書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 オホーツク編 極東・オホーツクへの出発
封鎖都市ウラジオストク
スケジュールによれば一九九三年・海あけの時期、ほぼ一か月間で、沿海州、ハバロフスク州、サハリン州、カムチャツカ州(マガダン州は割愛した)の四州と北方四島を巡る。まさに点と線の旅である。JTB札幌ではサハリンのツーリストの会社に大陸地方の案内者を手配した。
アブドウラザコフ総領事には、今回は個人的調査だし、撮影に行くのではないから、各州のテレビ局などには、”とくにお構いないように”と連絡をお願いしておいた。
通常のロケなら行く先々のテレビ局(旧ラジオ・テレビ委員会)に協力費を払って、コーディネートを頼むのだが、今回は調査であるし、予算は取っていない。総領事は「私の信頼する人間にだけ、テレックスを打っておきました」とだけ答えた。
出発時にやはり気になったのは自己紹介である。私も大津氏も個人の名刺で通すことにした。ただ、メモがわりの八ミリビデオ、写真カメラ、録音機は携行していく。これが訪問先の各州では「日本人の取材スタッフ、到着」と受け取られるかも知れない。しかし、この道具類は映画人の自己証明にはむしろ役だつだろう。
五月十六日、日曜日の午後三時、新潟発の直行便で一路ウラジオストクにむけて飛び立った。大津幸四郎氏、村山敦子さん(通訳)の三人である。到着地の気温は七、八度とあって、冬着で身を固めた。
手にしたファイルには地図やコピーが挟んである。盗難をおそれで現金は身につけた。極東ではトラベラーズ・チェックは通じないのだ。
佐渡の上空をかすめ日本海を越え、三時間ほどでウラジオストク空港に着いた。曇天だが白夜のため夜も明るい。日本人の乗客はほぼ働き盛りのビジネスマン。韓国からの旅客も新潟経由で利用している。目だったのは韓国テレビの取材班である。十数名のスタッフが機材の山をてきぱきと処理している。韓ロの極東での繋がりには勢いがあるようだ。
ここで小事件が起きた。私のナップザックが最後まで待っても出てこない。新潟空港のチェックインの際に置き忘れたらしい。それには着替え、薬類のほか、スチール用フィルム五十本、録音テープ三十本が入っている。手持ちの下げカバンには数日分しかない。新潟空港にテレックスを打った。幸いその所在は分かった。すぐハバロフスク接続でウラジオストクに送るという。
このミスを手はじめに、その後、盗難一回、機材の忘れもの二回の失敗をすることになるが、そのほとんどが無傷で戻った。ロシア人から「奇跡だわ!」といわれたものだ。
その失敗も、結果としては調査内容を膨らませてくれたが、その顛末はのちに触れよう。
税関で手間取ってようやく扉をでると、真っすぐに中年の女性が近づいて出迎えてくれた。JTB札幌の契約したロシア側旅行社「ドゥルーク」の金錫裁氏らしい出迎えはない。いぶかしむ私たちを用意のワゴンに乗せると彼女はその身分を告げた。ウラジオストク・テレビ委員会の国際部長エリーナという。「すべて段取りしてある。ウラジオストク・テレビのマクシメンコ社長とボロージン副社長との面会を明日あさ設定してある」という。ああ、やはりロケ隊と間違えられたなと思ったがもう遅い。
空港から市内までの距離は四十二キロもある。緩い丘陵を直線ではしる幹線道路、その隔絶した空港の配置には首を傾げた。軍事都市ウラジオストクを上空から俯瞰されることを避けたのだろうか。行き交う車輛の六、七割は右ハンドルの日本車である。
白夜もくれなずむ十時過ぎ、金角湾近くのウラジオストク・ホテルに入った。エリーナさんはあす午前のマクシメンコ社長らとの面会の件を念を押して帰った。
節電のためか暗いロビーで待っていた男女のふたりが声をかけてきた。かれらがJTBと提携した当地の旅行社の係員だった。イゴーリ君とイリーナさんはニコリともせず、「空港でローマ字で名前を書いた紙を掲げて何時間も待っていた」という。詫びながら説明すると、「ツアーは自分らの仕事なのに、なんでテレビ局が」と怪訝そうである。担当の金錫裁氏(以下、金さん)は遅れて明晩、サハリンからこちらに来るらしい。
イリーナさんは「私は明日、ニコラエフスク・ナ・アムーレとオホーツクに先発して、あなたがたのホテルや車の段取りに行きますから」という。経験のある旅行社「ドゥルーク」としても、その地点のツアーを扱うのは始めてだった。
ホテルのレジで換金する。一ドルが七百ルーブル、日本の百円がそれに当たる。
深夜に近いロビーのソファーにはなんとなくマフィア風の男たちがいる。
部屋に入ると間もなく慣れた英語で「こちらはサービスカンパニー。アメリカ煙草は?ウイスキーは?キレイな女はどうだ」という。断るとなぜだ、と食い下がる。なかなか電話を切らせなかった。
生まれ立てのテレビ局
月曜日である。街のセンターには活気があった。ウラジオストク・テレビに行く手前、前夜、部屋でテレビのスイッチを入れた。いきなりCMだった。犬やネコのペットフード罐詰のアレである。また、太平洋の島を背景にオレンジ・ジュースと日焼けした若者の映像、か出る。国籍不明のCMには慣れているが、ペットフードをここでは誰が買うのか。
午前十時、ウラジオストク・テレビに着いた。
社長のマクシメンコ氏は多忙、代わりに在日経験のあるウラジミール・ボロディン氏が応対にでてきた。
挨拶そうそう局の模様を尋ねると、局独自の放映時間は週二回、各三十分前後。電波はすべてモスクワからネットしているが、地元番組製作の準備と要員を育てている最中という。創業期なのだろう、大きな機材が搬入されていた。
私は当方の調査目的を話した。やはりロケとカン違いしていた。だが本番撮影でないことを了解すると、氏はビジネスマンらしい機敏さでロケ経費の説明をはじめる。
「車輛費、ドライバー、ガソリン込みで一日、三万五千円。コーディネーター兼通訳、一日四万円。包括的準備費に約十万円。支払いは前金と終りの二回払い」。
ヘリコプター(十人乗り)や船舶のチャーター料はケースバイケースだが、これは日本より安いようだ。局としては外国取材の協力費を、外貨収入として期待しているという。
漁業についてあらましの話があった。ここ金角湾には漁業基地と水産物の荷揚げ埠頭があり、そこに大型冷凍倉庫があって、遠洋からの冷凍船の水産物を集積している。
どこか沿岸のコルホーズを見学したいがと尋ねると、「あるにはあるが、日本のテレビが汚れた箇所ばかり撮ったので感情を害したらしく、以後撮影を断るようになった。一般的にいえば小さいコルホーズほど嫌がるだろう」という。
ボロディン氏が是非取材したらと薦めたのは、オホーツクの真ん中の公海部の乱獲である。ここで韓国、ポーランド、中国漁船などのスケトウの乱獲によって、昨年、カムチャツカの大きなトロール船がロシアの二百カイリ内に出漁したが”一週間でたった一匹”しか取れなかったという話だ。まだどこの(州)テレビでもそれは撮っていないという。いささか誇張はあるが、以後オホーツクの至るところで、この”公海部での大乱獲”の話をきくことになった。
ウラジオストクの人口は六十九万人。イゴーリ君の話では、軍人の家族はその数字にはいっているが、軍人ははいらない。多分、三、四万人に及ぶだろうという。
街には水兵服の連れが目だった。軍都だったからロシア人も入域許可が必要だった。最近は極東はもうけ話があるというのでヨソモノがどっと入ってきたとイゴーリ君はいう。
昼食時、彼は予約したオケアン(国営の魚扱い企業)のレストランに案内してくれた。大津氏は出された料理を撮影しはじめた。たくさんの魚料理が出てきたのだ。
山盛りしたイクラにベーコン・カニ・イカのマヨネーズあえ、切り身の焼き魚、サケのスープ、ビフテキのフルコースである。
このぜいたくな料理を前にしてのイゴーリ君の話は食欲がなくなるほどひどかった。
「食費、生活必需品に一日、一万ルーブル(注、千四百余円)かかる。私のような市民の月収が二、三万ルーブル程度、年金生活者は五千ルーブルだから、老人たちは最低生活さえ出来ません」。
一日に一万ルーブル?一瞬、耳を疑ったが、以前の通りの生活をすれば、それだけかかるという。
バスの運賃は?聞くと無料だという。トロリーバス、市内電話もタダだ。いちがいに日本との比較はできかねた。
在ウラジオストク四十五年の日本人
ある日本人に電話し、そこを訪ねることにした。北海道新聞(九三・三・三)の「ひと欄」に載っていた佐藤宏氏である。それによれば氏は一九二八年、サハリン生まれ、海軍予科練出身、シベリア抑留で苦労したあと、「ナチスに勝った社会主義に興味をもって残留。極東漁業局に勤めて異例の出世をし、極東最高の情報員とされ、イシコフ漁業相に重用され、漁業交渉など日ソの舞台裏で活躍した」という。極東の漁業のレクチャーを受けるにはうってつけのキャリアの持ち主である。
佐藤氏は私と同じ年齢である。ダンディーな身なりで、柔和に招きいれてくれた。氏のアパートは漁業公団の団地の五階、そこにひとり暮らしだった。部屋には日本製のテレビ、ステレオ、短波ラジオなどがある。私たちのためにシャンペンなどが用意されていた。
私たちの来意はすぐに呑み込んでもらえたが、「現役を引いて十年になるからどうですか」といいながら、質問には細かく答えてくれた。
私の最初の質問は七〇年代の日ソ漁業交渉のソ連側の最高責任者だったイシコフ漁業相と氏とのことだった。
ーあなたは漁業相の情報員だったんですか?
「そうです。僕は極東の全船団を指揮するグループに入ってました。が、僕はイシコフ漁業相と直属の関係を持っていたんで、船団指導部の指揮下には属さなかった。僕は特別扱いのフリーパスでした」。
ーするとイシコフさんが日ソ交渉の場で迷ったときに相談を受けられた?
「ある人を通してです。監視のうるさい時代でしたから。縁の下の力持ちで表にでません。表に出る人は若い通訳でした」。
ー戦後の日ソ漁業交渉では、ソビエトの主張には一定の資源量というのがありましたね?
「そうです。チンロ(太平洋漁業海洋研究所)や全ソ連モスクワの漁業責任者の意見、それと漁業企業代表の意見を聞いて決めるんです。しかしその対日漁獲枠を知っている人はソ連側で一人、イシコフ漁業相だけです。で、内密には”今年はこのくらいだろう”と腹づもりして、東京の交渉にのぞむ。交渉では枠は決めて帰ってこなくてはならない。だから対日枠は代表団が八人いても、団長しか知らない。僕は知っていましたけどね」。
ー漁獲量(枠)の決め方は科学的に見て出されたんですか。僕の受ける印象では、あんまり日本側の言い分を聞いていると、日本がどんどん獲るので、一定の線をだしてガードしたように思うが?
「枠には科学的な根拠があるんです。日ソの漁業の専門家同士はお互いに戦前から数えれば何十年も交渉をしては、どのくらいの資源があるかを話しあっていますから、オホーツクの魚の状況はよく知っているんです。だけどそこに"政治”が入ってくる。政治がよくなれば枠も変ってくる。だから見当がつかない。いわゆるマラソン交渉になる。それがはたからはなぜか分からない、クレムリンの秘密っていうことで片付けられる。しかし日ソの漁業行政者も漁民も無茶はいわない、日ソの漁船同士は”魚は魚屋さん”で、お互いに海に暮らして、漁民気質というのがある。だけど、いざ交渉の場になると政治が入って混沌としてくる。資源があろうとなかろうとパッと決まる時もある、資源が余っていても”ダメだ”という時もある。まあ普通の場合はだいたいの見当がついている。お互いに黙っていても分かっているんです」。
日ソ漁業交渉のうらがわ
それだけ風通しのよい科学的なデータの共有があったかどうかは疑問が残る。しかし、一見対立しながら分かり合っていたのか。次を聞いた。
「ソ連側は、日本の中小漁業をおさえる気はなかったんです。太平洋も二百カイリ時代に入りましたね。あの時、日本はベーリング海海域で操業していた大洋、日水、日魯漁業など大企業はその海域から引揚げさせられた。だけれども、オホーツク海海域には二千隻もの中小企業の漁業が操業しているわけでしょ。船主が一人といった小企業は大きな打撃を受けるわけですから。イシコフ漁業相は良くその辺を知ってました。大きな企業はアメリカ沖合漁業を引揚げてもほかの海に転進できるが、中小漁業には辛いだろうと思ってました。だから規制も段階的にやっていった。オホーツクではそういう考慮もあったんですよ」。
ーもうひとつ。日本の密漁とか違反の報があなたにも入ったと思うが、その話はイシコフ漁業相とはどう語られていましたか?
「いやあ、ロシアでも密漁はあるんです。魚を獲っている人はみな同じです。魚がいて獲らないって法はないでしょう。やはり漁業監督官が捕まえるが、ロシア人の場合は同国人同士だから、罰しても一時的制裁とか罰金くらいです。
イシコフさん本人は日本の漁業をよく知っていました。しかし立場がありますからね。ソ連の裏庭にずかずか入ってきて、ソ連人の感情を壊すことは心配してました。日本の漁船の違反操業についても、日ソの友好に差し障りがあるとかいって、こちらの新聞に出るのをストップしていた。だから一般の市民は知らないんです。あの頃はそうだつた。喋るのはモスクワ・ラジオの日本語の放送だけね。駆け引きのためにやっていたが、一般の新聞にはよほどのことがない限り、検閲で切っていた。(・・・何故です?)だいたいイシコフさんは極東の出ですから、ロシアの国民感情を壊さないためです。ロシアの上部は知っていましたよ」。
この話ははじめてだった。なるほど日本にお灸をすえるだけなら日本語放送で足りる。
”獲らせるから金を払え”
氏のイシコフ漁業相時代の思い出は”美化”に近い。漁業相が汚職事件で引責辞職したといっても、佐藤氏は聞き流した。その黄金時代はフルシチョフ時代から、ブレジネフの時代の半ばまでだったという。
ー戦後、ソ連がピカピカの船をつくったのはいつごろですか?
「大母船団方式はイシコフさんの時代です。一九六〇年代から”世界一の漁船団を作る”と言って始めました。フルシチョフも当時軍縮を本気でやりました。核削減をゼロまでやると言って、核もなげるし、軍艦も建造を中止して、一番先に巡洋艦をいまのカニ工船の母船に切り替えたんです。何十隻も軍艦を造るかわりに大母船団をつくろうって。実行は六二年からです。一万二千トンの巡洋艦規模のカニ母船十隻が造られて、レニングラードから毎年のように極東に回送してきた。カニ罐工場母船です。それがカニ確だけじゃ周年操業出来ないと言うんで、カニの漁期が終わったら裏作のサンマ漁に切り替える。あの一九六五年当時かな、フルシチョフさんからブレジネフ初期までの時代は良かったんです。イシコフさんも”日本の漁業は世界一だ、漁民の技術も世界一だ、日本の漁業を勉強しなくては駄目だ”と言って号令をだした。それから極東ではみなが真剣にやりだしたんです」。
ソ連にとっても二百カイリ以後、”大艦巨砲主義“の船団は行き場がなくなった。ベーリング海のアメリカ・カナダ寄りの漁場から締め出された。米ソ対立に影響をきたさないようキレイに引き払って、オホーツク、南太平洋、インド洋の漁場に転進した。さらにトロール網規制や海洋法論議が世界的に沸きあがるようになってからは、ソ連の母船団は全部、ロシアの二百カイリ水域内に戻ってきた。その時期から、日本の漁獲量の水増しに対する”黙認”が一切なくなったという。
「それまでは五万トンや六万トンオーバーして獲っても、ソ連側は見て見ない振りしていたのが、それ以後は一トンのオーバーまで厳しくしだしたんです。ソ連漁業が生きるか死ぬかです。あれ以後、交渉は違ってきました。入漁料を日本に払わせるようになってからはさらに厳密になった。協力費とかなんとかといってせせこましくなった。”獲らせるから金を出せ”の関係に変わってきたんです」。
ロシアの昨九二年の漁獲が半分近くに落ちていることに触れると、氏は「この十年、船を見ていません」と多くを語らなかった。
スケトウの乱獲の話が出てから、氏はここでの”スリ身”加工場の失敗談を開陳した。
「ロシア人にはスケトウのスリ身の活用法について、それなりの考えがあったんです。肉不足だから、もしスケトウのスリ身が出来たら肉と混ぜてハンバーグやソーセージにしたい。それでソーセージ工場とカマボコ工場を合併させたプランが内陸のウスリスク市にあったんです。ところが失敗続きでした。
日本でもカマボコを作るのには”スワリ“という捏ねる工程があるんです。あれがロシア人には出来ない。座って一時間も捏ねれば出来るのに、ソ連式だから終業ベルが鳴ったらパアッと帰宅してしまう。それが一つ。それから日本でいうコールドチェーンがないんです。工場は内陸のウスリスクですから、ウラジオストクから冷凍したスケトウを台車でそこに運ぶでしょ。こっちの人は引き渡してしまえばそれで終り。冷凍ものは二時間三時間で溶けてしまう。だからあとの係の人がまた冷凍する。一日のうちにスケトウを再冷凍したり、また溶かしたり、あれではカマボコが出来るわけがない」。
ディオミード漁業基地
窓のそとに深い霧がたちこめていた。佐藤氏は街と漁業基地を案内しようと誘ってくれた。すでにロシア国籍を取り、氏はロシア人としてここで余生をくらすつもりの住いだった。
大通りにある旧日本領事館や日本人街あたりを通り、金角湾をぐるっと回ってディオミード漁業基地に入った。もう終業時間過ぎだった。
佐藤氏には勝手知ったる元の職場だが、十年ぶりに見る港と漁船岸壁だった。
極東のトップクラスの漁業基地はこことサハリンのネベリスクだそうだ。ディオミードは船団の出漁の準備や補給物資を積んだり、漁具の整備や修理の基地である。
のっぽのクレーンとあちこちにある漁網の山はその規模を窺わせるが、漁船の多くは休んでいる。「燃料の油がなくて、今は遠くの海にはいけないはずです」。
日本製のカニ籠をうずたかく積んだ船は、近海にズワイガニを獲りに行く。底引きは一切禁止され、あぶらカレイなどの底魚を採るにも籠しか使っていないという。
赤錆の鋼鉄船ばかりで耐用年数のほどが察せられる。トロール船、巻網船、冷凍船を見ながら、氏は、「だましだまし使っている船ですねえ。もうとっくに新船に替えなきゃいけないんでしょうけど、資金がないんです。油もないから、近海に行く船しかないようです」と寂しさをかくせない。「これでオホーツクで大時化にあったらひとたまりもないですよ」と案じもした。
沿海ニシンの最盛期はトロール加工船一隻に三百人から八百人もの女子従業員が乗りこむ。ニシンは船内で塩漬け樽詰めされ、ここからシベリア鉄道を西へ”ボーチカ(塩樽貨物)特急”が走る。これは絵になりそうだ。氏は「塩漬けニシンはウオトカには欠かせません。まあロシアの国民食ですよ。それにポテトと玉葱、ピクルスがあれば上々」という。
極東には船体修理工場と網の仕立て工場はあるが、造船所も製網工場もない。ソ連邦の解体はそのヨーロッパ部の造船工業で支えられてきた極東の漁業基盤を痛めている。
こどもたちは白夜のなかで遊びまわっていた。岸壁でキュウリウオを十匹ほど釣って家路につく労働者もいた。どの船の甲板にも犬が留守番役のように鎮座していた。
ダリルイバへ
その夜、サハリンから通訳とコーディネーターを兼ねた金錫裁さんが到着した。金さんの日本語は日常会話には事欠かない。六十四歳、日本語で義務教育を受け、十六歳のころサハリンで敗戦となり、ロシア国籍を取った。もう年金生活に入っていたが、言葉ができるので、契約で日本人の世話をする旅行社の仕事をしている。
私たちが調査の趣旨を述べ、自弁できたというと、興味をもったのか質問責めにあった。「私たち朝鮮人が沿海州から強制移住させられたのを知っているか」ともいう。氏自身漁業にも興味をもっていた。「えらい幅の広い調査ですなあ」と笑う。かれがニコラエフスク・ナ・アムーレとオホーツク村を担当する。
翌日、イゴーリ君のアレンジでウラジオストクのダリルイバ(極東漁業総局)をたずねることができた。モスクワの漁業省に次ぐ地位にあり、”極東の漁業省”といわれる国家機関である。極東各州・地方の漁業局を束ね、州の漁業公団、いわば大企業から中漁業コルホーズやさらに小さい漁業者の協同組合まで統括してきた。いまは民営化の過程にある。本部はウラジオストクの官庁街の一等地にあった。ビルの階段の踊り場には”大艦巨砲主義”の雄々しい活動の大きな油絵が掲げられていた。”海に浮かぶ工場”母船と漁獲船の図である。巡洋艦を改造したといわれる加工母船団と漁獲船のニシンの網上げ労働がリアルに描かれていて、いかにもダリルイバに掲げられるに相応しいものだ。
魚類資源部長のユーリー・テェンスキー氏が対応された。極東漁業の概括的な話のあと、是非旧ソ連の核廃棄物の海洋投棄について氏の意見を聞きたかった。このウラジオストク沖合の日本海に投棄箇所は集中していたからだ。
魚類資源担当だけに、学者出身のような印象の方だ。
ー昨年のロシア全体の漁獲量が半減した理由は何でしょうか?
「その第一はソ連邦の崩壊により、バルト三国やウクライナの分離、独立によってバルト海漁業や南部の黒海・カスピ海の漁業がロシアから離脱したことです。第二にロシアに残った極東海域においても漁獲量が減った。その理由は、いわば現在進行中の漁業の再編による停滞です。さらに国民の嗜好が量より高品質が求められるようになり、需要量そのものが減りました」。
-現在一番力を入れている魚種はなんですか?
「オホーツク海は豊かな水域とみなされていますが、その最大漁獲魚種は圧倒的にスケトウです。その他に価格が高いニシン・マダラ・ヒラメ・オヒョウ類、各種カニ・ホッケ・コマイに力を入れています。カラフトシシャモ漁も今後開発します」。
-日本では遠洋漁業から沿岸漁業への転換が行われ、北海道などではホタテの養殖が盛んに行われていますが、ロシアではどうですか?
「とてもいい質問です。沿海州ではそれを”海面栽培(モレクリトゥーラ)”・再生産漁業と呼んでいますが、まだサケ・マスの孵化事業で手一杯です。沿海州ではコンブ・ホタテ以外の養殖栽培を試験的に行っています。我が国も遠洋漁業は削減の方向にむかっていますから、沿岸漁業の発展が急務です。地域住民の需要や雇用を満たすという点で、大いに将来性を期待したいところです。最近までは養殖事業に対して国家予算が振り向けられていましたが、いまは独立採算でやらなければならなくなりました。これまでも日本の漁業者とは友好的にやってきましたが、養殖の優れたテクノロジーを我々は欲しいのです。もうこの二年、技術研修は日本で受けていますが」。
淡々とした説明だったが、二百カイリ以後、遠洋から領海に回帰したソ連漁業から、さらに海洋国バルト三国・ウクライナが連邦の漁業から分離し、自立した。内水面漁業は別として、ロシア共和国の漁業専管水域としては極東と北極海しか残されていないことになる。
統制力を失う”極東の漁業省”
日ロ漁業交渉でいつも焦点は漁獲割当量になる。だがロシアの国内ではどうなのか、極東各州間で割当てを巡ってどういう基準があるのか。また大国営漁業と零細な沿岸コルホーズの間で漁獲割当量の不公平や綱引きはないのか。
テェンスキー氏によれば、ダリルイバの仕事以前に科学研究機関のだす資源調査がある。そのデータによって、漁獲割当の総量が決まり、配分する。主役は科学者だと指摘、全ロシア規模ではヴニロー(全ロ海洋漁業海洋学研究所)、極東ではチンロ(太平洋漁業海洋学研究所)がそれだ。この調査結果にもとづいてロシア連邦漁業委員会が漁業政策や割当てを決めるという。「この科学部門だけは国家機関として、民営化されることはない」。
ーいわゆる旧国営の漁業企業と中小の漁業との聞の漁業紛争は?
「あります。この二、三年から、あたらしい私企業が増えました。以前には民間企業は無かった。全部が国営企業かコルホーズの独占でしたから。いまはいろいろなバラエティの漁業企業が、それぞれ会社や協同組合をつくりました。みな独立採算制になりました。それらが資源枠を取り合いますから、漁業者同土の対立が起きるのです」。
ー具体的にはどこが割当てをしているのですか?
「州政府や地方自治体(注、地区行政府)から漁獲割当量の枠が指示されます。その多いか少ないかが各企業にとって死活問題になります。私達はこれらの新しい企業を、まだ未開発の眠った魚資源や大陸棚での漁業開発に向けようと努めていますが、やはり、いままで獲り慣れた魚種をほしがります。もうこれらの魚種は限度まで獲り尽くされ、漁獲制限されています。ですから、漁獲枠のぶんどり合戦になり、企業間の争いが起きたり、不法操業も起きています。ですから、こんど極東に創立された科学的漁労会議(ナウーテヌィ・プロムィスローヴィ・ソヴェト)は、今述べたような問題を解決するために設けられたものです」。
極東の漁業の再編過程で多くのペーパーカンパニーができ、漁獲割当を貰い、それを転売する輩もでてきた。それを封じるために、漁船をもたない名目だけの会社にはクォーター(漁獲枠)を与えない対策が講じられた。なかには日ロ合弁の会社もあった。
オホーツク海の真ん中の公海部でのスケトウの乱獲について氏も言及した。
「日本はいま公海部でのスケトウ漁はしていないし、ロシア漁民も漁獲禁止予報(プラグノース)が出てからは完壁にこの公海から撤退している。その点は日ロの漁民は一致しています。しかし、韓国・ポーランド・米国・中国などの漁船団はこの予報を上回わる乱獲を続けている。それは我々から見ると国際的密漁といわざるを得ない」。
日本漁船は入ってないと聞いてやや安堵した。
最後に核廃棄物の投棄箇所の乗った新聞記事を見せ、それがハバロフスクの近海にもありますがと質問した。
テェンスキー氏は「そのことについて全く知らない。が、知っていれば抗議しただろう」という。金錫裁氏は朝鮮にも近いといって、私たちをそっちのけで地図を指して聞いている。テェンスキー氏は「この海域は締麗なところです。ここがそうだとは・・・」と心底驚いている様子だ。そのことに改めて私たちの方が驚くのだった。これについてはモスクワの原子力委員会の正式発表があったこと、日本では周知のことだし、韓国政府も抗議と調査に動いていることを説明した。氏の困惑ぶりは見ていても気の毒なほどだった。
ダリルイバを辞したあと、金氏は「地図で見たのは始めてだ。共和国(北朝鮮)のそばだもんね。この調査はいい仕事です。合弁の通訳はつまらんです」と張り切っていた。
北洋漁業の歴史研究者・ゾヤさん
その足で次に表敬訪問したのは、荒井信雄氏に教えられたロシア科学アカデミー極東支部のゾヤ・モルグンさんである。中年の落ち着いた研究者で、日本の極東の歴史研究者にはよく知られた方だ。日本語を理解できるし、少しは喋る。その温かい人柄に甘えて、北洋漁業時代のことなどを撮影する場合の助言を聞かせてもらった。
彼女の研究室は女性らしく飾りつけられていたが、アカデミー支部の建物は扉や窓が痛んでいた。
ゾヤ・モルグンさんの口からも函館のあきら・鈴木先生、京都の堀江さん、大阪大学の藤本先生、富山国際大学の白鳥先生と、日本の極東研究者の名が次々に出てくる。私は藤本和貴夫氏の名しか知らないので恐縮した。
「北洋漁業は面白いです。堤清六(注、日魯漁業創始者)とデンピー(注、漁業資本家)との提携は日ロ合弁企業の最初です。それからニコラエフスク・ナ・アムーレの島田商会の島田(元太郎)さんという人を知っていますか?島田さんはそこでロシア人とアイヌ人から、お金で魚を買って日本に送って大金持ちになりました。島田さんはニコラエフスクで”お金(金券か)”を自分で作っていました。一九一八年です。私も一枚持っています。とってもおもしろい」。
帰国後、読んだ原暉之氏の『シベリア出兵』(筑摩書房)に島田商会の島田元太郎のことは詳しく記されていた。アムール一帯の日本人移民の草分けで”在留邦人のキング”とか”ニコラエフスクの総督”とかいわれた買魚全盛時代の雄だった。たまたま女史はその島田なる人物についての論文を書き上げたばかりだった。
「ウラジオストクには西本願寺がありました。日本の小学校、商店、料理屋さん、港近く日本街の森旅館、・・・当時の朝鮮銀行はちょっと変わったけどそのままあります」。
ロシア革命直前がウラジオストクの日本人街のピーク、その数五千人にたつした。その後シベリアからの撤兵を境に、日本人移民も引揚げたらしい。
「一九三〇年代に十一家族が残りました。最後の日本人がウラジオストクをでたのは三七、八年です。けれども日本の領事館は一九四六年の五月までありました」。
金さんにも質問があった。
ーその時にここらにいっぱい住んでいた朝鮮族の方々も中央アジアに出されたんです、ご存じで?
「そうでしたね。でも、研究はこれからです」。
ー私はサハリンにある莫大な日本当時の資料を、私の手でウラジオストクに運ばされましたが、あれはどこにいったんですか?
「スターリン時代の日本と朝鮮人・中国人についてのロシア語文献や、むかしのKGBの新しい極東関係の資料が最近、トムスク市で沢山発見されました。戦争前に沿海州だけでなく、ロシア極東の資料はウラジオストクからトムスク市へもって行かれました。今年の末ごろ、こちらに戻ります。面白いこともたくさん出てくるでしょう」。
歴史学者、ゾヤさんは期待に顔をほころばせていた。彼女は私たちに見せたい資料や写真は今は全部自宅にあると言って残念がった。そう言われれば、ここがロシア科学アカデミーの極東支部とは思えないほど建物は老朽化し、不用心な研究環境に思われた。
ウラジオストクのなかのアジア
『ウラジオストク』刊行委員会(代表・岡田利春、監修・藤本和貴夫)の出版したウラジオストクについての大冊がある。その巻頭に知事ウラジミール・クズネツオフのメッセージが書かれているが、それにはドキッとする文言がある。
「ソビエト帝国の武装された拳骨として七十年間奉仕したウラジオストクは、いま世界に開かれています」。
太平洋艦隊四、五万将兵のいまも鎮座する市の長の文言としては、被害者意識が出過ぎている感じがする。反面、イゴーリ君は「極東で最優遇されてこられたのも要塞都市だったお陰だ」、また、「かつての別天地に金儲けの匂いを嗅ぎ付けて、ヨソモノが入ってきてから物騒になった」という。
ところで、かれは私が置き忘れたナップザックを探すのに苦労していた。空港への電話はモスクワにするよりむつかしい。ウラジオストク空港は市街から、はるか離れた地区にあるので、市内電話のエリア外である。かつてはその通話にも手続きが要った。
イゴーリ君は「ウラジオストクは人の出入りがやかましく、市に入るのに、ソ連人ですら特別入域許可証が要った。それだけに、生活物資や資材はよそより潤沢に供給されていたと思うが、いまは中国吉林省の延吉からの担ぎ屋に頼っている」という。
一八八〇年代、人口(定住、非定住をふくめ)一万三千人のうち中国、朝鮮、日本など黄色人種は五千四百人であった。帝政ロシアの頃、「東方の門」ウラジオストクは国際都市であり、ヨーロッパ人とアジア人とのカオスの街だった(前掲書)。それがスターリン時代に、韓国・朝鮮人は沿海地方からウズベクへ追いやられた。この極東からの強制的民族移動は金さんのいう”歴史を無視してますよ”の通りだ。商品や食料品のながれは、その昔に戻りつつあるかに見える。
自由市場には、中級電化製品は韓国製、衣類雑貨、玩具は中国製、ときに最上段にソニー、ナショナルなどのテレビ、オーディオ製品があるが、日本製の電化製品は、日本の国内では十年以上前に消えた旧式のもの、在庫一掃の新中古ばかりである。
この市場はロシア人たちが仕切っている。ポルノでほぼ占められた書籍市、米国のヌード雑誌がいたる所で売られていた。戦後の日本のヤミ市との違いは、食べ物の青空屋台、がないことだ。
パンは四年前の一塊十六カペイカが、今は百ルーブル。肉類は一キロ二、三千ルーブル、トマトもキロ二千ルーブルである。廉価で知られた新聞が一部四十ルーブルだった。
「家賃は二百ルーブルです。これが上がったら事でしょう」(佐藤宏氏)。日本円換算十四円の家賃にソ連時代の残り火がまだあるものの、「物価千倍、給料百倍」というインフレに追われる生活である。町なかにだぶついている商品の山を前景にすると、市民の所帯の実情はうしろに隠れて見えにくい。それが都市の顔であろう。オホーツクをめぐって深くはいりこむにつれ、最低の食事しか摂っていないひとびとの生活に触れることになる。
ウラジオストクの最後に私を明るくさせたのは、黒のナップザックがハバロフスク経由でこの地に届いたことだ。奔走してくれたイゴーリ君にお礼をして別れた。
ウラジオストク空港の鍵のある倉庫の棚に、それは一点ポツンとあった。
アムール川河口へ
ニコラエフスク・ナ・アムーレへ双発のジェット機でゆく。ロシアのローカル航空は大柄なロシア人にはやっとの幅の座席しかなく、初夏の陽気に真っ裸になって二人分のシートにふんぞりかえって、ウオトカをラッパのみする無頼の男もいる。飲み物は水しかなく、スチュワーデスは機内の隅に縮こまっていた。
直行すれば三時間の距離だが、コムソモルスカヤ・ナ・アムーレに寄るので計五時間余かかる。一時寄港した街、コムソモルスカヤは極東最大の軍需産業、とくに航空工業があると聞いた。また、石油精製の基地という。興味はあったが、空港玄関から眺めるかぎり、平たいタイガしか見えない。空港から街へいく大通りはすばらしい並木道、名の通り、ソ連青年共産同盟の名をとった、戦後、拠点開発された都市らしい。
アムール川伝いに飛んだエア便は、街にごく近い、川沿いのニコラエフスク空港におりた。
ニコラエフスク・ナ・アムーレでは強度の近眼のメガネをかけたボロディン氏がジープで迎えてくれた。自己紹介によれば、観光会社の社長が来られないので代わりにきた、何でも聞いてくれとフランクだ。「外国人はめったに来ない。この街の観光ビジネスはまだ駄目です」と笑いながら断った。
私が尼港事件のあった町としてその関係に興味はあるが、今回はアムール川河口と漁業コルホーズを優先的に見学させてもらいたいというと、氏は喋りっぱなしになる。「この町の百科全書」とあだ名を進呈したくなるほどだ。元漁業企業の副社長で、その前は林業コンビナートにいたという。
以下氏の話を要約しよう。
ニコラエフスク・ナ・アムーレ(以下、ニコラエフスク)は人口五万人、主要産業は船舶修理、林業、漁業のほか小規模の砂金精錬企業もある。ここの鉱石博物館は全ソに知られた規模である。
町の港はアムール川の河口から数十キロ奥まっている。一九世紀末頃、ニコラエフスクは国際的な港町であった。中国人地区のほか、日本人、オランダ人、アメリカ人、フランス人がそれぞれ街に地区割りをして住んでいた。その頃が最盛期だった。ニコラエフスク港を通じてロシア極東とイギリス・フランス・アメリカとの貿易が行われ、各国の船が寄港した。
二百五十年ほど前、探検家ネベリスクによるタタール海峡(間宮海峡)発見まではアムール川河口は閉じていると考えられ、サハリンと大陸とはつながっていると思われていた。サハリンの先住民が凍った海の上をソリで行き来して交易していたからだ。ネベリスクはここに哨所を建設し、その後ツアーの命令により要塞が作られ、それは一九一八年から二ニ年の内戦期にも補強して使われたという。
「この町が寂れたのは、帝政末期、海軍関係がウラジオストクに移されたからです」。
案内されたホテル・セーベルは広場にむかつてある。清潔だが素泊まり一泊一万二千円は高い。ここでは日本車はごく少ない。日本の社名の書かれたワゴン車をみた程度だ。
川の港町ニコラエフスク
スキーのゲレンデ頂上は眺めの良い場所だった。ここに立つとある感慨がわく。『ソ連極東総覧』にはアムール川河口の川幅約四十キロとあった。それでは大きな湾であって、とても流氷の誕生する大河の出口とは考えられないと思っていた。やはり来てみた甲斐があった。川の対岸はくっきり見える。河口の川幅は四キロしかない。
「川はある時一斉に凍りますよ。最初はバラバラですが(ハス葉氷)、十月の二十日ころ完全に凍ります。そのころ魚が集まってきて、よく獲れるんです」。
いま五月十九日が海明けの日なのだ。まだ岸には流氷がのこっているが、川の氷は昨日溶け、航路は通じたばかりだという。氷塊は褐色によごれて見える。これがアイスアルジーなのか、土挨なのかはわからない。あとしばらくして、六月十日ころからマリマ(ニジマス種)やカラフトマスが湖上してくる。ボロディン氏は春の空気を満喫しているようだ。
ここの名物はチョウザメで、卵のキャビアが絶品。最大一トンの大物がいる。その重さでは冬、氷に穴を明けてチェーンで引っぱらなきゃ獲れない。「内緒だがクォーターが少ないので密漁になりますが・・・フフフ」。
出発前に荒井信雄氏から、先住民のコルホーズがあるとしたら、アムール川のニコラエフスク市の対岸あたりだろうと聞いていた。
「ニブヒ、オロチョン、ナナイの人たちがいるが、コルホーズへの組織化は困難なんです。かれらの伝統的な漁法は崩れてもうないでしょう。若い人も受け継いでいない。漁はやっていないが集落はあります」。その指差す方向は川向こうの彼方だ。
「そこにいくにはヘリコプターでなければ無理でしょう」とスゲない返事だ。
海洋船はニコラエフスクには係留の設備がない。海の船はさらに川上のマーゴ港にしか着けない。そこから日本に木材を積み出しているという。川の深みをさらに浚渫して二千トン級の船がマーゴ港にはいくが、ここは素通りだ。なるほど川には木造の桟橋しかなく、ハバロフスク通いの河船しか繋いでいない。かつての国際港の栄光はまったくない。
「あそこに見える横長の建物が船舶修理工場です」とクレーンを指す。ぜひ見学させてほしというと、ボロディン氏は首をブルブルと振って「ここはペレストロイカはまだまだです。絶対駄目です」。工場の労働者は二千五百人。かれらの団地が工場を取り巻いてたっている。空き地のブランコや滑り台で子供たちが飽きずに遊んでいる。静かな町で大人の話し声は聞かない。
内戦記念の女性像
のちに訪ねたオホーツク、カムチャツカはもちろん北方四島にいたるまで、どの町にも博物館があった。ここにも郷土史博物館がある。すでに閉館時聞は過ぎていたが、遠来の、しかも戦後始めての日本人の訪問者とあって、館長オルゴフ氏は尼港事件(一九二〇年)について解説する準備をして待っていた。
短い時間での要約した説明には頭が下がった。それにはもっと強い理由があった。オルゴフ館長は私たちをこの史実の研究者と思ったらしいのだ。
日本に帰ってから知ったのだが、私たちのニコラエフスク滞在の数日後に、天草から十一人の尼港事件の遺族が「日ロ双方の犠牲者の冥福を祈る慰霊の旅」を組んで、尼港事件後七十三年ぶりにニコラエフスクを訪問した(寺崎幸男氏、あまくさ地方自治研究センター所長。九三・六・六、朝日新聞地方版)。
それにしてもなぜ天草か。
「移住していた民間日本人三百八十人の大半が亡くなった。そのうち百十人が天草出身者。漁業、木材業、洋服屋などのほか、現地でウェートレスをしていた独身の女性も多く、悲劇の犠牲者として語り継がれている」(九三・五・一九、熊本日日新聞)。軍人は祀られても、一般人、まして、誤解をおそれずにいえば、”シベリアのからゆきさん”たちの霊はさまよっている。昭和十二年、その遺族たちは地元五和町に「尼港事変殉難者碑」を建立し、パルチザンから攻撃された日を命日として毎年、献花を続けて来た。その遺族たちと地方史家がここを訪ねたのだ。遺族といっても存命の人は九歳で両親を亡くしたという八十一歳の人、事件のさなかに家族とともに自決した副総領事の長女は八十三歳である。
「これはロシア人にとっても、日本人にとっても悲しい出来事でした」。オルゴフ館長は展示の品、ふたつに割れた教会の鐘を前にして尼港事件を解説してくれた。
「ロシアの内戦期に起きた尼港事件はふたつに割られたロシア社会の象徴でした。日本の軍・民もこの悲しい出来事の登場者だった。ニコラエフスクには日本人の居留区があり、商業・貿易や漁労に従事していました。しかし一九一八年九月(注、シベリア出兵により)ニコラエフスクは日本軍の駐屯地となりました。それからパルチザン軍がハバロフスクからこの近辺に接近、これが尼港事件の原因となりました。
パルチザン軍は日本軍に、市を解放してパルチザンを市内に入れ、市内の自衛軍(注、反ソビエト軍)を武装解除するよう要求したのです。パルチザンの首領はヤコヴ・トリャピーツインという若者でした。彼はボルシェビキではなく、アナーキストでした」。
オルゴフ館長は基本的に「これは内戦であり、階級闘争であった」との立場で語る。
「日本軍は市を明け渡すことと自衛軍の武装解除に同意したので、一九二〇年二月末、パルチザン部隊はニコラエフスク市に入りました。その後に最も悲惨な出来事が起きたのです。トリャピーツインの命令により、自衛軍の地元ブルジョワジーの代表が極刑に処されました。日本軍は中立を守り、パルチザン軍と友好関係を保っていましたが、日本軍の指揮官石川少佐という隊長は、パルチザンの申し出に同意しつつも、トリャピーツインを恐れていました。
日本軍将校のあるものは赤軍の印を胸につけ、”ボルシェビキ”を自称していました。これは冗談だったと思いますが。三月十一日夜、日本軍将校はパルチザン軍本営に招かれ、ウオトカをしたたかに飲んで夜更けに帰宅したものもいました。だが、日本軍は翌十二日の明け方三時にパルチザン軍本営を取り囲み、火を放った。この攻撃でパルチザンの本部指揮官ナウーモフは戦死し、トリャピーツインは足を負傷しました」。
こうして戦闘は全市に広がり、日本軍とパルチザン軍の死闘がはじまった。日本人居留民も日本軍を支持して戦った。戦闘は三日間続いた。以後もパルチザンによる多くの日本人住民の殺傷がおこなわれたという。
五月末、日本の戦艦三笠がハバロフスクからニコラエフスクにやってきた時、トリャピーツインはついに全市を焼き払った。
アナーキストの首領であり司令官だったトリャピーツインとその同伴者の女性闘士レベジェヴァは間もなく地方ソビエト政権の手で銃殺された。
たぶん、オルゴフ館長は天草の遺族団訪問のために調べられたのであろう、最後をこう結んだ。「日本人の遺体は流氷に乗せてアムール川に流されたといいます」。
博物館のもっとも目にとまる壁に若い男女、処刑されたふたりの写真がある。ふたりを三千人のロシア人を殺し、全市に火を放って焼きつくしたテロリストとしながら、その肖像を掲げていた。ロシア語の説明文を読まなければ伝説的英雄たちと思うだろう。
ここに残る日本人の痕跡の展示は、当時の領事館の標識プレートと刀の鍔とマッチ、それに事件当時、尼港沖に姿を見せた戦艦三笠の写真のみだ。
”アムール川の流血や・・・”と戦時中、中学生の私も意味も分からず歌ったものだ。まがまがしい、日本人にとっては”国民的記憶”、”反ボルシェビキ感情の源流”となった尼港事件の現場、ニコラエフスク市の川ふちの丘に、ひときわ高い女性像がある。内戦期の戦死・犠牲者の名が、磨かれた石碑にびっしりと刻まれている。
その後各地を回り、第二次世界大戦の戦没者のモニュメントに花が絶えないのを見るにつけ、レーニン像とは異なる聖壇に戦没者が置かれていることを感じたが、ここの女人像は内戦記念であり、戦没者のそれとは違っていた。俯いて悲しみに堪える妻か恋人の像であり、聖母像ではない。それは若くしてテロリストとして散ったレベジェヴァと重なるようにも思えた。
日本をはるかに遠く
翌日、案内人のセットしたスケジュールに従い、行政府の長を表敬訪問した。
ニコラエフスク・ナ・アムーレ地区行政府長リャシェアスキー氏の執務室に、流暢な日本語を話す若い対外経済補佐官のブリーフ氏がいた。ふたりとも日本語の名刺をだす。ここで日本語の名刺を出されるとはと、虚を突かれた感じだった。
ブリーフ氏はモスクワ総合大学・日本語科卒、貿易関係で最近ここに赴任したばかりだ。対日経済交流のためにスカウ卜されたらしい。
漁業について調査、見学にきたというと、ここ特有の”ザイェズドク”漁法の説明をしてくれるのだが、よく分からない。
「アムール川のシロザケ、とくに河口北岸”幸福湾”のサケはロシアでも上物の上だ」と自慢する。「コルホーズ見学には時期尚早だが、”ザイェズドク”漁法は準備しているから見なさい」と親切だった。
船舶修理工場のガードは堅かった。
「準軍事施設のため、カメラ撮影は一切禁止されている。いまベトナム沖の海底油田用の洋上基地の鋼材櫓を作っている。ここからハシケにのせてベトナムまで引っ張って運んでいくのです」。
漁船修理の仕事は最近は少ないという。どうも国内相手の仕事では、外貨は稼げないからということらしい(案内人・ボロディン氏)。
オゼルパック・コルホーズ
沿岸コルホーズへ行く。アムール川に沿ったジャリ道を一時間余、ようやく河口、対岸にブロンゲ岬の見える漁村チイネレフについた。前述したように、ブロンゲ岬は日露戦争講和の翌年、日魯漁業の創始者堤清六と平塚常次郎が出会い、「男子一生の仕事」と事業の盟友の誓いをした、いわば伝説的な地である。だが、ここで漁場を拓いたのではない。新天地カムチャツカに飛んでいる。すでにニコラエフスク買魚時代は日本人に食い荒らされ、先が見えていたのだろうか。岬には集落の人家もない。その奥にニブヒの居住地があるという。
タタール海峡は波浪が打ち寄せている。晴れた日はサハリンの見える時もあるという。海峡の幅はここからなら、津軽海峡の最狭部ほどであろうか。南にはもっと狭い瀬戸もある。
村にも船着き場にも人影はすくない。幸運にもここの監督担当アレキサンドル氏が在宅、案内役を買って出てくれた。
このコルホーズ自体の説明が難解だ。姿はコルホーズのままだが、国営ではなく、組合員出資による合資会社に書き換えた。「小規模漁業会社とでもいうのか」、通訳の村山敦子さんも金氏も、しかるべき訳語が見当たらない。”タヴァーリシェストヴォ”が原語である。同志の共同出資による合資会社とでもいうべきか。のちに北方四島にもあった。略して「友人会」とよんだが。
アレキサンドル氏はみるからに叩き上げの漁師タイプ、去年、気の利いた管理職は辞めてしまったらしい。かれは冬場は林業の仕事をしている。八十人の旧コルホーズ員も冬場は出稼ぎらしい。
案内者のボロディン氏によれば、ここは地の利のいい河口でありながら、国営から民営化の過程で、それまでの漁業組織の主流から切り離され、独立採算制でどうやっていくか困っているという。良い加工場を持つコルホーズは独立し、より有利なクォーターを得られる。かつては大きい国営コルホーズ傘下にあり、同じランクだった五つの作業場がそれぞれ分離独立した。そのうちで最も貧乏クジを引いたのがこの「オゼルパック・コルホーズ」だったようだ。アレキサンドル氏はとつとつと質問に答える。
「以前はこのオゼルパックはアムール川下流の大きな漁業コルホーズの一つだったが、漁業主力基地が遠い川上のチヌィラフ村に移ってしまい、サケのクォーターの割当が百トンに減った。この加工場は自分たちのものになったが・・・」。
ーここの地元の方々は移住ですか?
「ここに元から住んでいた人達です。漁獲規制が厳しくて、うまく行かなくなったんです。・・・初めはチョウザメの漁獲が禁止され、それから十年にわたってサケ・マスが禁漁になり、それで当地の漁業はメチャクチャになってしまった」。
ーどういう理由で?
「魚が少なくなったからです。カラフトマスのクォーターも河口の五つのコルホーズ(旧支部作業場)全部でたった百トンです。私達は一千トン容量の冷蔵庫を持っているが、現在はクォーター一杯とってもその五分の一くらいしかならない。
加工場もあります。イクラ、白子、肝臓をとり、身を塩蔵にして冷凍船にきてもらって送り出します。漁期がきたら少し塩をした白サケを燻製にします。これはいい値です」。
人口五百人の村だ。それを支えるのにサケ・マスが百から二百トンとは。たとえば道東の別海町(水産業六百七十人)だけでもサケ・マス一万三千五百トンを上げている。漁業として成り立つわけがない。
高級魚のチョウザメのクォーターも非常に厳しくて十トン前後のサメに限られている。それ以上のものは駄目、四十から六十センチのものしか採れないような網しか使用を許されていない。
「大きいのは十八年魚というのもいます。キャビアを持った大きさのチョウザメは禁漁です。漁業監督官が厳しく見張っていて、小さいものも獲らせない」。
日本買魚時代、そしていま
ここでの主な漁法を聞くとザイェズドクだという。行政長にきいてもさっぱり分からなかった漁法だ。説明を聞いた。浜には、細い枝で編んだ畳大の木柵や、電柱の端を尖らせた数百もの材木が積んである。木柵をつんだはしけ船もある。これがザイェズドク漁法の道具だった。
アムール川を産卵しに遡上する”サケ・マスの道”ぞいに、二メートル間隔でその柱を打ち込み、全長二、三キロに及ぶ長い柵を仕掛ける。その端に建て網を張る。その網場の上に屋根つきの小屋を作り、発電機を据え付ける。サケ・マスが建て網一杯になると、動力で魚を混む(あげる)と図解してくれた。
規模は別としても原理は定置網漁法である。それにしてもナイロン網のサケ定置網を見慣れてきた目には、原始的で労力と手間のかかる仕事に思える。
帰国後、原暉之氏の本からそのザイェズドク漁法による日本人漁業の猛威を知った。
「”ギリヤーク式ザイェズドク法”に根本的な改良を加え、魚群を河口近くでそれこそ一網打尽に捕獲する”日本式”の漁法は威力を発揮した」と原氏は記し、「アムール河口から日本に年間千五百万尾もの魚が運びだされたとき、上流の各村落では二千尾から八千尾程度しか獲れなかった」(原暉之『シベリア出兵』筑摩書房)。いまから九十年前の話である。
この乱獲がシベリアのパルチザンの反感を醸成していたようだ。
日魯の社史によれば「日本の露領漁業の基地はシベリア出兵時に、アムール川からオコック(オホーツク)地方の漁場二十六、罐詰工場五の建物全部がやきはらわれた」とある。
誰もがここに立てば、怪しむだろう。ここは河口部にただ一つの漁業コルホーズである。対岸ブロンゲ岬は日魯の”聖地”である。ソ連邦になって、日本の露領漁場から返還された第一号、第一級の固有コルホーズの場所と見て不思議はない。それがこのように寂れ、進歩から取り残された理由は何か。
ザイェズドク漁法に無知だった私はアレキサンドル氏に、この漁法がいつからだったか聞いたが、「帝政時代からだろう。たしかユーリという人がここでやってた」というだけでよく分からない。
昼食は焼きたてのパンとバターだけだった。魚っ気はない。ドラム罐をテーブルにして食べた。
食後すぐ加工場に案内された。漁期を前に、作業台は挨ひとつないように洗浄されていた。しかし一匹の魚もない。アレキサンドル氏が指差すのでみると、加工場の一隅に、日本水産の組み立て前のダンボールの山がある。「シロザケ」と日本語しか印刷されてない。氏は、「ニッスイは四百トンの漁獲割当量がなければビジネスにならないといってやめた」という。百トンでは無理もない。あいだに合弁会社オホーツク水産が入っている。この会社についてはオホーツク村でまた出会うことになる。加工場の側、海風の吹き曝しにポツンと便所がある。寒風のなかでの用は思いやられる。
組合事務所兼休憩所には中年の従業員がたむろしていた。老朽化して破れた窓にベニヤを打付けてある。その壁に、赤ペンキで描かれたレーニンと槌と鎌の絵があった。ふてくされたように中年の女性が「ここはまだペレストロイカがないからね」と横を向いた。
オホーツクの海明けで、人手を揃え、顔合せをしているらしい。ザイェズドクの漁期は六月二十日から九月二十日頃までの三か月である。
金氏は「季節労働ですね。この人たちは」といい、労働者にあれこれ尋ねていた。始めてみるアムール河口の沿岸漁業には予想を裏切られた。もし冷蔵庫でなく、冷凍設備があり、一年を通じて加工できれば助かるだろう。しかし、その段階以前である。冷凍船の着ける埠頭がないのだ。
女性のコルホーズ責任者
帰路、案内人のいう”よりましな”コルホーズにいった。アムール川とニコラエフスク市の中間にある漁家集落「ブリュヘラ」である。村の人口五百人、漁業従業員百二十名というからひとつの漁村といえる。ロシア農家風の家々の脇には、立ち割られた薪が山のように積まれている。団地も集中暖房もここにはない。
この旧コルホーズの事務所は加工場も川船の埠頭もある中規模の典型的漁業コルホーズらしかった。出迎えたのは、アジア系の中年の美人である。コルホーズ長ゾヤ・ドミトリエヴナさん、カザフ・アルマータ出身の人だ。モスクワから派遣されてここの管理者となったという。ゾヤさんの事務所には四、五人の女性事務員がいるが、みんなゾヤさんのつてでモスクワから来ているという、妙に女気のある事務所だ。だが荒くれ男や漁民を働かせる貫禄はゾヤさんに備わっている。
いま独立採算制の会社「ブリュヘラ」に衣がえして、イクラ加工部門を作り、生き残ろうとしていた。そのため日本との取引き関係をつくり、イクラ加工施設の新設を援助してくれないかと打診をしているという。
「この四月ハバロフスクで日本のK交易(株)と協議しました。Wさんという責任者です。K交易はサハリン・カムチャツカ・マガダンでも手広く合弁をやっている会社です。K交易は若干の資材と四十フード(六百五十五キロ)の冷蔵庫を投資したいというのですが、こちらは合弁企業で共同で生産し、その利益を配分することを提案しました。回答はまだ得られていません。この三年間クォーター割当量が少ないためか、それともロシア政局の不安定さのためかわからないが、ロシア政府の税が高くなりましたから難しいと判断したのではないかと思ってます」。
”ここは木器時代!”
この一帯の漁業コルホーズの育成と整備はフルシチョフ時代の末期からブレジネフ時代にかけてだった。六九年、散在していたむかしからの漁業集団は整理統合され、二つのコルホーズになった。そこでは国の計画、ノルマを果たせば、国から生産資材と生活費を補償されていた(さきのオゼルパックも同じだった)。この独立採算制の新会社は三年前からだ。
「もうこの加工基地(工場)はご覧の通り古くなってしまった。村の学校や幼稚園も建てかえなければならないが資金が足りない。地方政府に資金援助を要請しました。しかし今のところ全ては机上の計画のままです。ここは政府の援助なしではやれない極地です。というのは季節生産で六月から九月までサケ・マスを獲り、加工すれば、それで終わってしまう。
冬場は樽つくりや修理しか仕事はありません。ニコラエフスクの地では極東の他の地域とは夏しか連絡できません。鉄道がないので、アムール川の船、しかも夏の航行可能な時期にしか資材も食糧も運べません。お分かりですか。夏というのは五月から九月二十日までです。
三年前までは、私達の製品、イクラや魚は第一級品で、全てモスクワに納めていましたが、この二年間でそのルートがなくなってしまいました。・・・この二年間に、政府の政策が目茶苦茶になって、私たちもすっかり”アナーキー“になってしまいました。
いまはロシアの塩蔵品はロシア国内でしか売れません。日本やチェコ、フィンランドから商談があっても、みな冷凍ものやイクラの引き合いばかり。樽詰めのサケなどはロシア国内だけです。外貨を稼いで設備に投資する方途がない。見てください、私達の設備は全て手製の、しかもどれも木で出来たものです。ベルトコンベアーもガタガタです。ここは鉄器時代以前、いまだに木器時代よ」。
彼女は自分のいった言葉に吹き出していた。工場はゾヤさんのいう通りだった。
暗い塩漬け加工場の建物に古びた横断幕がある。
「一番立派な商品管理は労働者の正直さだ!」。ゾヤさんは意味を知った私に肩を窄めて見せた。
ここも漁期前、その準備作業やペンキ塗りにニブヒの人が数人働いていた。ロシア人たちはサボッている。ボーチカ(木樽)工場では男たちは大津氏のカメラをみて慌てて働く。修理工場は木工用の道具に金床程度しかない。もしゾヤさんが風蓮湖の開拓漁民、奥家義勝氏の鉄工場並みの仕事場を見たらどう思うだろう。奥家さん独力で作ったものなのだ。これが百二十名のコルホーズの現場とはと、目で周囲を見回して確かめ直したほどだ。
主力のイクラ加工場にある一台の罐詰機械(ウクライナ・セントポリスキー製)は一九七七年製であった。
ゾヤさん日く、「ウクライナ(注、製造元の)との仲がマズイので部品交換が自由にできない」。
イクラの罐詰の売値希望価格は千五百ルーブルでないと採算が合わない。日本のK交易は一罐一ドルという。こちらはせめて三、四ドルでといったら、商談は成立しなかったという。金氏は訳しながら考え込んでいる。サハリンでは一罐、千二百ルーブルだそうだ。
夕食にモスクワ娘らと事務所で会食した。イクラの罐詰と塩づけの豚の脂身、トマトなど。私が「魚を扱う限り、いい日も来るでしょう」と慰めると、「私が年金を貰える頃までには良くなりますかねえ?」。五十五歳引退として、あと十五年後くらいだろうか。
帰路、家々の軒や空き地にキュウリウオのかげ干しが吊してあった。ホッとするような風景である。東北、北海道の漁村でかつて見かけたそれを思いだすのだ。