書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 オホーツク編 北の夜明けはいつか、オホーツク村
旧露領漁業地帯のいま
ウラジオストク三泊、ニコラエフスク・ナ・アムーレ二泊、次は二泊の予定でオホーツクに行く。オホーツク海にオホーツクという古い開拓の町があることを知らなかったことはすでに書いた。日魯漁業の前出『経営史』によれば”オコック”( オホーツクの旧称)一帯は有力なサケ・マスの露領漁場であった。
私たちがこの地を選んだのは「日ロ合弁『オホーツク水産』(本社、ハバロフスク)、業績不振で解散へ」と、続報「課税強化が響く」(九三・三・一四、北海道新聞)を読んだからだった。「沿岸漁業コルホーズの地域に、新たに六十五人の雇用を作り出し、”合弁による地域社会への貢献を期待されていた」ケースである。日本水産、三井物産という北洋漁業のベテラン企業が設立してから、わずか四年目の撤退である。
五月二十一日、ニコラエフスクからオホーツクにむかつた。海上低く飛ぶ機の窓から割れた氷塊の連なる流氷原が続く。やがて白い流氷がなくなる頃、大平原の陸地になる。大きな川がいく筋も流れている。ニコラエフスクから三時間でオホーツク空港についた。
空港には二階だての事務所が見えるだけだ。滑走路は俄かづくりの軍用の仮設滑走路だ。
同じ穴あきの矢板状の鉄板が巻いたすだれを延ばしたように敷かれている。何十年使用している空港か知らないが、とても定期便の発着の設備とは思えない。臨時・野戦用飛行場の趣だ。そこにむかしシベリアでよく見たプロペラの複葉機が数台あった。平たい原っばなら三百メートルの平坦部分があれば飛び立てる万能用飛行機である。
空港事務所には、漁業関係のオルグというピョートル・カリタ氏がソ連製ジープで出迎えてくれた。私たちの段取りのため前日、先乗りしていたサハリンの旅行社「ドゥルーク」のイリーナさんが、「ここにはいいホテルがありません」とショボクレていた。
空港事務所前の林の中に一軒屋がある。そこがカリタ氏の予約したレストランだった。客は私たち一行だけだった。薄塩の生ニシンの料理をとる。これは美味しかった。
カリタ氏は壁に貼つってある告示文を指し、「このレストランは大祖国戦争(第二次世界大戦)の参加者は無料です」と書かれているという。祖国のために戦った老兵に敬意を表しているのだ。ソ連邦の愛国主義がここにその温もりを残していた。
海の果て・オホーツク村
オホーツク空港から街へは四十キロ。一時間半、ジャリ道を走る。この新道路は、昨年、六年がかりの工事の末、完成したというが、基礎地盤がツンドラのため、夏は溶けてぬかるみになる。道は陥没が多く、上下動の連続だった。沼のような地に立っている電話線用電柱の脚部にはコンクリートの土台が巻かれ、氷が凍けだしても風で倒れないように補強してある。
「町の近くはもっと沼地だから、空港はあの丘陵部にしか出来なかった」とのこと。この道路が開通するまでは、客は空港から町近くまで、複葉機に乗り継いでいたという。このツンドラ地帯に湾岸道路などはあるはずはなかった。
戦後、この地の情報は少ないので、カリタ氏のレクチャーをここに紹介しておこう。
オホーツクに町が出来て三百五十年になる。極東沿岸では最古の町だ。最盛期はカムチャツカのペテロパブロフスクが出来るまでで、あとはじよじよに寂れた。あちらは不凍港だし、こちらは冬は海が使えないから交通は空路が唯一の頼りだ。
オホーツク通いの定期船路は無い。貨物船に頼んで便乗するほかないという。「しかしヤクーチャ(サハ共和国)方面へは、冬なら川が分厚く凍っていい道路になるから、トラックで楽に走れる」とカリタ氏。
オホーツク地区全体の人口は二万人だが、オホーツク村内には一万人しかいない。一九六八年までは町だったが、「人口が減ってとうとう村の規模になってしまった」。カリタ氏は”漁業だけがここのいのちです“という。
全地区には四つの漁業コルホーズと、四か所に魚の塩蔵加工場がある。うち一つは先住民エベン族のものだ。エベン人やヤクーチャ人は村内にはほとんど住まないで、ほぼむかし通りの伝統的な暮らし方をしているらしい。
村で一番いいコルホーズ「北の夜明け」は「独自の漁船団を持っていて、ハバロフスク州に二十二あるコルホーズのなかでもトップの実績をあげている」という。
ここの主要魚種はニシン。沖では建て網、遠浅の浜では刺し網で獲る。今、五月から六月中旬までがニシンの漁期だ。ついでサケ・マスが来る。秋には再びニシン(油ニシン)が回遊してくる。イワシもサンマも秋まで獲れる。
冬、流氷期には船団は遠くスケトウを獲りに行く。スケトウはトロール船で獲り、外国漁船(主に日ロ合弁の「ソニコ」、本社モスクワ)に沖で渡す。”沖取り”といわれる魚買い付けの方法であろう。
サケ・マスはもっぱら川口で獲る。以前は沖に定置網を張ったが、シケが多くよく壊れるし、そのクォーター自体が減ったし、経費節約の意味からも、今はもっぱら川口で採っている。その方が安上がりだ。「昨今、サケ・マスのクォーターの枠は大変にきつい」という。
ニシンの場合、割当て枠は四つのコルホーズで総計一万トンしかない。全魚類をとって見てもその枠は半分にカットされた。三年前までは、各コルホーズに四万トンずつ、計十六万トンだったが、今年は平均二万トンずつの計八万トンになった。
「違反の監視には、チンロは飛行機を飛ばして見張っている」。アノ複葉機だ。
道中、「レーニン名称コルホーズ」の集落に寄った。ここで新築の学校とキュウリの温室栽培を見せてくれる。「この学校では授業にコンピューターが使われている」。「ここの温室は温熱源には発電所の蒸気を利用している」。それらを紹介したかったらしい。
ガラス張りの大温室である。ここのコルホーズの作った自慢の設備だ。このコルホーズも独立採算制への移行期だった。現在、諸施設はコルホーズ所有から個人農に譲渡された。”小金を持つ人”がこれを買い、”民問委託”として野菜を栽培していた。
ここに鍵を持って現れたのは、化粧の濃い、毛皮コートをまとった、いかにも貴婦人風の女性だ。彼女が人手を雇って温室を経営しているいわばオーナーの夫人だった。
温室内は眼鏡が曇るほどの暖かさだ。ここでキュウリが年産八トン、トマト二トンができるという。確かに太いキュウリが実っていた。真冬時に種を蒔く。乏しい陽光の代わりに、強いランプの光で野菜を育てる。三月に収穫して、また作る。この温室の畑で年二回作ができる。夏は白夜のため、すくすく育つ。北では野菜不足がなにより怖い。この新鮮な生野菜は育ち盛りの子供たちに優先的に配られているというが、価値の高い個人財産だ。
オホーツクの宿
オホーツクの町は木造の平屋ばかりで出来ている。やがて五階建てのホテルに着いた。
「いいホテルはない」と前もって断られたが、ホテル「オホーツク」の外観は悪くはない。白夜の暮れなずむ中、明りの暗いホテルに入った。
イリーナさんは「ここにはトイレがありません。裏の公衆便所を使うしか・・・」と謝る。そこは扉も壊れ、開きっぱなしだ。汚れと糞の堆積で足の踏み場もない。なにより糞の山がうず高く、とてもしゃがめない。
男の小用ならいいが、女性の村山さんらはどうするか。
ホテルの各階にある共用トイレは厚板を打ち付け封鎖してある。もう使用不能になって何か月、何か年か。
他の客は男性ひとりだけだ。女性の受付係は、外国客がまさか舞い込むとは予想外だったらしく、迷惑とも困惑ともつかない顔である。結局二百メートル離れた文化会館のトイレの鍵をひとつ渡された。真夜中に女性がひとりで行けるものか。こちらは一万二千円の宿代を前払いしているのだ。「ここがあの”オコック”か」。私は一瞬立ちすくんだ。
部屋のテレビをつけると、また、あのペットフードのコマーシャルだ。緑の芝生、優雅な愛玩犬、艶やかな罐詰の肉。この”情報”が、この窮迫した生活と何の関わりがあるか。
二階の窓から家々の明りを眺めながら思う、その家のトイレはきっとピカピカに違いない。個人の生活がこのように荒廃しているはずがない。社会の公共物を私有物のごとく大切に共有する、それが社会主義のモラルではないのか。
ホテルや公衆トイレから街の壊死が始まっているようだ。
オホーツク村役場
翌朝、ホテルに近い村役場に挨拶にいく。メーデー広場に面した堂々とした建物である。
日ロ合弁「オホーツク水産」撤退の事情を知りたい旨、イリーナさんに伝言を頼んでいたので、ソイ村長(正確には行政地区委員会議長だが)は私たちを待っていた。氏は朝鮮系ロシア人、いかにも謹厳そのものの風貌だ。まだ四十代であろうか。脇に漁業担当の執行委員クレイ氏を招んでいた。「オホーツク水産」問題について説明させるためだ。金さんが同胞の誼みをあらわし、挨拶するが、ソイ村長はニコリともしない。氏は短く自己紹介した。
「私は北朝鮮からの移民ではなく、ウズベキスタン生まれです。一九四七年に両親に連れられてここに来ました。北朝鮮からも労働移民がやって来たが、六〇年にはあらかた帰国しました。今、二百人残っています」。
どうやらスターリンによって極東、沿海地方から移住させられた朝鮮族の流れらしい。
ソイ村長はこちらの現場見学とインタビューの希望をかなえようと手配を進めた。
漁業担当のクレイ執行委員はつつかかるように語りはじめた。
「『オホーツク水産』の件では、私たちがまったくビジネス分野で何の経験もないことを、日本側は利用したんだと思います。日本側は経験を積んだビジネスマンだったが、ロシア側はまったくの素人だった。私たちにはそれが分かりました。契約を結んだ時、私たちは日本側にお願いしたんです。”合弁事業として、ロシア側も始めの生産の段階から終りまで、日本での販売の段階まで参加できるように”と条件をだしたんです。ところが日本側はこのことを契約に含めることはしませんでした。日本に原魚を持って行くだけで、あとどう加工され、どういう市場卸値段になっていくのか知らせてくれない。つまり、こっちから行った原魚が、どのような加工品になり、幾らで売られるのか、私たちにはまったく分からないんです。
ここでは魚の加工はしない。冷凍魚と半加工製品のイクラを出荷し、すべては日本で加工し、商品化するという。結局ロシア側は製造過程には全く参加しない形で進んでいきました。『オホーツク水産』は利潤をあげました。それを他の会社に注ぎ込んで、そっちで製品加工をやっていました。結果としては、非常に僅かだが、こちらも一定の利潤は得たんですが、その利潤の五十%は日本側、私たちロシア側は四十%でした。それでは企業として、ここはたち行かないと主張したんです」。
ソイ村長は「もともと日ロが五十%ずつの出資比率だったらこうはなりませんでした」と口を添える。私の知る所では、日本側の出資は四十九%、ロシア側は五十一%のはずである。合弁の場合、この一%の違いは大きいと思われるのだが、村長のいう出資比率ははじめて耳にする。クレイ氏はさらに続ける。
「第二に、約束不履行がありました。契約書には、『ロシア漁業面のテクノロジーを発展させる。日本の技術で、日本の施設で私たちロシア人労働者を養成する』という約束があったんです。私たちは日本の新しい技術を利用して、ここでの漁業改革をしようと思ったんです。しかし、この契約条項を具体的には実現しなかった。これには賛成できませんでした。
第三の理由だが、私達の村のコルホーズは『オホーツク水産』を通じて、日本にイクラを供給しました。イクラを塩づけし、樽に詰めて日本に発送したんです。その代金がまだ来ないのです。誰がこんなパートナーと働こうとしますか」。
私には信じられない。そんな初歩的なミスを日本側がしているとはおもえない。しかしとりつく島がない。
「あなたがたは自分の国のビジネスマンがこんな風に言われて、良い気持ちはしないと思う。しかし、今回は彼らは私達を編したのでなく、自分自身を騙したのです。この市における『オホーツク水産』は信用を失いました。もう、こことは仕事しないでしょう。しかし日本人は良い教訓を私たちに与えました」。
クレイ氏は皮肉をこめて、話を打ち切った。私たちには質問の余地も与えなかった。
気まずい雰囲気になった。ここには不信感しか残っていない。
ソイ村長は「私たちは日本そのものに文句はありません。水産に関してなんです」。
そして時計を見ながら「満潮時間になったから現場にいきなさい。オホーツク川河口の対岸へ行く船は満潮時しか渡れませんから」。ソイ氏は助け舟をだした格好だ。
対岸への橋がない。ランチは潮まかせ、その干満差は四メートル余だそうだ。
「オホーツク水産」の現場
ランチで川を行く。河口は六月からサケの漁場になる。極東ではサケ・マスの漁獲はこのような、河口の漁場だけで間に合っている。ニコラエフスクもそうだつた。
春ニシンの漁期の真っ盛り、運搬ハシケ船から町の塩漬け加工場にニシンを運ぶダンプが稼働していた。
岸辺にひときわ新しいフィンランド製の冷凍庫があった。今、沿岸漁業地帯では一斉に冷凍庫を備えはじめているようだ。原料魚の保存のためである。
ランチは私たちを岸辺に運んだ。真空パック工場は稼働停止している。三、四人の出迎えを受けた。現場の人の雰囲気は”良く来てくれた”に尽きる。主任技師のアレキサンドル・バトゥーラ氏と、作業班長のワレリィ・アルチェメンコ氏が工場の案内をしてくれた。
空き地に日本タバコ、ハイライトの空箱が捨ててある。昨日まで残務整理のW氏がいたという。一足違いだった。日本人はこの近くに家を借りて住んでいた。やはりホテル暮らしではなかったようだ。
バトゥーラ技師は沖の泊地を指して、日本の冷凍母船M丸はあそこにいたという。
広いコルホーズの敷地にはいくつかの加工場がある。そのひとつが真空パック工場だった。ふたりから現場の話を聞きながら、工場を見学させてもらった。
常雇いの従業員六十五人、繁忙期にはその倍の人が働いていたという工場に人影はない。真空パックのライン二列が広いスペースに設置されていた。ピカピカの新設備のままだ。
O機械製作所のプレートがある。三年余り使った機械への愛着がこの作業班長と技師ふたりにありありと窺えた。
真空パックを作るには、ポリの皿にニシンを入れ、ビニールのフィルムで蓋をし、真空処理する。そのフィルムが新聞の輪転印刷機の紙のロールに似た形でセットされている。フィルムのレッテルにはロシア語で「あぶらの乗った太平洋ニシン」とあり、二匹のニシンのカラー写真が印刷されている。スイッチをいれればいますぐにでも動きそうだ。「ハラショー、この機械は良い」と技師は親指を立てる。
運転の止まったラインには五百メートル分のフィルムが残っていた。だが、これを使いきったら後が補充できないという。
金さんは「ロシアで作らせればいいじゃないか?」という。
「ロシアでは出来ない、一生懸命探してみたがないんだ」。
「なら日本から買えば?」
「その資金が用意できれば問題はない。金がないんだ」。
「ではどうする?」とやりとりが続く。
「このラインの買い手を探してよそに売るしかないだろう」。
金さんはそこで絶句してしまう。
日本冷凍母船の存在
現在は、ニシンの最盛期である。ここに働いていた人はどこに行ったか尋ねると、解雇された六十五人はいまのところ、近隣の塩漬け加工場で働いているという。
相手は現場の技師と"ボス”である。ここでどう稼動し、どういう待遇だったのか。パトゥーラ技師とアルチェメンコ班長(ボス)からの話を要約しよう。
「最も成果があったのは稼働して間もない九一年です。春ニシンが千六百トン、カニが八百トン、秋のあぶらニシンが四百トン獲れた。二つのラインで国内向けのニシジの真空パックを六十五人、二交替で、朝の八時から夜の十二時まで十六時間やっていました。冷凍母船M丸で普段働いていたのは(ロシア人が)三十人、他に三人の専従がいました。それがニシンの漁期には三倍の百人、カニの時期はそれ以上働いていた。忙しい時はハバロフスク近辺からも臨時雇いがやってきていました」。
日本人も十数人来ていたようだ。
冷凍母船M丸は八九年からの四年間、春五月から十一月まで沖に停って船内加工をしていた。真冬は日本に帰った。冬場は二月まで陸での加工ができた。冷凍船同様の寒気のお陰だろう。
ここではニシンの漁期に合わせて稼働している。三月から五月まで機械は止まり、休暇や修理仕事をポツポツやる程度らしい。まだ周年稼働には至っていない。
では、なぜ冷凍母船を使うのか。その船内加工によってグンと効率を上げられたからだ。
五、六月のシシャモや秋のあぶらニシンの漁期は、陸だけの加工では間に合わないほど採れるので冷凍母船内で加工した。船内でニシンは数の子と魚身とに分けられ、数の子は日本向けに、そして魚身はパック用に陸のここに運ばれた。
「M丸はすばらしかった」とアルチェメンコ氏はその働きを褒めた。給与はどうか。アルチェメンコ班長の場合は、「八九年に私は作業班長として働いていたが、千から千二百ルーブルもらっていた。九二年には二万ルーブルです。一般労働者で一万七千ルーブル前後でした」。
これはロシアでも良い方とはいえない。しかし、インフレの襲い方には地域差があるから一概にはいえないと金さんは補足した。
-技術供与って何が希望でした?
「合弁の定款の中に”日本側が新しい技術供与をする”という条項がありました。私たちは、たとえばサケのフレークとかいろいろです。一言でいうと”世界市場で通用するような”製品技術・設備でした」。
ーそれが実現されなかったのは経済上の問題か、それとも故意と思いますか?
「それはどちらとも言えません。というのはロシア側出資者にも、日本側にも落ち度があった。両方の責任です。契約の仕組みが複雑過ぎた。一つの契約ではなく、”オホーツク水産と日本水産” ”オホーツク水産と三井物産“ ”三井物産と日本水産”という具合に三種の契約があった。私たちにはあるじが二人いたようなものでした。
だいたいこの工場が、直接に海外と輸出契約を結ぶ許可を得ていなかったがために、仕方なく『オホーツク水産』を通じて日本に輸出したのが失敗でした」。
イクラ代金のこと
ここのふたりの話からはクレイ執行委員のように、日本に対する一方的ともいえるなじり方は出てこない。
気になったイクラの売上代金の未払い事情を聞いたので、ふたりの話を纏めてみる。
ここのコルホーズは日本に直接輸出できないから、「オホーツク水産」にイクラを売った。合弁の「オホーツク水産」はそれを日本水産に引き渡し、その代金はすでに受け取ったという。「オホーツク水産」はその金をロシアの銀行に預けた。その金が、入れた銀行に差押えられて引き出せない。二人の意見ではこうなる。「『オホーツク水産』はウチ以外に幾つもの水産事業をしており、この銀行に十億円も借金が出来ていた。だからその代金がそっくり銀行に押さえられた」。だからイクラの代金はいまだに支払われない。コルホーズはその金の支払いをアテにして、方々から借金をしていた。「オホーツク水産」からは金は来ない。結局、その借金はコルホーズが被ることになった。以上がイクラ代金の不払いの経過であり、これが真空パック加工場の停止に追い込まれたきっかけとなった。
日本水産と三井物産は「オホーツク水産」の出資者であり、「オホーツク水産」の不始末は日本側の不始末と同じではないか。しかし、ロシア人役員にも大いに責任がある・・・。だからこの責任は「それはどちらとも言えません」というこ人のさきの述懐に繋がっている。あたかも日本によくみられた零細な下請け工場が親企業の不始末をモロに被っている図式だ。その元凶はやはり日本と目されている。
「オホーツク水産」の出資者は、ロシア側はハバロフスク漁業公団と全ソ漁業船舶公団(一九八九年二月設立当時)である。出資比五十一%を持つロシア側にも落度がないだろうか。「オホーツク水産」と「日本」とがどこかでゴチャゴチャになっているようだ。
”日本人は騙した”とクレイ氏はいうが、それには日本人に対するロシア人の”被害者の感情”が悪霊のように、ここ”オコック”にさ迷っているからだろう。
ロシアのインフレ下のルーブルと円
この真空パック自動ラインは一基八十万ドル。当初順調だったので支払いは済ませた。
ルーブルで算盤をはじく限り黒字だったが、ルーブルの価値がさがったので、外貨に換算すると赤字になる。その悪循環も崇ったようだ。
通貨は合弁契約時の八八年は、一ドル〇・六三ルーブルだったのが、八九年のルーブル”十分の一の切り下げ”で一ドル、六・三ルーブルに、九二年はじめには百十ルーブル、その年末には四百七十四ルーブル(公定値)にと、約八百分の一に暴落した。
ここはそれまでは外貨とは無縁、ルーブル経済しかなかった。「ルーブルでは黒字、外貨換算ではいつもマイナス(赤字)」。ルーブル価値総くずれ時期に見込み違いが続出した。ここへの支払いはルーブル、機械と資材購入は外貨の日本円ということであればそうなるだろう。
それに外貨収入の五十%の強制ルーブル交換制、さらに幾つもの新税ができた。
「極東の合弁企業が抱える主な税金は、利益税が三十二%、付加価値税が売上げの約二十%、六十人以上抱える『オホーツク水産』の場合、従業員給与の四十%が社会保障関係税、それに九一年末から輸出税(十五%~二十%)が導入された」(北海道新聞、九三・三・一四)。
アルチェメンコ班長は嘆く。
「輸出税は痛い。今日でも例えば三十トンのサケ・マスを輸出して、二十万ドルの売上げとしても、税金・その他で約七万ドルしか手許に残らない。いくら輸出しても儲からない」。
利益の七十七、八%を中央などに取られ、コルホーズには残りの二十%しか残らない計算だ。
現場休息所にロシア算盤、があった。この人たちなりにいろいろ計算してみたに違いない。パトゥーラ氏の昼食はパンとバターと紅茶だけだ。
氏はここはいい漁場だという。
「この川は一番豊かな河だが、今は一番貧乏人が暮らしている町になってしまった。この川には近辺のサケ・マスの七十五%が棲んでいる。残りの二十五%はこの一帯の小川に棲んでいる」。
アルチェメンコ氏も「もう少し正直にやってくれたら、非常に繁盛した合弁会社になっただろう」。出るのは溜息ばかりだ。金氏は同情しきりであった。
ニコラエフスクでも聞いたように、ロシア式の伝統的塩蔵法が飽きられ、ロシア人の噌好により質が求められてきた。このニシンの真空パックは、この僻地から魚を届ける試みとして、ロシアの市場のニーズに応えた新製品だったのだ。
日本水産の試みたニシンの真空パック加工設備は、冷凍庫不足のこの地の事情に適していた。自社の冷凍母船M丸を曳いてきて、陸の加工場とセットにした。船内加工のほか魚を冷凍保存し、加工場に送り、工場のより円滑な、より効率のいい稼働を保障した。
「社会基盤の整備」いまだしの僻地に光をもたらす画期的な方法と見られていた。それが挫折した。モスクワの漁業省じきじきのプランニングで発足しただけに極東の漁業に与えた衝撃は少なくない。さらに最近、重税化がオホーツク漁民を圧迫している。
大津氏はビデオカメラを回している。
「ともかく日本に映画で報告します」というのが精いっぱいだった。
ロシアのメディアもまだここに取材に来ていないという。
私たちは「ここまで協力してきて、なぜパック用のフィルムくらい補給できないのか」と思う。
工場が動かないこと自身、毎日、大きな損失を生んでいくだろうに。昨日までここに滞在した日本ビジネスマンも同じやり切れなさを味わったろう。
現場の彼等はロシア人としてロシアの事情にも苦しめられている。ふたりは「ここまで来てくれて、ありがとう」と別れ際にいった。かれらの見送るなか、ランチで遠ざかった。
幻の北オホーツク・ニシン
その翌日、夕方、現地案内のカリタ氏がニシン漁の現場に行けることになったという。
ロシア人漁民に会いたいと思っていただけに、気持はすっかり明るくなった。
オホーツク村全体がいわば漁村である。駆けつけたのは町外れ、人口七百人の集落、国営漁業コルホーズの一つ「ラスヴエット・セラーベ」、”北の夜明け”という名のそれだ。白夜の海も夕暮れに近い。
北海道ニシンは昭和二十年代末期に姿を消した。サハリン近傍のニシンも禁漁を繰り返して保護されている。ひとり健在な北オホーツク・ニシンは幻の魚といわれている。
浜から二百メートルほどの沖合で定置網を上げている船の中からボートが迎えに来た。案内人は漁業コルホーズ長コビャコフ氏。童顔だが年齢四十九歳、もう三十年近くここで働いている。ここは創業一九四二年というから、ソ連では古参コルホーズだろう。
かれの手漕ぎでゆっくりと網場に近づく。袋網の上に丸太で組んだ櫓がある。養殖イケスの餌をやる四角の足場が材木でできているものと思つたらいい。網を手繰り、ニシンの入った網の大きな袋をタグボートが浮き櫓ごと脇の運搬船に曳く。そこでニシンの群を運搬船の太いパキュウムパイプでガパガパと吸い上げる。網の作業船と曳航タグと運搬船の三点セットである。総員三十二名、みなオレンジ色の作業着である。暗緑色の海に鮮やかだ。
「このニシン網漁のやり方は日本人から学んだと聞いている」とコビャコフ氏はいう。
この袋網を手繰る漁民たちがもう一台の櫓をひき寄せた。ニシンの大群が入り過ぎてニシンを網から逃がしている。網を手繰るのに動力の助けはない。
引き手の網子に少年や若い漁民が多い。やがて網の底から北ニシンの大群が姿をあらわした。しじまのなかでニシンの跳ねる音が人声を消すほど沸いている。男たちは単調な掛け声で網を引く。
水面から盛りあがった群れ。やがて長老が指示して、網の縁を沈めまたニシンを逃した。
その群れは海にもどっていく。大きさのそろった肌艶のいいオホーツク・ニシンに、しばし見惚れた。
コビャコフ氏にいつもこんなに入るのかと聞くと、「うん、しかしクォーターがあるので今日は五トンで打ち切る」という。皆が見上げる空にあの複葉機が旋回していた。チンロの監視機だそうだ。なんと厳しい規制か、ここでは”時代離れ”にさえ思える。
ここには孵化のためにコルホーズで決めた禁漁区域がある。「二十五年前から産卵場にネットを張って、時化で卵が岸に打ち上げられるのを防ぐようにしているから、群れは戻ってくる」という。そのネットの区画は浅瀬の三万ヘクタールに及ぶという。
悠長でゆっくりとした労働だった。魚と網に注ぐ気遣いは日本の漁民とかわらない。だが網を手繰るのに動力の助けはないところが違う。圧倒的に人手が多い。それだけにだれもが呑気だ。ノルマ分を採るにはこのテンポで足りるらしい。
日本のように乱獲したりする動機自体がここには皆無に思える。ソ連時代の中規模漁業コルホーズの典型がここに残っている。日本との合弁企業の試みや、スケトウの日本船への沖渡しなどで日本漁船との接触はあるにしても、村の外の世界は知らないだろう。サハリンや沿海州とは違い、ここは、ロシア人すらめったに訪れない僻地である。木製の漁具、古い漁法の小じんまりとした漁民社会で、ひとびとはアルチェメンコ氏の嘆くように貧しいまま、”最小肺活量”で生きてきた。だからこそ幻のニシンが残り得たといえるだろう。
極北のここは、独立採算制にはなじんでいない。「オホーツク水産」の挫折した今、”北の夜明け”はさらに見えなくなってはいるだろう。
ハバロフスクのロシア・ジャーナリスト
オホーツク海をめぐる巡回空路はない。扇の要のように、ハバロフスクが極東各地のエア便の起点である。サハリンに行くにも、カムチャツカに行くにもハバロフスクが要になる。五月二十三日、日曜日。一泊予定のハバロフスクに立ち寄った。アブドウラザコフ総領事にテレックスを打ってもらったイズベスチヤ極東支局長のボリース・レーズニック氏に会うのが目的である。氏は中ソ国境紛争時にモスクワから特派され、以来二十五年、極東通のジャーナリストとして知られた人だ。かつて八人だった支局が、今はただ氏一人になり、多忙を極めていた。
ハバロフスクにはむかし、映画『シベリア人の世界』ロケ以後も数回来ているが、それまでまわった村から見るとやはり大都会である。ホテルで心ゆくまでシャワーを浴びた。
レーズニック氏とは日本レストラン「札幌」で会った。私の訪問趣旨はアブドウラザコフ総領事からかなり詳しく聞いていたようだ。今後の各地の人脈や新しい情報を伝えてくれた。
かつて「シベリア人は牡蠣と同じだ。殻は堅いが中身は柔らかだ」と聞いたことがある。総領事が殻を開いていてくれたから、話はすぐに核心に入った。
レーズニック氏は「私の考えだが」、と前置きして語る。
「ソ連は大きな過ちを犯した。私の国は母船式の漁業に力を入れ、日本のような沿岸漁業を育ててこなかった。オホーツクには母船団はあるが、小さな漁船はない。船で魚を獲っても、いまは冷凍船の油がなくて動かない。魚は腐ってしまい、海に捨てることになる。船を大事にする観念も足りない。冷蔵庫・冷凍庫も、樽も漁網も足りない。こういう理由だけで、獲った魚の五十%も駄目にしている。オホーツク(村)をごらんになってお分かりでしょう。市場に運ぶために飛行機便しかない。それも十分ではないのです。あなたがたの企画は高邁な目的に沿った企画と思います。本当のことを見てください」。
母船式漁業とは”大艦巨砲主義”のことだ。沿岸漁業の問題点も集約されている。すでに八七年版『総覧』に見られた、小声での問題提起はいまでは大声で語られるようになった。
氏はオホーツク海の公海部のスケトウ乱獲に触れ、「今や全ロシアの問題になり、ロシアの最高会議はロシア漁船の操業を禁止した」。ロシアの漁船もここで不法操業をしていたという。
私が北海道・羅臼のスケトウ漁不振の現況を話すと、「地理学的にもまず話合いをしなければいけないのは日本とロシアの間からだと思う。他の国はそれに従ってやるべきです」。
あとは雑談になった。
「チンロがしっかりしてくれればいいが、いま、科学者は不遇な時代です。もしチンロがくずれたら、オホーツク漁業はガタガタになる」と心配していた。
「オホーツク水産」の問題について氏は、一、二点しか言えないとして、まずコストが高くつき過ぎたという。「非常に高くつく真空パック製造機を設置して、魚と交換する取決め契約をした。これは取引上、無理がある」。そしてロシア側の問題として、「ロシアの対外経済銀行がインフレで不安定になり、日本の稼いだ外貨を日本に送金するのを許可しなかった」。あまり多くを語る用意がないように思われた。
サハリン・お邪魔虫の旅
金錫裁氏の案内はここで終わる。「この仕事は本当に面白かった。映画のときは、お金は二の次にして私を使いなさい。私は生活には困ってないから・・・」と真面目な顔でいう。漁業用語などの多い会話だった。通訳の村山さんが魚の名称に詰まると助けてくれた。何より氏自身の好奇心を満たす道中だったようだ。サハリン残留韓国・朝鮮人問題については私からは語らなかった。氏も触れようとはしなかった。それだけに、氏からの申し出は嬉しかった。
ハバロフスク発サハリン行きの便には日本人ビジネスマンが目立つ。機から見る日本海は、氷塊のオホーツク海と違い、透き通った南の海を思わせるから妙だ。
三時間でユジノサハリンスクに着いた。空港には具文鎬氏が出迎えにきていた。半白の髪の年齢だが若々しい。氏とはカムチャツカを除き、あと全行程をともにすることになる。こちらの旅行目的は国際電話で伝えてあっただけに段取りは早かった。
具氏は駅前のユーラシアホテルに案内し、荷物をおろすや、すぐに自分の車に私たちを乗せて走りだす。
官庁街にいってから、氏は「相手が居たら居たでいい。アポイントメントなしで、出たとこ勝負でいきましょう。聞くことがあったらどんどん聞きなさい」とけしかける。それではまるでお邪魔虫、断りなしに出てくるゴキブリである。
「あんたら自分のお金できたのでしょう。頼まれ仕事じゃないんでしょう?それなら遠慮はいらない。時間を目いっぱい有効につかわなきゃ」。
それが氏の理屈だった。
サハリン州政府庁舎にはいって、あちこちの秘書室に顔をだしては「留守・・・」「会議中・・・」といって先を急ぐ。私たちはついて行くのがやっとだった。
漁業者団体(旧コルホーズ)連合首席が掴まった。副首席も同席する。首席はビクトール・ベサラヴ氏、陪席はスミルノフ氏だ。ともに漁師出身という。
具文鎬さんの訳はほとんど同時通訳のように早い。私が飲み込めないでいると解説してくれる。サハリンの漁業のデッサンをもっぱらベサラヴ首席から聞いた。
サハリンの沿岸漁業についてむかしと今では違いますか?
「以前、サハリンの沿岸コルホーズは二百五十か所もあったが、大規模化の時代がきて十三にまとめられ、二百人規模以下のコルホーズは無くなりました。そこの漁船は大コルホーズに吸収されました。いまは小規模コルホーズでも三百人以上、大きいのは千五百人規模です。全サハリンの漁業従業員は一万五千人です。
前は近海に魚が多かったので、金をかけないで採れたし、すぐに陸で加工しました。二百カイリ以後は資源が減ったのか、沿岸に魚が寄らないし、リミット(漁獲枠)が厳しくなって、やりにくくなりました。
サハリンの東海岸は流氷の海です。冬は氷に穴を開けて採るコマイ漁などしかしません。ポロナイ川のコマイは油あげにしたら美味しいですよ。
サハリンの主な漁業は大型トロール船団で獲っているスケトウです。年間十二万トンは獲ります。”サハリン・北海道スケトウ群”という群れがあります。それで困っているのは、例のオホーツク公海部でのスケトウの乱獲です」。
ここから根室海峡にスケトウを獲りに行っていますかと聞く。
-羅臼という所の漁民はスケトウをサハリンのトロール船団が獲りまくると思っていますが。首席は怪訝な顔をする。
「私たちは南クリル周辺ではスケトウを獲つてない。あの付近は魚体は小さいし、量も少ないし、もっぱら西カムチャツカ、東サハリン海域で獲っています。減ってるのはオホーツクの公海部での乱獲のせいでしょう。五十万トンに及ぶという話です」。(注、公海部のスケトウは六月十五日より禁漁となったーロシア最高会議決定)
ベサラヴ首席の話によれば、むかしの漁家集落、いわば村といえる零細コルホーズは、国営漁業の大規模化によって吸収されたという。日本風の浜や浦の漁村は消滅した。
旧日本領サハリン
サハリンは具文鎬氏のおかげで木戸ご免の調査行となった。具さんはもの怖じしないし、顔も広い。小学校の皇民教育で学ばされた日本語が今、役にたっている。この三、四年、北海道のテレビ、商社、漁業企業のコーディネーターをしている間に、努めて日本の現代用語や言い回しを覚えた。かれの俊敏な頭の回転と、記憶力には安心できた。しかも難解な話には解説を加えてくれ、私たちにはうってつけの人物だ。
具さんはサハリンテレビ、日本のメディアの駐在員(北海道新聞、NHK)、旅行社ドゥルーク(本店は札幌)をつぎつぎに案内した。これで日本の過去の取材範囲がほぼ分かった。メディアは北方領土に足を入れるのをいまだに”自粛”しているのだった。
サハリン・テレビは日本ほか外国取材とのタイアップ専門の子会社「インフォームブリッジ」のオフィスを開いていた。ここも北方四島の漁業事情までは掴んでいない。
さきざきの撮影時の予算の参考のため、ここでもコーディネーター、車、船、ヘリコプターなどのコストを教えてもらった。通訳のギャラにしても、カメラマンにしても日本に比べれば気の毒になるほど安い。とくにヘリコプターは五人乗りで二百ドル、二十人乗り大型でも八百ドルと、日本の五分の一以下である。軍用の船舶も借りられる。それもここでは桁はずれに安い価格設定だ。「ウラジオストクTVやカムチャツカTVは高いが、うちの価格は適正だ」と社長のユーリー・ミハイロフ氏は胸をはった。局の責任者には従業員三百五十人を食わせなければならない責任がある。ここも重税を嘆いていた。
ユジノサハリンスクはサハリンの州都だがこれまでに見た街とは雰囲気が違う。すべての建設物がせいぜい三、四十年前のものばかりだ。極東の他の都市のように帝政時代の遺物はない。せいぜい日本時代の庁舎が博物館になって残っているが、それすら歴史の遺物というには新しい。ユジノサハリンスク市は札幌や帯広に似た枡目の大通りがあり、まだ未完成の都市らしく、今後の発展の余地を残していた。
サハリン州のトップは、モスクワから任命された経済学者のフョードロフ知事が在任三年でその座を去り、サハリン漁業界の実力者、クラスノヤーロフ新知事に代わったばかりだ。クラスノヤーロフ氏はそれまで政治的には無名だが、漁民出身者で、日ロ合弁のピレンガ合同(主体はサケ・マスふ化事業)の社長だった人である。
フョードロフ前知事は”北方四島は経済自由地区論”などで知られたアイディアマン的な人物だが、新知事は「海の資源管理の強化」を唱える現実主義者だ。新知事にも会いたかったが、サハリンに不在で会えなかった。
具さんは私たちを漁業担当副知事アレキサンドル・メドベェジェフ氏、サハリン漁業規制局、サハリン・チンロなど、次々にサハリンの漁業の責任者たちを選んで案内した。
そのみちみち考える。誤解を恐れずにいえば、サハリンは開放的で親日的である。それは漁業を通じて、相互の距離が近いことに加えて、同じサハリン州でありながら、北方四島の領土問題については、いわばヨソゴトだからではないか。たしかにユジノサハリンスクには、北方領土と日本との間にある経済障壁はない。それだけに日ロ合弁化のピッチは早い。
九〇年夏、ここで重度の火傷を負った少年コースチャ君が緊急治療のため札幌市に来た。これにより、サハリンとの距離は劇的に飛び越えられた。あれからまだ三年しか経っていない。イズベスチヤ極東支局長レーズニック氏は、ポスト”大艦巨砲主義”、つまり二百カイリ以後、世界の公海での漁獲をやめ、ロシア領海内に回帰したロシア極東の漁業の転換期を迎えて、日本との漁業協力にオホーツク沿岸漁業の死活がかかっているという。
その指導層に現状を聞くことができれば、願ってもない。
漁業監督の立場からーその責任者たち
漁業担当副知事メドベェジェフ氏と会ったのはサハリン州庁舎でである。庁舎は太い円柱のそそり立った威厳のあるヨーロッパ風の建物だ。
漁業者の陳情に追われているらしい氏、だったが、紹介状もない私たちに快く会ってくれた。サハリン漁業の全体像と最近の動向から尋ねた。
ー昨年はロシアの漁獲量は例年の半分と聞きましたが、極東ではいかがでしたか?
「残念ながら、去年のサハリンの総漁獲高は、前年の九十万トンに比べ、二割以上減の七十万トンでした。その第一の原因としては、去年は不漁年でサケ・マスの遡上が少なかったこと。二番目には、現在、ロシアの漁業が市場経済への移行期にあたって困難が続出し、十分に操業が出来なかった。ほかに船の燃料不足もありました。
今年はサケ・マスの豊漁年だし、いくらか回復するはずです。漁民間の競争意識も強まって、やる気ですから。五年前にはサハリンの漁業関係組合は四十しかなかったのが、現在は民営化で六百もの会社ができています。お互いに競い合うことで漁獲高ももとに戻ると思います」。
ー旧ソ連邦というか、CIS(=独立国家共同体)に魚を送る義務は、今はどうなっていますか?
「あなたもご承知だろうが、大体日本人はロシア人に比べて三倍も魚類を食べるんです。だから日本への輸出に忙しい。しかしサハリンは”ロシアの魚の宝庫”でしたから、ソ連邦の時代は計画経済に沿って、決められた漁獲量を上げ、全ロシア各地に魚を送っていました。現在はご承知のように、その体制が破壊してしまいました。魚はロシア国民にとって欠かせませんから、今また『旧ソ連の”海のない”共和国に魚を計画的に送れ』という要請が出ています。エリツィン大統領は『計画経済制度をある程度復活して、魚をいままで通り送ってほしい』というのです。『そうしないと、サハリン州の開発のための中央政府からのクレジットを上げられません』と。クレジットというのは政府の出資金のことです。私たちはかつて国と州との”垂直(縦)関係”といったんですが、それをもういちど回復しようとしている所です」。
ー北方四島の磯や浜の漁場について、根室ではこういう言い方をしています。「外貨が稼げるから、カニやウニをとりつくしてしまうのではないか?」と。
「あれはほんど密漁です。許可を得ないで資源を取って、金を儲けようとしています。密漁者はロシア側にもいるし、日本側にもいる。かれら双方がロシアの資源に与えた損害は同程度でしょう。こうした密漁対策にロシア沿岸警備隊とか漁業規制局が摘発に当たっています。スピードの早い警備艇も準備しています。
その他に州政府としては、絶対に資源に損害を与えない漁にだけクォーターを与えるという方針でやっています。違反した場合には罰金だけではなく、漁業権そのものを取り上げるという最も厳しい措置をとっています」。
彼は私を睨みつけていうのだ。
前職が国営コルホーズの技師長だった副知事メドベェジェフ氏は、情報は知り尽くしていた。ロシア人による越境、ライセンス無視、クォーター違反にもきびしかった。氏はまた、密漁事件の最前線である北方四島を統括、武装した国境警備隊を指揮できる立場の人だ。氏は「断固として密漁を潰す」と言う。
後日談になるが、のちに北海道漁民に知られる作戦「群来九四」(密漁撲誠実力行使)の上で、氏は大きな采配を振ったようだ。
こちらの表敬訪問の趣旨は伝わった。「新知事は漁業のよく分かる人です。日本に知己も多いし。映画はご自由に撮ってください」。氏のテストに私たちが合格したのかどうか。
”漁業規制局とチンロは民営化しない”
ついでサハリン漁業規制局を訪れた。その同じ建物にサハリン・チンロがある。州庁舎とは比べようもない事務所だ。漁業者には煙たがられる、規制と第三者的科学者のふたつの機関が古い木造の建物に同居していた。
サハリン漁業規制局副局長レオニード・ニェスチェロフ氏の部屋にはオホーツク海を真ん中にして、下は日本列島から上は北極に至る大地図が張つてある。ロシアでは民間人にはこの種の地図は滅多に入手できない。厳しい面持の氏に具さんはながながとロシア語で私をここへ案内した訳を話した。
まず日本の違反操業について、規制局の立場でどう見ているかを聞く。
「去年は釧路、根室船のサケ・マスの公海での違法操業(前述)がみつかりましたね。あの辺のサケ・マスはロシアの河川にも遡上する魚群なんです、日本にだけじゃない。あの違反操業がアメリカの監視機に発見されたのには驚きました。ロシアは昨年は経済的に困難でとても太平洋まで監視できなかった。しかし、あれがロシアに与えた損害は約千五百万ドルに上ったんです。昨年、ロシアの領海内でも、日本の全鮭連、日鮭連の二企業は使つてはならない流し網漁をして漁獲量超過違反をした。これは十件です。これはロシアに二千六百万円相当の損害を与えました。日本の違反だけの損害分です。あと韓国、北朝鮮、中国、アメリカがこの管轄内で違反操業をしています」。
ニェスチェロフ氏はメモも見ないで数字を上げた。そして自分たちの仕事をこう述べる。
「国営漁業コルホーズからオケアン(魚市場)まで、すべてが民営化されようとも、チンロと規制局だけは絶対に民営化されません。それと国営ふ化場も民営化されることは有り得ないでしょう。それは自然保護の観点からです。この立場は動きませんでしょう」。
具さんは「ロシアでは魚や海の資源はすべて国のものということが喧しくいわれ、数年まえまでは、黙って魚を獲れば、たとえ一匹獲っても咎められたんです」と口添えした。
モスクワの国家漁業委員会がどの魚種のクォーターを掌握し、州側にはどんな魚種のクォーターの裁量が残されているのか。ニェスチェロフ氏は次のように仕分けていた。「モスクワの国家漁業委員会がクォーターを出す魚種は、大量に一網打尽できる魚種、スケトウ、イカ、タラ、ニシン、サンマ、サパなど海洋の回遊魚群。これらについては直接国がクォーターを出します。つまりモスクワが決めた総量に従います。
州政府のクォーターの範囲は沿岸に遡上するサケ・マス及、び、カレイ、カニ、エビ、ウニ、コンブなど、海産物や移動性の少ない魚種です」。
この分掌でみる限り、トロール母船団の漁法で獲れる圧倒的な漁獲量は国家漁業委員会の掌中にある。州にはサケ・マスとカニ、ウニなど大陸棚の底魚や磯の海産物系のクォーター権がある。そのサケ・マスの総漁獲量は、極東の総魚種別漁獲量のわずか一・五%である。
一方、回遊性のスケトウ、マダラ、イワシ、ニシンなどは、その四魚種だけで極東の魚類別漁獲量の九十四%を占めている(『ロシア・極東地域ー水産事情に関する調査報告書』海外漁業協力財団、一九九二年)。これではサハリン州の中小・沿岸漁業は高価格なカニ、ウニに雪崩れこまなければ生きられないだろうと思う。
合弁の場合、スケトウなどをロシアのトロール船団から、洋上で船から船に”沖取り”して買いつけられている。その現状について「日本がロシアと合弁して、クォーターを買い、決められた漁獲割当量を超える魚を獲る。これとむかしの買魚時代の方式とどこが違いますか?」と聞くと、ニェスチェロフ氏は「キツイ質問だ。いまは質問に答える時間がない」と苦笑した。
「今の日ロ合弁企業では余り利益が上がっていません。ロシアは原料魚を売るだけではなく、ロシアで魚を加工し、付加価値をつけて売りたいんです。考えてみてください。原料魚をかりに大量に出荷すれば、日本市場での魚の値段が下がります。私たちには損失だけです。ここサハリンで付加価値をつける漁業構造に転換しなければ、やがてサハリン漁業は壊滅します」。
”売魚漁業”から、”加工する漁業”への段階に、ということであろう。育てる漁業、つくる漁業までは今の視野には遠い。
「私は先年、根室にいったおり、近代的なサケ・マス加工工場を見せてもらいました。あそこにあるような設備を持った工場をサハリンに実現したいのです」。氏は合弁のいい例も上げた。サハリンでのピレンガ合同のふ化事業の成果の積みかさねが氏を励ましていた。「われわれにはいまの経済の困難は近く収まると信じています」。
打ち解けて雑談に入ったあとで恐縮だったが、最後にロシアの原子力委員会の核廃棄物の海洋投棄について聞いた。「絶対、やめさせるべきだ!」。いうまでもないという口調だ。
「ロシアの改革のプロセスは進行している。困難な時期はいずれ終わると思う。いまサハリンの沿岸漁民は苦しい生活を強いられている。とくに東海岸、オホーツク海岸の漁民はひどい状態なんです。もし今、国が一回でもいいから国民を助けてくれれば、必ずいつかは国民が国を助けます。まだ、貧しい漁業が残っています」。それも取材したいというと、ニェスチェロフ氏は「どうぞ。オホーツク全体を描く映画はほしいですから」と頷いた。この人の映画への関心は外交辞令やお世辞ではなさそうだ。「もし、そうした映画が実現したらロシア人にも、珍しさや発見があるでしょう」と私たちを励ました。氏は海と魚が根っから好きらしいのだ。
チン口、女性の主任調査員
チンロ・太平洋漁業海洋学研究所はウラジオストクに八十数年前に開設された国営水産研究機関である。ここは海洋、資源、魚類の生理・生態、増養殖、利用加工など多岐にわたる研究をしているところだ。それが漁民との会話にでる場合、「泣く子も黙るチンロ」といった趣きに聞こえる。サハリン・チンロはその州の支部である。そこを訪ねた。
チンロの扉をあけると、品のいい中年の女性ラリサ・ツェルコヴァ女史が応対に出られた。女史は自然科学者である。にこりともせず、能面のような表情で応対した。
冒頭から断りがでる。「私は政治家ではありません。ただの科学者です」。
漁民から見れば、女史はクォーターの基礎資料を出す権威的存在である。漁民からはもっと獲っていいではないかと迫られ、漁民と意見が対立することもしばしばだ。この時代、漁民側はクォーターの枠を増やしてほしいと思い、チンロは立場上、陳情や情実では動かされない。
女史の顔には”何びともつけ入ることは許しません”といった堅さが続いた。流氷の話に触れようとしたが、女史の言葉にバイオロジー用語が多くて、具さんもとても訳がこなせない。
受け身で言葉少ない女史が一つ強調したのは、国営の時代も民営の現在でも、クォーターの総量は変わらないという点についてだった。
「ロシアでは、漁獲量の総トン数はロシア漁業委員会がコントロールしています。それには海の資源についての科学的なデー夕があります。それは民営になろうと、企業がふえようと、その漁業枠総量はかわりません。例えばオホーツク海で、ある種類の魚を今年は何万トン以内という”リミット(制限)”があった場合、規制局やこちらでその量に達したと判断したら、相手が”まだクォーター分を消化し切れてない”と弁明しても操業を禁止します」。
この資源調査のためにチンロは莫大な調査費の捻出に苦しんでいた。
「私どもはその調査に中型のトロール船を使っています。チャーター料に一日に八十万ルーブル(七百ルーブル・一ドルとして千百四十三ドル、約十三万七千百円)かかるんです。その上諸経費が八十五万から九十万ルーブル。そして冬になると条件が悪いので、もっと大型のトロール船ベーメーエテ号を使って研究するんです。ですから、最終的にいえば莫大な金がかかっています」。
その結果は国外にもだしますかと聞くと、女史はキッとした目になる。
「ロシア国内だけです。ロシアの金を使った調査を、外国なんかには発表していません。私は自分らのために研究しているだけです」。
どうやら禁句に触れたらしい。女史はなんという虫のいい質問だという顔になった。能面のような表情がゆがんだのは、この時だけだ。ここでもスケトウの話が女史の方から出た。
「オホーツク海の真ん中にある公海部でのスケトウの漁獲には日本の漁船は参加しないと聞いていますが、乱獲している国の学者らと話をしたいと思います。ポーランドや台湾や中国や韓国の学者方は一体なにを考えているのか。そこは南に産卵に行くスケトウの休息の場所です。冬、寒くなると、スケトウが群れになってかたまって休むんです。南にいくにも、北にいくにも魚の休む通過点です。悪いことだということを、彼らだって知っているでしょう。ロシアは莫大な金を投資して調査し、コントロールと資源保護に尽くしているのに、他の国では全然お金も使わないで、獲るだけです。それによってロシアはどれだけ被害を被ってるか分かってください」。
スケトウの回遊行動は女史には脳裏に描けるようだ。スケトウのオホーツクでの異変、日本でいえば羅臼の激減現象はほぼこの公海の乱獲にあるのは間違いなさそうだ。ロシア極東漁業の最大の危機としていたる所で語られている。そのスケトウの買い手の大手は日本のスリ身加工工場である。乱獲の獲物は日本に入っていると女史は見ている。
私の”調査資料の公開は”という質問は女史を怒らせた。「勝手なことを言わないで!なんで日本に見せなければならないのですか」。私はここでは怒られっぱなしだった。”オホーツクはロシアの内海です”とも念を押された。
社会主義漁業の遺産として、”魚は国家、国民のもの”という概念を女史の言葉のはしばしから受ける。それが資源についての厳正な姿勢を支えている信念だろう。それは日本に向けただけではなく、ロシアの漁民にも向けられていた。女史は州の漁業の要なのだ。
さっきの「チンロと規制局だけは絶対に民営化されない」というニェスチェロフ氏の断言と同じである。万一ここが腐敗と汚職にまみれたら、オホーツクの資源は恣意的な乱獲により、再生産不能に陥ることを警戒していた。
ある展望の根拠
お会いしたこの人たちは国家サイドに立つ州の漁業政策の責任者たちだった。昨年のロシアの全漁獲量の急激な低下については、ロシアの経済の問題の他にも、不漁年であったり、たとえばサンマの回遊がソ連二百カイリに少なかったこと、日本二百カイリ内のロシアの漁獲割当量があっても船の燃料不足で獲りにいけなかったと理由を列挙した。そしてだれもが、オホーツク公海部でのスケトウの大乱獲を憂慮していた。しかし、極東漁業の回復には案外に楽観的だった。
副知事メドベェジェフ氏は「漁民は競い合っているから漁獲量は来年には回復する」と見ている。また”経済計画”を復活しつつ、国家援助を取り付け、新船購入の希望をもっていた。
ニェスチェロフ氏は私の質問に答え、違法操業や越境操業によって、ロシアの得られたであろう”逸失利益”の総額をたちどころに列挙した。その即答の早さには驚かされた。
氏はサハリンで付加価値のある水産商品を作りたいと願っている、その点から日本の漁協の組織に強い関心も持っていた。魚の日本語学名はほとんど知っていた。通訳が魚の訳語を探していると、氏の方からその魚の和名を上げた。外国との経済提携も日本だけではなく、韓国、北朝鮮、ベトナムとの間でも進めていた。誰も、昨年の全ロシアの総漁獲量が半減したことを隠さなかったし、昨年の不漁の原因は分かっていることばかりのようだ。サハリンは元気であった。
漁業担当副知事メドベェジェフ氏の確信のある発言のヒダを読むとこうなろうか。
「全ロシアの総漁獲量が半減したなかで、極東では二割減に止まった。この漁業の再編と混乱のなかで、極東のロシア漁民はそれなりに”善戦“した」と。氏は泰然として事態を睨んでいるようだつた。
パワフルな潜水夫たち
一見無秩序な競争時代である。それだけにサハリンの漁民にはパワーがあった。
たとえばサハリン州政府庁舎で立ち話を交わした漁業家、ジーパン姿の州議会議員(元執行委委員)がそのひとりだ。サハリン最大の漁業都市ネベリスクのウニを扱う会社「ネベリスク小企業」社長アレキサンドル・エフィメンコ氏と話すことができた。クォーターの枠を増やせと陳情に来た合間だった。
元潜水夫のボスだった同氏は四年前からウニ採りの会社をつくり、北海道のウニ大手業者O商会と組んで事業を起こした。そのウニ採りの漁場の規模はひろく、二か所合わせて海岸線三十四キロに及ぶというから、道東の一町村のそれに等しい。それを社員十数名の会社で独占している。
「僕自身、一九七三年、潜水夫専門学校を卒業し、ネベリスクで潜水夫の班長をやり、船底の修理や沈没船の解体作業をしていた。潜水夫の養成学校の先生もやった。だからアクアラングで潜れるプロを十五人使ってやっている。プロを集めるにも、教え子に声をかければいつでも来てくれる」。
水深二十メートル以上に潜るにはヘリウムと酸素を混合したボンベを使うので、潜水夫学校卒のプロを揃えた。
「人材には困らないが、クォーターが理不尽なほど少ない。バカ気ていて話にならない。
去年北海道のO商会に七十トン出したが、今年はその倍百五十トン出したい。そのクォーターの交渉に来たのだ。クォーターの基準は社会主義体制の時決められたままだ。今もって何が基準か分からない。僕たちだって乱獲はしない。海に潜って見て判断して言っているんだ。チンロは潜って見てもいない。メチャメチャな基準だ」。
私が”北方四島のウニが腐って、八十%突き返された”というと、「勉強が足りない」の一言だ。「僕らは札幌のK貿易からもやり方を教わった。自分たちは運搬船の水温(摂氏二度)調整から、いけすの仕掛けを教わったし、漁場を区切って禁漁年を作っている」と説明してくれた。それはすべてウニの扱いの理にかなっているようだつた。
”ロシア人はノルマだけ果たせばいいから、仕事はノンビリしたもんだ”とは、今は言えない。かつてアセアン諸国のひとびとの勤勉さと、稼ぎとなれば骨惜しみしないパワーに感じ入ったものだが、このエフィメンコ氏らにも、ハングリー精神をパネにした凄味があった。チンロが摩擦の局面で出会う漁民はこの種の現実・現場主義者たちなのだ。
コルサコフ遠洋漁業基地「ボル」
五月二十六日、連日の晴天続きから一挙に冬に戻った。サハリンは朝から雪だ。市民たちは夏服からまたブーツに毛皮の帽子、そして厚着姿に変わっている。
さて私たちはコルサコフにある遠洋漁業基地へ行く。幅広い国道は一直線に南の港町に向かっている。沿道に人家や牧場らしいものが見当たらない。北海道の原野に似た白樺林の風景がつづく。
具さんの用意した四輪駆動のワゴンで一時間あまり、郊外のダーチャ(畑つき別荘)の村を過ぎると、家並の背景にアニワ湾が見えてくる。日本統治時代にも軍港のあったコルサコフ市(大泊)だ。
市の丘陵には団地アパートが密集している。その七十%は旧国営漁業コルホーズのもの。家賃は元のままに押さえられており、二Kで百四十ルーブル(二十円)というから、いまだにタダ同然である。人口三万八千二百人のうち、七千五百人がこの旧国営漁業コルホーズの従業員だという。
遠洋漁業基地本部(略称)は漁港をバックにした数階建てのビルがそれであった。労働者の出入りがはげしい。
ここへもアポイントなしの訪問だったが、コルホーズ専用港の岸壁へは「ボル」の女性広報員が案内してくれた。大型、中型のトロール船が数隻、岸壁に船尾を並べている。手入れや修繕中なのか、修理工ばかりで漁業従業員は少ない。
たまたま許され、ベーリング海での航海を終えたばかりのキャピタン・ラマエフ号(四千四百七トン、積載量千四百十四トン)を見学する。
”大鑑巨砲主義“の主力トロール母艦の一万トンクラスから見れば小型であるが、加工・冷凍設備を揃えたトロール漁船だ。船員・漁業従業員合わせて八十八人乗り。甲板は網や浮きや、オッター・トロール(中層を引く網)の水中翼などが置かれている。
副船長ヴィクトル・ルガーノフ氏の案内で船室から見学した。「まだ新しいでしょう」と氏は無人のドアを開けて見せる。高級幹部用個室は六畳間ほどの広さにシャワーつき。幹部たちの食堂兼休憩ルームはゆとりがあった。漁船員らは二人部屋。広い食堂にはテレビとビデオデッキがある。唯一の娯楽はビデオ映画を見ることだという。医務室の部屋には緊急手術できる手術台もあった。
漁船員には夫婦の共稼ぎも許されるが、妻がコック、ウエートレス、掃除などの職員として働いている場合に限られていた。このタイプのトロール船では、加工ラインに女性の手は要らない。魚卵の捌きもすべて自動化されている(日本製)。冷凍装置はあるが、マイナス十八から二十度に急速冷凍するのに二時間半もかかるのが欠点だという。鮮度保持にはもっと短時間のほうがいい。
「今、みんなは休暇中ですから」と副船長。ベテランに混って若い修理工が多く、童顔の青年が「コンニチワ」と日本語で挨拶する。この船は近くニュージーランド沖に行くという。
この船はウクライナ製だった。プレートには”ウクライナ・ニコラエフ・一九八七”とある。ああウクライナは”海洋国家”なのだと改めて気づかされる。ロシアでは漁業関連産業はウクライナに特化されていたのか、極東の船はほとんどウクライナの黒海に面した造船所でつくられていた。
かつてソ連邦が一体のころはすべてルーブル圏として機能してきたが、独立し、ドル建て決済になってからはウクライナとロシアはギクシャクし出した。ニコラエフスクの罐詰製造機もウクライナ製のため交換部品の入手に困っていたが・・・。
ルガーノフ副船長は「その通り。しかし最近は韓国に頼んでいます」という。漁業の東アジアのネットワークが形を取ってきている。
同じ大きさの船が岸壁に繋がれている。どの甲板にも犬が守護役のように座っていた。
若い技師長のロシア漁業観
遠洋漁業基地本部では技師長ゾーリン氏がレクチャーの時間をとってくれた。その秘書室には韓国のポスターやカレンダーがある。この基地の一部では韓ロ合弁部門がスタートしていた。サハリンと韓国の距離が近いことは一目瞭然、民営化の渦中の象徴のようだ。
技師長は四十歳そこそこの科学者タイプの方だ。
「はじめに私のほうからあなた方に質問したい」と、こちらの映画の意味や目的をあれこれと尋ねた。それはテストだった。私は、日本にも遠洋母船団と独航船の大船団時代があったこと、ソ連の、いわゆる”大艦巨砲主義”の現在を知りたいなどと話した。氏は面白がって聞いてから、秘書に来客や電話をとめるように言いつけ、話し始めた。
まず遠洋漁業の概況を聞いた。以下、率直な内輪話もしてくれた。
「『ボル』は大きな企業ですから、主に大型トロール船団です。排水量千トンから四千トンまで四十人隻あります。トロールで捕れる魚種はみんな捕っていますが、主にスケトウ(氏は”メンタイ”と発音する)です。
主なスケトウ漁場はベーリング海・・・カナダやアメリカ近くのアレウット島の付近です。あそこは魚が豊富ですからね。だが、もうあの水域からは撤退して、カムチャツカのベーリング側のロシア二百カイリ内へ移動しました。あとは千島列島の太平洋側です。しかし、オホーツク海に帰るわけにはいかなかった。(ーなぜ?)もちろん、かつてはオホーツク海でもスケトウ漁をやっていましたが、クォーター枠も少く、ここのような大型底引き網の使用が制限されたので、もうオホーツク海では操業していません。
で、やむをえず大型トロール船十一隻は違う海域に派遣するように転換して、最近はニュージーランドとかインド洋などにいってます」。
ここがオホーツクのスケトウ漁をしていないというのは意外だった。二百カイリ以後、オホーツク海以外の遠洋に出ていた船団は、オホーツク海漁場に復帰できなかったのだ。
ー二百カイリ以後、日本では漁民の失業者がいっぱい出ましたが、こちらでは?
「いや、日本とちょっと違って、すぐに失業問題は起きません、操業海域を変えただけです。ただし資源の減少はもっと前から現れましたね。一九七〇年代に、ロシアはトロール船団の造船数を増やし、持ち船が沢山あったんです。現在、オホーツク海やベーリング海、クリル諸島の付近の魚資源が減ったので、漁船が余ってきました。この二、三年、とくにスケトウが激減しました。
ご承知でしょう?その原因はオホーツク公海部での乱獲です。漁船長さん方は”これは大変なことになった”と。魚の数は激減したし、魚のサイズも小さくなった。だから、結果としては給料が少なくなり、生活水準もぐっと下がった。・・・たしかに現在、日本の七〇年代に起きた漁業者の失業問題が、今のロシアで起きているんです」。
「ポル」の転換とその過程
私が日本の五万人漁業従事者の”ジプシー化”といわれる近況や、漁船過剰で”減船”に苦しんでいることを話すと、ゾーリン氏はほぼそれらをよく聞いて知っているようだつた。
「しかしここではクビ切り現象は出ずにきてます。というのは、ソ連邦がなくなって、連邦を形成していた各共和国が独立しましたね。このボルには実はウクライナから、大勢の専門家や漁労者が来ていたんです。ウクライナ人はウクライナの独立を機に、一斉に故国、ウクライナに帰ってしまったんです(笑う)。それで、わざわざクビにしなくても人員縮小される結果になりました」。
ー私はソ連側の資料で知ったのですが、いわゆる”大艦巨砲主義”の母船団は運搬船から病院船まで従えた”海の工場群”だったと言われていますけど?
「実際にそうです。我が船団が働いている漁場には、ウラジオストクからも、ナホトカ、カムチャツカからも漁獲船が寄って来ました。漁の盛りには二百隻から二百五十隻も集まります。一隻に五十人ずつ乗っているとしても、総計どれぐらいになりますかね?(ー一万数千人ですか?)そうです。その場合の指導部はやっぱり”ダリルイバ(極東水産企業公団)”でした。物資・燃料・食料品調達から、製品の陸への運搬などの面倒をそこが見ました。医療船のほかに、お医者さんが一人ずつ、大型船舶や漁船に同乗していました、海に行ったら想像ができないことが起きますからね。
で、八六年当時、ボルの従業員は九千人に達していました。漁獲高も年間三十六万トンまで揚げていたんですよ。現在は、二十二万トンから二十五万トン程度に減りました。そこで、余った船団を動員して、ニュージーランド沖まで出漁するようになったんです」。
-ニュージーランドでなにを獲ってるんですか?
「ホッケ(注・カジカ目の海魚)とイカです。ニュージーランドと入漁料契約をして、獲った魚はニュージーランドに売ってくるんです。中国、日本にも帰途、寄って魚を売ることもあります。しかし、遠洋漁業では莫大な燃費や経費がかかって、もう採算がとれません。現在の課題は、今まで獲つてない魚種を獲ること、違う漁法に一部、転換することが求められています。たとえばホッケやオヒョウ(注・カレイ目のなかで最大の海魚)などです。それを獲るにはトロールではできない。
小型船の仕様がえや漁具の手当てはゼロからです。それには資金がたくさん掛かるし、漁民にはその漁法を教育しなきゃならない。それに時間も金もかかるのは当然です。
最近はズワイガニ漁とその加工がようやく軌道に乗りました。大型トロール船三隻をカニ加工母船に改造しました。罐詰ですか?それはもうやりません。カニのボイル冷凍、生冷凍、その他の魚の冷凍品です。その母船について小型漁船がカニ籠漁をしてるんです。ボルは日本の大洋漁業『マルハ』と協力して、大部分は『マルハ』を通して日本で販売しています。あなた方、スーパーでご覧になっているでしょう」。
ロシアの国内向けの魚はだせない
ほかにツブ貝やワカメなどは小型漁船が採ってくる。何度も繰り返すが、大回遊魚群のクォーター枠はロシア漁業委員会にある。ここはそれでは経営が立ち行かないので、大陸棚系のカニ、ツブ貝を漁獲し籠漁用に漁船も仕立てを変えたのだ。これらは州のクォーターの枠に入っている。
技師長ゾーリン氏はかつては、魚のコストが高くても価格差補給金の制度があった話から、民営化の現状の問題をまとめてくれた。
「この転換期にやっぱり二つの問題が出てきました。第一に国家と企業の関係の分離でした。ここが国営コルホーズの時は、コストの高い魚を国家が補助金を出して安く売っていました。石油輸出で獲得した外貨を漁業や農業、食品軽工業に注ぎ込んでいたんです。だから魚が安く売れたのです。今その石油輸出は減りましたし、国営とは名ばかりで、国からの補助金はなくなりました。かつては船の燃費も安かったんです。いまは国家は企業の経営について関知しないし、補助金も出さない。つまり国はこのコルホーズに何の責任も持たなくなりました。
第二に経営面の自立への転換です。国営の時は、新船とか新しい漁具とか、設備更新などが必要な場合、国にその理由を添えて文書を提出すれば良かった、私どもが頭を悩ませる必要がなかった。現在民営化になると企業は独立採算制です。つまり独立して生きていけということです。国家の処理してくれていた難問を自分で解決しなければならなくなりました」。
ーでは、魚の売り値段はだれが決めるのですか?
「かつては国が”いくらで売れ”と値段を決めたんです。それを絶対に言わなくなりました。それでもサハリン州知事などは”この位の値段で”と希望価格をいいはしますが、価格は最終的にはボルが決めています。ですが、現在のインフレ状態で、今の市場価格ではいくら売っても、資金を蓄積するのは不可能です」。
ー獲った魚のうち、各共和国にどれだけか送るという決まりはないんですか?魚が無くなればロシアの国民生活は困るでしょう?
「それは考えます。しかしこのボルが飢えるわけにはいかない。サハリン州知事も”魚何トンは何処そこに送れ”という昔みたいな命令は出来なくなった。その要請に応えられなくても、私どもの責任は問われないのです」。
この答え方には苦渋があった。七千五百人の従業員、四十七隻の船舶を抱えて、どう生きるかの思案をしつづけているのであろう。
私は、日ロともでなんとか”オホーツクに生きる”ことは可能では、と話を替える。
「そうです。オホーツク海の生物資源はその海の沿岸に住んでいる住民に、まず生かされるのは当然でしょう。ただし、同時にその資源を保っていくという義務もありますよね。"ともに生きる”といっても、どの人にも彼個人の生涯というものがあり、ひとりひとりの生涯を生きるしか道はないですよね。隣人同士には、ただの垣根にすぎないものを、こっちだ、あっちだと争うのは幸せなことじゃない」。
ゾーリン氏は北方領土問題をやんわり風刺した。オホーツクを痛め合ってきたともいう。
「現在、サハリン周辺に、ニシンがいなくなり、カレイも少なくなってしまいました。漁師が釣糸を垂れて魚を釣っていたのならいいが、底引き網でやったのが原因です。あの間宮海峡でさえ、二百カイリ以前に、日本やロシア、韓国の漁船がみんなあそこで底引き網で魚を獲り過ぎたし、海草を根こそぎむしってしまった。今になっては誰に一番責任があるとも言えないし、底引きの網で海草をなくしてしまったせいだとも断定できません。だが、結果的には三つの国の漁民が競って操業した果てに、ニシンが消えたと思いますよ」。
私たちはある感慨をもって氏の独白に似た語りを聞いていた。
氏と別れたあと具さんは「若いが真面目でしっかりしている」と満足気だった。私も改めて”ロシアには人材がいる、語るに足る人間がいる”と思うのだった。
技師長ゾーリン氏にしても、規制局のニェスチェロフ氏にしても、それぞれ、多くの日本の漁業者や商社マンらと親しくしているだろう。こうしたオホーツクの人たちのことが文字になっていないのは残念だ。人脈自体が”企業秘密”になってはいないか、と勘繰りたくなるほどだ。"さし”で語れる人々に会えて、うれしさの余りの失言だが。
猿払町の姉妹都市・オジョルスキー
雪はやんだが夕方の寒さには身が縮こまる。が、白夜は人間を働かせ過ぎるものだ。具さんは近くに沿岸漁業の参考になりそうな村があるという。「もう労働時聞は過ぎているが、まだ明るいから」と薦める。
オジョルスキー・コルホーズ、地図で見当をつけると日本統治時代の長浜らしい。かつては、中知床半島といわれたアニワ湾のオホーツク側の半島の湾岸に、長浜をはじめ荒栗、遠淵、知床、札塔の漁村があったようだ。いまはこのオジョルスキー・コルホーズに集約されている。
車で五十分、アニワ湾を眺めながら丘陵を越え、岬を過ぎるとコンブや海草の揺れる浜に連なって海浜に団地群が見えてくる。ここには日本車の多いのが目につく。
遅い時間なので、コルホーズの事務所は鍵がかかっていた。やがて管理人の老婦人が現れ、中に入れてくれた。電話をしてくれるのだが、相手がつかまらない。突然、お邪魔したこちらが悪い。
玄関正面には木彫りの漁民群像のレリーフがある。コルホーズに贈られた見事な作品である。”漁どる人々”とでも題したくなる構図だ。
脇の掲示板には、”ようこそ猿払へ”という日本字の幕をバックにした写真が十数枚張られている。姉妹都市猿払村への訪問時のセレモニーの記念写真だ。ローカルな交流ぶりがそこに窺えた。
私たちは突然遅く訪問したことを詫び、港と船だまりを見学させてもらうことにした。
村の人口三千人、うちコルホーズ漁業従業員五百名といえば中規模のコルホーズだ。
岸壁には百トン前後の中型船数隻が係留してある。その船上や陸部のいたるところカニ籠の山、一見して”カニ漁専門コルホーズ”の観がある。
船は規模や形からみると、大型トロール船団に付随してはたらく小型漁獲船らしいが、あの花咲港にくる赤錆びの”ロシアのカニ船”そのものである。
岸壁に接して、ズワイガニの処理作業場がある。カニを茄でる加工場は閉じられていたが、表の捌き場にはイケスから揚げられた生きたズワイガニ数百匹がケースのなかで抱を吹いて弱っている。”ロシア人はサイレンが鳴ったら、ハイ終り“という元島民の体験談の通りだ。他人の台所を見るようで気が咎めていると、イキのいい漁船員がふたりやって来た。
ここではもっぱらズワイガニ、毛ガニ、ウニを籠で獲る。そのほかマダラ、スケトゥ、カラフトマス、キュウリウオなどはユジノサハリンスクに出荷している。
「ワッカナイ(稚内)へ行く」「マーク2もワッカナイで買った。いい車だ」と若い漁船員らは威勢がいい。聞けば、アフガン戦争に行き、ふたりともサハリンで除隊になり、そのまま、ここに居着いたという。
住み心地はどうかとたずねると、新婚で子供一人というワレリー氏は「便船が通えばいいところだ、いまは漁船だけだ」。そういえばここには鉄道はない。
日本通いの漁船員は円貨を所持できるという、花咲港で聞いた話をすると「いいや、カニで外貨を稼ぐが、自分たちはルーブルしか手にしない。外貨を持っているのはコルホーズの上部のヤツだけだ。いいか、ぼくたちは漁業労働者だ。労働者!」と胸に誓いの手を乗せる。笑いながら「給与はたった一万五千ルーブルだ」という、三万円のマークEが手に入るわけはないとからかうと、「シィッ。漁業監督官と税関がうるさい」。顔はいたずらっぽく笑っている。
「日本やドイツのように戦争に負けた国の方がずっと良いのはどうしたわけだ。僕は共産主義者は尊敬しない。一方、改革派のやったことも御覧の通りだ。私たちの国は石油や資源も豊かだから希望はあるはずだ」。
突然かれはキッと自分の足を指して、「僕はアフガニスタンの戦争でここを怪我した。戦争はもう沢山。子供たちの死ぬところを見たくないよ!よその領土のことはもう沢山だ!」。
かれらの話では、ここオジョルスキーを未明に出発すれば、昼には稚内につく。北海道の猿払町には姉妹都市交流の際、このコルホーズからも何人もが訪日し、乾杯してきた。イズベスチヤのレーズニック氏が「経済交流や提携も国と国との交流だけでなく、日本の県と極東の州、市単位の姉妹都市、一漁協と一コルホーズ漁業協力といった、いっぱい、枝と枝とが絡むような日ロの繋がりが生まれるといいのだが」といっていた。そのサンプルがここと猿払町で見えてくるかも知れない。