書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 オホーツク編 北方四島への航路
択捉島への二泊の船旅
一九九三年六月二日、私たちの旅は終盤に入った。コルサコフ(旧・大泊)から択捉島に渡る。
私の興味は北方四島からはじまって、オホーツク海域に広がったのだが、今回の旅では外延のオホーツク一周を経てから焦点の島々に接近する逆のコースを採った。理由は北方四島から聞こえる困窮や絶望の声が、その背景にあるオホーツク沿岸にもあるのではないか、四島だけがとくに酷いとは思えなかったからだ。
しかしあきらかにちがうのは、極東各州には北方四島の抱える領土問題がないことだ。カムチャツカは国営漁業の”王国”であった。サハリンにはネベリスクのウニ採りに見る合弁”戦国時代”の自在さが見られた。だが、北方四島の漁業は日本との合弁が抑止され、経済交流の手足は縛られている。島々は非常事態宣言をするまでに逼迫している。
朝、ユジノサハリンスクでしこたま買い込んだ罐詰や韓国製ラーメンから寝酒用のウオトカをかかえて、出港地コルサコフまで具さんの甥のランドクルーザーで一気につっ走った。
島への入域許可証はすでに入手済みだ。ただし、船の運行は天候によるし、島への上陸の可否はその時の波風次第という。まさにゆきあたりばったり風まかせの船路である。
コルサコフの船舶公団の切符売り場で色丹島、国後島、択捉島そしてサハリンに帰る巡回切符を買った。船中、五泊で四人部屋ベッドつきで運賃一人、六千八百ルーブル、円にして千円に満たない。「国営船舶公団」経営時代の名残りか、補給金で低額に押さえている。とても独立採算制でまかなえる運賃ではない。ただし色丹島は燃料不足のためか、島外者の上陸を一時的に禁じているという。
海洋型客船マリアナ・サヴェーナ号(ポーランド・、グダニスク製)で択捉島まで二泊の船旅が始まった。甲板でポケットラジオのダイアルを回すと、北海道のローカルは締麗に入る。”すべて世はこともなし“といった調子のお喋りジョッキーが流れてくる。
”運賃天国ロシア”だ。その船内食堂の食事代も安かった。一食百円相当である。
具さんは食事中も島に行ったときのツテ探しをしている。気ままに振る舞いたいから、島の行政部に斡旋を頼んだらあとで引っ込みがつかない。
具さんは相手の人相を見て声をかけ、宿泊さきの打診をする。一方、漁業コルホーズの現業者がいれば見学のOKを取る。このやり方で国後、択捉島の宿のメドはついたのだから恐れ入った。口約束だが、その通りに進行していくのが不思議である。
イルクーツクから国後島へ単身赴任の地質学者ボリス・ガッツ氏は空港拡張の地質調査に島にきた人だが、個人で「トルード」という会社を作った。旅行業務も定款にかいてあるから、島での準備はまかせろという。その通り、国後島では氏に民宿そのほかの世話になった。さらに国後島ゴロブニノ(泊)のテングサ採り企業の社長とも見学の約束を取り付けた。船中で交渉が進んでいく。あとはなんとか色丹島に上陸できればいいが。
色丹島には極東一の罐詰コンビナートがある。幾度も触れてきたように、ここを見ずして北方四島の漁業は語れないほど重要と考えてきた。具さんのはたらきに一縷の希望を託すほかはなかった。
色丹島沖から択捉島へ
一夜が明けた。色丹島は海霧のなかにある、沖に投錨したマリアナ・サヴェーナ号にハシケが来る。マロクリリスク(旧斜古丹)は絶壁の岬に固まれ、船上からは見えない。
具さんは島の国境警備隊の隊長と交渉するが、頑として撥ねつけられる。入域許可証はあるが、その上陸可否は国境警備隊の隊長の判断次第だ。粘ったすえ断念せざるをえなかった。
色丹島民と警備隊の交替要員ら数十名が下船し、野菜や鶏卵、雑貨がハシケで運ばれる。
湾内に中型船以上の船の埠頭がない。五千トン級の客船のタラップが波浪に大きく上下する。船員がひょいと赤ん坊を母親から預かる。気弱な女性たちは必死に手摺の綱を握ってステップを踏む。声を殺したようにひとびとは静かだ。カモメの声しかない。
択捉島にむかつてさらに一泊の船旅である。船客が酒瓶を手に訪ねてくる。
そのひとり、択捉のクリリスク(旧紗那) の芸術学校の校長パウエル・グシェンコ氏はビザなし渡航で東京まで行った帰りだ。友人の地区検事と連れだって話し込む。
雑談しきりのあと、グシェンコ校長は「東京の印象を申していいか?」とあらたまる。
「悪く思わないで下さい。東京の海岸は全部コンクリートで隙間もありません。せっかく海があるのに息が詰まりませんか?。街には緑が少ないし。僕の考えでは大都会でも木はもっとあった方がいい。土本さん、東京は僕には住みづらい街だと思いました」。
「戦争の直後の東京は三百五十万人でした。そのくらいが丁度よいのかも」と私。
そのうちに「日本の子供たちの進学競争には驚いた。ロシアと違って学費のない子供は成績が良くても大学に進めないと聞いたが本当ですか」と確かめる。これにもろくな返事ができない。
「ロシアでは優秀な才能は大事にする。択捉島からもモスクワ大学に行けます」。
校長は二十年まえに要請に応えて択捉島に始めて赴任した当時を回想した。
「僕は海岸に出迎えた数百人もの子供にびっくりしました。なぜ、こんな人間の住めそうもない島に子供がいるのか?クリルというところは”人間なんか住まない国だ”と思っていたんです」。
いま生徒数六百人、旧共産党施設をそっくり学校にした。それでも収容しきれないで、目下、二部制授業を余儀なくされているという。「貧乏人の子沢山って諺が日本にはある」と言い掛けたが、翻訳がむずかしそうでやめた。
校長は無類の話し好きだった。「日本人の元島民にはこころから同情します。しかし僕らも島が好きです。自然がないと生きられない」と乾杯を繰り返し、氏の”エトロフよいとこ節”がつづいた。
また一夜あけ、やっと霧雨にけむる択捉島に着いた。紗那が島の行政所在地だ。
島の玄関にあたるキトウエの湾口に、坐礁した赤錆の大型トロール船が航行の妨げになっている。港内に小型漁船が数隻ある。どれにも日本製のカニ籠を積んである。
グシェンコ氏は乗合いバスからホテルまで付き合い、よく締まらない部屋の鍵の回し方のコツまで教えてから家路に向かった。ホテルは日本人の場合は二十五ドル、ロシア人の場合は五ドル以下らしい。
択捉島の総人口は軍人を除き一万六百人と言われる。太平洋側には真珠湾攻撃の基地であったヒトカップ湾があり、そして旧天寧には軍事空港があり、約六千五百人(九一年)の軍人や家族の団地村ゴルニーがある。北のオホーツク側は漁業、漁民の町と集落である。
島の行政部にまず表敬訪問する。数日後に北海道からビザなし交流訪問団がくるという。副町長オルゾン氏は「取材を禁止するものは何もありません。ゆっくり漁業を見ていって下さい。漁協はレイドボ(旧別飛)がいいでしょう」という。淡白な挨拶だった。
町には日本時代の郵便局や石垣、野仏などが目につく。
丘に上がって町全景から河口まで眺める。紗那川の河口は自然の浜のままだ。港も岸壁も漁業施設もない。川へのサケ・マスの遡上がなにより優先されている。河口から二キロ以内には浜を残し、魚道を自然のまま保っているのだ。
川の両岸に人家がある。その裏手の川ではあと十日もすればカラフトマスが盛り上がるような勢いで遡上する。極東最大の旧国営ふ化場は一キロさきの川上にある。
旧国営新聞「赤い灯台」
ここにも島の国営新聞「赤い灯台」社がある。前触れなしに立ち寄ったが、編集長は日本人には慣れている。国からの経費の援助はなくなり、彼は孤軍奮闘しているらしかった。もう年金の受給資格年齢に達したゲンナージー ・シーモノフ編集長は私たち半白の髪の三人を見て、「これはこれは・・・まるで老人クラブですな」と愉快そうだ。氏の職業柄から島の漁業には精しい。
「クリルでは去年は漁業は混乱して漁獲は不振でした。燃料の点ではここは沿岸漁業専門で、遠洋へいきませんからそう響きません。漁業組織が島中変わったんです。ここの漁業コルホーズはサハリンのネベリスクにあった国営漁業コルホーズの一支部だったんです。その本体が再編成で系統別にバラバラになった。で、こちらも漁業支部が分かれて小さな漁業協同組合やら、株式会社になり、混乱したから結局、漁獲にも響きました。
いままではサケ・マスを獲ったら、サハリンや沿海州やカムチャツカの加工船がそれをみな引き取ったんです。ここで獲るマス二万一千トンのうち一万五千トンは罐詰加工母船へ、あとの六千トンはここで塩蔵してましたが、塩漬けマスはもう誰も買わなくなった。じゃ冷凍庫で冷凍魚にしようと資金をためて、いざ買おうとしたらインフレでコストは上がる、一方ルーブルの価値も下がってしまっている。困ったもんです」。
ー根室の花咲港にはカニ船がはいりますが、ここで獲って送ってますか?
「日本人はそれの話題が好きですね。その話に関連するんですが、オーストラリアから人が来て、”タラバガニは東京の市場で一匹百ドルから百五十ドルもする。択捉島から直接東京へ持っていけばいいのに”って言うんだ。それは全く無理。
カニの鮮度を東京まで保つには空輸です。が、ここの飛行場への道は悪くて時間は食うし、第一、エア便が少ないし、曇ったらもう飛ばないし。カニは死んでしまいますよ。ここはそういう辺鄙なところなんです。だから船での活きガニ輸出しかできません。ウニもそうです。だから最短距離の根室に活かして運んでいるんです」。
ーその輸出で実際に島の経済全体はよくなりましたか?
「いや、良くなったのは日本でしょ。私は日本の銀行のロシア人の預金が増えるだけと思ってます。ロシアは資本主義制度に移行している途上で、じつに野蛮な資本主義なんです。カニ、ウニの利益から島に一定の税金が入ることになっているが、ほんの一部。大部分は野蛮なビジネスマンのポケットに入ってしまう。その脱税分の金はほとんど日本の銀行に預金していたんです。
捕まったビジネスマンは外貨法違反で牢屋に入れられたが、そういう人は一人だけ、他の連中はもっと賢く立ち回っています。島の経済は一向に潤ってはいません。」
ー日本人の敗戦後と同じ状況ですね。私の年齢だと理解できます。なんとか食べられるようになるには十年かかりました。ロシアはどのくらいでと思いますか?
「私の知っている限りでは、日本の戦後の経済復旧にはアメリカの援助があった。それで日本は助かったはずです。・・・私の考えでは、私が生きている間にはロシアの経済は復旧されないと思っています。私はもうすぐ五十五歳になります(苦笑)・・・私は借金をしながら新聞発行を続けています。人は使えません。私は新聞社の社長、妻は図書館の支配人で共稼ぎをしています。ふたりの給料を合わせれば島で最高給の方でしょう。それでも生活費が足りない。私たちよりも給料の少ない人達は一体どう凌いでいるか、私すら想像することができません」。
磊落な氏が一瞬、暗澹たる表情になった。
シーモノフ編集長は島の返還問題ゆえに貿易の壁を設けている限り、ロシアのビジネスマンの”悪”は無くならない、利権や賄賂が跡を断つはずはないと見ている。
島の現業水産部門は永くサハリンの支部だった。獲った魚や水産物はサハリンなどの上部コルホーズに渡せば良かった。自力販売力はなくても済んだのだ。今日、民営化しても、島の現業部門には販売のノウハウも何もない。その上、択捉島と根室との”直接”の輸出入は”政経不可分の原則“によって阻止され、すべて”サハリン経由”の体裁を整えなければ具合が悪い。そうしたハンディキャップにつけ込んで稼いでいるのが”賢いビジネスマンたち”だという。ロシア人島民内部から”カニ船現象”を見れば、そうした腐蝕が露呈されているのだ。
株式会社「クリルの輪」
この択捉島に日本時代に千を越える定置網の漁場があったとは信じられない。漁業の現場は三か所しかない。一つは散布半島を越えたレイドボ村にあり、あとの二つはクリリスク(旧紗那)の外れにあるが、そこに働くコルホーズ員は紗那の町に住んでいる。漁民の村はオホーツクに面した二つの集落と思えばいい。
クリリスク・紗那から十数分、岬をまわった入江にある漁獲専門の旧リューバキー・コルホーズを訪ねる。小型漁船数隻が入江に停泊している。木の桟橋を改修中だ。わずかの平地に新築の冷蔵倉庫も建ち、企業独立への意欲がかいま見られる。事務所と修理作業場のほか人家は五、六軒ばかりだ。
サハリンの一支部所属だった漁民七十人はそのまま新会社「クリリスキー ・ザリーブ(「クリルの輪」)」に転身した。
働き盛りの作業長アンドレイ・ミハイロフ氏から聞く話は新米会社の失敗談ばかりだった。が、それはかれらの学習のす早さも物語っていた。
「いやあ、去年はマスが近年最高に採れたんです。サハリン(の漁業公団)を通じて輸出できた。私たちは会社一年目で大儲けをしたと思ったんです。計算上では間違いなしでした。去年の十月に販売したマスの代金がすぐに入ればの話でしたが、半年遅れで五月に精算されました。かりに円やドル建てだったらよかったが、国内同土(島とサハリン)ではルーブルでしょ。その間にインフレでルーブルの価値が四分の一に下って、結局は儲けはほんの少し。皆、がっかりです。
この株式会社は”貿易の権利”、つまり輸出権を持っていないから、外貨は扱えません。ロシア・北朝鮮の合弁会社に販売を依頼したが良心的な相手じゃなかった。もう北朝鮮の合弁企業とは絶対二度と取引しません。次の秋冬の漁の支度に現金がほしいときに、支払いの半年先延ばしがどんなに痛いか。冬は船舶の修理、部品集めに資金を使う時なんです。
外貨?ですか。輸出での外貨の支払い決済はモスクワでされ、こちらにはルーブルがくる。それからいくつもの税金がさし引かれる。税率が物凄く高い。お先まつくら、さきの見当がつきません」。
九二年一二月に出されたエリツィン大統領令「クリル諸島自由特別経済区」では、九三年度、つまりこの年から三か年間を実施期間として、物価上昇分を含み六千億ルーブル(時価千五百億円)及び二十億ドルの投資が発表された(九三・二・七、北海道新聞)。が、ミハイロフ氏は”エリツィンの気持はわかるが無理”とその手の話は取り合わない。
話が定置網になると氏は多弁になる。地元でサケ・マス戦争が起きるとまでいうのだ。
「島が一つのコルホーズだった時は、この湾(旧ナヨカ湾)に二十二統の定置網が認められていたんですが、いまは五、六統しか出来ません。いくつもの支部の現場が株式会社に分かれてしまったから、島のクォーターの枠をそれらの会社数で割れば、そうなるんです」。
ー減ったんですか?全島の網数が?
「他の漁場のことはよくわからない。カムチャツカの連中も母船を連れてやっているらしい。沖に母船を泊めて、漁労船に網をやらせて、とれたザケ・マスをそっくりカムチャツカに持っていくんです。
サケ・マスは沿岸漁業に分類されてますから、そのクォーターはクリル地区で貰っていることになっていますが、実際はそうではない。いまだにモスクワが掌握しています。モスクワ中央政府がクォーターの総枠は握り、配分は州や地区でやれ、とはいうがそうなってない。だから、このクリリスクの町長やサハリンの知事はモスクワに行って頭を下げながら、漁業委員会に毎年クォーターの陳情に行かなければくれない、クォーターが当たらないんです。サハリンのことがサハリンの自由にならない」。
-例えば去年はクォーターは幾らで、今年は?
「去年の実際の漁獲量は四千トンだったんです。今年のクォーター分は一千トンしかくれない。いま漁期間近かですけれど、ギリギリまでもっとクォーターをくれるよう陳情に歩いています。ほかの会社や個人企業のクォーターの権利を譲ってもらうとか。今年はなんと言われても獲ります!クォーターを超えてでも」。
ミハイロフ氏は実力でクォーターを突破しても獲る、争うなら争うつもりだ。
ことカニに及ぶと、「なぜ日本は”活”をあれだけ好むんですか?この島で売る場合は生もボイルもある。ここ地元では島の人に美味しがって食べてもらえばいいんで、儲けなんて・・・」という顔つきになった。僕らは魚を採る人、あんたらは食べる人。喜んで食べてくれれば言うことなし。そんな島での人間関係が気持ちの底にあるようだ。
花咲港のカニ船を見たとき「ここにロシア人漁民がいるのか?」と問うたその答のひとつが返ってきた。
滲透する日本の漁業技術
ミハイロフ氏は新造の五百トン冷蔵庫に案内した。ベトナム・ロシアの合弁企業の四年前に建設した。ここが国営の傘下だったブレジネフ時代に発注したものだ。
「この冷蔵庫は動いておりません。設計段階からおかしかった。やっぱり使えません。ベトナムの専門技術者がきて建設したんですが、結果を見れば、良心的な仕事とはいえない。ただの物置です」と悔やむ。しかし塩づけ用の冷蔵庫そのものがアッと言う間に過去のものになった。日本をはじめ国際的水準の輸出品には急冷能力のある冷凍庫が物をいう時代になったのだ。
「日本の東芝の急速冷凍設備を二台買いつけました。一日に二十五トン急冷する能力をもった機械なんです」。日本の製品や設備はどこかを迂回して入る。
北朝鮮で懲り、ベトナムで懲り、やはり米国、フィンランド、ドイツそして韓国・日本の技術に向きを変えた。日本の漁船では珍しくない漁船用自動航行装置の「フルノ」一式が去年入った。
「ここは霧が濃いんです。いままではレーダーがないから、必死で盲目的に操舵していました。ここの小さな船ではなおさらです。フルノのレーダー操法で霧の中でもハラショーだ」。氏は手放しで喜んでいた。思えば、コン氏からも「フルノ」の名が出ていた。
沖の漁船から仕事を終えた数人がボートで岸辺に帰ってくる。浅瀬まで来るとつなぎのゴム服でドブンと渚にはいってボートを押す。見ていると、浜のウインチを使ってボートを引き揚げた。ここはカムチャツカ西海岸より各段にいい。
レイドボのある漁師
択捉島の漁業といえば、上述の「クリルの輪」コルホーズは脇役の位置らしい。択捉の漁業はレイドボにある従業員七百人を擁する「クリリスキー水産工場」で代表される。
根室の照井二郎氏が魚の技術指導にでかけ、氏のいう”民間外交”をしながら滞在した漁村である。
一泊のスケジュールしかない私たちは、具さんの薦めのまま、数十キロ離れたレイドボに向かった。泥濘の道でジープでなければ走れなかった。
原野には傘のように大きい蕗が密生している。
白樺の木立ちにスックととど松が立っている。島の二つの集落を繋ぐ幹線道路だが冬は閉鎖されることが多いと、運転手のピョートル氏はこぼす。だがレイドボの人口は千五百前後と決して少なくない。
白夜は人を惑わせる。まだ遅い午後と思ったら、「クリリスキー水産工場」に着く頃、すでに終業時間を過ぎていた。門扉に鍵をして家路につく労働者を見送って、荷揚げ桟橋に立った。完成時は重厚で巨大な塩蔵加工コルホーズ工場だったであろう。埠頭からコンベアラインが走り、塩や冷蔵用の氷塊が流れていく大きい樋が頭上に通してある。
荒井信雄氏(北海道地域研)は「塩蔵という工程が単純な生産に特化することで比較的に安定した経営を行ってきたが、最近、原魚の調達がむつかしくなっている」と、この加工場の問題点を指摘していた。
子供が浜でワイワイ騒ぎながらエビを掬っている。今夜の夕食にもってこいだろう。そこへ具さんが年輩の男を連れてきた。この十三年、ここで働いているという男の人だった。一杯呑んでいるのか、コルホーズのあちこちを指さしながら、毒舌を連発する。
「みてごらん。日本人の作ったものは全部壊してしまった。黙ってとっておけば使い道があるのに。ロシア人はバカだから”ロシアの領土になったからには、日本人の持っていたものはみんな壊しちまえ”って壊しちゃった。子供らの見ている眼のまえで。大人がやっていることを見て子供らはびっくりしていたよ。海岸に大した工場も沢山あったが、みんな壊してしまった。みてごらん。”百万長者”とか、大したことも言われたこのコルホーズが今はメチャクチャになってしまった。こんな企業が世界中、何処にありますか。
ここにもし、いいリーダーが一人いたらと思うよ。僕ら労働者は、いいリーダーにめぐり会えるかどうかで一生が変わるんだ。この工場から、いい人は居なくなった。
一九七八年にここに来たころは川は手づかみでサケ・マスが採れた。極東最大のふ化場のやり方も乱暴極まる。ふ化用のマスの方が大事だからといって、網の中で苦しむサケを放っておく。僕はサケの網を切って放してやった。ふ化場の役人も魚は分かつちゃいない」。
彼の給料を聞いて驚いた。カムチャツカ西海岸の罐詰工場の女性従業員の安い給料の、その半分、一万二千ルーブルだった。
「住宅なども修理しないので、腐って潰れた家があっちにもこっちにもある。見て下さい。・・・誰もこの島に好き好んで、永住する気できた人は一人もいない。何年間か働いて金を貯めて、大陸へ帰って暮らす気だった。大陸でだったら、こんな壊れた家をほったらかしているような奴はいませんよ。ここでの暮らしは一時的と思っているから、誰も家を修理するという気持がない。レイドボには希望はない」。
かれは漁業の仕事が好きで、オホーツク海ぐらしの三十三年はあっという間に経ったという。こちらもつい溜め息を誘われながら、子供さんは?と聞くと、
「娘はここで十一年生を終わってからウラジオストクの大学にいった。よく勉強したんで、優等生の金メダルをもらって今年、卒業します・・・」。
”へえっ!意外”と顔に出てしまう私を見て、彼は”なにか変か?”と見返した。
もしサケ・マスの漁期に来合わせたら、私たちの印象はまったく違うものになったかもしれない。工場には岩塩の袋が野ざらしにされ、袋の破れ目から塩の凹みが見える。
今は、老朽化と荒涼としかいいようのない寂れた風景である。昼間見た株式会社「クリルの輸」は従業者数でいえば、ここの十分の一の規模である。小さいだけに変わり身が早い。こちらは大きな規模の塩蔵工場だけに、巨木立ち枯れのような惨状である。オホーツク沿岸でも最低の賃金しか払えない企業になった。”かつての”百万長者のコルホーズ”が、”社会主義”の崩壊と同じく、崩壊している。
風浪に浸蝕された白い海と白い崖。レイドボの街で耳にするのは、波の騒がしい音と、丘で犬たちと駆けっこして遊んでいる子供や少女の声だけだ。
同船したグシェンコ校長の教育談義を思いだす。六百人の在校生徒がいる・・・。あの漁業労働者の娘も校長の教え子として島から巣立ったのだろう。その娘にとってはこれがふたつとない故郷の原風景なのだ。
「・・・南クリル諸島(注、択捉島を除く北方領土)では、ロシア大陸にも住居を有するものの率が最近は低下し、現在五十%になっている。これは南クリル諸島以外に”故郷”を持たない住民が増加していることを意味する」(荒井信雄氏論稿より)。
根室を見た人
また土曜日が来た。どこに行っても休みであろう。低くたれこめた空から霧雨が降る。
濃霧が島をすっぽり覆っていた。今夕、国後島にいく船に乗る予定だが、まだ、時間はある。国営ふ化場に散歩にいく。
紗那川沿いの、日本時代に基礎のできたふ化場である。ロシア極東最大のものだ。
ふ化場の小規模の広場には、ここ専用のレーニン像もある。この一角は択捉島でも別世界だ。全長数キロに及ぶ水槽に稚魚がさざ波をたてていた。
専用住宅地を歩いた。休日、たまたま庭で畑仕事をしている初老の人と立ち話になる。
聞けば、もっぱらマスのふ化に特化されているようだ。二年前まで一億五千万匹のマスの稚魚を放流していたが、現在はその半分の八千万匹、だという。サケのふ化はわずかで、年、五万匹程度しかやっていない。職員総数約四十名、国営で漁業規制局の直接管轄の下にあったが今は企業だという。それだけ聞いて立ち去ろうとしたら、玄関のドアが開き、夫人がお茶を飲んでいけとしきりに勧める。具さんを見ると「ご馳走になりましょう」と入っていく。
この家は国営ふ化場の機械設備担当者アレクサンドル・ルバルジン氏とその母親、夫人のタマーラさんの、老人三人のつつましい住いだ。ここに住んで四十年というから古い。
タマーラさんは「夫は去年、ピザなし交流で北海道へ行ってきました」と、土産の標津サーモンパークのパンフレットや道東の町々の締麗なカラー表紙の町勢要覧を見せられる。
ルバルジン氏の北海道の印象は次のようなものだった。
-花咲港などをごらんになって、船や港などを見てどう思われましたか?
「それは比較になりません。ロシアの港を見たかもしれないけれども、とんでもないです。恥かしいくらいです。この島と比べて見てください」。
奥さんから、この島の発展が遅れているのは、島にいい指導者が居着いてくれないからだと言う話がでる。レイドボでも聞いたが、島民の話題になっているのだろうか。
「私たちはクリリスクに住み続けているから分かります、島の指導者らは一時的に勤務するんです。チヨット働いたら交替され、また違う人が島にくる、だから任期中に特に何かをやる必要がない。前任者のKは”私たちは島を日本人の侵入から守る”なんて言いながら、こんどは日本を招待したり、ビザなし交流でもいろいろな名目でドルや円を儲けている」。
ー最近、島にコザックの代表が来るとか聞きましたが、その動きはどうですか?
「それはある。コザックは是非ともここに来たかったんです。しかし、ここの住人達が反対しました。彼らは”千島列島を保護するため”とか、”外国の侵入から守る”とかいうが、とんでもないことだ。いったい誰から守るのだと断りました」。
夫人はシャンペン、ワイン、ウオトカと燻製のサケやピクルスを出して、お茶どころではない。具さんと雑談に花がさいた。夫人タマーラさんも乗り出した。
「私たちは日本人と一緒に住んだら良いと思っています。日本人もロシア人もなんの差別がありますか、同じ人間同士です。終戦後、主人の姉はこの島で日本人と一緒に暮して、日本の女の人から縫いものを習ったり、一緒に働いたりしていました。
この人は北海道へ行って帰ってから一か月くらいは何をする気もなく、ボッーとしていたんです。よほど日本がショックだったらしく、”俺は馬鹿の国から文明国へ行ってきた”とブツブツいいながら。私たちは今でこそ辛い生活をしていますけれど、ブレジネフ時代は”停滞していた時代”だったかも知れませんけど、当時は今よりもっと良い暮しをしていました。その当時で五万ルーブルも貯金していたんです。私はもう老後は楽に暮らせる、この世で一番幸せな夫婦だと思っていました。その貯金の五万ルーブルが二、三年のインフレであってもなくても同じ・・・ただの紙きれ同然になってしまった。”私たちの人生つてなんだったのか”と。主人もつくづく嫌になったんでしょう、パカくさいもんですからね」。
島ではお金を使うこともないし、いい自然のなかでのんびり暮しながら、極地手当をため、老後を安らかに過ごす、その平凡な生活が望みだった。「ここでは鍵のいらない生活をしていたんですよ」と夫人はいう。「大陸では想像できないことでしょ?」。
夫人は最近、島の出入りが自由になってから、”顔の分からない人間”が来るようになって、鍵をつけるようになった。”島には規律があったのに”と夫婦は口を揃えて嘆くのだ。船員、建築工が大陸方面から募集されてくるようになった。幹部たちが”親戚だ”とか言って大陸から人を呼んできて、優先的に新しい家に住まわせる、それが夫人の不満だった。
この家はもとは現場職員の仮眠所だった。台所や流し場がついていない。それらをルバルジン氏が手作りで作ったという。「もう、ここを出ても、私たちには行く所はありません。日本人といっしょに住みましょ」。
ふたりは二本の酒瓶をむりやり持たせた。断ればかえって不機嫌になりそうな腕力で押し付けるのだ。
帰りがてら歩いていると、芝生の鶏の群れのあとを研究者風の人が後をついて回っている。「ニワトリの運動をさせているのだが、ほら、カラスがいるでしょ」と空を見上げる。なるほど、大きなカラスが旋回している。そのうち彼は鶏の一羽を捕まえて「持って行って食べなさい」とくれようとする。
「いやご好意は有難く」。
「ここにゃいいレストランがないから持っていけ」。
「いえいえ貴重なものを」と辞退した。すると今度は鶏小屋から生みたての卵を毛糸の帽子に入れて持ってきた。「これならいいでしょう」。
具さんはニンマリとして、「ロシア人は根はこうなんですよ、アハハハ」。
昼食のとき、レストランで定食のほかに、生卵をひとり四、五個ずつ啜った。
択捉島沖でビザなし交流を考える
ふたたびキトウエ港からハシケに乗って客船アンドロメイダ号に乗船する。国後島まで一晩かかる。停泊時間がやたら長い。日本からのラジオ電波はやはり遠い。
具さんとデッキで話に耽った。ビザなし交流はもう乾杯、乾杯の時代じゃないということは一致している。ロシア人島民は「日本が攻めてくる?冗談じゃない」、「米ソ戦争なんて考えたこともない」。
「サムライ」という言葉が日本人にとって辱めの侮蔑語だと、ロシア人は今も信じている。島民は「俺は絶対日本人のことをサムライなんかと言わなかった」と力んだりする。それは言ってきたに違いない。やはりビザなし交流での見聞、ひとびとの交流がもたらした変化だ。
ビザなし渡航は、具さんの比喩を借りれば、幕末の”黒船到来”に似ているそうだ。ビザなし渡航で北海道に行き、”お伽噺のような国だった”という帰国談が口づてに流れている。”じゃ社会主義って何なのだ””ソ連に負けた国の方が生活が良いなんて、話があわない”。「このショックから立ち直りたいんです、ロシア人はみんな」。
具さんの話に答えるに私の戦後体験もある。砂糖のヤミ値は公定の百倍だったし、給料では食えなかった。敗戦直後の日本もロシアと同じだった。だから今のロシア人の困難が理解できるのだと。ただし、「若い今のモンには分からない」。ふたりで笑った。
それは日本人元島民にも当て嵌まろう。戦後、彼等はすべてを失い、そして生き残った。その再出発の手掛かりは雇われ漁民であったし、コンブ拾い、密漁のマネだった。海があってこそ生きられた。ロシア人だってなりふり構わず海の仕事で食うしかないと私。
「ハハハ、そこまで喋れりゃ、ホンモノですよ。さきが見える」と具さん。
察するに、今、ロシア人は果てしなく”元島民の日本人”と話をしたいだろう。運動者や官僚ではなく。だが恒例化した今のビザなし交流の器にはとうてい収まるまい、それがふたりの一致した意見だった。
頭上、カモメが群れ、うるさいほど鳴いていた。停船している下甲板でロシア人船員たちが釣りをしていたのだ。パン屑を撒き餌にして、赤ホッケ、黒ホッケ、タラ、カレイなどが面白いほどかかってくる。それをカモメが狙っている。船員はナイフで魚を三枚に下ろすのだが、それなりに慣れた手つきだ。見物の女性たちは気味わるがっている。
怖い物見たさに代わるがわる魚を指先でつついている。彼女たちは採れたての活きた魚に慣れていないのだ。
ひとりの釣り手に携帯用の日本の醤油を分けてやったら男たちが一斉に手を伸した。
国後島の宿
アンドロメイダ号は翌朝、色丹沖に三時間遅れで到着した。オホーツク低気圧が居座り、海は時化模様である。
国境警備隊はやはり色丹島への上陸を許可しない。ロシア人でも島居住者以外は駄目らしい。色丹島からサハリンにいく乗客が数十人乗り込み、引越し用のコンテナの積込みに波浪が邪魔をして、作業員はまさに命懸けだ。
やがて船は国後島にむかつた。
船室のドアを激しく叩くものがいる。色丹島から乗った十一歳くらいの少年が妹を連れている。少年は「あんたたちは島を取り返しに来たの?」と物怖じしない。「島の人は皆、日本がこの島を取り返したら助かるといってるよ」。やがてペンを手に「チューインガムとこのボールペンと交換してほしい」。断わってもまた来る。二度、三度、「千ルーブルを日本円にチェンジしてくれない?」今度は妹がよく回らない口調で「日本のコイン頂戴」。具さんは「この分ならりっぱなマフィアになるってなもんだ」と苦笑している。
甲板に出てラジオを聞く。北海道のどこの電波も、皇太子と小和田雅子の結婚のニュースで沸いている。
色丹島と国後島の間、いわゆる三角水域をアンドロメイダ号はゆく。調査船が協定操業し、密漁船の絶えない海だ。この日、一隻のカニ獲り漁船も出ていない。
午後四時頃、国後島に着く。ユジノクリリスクの船着き場は島のビジネスマンが総出の感じだ。週二、三回の船便に島の流通のすべてを頼っている。
自然保護担当の女性に世話になる
ハシケの桟橋には約束通り、地質学者ボリス・ガッツ氏が小型バスをチャーターして迎えにきていた
「昨日は波が荒く、コーラルホワイト号は接岸できなかった。ビザなし交流の日本人を折角ブラスバンドで出迎えたのに残念だった。まだ沖にいるのかなあ」とガッツ氏はいう。
民宿には友人のアパートをそっくり借りていた。持ち主のアザラシ研究者夫妻はコルサコフへ出張中という。パラボラアンテナのある丘に近い宿だ。しかもイリーナさんという食事の世話をする若い女性を頼んでいた。
イリーナさんはトムスク大学の生物学コースを出て、島の自然保護関係の職場で、野ネズミの生態研究をしているお嬢さんである。何故島へ?
「なぜきたか?ですか。皆に同じことを聞かれる。キャンパスに張り出された募集を見て私の方から応募したの。きて良かった。ここは自然が素晴らしいし、暴力団やマフィアはいない。夜、ひとり歩きができますし。トムスクは夜は危ない、マフィアだらけ。それに軍の核工場が爆発して汚染され、もうイヤ。ここへ逃げてきたわけ」。
ガッツ氏は「温水パイプが故障でバスは使えない。共同風呂屋があるから我慢してくれ。いま非常事態で今夜は十一時から停電するから」と蝋燭を用意していた。
この宿で自然保護職員に世話になるとは好運である。イリーナさんに話を聞いた。「私たちは陸も海も見ている。自然保護関係の職員は七十七名です。任務分担は私のいる科学研究科、森林保護科、車などの機械部の三つです。私の専門は野ネズミです。四種いる。一つの島にそれだけいるのは珍しいでしょう。熊?熊は禁猟です。密猟や乱獲でそうなった。このあたりに(と地図の上で白糠泊を指し)百五十頭ぐらいしか生息していない。
ここの海獣はアザラシ、セイウチなど。ラッコはいない。隣のウルップからラッコを捕ってきて人口飼育しようという話はあるけど、お金の問題でまだです。
私も三月から給与(月、一万五千ルーブル)をまだ貰っていないの。私の給料はモスクワから送られてくるんですが、どこか途中の銀行で流用されて島には届いてないんです。まあ”幸福はお金では買えない”ってロシアの諺もあるし」。
さらに手持ちの地図を広げてイリーナさんに当たってみると、島の約半分が自然保護地域になっている。八八年頃から保護区への入域規制が本格化した。西へは島で「一本だけ冬でも車の通れる道」がゴロブニノ(旧泊)まで。東への道はクラオイ川の先、チャーチンカ(旧乳呑路)までで、東端の白糠泊には熊しかいない。旧乳呑路村を流れるチャーチンカ川(島では最大)の川口でコンブを採っているが、岸への上陸は出来ない・・・。
たしかに元島民のいう通り、植内、白糠泊、乳呑路、東沸(現セルノボドック)などの海ぞいの漁家集落やその墓地は消えた。人間の手による破壊もあった。千島列島を襲った一九六九年八月十二日のチリ地震の大津波で、きれいに洗い流されたとの記録もある(ユジノサハリンスク・博物館員)。
イリーナさんは一年前に島に赴任したら、もててもてて「ウオトカとイクラの日々」、もうイクラは見るのもイヤという。魚は安いしトムスクより費沢をしているともいう。
ただフィールドワークをする経費がなく、歩きたい爺々岳にもいっていない。
「漁業関係者の給料はいい。一番貧乏なのは私たち研究者でしょ」。一万五千ルーブルなら円換算で二千二百円である。地質学者のガッツさんも頷いている。
「四年前から国後空港の復旧にあたっているが、滑走路は野戦用の鉄板敷きで、寿命二年の代物だ。これを鉄線いりのコンクリートのパネルに全部代えるんだが、その部材七千枚のうち、二千枚とどいただけで工事はストップしたままだ」。
アルバイトのために個人会社「トルード」をつくった。
「旅行案内も正式のライセンスがあるんだから、ガッツの世話になっていると言ってくれて差支えありません」。
どうもこの会社の初仕事が私たちのコーディネートらしい。
夜半、世話するふたりは帰った。不思議にこの地域の一角だけ電気が生きている。テレビをつけると、いきなりロシア語に吹き替えたアメリカのポルノの画面が映った。どれだけ複製した果てか、画面は乱れ、色調は白黒、音声だけが甲高いシロモノである。
「エッ!これが全家庭にオンエアされているのか?」。大津氏がテレビの裏をひねくっている。どうやら隣室の住人のビデオと配線が繋がっていて、留守でも自動的に連動する細工がしてあるらしい。
全島が暗い町。眼下に娯楽皆無の町がある。一時間の長尺ものである。初老の男三人が北方領土でアメリカのポルノビデオを見るの図である。これが離島の主都なのか、眠ろうとしても、暗澹たる気分になってなかなか寝つかれなかった。
行き場のない観光客として
色丹島が予定から抜けたため、国後島には四泊できる。やや余裕のある日程だ。
ガッツ氏に頼んだのは南クリルの行政責任者のポキージン議長らへの表敬訪問、壊滅的打撃を伝えられる罐詰工場の見学、それに色丹島事情に通じた人間、この三つだった。
氏はすべてコーディネートできると請け負ったが、やはり無理だ。
氏は島の中枢からはヨソモノ扱いされ、ほとんど頼んだ先で逃げられた。
困ったことに、ガッツ氏は車を観光名所にしか向けない。一日中、海岸見物といった趣である。奇岩「悪魔の指」、レモン岬は美しい。海岸から爺々岳を撮影した。
夕方は温泉ゆきになる。ユジノクリリスクの町からも見える、はるかに先の白い蒸気の上る火山メンデレフの麓、そこは町のひとびとの憩いの場だ。熱い湧き湯を山水でぬるめている。
「パンツをはいたままで入ること。石鹸は使わないで」。つまり温い湯に浸かっているだけだ。湯船は広くて悪くないが、お湯はぬるくて風邪をひきそうだ。客の声がするが入浴者はほかにいない。
突然、ガッツ氏が「色丹島から来た船長がいる。色丹事情を聞いたらどうか」と呼んだ。
船長は岩場で、若い連中の三人とウオトカを呑んでいたらしい。
酒瓶を手に若者たちは「まず杯を受けろ」という。だがカメラとテープをみるや「しゃべるな!カメラ、ニェット!」と船長を止める。当の船長はしゃべるといって物凄い。
色丹島の漁業がどうかを知りたいというと、ロレツの回らない口でまくしたてた。
「あそこに漁船が一隻あるが、あいつらは獲ったものを全部花咲港に持って行って売って、稼いだ外貨を工場長と漁船員で分けてしまうんだ。カニ一トンが五十二万円だ。大金をくすねている。サハリンの連中は色丹島の魚を持っていっても金を送ってこない。しょうがないからカニを獲ってると言ってやりまくっている」。
ーそういうカニを売っている組織というのは会社の、それとも漁民の組織ですか?
「カニで儲けた金は工場に働いている労働者には一銭もやらない。漁船員らの間で分ける。みんな食えないから、工場で作った罐詰を食ってるんだ!」。
話が分からないのは具さんもだった。船長に突っ込んで聞いている。やがて険しい表情になってきた
「切り上げて早く帰りましょう。ロクなことはない」。さらに船長が喚く。若い連中が酒瓶を乱暴に傾ける。「連中、金をせびるぞ!」とガッツ氏も車に飛んでいった。
「でたらめばかりだ」と具さん。「色丹島には電気は一日中つかないなんて嘘だ」。
まわりに薄暮が追っている。人影は全くない。これは身ぐるみ剥がれてもしょうがない。
かれらはトヨタ車で猛スピードで私たちの車を追い抜いていった。
ガッツ氏は「北朝鮮との合弁企業『クリルコルサ』が、素性の分からないものをサハリンや大陸から連れてくる。島では金が動いているから、トムスクやウラルからもマフィアがきているとの噂もある」と欝陶しい顔になる。酔興のはての傷害事件も最近、起きているそうだ。
漁業企業めぐりの日々
この島のビジネスマンで、日本に行ったことのない人はまずいない。ビザなし交流はロシア人現島民なら行ける。日本のように元島民の間の訪問者順位はない。しかも旅費は自弁となっているから、船賃を払える人間におのずと限られる。国後島ではそのようだった。択捉島からの旅費はさらにかさむから百万ルーブル(十四、五万円)ないとピザなし交流にお付き合いできないと苦情が出ているし、返還の実現の早そうな色丹島には色丹島のカラーがあるようだ。
北方四島から言えば、カニでもウニでも、サハリン州のクォーターや州税関でクリアされていれば、日本側に輸出するのになんの問題もない。すでに既成事実となっている。
島にはロ・米合弁企業の日本人仲買人のM氏が常駐し、カニを集めている。M氏に船で会ったが、お互いに気付かないようにしていただけだ。私がこの島で知りたいのは、漁業変革の大枠とその方向、そして日本との漁業の関係をどう考えているかである。
六月七日、開業して間もない多面企業「南クリル」に支配人エフゲニー・ソルダチェンコ氏を訪ねた。漁船を所有している。今後、漁獲のほか、加工・販売、漁業器具や施設の輸入、建設など”多面的”な計画を建てていた。計画を抜きにすれば、加工はまだ試みの段階、もっぱら漁獲である。強力な島内のライバルは北朝鮮・ロシアの合弁「クリルコルサ」だ。漁獲と加工で従業員二百人を擁している。「南クリル」は中核の社員は四十人と言う。以上はソルダチェンコ氏の自社紹介である。
「私は小企業の人間だから、島全体の漁業については語れない」と前置きして質問に答えてくれた。
ー国後島の水産加工には罐詰、塩蔵、冷蔵といろいろあるようですが?
「ここでは罐詰は完全に不利です。大陸から空罐を運搬して、また遠くまで送ればコスト高で引き合いません。マスの塩蔵はしていません、クォーターもないですから。新しく海産物の干物を作ってみています。ナマコ、昆布、ガラトリア・ククマリア、これはナマコの種類です。中華料理向けに中国、台湾に出そうと思っています」。
-これは差し障りがあったら、お答え下さらなくて結構ですが、根室と近いから、朝とって夕方には根室で食べられるような活魚の直送方法をお考えですか?
「それはやっています。カニ、ウニ、今年からはツブを出します」。
-ウニ採りは潜水でやるんですか?
「アクアラングで採ります。潜水夫は足りていますし、大陸からも連れてきます」。
-根室で聞きましたが、ドッと入りすぎてウニの卸値が半分になったとか?
「大ありでした(笑)。ウニを始めたころは経験がなかったので、値段の上がり下がりが全然分らなかった。最近は日本からも卸相場について連絡をしてくれるんです。日本側の連絡だけでなく、こちらでも日本の市場価格を調べて調整しています。今度のサハリンのクラスナヤーロフ知事が”魚種によって、つまりウニならウニの業者連合会を作り、外国市場の調査をし、販売促進を計る組織”を提案しました。もちろん賛成です」。
-カニならカニ、ウニならウニでそれぞれ細かくクォーターが決まっていますか?
「カニ・ウニの場合はご承知でしょうが、州政府が南クリル(注、国後、色丹、歯舞)にいくらと割り当てる、さらに島の各企業に配分します。クォーターはいつでも不足です。チンロが厳しいですから」。
ー漁具とか船とかの面で日本との提携の見通しはありますか?
「いままでは日本側にロシアの漁業を発展させていこうという気持は無さそうでした。というより島のわれわれとの合弁は日本側が嫌います。漁具やカニ籠やウニ採り用の潜水服を買ってはいますが、それ以外のことはしていません。結局、合弁の相手は韓国になります」。
ー漁業でふたたび島全体が潤うのはいつでしょうか?
「島が潤う余裕がない。例えば去年、こんな小企業でも国に払った税金は五千万ルーブル(七百八十六万円)でした。もしこれからその金を島の発展に使うことができたら、島の社会基盤の整備に使います。あのひどい道路からまず直したいんです」。
ソルダチェンコ氏には”この島でも食うか食われるかの競争がある。手の内は明かせない”といった抑制があった。ガッツ氏は私の質問にハラハラしていた。
氏は率直に話してくれたと思う。合弁相手には日本より”くされ縁がないだけ韓国の方がいい”との考えかたは明解であった。
ここで”ユジノクリリスク”とは国後のことである。企業は島ぐるみでひとつだった。かつて国後島には「サハリン漁業公団」傘下のひとつの支店、「ユジノクリリスク水産コンビナート」しかなかった。それが幾つもの独立採算制の会社に分解した。総数八百五十人の旧企業の漁業労働者は、分かれてそれぞれの会社に入った。が、会社事務所は元のまま共存し、漁業企業共同棟といった建物にある。海を見晴らせる丘の上にある。
広場では牛が伸びた草をゆっくり食んでいた。都市化の設計図が島にはある。将来、ここに公園を造成する分のスペースが取られている。この一帯は日本の時代は放牧地だった。
在サハリン朝鮮人の実業家コン氏に紹介された、「ブレーミア」ユジノクリリスク支店も漁業企業共同棟のなかの一室にあった。
「新鮮な血を導入せよ」ーコン氏の構想
すでに「クリルプレス」(国後「国境にて」紙)に掲載された、コン氏待望の記事『本当に夜明けだろうか』に触れたが、コン氏の島の未来図には漁獲企業と罐詰加工場とをドッキングさせた構想が描かれていた。この新聞はコン氏を”資本家”と目したうえで「資本主義の新鮮な血を外部から導入しなければ、たとえ会社をつくっても、自分で自分を食い尽くすだけだ」と、コン氏の旧国営罐詰工場の改造を受け入れるよう論陣を張っていた。
「コン氏はずっと国後で浜の水産物を採り、地区の経済的発展の可能性を実現するよう独自のプログラムを作っていた。コン氏のそれはエリツィン政権の『クリル諸島経済復興プラン』よりずっと先行していた」。
その腹心のひとり、「ブレーミア」ユジノクリリスク支店主任ロマン・ソフノアスキー氏は、色丹島のコンビナート「オストロヴノイ」(通年雇用者二千七百人)の副工場長をしていたという。国後島にも国営罐詰「水産コンビナート第八十五工場」(五百四十人)がある。この後者とは同じ事務所で机をともにしている。
この支店の正式社名はブレーミアではなく、その傘下の日・ロ合弁「ブレーミアミネコ」である。何故、ブレーミアの直営ではなく、上記の子会社をつくったか。それは国後島が北方領土問題を持つ地域事情からだった。ソフノアスキー氏の解説を聞いた。
「国後島から日本にカニを直接輸出しにくい。自由なサハリン州”籍”の企業なら問題ないが、単なる南クリル”籍”だけでは輸出が不可能なので、日ロ合弁『ミネカ』と共同して、あらたにサハリン籍の合弁会社『ブレーミアミネコ』をつくり、ここにユジノクリリスク(国後)支店を作った。これで島の水産物はそのままサハリンの物産として扱え、輸出手続きが簡略になりました」。
硬直している北方領土問題、それによって輸出にハンディキャップを持っていたユジノクリリスク・国後島の企業を、サハリン籍にする、それがブレーミアの戦略なのだ。
コン氏は、まだ”国営”の冠の取れない色丹島の「オストロヴノイ」、及び破産寸前の国後島の罐詰専門工場「第八十五工場」の”会社”の株を買い、完全民営化の機の熟するのを待っていた。チャンスの到来を見て、島の沿岸漁業の五要素、すなわち漁獲、保存、加工、そして輸送、販売(輸出)を一手に束ね、総合的に経営する体制を準備しているのだ。
旧ソ連の”大艦巨砲主義”に重点を置きすぎた漁業政策はなかば崩壊した。この島の加工専業のまま肥大した漁業を、沿岸漁業タイプの漁業、しかもそれをサハリンの自分の総合商社的なコペラティフとして纏めようというのがコン氏の構想らしかった。
すでに「ブレーミアミネコ」では自前の漁船六隻で操業し、三年前からカニ・ウニを北海道に輸出している。エビ漁業やその加工、ゴロブニノ湾のテングサを使う寒天工場の新設などにも着手していた。
既存の島のサケ・マス漁業と食い合わない方向で、当面はその加工部門を開拓しようとしている。原魚は島のサケ・マスである。その構想の一端を店長ソフノフスキー氏に聞いた。前にも触れたように、氏はコンビナート「オストロヴノイ」(色丹島)の副工場長だった人だ。水産加工では島の第一人者といっていいだろう。
-今後のサケ・マス加工は、罐詰の形ですか?
「いまは『第入十五工場』(注、国後島)は罐詰しか生産していませんが、これを縮小し、全く違う国際的に通用する製品加工工場にしていきます。主にサケ・マスとサンマだけに絞りますが・・・」。
ー色丹島コンビナート「オストロヴノイ」の再建の計画はありますか?
「色丹島の『オストロヴノイ』には漁船が三隻。それだけでは勿論不可能です。原料魚の必要分にはとても足りないので、今、カニやウニを採っている私たちの六隻をサンマ漁、サケ・マス漁が出来るように転換していきます。今、色丹島コンビナート『オストロヴノイ』は燃料難で大変ですが、一時的なものです。すでに、必要な燃料は買って、色丹島に私たちの自家用として置いてあります。いくらでも使えるようにしますからピンチは終わります」。
ーサケ・マスはこの島で足りますか?
「十分たります。いま、島周辺のサケ・マスを狙って、カムチャツカ、ウラジオストク、外国との合弁企業が、定置網を持って来て獲っているくらいです。サケ・マスが豊漁年には獲り切れないほど入るんです。去年は網から揚げられず、そのままにしておいて魚が腐ってしまった(笑)。住民にも自由に採らさせてなお余りました」。
ーエビは弱くてすぐ加工しないといけませんが、茄でるとかしますか?
「土本さん。ここから花咲港まで四時間しかかからない。採ったエビは船内でボイルして、船倉で一定の温度に冷やして花咲港に持っていけば新鮮でしょ」。
ーいま「四島」には領土問題がありますね?ここから直に花咲港にエビを運ぶについては問題がありませんか?
「分かってください。私たちにしてみたらサハリン州自体が全部、島々からなっています。クリルもその島のひとつなんです。四島だけが特別な島とは思っていません。何故、日本側はそう見てくれないのですか?道東にも事業家がいるのに全然投資をしない。四島もサハリン州に入っていますから、ここもサハリン州税関の輸出ライセンスです。まあ、当分は”サハリン州製品”ということで輸出されるでしょう」。
協同組合コンツェルン、ブレーミアが構想しているのは、例えば、野付半島の名産「北海シマエビ」(茄でて、売られている)であり、根室の「サケフレーク」であり、「サンマの照り焼き」など、道東と同じ水準の国際的水産加工商品であろう。”ポスト罐詰”というべきか、水産食品についての具体的で、かつすっきりした新展開のイメージがある。しかも日本の「ミネカ」が共同して推進している。もしコン氏の構想が実現すれば、沿岸漁業では発展途上国のようだつた四島漁業もそこから脱出できるだろう。
八十年代後半にすでに指摘されていたオホーツクにおける沿岸漁業の絶望的衰退(『ソ連極東総覧』による)からの脱出口が、ここに見えて来るかも知れない。
ソフノフスキー氏は国後島の話を率直にしてくれた。サハリンでは掴めなかったコン氏のビジネスがやや分かってきた。
怒れる男
同じ部屋で、話題になった罐詰工場の「第八十五工場」の工場長プロチェコフ氏が、二十分なら会えるというので待たせてもらった。その暇に、陳列された罐詰製品の飾りつけを撮影する。よくもこれだけ多種の試作を試みたと思われる。サンマ、イワシ、サパ、サケ、マスなどの水煮、油漬け。タラ、コマイ、チカ、ナマコなどのうま煮。人気商品の「極東サラダ」。スープ(ウーハ)各種。そのほか北朝鮮むけか、干しワカメ・コンブ、干鱈など。委託生産なのか、ラベルにフィンランド製、朝鮮民主主義人民共和国製とある。プロチェコフ氏はレスラーのような巨掘を揺すって入ってきた。秘書に飲み物を言いつけて「僕は何度も日本人のインタビューを受けた」、”またですか”という調子だった。島では知られた酒のみだったらしい。噂だが「氏は度を越したアル中で工場長を首になった。が、その才を買われて、再復帰したばかり」という。工場は今日破産してもおかしくないとガッツ氏は評した。その立て直し役がプロチェコフ氏なのだ。あから顔でエネルギッシュな四十九歳、働き盛りの人物だった。
罐詰生産のいきづまりをどう打開するかを聞いた。
「やっぱり罐詰専業は終りです。転換していますが、日本と違ってロシアは簡単に製品の切り換えができないんです、システムが違うから。だが徐々に魚の干物・燻製、それから罐詰ももっと小型にします。その他、すり身とか、魚のアラを魚粉飼料や肥料にする。もちろん冷凍魚を出すとか、そうした方向に持っていくつもりです」。
ー日本との漁業交流についての展望についてどう考えますか?
「私は実業家のつもりなので、政治問題については全然関係したくない。しかし経済交流ひとつでも、政治問題が解決しない限りは、一歩も進まないことがよく分かった」。
ービザなし交流はやはり日ロの島民の意識を変えつつあるように思いますけども、そういう印象は持たれませんか?例えば横路知事が来るとか?
「僕は交流が意味ないとは言ってませんよ。しかしどれだけ沢山の日本人と同じ問答を繰り返してきたことか。経済人、政治家、僕は根室とか北海道に大勢の友人がいます。根室の大矢市長は私を招待までしてます。忙しいので行ってませんが。
今、ここにドイツ人が冷蔵庫を建てたり、つぎは冷凍工場の計画も立ててる。どうして近い日本ではなく、遠いドイツへ頼むのか。それが私には不思議でならないんです。日本の設備がドイツの設備より悪いわけじゃないでしょう。日本の技術者がドイツの技術者よりも劣るわけがない。私個人としてはね、絶対そうでないと思っているが、日本人には通じない。メンテナンスでも日本のほうが有利なはずです」。
ー去年(九二年)のミュンヘンサミットでも「北方領土を解決しなければ経済協力はしない」という日本の姿勢は国際世論からも浮いてきた。やはり変わると思いませんか?
「信じられません!何遍日本人と契約寸前までいきましたか。沢山日本人実業家の名刺がありますよ。ほらネ(と見せる)。たとえばSさんとはサケ・マス人工養殖の契約までしたが実現しなかった。”人工養殖”とか”自然保護”とか口ばかりでね、最終契約で日本外務省が待ったをかけてくる。ここはその例です。
土本さん、気を悪くしないでください、日本とむかしは戦争もしましたが、日本人に悪感情はない。”サムライ(悪口)”なんて僕は一度も言った覚えがない。
のんびりしてたんです、ロシア人は。だから急には変れない。意識の変化には何世代もかかるでしょう。わたくしどもの世代では絶対無理でしょう!多分子供か、いや孫の時代かな?・・・ところで私は四十九歳ですがあなたは?」
ー僕は六十四歳、私よりあなたはお若い。”絶対”とかいわないでください(笑)。
プロチェコフ氏は「今度工場の再建に引っ張りだされてやっていますが、みんなが食えるようになるまで、僕は報酬を返上しました。意地でもやらねばなりません」。
コーヒーに砂糖をたっぷり入れ、何杯も飲んでいた。目下、禁酒しているそうだ。
色丹島の女性漁業労働者?
今回、調査の眼目の一つだと思って、色丹島のことを知っている人を探しているうちに、温泉では酔いどれ船長にひっ掛かってしまった・・・。
色丹島のコンビナート「オストロヴノイ」、ここの数千人の漁業労働者のほとんどが女性だという。カムチャツカ西海岸の「オクチャブリスキー罐詰工場」もそうだ。釧路のスリ身工場でも、紋別のホタテ加工も女性のパートタイマー労働でなりたっている。その規模を十倍、百倍にしたようなロシア極東最大の罐詰工場が今、どうなっているのか。
ガッツ氏がサハリン州政府機関紙「ルーベンスカヤ・フェドモスチ」の記者ワレリー・プロトニコフ氏が詳しいらしいからと面会時聞を三十分とってくれた。
島の事務庁舎の一室が支局だ。ドラム式写真乾燥機がある。天井の蛍光灯四本の内、三本が切れている。
支局長プロトニコフ氏はクラスノヤルスク州出身、元党員、在クリル二十年近い人だ。
色丹島の最盛期を知っている。そこが、ソ連の女子学生のあこがれのアルバイト先だったというから、氏には今昔の感があろう。
「色丹島には現在は四棟しか残ってませんが、むかしは罐詰工場が六棟ありました。冬期は二棟しか稼働していません。春になってサンマが獲れる時期には全ソ連から季節労働者を募集したんです。バルト三国とか、大学生の多いノボシビルスク州からも来ましたよ。そのサンマの繁忙期には学生がイルクーツク、アルタイ、沿海州の各方面からも来たんです。季節アルバイトの往復旅費は全部工場が出しました。
その季節労働者の九十五%が女性でした。大学生も全部女子学生、真夏には三千人の女の子がロシア全国から喜んで来たもんです。ロシアでは、色丹島というのはロマンティックな”ロシアの果ての島”と言われて、みんなの憧れの島だったから、求人数より希望者数のほうが多かった。島まで来る間に、大陸横断の旅もできる、ロシア・シベリア見物もできる。これも若い人を夢中にさせたんです。ここは国境の島ですから漁期しかメッタに人の出入りができなかったから、女子学生には大人気。応募者から選ぶのにコンクールまであった。
その最盛期は、このあたりの海はサンマ漁船の灯がキラキラして、その夜景は大都会のように輝いて素晴らしかった」。
ー 現在、色丹島の人口のうち、罐詰加工工場に働いている人は何%ですか?
「島の人口の九十%になるでしょう。旧ソ連で最大規模ですからね、現在でも。しかし、この工場は立案当初は、一年中、つまり周年稼働するような計画ではなかったんです。サンマの漁期だけ集中的に稼働するように設計された工場だったんです。季節が終われば、大部分は引揚げて、島に残る人はごく少なかった。ここの島での労働は冬はきっかったからです。
まず、水仕事でしょ、魚箱は濡れて重い、魚を入れたらなお重い。機械なしでは人間は冬は仕事にならない。だから冬季は休みでした」。
この色丹島の巨大化は一九六〇年代からという。それはサンマの豊穣な時期だった。
消えたサンマの群
日本の水産学者で魚類変動の研究者、河井智康氏によれば、回遊性のマイワシやサンマ・サバの間では十五年周期で”魚種交替“が見られるという。一九五〇年代から六五年まではサンマの場合、当時の最高七十八万トンに達した。それを百とすれば、七〇年にはわずか一%の七千トンになったと言われる(同氏『死んだ魚を見ないわけ』情報センター出版局)。
プロトニコフ氏の回想する最盛期のサンマ漁の華麗さはその頃のことだとするとぴったり符合する。では何故、罐詰魚労働者の街、シャコタン(マロクリリスク)に変貌したのか。
「仕事が近代化して周年稼働ができるようになったからです。機械化され、オートメ化されて、魚の腹や頭を切ったり、魚身を捌くのもみんな自動化されました。
周年加工工場にしてから色丹島の人口は増えてきました。政策的に定着を歓迎したし、寒地手当てもあったし、二年に一回の大陸遊覧旅行の特典もあった。その旅費も全額、企業が負担したんです。だから常雇い女性労働者二千人という特殊な島になったんです」。
ーそうすると色丹島コンビナートは沈まない陸の加工母船みたいなものだった?
「そうです。当時のソ連の政治家が大規模な加工工場をなぜ色丹島に建設したか。私の意見はこうです。”色丹島はこんな立派に開発された。ここはロシア領土である”と誇示せんが為だった。”北方領土はロシアだ”と言いたかった。罐詰製造は実際には、陸でやるより洋上での母艦船内加工の方がずっとコストが安かったんですがね」。
ーでは、いま彼らはソ連の政治的思惑絡みの漁業政策の犠牲者ということに?
「犠牲と言うよりも、結果的には、その政治の人質であったと思います」。
最近はサンマの復調が見られる。しかし海流の変化か、去年はサンマの群れは日本近海の二百カイリどまりだった。千島列島付近までは北上しなかった。だから「去年は燃費不足で、遠くの海までは獲りに行けなかった」(サハリン規制局のニェスチェロフ氏)。またカムチャツカの「オクチャブリスキー」罐詰工場もサケ・マスとのバーターで”日本から冷凍サンマの原魚を輸入して凌いだ”のだろう。
大回遊魚を獲るのは旧国営企業系統のいわば大漁業企業である。それと色丹島のコンビナート「オストロヴノイ」の国営同士だった繋がりは切れた。それとともにサンマに特化された罐詰の時代も危うくなった。それは酷だが、北海道のニシンの消えたあとを思い出させる。貧しいニシンの漁夫(ヤンシュウ)は逃散し、ニシン御殿だけが残った。
コン氏の事業もまず国後漁業の復興が先であって、その逆、つまり、罐詰コンビナートの島、色丹からではないだろう。
当面、行き場ない色丹島住民の八十三%のひとびとが、「島を日本に返還せよ」(九三年、住民投票)というのも分かる気がする。すぐに沈まないにしても、動きのとれない巨船の坐礁に似ている。かりに色丹島が日本に返還されても、極東最大の罐詰コンビナートはその後どうなるのか。このソ連邦の”巨大主義”の遺物を引継ぎ、日本人漁業従事者があと、そこで働く図はどうにも想像できない。
ゴロブニノ(旧泊)のテングサ採り
国後島にかつての村や集落が消えたことはすでに述べた。いまユジノクリリスクのほかあきらかに漁業の村はゴロブニノ(旧泊)だけである(軍関係は除く)。
ゴロブニノから対岸の北海道を眺めると、夜など町の明りが見えるそうだ。道東の、グループが投光機を点滅させて送った”光のメッセージ”のお返しのライトも、このゴロブニノの浜から照射された。海にひかれた中間線(国境)までに相互、十キロの幅しかない。
浅瀬のゴロブニノ湾には底棲動物が豊富だ。「国境線を越えれば魚はウヨウヨいる」(道東漁民)。だから日本の”特攻船”による越境密漁は後を絶たない。プラスチック船に二百馬力の船外機を三、四基つけ、時速七十キロ以上で飛ばす。よく新聞に「国後島付近で密漁」と記事がでるが、ここゴロブニノ湾内であることが多い。獲るのは主にカレイ、カニ、エビ、ウニ、どこの魚か印しは付いてないから分からない。
ここの訪問先は決まっている。船中であった”テングサ会社”の社長さんだ。
株式会社「ゴロブニノ」を作ったヴォロリュク・ヴァレーリー社長に会った際、雑談で同氏から聞いた特攻船の手口は巧妙なものだった。ロシア人の寝ている間に忍びこむ。かれらは朝八時から夕方五時までが勤務だ。夜はめったに海を見ない。特攻船は夜現れて、カレイの底刺し網やカニ・エビ籠を沈め、水面下に隠れるようにラジオ・ブイを付けて帰る。翌、早朝五時頃来て、あっという間に網を上げて帰る。電子操舵器を使って、正確に設置場所に来るから仕事は早い。その手際のよさには感心するそうだ。
春はカレイ、夏はエビ、ウニを密漁する。”トッコウセン”といえば子供でも知っている。沿岸警備隊の警告発砲はプラスチックの空砲どまりで、実砲は禁じられていた(これが実弾になったのは数か月あとからだ)。そのスピードと小回りでは特攻船に負ける。
六月八日、快晴、ユジノクリリスクを西へ走った。波うち際を走るのが一番滑らかだ。暖かい陽射しに、海から浜から水蒸気が湧きあがる。青い空と霧の這う海はオホーツクの初夏の風物詩である。丘には熊笹が密生し、数十キロの目的地までつづいている。
やがて順光を受け、白雪を頂いた知床、阿寒の連山が見えてくる。
一時間半でゴロブニノに着く。国境警備隊駐屯地があるだけで、人家はゆったり余裕をとって散在している。人口百五十人。村に発電所があるが、電話は国境警備隊の専用線しかない。サハリンに電話するにはユジノクリリスクまで行く。よそからも電話は通じない。緊急の連絡はいまでも電報である。やはり離島、国後島、そのまた地の果ての集落だ。別海や標津の祭りの太鼓が風向きによっては聞こえるそうだ。
日本時代はこの泊村が国後島の玄関口であった。島の中心地だった往時の面影はいまは見られない。家々のテレビのアンテナは北海道に向いている。
「ロシア人の家庭で子供も親も『水戸黄門』を見ていた。日本語でも、笑うところは同じ」(日本人取材記者談)。
ゴロブニノのトマリ湾では、この晴天を利してテングサ採りの最中だった。陸上作業には国境警備隊からのアルバイト(と思われる)制服の隊員たちがテングサの運搬作業を請け負って立ち働いていた。
湾内でテングサ採り船が吸い上げポンプの音を響かせている。テングサは採ったその日に乾燥させないとすえて質が落ちる。沖の運搬ハシケが積みあげたテングサをピストン輸送で陸に運んでいた。雨の日は干せないので、時にひと月も休むことがある。しかし年間九か月は働ける。流氷はこの七、八年、接岸しないらしい。波うち際には流れテングサがいっぱい畝のように打ち寄せられている。
この日は風が程よく、汗ばむほどでテングサ採りには絶好の日和だった。
テングサの価格
北方四島からサハリン南部はテングサの自生地である。「チンロは国後島の資源量五、六万トンと見て、年間二十%が適正な収穫量とみている」(荒井信雄氏論稿より)。
株式会社「ゴロブニノ」社長のヴァレーリー氏は、旧コルホーズからこの寒天の将来性を見込んで株式会社に独立させた。全株の十三%を国から、あとを村の仲間六十三名の出資で充当した。給料は均一の十万ルーブル、配当は儲けの出るまでお預けである。小型漁船二隻でタラ、カレイなどを採るが、サケ・マス定置網はしない。
ここに寒天工場を作る、それはブレーミアのコン氏のプランにもある。だが、今はコルサコフにある極東唯一の寒天工場に送るしかない。去年は干しテングサ千二百トンを採った。チンロのリミットの限界までなので、もっと採りたいが採れない。
寒天の需要はロシアでは化粧品やバイオ関係、医学関係に限られている。「日本人はお菓子(羊羹、ゼリーなど)に寒天をふんだんに使うらしいが、日本の市場の事情が分かっていない」とヴァレーリー氏。湾内はオホーツク最大のテングサの産地だから鷹揚だ。
ーテングサ採りはいつぐらいから始められたんでしょうね?
「ロシア人が島に来た一九四六年頃から、ここで日本人と一緒に。手でもいで採っていたって言いますよ」。
ー取り尽しというような不安はありませんか?バキュームでやってますよね?
「いやあ、僕らはチンロが許可した量以上は取りません。それに片っ端から取るのではなくて、藻場を升目に区分けして、今年はこの場所、来年はここという風に一年置きに採るから大丈夫です。テングサは二年で丁度に伸びるんです」。
バキュームでの採取をしてから二十年のキャリアがある。資源の枯渇はないと断言する。
具さんが「僕がよく知っている日本の合弁の人に取り次いで上げるよ。幾らで売りたいかね?」と世話を買って出る。
社長は二、三人で相談した末、「採ってすぐ乾燥したテングサを、運搬代を別にして一トン五万円ではどうだろう」と電子計算機ではじいた。「ハハア、多少吹っかけたな」と具さんは苦笑した。「厳選したものを出すから、その値は高くない」。(後日談になるが、日本の相場は十キロ単位、浜値で流れテングサ〈最低品〉四千円、並で一万円、高級品は一万八千円〈東京都漁連販売課・テングサ担当者〉。さすがに日本は羊羹の国である。ゴロブニノのつけたテングサの希望価格・浜値は日本の並みのテングサ価格の二十分の一だった)。
国境警備隊員のモーターボートでテングサ採取船に渡った。その先に警備艇が停泊し、見張っている。テングサを採るのに口径三十センチのバキュームが海底に突っ込まれ、ポンプで吸いあげる。黒々としたテングサがベルトコンベアで船槽に落される。あと掻き集めてならす。若い労働者が、みるみるうちにうずたかくなるテングサの山と格闘している。社長もガタつくコンベアをスパナで締める。小さく纏まった作業集団だ。
バキュームは強い吸引力だ。見ていると赤い小魚や太ったナマコも吸われて上ってくる。邪魔だから海に帰しているものの、藻に住み育つ稚魚や稚エビや魚卵は炎天下に弱い。ここは北海シマエビの棲息地でもある。したがって稚魚類が多い。浚渫工事じゃあるまいし、この採取法は心配だ。
すでに触れたように対岸の野付漁協では、このゴロブニノ湾の半分の面積しかない野付湾で、ホタテをそだて、北海シマエビとサケ・マスで年間百億円をあげている。それだけにエビの棲みかには神経が配られ、ホタテの稚貝の生活環境にはノウハウを蓄積している。バキューム戦法で一種類の資源だけを採りつづけたら、さきゆきは漁場はどうなるかだ。
漁場条件は道東とほぼ同じだ。野付漁協ならどうして調整して見せるだろう。
ひとつの海峡の彼岸と此岸でここほど日ロの漁業の差を感じさせる所はない。ロシア人からみれば日本人密漁者は漁場荒らしのはずである。船長日く「こんな凪ぎの日は、必ず特攻船が来ますよ」。しかし、テングサは無事だから目くじらを立てている様子はない。
丘陵のテングサ乾燥場上空には無数のカモメやカラスが舞い、そこを餌場としていた。
濡れたテングサの山は鋤つきのトラクターで広げられていた。農機具はとっくに解体した島の国営農場から借りてきたものだ。
知床半島のやまなみを背景に、テングサを鋤くのどかな風景は北海道の海を前景にする素晴らしくも雄大な眺望である。知られざる日本百景の雄といってもいいだろう。ロシア人もしばしば手を休め、自く映える山なみに見とれている。
国後に定住を希望する軍人たち
「春になれば陽気は温かくなるし、ロシアでもここほどいいところはない。ユジノクリリスクのアパート住まいの連中はダーチャを欲しがるが、ここではダーチャなんか要らない。住んでる家は庭は広いしダーチャみたいなもんだ。野菜は食べ切れないほどできる。魚はタダだし。まあ、エリツィンのいう”土地や畑の個人所有化”が実現したらいうことはない」とテングサ採りの船の初老の船長は手放しでゴロブニノを賛美する。彼は元国境警備隊員だった。一九六五年、下士官を退役して島に居着き、今はもうすっかり古参の村人になっていた。
船長がいい例だが、むかしから軍や国境警備隊の除隊者がそのまま島に職を得て残ること、が多いという。現にゴロブニノにある駐屯地(六十名)も交替でアルバイトを出し、土木車両やクレーン車を賃貸して隊員の食費改善の一助にしている。隊と村と行き来はある。だから社長は顔見知りの国境警備隊員から、かれらの除隊後の相談をよく受けるという。
キビキビと現場を歩く副社長イグナチェヴィッチ氏は、聞けば氏も二か月前まで軍の中佐だったという。まだ三十八歳の若さだ。
「軍に在任中から僕はこの会社の設立に関与していました。僕はまだ軍にいられる年齢だが退任しました。軍の給与は二十万ルーブル、来月からは五十万ルーブルに上がるのは分かっていたが、この会社の方がいい、ここには目標がある。僕は職業軍人としてロシア各地を見てきたが、この島には将来性があると思うんです」。
国境警備隊の除隊者の中から、今後島に残りたいものが出てきて不思議はない。そうした先輩もいる。たとえば、テングサ採りの船の船長も元国境警備隊員だった。一九六五年、下士官を退役して島に居着き、今はもうすっかり古参の村人になっていた。
択捉島レイドボの大水産工場の老従業員は「結局人間の運、不運は、いいリーダーに巡り合えるかどうか、それでおれたちの一生は決まるのさ」と言っていた。言い得て妙である。かれはレイドボの七百人の国営加工企業の瓦解に深く絶望していた。
ここゴロブニノではどうか。ここには小集団にふさわしい小リーダーがいる。
生き延びる、そしてダーチャの春
ある夜民宿に、ガッツ氏は数匹の花咲ガニとカレイを持ってきた。私たちへのご馳走である。食費分はイリーナさんに渡してあるが、これはガッツ氏の著りだ。大津氏はカレイの刺身をつくり、ガッツ氏はカニの塩茄でに大童だ。ともかく水のでるのは風呂場の蛇口だけだ。
カニに目のない私は一番大きな一匹を貰って食べたが、痩せていて、身が筋程度しかない。脱皮したてなのだ。北海道では六月は花咲カニの脱皮に合わせ、禁漁期になっている。地質学者・ガッツ氏は脱皮時期のカニの味落ちなどご存じない。
民宿での晩餐の仲間に入ってくる人もいる。冷蔵運搬船の若い船長兼オーナーのシェレプチェンコ氏がそうだ。かれは稚内、花咲通いの、あのカニ船の船長さんだった。船員歴十九年、四島、サハリンの海に明るい。船は海軍艦艇(九十七トン)を買い、冷蔵コンプレッサーを付け、七人乗りの冷蔵運搬船に改造した。花咲港航路が主だというから、私は俄か成金の口かと思っていた。
「北方四島からのウニ運びは競争が多くてね。いまは主にネベリスクからの稚内航路に就いている」。なぜ四島の”常連”から氏が外されたのか。
「北方四島”籍”の船はサハリン船と違って州税関や国境警備障関係の書類で余分に時間を食う。ウニは鮮度が勝負だから待たされたら損害が出るので、結局、賄賂が要るんです。北方四島に地区税関がないからです。結局、サハリンものには勝てなかった」。
言外だが、”サハリンマフィア“のことをこぼしているのだ。
「今、サハリンは運搬船が余ってしょうがない。冷凍運搬船不足の時代は去年で終わった。ウニが足りない、もうカニの漁場探しでウルップ(択捉島の北の島)までいく。運搬船の景気はよくない。カニ・ウニを獲る漁民が一番強い」。
それが運搬船長の結論だった。カムチャツカ、マガダンからも密漁者がくるという。
みながどうやって生き延びるか。頭の体操のようにアイディアを出しあっている。
ガッツ氏は個人会社「トルード」の定款に「屑鉄回収業」を営業品目に入れたという。島の行政府も補助金をだすからやってくれと乗り気だ。島には赤錆の鉄船が至るところに放置してある。坐礁、難破船、老朽鉄骨の残骸、旧滑走路の錆鉄板、壊れたコンテナ、軍用車輛廃棄物、それにそろそろ廃車がではじめる。しかし極東には屑鉄市場がない。それを原料にする製鋼所や電気炉はヨーロッパ・ロシアにしかない。
「日本人はアメリカから大量に買っているんでしょ?」「その情報は古い、鉄冷えで日本は駄目だろう。だいたい運賃が引き合うか」と私たち。「すると中国か、やはり韓国か」。情報をモスクワの友人に頼んでいるがラチがあかないそうだ。
お手つだいのイリーナさんまで「熊の胃」のかけらを手に、「売ってくれと頼まれてしまったの。二万円だって」と恥ずかしそう。自然保護員のくせにとたしなめたくなる。
いま野菜の種まきの季節、島も農繁期で勤め仕事もそっちのけの忙しさだった。ユジノクリリスクから一時間、名勝地ラグーナヤの近くに、今年の春、土地が分譲された。土地代は一千平方メートルあたり二千ルーブル(三百円)と安い。とくに功労賞受賞者には三百ルーブル(四十三円)だった。新憲法草案「私有財産制」(九一年九月)により、個人でも土地が私有できるようになったのだ。皆が貯金をひきだして買った。畑用地が欲しかったのだ。ピクニックにはいい所だが住まいからは遠すぎた。だが自家用日本車が手に入ったので、通って耕作することが可能になった。そこで畑仕事に来ている夫婦に出あった。
かれらのダーチャは道具置き場、兼仮眠用ベッドのある小屋といったものだ。
島で動くトラクターは数台しかない。夫婦はシャベルと鋤だけで密生した熊笹を剥がし、泥炭を客土した。もうトマト、人参の芽が出ている。家もほとんど自力でつくっている。
「ロシア人は誰でも家をつくれるから感心だ」。具さんはロシア人のその才能は大したもんだと褒める。小屋の窓と入り口には頑丈な鍵がつけられていた。
「普段の夜は無人でしょ。農具を盗みにくる泥棒が多くて、皆で宿直制でご近所の分まで張り番をするんです。いっぺん金を出しあって元警察官のガードマンをたのんだけど、頼りにならないから」。夫婦は今夜は張り番の覚悟らしい。パンとサラミがたっぷりある。
サハリンの長男が買ってくれた中古の四輪駆動のワゴンが、ふたりのなが年の夢だったダーチャの生活をもたらしてくれた。ご主人は「このお陰だ」と軽自動車を撫でていた。
よそからきた人の島の見方
この離島の暮らしの欠陥は果物不足に端的に現れている。大陸のウラジオストク、ハバロフスクには、タシケントや中国、ベトナムなどからバナナや柑橘類が入って来ている。サハリンの野菜は韓国・朝鮮人が作っている。だが北方四島は年中野菜不足だ。皮肉だが、アジア人がいないところには野菜がない。だから島には壊血病やカリエス、クル病に悩まされている人が多いという。
「ナ・ルベージェ(国境にて)」の編集長セルゲイ・ジェルブイノフ氏は具体的に例を上げる。氏は最近、出身地ベロルシアからモスクワへいってきた。ちなみに氏は私が同紙の読者であることを根室の松井健二氏より聞いていたので、友人同士のように話せた。
「僕らも島の外の世界を知らないわけではない。いろいろな地方を回って歩いているから分かるんだが、ユジノクリリスクの物価はロシアで一番高い。ベロルシア共和国と比較したら物価が三十倍。モスクワと比較しても十三倍です。食料品だけじゃない、すべてがそうです。サハリンと比べても二倍です。給料はサハリンより低いというのに。ここのキュウリは一キロ、千三百五十ルーブルだが、私は一昨日、サハリンで調べてみた。サハリンでは二百七十ルーブル、ここは数倍です。島ではレモン一個の値段で、サハリンなら一キロ分買えます。その代わり魚類はここのほうが安い(笑)。
暖房費、電気代も全部割高、そのデータも数字もあります。サハリンですら大陸より物価は高いのにですよ。
日本ヘビザなし渡航で行ってみて、残酷なまでにここの賃金、生活水準の低さが分かりました。わずか四十キロしか離れていない国で、ひとびとはどんな生活ができていたか、どのぐらいの給料を貰っているかがはっきり分かりました。僕らはどうしてこんなに差がついたのか、それがショックでした」。
ジェルブイノフ氏は国家公務員である。経費の八十五%が国から、あと紙代収入が十五%入る。先に会った州機関紙の記者より、州からの資金援助もないかわり、自由に町の声を拾ってきたつもりだという。氏は編集部への投書、リンゴにまつわる女性の匿名希望のそれを紹介した。
『ビザなし交流に使う金があるなら”子供たちを助けて”』A・K生
「なんだか子供たちが騒いでいました。リンゴを食べている女の子の横で、六人の子供がこのお嬢さんに気に入られ、リンゴをかじらせて貰おうと争っているのを見ました。私は家に帰るやドアを閉め、ただ泣きました。リンゴはいま一個千ルーブル近くします。月に一個さえ買えない人がコンビナートにはいます。子供たちにはビタミンが必要です。以前は箱ごとリンゴを買えました。・・・島の当局がビザなし交流の実施を一回見送れば、せめてリンゴは二百ルーブルくらいで分配できるでしょう。交流費分で、日本からリンゴを買ってきて、子供たちを助けてください!」
氏はここが戦略的な島だった時期には、モスクワレベルの生活が保証されていた。それが一挙に転落したのは冷戦の終結の頃からだ。その後、中央の権力闘争によって、島の帰属の問題も忘れられ勝ちになる。モスクワの危機にかまけて辺境の人間を顧みないという。
「六年前、私が島に初めてきた時びっくりした。豊かなあの私の故郷のベロルシアに負けない程、物資は店に溢れていました。国境ゆえに一番安定していたのです。ここはヨーロッパ・ロシアからはるかに遠いんです。国際緊張が解かれて、あるがままの離れ島(サハリン)、そのまた離島の不便さが正直に出ただけかも知れません。
私の月給は二十万ルーブル。罐詰工場で働いている人たちは三万ルーブルしか貰っていない。そういう人はどうしたらいい、ここからよそに出て行く力もない。
ロシア人がはじめて四島に来た時は、もし日本人が住んでいなかったら、無人島に来たようなものでした。ロシアのどことも勝手が違っていました。島には魚以外何もないでしょ。どういう風に暮らしたら良いか誰にも分からなかった。だが、短い間だったが、日本人島民がロシア人に島での暮らし方を教えてくれたんです。どういう風にして魚を獲るのか、どういう風にして魚を料理するか。畑仕事もそうでした。どうやってジャガイモを栽培し、野菜を作るにはどうするかを教えてくれました。しかし、時間が足りなかった。今、みな悔いている、どうして目の前に宝の海がありながら、手をこまぬいて飢えていなければならないのかつて。もっと日本人に教わっておくんだったと」。
思わず私は自分の戦後体験を問わずがたりに話していた。「都会っ子のために、母の着物や時に自分の着ているものを脱いで、農家に行って芋と交換して生き延びた。人間、土地と海があるということは救いだ。海に近い人は塩も海岸で焼いて作る、魚にも恵まれた。自然と共に住んで居ないということは、人間としてどんなに不幸かということを感じた。ここには幸いなるかな自然がある。それがどんなに幸いか、それを元島民からも教えられた。
日本は戦争に負けたのは日本が悪いからだ。だけど貴方がたは何に負け、だれに負けたのだ。ここにはオホーツクがあり、島にも十分な土地があるじゃないですか」。
ジェルブイノフ氏は私のなが話を聞いていた。
「おっしゃる通りです。が、ひとつ違っていると思う。もし私たちがここに永住でき、”ここは永久にロシアの領土、どこにも返還されない、ここで何時までも暮らすことができる”、そういうことがはっきり分かったら、ここでの働き方も全く変わり、少しでも豊かになるよう生活に励むでしょう。かりに日本に返還されても、島に永住することが出来るとなれば、島民はまた、気持を代えて努力しはじめるでしょう。だが今ではそれが全然できない。すべてが宙に浮いています。この苦しみを分かってください」。
島民の半分は大陸の故郷とは縁が切れている。ジェルブイノフ氏には、故郷ベロルシアに帰る所があるという。州記者もスペルドルスクに親戚がいるそうだ。ここから離れられる人だ。島の指導者も大陸に帰っていった(択捉島)。その際日本人からの支援物資をしこたま持ち逃げしたというオマケの話もついていたが。
ブレーミアのコン氏はサハリンを拠点にして、北方四島・千島列島をふくめ、漁業資源で生きる構想を立てている。規模は小さいが「ゴロブニノ」のリーダーたちもテングサを見捨てる気はない。島への赴任者や行政管理者たちは島を去り、まだ大陸に故郷のあるひとびとは帰郷を急ぐだろう。しかし、一方、日本やアジアが隣に存在するという地の利は日々、極東のロシア人の意識を変えている。とくに北方領土はブリッジになっているから、これからは国境をこえるアイディアとアクションが様様に試みられていくだろう。
「口ージナ・仲間」
オホーツクでは、”タワーリシチ”という言葉を、”同志”というより”仲間”という意味を付与して、小企業などに冠している例がしばしばあった。いずれも地域的に集まった集団である。国後にも「ロージナ・仲間」がある。”ロージナ”とは”ふるさと”と”祖国”と両義あるが、どうも故郷・ふるさとのニュアンスが濃いようだ。
九三年六月一〇日、国後島最終日、ようやく「ロージナ・仲間」の議長アレキサンドル・ウソヴチコフ氏に面会できた。かれの事務所は元労組のそれだったらしく、壁の正面にレーニンの良質の青銅のレリーフが今も掲げられている。別の壁には日本商社製のカニ、エビの原色図鑑風のポスターが貼られている。まだ褪色していない。
「ロージナ・仲間」の発足は今年一月一日だった。
ウソヴチコフ議長による”会社紹介”を概略まとめておく。
「ここは元労働者組合かなんかでしたか?」と聞くと、ウソヴチコフ氏は四十代か、どこかユーモアのある、きさくな人らしく答えた。
「”コルホーズ”の意味はもともと”協同組合”ということです。個人参加の集団・”集団経営企業”です。株券百万ルーブルを発行しました。”民営の株式会社”ですが、正式名称は『有限会社・ロージナ・仲間』です。議長も社員の中から民主的な選挙で選ばれます。かつての企業のように上からの任命ではないんです」。
ーつまり経営者側と労働者側と二つ一緒ですか?
「まあ、そうです。働くだけの人、つまり株券を持たない雇用労働者が百二十人います。出資した株主は三百六十人です。労働者は前のコルホーズのころから働いている人が殆どです」。
ーこのクリリスクには漁獲する企業はいったい幾つありますか?
「三つかな。北朝鮮・ロシア合弁企業『クリル・コルサ』、もう一つが多面企業『南クリル』、そして僕らが最大の『ロージナ・仲間』、ほかに小さいのがあるが」。
ー漁船保有数も「ロージナ・仲間」が最大ですか?
「そうです。わが『ロージナ・仲間』には大型トロール船一隻、大型カニ・エビ船一隻、これらは外洋へ行く船です。それに中小漁船八隻、あと船外機船十二隻です。次に持っているのが『クリル・コルサ』です、漁船を四隻」。
ー大型トロール船は何を獲るんですか?
「これはスケトウで、漁獲した魚を洋上で渡して(沖渡し)います。獲ったスケトウを網ごとそっくり日本船に渡すんです。接舷して移すという手間はしない。原料魚のままです。それからカニ・エビ専用船には冷凍加工設備があります。生冷凍もボイル冷凍もできます。船槽の容量は三百トンとかなりありますよ。うちは間宮海峡で操業していますが、全部日本に輸出しています。ご存じのように、国後(南クリル)の”籍”ではマズイから、ほかのロ・日合弁企業の名を付けて日本運搬船へ渡しています。もちろん正規の輸出です。日本の運搬船にはロシア側代表が乗っていてチェックしてますからね。しかし、誰でも高く買ってくれる合弁に売りたいから、ときに韓国の合弁企業に売ることもある。また、えらく税金を捲き上げられている合弁企業もあれば、少なく済ませている合弁もある、ハハハ。もちろん、あとの方に渡したほうが僕らの収益は多い。まあ、その手の合弁は有利な輸出ライセンスを貰っているんです。政府の要人と”良い関係“を持って、ワイロも使ってね」。
漁獲専門でゲリラ的に、販売先を選んでいるようだ。四島のハンディキャップはあるが、そこを捌く才覚がウソヴチコフ氏の腕の振るい所らしい。
ほかの部門、加工などとは、リンクしているだろうか。
ー原料魚を欲しがっている、例えば色丹の罐詰工場から要求があるのでは?
「出せ出せってかなり圧力がかかります。南クリル行政からも”獲った魚は全部、色丹、国後の加工工場に渡せ”って言ってきますよ。しかし僕らは日本に輸出した方が儲かるから、”輸出しろ!”と僕は頑張っていう通りにはしません、そこは闘争です、ハハハ。社会主義時代は計画的ノルマでしたから、”ここへ魚を出せ!”といわれたら違反することは出来なかった。いまは、やはり僕らがこっちの方が得だと思ったら、そこへ魚を持っていきます。勝手にやらざるを得ない。当局と喧嘩しながらでも、輸出してます」。
ー利潤にかかってくる国税はどんなふうですか?
「やたら税金の種類が多過ぎる。その税金の行方も分からない。何処へ使われるかね。『ロージナ・仲間』の純利益の税金分はこの島に残るらしいが、サハリン税関で取られる”関税”つてのは州政府に行くらしい。国の税金なんかは何処へ行くのかなあ。あれこれ引かれて給与は少なくなった。だいたい、漁民の方が普通の勤め人より羽振りが良かったもんですが、今は役場の給料の方が多いらしい。変です」。
同じクリルでも、色丹島の「オストロヴノイ」は国・ソ連漁業省の「サハリンルィバ」の所属であり、「ロージナ・仲間」の前身である「ユジノクリリスク水産コンビナート」は州の「サハリン漁業公団」の傘下だ。国営直系と州直系の競争が露わになっていると聞いた。やはり業績不振な色丹罐詰工場にはもう義理立てはしないということか。
ーこういうふうに市場が自由化されてくると、チンロやダリルイバのクォーター制は、”あって無きがごとし”とダリルイバで心配してましたが、「ロージナ・仲間」ではクォーターはどうしていますか?
「チンロは科学的に資源調査して”この海域ではこの魚種は最高何トン”とデータを出すだけです。クォーターの配分はモスクワ漁業委員会、サハリン州当局、それと南クリル行政府の三機関のどれかからです。僕ら『ロージナ・仲間』のクォーターはサハリン州からじかに出てます。企業規模がここは大きいからです。南クリル行政府は自分の枠を小さな企業に分けています。ワイロ?小さな企業ではあるでしょ、クォーターが欲しいからワイロを使うこともあるでしょう。僕ら『ロージナ・仲間』には国営コルホーズ時代からの実績がありますから、クォーター枠は変わりません」。
ー話は変わりますか、サケ・マス漁はやっていますか。で、定置網ですか?
「そうです、定置網だけ。全島のクォーターは二十七統、総計千トンしかない。僕らでたったニ統、二十五トン分しかない。競争が起こりますよ。
ヒドイ話ですが、出来立てで網も持たない小企業にサケ・マスのクォーターが出ることがある。で、彼らは自分の網がないから、『ロージナ』の網を盗んで張るんです(笑)。さっき『ロージナ・仲間』には株主が三百六十名いるといいましたね。その株主は”俺の出資した会社だから、『ロージナ』のものは俺のものだ”(笑)。そんなつもりで盗むんです。”俺も『ロージナ』の主人の一人だ。黙って持って行ってもよかろう”ってね(大笑い)。議長の僕としては株主が多すぎて、このうちの誰がやったんだか、よく分からないんですよね」。
ー日本でもしょっちゅうですよ、タコツボを持ってっちゃうとか(笑う)。
「そうかね?僕は函館などに行くんだが、あちこちに定置網が張ってありますね。何回行ってもそれが同じ場所にそのままある。僕らの海でそうやったら、とっくに誰かに盗まれてしまう。日本は泥棒なんていない良い国ですね(笑)」。
ーつい最近聞いた話で恐縮ですが・・・。操業許可のある三角水域(調査船操業ー色丹付近)で三千個のカニ籠をいれておいたら、二千個もキレイに盗られた。ロシア側に抗議して千個分は取り返してもらったが、後千個分は返らないと聞きましたが?
「ハハハ、つまりロシアの漁民はカニ、ウニ、ェビの漁は一九九〇年度まではしなかったんです。日本の密漁者だけがコソコソ獲っていたんです。ロシアの漁民は全然獲らない、だいたいロシアの市場では売れませんから。ウニが食べられるなんて今でも知りませんよ。僕らの方はもっぱらスケトウを獲ってたんです。その方が利益があったから。ところが”カニは日本ではすごく高く売れる!“と聞いたんで、ロシアの漁民もカニ、ウニを採りはじめたんです。すると国後の漁民だけではなく、”儲け口があるぞ!”てんで、オホーツク中の漁民がカムチャツカからも、マガダン、沿海州からサハリンまで、この島周辺に来て獲り始めたんです。ロシアにはカニ、ウニ漁の漁具など全然ないから、日本から買わなければならないが、買うとなると高い。だから日本の密漁者が沈めておいたカニ籠やエビ籠を頂く。”ロシアの海域内に不法にあるんだからとりあげろ!”と。ロシア人とすれば盗むんじゃなく、堂々とやった。ちょうどロシアはカニの禁漁期だったから、漁業規制局も”ロシア経済水域にある日本の密漁の籠類はぜんぶ揚げてしまえ。獲物のカニは漁民が適当にもってけ!“とむしろ奨励したくらいだったんです。で、領海の日本のものはどんどん取った。
ロシア側からの日本へのカニ・ウニの輸出が正式に決まってから、少しは日本から籠を買ったが、密漁者の籠は当たり前のように分捕ったんです。日本の密漁者もロシアの籠を盗み返すんだ。取ったり取られたり、結局盗み合い(大笑い)。エビ漁をやるロシアの小企業が沢山出来てからは、エビ籠も盗む。さもなければお金が無いから、日本人密漁者とカニと籠と物々交換をしたりですよ。国境警備隊だって日本の密漁者の籠のなかのカニを分捕って、日本の船を掴まえて、そこで物々交換する(笑)、”ビデオをくれ、テレビをくれ”とかやっている。だからムチャクチャ面白くなってきた(大笑い)。お互いに盗みごっこ。三角水域でもその癖が直っちゃいないんだ」。
ウソヴチコフ議長の打ち明け話には笑った。具さんの解説ぶりも漫談調だっただけに抱腹絶倒であった。だがこれではっきりしたことが幾つもあった。
まず一九九〇年前までは、イガイガのある毛ガニもズワイガニも、とろけやすいシマエビも採らなかった。ロシアではそれを食べる習慣もないし、商品価値はほぼゼロに等しかった。だから日本の密漁も大目に見ていた。これが日本では高く売れる、円貨になると分かるや、沿岸漁業漁船がオホーツク全域から集まった。マフィアも四島に群がってきたようだ。
スケトウ、サンマ、サバ、イワシのトロール漁業を軸としているソ連・ロシアの大型漁業も、日本と同じく、スケトウ資源の減少に苦しんでいる。公海の漁場は狭まり、オホーツクの公海部は荒らされている。しかしスケトウの場合、モスクワの統制はなくなってはいない。外貨も半分はルーブルに換金される。外貨の入手には旨味はすくない。
それと打って変わって、北方四島の沿岸漁業が活況をみせてきた。活カニ、活ウニは数時間で花咲港や稚内に運べる。このライセンスは国ではなく、サハリン州にある。それだけ融通も利く。「ロージナ・仲間」のウソヴチコフ氏の話にでた、国境警備隊と密漁者の談合の笑い話はブラックジョークではなかった。日本の密漁者の狙う魚種、カニなどはロシアでは食べなかった。だからロシア人漁民にそれほどの被害は与えてはいなかった。事の是非を別にすれば、日本の密漁者とロシア漁民とは”棲み分け”出来ていたことがおかしい。
一九九〇年から、それは劇的に変わった。ロシア人漁民もそれらを採って、日本に売り、同じカニ・ウニ・エビを巡っての日ロ漁民の利害がぶつかって来た。この傾向はタコ採りにも波及するだろう。それも”シイクさん”の場合と同じく、日ロ合弁の形で進展していくだろう。国や道、そしてチンロはオホーツクの総資源をどう把握するのだろうか。
最後の船旅ーサハリンへ
北方四島の旅はつまるところ二島であった。ウラジオストクの肌寒さから、カムチャツカの西海岸の真冬の寒さ、そして択捉島ではえぞ桜のつぼみを見、国後島ではその開花を見た。北国の春に湧く蚊の大発生もなく、快適な時節を迎えた。
かつて、フルシチョフがたまたま春のサハリンを訪問して、その気候の温暖さに賛嘆したまではよかったが、これで極地手当てとして倍額の寒地手当を取るとはおかしい、「ここは保養地ソチ(黒海)よりいい」と半分に削ってしまったという語り草もある。
九〇年八月、花咲き乱れる国後島を訪問したエリツィン氏は「こんなに素晴らしい島がロシアにあったか」と手放しで感動した(島の人)。そして翌年、最高会議議長として「クリル諸島を返すつもりはない」と言明した(九一年二月、カリーニングラード発言)。
太平洋へのロシア人の憧れは北方四島で満たされているのだ。北の果て、オホーツク村のニシンのパックに「脂ののった”太平洋”ニシン」とレッテルが貼ってあった。ことほど左様にロシア人には太平洋への憧れがある。軍事地政的な意味を離れても、クリル諸島は手放すのはかれらには辛かろう。
六月十日、夕刻、埠頭はまた群衆で黒山だ。国後島からアンドロフスカヤ号の乗船予定四十五名分に乗船希望者百数十名。半分以上は次の便になる。ドルなら優先的に乗船券を出すといったじゃないかとガッツ氏が船会社と争う。氏は二日前に予約していたからだ。けたたましいハシケ係の女性の叱咤に、みなは大人しく並んでいる。
入域時の厳しい雰囲気はむかしと変わらないようだ。国境警備隊長が許可証にうるさい。
大陸に帰る一家、除隊軍人とその家族が飼い犬を抱いている。最後は喧嘩腰で乗るものもいる。私たちを日本人と思うのか、乗客たちは私たちにさきを譲って乗船させてくれた。
船上で聞く携帯ラジオは天皇一家の皇太子成婚披露宴の中継を流していた。
船中、四人部屋の同室者の男性は罐詰加工の第八十五工場の電気技師。ドイツ製の千トン冷凍庫の修理部品の交換のため、モスクワ経由で一週間の出張だという。急速冷凍にはマイナス三十五度までの性能のはずが、二十八度にしかならない。部品の輸送に時間がかかるのでドイツへ取りに行くのだという。高い部品代につくだろう。アル中だった工場長プロチェコフ氏、が、「なんでドイツの技術を頼まなければならんのだ。日本人の技術が劣るとでも言うのか?」と私たちに噛み付いたが、氏の苛立ちが分かった。
大津氏は退屈まぎれにしょっちゅう英語のポケット本を読んでいる。私は具さんと雑談ばかりだ。
彼から聞いた小噺のひとつ。ヤクーチャ(現サハ共和国)では豊かになるには、日本に宣戦布告するに限るという。そのココロは「日本軍が攻めて来たら、無条件降伏、無血占領される。そうすればヤクーチャの開発は進んでいく。顔の似た人種だから、ロシア人より旨く行くに決まっている」。ヤクーチャでは、という所がミソだ。サハリンでは、とはならない冗談だ。
「サハリンの海底油田といったって、ドカッと来る流氷をどうするのかね。掘削櫓が持つのかね。石油、石油と浮かれているが」と具さんはなかば本気で心配している。
「今でも、サハリンに本格的な製油所はない。サハリンの石油はパイプで、ニコラエフスク・ナ・アムーレは素通りしてコムソモリスカヤに行ってしまう。そこで製油して、また、サハリンにバックしてくるわけ。マフィアが邪魔すればニコラエフスクもサハリンもガス欠になるわけだ。サハリンを大事にしようとするなら、地元のオハに製油所を作ってたでしょ」。
北方四島だけが忘れられていた島ではない。具さんから見ればサハリンもそうなのだ。
映画を撮るときは一緒にやろうと何度も約束した。「こんな映画ができたら、おれたちの住んでいたオホーツクはこんな所かつて、ロシア人がたまげるんじゃないかな」と具さんは言う。
一夜明け、トロール船団のもやうコルサコフ港に着く。そしてユジノサハリンスクに一泊して帰国の途につくのだ。私たちの気に入った、「ボル」前のレストランは、女性たちのパーティーで賑わっていた。採れたてのマスが食卓に出された。カラフトマスのシーズンが到来したのだ。鮮魚には会えない、漁期外れの旅と思っていたから嬉しかった。
昼食後、具さんの甥がランドクルーザーで私たちを迎えにきた。
具さんは一気にホルムスク(旧・真岡)まで飛ばして、あの辺の漁業コルホーズを見てみましょう。もう職場は閉めてるだろうが、まだ明るいから」。白夜がまた私たちをその気にさせる。
プラウダ村のコルホーズ
ユジノサハリンスクに向け北上するサハリン国道を途中で左折し、湿地帯や原野を横切る。時に日本時代からあるような山間の村を通る。道端には山菜が伸びている。やがて、造りのしっかりしたダーチャの別荘村を過ぎ、うねうねした登り道を上がりきると、逆光のなかに日本海とホルムスクの街が見えてきた。
ここは大陸からくる時のサハリンへの玄関口だっただけあって、古風な様式の建物の町、クレーンの立ち並ぶ貿易港である。泥柳の並木道には日本料理の店もあった。人口は三万八千人、街なかに魚の匂いはない。旧王子製紙の工場が旧態のまま稼働しているが、痛みかたは酷いようだ。具さんは「もう古くて、ノートか封筒の紙くらいしか出来ないでしょう」という。
近郊にあると思っていた漁業コルホーズは、ホルムスク市街からは、ずいぶん離れていた。その名は「プラウダ」、旧ソ連共産党の新聞名と同じだ。ここは一つの町を作っている。小公園風の広場があり、ささやかな町のメーデー会場になりそうな空間である。その脇に食料品店と衣服から文具、釣り竿まで売る組合商店があり、背後の山裾には五階建ての団地アパートが整然と立ちならんでいる。人口六千人、そのほとんどが漁業従事者とその家族たちだという。コルホーズから貨物線のレールがホルムスクに延びている。
組合事務所前にはレーニンの胸像がかき傷もなく安座していた。
具さんのあとについてコルホーズに入ると、漁網やロープ、破船の横転している浜の行く手に船溜り岸壁があった。防波堤もある中規模の漁港である。
百トン前後の巻網船が数隻、繋がれている。甲板に、入れ墨をした若い船員たちが休んでいた。網の仕立て工場もあり、新しい冷蔵庫も建設中、いかにもまとまりのある漁業コルホーズである。七百五十人の漁業コルホーズというから、規模は択捉島のレイドボと同格だ。波浪に洗われるむき出しのレイドボの波止場とは違い、ここには加工工程に沿って船溜まり、そして荷揚げ場、ついで塩蔵工場と、魚の流れに合った配置をみせている。
塩蔵工場では女性作業員がコンベアラインに並んで、マスの身をひらいていた。漁繁期なので、午後六時というのに二交替制でフル操業していた。漁船ではマスは下ろし、雑魚だけだったが、塩漬け建屋のコンクリート槽にはすでにかなりのマスが漬けられていた。
男達は魚槽に体ごと入り、塩づけのマスに膝まで漬かりながら、それを冷凍作業場に送っていた。ここで始めて、稼働中の塩蔵現場を見ることができたのだ。
大きな冷凍庫の棚からは数匹のマスが氷塊状に凍ったままベルトコンベアに移され、女性たちの手でダンボールに詰め込まれている。各地のオケアン(魚市場)に送られ、解凍されて売り場に並ぶのだろう。ここにはあとはイクラの罐詰しか加工部門はない。数十人が働く塩蔵工場では、ほぼ全員が女性たちだ。それは日本と変わらない。
ここで、帰宅の支度を急ぐ労組委員長グレゴリー・コステンコ氏に時間を取ってもらった。漁業の事業内容に特記することは少ないが、労働組合専従者に会えたのは僥倖だった。新しい民営化のなかで、労組とは何か、それは聞いてみたい話だった。
冒頭「まだロシアに労組があるとは?」と挑発するとコステンコ氏はむきになった。
「あなた、企業になったらなったで、相手は経営と採算のことしか頭にないでしょ。誰が労働者の立場に立って利益を守るんかね?」と逆襲された。
「ところで日本には漁民の労組はあるのかね?」と質問される。
「ええ、僕の知っているのは青森にある佐井漁協という所です」。
「組合長になり手はあるかね?」と攻めてくる。
「どうも人格者か世話役かのようで、いつも同じ人がやってる」と暖昧な返事をする。「そうか、僕も十年もやらされているんだが、代わりの人間がいなくってね。後三年はやらなきゃ」。
コステンコ氏は私たちを労組事務所に招じいれ、「まあ企業側と僕とでは意見が違うかも知れんが」と手の届く所にある電気ポットを沸かし、コーヒーを勧めてくれる。なぜか懐かしさを感じさせる人だ
「ここの労組は”スト権”を持っている。団体交渉もやる。組合員が要求を納得するまでは企業側責任者を中座させない。それにはスト権がなきゃ僕の立場がないからね。職場の苦情や住宅の修理や色々あるんだ。労組の力はむかしより強くなっている。というのは、今どんどん生活は苦しくなっているから、僕がやらなければどうしょうもないことがいっぱいある。企業者側の連中は僕の昔から知っている仲間ばかりだが、立場ははっきりと違う。独立採算制だから、経営者はそこを主張する、労働者の既得権も削ってくる。だから闘わなきゃいけない。保育料や家賃の負担分の軽減とか休暇とか病院代とか葬式代の面倒までみている」。
ー企業の経理は公開されてますか?
「されてます。だから分かり過ぎてこまるんだ(笑)。代金の入り方が実に遅い。現在、マスを出荷してるが、支払い予定日をもう延ばされている。その代金も一遍に入らず、ちょっとずつ分けて入って来る。外国の輸出代金のほうが支払いは早いし、期日に間違いがない。カニ、エビ、ウニの対日本輸出がそうです、その外貨が入るのでやりくりしているんです」。
コステンコ氏の話で面白かったのは、組合の提案で円貨を日本に預金しておいて、こっちから日本へ団体で”買い物ツアー”をしたというエピソードだ。合法的な方法だがアイディアがある。
「うちではスケトウとかカニ、ウニの合弁で外貨を稼いでいるが、国内ではルーブルしか使えないでしょ。名目的には組合員にも外貨のもらい分がいくらかあるんです。だから稼いだ外貨を日本の銀行に入れておいた。そこで去年、客船『ユーリトリノフ』号を丸々チャーターして、従業員二百人で日本へ観光に行かせたんです。日本の銀行に預金してある円貨を引き出してみんなに分け、好きなように街で買物させたんです。女性たちは自分のものを買ったり、お土産を買ったりして満足しましたよ。”労働組合の買い物ツアー”ってねえ。どっからも文句は出ない。国への税金は払つてあるし、規定通り、稼いだ円貨の半分はルーブルに換金したし。またやりますよ。
ロシアでは個人では外貨は持てないし、使えないんだから、日本の銀行に貯金しておいて、日本に行って買物してくる。もし、外貨をロシアの銀行に預金したら、ルーブルでしか引き出せない。これでは気の毒だ」。
これが出来たのも組合長として、企業の外貨分を掌握していたからだとコステンコ氏はいう。とかく外貨の経理は不明瞭になり、企業の幹部の不正の元になる。労組はそれを監視し、コルホーズ員(氏は労組員と同じ意味でつい使う)にも使わせる、これが”協同組合”というものだというのだ。
しかし話をしていると、”国営”コルホーズではなくなったが、組織体としてはそのまま”協同組合コルホーズ”ともいうべきものに”社名変更”したようだ。氏は旧来通り「コルホーズ」という。労働組合の活動とコルホーズの活動とがゴッチャゴチャのように思われ、聞く方では混乱するが、コステンコ氏にとっては同じことらしい。問題は組合提案として出し、企業側と討論し、そこで合意され、実現される。それをコルホーズ員に報告する。労働組合としては労働者側に立って活動する、スト権はやはり有力な対抗手段だ。それで十分らしい。では、日本でいう労使とどこがどう違うのか、いまひとつ説明を求めた。
ーここで一生働いて終わった人の老後の生活はどんなですか?いま若い人がいくらくらいの給料で満足しているでしょうか?
「国家からの年金は少ないからコルホーズから補填しているんです。平均したら一人四万ルーブルになるようにしている。漁師は沢山貰ってますね。スケトウは一航海が四か月ですが、その一航海で百五十万ルーブルから二百万ルーブルは貰える」。
ーここは村全体がコルホーズですね?労働組合に入っている利点は何ですか?
「そうですね、労働組合はいまここで働いている人達だけじゃなく、退職者のこと家族のこと、お葬式の面倒まで、つまり労働者の一生、頼れる所にしているんです。前は国が生活を見てくれた。それが無くなった。その分をコルホーズはまず見なけりゃいけない。いろいろ新しい問題もコルホーズで解決していくほかない。いまは生活が苦しいからといって、国家が面倒をみてはくれませんから。だから僕の世話役の仕事が絶えないんです。
例えば、葬式にしても前は個人の自費でやっていた。例外として、遺族が”金が足りないので葬式代を援助してください”という場合にしか援助しなかったんです。現在、コルホーズが全責任を持って、葬式の一切をやるんです。協同組合としてやる。また有給休暇でどこかに遊びに行く場合も、旅費の他に、二年から五年働いた人には一万ルーブル、五年以上の人には最高二万五千ルーブルまでを、サナトリウムでの”治療代”として支給するんです。なんの治療をしてもしなくても。また、ここを退職した年金受給者には退職一時金に三十五万ルーブルまで払います。かれらの暖房費、石炭などの燃料代の五十%は組合で見る。年金受給者の団地の家賃は全部コルホーズ持ち。他の企業ではそんなものは出さないですよ。
病院代も有料になりましたから、コルホーズ全員に保険を掛けました。健康保険料は全額、コルホーズが払っています。土地を持ちたい人にはコルホーズの地所を分けて与えますし、食費が高いから、コルホーズで獲った魚や商品はタダではないが原価で頒けています。それだけでも組合員には大した利点です。」
ーそうしますとこの組合の指導者としての貴方にとって、かつて国営の時代よりも、今の方が自由にやって行けるとお考えですか?
「その通りです。自由に話してやっています。『プラウダ』は今は、コルホーズの財産です、国のものではないんです。いまは国の指図なしに、自由にこのコルホーズを自分たちで使って、ここで暮らすことが出来ます。そういう仕組みに変えたんです」。
ー日本との交易、合弁はあなたがたにとってはどうですか?問題は何ですか?
「僕は日本からどんどん先端技術をロシアに持って来て、水産食品として全世界のどこへ出しても絶対に競争に負けないような技術が欲しいんです。だが現在ではロシアの政府がいつまでも権力争いをやっているので難しい。明日のことは分らないが」。
半ば雑談の中で、コステンコ氏はこのコルホーズのクォーターの少なさを嘆いた。
「資源がどれだけあるのか知っているのはチンロだけだ。僕らにどのくらいは獲ってもいいと許可するだけだ」。
ー最後にひとこと、チンロの役割は資源を科学的に見ることだといわれるが、あなたもチンロの出す数字を信頼し、それに従っていますか。私にはなぜチンロがデータを発表しないのか分かりませんが?
「僕らはチンロの数字を疑う権利がないんです。僕らがチンロに金を払って調査させているのだと思っている。だからそのデータを信じないということは出来ません。それを信じなかったら、誰を信じたら良いでしょう。資源保全の科学はチンロにありますから」。
最後の私の質問はやや意地の悪いものだった。コステンコ氏の答えにあるように”自分らが金を払ってチンロに調査させている”、だから信じる、というのは答にならないように思えた。私が日本という”金が絡めば、科学も医学もヒン曲がる国”に生きて来た人間だからだろうか。
チンロはいままでソ連邦の資源を”国家の財産”として守ってきた。たとえ、科学者の聖域であったにせよ、今のロシアは金がすべてを動かし、”魚は金”といった風潮にある。
その聖域が冒されない保障はあるのか。かつてのような科学者への厚遇はないらしい。サハリン・チンロのツェルコヴァさんも生活やつれか、どこか暗かった。
こわごわ塩蔵加工場では交替で女性たちが休憩時聞を取っていた。さつきまで、怖々と魚を触っていた娘さんたちが、屈託なく日だまりで談笑していた。
ここのコルホーズには、他では見られなかった解放感がある。
「私ら労働者は、いいリーダーにめぐりあえるかどうかで、すべてが決まる」と嘆いたあのレイドボの漁民の声が、また聞こえる。あちこちの沿岸漁村で、明日の生活の心配を抱え、俯きがちな女性たちを見てきたせいか、ここの女性たちの雰囲気に気持が和んだ。皆にカメラを向けると「美しく撮ってね」といって良い顔を向けるのだ。
帰りにコルホーズの売店に寄った。暖かくなり、半袖の下着が欲しくなったからだ。それは百十ルーブル(十六円)しかしなかった。具さんもその安さにびっくりした。「だいぶ前に仕入れたんだろう。値段は仕入れのままなんですよ、きっと」。
隣の販売所では、サハリンでは一匹、六百五十ルーブルする生マスが二百五十ルーブルで売っていた。いかにも暮らしよさそうな町がコルホーズの四囲にあった。
地域社会といえば、ここでは「プラウダ」コルホーズが地域であり、社会でもあった。ホルムスク(旧・真岡)の街から離れ、この近々半世紀の間に作った新漁業集落である。多分、”社会主義しか知らない世代”が作った町だろう。資本主義化の波は漁業そのものにも迫っている。資金面では、ロシアの国との縁は切れたに等しいが、日本、韓国との”魚の道”はその凹んだ分を補っている。どこの国にせよ漁業と魚でならば話が通じる。まして北方四島のようなハンディキャップは、ここでは味わわないで済んでいる、それがどこか楽天的なコステンコ氏の言外にあった。さらに組合運動がこの人には面白くなっできたらしい。例えばその一つが組合提唱の外国への”買い物ツアー”だ。外貨を生かして使おうと、船一隻借り切って外国ツアーを組むという発想は、輸入と転売でその差額を儲けるという”野蛮な資本主義”の”ビジネスマン”とは全く違う。そこには民衆的発想がある。
氏のいう「労働組合はいまここで働いている人達だけじゃなく、退職者のこと、家族のこと、お葬式の面倒まで、つまり労働者の一生、頼れる所」、それはどこの人間でも望んでいる地域社会の基本モデルとほぼ同じであろう。
この旅の終りに、氏のようなキャラクターに出会ったことに私は感謝した。
忘れ物の話
余談を許していただきたい。私はこの街のレストランにカメラを置き忘れた。この短い旅での忘れ物はこれで二回目である。「ロシア人は人の物と自分の物との区別がない」と出発前からいわれて来た。日本でも物を置き忘れたらまず諦めるにしくはない。だが、その先入観を、ロシア・極東では裏切られた。つまり良い話ばかりになった。
細かい説明を省くが、ハバロフスクのホテルで望遠レンズを部屋に置き忘れた。両方とも手元に帰ってきた。望遠レンズはホテルの客室係の女性が同行の村山敦子さんに託してくれたし、ホルムスクのこのレストランでもカメラはレストランに保管されていて、後日、具さんの手を経て戻って来た。さきに触れたが、出発時から私の不注意で迷子になった私のナップザックも無事に旅先の私のもとに届いたし、撮影済みのフィルムも”落とし物”として戻された。組忽な不始末で失ったもののほぼすべてが戻って来た。”渡る世間に鬼はなし”の諺をロシアの旅でも味わわされたのだ。
オホーツクの魚たち・魚食文化
日本を出る前から、日本でいう漁人はロシアにいるのかとか、”魚食の文化”はどうなのかなど知るのを楽しみにしてきた。それらの片鱗にはその都度触れたつもりだ。思えば、魚には不自由しなかった。
魚好きの私たちはオホーツクでの食事に魚を欠かしたことはなかった。刺身を基準に考えると、街のオケアン(旧公営魚市場)では、口にあいそうな鮮魚にはおめにかからなかった。しかしレストランにはウーハ(魚のスープ)あり、ロシア風の煮ざかなあり、バター焼きや塩づけニシンやマスがあった。これはテーブルマナー違反だが、それらに日本の醤油を少々、垂らして食べた。これでは地元の魚の味つけは分からないが、つまり醤油をつかえば、魚は大抵、日本人の口には合うのだ。
「魚は国家のものだから一匹たりとも密漁にはやかましい」と何度も聞くが、自家用や野外のバーベキューなどは大目に見ているらしい。
オホーツク村での川辺の昼食はワイルドなものだった。どこで昼食かと思うと、川岸に車を止め、川魚のバーベキューの用意をし始めた。スープ鍋とフライパンにピクルスと黒パンを車から下ろし、流木を燃やして炉を暖めてから、魚を獲る。川の流れに背びれを見せて泳ぐマスを、こねたパン屑を餌にして釣るのだ。瞬くうち十数匹の淡水マスを釣り上げた。すぐにナイフで腹をさばく。そこでのウーハと焼き魚は十分に堪能した。
弁当がわりにカムチャツカのスーパーで買ったサケの燻製の塩辛さには閉口した。塩分十一%というから無理もない。日本人の口に合うのは塩分四、五%程度だろう。しかし黒パンとは不思議によく合うのだ。カニ罐やイクラ罐は滅多にお目にかからない。外貨を稼ぐ国際輸出商品だから国内市場にはあまり出回らない。イワシやサンマの罐詰が多い。イカと昆布の煮付けはダイエット用の新らしい商品である。
自家用のイクラは家ごとに仕込んでいるらしい。択捉島の紗那川では、マスを掴まえても魚卵だけ採って、魚身はそのまま捨ててあったという。そのイクラがキャビアがわりの島自慢であった。自家製キューリウオやサケの寒干し、タラの棒干しはそこここの軒下にある。カムチャツカのごみ捨て場には、食べ切れなかった干魚が捨てであった。やはり干魚は冬期のひとびとの常備する食品だったようだ。
ロシア人の食生活になかったイカはすでに定着した。ツブもレストランでは出された。カレイは日本人には極上の刺身魚、だが、ロシアでは下魚として安い。しかし、もし調味料に醤油が着目されたら、かれらの食生活はかわるだろう。花咲港にくる四島からの漁船員が、港のスーパーで醤油をまとめ買いしていることはすでに触れた。イクラの塩漬けに変わって薄口醤油のイクラの瓶詰が出回るようになるのは、多分、時間の問題だろう。
食生活も多様化しよう。紋別の漁民は「カニの技術はもう盗られた。タコ採りまでおぼえられたら、こっちはあがったりだ」。あるいは「ホタテ養殖はまだ教えらんねえ」。そのケチな根性には辞易するが、反面ではロシア人の学習の早さと、漁業技術にたいする貧欲さへの畏怖もあろう。
ロシア極東のチンロやダリルイバでは、大陸棚の底魚やカニ、ウニ、エビ、タコ、ツブ、ナマコなどの底棲資源や磯もののコンブ、ワカメ、テングサにオホーツク海沿岸漁業の今後を託している。だが、カニ籠、ウニ籠を例にとっても、まだロシア製の籠ではうまくいかないらしい。これらは日本人との合弁を通じ、漁法の技術移転が待たれているのだ。
「原魚を売るだけではいけない、付加価値をつけ”世界に通用する”水産商品を育てたい」。これを口にしないロシア人はひとりもいなかった。
合弁の肺活量を間われた「オホーツク水産」
日本の大商社はオホーツクについてのリサーチを続けている。カムチャツカではレストランで日本人漁業技術者とばったり顔を合わせた。その人の持つ漁場のデータはかなり詳細なものだった。だが、私がメモを取ろうとすると口をつぐんだ。
今回、はるばる訪ねたオホーツク水産で、目に染みたのは日本水産マーク入りの新品の巨大なコンテナだった。日本水産の技術者たちの撤退のあと、老朽化したロシア加工場にデンとおかれたその姿は異様だった。「ここまで日本人の水産業は来ていたのか」とびっくりした。おもえばこの一帯は、五十年前の日本の北洋漁業の古戦場だから驚くには当たらないのだが。
私たちは「オホーツク水産」の撤退現場を見学した。ロシア経済の大混乱の条件を一旦、棚あげして見ようとした。それを言い出したら、すべてがそれに帰着しかねないからだ。
日本企業側の言い分によれば、「地元のオホーツクでは、”こちらで道路も整備する。町と川を隔てた新工場のある対岸に渡る橋も作る”という話もあったが実現されなかった」。私たちもオホーツクではホテルからして不便を味わった。この地域社会は崩壊に瀕していた。
八〇年代後半、ソ連邦漁業省のじきじきの肩いれで、この合弁の話が出た。「オホーツク水産」の発足当時には、国家計画として、その社会基盤整備の構想もあったろう。しかし、ソ連邦は崩壊した。それが主な誤算であった。二千倍のインフレも、重税の次々の加算も、早期撤退の理由だ。それはオホーツクのロシア人たちにも分かっている事実である。
だが、企業側の目にみえなかった誤算は、現地のひとびとの期待があまりにも大きかったということだろう。
地域の発展に役立つ企業進出とは、”点”だけに止まらず、その”面”に広がって欲しいと住民のだれもが思ったろう。その”面”、すなわち地域社会が衰弱していればなおさらである。ソ連邦が崩壊し、国家計画としての社会基盤へのテコ入れがなくなったときから、日本企業は怖じ気づいたに違いない。「橋や道路はこちらで作る」とソ連邦は約束した。地元は日ロ合弁の事業がオホーツクに来たからには、いずれ将来はそれらが出来るのでは、と期待した。しかしソ連邦が崩壊した以上、それは望むべくもない。その無念のほどは十分察しられた。
しかし、真空パック加工や漁業提携は出来た。それは地域再生のテコになるはずだと、最後の望みを「オホーツク水産」にかけた。それが、引揚げることなど予想もしなかったろう。日本人にも訝しいものが残る。ふりかえって見ると、露領時漁業時代ならロシアの漁場の土地を借用し、日本人だけで完結する漁業場という小世界を営めば良かった。漁期が終われば、さっさと日本に帰ることができた。今はオホーツクという漁業専業の町がある、ロシア人がそこで暮らす街がある。「オホーツク水産」もそこの労働力に頼らなければ成り立つ話ではなかった。ロシア人はどこかに帰るわけにはいかない。日本企業は日本の都合や算盤をはじいた結果、撤退した。ロシア人の日本人への不信感は、付き合ってくれなかったことに尽きる。帰ったこと自体に失望したのだ。
また技術を教えてくれなかったという恨みは聞いた。さらに「真空パックの購入は、オホーツクには高すぎた設備投資だった」という現場の声もある。沖に停泊させた冷凍船と陸の加工場とを連動させるという日本水産のすばらしいアイディアも、いまは空に帰した。技術を教える教えなかったというには、時間が足りなかった。その機会もない間に、日本技術者たちはいなくなった、それに対する恨みの声として、私は聞いた。四年で撤退とは、それ以前の問題である。
あるロシアの実務家の言葉だが「ロシアには、今の日本より、もう少し前の段階の技術がぴったりだ。一挙に日本の最新の技術をもってこられてもロシアでは消化しきれない。日本の次の水準の技術のほうが、今のロシアの寸法に合う」。これは数年前に読んだルポのなかの彼の指摘だった。オホーツクの低い肺活量には、日本の高価な最新設備というのは日本水産の独善ではなかったろうか。それにしても訝しい。普通、高価なものを売ったら、せめてその耐用年数相当は買い手に付き合うのが、一般業界の最低常識というものだろうに。
ロシア人自身が、明日にも世の中が良くなるといった幻想は抱いていない。もし叶うなら、自分の世代のうちに、とみんな思っている(ニコラエフスクのゾヤさんほか)。
繰り返すが、何故四年で撤退したか。日ロの将来ために、なぜ、二十年先、三十年先の布石を打てなかったか。その後、せめてニシンの写真印刷のビニールだけでも補給しただろうか。
さようならオホーツク
オホーツクの春が盛りをむかえている。近傍のチェフォワ山の残雪が消えれば、真夏の訪れである。この旅で五度目の土曜日である。いまは市民のほとんどが畑作りと別荘作りに土日を当てている。近郊は農業国かと見紛うほどだ。良質な土壌の土地は早いもの勝ちで開かれ、すでに電気のつく別荘村になった。ソホーズはなくなり、野菜の自給は市民に欠かせなくなった。より街にちかい泥炭地にも工夫をすれば野菜は出来ることが分かった。
その一帯は白樺の根っこを掘ったり、客土を被せたり、あたかもサハリン開拓期の労働が再現したような情景だった。ユジノサハリンスクの人口はなんといっても十七万人である。市民の野菜の自給の夢は二、三年のうちにかなり叶えられよう。
半裸で家を作る男、水着姿で鍬をふるう女たち。畑つき別荘など夢のまた夢の私には、休日を楽しんでいる彼等が眩しく見えた。
サハリン空港で具さんと別れる。換金の窓をみると一ドルが千百八十二ルーブルになっていた。一か月前、ウラジオストクでは七百ルーブルだった。ルーブルの価値は七割に下がったのだ。
具さんとは再会を約した。これで当分会えないが、また、いっしょの道中をする気でいるから、多くを語ることもない。
美しい娘・オホーツク
中継地ハバロフスクで、イズベスチヤのレーズニック氏に見聞を報告する約束をしていた。日曜日というのに、やはりジャーナリストである、私たちの情報を待っていてくれた。かれは予約してあったホテルのレストランで特別誂えの大魚カルーガのステーキをご馳走してくれた。すっかり恐縮する私たちに、札幌のアブドウラザコフ総領事のテレックスの紹介状に”接待せよ”とあったと、冗談とも本気ともつかないことをいいながら厚くもてなしてくれた。
話題のなかでもカムチャツカの西海岸の話は、氏にもめずらしいらしく、質問が絶えなかった。私がチンロについてのホルムスクのコステンコ氏のチンロ観を紹介すると、レーズニック氏は厳しい顔になった。「チンロは正しく機能すれば良いが、残念ながらその一部は漁業の大手の賄賂でクォーターの基礎になる数字を動かしている。あくまで一部のものだが」。
レーズニック氏はその話題を転じて、「オホーツクを思う気持はロシア人も日本人も変わらないでしょう」と前置きしてから、ロシアの民話を例え話にした。
「この世のものとは思えないほど美しい娘がいたと思ってください。いつまでも美しいと誰もが憧れていた。この娘の美しさは変わることがないとだれもが思い、だれもが言い寄った。男たちはつぎつぎに娘を犯し抱いた。娘の美しさをだれもが胸に刻んで忘れなかった。しかし、あまり歳月をへないうちに、娘は醜く老いてしまった。男達は悔んだが、その美しさは消えて戻らなかった・オホーツクもその話に似ている。いつまでも豊かで変らない海と思って、振舞っているうちに、取り返しのつかない海になるかも知れません」。
調査の一か月は終わった。私はあまり海を見ることをしなかった。海をめぐるひとびとに出会うことで精いっぱいだった。用意した百枚の名刺は一枚残らずなくなっていた。