及ぼす影響がでるであろう」。
「天然の分布量に見合った多種多様な生物の利用を計れ、そのため規模の小さい沿岸漁業の再活性化と振興が必要である」。
これらはすべて八〇年代後半のデータと問題点である。この五年間にソ連邦は崩壊した。いまは計画経済から市場化への過渡期である。だがここに指摘された問題点は引きずっているだろう。そして次のような部分を読むと、日本の漁船員とつい対照して見たくなる。
「遠洋に行く(ソ連・極東の)トロールの船員は二、三倍の給料と長期有給休暇を受け取っているが、社会インフラの整備されていない極東での僻地暮らしの辛さがある。二、三年で出身地に帰る遠洋の船員も多い。あるいは漁獲ノルマの重い遠洋漁業を避け、ノルマの緩い沿岸漁業に転ずるものも見受けられる」。
こちら日本の遠洋漁業はとっくに終わった。水産高校の卒業生のうち、船に乗るものは毎年一人以下、ほとんど商社の模様替えした水産企業の事務系に就職する時代である。
二百カイリはソ連の”大艦巨砲主義”にも打撃を与えずにはいなかった。日本は沿岸漁業に回帰し、獲る漁業からつくる漁業、買う漁業に転換したが、このソ連の大型漁船団はどう生き残りを探っているだろうか。”巨船坐礁す”でなければいいが。
やはり現地調査へ
いくらかの充電の時聞は得たが、このさきは現地見学・調査に心は馳せる。この一年、北方領土から、オホーツクへ、返還運動から漁民へ、日本の北洋漁業時代から現在の日ロ漁業の新時代へ。・・・私の関心の軸は変転を繰り返してきた。いつに勉強不足だったからだ。
これまでの調査に、合作映画の調査費、テレビ局の企画費を投じてもらったことになる。感謝しかない。あとは自弁でも、極東と北方四島を見てこなければ、私の企画なるものは輪を結ばない。
「日ソ間ではなにをやるにしても”北方四島”が絡めば悪くなる」というジンクスを取り除くのが私にとっての課題だ。「北方四島があるから面白い」にならないか、である。
資金のこころあたりは一つだけあった。友人Y君としか申し上げられないが、かれは目下、病床にあって、映画の仕事は出来ないでいる。その資金を使って、私のなにかの”種銭として”役立ててくれと言われていた。もしその好意を受けるなら、この仕事かもしれない、私はそれを使わせて貰うことにした。
さて、旅立つにしてもオホーツクの訪問希望地点に行けるのかどうかである。
すでに知られているのはハバロフスク、ウラジオストク、サハリン、カムチャツカの首都ペテロパブロフスク・カムチャツキー、北方四島である。北洋漁業の面から見たいのはニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)、オホーツク村、カムチャツカの西海岸である。これらの地点は行ける可能性すら掴めない。ある水産系大学のコンピューターにも、たとえばオホーツク、カムチャツカ西海岸、北方四島の漁業のデータは入っていないという。
私自身不勉強で、オホーツクに”オホーツク村”の在ることを、司馬遼太郎氏の著作を読んで知った始末だ。カムチャツカの西海岸にいたってはまるで見当もつかない。
日本の水産会社、あるいは大商社に聞くことも考えたが、止めた。
”魚は金” ”漁場は金庫”だ。漁場情報の内実を聞くのは、相手に”金庫を開けて、中を見せて欲しい”というに等しい。その漁業資源の秘匿などでは、ロシアでも同じかもしれない。
さて、旅行代理店・JTB札幌が極東のツアーに強いと聞いていた。上記の地点を希望し、すべてお任せした。北方四島を除いて後はセットできるという。それはそうだろう。
この調査には大津幸四郎氏と一緒に行くことにした。だが二人に何の肩書もない。
今回は漁業、とくにロシアの大船団漁業ではなく、もっとも情報の少ないオホーツクの沿岸漁業、その漁村にあたるところとそこの漁師に会うことに重きを置いた。
札幌のアブドウラザコフ総領事、荒井信雄氏、根室市の竹村孝章氏に連絡をとり、各氏の人脈を教えていただいた。
通訳にはビザなし交流で通訳をしている村山敦子さんに依頼した。本来、道庁の島民交流の通訳なので、北方四島に一緒に行くことはこちらで遠慮した。村山さんの父君は東大生のころ全学連の創立期に活動したという、私とほぼ同世代のポーランド史家らしい。何かのご縁であろう。彼女は私に親しみと、老人介護のような気持をもったようだ。
サハリンと四島の通訳にはさきに助言をいただいた北海道の民放局から在サハリン朝鮮人、具文鍋氏を紹介され、電話でお世話をお願いした。準備は出来た。
JTB札幌からの旅行予定表が送られてきた。それにはかつてに「学術調査ツアー」と銘うつてあった。大津氏の白いヒゲならまあ学者に似つかわしいが、学術調査団とはどうかなあと、互いに顔をみあわせた。