書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 オホーツク編 カムチャツカの州都へ
ハバロフスク空港にて
あと北方四島へ渡る前に、カムチャツカの西海岸を見る予定だ。
ウラジオストクに着いた日から数えて十日余だが、各地の文化的な要素や観光的風景もそっちのけに漁業だけ追いかけてきた。お世話になっている具文鎬さんも金錫裁さんも、面白がってくれたのが良かった。
今回は、各州のテレビ局の世話にならないようにした。そのコーディネートで助かることは明らかだが、今回はやみくもに歩いて見たかった。両氏ともそこが分かり、乗り気になってくれて助かった。だが、カムチャツカには具さんも金さんも同行してもらう予算はなく、日本人チームだけの旅程である。通訳の村山敦子さんだけが頼りだ。
五月二十七日、カムチャツカ便に乗るためにハバロフスクに一泊しなければならない。サハリンからカムチャツカへの直行便はないからだ。
ハバロフスクではレストラン「札幌」で、久し振りに日本料理を注文した。仲居さん風の和服姿のロシアの娘さんたち。その立ちいふるまいが日本の女性よりおしとやかに見えるのが妙だ。
日本の板前さんがサシミ包丁を拳銃使いのようにクルクル回す芸当をロシア人の見習いにやって見せている。娘さんたちはうっとりそれに見とれている。
ロシア人の馴染み客もついている。ここのオーナー、合弁会社「アムール・トレーディング」はなににつけ、ハバロフスクでは大変評判がいい。
翌朝、ハバロフスク空港を出発した。事もなくチェックインし、事もなくカムチャツカに飛び立ったのだが、すでにコソ泥のカモにされていたらしい。
撮影済み写真フィルム十九本と二十本の未撮のフィルムは袋に入れていた。それを鍵のないナップザックに入れて手荷物扱いにしたのが間違いのもとだった。ほかの着替えや常備薬や雑品はどうでもいいが、撮影済みフィルムはそれまでの一切である。
この盗難事件がのちにロシア人への信頼を醸成するきっかけとなったのだから妙だ。
カムチャツカのテレビの人
さて、オホーツク海を飛ぶこと五時間、無事にカムチャツキー空港に着いた。タラップを降りると、素敵なキャリアウーマン風の女性が真っ直ぐに近づき、タラップまで車をまわして愛想よく出迎えてくれた。彼女は空港での世話をテキパキと進め、車に私たちを乗せ、町に向かう車中ではじめて、「カムチャツカ・テレビのプロデューサーのジーナ・イスチャコーヴァです」と名乗った。ウラジオストクの時と瓜ふたつである。車に乗ってから、手違いが分かったのだ。”ああ、またも誤解された!”
ペテロパブロフスク・カムチャツキーでは「カムチャツカ・インツーア(旅行案内会社)」が手配されていた。それ以外どこにも連絡はしなかった。私たちがここの旅行社の出迎えがあったはずだと聞いても、ジーナさんには通じない。すでに、テレビの社長との会見とチンロ訪問、「レーニン」国営コルホーズ見学がセット済みだという。
ふと、車のなかで私はナップザックの軽さに気付いた。調べてみると、フィルムが既撮、未撮ふくめ三十九本、袋ごとゴッソリ無くなっている。盗まれたとしたらハバロフスク空港でか、ここの空港でか、だ。私は青くなった。旅行前から一番恐れていたことが起きてしまった。大津氏はすでに十二時間分のビデオをまわしているが、テープとカメラのバッグは身体から離したことがない。アマとプロの違いである。
村山さんは旅の当初の忘れ物に懲りて、何くれとなく私に気を配っていたが、空港でのチェックイン以後、物がなくなるとは思いいたらなかった。
テレビ局のジーナさんも言葉を失った。すべてテレビ局に行ってから、社長と相談して解決方法を見付けましょうという。
パニックを起こしたままカムチャツカ・テレビ局社長の表敬訪問にむかつた。
いまだに誰が連絡してくれたのか分からないが、テレビ局としては、日本人の撮影隊が来た以上、提携契約をして、テレビ局の仕事にするつもりだった。”ドルを背負った日本のテレビ人”と思い込んでいるらしい。
困惑と意気消沈した気分を脇において調査の趣旨を話し、露領漁業時代への関心に及ぶと、しびれを切らしたのか、マルチネンコ社長は「カムチャツカと日本の歴史のレクチャーを、あなたに承る必要はない」と怒鳴って、ジーナさんと「これはいったいどうなっているんだ」とやりあっている。
社長の手元に用意されているのは、タイアップ料一覧と関係書類らしい。通訳の村山敦子さんも困り果てた。結局ジーナさんのコーディネーター料は払うことで落着した。気の毒なほどマルチネンコ社長と陪席のマリネン氏は落胆している。
ジーナさんと村山さんはフィルムの”事故”のことをおそるおそる社長に話した。その時のカムチャツカ・テレビ社長の頭の切り替えはす早かった。
「すぐハバロフスク・テレビ局に電話して、『盗った犯人はせめて撮影フィルムの分だけでも日本人に返せ』と放送してもらおう」といって受話器を取り、ハバロフスク回繰を申込んだ。カムチャツカからは即時通話はできない。呆気にとられた。公共放送を通じて犯人に盗品返還を呼び掛けるという、ロシアのテレビ人の電波感覚に恐れいった。マルチネンコ社長にお礼の言葉を述べたが、ついさつきまで血相を変え、興奮していた社長はかえって照れていた。
ジーナさんは腕時計を見て、カムチャツカ・チンロ幹部との面会時間を気にする。カムチャツカでも、チンロはやはり権威があり、科学者は尊敬されているらしい。礼を失してはと、急き立てられるようにカムチャツカ・チンロに向かった。
あとで知ったが、カムチャツカ・インツーアの担当者たちは、ホテルのロビーで心配しながら私たちを待っていた。帰るまでの数時間、テレビ局からの連絡はなかったという。
カムチャツカ・サケ・マスのベテランに会う
カムチャツカ・チンロは海岸公園のある広場の白亜の建物がそれだった。ペテロパブロフスク・カムチャツキーでも海に面した最高級の地にある。
広い副所長室には、すでにサケに詳しいボリス・ヴロンスキー副所長と生物学者ユーリー・ディアコフ氏が待っていた。
日本の学者たちとも交流の深いヴロンスキー氏は気楽に迎えてくれたが、ディアコフ氏は”笑わん殿下”のようにむっつりしている。そういう学者肌の人なのだ。
生物学者のディアコフ氏はメモでも読み上げるように、カムチャツカ・チンロの資源調査対象を説明した。
「太平洋系のサケには五種ある。カラフトマス・シロザケ・紅サケ・銀サケ・マスノスケ。同系統のヒメマスもいる。他にスケトウ・マダラ・カレイ類・コマイ・ホッケ・シシャモ・ニシンも研究対象だが、タラバガニなどはここの特産と言えるほど、豊富である。
日本企業との共同研究を進めており、そのうち一位はサケ・マスの孵化の研究、二位はマダラ延縄漁業の研究である。ほかになにか?」。
こうした調子である。ロシアには共通してチンロ的キャラクターとでもいうような職業的表情があるのか、終始、”つけ入ってはならん”という堅い顔つきである。
延縄について聞く。
「新しくマダラの延縄漁が開発されるようになったのは、全ロシアで、魚類資源保護のため流し網漁が禁止されたからだ。トロール漁法に代わる転換策なのだ。延縄なら基本的には釣針による漁業だから、よりベターなのだ」。
そして、目下、いままでは採らなかった魚種、たとえばウニ・エビ・毛ガニも開発対象の魚種で、それらを獲る漁法を研究しているという。ウニ同様に毛ガニもロシア人は食べないから、つまり日本向けの合弁を広げようということであろう。タコ壷などをご存じだろうか。
ヴロンスキー氏は瓢々とした方だ。学生に講義するように、ゆっくりと話されるので助かった。鉛筆を教鞭がわりにして地図をさしながら、サケ・マスの公海での漁獲禁止の歴史を解説してくれた。
現在、サケ・マスを獲ることが許されているのは、ロシア二百カイリ内ではここです、と一定の海域を指す。カムチャツカや千島列島の周辺である。日本側には漁獲量を決めて獲らせるが、ロシア側では海洋にはサケ・マスの資源量を探る目的に限られた、二、三隻の試験操業船しか出ていない。
カムチャツカでは、サケ・マス漁は半島の両岸とも、遡上するサケ・マスを沿岸の河口付近で獲る漁法が行われている。日本のように沖に出てサケ・マスを獲ることはないという。
「サケ・マスは定置網で獲ります。しかし産卵のために川を遡上するサケ・マスの道を塞がないように、河口から二キロ以上離れた海岸に網を立てるように規制しています。だから川の上流でサケ・マスは自然産卵できるし、ある程度は獲らせています」。
これならサケ・マスの自然ふ化は保たれる道理である。母川主義を掲げる意味もはっきりしている。道東の川では九十%が人口ふ化の水路に誘導されることは前に見た通りである。日ロ間のサケ・マスの環境の差は桁違いである。
かつてのサケ・マス資源の豊かさについてヴロンスキー氏はいった。
「戦前の一九三〇年代からの調査しかありませんが、カムチャツカには豊富なサケ・マスがいました。その頃極東・沿海州沿岸各地に日本の水産企業の漁場(注、露領漁業)があり、カラフトマスは年間三十万トン近く、シロザケは年間十二万トン、紅ザケはずっと少なく、二万トン位でした。当時はカムチャツカのサケ・マスの総水揚げの三分の二を、日本人がその漁場で獲り、ロシア人が獲っていたのは残りの三分の一でした。ご承知でしょうが、戦前、カムチャツカでは、ロシア人漁民より日本人漁民のほうが多かったくらいでした。
・・・現在はロシア側のサケ・マスの総水揚げはサハリンも含めてオホーツク海全体で十万から十五万トンですが、その大部分はカラフトマス(価格はきわめて安い)。銀ザケ、紅ザケはそれぞれ一千トンから千五百トンそこそこでしょう。日本側のサケ・マスの総水揚げは二十万から二十五万トンに達しますかな、そのかわり人工養殖もやってるようですがね」。
「自然産卵の撮影にいい場所は」と聞くと、ヴロンスキー氏は私の地図に産卵地点をマークしてくれた。ペテロパプロフスク近くの湖も紅ザケの産卵地で美しい所だからと勧めてくれ、最後に日本との合弁ピレンガ合同とのふ化事業は順調にいっているし、二つめのふ化場も今年中には完成するから是非撮ってはどうかと氏はいう。日本のふ化場は撮影制限がことのほか厳しい。その温かい薦めに深く礼を申しのべた。
国営「レーニン」コルホーズ
町並みはゆるやかな丘陵をなしている。どこからもアバチン湾を俯瞰できる。その湾の対岸に、日本人によって”カムチャツカ富士”とよばれた火山が聳えている。白雪の残るその山容は例えようもなく優雅だ。
ペテロパブロフスクは不凍港である。陸から海への地形を見れば、湾の水深は深く、昔から船の出入りに適した良港だったろう。湿原の河口の港、冬は凍てつくオホーツク港、が見捨てられ、ここにその開拓の拠点を移されたのは当然に思える。
「レーニン」国営コルホーズは、町はずれのセラグラスカにある。人口二万人、団地群に住む二千人のコルホーズ員が、ここから港に働きにでる。レストラン、デパート、文化ホール、学校、託児所、病院から大きな書店、映画館もこの地域にまとめられ、まさにエリート漁民の街である。
アパートの住民の七割は郊外のダーチャを持っている。休日にはひとびとは園芸野菜つくりに郊外に脱出して、この街界隈はからっぽになるそうだ。
海に向かう幅広い道を下りると、出港準備に忙しい男達の潮焼けした顔に会う。コルホーズの港に柵らしいものは全くない。背後の街と岸壁、船などは一つの世界で区切りがない。その開放感はどこか北太平洋の対岸、カナダを連想させる。
港には小型や中型の漁船の老朽化が目立つなか、ヨーロッパ・ロシアから到着した新造の大型トロール船(五千六百トン)二隻がまぶしく、その白い船体を見せていた。
ここレーニン国営コルホーズはロシア極東では、最大、最強の地歩をもっている。カムチャツカ以遠には競争相手がいない。カムチャツカ半島からアラスカ対岸のチュクチ半島、さらにつづく北極海までロシアの漁業専管水域である。これだけのロシア二百カイリ水域でも、日本列島の太平洋側の全漁業専管水域より広いだろう。
この国営コルホーズはスケトウやイワシ、サンマの大回遊魚群を専門に獲っている。モスクワ国家漁業委員会の直轄のクォーターを得られる最良の条件を備えているのだ。
冷凍トロール船のひとつ、セラグラスカ(灰色の瞳をした娘)号(五千六百トン)に上がって船内を見た。八十八人乗りの船だがここも修理中。冬季の長いスケトウ漁が終わってのんびりしている。これもウクライナのコルサコフ製である。サハリンの「ボル」の冷凍トロール船と寸分も違わない。「加工設備がふるくなったので近々韓国・釜山で最新の装備をしてもらう」と修理の主任はいっていた。
この船で漁獲した魚は一旦、カムチャツカの冷凍庫に上げ、運搬専用冷凍船に積み替えて、一路、ウラジオストクの冷凍基地に送られる。そしてシベリア鉄道で大陸沿線各地に直送されるという。ここの冷凍船団は、最近、別の会社として独立した。大規模な冷凍パイプ・ラインが、カムチャツカからオホーツク海を横切って、ロシア本国にじかに通じているのだ。
ここペテロパブロフスクの市場向けの魚類は、中小漁船の水揚げで十分賄えるという。このレーニン国営コルホーズは、まさにモスクワの国家漁業委員会の秘蔵っ子の感じである。サハリン州のように徴妙な北方領土問題を抱えるわけではなし、極東・沿海州のように、「極東共和国」の提唱といった分離、独立の動きも全くない。このコルホーズは民営化して時間がたつが、漁獲専門に徹して、いかようにも生き残れるだけの実力を持っていた。
再三の引用で恐縮、だが、「クリルプレス」(国後島の新聞)によれば、原料の魚不足で生産は半減し、加工コンビナートが機能しなくなっている理由のひとつは、カムチャツカからの原魚の補給がほぼ切られたからだという。現場の人に確かめた。
「最近、色丹島の加工コルホーズに原魚を運んだことがありますか?」
船員は「いや、ないね。あそこはサハリンや沿海州からの補給と聞いている」と妙な質問をするものだという顔になる。
色丹島の罐詰加工場で欲しがっているのは、サンマ、サバ、イワシである。ロシアではスケトウの魚卵(タラコ)は日本・韓国(メンタイ)・中国に売り、魚身は半乾燥にしてモンゴルや中央アジアの需要に向けられ、また餌用ミールとして畜産・養鶏、ミンク飼育などに大量に消費されているらしい。日本にはスリ身の原魚として輸出されている事情はすでに触れた通りである。
カムチャツカでは西海岸の沿岸コルホーズを見るのが主目的だった。かつての露領漁業のあとがみたかったからだ。しかし、沿岸漁業と巨大なスケールの国営漁業と比較できる機会を、この国営レーニンコルホーズ見学で得られたのは幸いだった。
「ここは別世界のようだ」というと、ジーナさんは「カムチャツカの総人口五十万人のうち、ペテロパブロフスクに四十万が集中している、その八割が漁業関連の仕事をしているでしょう。魚を獲る人間があって、この街がある。このコルホーズの社会的地位は最高であって不思議ではないでしょ?」。
”どっちの客なのだ”
夜、食事をとってホテルに帰ると、「カムチャツカ・インツーア」の若い女性ふたりと運転手の三人がロビーで待ちくたびれていた。「空港でローマ字の紙を掲げて出迎えていた。いったい、空港のどこの出口から出てきたのですか」と詰問の口調である。「タラップからテレビの車に乗った」。女性らは互いに顔を見合わせて「やっぱり」。
「カムチャツカ・テレビにツアーの仕事を横取りされたんです。私たちはタラップまで行くことは許されていない。かれらは滑走路近くに入れるテレビ局の特権を使ったんです!」と憤慨している。つまり、免許を持つ観光業の自分らをまいて、社の客を”拉致”したというのだ。こちらは旅行社への支払いはJTBに済ませているから、実害はないのでないかと思う。が、現地の旅行社には日本のJTBに報告義務があるらしいのだ。
そこへ仔細を聞いたのか、旅行社のボスが肩を怒らせて入ってきた。
「手短かに言うが、私は州の議員からツアーの仕事に入って二年になる。二、三千人の外国客を扱ってきたが、今回のようなことは始めてだ。聞いたこともない。これだけは言わせてもらう。以上!」といって名前もろくに言わずに座を蹴って出ていった。
誰が私たちのカムチャツカ入りを”通報”したのか。利権がらみの小細工同然、失礼千万なこのマフィアめ!と腹のなかで罵ったものの、かれの啖呵はカラッとして、見事なくらいだ。結局、部下の扱いも上手い。さつきまで膨れていた女性社員たちはにわかに晴れやかな顔になって帰っていった。
テレビ局のジーナさんは運転手ともども明日は朝から来る予定だ。しかも西海岸へいく。それはこの旅でもっとも興味あるポイントのひとつである。
ホテルの部屋の水道は断水工事で止まっていた。そのかわりにバスには満々と澄んだ水が張つてある。飲んでみたが雪解け水なのかとても美味かった。
カムチャツカ西海岸
五月二九日、土曜日である。
早朝、ホテルで鉢合わせしたテレビ局のジーナさんと旅行社「カムチャツカ・インツーア」側は別室で話をして、西海岸行きはジーナさんと旅行社の運転手ルージック・ハチャトリアン氏という組合わせになった。
この目的地はカムチャツカ半島の裏、オホーツク海側のポリシェリェックである。地図の上の直線距離で百七十キロほどである。私には西海岸ならどこでも良かった。この海岸線に戦前まで、いわゆる露領漁業の漁場百五十二か所、加工・二十四工場、冷凍冷蔵庫・二十二棟(『日魯漁業経営史』昭和十二年当時)があった。日魯の”北洋漁業場”( 露領)三百四十三の半数が西海岸にあった。その地を訪ね、その後どうなっているのかをこの目で見たかったのだ。
「それなら『オクチャブリスキー』コルホーズがいい。カムチャツカでは二、三位の規模の沿岸コルホーズです。場所はボリシェリェック町の近くにあり、雪も解けたし、もう車で行けるはずです」と薦めたのは、他ならぬジーナさんだ。旅行社は「あっちの方面はまだ手をつけていない」と運転手頼りだ。「ハチャトリアン氏はアゼルバイジャンまで車でいったという人間ですから」と旅行者側の女性がいう。カムチャツカでは有名なドライバーだった。ハチャトリアン氏は照れながら肩をすぼめた。
折角だからそこで一泊したいと希望したが、とても無理らしい。ジーナさんはテレビ記者になって十五年のキャリアだが、まだ一回も、中央山地を越えて西に行ったことがない。
「電話番号も分からないし、ホテルやレストランもあるかどうか、ともかく遅くなってもその夜には帰りましょう」。ともかく早く出発するに限る。
西に向かうハイウエーは自家用車の列だ。郊外にあるダーチャへと家族とともに繰り出し、土曜日から日曜にかけて、そこの畑での野菜つくりに励んでいるのだ。農具と種苗の市が立ってごった返している。
途中、近郊住宅地イエリザボ市のスーパーマーケット「ホルカム」で食料をふんだんに買った。中国、韓国のインスタント食品、があふれている。魚はさすが産地だけに肉の半値以下だ。ここはオランダとの合弁の店で、日本にも”新しいカムチャツカ”としてテレビでも紹介された店(九一年。NHK)、脱ロシア色の店だと評判である。
燻製のサケ、ソーセージ、サラミ、ピクルスにパンと一抱えを車に乗せて中央山地に向かった。目的地まで四時間はかかるとハチャトリアン氏は計算していた。
三車線ほどの国道「新しい道」は十数年かけて、十年前に完成した。冬は閉鎖される。今も西海岸へ用がある時はヘリコプターを使うのが普通だそうだ。
ジーナさんは退屈させないように気を使う。道中、トラックと木材運搬車が数台すれちがっただけ、道の両側は風に曲げられた白樺林が続く。これらは「酔っ払った木」といわれ、使い道はないが、白樺の樹液はからだの薬になるので、ひとびとは樹の露を集めにくる。熊に出会って怖かった話などとりとめない。
内陸にあるクロートニカバ川にもベニザケが上がる。スポーツとしての釣りにもライセンス(有料許可証)が要る。「昨年は一匹二百五十ルーブルだったが、今年はいくらになるか」。買うよりは安いが、遊びとしては高い。彼女は「釣ってもまた戻すそうよ」という。
道はいつしか標高千メートルになっている。スレドヌイ山脈は層々と連なっている。三千メートル近い山々だ。その雄大さはむかし見たカナダのロッキー山脈に似ていた。道は川添いに走っている。源流を分かつ峠を越えると、いつしか川は西へと流れを変えている。あと一か月もすればサケ・マスが上って来るそうだ。
川岸には草花が一斉に匂いを放っている。北海道にもある行者ニンニクが川べりに密生し、あたりには清流の音しかない。水飲み場には足場らしい板があるだけだが、運転手には分かる目印しがある。この観光価値をカムチャツカの人々は意識しているだろうか。
ジーナさんは私の疑問に「日本人はみな同じことをいいますね」と笑っている。
別のくに西海岸
道半ばに国境検問所のようなゲートと詰め所がある。遮断機はひらかれたまま、見張りもいないが、あきらかに検問所だ。”用がなければ訪れない西海岸”(ジーナさん)の境なのだ。
雪山が果て、平野になり、ツンドラの解けはじめた湿地帯を過ぎるとボリシェリェックの街になる。人口五千人、この一帯の中心地だ。官公分署や病院、商店や学校、そして自動車修理工場などのサービス業もある。また牧畜の集散地、肉・乳製品の加工工場もありソーセージ、ヨーグルト、チーズも作っている。
取材記者の習性か、ジーナさんは子連れ主婦に尋ねてはメモしている。
「ここはウクライナとベロルシアの人ばかりみたい」。北方四島にもサハリンにもウクライナ人は多い。しかも若い人が少なくない。どうして僻地ばかりに来るのだろう。
「ロシアでお金を溜めようと思えば、若いうちは極地にいく」とよくいわれる。それにしても現在のウクライナの民族独立の炎を思えば、やはり”好き好んで来たわけじゃない”だろう。
突然、ジーナさんがお店に入って忙しく物色しはじめた。こまごまとした日用品である。
「信じられない。こんな安い値段のものが今時カムチャツカにあるなんて!」。
化粧石鹸が二十一ルーブル(三円)、子供の下着が百八十ルーブル(二十六円)である。
細かいことだが、今のロシアの地方は都市部と違って時価とか相場の概念がない。例えば、ニコラエフスクではガソリン一リットルがサハリンの三分の一の値段である。その時の運転手は「この油の入荷した時の値段で売っている。ストックが無くなって、次のが入ったら値段が上がるでしょう」と当然のようだつた。元国営や公営の店では、仕入れ値段に手数料を乗せるのが精々で、ビジネスとしての打算は全くないのだ。この店も民営化した。だが店のオバサンのソロバン勘定は変わりっこない。いわば”他郷”に旅してみない限り、物価の差に気が付かない。ロシアで俄かマフィアになるのにわけはない。運び屋になればいいのだ。
旧露領漁業の海
「オクチャブリスキー」コルホーズはここからさらに先だ。数キロ走ってやっとオホーツク海岸にでた。気温は一気にさがり、海風は肌寒い。カムチャツカの東海岸とではここの気温は平均七、八度低い。干満差は東海岸は大きく、六、七メートルに及ぶが、オホーツクは二、三メートル。漁場には干満の少ない海のほうが向いているだろう。
海霧が沖に立ち籠め、暗灰色の海である。延々と続く浜辺はなぜか小石ばかりで砂がない。波浪の激しさが磔石を浜に打ち上げるのか。コンブや貝殻のかけらも見当たらない。一面に夥しい流木が流れついている。製材用に同じ寸法に切られた裸の幹のままだ。おそらく木材運搬船がこの沖で難破したに違いない。
露領漁業の記述をふりかえってみよう。
この一帯に今ごろの時期(六月一日)から日本人漁民が船で漁業場に着く。冬中閉じていた番屋と加工場を開き、桟橋を直し、罐詰工場のコンベアに油をさし、発電所に火を入れる。漁期が来る。休みもなく、河口の定置網でそれこそ五種類のサケ・マスを獲り、素朴な形の流れ作業で魚を罐詰工場に送る。一日十二時間から十六時間労働で、漁期の終わる九月末まで四か月、この”露領漁業場”で働いた(『日魯漁業経営史』より)。
最盛時の昭和七年当時、オコック(オホーツク)からカムチャツカの両海岸、三百余の漁業場に漁夫一万八千人が働き、二千数百隻の漁艇やランチが岸と網の間を動きまわっていた。漁夫はすべて”純粋な季節労働者”であった(前掲書)。
冬期、施設の管理に四、五人を残したものだが、昭和七年からは現地ロシアのコルホーズに留守の管理を頼みひとり残らず引揚げた。サケ・マスの回帰群来とともに現れ、その魚影が去ると忽然と消える、これが露領漁業だった。
今この海辺に立つと分かる。今から九月までならここ極地ですら天国であった。私でも働ける気温、気候だ。露領漁場の日本人たちは厳寒のオホーツク、低気圧の墓場といわれる荒れる海の怖さは見ないで済んだのだ。オホーツクに真冬を生きる厳しさは、われわれには分かっていない。
西海岸のコルホーズのいま
ボリシェリェックより車で沼沢地帯の一本道を走って一時間余、ようやく団地の立ち並ぶ漁民の町、オクチャブリスキーに着いた。
団地は集中暖房され、木造の家々にも太いスチームの管がクネクネとつながっている。命の蒸気パイプだ。ここに住むには団地でなくては暖房の効率が悪いし不経済でもある。それを考えると住居の最低要件としては集合団地がいいのだろう。暖房さえあれば、個人の家にこしたことはないのだが。僻地とパイプと団地群がさむざむとした空の下にかたまっていた。
だれに連絡するすべもなかったので、ひとまずコルホーズの本部を訪ねた。五百人の漁業従業員を擁するコルホーズには計算係という女性がひとり。気の毒な気がしたが、このあと誰かに話を聞く機会があるかどうか。その人はいかにも心細げに応対しながら答えてくれた。
サケ・マスの群来は一週間後からだという。ここには大きな罐詰工場がある。
ここの罐詰工場の従業員は大陸から季節労働者として来た人ばかりで、女性の働き手が多い。出稼ぎ者がそのままここに残ったケースである。
「私も一九七〇年に、結婚した夫と一緒にハバロフスクからここに来た口です。経理の仕事をしていたので、招かれるような頼まれ方でここに来ました。給料はハバロフスク時代よりはるかに良かった。三人の子供がここで生まれ、すっかり住み着きました。今はこの町に慣れました」。
と恥じらいながら答えてくれる。給料は「五万八千ルーブルで、悪くないと思う」。
たしかにカムチャツカ・インツーア社の女性担当者より高い。
ジーナさんを介して、断片的に知り得たこのコルホーズのスケッチは次のようなものだった。
「ここは一九五五年に漁場が復活したと聞いている。ここはいま窮状に陥っている。じつは給料が払えないので現状五百二十名のうち、近く二十名を減員するため、希望退職してくれる人を待っている。現在、海の現場に出る人は十万ルーブルから二十万ルーブルは貰っています。それでもこの沿岸コルホーズでは一番低い方でしょう。
冬は出稼ぎに行く人もいます、真冬の三か月はここは休みですから。森林労働者としてハバロフスクまで働きにいく人もいます。有給休暇?ハイ三十五日分です。
漁は主にサケ・マスです。この漁期には六か統の定置網を張ります。ほかにも班を組んで、巻網漁に出ます。一、二週間、近海に出て、スケトウ、マダラ、コマイなどを獲ります。タラバガニは豊富ですから採ってます。ウニ?沢山いますがそれは採りません。別の班はカレイ、キュウリウオも採ります。
採ったサケ・マスですか?それは運搬船に渡します。ここには冷凍船はないんです。加工ですか?塩漬け加工はここではほとんどしません。ここの罐詰工場分の他は、全部、冷凍運搬船に渡します。コルホーズの船は大きいのは二百トンの船から小型船まで大小二十五隻です。
民営化のことはいつもコルホーズで話してますが結論は聞いていません」。
ここではやはり冬は”冬眠”するしか手がない。しかも陸上の移動はその時期は困難を極める。私たちが走ってきた第一級の国道”新しい道”でも、冬は大型トラックですら二台で連れだって、用心し合って走るという。海は凍るし、まさに冬は陸の孤島と化する。
ロシアでも”漁民は我慢強くなければできない仕事だ”と漁民自身がいう。ソ連邦の平均賃金の二倍以上の高給を求め、ここに来た。晩年、安定した年金生活を楽しみに働いてきた。かつては漁業開拓がもてはやされ、ここには”労働英雄章”受章者も多いという。
教育・医療・保育には国からの補助があった。この計算係の息子さんも大学までいくことができた。 だが子弟たちがこのコルホーズに帰ることは無理だろう。不況で首切りの渦中なのだから。
密漁取締りと漁民たち
船だまりを見ようと町外れにいく。船体を陸にあげた赤錆の鋼鉄船の溜りが漁港らしかった。ほとんどひと気がないのでぼんやりしていると、四人組の男たちがヌッと現れた。漁民と思いこんで話しかけると、「私たちは漁業監督官だ」と名乗った。この男たちは皆、ある身構え方をしている。武器を携行しているかどうか、分厚い外套の下は分からないが、脇の屈強のものがチーフから離れない。ボディガード風にボスを守っているようだ。
「僕たちの仕事は密漁などの違反操業の監視や取締まりです。国と生協からの監視団で、こうしてオホーツク沿岸を巡回しています。海上の取締りは別の班ですが」。
ーここはいつごろに漁場がひらかれたかご存じありませんか?
「さあ、一九一七年に開けた漁場だと聞いている」。
では革命頃からだ。やはり日本の露領漁業の開いた漁場であって不思議はない。
「だれか、当時からの”古老”は居ませんか?」と聞きそうになったが止めた。誰も知っている筈がない。晩年までここに定着した人はまずいないだろうからだ。
この四人が立ち去ると、それを待っていたように、沖の船から一隻のボートが男たちを乗せて帰ってきた。浜に着くや十数名全員でボートを担ぎあげ、浜からのゆるやかな勾配を数十メートルもエンヤコラと運び揚げるのだ。それは帝政時代の民衆画家レーピンの描いたボルガの舟引きの世界を彷彿させた。時代がずれ飛んだようだ。かれらはあかるく掛け声をかけあっているのだが、日々の労働としてはあまりにも遅れている。ここにはウインチはないのか。見渡したところロクロすらない。日本ではどんな僻地の貧しい漁村にもなにかの道具はあったものだ。
大津氏はカメラを回していたがそれを拒むものもいない。ここではごく普通の労働なのだ。ペテロパブロフスクの「レーニン」漁業コルホーズの設備とは隔世の感がある。同じカムチャツカで、日本にも知られた「オクチャブリスキー」がこれなのか。東海岸の人はこれを見たことがあるのかと立ち竦んだ。
漁業監督官をやりすごし、くつろいだ男たちが薪を割っている。船のストーブ用だろう。作業船の中を見せてもらうと、狭い船内にストーブを囲んで二段ベッドが十余人分、すえた匂いの夜具が丸まっている。船内用の小さな食卓には黒パンとバターがあるだけだ。トロール船団の船内をみた目には差がありすぎた。
ここはタラバガニを常習的に密漁しているらしい。さっきの監督官の気を緩めない、緊張していた理由もそう考えると繋がってくる。監督官は陸担当だから沖の船には手がだせない。資源を奪うものは国家財産を盗むものという社会主義時代の職業意識で固まっているが、漁民とはイタチごっこらしいのだ。
ある年配の漁業従業員は十三年間ここで働いていて、冬期は集中暖房の石炭焚きをしているという。「それがなければ生活はやっていけない」という。ある若手の漁民は「民営化は幹部が話し合っている最中らしい」。あまり知らないようで話には乗ってこない。
陸の船はほとんどスクリューの外された廃船だった。
土曜日の罐詰工場
ジーナさんは私たちが何かに失望していると思ってか、「罐詰工場の中を見せてもらいましょう」と、ひとりで罐詰工場の事務所に掛合いに行った。
午後四時、丁度二交替の交替時間で女性従業員が出入りしている。中年以上の年輩が多い。大津氏はカメラをバッグに入れて撮らない。三十分も待った頃か、ジーナさんは「いやだ。私がもしここで働いていたら死んだわ!」と震えている。「女性たちはボロボロのゴム服をきて、ナイフを持って手作業で魚をひらいている。不潔で暗くて・・・。これでは四十歳で体を壊してしまう」。
工場の入口には改修記念か、”一九七九”の文字と魚の絵が描かれている。当時に改修したとすれば、七七年の二百カイリ設定で、ソ連邦漁業も大きく後退しはじめた直後である。ここはソ連邦遠洋漁業時代が続くものと思って計画され、新装されたのであろう。
やがて、工場から副工場長パーブラヴィッチ氏が挨拶にきた。
「案内しますが、所長が不在なので、工場内部は見学を遠慮してほしい」。そこまで見る私はわれながら鬼のような気がした。ジーナさんは「もう結構」と車の中で動かない。
しかし、見学の中で、あかるい話題もあったのだ。パーブラヴィッチ氏の話の要点を紹介しよう。
「耀詰工場の従業員二百五十四人、その八十五%が女性労働者である。平均賃金は二万ルーブル。たまたま今日は土曜の休日だが全員出勤している。この工場は燃料がなく、魚もなく、ここのところ稼働していなかった。今日は魚が入ったのでやっている。
この冬、一月から三月は半分しか稼働しなかった。一月には日本からバーター取引きで冷凍サンマを輸入し罐詰にした。もっぱらロシア市場向けだがサンマの罐詰の需要は今も強い。イワシが今年は駄目のようで困っている。
塩蔵もやってはいるがサケ・マスの時期だけで周年ではない。なんとか原魚がストックされ、仕事がとぎれなく出来るように、やっと新しいフィンランド製の五千トンの冷凍庫の建設が決まった。今年から、日本で一番需要のある冷凍魚を輸出することにしている。魚の廃棄物から魚油を採ることも計画中だ。いままで古い型の五百トン冷凍庫しかなかった」。
これは朗報だった。オホーツク村では冷凍母船M丸を沖に止めて冷凍庫がわりにしていた。ニコラエフスクでもイクラの保存のために冷凍庫を熱望していた。今までの十倍もある五千トンの冷凍庫とは原魚保管には画期的な進歩だろう。しかも罐詰加工用の魚の計画保存も出来、周年稼働もできる。ただし、原魚は誰がここに運んでくれるかだ。
「私たちも希望は持ってます」と副工場長パーブラヴィッチ氏は笑顔をはじめて見せた。ここでももう行き場のない労働者をなんとしても食わしていかなければならない。その点では漁獲専門「オクチャブリスキー」も同じであろう。たとえカニの密漁を犯そうとも、だ。
工場は古ぼけてはいるものの、コンベアはあり、スチームの大きな釜の装置も動いている。原理的には罐詰工場であることは間違いないのだ。
この工場の原型は一九三五年だと聞いたと氏はいう。六〇年代にはミコヤンも視察と顕彰に訪れ、”ミコヤン工場”ともいわれた名門であったのだ。
西海岸で考える
社会主義の崩壊に揺すぶられるロシア人社会のなかで、信頼するに足るものは労働現場の人間同士のつながりでしかないだろう。ロシア労働者の協同性と連帯感は今どうなっているのか、それは私たちには手に余る調査の対象である。
資源の保持のために使命感の塊りのようになっている漁業監督官諸氏がいる。その監視と摘発は現場の労働者に対し”教育的”だとは思えない。資源に対して、もっと民衆との間にオープンさがあって良い。たとえばサハリンのメドベェジェフ副知事に会ったおり、私は「日本の漁業統計のようなもの(それが厳密に正確かどうかは問題だが)、たとえばカニならカニの地区別漁獲量の一覧とか、魚種別、漁法別の漁業統計のようなものが公表されていますか?」と質問してみた。氏は「日本に”統計の公表”の制度があるとは始めて聞いたが、いい助言だ。今後州政府でも検討してみよう」とあっさり言われた。それが”初耳”だとしたら、何をもとに漁民たちと漁業問題を語り合ったのか。
あえていえば、チンロの”科学”データは無謬であり、絶対的存在なのか。もし漁業のデータがいつも漁民に公表されていたら、貴重な共有の資源がどう採られ、どういう風に偏っているのか漁民たちにも分かるはずだ。それが資源を語るにあたって、民衆レベルでの事実共有の一歩ではないのか。
白夜は夕日を沈ませない。
かえり道、同じ山、同じ川を見ながら、往路の時の風景とは違って見えた。自然をこのまま残せたらと思う。雪解け水を湛えた川はゆっくりとオホーツク海に流れてゆく。そのせせらぎにベニザケを釣る人がいる。一匹、二百五十ルーブルを払いながら、だ。どっかおかしいが、どっかまともに思える。この山と川がサケ・マスの故郷であることを、この風景が黙示している。ここで釣る人もそれを感じる。
もし日本人がここを見たら、サケの源流としての自然とは何か、いわゆる母川主義の言葉が持つ意味をこの風景から学ぶに違いない、そうした楽天性を与えてくれるほど、ここには圧倒的に神話的な世界があった。
”城塞”ペテロパブロフスク・カムチャツキー
この日、日曜日、夜のフライトまでの時間、「カムチャツカ・インツーア」は英語通訳のアーリアさんをつけ、大車輪で市内の名所案内のスケジュールを組んだ。この会社は観光事業の実力では極東ナンバーワンの賛辞を進呈してもいい。すでにアメリカ人、カナダ人の観光客を受け入れ、英語に堪能な人材を抱えている。ただしアジア人種のすくないことはオーストラリアに似て、日本語、中国語、朝鮮語の通訳は皆無にひとしい。むしろ対岸アメリカ大陸に親近感を持っている。
さきのオホーツク村より百年後、つまり二百五十年前からの拓殖の歴史がいたるところにある。十九世紀まではイギリス、フランスの遠征隊と角つきあわせた戦争もあった。
「一八一七年、フランス船・ラベルーザ船長、イギリス船・クラーク船長がやってきた。ラペルーザはこんな良港に一つの教会と三軒の家しか無かったのに驚いた。ラペルーザ船長の歓迎会には五人のロシア人女性が出迎えている。
イギリスのクラーク船長はアメリカ大陸まで行ったが、水を求めてここに寄る途中に死んだ。ペテロパブロフスクはアメリカ遠征の基地だったのだ・・・」。
カムチャツカっ子のアーリアさんは一時間でも二時間でも話せる材料を持っていた。歴史観光の好きな人にはこたえられないだろう。
ここにも大祖国戦争勝利の記念碑がある。いまは塗り替えられたCCCP・ソ連邦の字はここでは傷つけられていない。それどころか碑の裾には新らしい花束が絶えない。
運転手のハチャトリアン氏に、「冷戦の時、ここはアメリカが攻めてくると思っていたんですか?」と聞くと一笑に付した。
「全然考えたこともなかった。あれはモスクワの都合で言っていた話でしょう。漁業ではアメリカのそばまで行っていたんですから」。
軍港部分や軍人集団は国家的予算で保証され、一般ロシア人の入域も管制されていたペテロパブロフスク市は、その社会的基盤の整備の多くを中央と軍事の援助に頼ってきた。総人口四十万の過疎半島とはいえ、人口の八割、三十三万人がこの都に集中している。カムチャツカとはペテロパブロフスクである。
市民たちは連邦最大の国営漁業企業によっても潤ってきた。その魚の富の蓄積がこの街を独り豊かにした。西海岸を見た目には特権的な”城塞都市”に思えるのだ。
先住民が見える”窓”
カムチャツカ博物館は港の近くの古いロシア建築の凝った建物である。中の展示は現代風で照明もゆき届いている。一見して先住民の資料や習俗、生活品の展示に力を入れているのが分かった。民族学担当イーゴリ氏が解説してくれた。以下、その要点のみだが。
「今世紀はじめ一九一一年のペテロパブロフスクの人口はわずかに九百二十九人、うち中国人と日本人とで四十%を占めていた。
十九世紀末の先住民の人口(先住民についての数字を時に端数まで挙げた)チュクチ族・一万二千人、コリヤーク族・五千二百五十人、エペルメン族・四千三百六十五人、アイヌ族・千五百人、ユカギール族・千六百人(現在の人口はメモし忘れた)。
征服の先兵、コサックは大砲を持って征服した。先住民の武器は弓矢しかなかった。ツアーリは十九世紀末まで鉄文化を先住民には教えず、鉄器や銃の売買を禁じた。もしチュクチ人が鉄器を持ったら、コサックは襲われると思ったからだ。
エペルメン人は河口で川を塞き止め、サケ・マスを捕った。彼等は日本人と交易し、寛永通宝を使っていた。彼等はアイヌとは言葉が違う。
アイヌは他の先住民と全く違う文化を持っていた。アイヌはカムチャツカの南端から千島列島にいた」。
この展示に先住民のコーナーが重視されているのは今年が国際先住民年のためというわけではない。ここが先住民の世界の覗き窓なのだ。
イーゴリ氏の解説には支配、被支配の要素は抜けていた。その分、先住民の生活具や狩猟の道具の説明には情熱的だった。
今の現状を聞くと、イーゴリ氏の説明のトーンは下がる。
「これら民具や伝統的な道具はいまも使われたり作られています。コリヤーク人はトナカイ飼育のコルホーズで働き、サケ・マス漁では独自の漁労も少しやっていますが、ロシア人と一緒に漁業コルホーズで働いているでしょう。しかし、かれらの集落はむかしそのままの生活が続いているそうです」。
北方民族を描く画家サナコーエフの大作が数点ある。長年、先住民と生活をともにし、克明にそれを記録したものだ。写真展示がないだけに、この絵は有り難い。小船でのサケ漁や高架式の住居と納屋、寒干しにしたニシンなどの生活描写や、ハルロー(祭り)の絵が壁画に大きく飾ってある。いかにもリアルで観察の細かい絵だが、いつの時代のものだろう。
「この人たちの生活はあまり変わっていません。伝統的な漁法やこの祭りはカロギンスキー地区で復活の動きがあります。ヘリコプターでなら行けるでしょう。先住民の若い世代?ですか。かれらは過去の習俗に興味をもたないし、老人たちはその習俗を神秘的だから、教えるわけにはいかない。神聖な秘密として私たちには言いたがらないのです」。
それらの地区でも現在、ロシア人が人口の多数を占めているから、ロシア最高会議は自治区を独立させることは許していない。氏はそれ以上は触れようとはしなかった。
選ばれたカムチャツカ”貴族”
ここで唯一の和風レストラン「さくら」(韓国系経営)で遅れた昼食を取っていると、アーリアさんがレーニン国営コルホーズのトロール船団の船長ピョートル・ノーチェ氏に面会できることになったから、と息を弾ませてとんできた。
国営漁業の首脳部に会いたいと希望したものの、土・日曜連休なので、もう諦めていた。
午後、都心に帰るダーチャからの車の列を横目にして郊外に向かった。
案内はインツーリストの副社長・シャキーヤン氏である。日本とは足しげく往来している人だ。「ご自慢のダーチャに居るから好都合だ」。
会う相手はピョートル・ノーチェ氏、極東で最も若い船長と言われ、国営コルホーズのナンバー2とのこと。格式としては、大企業の現場担当副社長といったところか。
そのダーチャ村は格式ある別荘ばかりだ。この高台の一角は階層が高く、社会的名声のある人たちで占められているらしく、どの別荘もその粒が揃っている。
ノーチェ氏のそれはひときわ立派な二階建てで、莱園も普通の倍の広さだ。ガレージには、新しいマーク2があり、珍客なのか、若い女性が私たちを日本製ビデオで撮りながら出迎えてくれた。
ピョートル・ノーチェ船長は五十歳前後、骨太で長身、一見鷹揚そうな人だった。漁業指導者というより、政治家に見える。
招きいれられた応接間のマントルピースの上には何百本もの罐ビールのコレクションがある。寝室数部屋にサウナまで完備し、電話が引かれ、ビデオからすべての電化製品が揃っている。「ここは冬でも暮らせるよ」。
不躾だが給与を聞いてみる。「私は最高の給与を得ている。五十万ルーブルだ」と胸をそらせた。勲章の数を答えるのと変わらない返事ぶりだ。エリツィン大統領が月収七万二千ルーブルと伝えられる。その七倍の高給である。
しばし雑談したが、インタビューになると言葉を選んだ。話の内容は公式見解に近いが、極東随一の船団の長としての自信は窺える。私は確かめたいことから尋ねた。
ー日本にも聞こえていますが、北方四島の色丹島では極東一の罐詰工場が原魚はなくてピンチに陥っていると聞きますが、カムチャツカからの補給はないのですか?
「それはクリルの所管のサハリン州や沿海州の漁業企業の責任です。ここが色丹島まで手をだせない理由の第一は、色丹島の水産工場がここの漁場からはるかに遠くにあることだ。今、船の燃料が不足しているのでなおさら行けない。第二に前は漁獲部門と陸の加工場が組織的に一体になっていたが、民営化の今はそれぞれ独立経営しているから、色丹島のような矛盾が起きている。過渡期にはやむを得ない」。
-カムチャツカでは民営化はどうです?
「ここでも分離がある。前はカムチャツカ漁業公団として一体の漁業だった。今は遠洋漁業基地、漁獲専門のトロール船団基地、それと冷凍船団基地の三つに分かれた。トロール船団基地としてのレーニン国営コルホーズは漁獲専門で、全ロシアで最大の規模だ。つぎのアクセスに移るだろう」。
ークォーターについてのあなたの発言権は?
「クォーターは国から企業に与えられるものだ。私たちにはない。われわれはクォーターを”リミット”というが、リミット以上は絶対獲らない。そのリミットを達成したら直ちに操業は止める」。
ー日本との漁業提携については?
「レーニン国営漁業コルホーズでは八百万ドルを投資し、日本の加工設備や冷凍庫を導入しようとしている。うまくいっている」。
ーカムチャツカ西海岸については?
「あっち側の漁業コンビナートはすべて老朽化しているので多くの投資が必要だが、移行しつつはある。日本の合弁企業に望みたいのは、日本側が原料魚を買うだけではなく、テクノロジーや設備をもたらして欲しい」。
-オホーツクやカムチャツカ東でロシアの核廃棄物の海洋投棄がありましたが?
「知らない。そのことについての情報は何もない。きみ知ってるか(シャキーヤン氏も首を横に振る)」。氏は真っ赤になったが本当に知らないようだ。
菜園はにぎわった。ワインとキュウリ魚の干物でパーティーになる。ダーチャでは一年分のトマト、ニンニク、ニンジンが育つ。
奥さんは「魚は商売柄、いちども買ったことがない」と福々しい顔でわらった。
ノーチェ氏は「カムチャツカはいい。自分たち家族もヨーロッパ・ロシアからきた。みんなそうだろう。いつまでもここに住みたい。ここは良いから移住してくる人がいるし・・・」。もう子供たちもここで結婚し、所帯をもって、ダーチャは毎週末は楽しい団欒の場になっている。
私が「あなたの生活はまるでブルジョアですね」というと、氏はワッハッハと愉快そうに大笑いしていた。
この一家の富裕さは、夫が通信士としてノーチェ氏と同じ職場で働いている旅行社のアーニアさんにとってもいささか驚きだったようだ。夕食の時、私は彼女に、「ロシアにこんな給料の差があるとは信じられない。あなたはそれを不思議に思わないか?」と聞いた。彼女のそれは四万ルーブルと聞いていた。
夜、空港に送ってくるまで、アーニアさんはその答えを考え探していたようだ。
「さっきの質問について考えたんですけど、私のように物を作らない仕事とか、ただ物を加工する仕事とは違って、人間の食べるものを採ってくる命がけの仕事です。魚は人工的には作れません。それを獲ってくるのは大事な仕事です。しかもノーチェさんはその最高の責任者ですから私はいいと思います。それでは答になりませんか?」。
いかにも、生真面目な答え方だった。私はその口元に見とれながら、ああ、この人は労働者の国で生まれ育った人なのだとあらためて思った。
盗品返る、ハバロフスク空港にて
あと、サハリンに行き、最後に北方領土へ渡る。そのために一旦、ハボハロフスクに深夜便で戻る。
機の窓そとは青い。残照のなかを機は西へ飛んでいく。大津氏もカメラと録音までをひとりでこなした。これ以降、通訳の村山敦子さんは札幌に帰り、休む間もなく北方領土からのロシア人島民の世話に当たるのだ。三人とも泥のように眠った。
ハバロフスク空港に着くと、まだ立ったまま眠りから覚めきれない私を待たせて、村山さんは「あのフィルムのことを聞いてこなくては」と空港事務所にむかつた。もう出ることはないと諦めていたが、撮影ずみフィルムだけは何にも替えがたい。乗降客は散り、無人になった空港ロビーに待っていると、「ありましたよ!」と村山さんが大きな声で、見覚えのある袋をふりふり事務所からでてきた。あとに年配の制服のオバサンがついて来る。私が歓喜して袋を改めると、二十本の新品フィルムの包みはないが、十九本の撮影ずみはそのまま無傷で揃っていた。
「どこにあったんだろう?」とオバサンを見ると、彼女はにこりともせず「飛行機のなかに落ちていました」。ではいいですね、といった顔で念を押し、踵をかえして去った。
ヒョッとしてテレビで「日本人が困っている。フィルムを”拾ったもの”は届けて欲しい」とでも放映したのだろうか。今もって分からない。ともあれ旅前半の写真はもどってきたのだ。
ささやかな後日談だが、翌日サハリンについて早速、具さんにカムチャツカ・インツーアへその旨電話してもらった。たまたま電話口にでたのはアーニアさんだった。「よかった!でも信じられない、今のロシアで!」と彼女は驚きとよろこびの声を放っていたという。
ロシアを見届ける人
この旅の冒頭、ウラジオストクで新潟経由でロケに来た、韓国テレビの大掛かりな取材スタッフに遭遇したことに触れた。私たちなら海外取材はまず四、五人なのに、かれらは十数人編成である。一九九〇年九月三十日、韓ソ国交樹立以来、盧泰愚大統領の北方政策のめざましさを、このロケの取材規模にも見た感じだった。
金錫裁氏との一週間は、氏自身の探求心もあって、第二次世界大戦時の極東からの強制移住の話や、そのウズベク系同胞の子孫、ソイ氏が北の果て、オホーツク村の首長に選ばれていることなどに感じいっているのを見ながら、私たちはユーラシアからオホーツク海にまたがり、広域で活躍する韓国・朝鮮人の存在感を知らされた。
とくにサハリンの韓国・朝鮮人四万人の数字は、北海道のアイヌの数を凌いでいるかもしれない。
金さんは青年時代、共産主義に心酔し、やがてソ連国籍を取り、ハバロフスクの鉄道大学電気科に進学した。学生結婚して中途退学したが、一貫してソ連人になりきったつもりで、年金受給年齢までエンジニアとして働いた。両親はソ連国籍に入らず、無国籍をえらんでサハリンで亡くなった。親は戦時中、炭鉱夫としてサハリンに移住し、帰る機会を失った。
ゴルバチョフ大統領以後、社会主義の崩壊の影響をまともに受けたのは年金生活者層である。蓄えたルーブルは消えた。しかし、氏はユジノサハリンスクとウラジオストクと二か所に、老後のための菜園を確保していたので助かった。”私の財産は野菜畑だ”。息子にサハリンの畑つきの家を与え、自分はウラジオストクに住み、その菜園収入で暮らしている。
「だから日本語通訳は道楽仕事」、面白くなければ畑いじりのほうがいいらしい。今、氏は意志的な自分の生活ができるのだ。
氏は自分の半生をふりかえり、私たちに語ってくれた。無論、かれは党員だったという。
「朝鮮人系ロシア人で入党を勧められるのは、自分のことを言うわけじゃないが、将来性があると見込まれた人間に限られていましたね。それでも朝鮮人は上級の幹部にはなれない。ソ連時代はずっと朝鮮同胞だけの組織は禁止されていたし、たとえ、それが民主的な集会であっても、KGBはそこでの発言にいつも注意していました。
一九六五年ごろ、中ソ国境紛争の頃、朝鮮民主主義人民共和国の代表がサハリンにきて、私たちに北の国籍を取るよう言ってきました。しかし、ここの朝鮮系の人は南半部(韓国)出身の人が多いんです。だが韓国の国籍は取れない。親も南出身ですから絶対に”無国籍”でいいという。また、北朝鮮の国籍を取っても、祖国に帰れるというわけじゃないしね。私は同じ社会主義のために働くなら、ここでソ連系朝鮮人として働いてもいいじゃないか、そんな気でしたね」。
金氏の一生はソ連人になりきろうとした人生だった。まだ六十歳代で余力はある。”このロシアがどこへ行くのか見届けよう”と腹を据えた感じだ。むろん日本人である私も見届けられる対象である。日本人はサハリン残留韓国・朝鮮人をどう遇するのかについても、だろう。
ふたたびサハリンにきて、具文鎬氏の出迎えをうける。通訳の村山さんはハバロフスクから札幌に帰り、今後は具さんだけが頼りだ。ユジノサハリンスクでは北方領土行きの手配は済んでいた。案ずるより産むは易し、旅行社「ドゥルーク」のお陰である。
具さんには、今回は漁業の調査のつもりだが、韓国・朝鮮人とニブヒには会わせてほしいと頼んでおいた。前回、いくらかの方への表敬訪問は済ませていた。たとえばサハリン教育大の朴寿鎬教授やサハリン在留韓国人問題担当キム・デンヒ氏らである。
サハリン残留韓国・朝鮮人の明暗
キム・デンヒ氏はサハリン州政府の一室に机を持ち、もっぱら日本政府との折衝や同胞への連絡実務を担当している方だ。話はこなれていた。
「日本国籍を持っていた朝鮮人は、強制連行された者を含め六万人いました。日本人は一九四六年から残らず帰国しました。次は自分たちと期待していましたが、一九五一年のサンフランシスコ講和条約で、”在サハリン朝鮮人は日本国民に非ず”と宣告され、みんないったん無国籍扱いになりました」。
キム氏は日本の責任を説明したあと、「韓国・朝鮮人の一世はもう二千人しか残っていません」と、その老齢化を指摘した。また、二、三十年前の一九六〇年代から七〇年代にかけてのソ連側の韓国・朝鮮人に対する不当な一連の処置にも触れた。
一九七七年、特に強く帰国を要請した同胞、四十人が逮捕され、行きたがらなかった北朝鮮に送られた。以後、消息不明のこの事件が、今なお問題にされている。サハリンの同胞向け機関紙「新高麗新聞」が問い合わせているが、北朝鮮からの返事がもらえない。家族はその消息を心待ちしているという。
具さんは「こういう話がいまあんたら日本人に言える時代になったんです。なかなか言えなかった・・・韓国人は永く、ロシア人からは日本人とおなじに”敵性国民”と見倣され、苛められてきたんです」と、あとでその差別の根は何かを説明した。
キム・デンヒ氏は「いまは日本政府に誠意を感じる」ともいう。
「現在、ロシアは民主化され韓国とも国交を樹立しましたが、その前の年(一九八九年)、日本政府の援助で四千五百人の在サハリン韓国人の里帰りが実現しました。しかし韓国にもう身寄りもいない、引取り手のない老人が”永住帰国”の形で養老院に入っている・・・。(具さんの解説「カソリック系の世話で入っているんで、酒もタバコも飲めない。堅苦しいって、また、サハリンに帰りたがってるものもいる」)
現在、永住帰国を求める者は私の手元に一万三千四百人十名の名簿がきています。昨・九二年十二月、サハリンの韓国人老人会代表のふたりが残留の補償を求めて日本に行きました。半年たったのですがまだ応答はありません。しかし、私の言いたいのは日本政府に感謝しているということです。それがなければここまで来なかった・・・」。
キム・デンヒ氏は日本語が分かるが、終始、朝鮮語を遣っていた。私の質問はそのまま通じたし、具さんの私たちへの解説も分かっていた。
永住帰国談はほかでも聞いていた。前回、ユジノサハリンスクにきた時、通訳の村山さんの親しい韓国人夫妻をそのアパートに訪ねた。
ご主人は漁業関係、長男は原子力専門家でチェルノブイリに勤務(事故の時は病気療養中で居なかった)という。その夫人が「新高麗新聞」の記者だった。
この韓国語新聞はペレストロイカまでは「レーニンの道」という新聞名だった。最近は紙代が高騰したので、週五回から一回刊になったという。
この所、紙面は「永住帰国」の問題ばかりだという。夫人は年配から察して、戦中生まれの世代らしい。
「第二次世界大戦中に単身で連行された男たちには再婚者が多かった。帰れなかった歳月の間に、サハリンで再婚し、所帯を持ったのだ。故郷に残された妻たちは再婚を嫌う韓国の習慣からズーっと独身を守ってきた。これが行き違いのもと、やっと再会できたが、もうお互いに老けてしまっている。サハリンの妻と別れて故郷にかえっても、もうむかしは取り戻せない。だからといって別れたサハリンの妻のもとにオメオメとは帰れない。この悲劇をどう考えたらいいか、です」。
儒教の国である。その倫理観に忠実なひとびとゆえに悲劇は深いのだ。
「韓国」発見
具さんは在サハリン韓国・朝鮮人自身の”韓国観”が一気に変わったのは、一九八八年ソウル・オリンピックの時だという。
「ソウル・オリンピックまでは、ソ連のテレビは韓国のことをあまり報道しなかった。韓国のことが出てもスラムや浮浪者がソウルにいっぱい、ひと握りの金持ちだけがいい目を見てる、民衆の反対運動でいつも国じゅう内乱みたい、学生のデモの火炎瓶や催涙ガスばっかりしか映さない。ロス・オリンピックの幕切れで”次のオリンピックはソウルで”といった時は、私らも韓国でそんな立派なことが出来るんかと心配したんです。それが見事に出来た。テレビに寄りついて見ましたよ、ソウルを。開催が近くなった頃、韓国に親類がいるから、招待されたらいって見たいと皆思ってましたよ。ところがサハリンからソウル・オリンピックに行けた同胞はたった二人、それもひとりは医者、もうひとりは通訳のふたりっきゃいけなかった。
サハリンからもオリンピック選手としてソウルに出場したロシアの連中がいたんです。びっくり仰天して帰ってきた。ソウルは近代化されているし、品物は豊富だし、ロッテデパートなんか見て”これはどこの国だ”と驚いた。それからです、ここの人も韓国人を見直すようになったのは。私らもあれから自信を持ったんです」。
いまユジノサハリンスクに韓国のカソリックが来て、その礼拝所が建った。信者が増え、あと一か所、市内に教会の建設が進められているという。
「若ものたちは珍しいから、結構いってますよ。ロシア語しか分からないものが殆どだから、韓国から来た牧師さんの説教を端からロシア語に通訳して」。具さんはゲラゲラ笑った。
野菜で作った存在感
ユジノサハリンスクの自由市場で野菜を売っているのは韓国・朝鮮人ばかりだ。キムチなどはロシア人も好むようになったのか買っていく。肌寒い初夏とはいえビニール栽培で作ったカブや葱、人参やタマネギが出回っている。売り手のオバサンは日本語で「チヨット食べてみて。美味しいから」とキムチの鉢を指して勧める。味はまさに本場ものである。これらはすべて自家栽培の白菜で作ったものだ。
個人所有を許された六百平方メートルの敷地に畑を作り、営々と野菜作りに励んだ。今、韓国・朝鮮人はサハリン野菜市場を独占している。具さん日く、ここまでが大変だった。
「ゴルバチョフ大統領があの有名なウラジオストク演説の中で、韓国人の野菜作りをほめたんですよ。”韓国系ロシア人は極東の野菜の生産に貢献した”とね。トマトはまったく韓国人の一手にあったんです。それまでは”闇屋”と言われ、市場の値段は州政府から押さえられるし苦労させられた。”個人で作った物を自分で値をつけてどこが悪い”と反抗しても”無駄な抵抗”。
高く売れば警察に密告されるので、安く売った。私も勤め仕事の余暇には、スコップや鍬で庭を耕して野菜を作ったんです。土日なしに働いた。だから生活は韓国人のほうがズーっと良かった。闇商売で儲けているといってロシア人に嫌われながらね。今はもう、だれも文句言わない」。
祖国へのあこがれ
若い韓国・朝鮮人の姿は、ユジノサハリンスクの大学キャンパスでもデパートでも見掛ける。はや三世の登場している時代になった。韓国・朝鮮系は勉強好きで勤勉と定評があるという。
デパートは韓国製品ブームである。電化製品は圧倒的に韓国製である。”日本ものは高すぎてサハリンには合わない”。ソニーやナショナルもあるが、十年ほど前の旧型の、いわば新中古しか並んでいない。現代的なデザインの韓国製オーディオ、テレビが売り場の目玉商品扱いだ。もはやこの韓国像は、サハリンでは不動の地歩を占めている。
サハリン在留韓国人問題担当キム・デンヒ氏の話に戻るが、氏の挙げた数字は正確であろう。在サハリン韓国・朝鮮人四万のうち、生き残った一世は二千人、里帰り希望者四千五百人という数字は分かる。が、「韓国への永住帰国希望者一万三千四百八十名」となると、総数の三分の一に当たる。それは二世三世まで含めた移住希望者数であろう。
韓国への移住はロシアへの別離でもある。
茫々五十年、日本の戦後責任はここにも飛び火している。サハリンの残留韓国・朝鮮人問題にはソ連側の責任もあろう。なによりかれらの帰国によりサハリンが労働力不足に陥ること、さらには北朝鮮への思惑もあったろう。たとえソ連国籍を取ろうと、実質的にはロシアから疎外され、無国籍であった。だが、その根底の歴史はもはや動かせない。
キム・デンヒ氏の冒頭の言葉の意味、もし韓国・朝鮮人がかつて日本皇民とされなかったら、サハリンには来ていない。日本皇民として強制連行されたという氏の”大括弧“は外せないのだ。もし日本人がこの歴史的事実を忘れてサハリンに行ったら、それは恥ずかしいだけでは済まない。頭から韓国・朝鮮人たちと話が合わないし、無知を笑われるだけだ。
サハリン教育大の経済学者、知日派の朴寿鎬教授はサハリン州知事選に出たこともあり、韓国・朝鮮人の社会的地位の高さを知らしめた人物である。氏の話を聞いた。
「三年前の知事選の時に、その予備選の第一回投票では僕がトップで勝った。有名なフョードロフ氏と僕が立候補した。候補十一人中、彼と二人が残ったもんだから、ロシア人がびっくりしたの。韓国人がもし知事になったら大変だと騒いだもんです」。
自らいうように韓国・朝鮮人の名物的存在であり、独特なアジテーションを発信される。言葉は北海道なまりの日本語だ。話はやや大ぶろしきな点もないでもないが、そのさわりを紹介しよう。
「日本海には日本と韓国・北朝鮮・中国、それからロシアと五つの国がありますね。その代表は韓国人じゃないですか。韓国人はロシアの国にも住んでるし、日本にも中国の東北部にもいる、もちろん、北朝鮮にも。東アジア・極東を繋ぐことのできる唯一の民族は韓国民族なんです。だから僕はゴルバチョフの”ヨーロッパの家”構想みたいな、何とかしてそれぞれの政府を動かして”一つの家”にしましょうという運動をしているんです。
僕はちょっと前に、『サハリンに住んでいる韓国人の歴史』という本を書いた。
一八六二年にここに韓国人が入ってきた。その当時を研究してみた本です。韓国人は、はじめはサハリンの炭坑の石炭掘りの人夫として入ってきたんです。当時の船は全部石炭を焚いて走ったでしょ。サハリンにロシア船が入ってきて石炭を積まなきゃならないけれど、その石炭を掘る人がいなかった。そこで中国人と韓国人を大陸から連れてきた。サハリンは当時、ロシアの領土でしたけれども、日本人だけじゃなく韓国人も自由に出入りすることができた。その時にまで立ち帰って見ると、オホーツク海は全然平和な海なのね。それがいつから領土争いの海になったのかだ。
また面白いのはね。ここはもともとアイヌの土地でしょ。ここに攻め入ったのは豪古人です、一二七〇年ですよ。その時にアイヌと蒙古人との戦いがあった。で、一番最初にサハリンの地図を作ったのも中国人です。だから僕が言いたいのは、オホーツク海の歴史を見てほしい。”ここは自分の領土だ”というのは歴史を知らない人たちのいうことです。その時代のオホーツク海を見落としたら駄目だ。韓国人も重要な要素だったの。そういう新しい史観で考えれば、見方も全然変わってくる。ハハハ」。
なるほど、教授は韓国語を母国語とし、ロシア語と日本語を自由に駆使する人物なのだ。その三か国語に親しんだ人材がサハリンには数千人もいる。さて日本には何人いるだろうか。虐げられた歴史的逆境のなかから得たものを、いまこそここで逆転して生かして見せるといった民族の朗々たる歌を聞いているようだ。
ミスター・コン(権)
『本当に夜あけだろうか』と題して、国後島で活動を開始した実業家コン(権)・エング氏に寄せる「クリルプレス」(前出)のルポがある。「クリルにも希望の光が見えてきた。われわれクリル人(北方四島住民)は何度ロシア政府に、省に、極東の政治屋に騙されてきたことか。・・・いま実行力抜群のビジネスマンとして著名なコン氏が来島する」と、国後島の漁業コンビナート再建策をもって乗り込んで来る同氏に嘱望の辞を呈していた。この新聞ではめったにないトーンである。「台頭する韓国系マフィア、コン氏」という日本の記事もでたことがあった。
コン氏はサハリン残留者の二世であり、四十一歳の若さでサハリンにいくつもの日ロ・韓ロ、米ロの合弁企業を作り、水産加工場、機械修理工場、運送、建築から、百貨店風の点舗数点やレストラン「ソウル」までを経営している。総数千人余の従業員を抱えるコペラチーフ(協同組合)「ブレーミア」の会長、その氏の動向を注目する日本財界人も少くないという。
コン氏自身が「エリツィン大統領訪日の際は臨行を頼まれている」というほどロシア中央にも知られているようだ。
氏は”事業内容については質問しない”という条件で時間を割いてくれた。合弁のその組み方でも分かるように、サハリン出身の韓国人の”強み”を発揮し、韓国、日本、米国と合弁し、ロシア・サハリンを軸にいわば多国籍的な事業展開をしている。今回はその興味は後にして、氏の考えの基本を聞いた。
「私の親の世代は強制連行もあった。また、自分の意思ですすんでここに来た人(韓国・朝鮮人)もいる。ですが私はロシアで生まれた。ロシアが私の祖国です。
私の親も強制連行された韓国人一世です。親は死ぬまで故郷に帰りたがったから、日本にはげしい反感や恨みがありました。しかし、私には日本にたいして反感も恨みもありません。私の世代の同胞も恐らくそうでしょう。その証拠にこの協同組合『ブレーミア』は日本との間に二つの合弁企業を作っています。
私は韓民族だが、ロシアの愛国者になろうと考え、行動しているつもりです。ロシアが立派な国になるために尽そう、そう思っています。私の企業には韓国・朝鮮人も働いているが、その大部分はロシア人たちです。本来、私はロシアに反感を抱いて当然の人間です。このサハリンでは朝鮮人は何かと民族差別を受けた、その悪しき過去を思えば復讐したくもなります。が、それは自ら打ち消しました。朝鮮系従業員とロシア人の彼等との間に何の差別もありません。
それから、今も帰れない、強制連行された同胞には援助をしています。一世だけでなく、二世や三世にもです。で、現在、韓国文化センターや学校、幼稚園をつくりました。私は韓国人としての人脈を生かして韓ロの合弁企業も作りました。ロシア語を韓国人に修得させたい。韓国にいる甥にもロシア語を習う学費を送っています」。
コン氏は決して雄弁ではないが、相手を真っ直ぐに見て話をするから、一語一句が伝わってくる。ロシアの愛国者とは氏の場合、サハリンの愛郷者に聞こえる。ここサハリン、オホーツクにしっかとその基軸を据えている。その視点からの北方領土問題と、それに関連する経済交流の話は傾聴に値した。
「今年の秋、エリツィンの訪日が実現したら私も同行して日本に行きますが、北方四島問題では、私の考えは大統領とは違います。私は”北方四島は日本に帰すべきではない”と考えています。
日露戦争では日本はサハリンを得た。世界大戦では日本は千島列島を失う。それが戦争というものでしょう。敗戦国がなんらかの賠償金を払わなければならないのが当り前です。南クリル諸島はその賠償と考えなければならないと思います。
次に、日ロ交流は必至の事実です。領土問題は政治家に任せるとしても、クリルは開発をしなければ生きていけません。第一に、日本の技術、テクノロジーの導入です。すでに『ブレーミア』には日本の技術者を雇っています。第二は自助努力です。なにかと日本に寄りかかる人がいるのは残念です。私は二隻の日本漁船を買い、日本人の船長と漁労長を雇いました。安全航海のため日本のフルノ自動操縦器を装備して、その操作のできるように、今、ロシア人を養成しています。しかし日本から得たいいくつかの先端技術はまだ日本側が出さない。日本政府が妨害するので実現しないのだと見ています。これは長い眼でみれば、決して日本の利益にはならないでしょう」。
私は氏の暗示に掛かったように頷いていた。コン氏の無表情な顔も次第に和らいできた。そして「国後のユジノクリリスクは物がないが食べ物はどう工面する?」とたずねた。「いやあ」とか「何とかなるでしょう」と返答に窮していると、「島に『ブレーミア』の支店がある。そこから食料を分けてもらって自炊したらどうか」と早速電話を申し込んだ。その気遣いに感謝した。部屋を出ると、求人募集に応じ、面接を待つロシア人が二十名ほど列を作っていた。
私が具さんに「次はあの人を撮る」というと、「仏頂面だから撮って、面白いかなあ」。
ニブヒの頼るアイヌ漁民
オホーツク海の主題のなかに、先住民のコルホーズがあれば是非映画に縫い込みたいと思っている。しかし、アムール川河口でもカムチャツカでも、その入り口すら見えない。旅の半ばから、この点と点の調査では駄目だ、あらためて出直すしかないとホゾを噛んだ。
ロシア人自身が先住民と繋がっていない。だから聞いても何も返って来ないのだ。それが極東の先住民の置かれている現状なのであろう。
日本人では北大の田中了講師が現地調査をされている。
同講師によればニブヒに十万ヘクタールの土地について先住民の権利を認める「土地譲渡決定書」の協定が州政府と先住民問題を扱う少数民族委員会の間で結ばれた(九一・一一・一五、朝日新聞)とある。土地と自治権はどうなっているのか。
サハリン州政府の一室に、サハリン在留韓国人問題担当キム・デンヒ氏の机と並んで、少数民族専用の机がある。そこにニブヒ問題の専従者のニブヒ女性が常時執務している。
小企業「アボリゲン・サハリーナ」女性社長、クルミャン・リュボーヴィ女史が会ってくれた。となりの机に州政府北方民族部のスベトラーナ女史が陪席、サハリン・ラジオのロシア人女性記者ライグンさんも私たちを取材するため同席した。
「アボリゲン・サハリーナ」はニブヒのお土産品とか民芸品を作って売る”民族企業所”という。工房とお店を兼ねた、文字通りの小企業がスタートして、まだ日も浅いようだ。リュボーヴィ女史が「ところであなたは、ロシアにいる少数民族に会ったことがありますか」と聞く。映画『シベリア人の世界』で取材したことのある、「ブリアート人とヤクーチャ人・・」とその名を挙げると、彼女は言下に「彼等は民族の単位で共和国を形成している大民族です。少数民族は小さな部族です。やはりご存じないですね?」
リュボーヴィ女史は多分三十歳代、高等教育を受けた方らしい。知的で思慮深いものの言い方をする。だがニブヒ固有の用語がでる。さすがの具さんもその民族用語には手を焼き、「この通訳はうまくいかない」と慎重だ。ここでは肝心なことの紹介にとどめたい。
「『アボリゲン・サハリーナ』は全少数民族が参加している企業ですが、まだ形は成していません。計画はいろいろありますけど。その事業は漁業、狩猟、ミンクの飼育などです。少数民族の中の主なひとびと、大家族を擁している四十八の漁業家族集団も将来この企業に入ってくる予定です。
サハリンに住んでいる少数民族はニブヒ、オロッコ、エベンキ、ナナイですが、もともとの原住民はニブヒだけです。エベンキ、オロッコは十九世紀の中ごろに大陸から入ってきたんです。主にトナカイの飼育をやっていますが。
ニブヒ人はもっぱら漁業です、あとはわずかの猟をやっています。もとはサハリン全体に分散して暮らしていましたが、いまはかたまって暮らしています。
オハ地域付近の先住民は総数千三百七人、東海岸のノーブリカ地区にニブヒとオロッコが八百八十八人、テームス地区にニブヒ二百三十七人、アレキサンドルスク地区にはニブヒとエベンキが二百二十八人、ポロナイスク(旧敷香)にはニブヒ、ウイル夕、ナナイが混じって四百八十人、このユジノサハリンスクの町中には百六十人人しか住んでいません。大抵、川のある海辺に住んでいます」。
ー少数民族のテリトリーを作る動きがあると聞きますが?
「オハ地域(最北端)は古くから少数民族の漁や狩猟のテリトリーだったので、その利用権を復活したいということです。オハ市議会で討議の上、決定されましたが、政治的な意味ではなく、そのテリトリーでは少数民族にそこの利用権が優先的にあることが確認された、ということです」。
リュボーヴィ女史の挙げた数字の総計は三千三百人ほどである。彼女の説明ではテリトリーとは伝統的な生活を復活することを認めたエリアであって、少数民族の領土とか自治区の”意味ではない”という所に念を押す。それなら、なぜ「まだ完全な自治はない」と明言しないのか。それはアイマイ問答になっていく。
-漁業と狩猟についてはどんなですか?鉄砲は所持していますか?
「冬に狩猟をやります。テン、キツネ、熊。熊は十頭から十五頭のリミットですが、三頭とか五頭くらいしか獲れません。鉄砲が自由ではないので大量に獲っていません。・・・将来は外国人の観光客向けにも熊を獲らせるようになりますでしょう」。
ー観光用熊狩り?鉄砲が自由でないというと、禁止されたんですか?
「お父さんやおじいさんの時代には狩猟のために鉄砲はあったんですが、長い間、森での猟はしなかったし、最近は町の生活をしていますから、”禁じられた”というわけではなく、鉄砲を使わなくなったんです」。
狩猟民が鉄砲を手放すことがあるのだろうか。では罠か何かで熊を獲るのか。その質問は続かなかった。この話をリュボーヴィ女史は避けようとしたからだ。ソ連・ロシアがニブヒに鉄砲の所持をカムチャツカの州都へ禁じたことがかつってあったと察せられる。
ニブヒ語の存続について聞いたときも、すぐには答が出て来なかった。
私が、日本ではアイヌ語の使用を禁じた、その結果、アイヌがアイヌ語を話せなくなった。いま古老の言葉を残す努力がされている。「日本ではそのようですが、ニブヒではどうですか」と聞いた。
リュボーヴィ女史は答えた
「ロシアでもそうでした。一九六〇年代に少数民族の言葉は遣わせなくしました。ニブヒ語を知っている人は、日本と同様に、老人ばかりです。しっかり覚えているのは一九一五年生まれか、それ以前生まれの人ばかりです。(「では八十歳以上の方たちで?」)。ええ。
ゴルバチョフの頃からニブヒ語の復活に努力するようになり、ニブヒの学者たちがニブヒ語の教科書を作りましたし、現在、ネクラソフカという村で生徒や幼稚園の子供たちにニブヒ語を教えています。ニブヒ語の童話の本も出版されています。いまではニブヒの新聞もでるようになりました」。
その新聞の創刊号が差し出された。ロシア文字でニブヒ語を音読みで綴って印刷されたものだ。具さんも、「全く一語も見当がつかない」という。ロシア人の読めない新聞、ニブヒ語だけの新聞らしい。それは少数民族の誇りと意地の表現のように見える。
漁業についての話は”計画”ばかりが語られた。現状はささやかなものだった。かつては川岸でサケ・マスが採れたが、最近は資源が減ったので、海に出て定置網を張っているという。
-サケ・マスは市場に出していますか、自家消費ですか?
「今、少数民族には年間一人当たり百キロは自家消費が認められています(具さんは「私たち一般人は、一匹獲つても罰金なんです」と解説する)。
獲ったサケ・マスはナマで町の店に出しています。獲れ過ぎたときは、塩蔵にしたり、嬬製にしたり、吊して干したりします(具さん「クサヤの干物かなあ?」)。
-少数民族としての魚のクォーターはどのくらいですか?
「国からのクォーターは三百トンあるんですが、それが消化しきれません。いま準備中です。ところで、『ウタリ共同株式会社』の社長”シイクさん”をご存じですか?アイヌの方です。網やいろいろなことを助けてもらっています」。
アイヌのシイクさん・椎久忠市氏のこと
その後、話はアイヌとの交流に及ぶにつれ、さらに”シイクさん”の名前が出てくる。
「去年から北海道のアイヌの人とも交流しています。今年、帯広での”アイヌの芸術の会”に、私たちのアンサンブル(歌舞団か)も招かれたんです。スポンサーとして旅費を援助してくれました。
『アボリゲン・サハリーナ』では、今後も『ウタリ共同』のシイクさんと共同事業を検討中です」。
このニブヒにとっては恩人のように語られるシイクさんとはだれか。この時はよく分からなかったが、むしろ幸いだった。シイクさんは密漁の罪で有罪とされていた方だった。
これはニブヒとは一見、無関係だが、オホーツク海の物語には関係がありそうだ。「ウタリ共同事件」は北海道では良く知られた密漁(道海面漁業規則違反)事件である。起訴され、裁判になってテレビの番組でも取り上げられた。その罪を問われた椎久忠市氏がニブヒの人たちに頼りにされている、「ウタリ共同株式会社」の”シイクさん”であった。氏は社名にアイヌ語を掲げ、アイヌと名乗って、ニブヒに肩入れしているのだ。
八九年秋、日ソ合弁の「ウタリ共同」の船が色丹島沖で、毛ガニ、花咲ガニ六トンを採った。この船はソ連漁業省の許可証も持っており、さらにソ連監督官も乗ってその監督下に、色丹島沖、すなわちロシアの水域内で操業していた。道当局、検察は”道知事の許可も受けずに獲った”越境密漁事件として告発した。
これに類する事件が二十五年ほど前にあった。いわゆる「北島丸事件」である。北島丸が「道知事の許可なく」北方領土水域で操業した。これを道規則違反、密漁として有罪とした事件である。これは最高裁でも支持された(七一年)。
だが今度の椎久忠市氏の場合、日ソ合弁でロシアの漁業省の許可も取ったカニ漁である点で、全然違った。
「裁判の最大の争点は、北方領土海域での日ソ合弁事業を、道規則で処罰できるかどうか。それが争われた事件である」(九一年二月十五日、一審判決の目、朝日新聞)。
釧路地裁は椎久忠市被告に懲役五月、執行猶予三年の有罪の判決を下した。
この判決の矛盾は新聞、テレビでも再々指摘された。「日本は主権が北方四島に及ぶといい、ロシアは領海だとする。その二重の水域だからこそ話がねじれたのだ」といわれた。
判決は、その根本命題を避け、複雑な論理を展開した。その詳細は省くが、私には、日ロ合弁下のこのカニ漁が、”ソ連側では問題ゼロ、日本側では密漁”、そのいずれかを問われた事例に思える。
「北方領土水域では今日でも、道規則すなわち日本の法が、適用されるのだ」、と言い切ったほうがスッキリと分かりいい。しかし、現実には、北方四島はロシア、サハリン州の実効支配の下にある以上、ソ連当局のライセンスがあれば、普通にやられている操業である。「日ソ合弁漁業とは、この野郎、ウマイところに眼をつけたな。頭のいいヤツだ」。根室・道東の漁民ならそれ以上は問わない事件だった。
やはりニブヒは本音は言いにくかった
話はニブヒとの対話の場に戻る。私たちは椎久忠市氏の名前も、この事件も知らないでよかった。もし知っていたら、リュボーヴィ女史たちに”シイクさん”のこの事件を口走ったかもしれない。ニブヒの有力な協力者、兄とも慕う”シイクさん”が「密漁者として有罪を受けた」と、その衝撃だけがニブヒの人々に残ったら・・・、それを思うとゾッとするのだ。なぜ”シイクさん”が有罪か。それはどう話しても彼等には理解できないだろう。
最後に、私の方がインタビューを受けた。サハリン・ラジオの女性記者ライグンさんはマイクを向けながら「貴方はサハリンのことを知り尽くしていながら、知らないふりしているんじゃないですか?」と聞く。答えようが無くて黙っていた。その次がふるっている。「今ユジノサハリンスクでは”サハリンのことは日本のテレビ人に聞け”というジョークがあります」。これには笑えて、ふき出した。「ニブヒと会ったご感想は?」というので、私がつい「ニブヒにはきっと、長く耐えた苦しい苦しい歴史があったと推察しました」というと、ニブヒの女性らの眼は光り、隠しごとがばれた悪戯っ子のような表情が走った。彼女らにはこのロシア人女性記者の前では言えないことが山ほどあったのだ。やはり、また出直さなければならない。
リュボーヴィ女史たちはオホーツクの映画に協力的だった。
「来年はマスの不漁年だから、本当は、今年撮るのが一番いいのだけれど」。彼女たちに聞きにくい話を聞いて済まなかった気持が、この言葉でやや癒された思いだった。