書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 オホーツク編  調査素材との格闘の三か月 <1995年(平7)>
 書籍「されど、海 存亡のオホーツク」 オホーツク編  調査素材との格闘の三か月 

 帰国、資料整理とテープ起こし

 一九九三年六月十四日、新潟空港に帰りついた。大津氏と空港で日本蕎麦をすすった。注文したものが、すぐにその通りに出されてくる。「やっぱり日本だなあ」と感じた。
 自宅に帰ってからも、落ち着かないのは調査素材の整理である。
 JTBの付けてくれた”オホーツク学術調査ツアー”では毛頭ないが、記録した素材は何ひとつ失うことなく持ち帰ることができた。
 八ミリ・ビデオテープ三十時間分と録音テープ三十六時間分、小型ノート三冊、写真スライド千三百枚。その整理に二か月を予定した。
 私たちが八ミリビデオを携行した目的は、次回作の資料映像としてだった。すべて大津幸四郎カメラマンの撮影にお任せした。私はもっぱら質問と聞き書きに追われた。そこは気心の知れた仲、映像の記録はすべてお任せだった。これからのことで念頭にあるのは、お世話になった方への映像による報告である。とくに、根室、道東へは仮編集にせよビデオの映像を土産話として報告したかった。あまりにも知られていないロシア人漁民の世界だったからだ。
 さてしかし、ビデオを見ても、にわかには編集に着手できなかった。私の見たオホーツクと大津幸四郎氏の撮ったそれとの違いもある。”これは大津演出・撮影だな”と冗談半分に言ったが、その通りである。私の見過ごしたいいシーンが撮られている。また、ポイントが撮られてなかったりした。それにもまして、私ゆえの”NG”がある。たとえば、”演出者”が画面の中を横切り、勝手に動きまわったり、タバコを吸ったり目障りなことおびただしい。ビデオの録音にも私の配慮がなかった。カメラが静かな風景を撮っているわきで声をあげたり、撮影中の大津氏に話しかけたりする。およそ映画の撮影現場での”ご法度”を冒している。
 いつの間にかカメラが回っている。私が意識しないだけに、相手のロシア人もそれを意識しない。「こんなことまで喋っていいのか」と思ったほど相手は警戒心を解いていた。それは私自身、「いまだ見たことのない」類いの映像であったりした。
 大津氏の判断で八ミリから放送規格にあうマザー(複写用原版)にした。前のテレビの準備当時、私が勝手に「オホーツク・スタッフ」と決めている山邨伸貴氏にその段取りを頼み、助監督の西森一夫君は三日かけてマザーをコピーしてくれた。
 翻訳は村山敦子さん、資料整理とテープ起こしは助手の青木基子がこれに専心した。その意味不明の場合には、のちにロシア語の同時通訳者、児島宏子さんに当たってもらった。
 夏は過ぎ、秋になり、冬の訪れの迫るころ、ようやく全録音テープの文字化と資料の解読は一段落し、ビデオの整理は終わった。

 ビデオの中の口シア漁民を見る

 その間、一九九三年のロシアはさらに激動をつづけた。エリツィン大統領とロシア最高会議の対立は十月三日、モスクワの流血事件へと発展した。世界中が固唾をのんでその去就を見守るなか、十月十一日、エリツィン大統領は予定通りに来日した。それは「ロシア内部の権力闘争の勝利者としての国際的誇示」とメディアが報じた通り、圧倒的なド迫力であった。
 今回の旅で、かつて国際的には歴史的な役割を演じたゴルバチョフ元大統領が、ロシアの民衆から不信感を持たれていることを知った。日本では分からなかったことだ。一方、エリツィン氏はこの四月の大統領信任国民投票で、極東・ハバロフスクでは七十%を超える支持を得た。具さんは、サハリンも北方四島もエリツィンに投票した人の方が圧倒的に多いといい、その理由を「私の意見だが」と前置きしてこういう。
 「ゴルバチョフがかっては汚職に目を瞑ってきたことを知らないロシア人はいない。口とすることが違う。きれい事ばかりいうタイプだ。反対にエリツィンは言うことはゴツイが、一旦、国民に約束したことは頑固に守る。ロシア人はエリツィンのタイプが好きなんだ」。真偽のほどは分からない。ロシア人たちに漁業以外、国内政治などについて問うことはしなかった。だが、エリツィンの強腕に対する奇妙な期待感が、極東、そして北方四島にもあることは、私たちにも察しられた。
 このエリツィン訪日によって、北方領土問題がロシアのぺース、エリツィンのイニシアチブに移ったことは歴然としている。歯舞、色丹の二島の返還を明記した一九五六年の日ソ共同宣言の確認はもとより、日本側の求める「国後、択捉を含む四島返還」にも言質をあたえなかった。ロシア、とくに極東では、エリツィン外交によって、当分、領土の返還は先送りされたと解釈したであろう。その限りでは一定の”明解さ”をロシア国民に示した。
 ビザなし交流でようやく、民衆レベルでお互いの顔をみての対話と信頼を醸成してきた実績は、今回の”東京・モスクワ”会談の風圧を受けてどうなるだろう。
 エリツィン旋風(九三年十月)に踵を接して、再び極東でのロシア海軍による核廃棄物の海洋投棄が再開された。ウラジオストク沖での投棄現場を撮影した国際環境保護団体グリーンピースからの生々しい映像が放映された。そのロシア領海内の海域は日本海の漁民には知られたイカ釣りの好漁場である。この新しいパニックが、エリツィン・パニックを凝固させる作用をもたらした。もし、これが意図的な連打戦法としたら、ロシア政府への不信どころではない、憎悪の感情すら起きる。極東はヨーロッパ・ロシアから見れば、人眼につかない裏庭なのだ。あとで北極海などに捨てたことも知ったが、ともに海をないがしろにしていることに変わりはない。
 正直なものだが日本人の”嫌ロ”感情もこれを機に広がりはじめた。私自身がそれに押し流されそうだつた。しかし、私を辛うじて支えたのは、ビデオに残る、ロシア・オホーツクの民衆像であった。核廃棄物について、ロシア人漁民は言下にそれを批判した。その健全さを疑うことはできない。北方領土問題にしても、対話のきっかけになる事象と、ロシア人の本音も聞き得た。日本では、反ロシア、反エリツィンの逆風が吹いているが、いま、ロシア人漁民や四島のひとびとの素顔を紹介しても、遅きに失することはない。
 私は迷いと逡巡を抱えながら、これをテレビで公開する方法を探した。

 素材をテレビへ

 メディアの北方四島取材はいまだに解禁されていない。放映にあたってそのことが問題にされないことを希望し、旧知の山上徹二郎プロデューサーにテレビ局との交渉を依頼した。NHKの教育チャンネルETV8スペシャルがこれに応え、放映日を取り、編集の裁量権をこちらに約束してくれた。山上プロデューサーは「はじめから”北方四島を撮りたい”と企画を提出したのでは、実現はむつかしかったのでは」という。独自に先行し取材したことが生きたのであろう。
 普通、この種の編集、構成にあたって、しかるべき専門家を監修者としてスタッフに迎え、事実誤認やミスを防ぐ手立てをすることがある。しかし今回はその適任者のアテがなかった。まだオホーツク全域を、しかも漁業の視察に歩いた人を、私は寡聞にして知らない。すでにのベたように商社マン以外にないだろう。私たちの見聞きした映像とテープを見ながら、自問していくほかはない。その点で私は記録映画の方法をあらためて洗うことになった。
 記録映画・ドキュメンタリーの魅力は所詮、仮説崩しの面白さにあると私は信じている。現場で予想を裏切られ、さらにラッシュ(ビデオ)で自分の”主観主義”を覆され、困惑するのが常だ。撮れた映像が再思再考をうながす、もうひとつの目になる。あらためて、記録されたものの意味や言葉や感応まで辿りなおす道具としての映像がある。
 何度も確かめ、疑問点を洗い直す機会が保障されている。このように試行錯誤や原点回帰が許された表現方法がほかにあるだろうか。作り手側の”映画的思考”というものがあるとすれば記録映画・ドキュメンタリーほどその可能性を持つものはない。
 九三年の年末から、一気に放映にむけて制作体制に入った。
 十二月、根室、羅臼ほか道東の現状をあらたに追加撮影した。それから翌九四年の一月にかけて、「オホーツク・スタッフ」は総掛かりで、これをまとめた。
 二月中旬、『存亡の海・オホーツク〈八ミリ旅日記・ロシア漁民世界をめぐる〉』と題して二夜連続で放映した。荒けずりのスケッチだが、自由に構成した。
 第一部、副題「ソ連崩壊後の極東漁業はいま」。
 第二部「越境する魚たちー波連なるサハリン・北方四島」。
 それぞれ四十五分番組の計一時間半のドキュメンタリー番組である。私にとってはNHKでの仕事はこれがはじめてである。その機会を得られたことに、感謝した。根室からの反響には「想像を越える現実だった」、「ロシア人漁民の顔が見えたのがよかった」というものが多かった。

 ふたたび緊迫の北方水域

 話を一年前、旅の終りころに戻さしていただく。
 九三年度、海明けから始まった漁期早々、北方水域はロシアにかたくガードされるようになった。四月下旬には多楽島周辺でカレイ刺し網船がだ補された。五月中旬から下旬にかけて国後島沖でもカレイ刺し網船五隻がだ捕、船長ら五人が色丹島穴澗に連行された。(それは私たちのオホーツクへの旅の頃と重なっている。)
 七月中旬、ロシア環境保護委員会監視船から海上保安庁(以下、海保)への通告によれば「今年(九三年)に入って羅白漁協所属の漁船九隻、漁民三十一人がロシア側にだ補された」。
 さらに羅臼漁船の久栄丸の船長がユジノサハリンスクの拘置所内で自殺した。なぜ自殺に追いやられたか。これについてはいまも原因究明が続いている。一部では、かれらが単なるカニの密漁ではなく、ロシアマフィア、あるいは日本のやくざ組織にからむ、新手の密輸組織の介在のバクロを恐れたからだ、といわれる。四島の密漁の共犯者としてロシア側の関与の疑いが浮上してきたのだ。
 ロシア人密漁者たちがロシア税関や州政府の目をくらまし、カニを獲り、洋上で日本漁船に売る。それを日本で売り、儲けをロシア人密漁者に渡す。そうしたカニの”洋上”密漁・密売ルートの全貌の発覚を恐れ、日本船長が自殺した。しかも話はさらに根深い。「このカニの洋上買いの黒幕はクリル地区実力者で、国境警備委員会を抱き込んでいる」(九三・九・六、北海道新聞)。私の印象では、構造的にみて、この可能性は高いと思われる。
 同年十月、ロシア国境警備委員会は「七月から十月までに百三十件の越境違反操業をレーダーで確認」として海上保安庁に取締り強化を要請している(洋上会談で)。
 日本側の海保も摘発行動を強めた。海明けから、日本側の密漁も激化していたからだ。その大胆不敵さにさすがの根室市民も驚いたのが、七月に摘発された”色丹島・毛ガニの大量密漁事件”である。延べ四十三回、総計二十七トン、時価一億一千万円相当である。資源調査のための日ロ共同調査船第五十三北星丸の許された同三角水域での毛ガニの漁獲総枠ですら四十トンである。これは厳密に守られてきた。密漁船一隻でその七割を獲ったのだ。
 漁期も半ばを越えた九月、道の新取締り方針が出された。それまで漁協所属の違反船への罰則は各漁協の裁量に任せられていたが、道は「漁協免許の停止処分・六か月から一年」を要請した。それまで、これに準じていたのは、管内入漁協のうちわずか二漁協であった。貝殻島のコンブに頼る歯舞漁協、育てる漁業に安定した野付漁協である。これ以外、根室、羅臼など、だ捕事件を抱える漁協では、処分は一週間から十日の停泊、出漁自粛に過ぎなかった。ほぼ、ゼロに等しい罰則である。これを機に道東の全漁協も新方針に従うことを決めた。
 一方、北方四島から聞こえて来る情報は惨憺たるものであった。とくに国後、色丹島は春から燃料不足で非常事態発令に陥り、択捉島の返還反対派のカシプルク議長までが北海道の横路知事にも救援要請をした。九月、同議長は「ロシア政府は島民を見殺しにしている」と独自に米国海軍にディーゼル油を要請するまでに追いつめられた。
 国境警備隊の警備船艇の非常備蓄燃料まで民生用に回した(六・十一、タス通信)。事実、国境警備が九三年に入ってとみに手薄になり、地元の漁民の間に「国境警備隊は動きがとれない」と情報が流れた。「だから稼ぎどきと思ったんでねえか」(野付漁協)。
 しばしば「漁船に照明弾発砲か」と報じられたが、闇夜に計器航行してカニ籠を入れるのが常態であれば、ロシア国境警備隊が照明弾で確認し、威嚇するのも当然である。日本側の海保、漁協の目が光っているから、白昼は動かない。もっぱら夜行性密漁なのだ。北方水域で照明弾が打ち上げられ、高速漁船が波浪を蹴って日本領海に遁走する光景はただごとではない。
 政府や道の四島への”人道支援”は要請あるごとに続けられた。ビザなし交流の船には支援物資が搭載された。この支援者の日本側と、救済要請の被支援者ロシア側との関係はひとびとの心理、感情に影を落とさずにはいない。「なぜ、いつもたかられるのだ?」。
 余談めくが、同九三年七月の北海道南西沖地震の四日後には、ロシアから松材三千立方メートル(三、四千万円分)が救援物資として奥尻島に贈られた。あまり知られていないが、ロシアのギブアンドテイクの例として、付記しておきたい。
 元島民で択捉島に”民間外交”( 技術指導)に行った照井二郎氏は「大陸へ帰りたいロシア人はその準備に必死だ。島はいずれ人口が減っていく」と観測する。その通り、九二年、四島からの転出二千三百十六人(転入千八百三十三人)。「今年も五百六十家族が移住希望している」(六月、サハリン州議会で報告)。
 引き続いて、南クリル行政府(国後、色丹)議会は九三年度予算に千三百人分の「住民移住費」として三億六千八百ルーブル(三千六百八十万円、地区予算の十四%)を計上、可決した。
 色丹島の罐詰工場では従業員二千三百人の一割が離職して、「住民移住費」の支給をまっていた。だが、これは帰郷者の引越し資金がインフレで消えた、それを支給せよという要求にも思える。去る人もある一方、島に仕事をしに千八百人余りが転入している。
 島の帰郷希望者にとっては、この夏を逃せば、また厳しい冬を送ることになる。ビザなし交流の今後について、南クリル・ポキージン地区長は今後の派遣を取り止めざるを得ないと言う。ロシア船のチャーター料一日分、二十七万円(三百五十万ルーブル)、訪問団の個人負担三十二万ルーブル(月給の三ー五か月分)かかる。「日本に行って、ただパーティをするだけでは、多額のお金を負担する魅力はない」(九三・十・十六、北海道新聞)。これは駆け引きではなく、本音であろう。
 その経済交流についても、これまでにない言い方が出てきた。「カニ・ウニ輸出入は実際に存在しているものだ。その事実に目をつむるな」(テレシコ南クリル行政地区議長)。
 ロシア経済がどん底に落ち、島社会の瓦解、旧漁業コルホーズの停滞・混迷、国境警備隊の機能麻痺という最悪の九三年であった。そして、自国政府に期待を抱く具体的成果はかけらもなくなっていた時期、ナショナリズム政治勢力も、軍部も「領土(北方四島)の割譲は有り得ない」との声を合わせた。
 この揺れ動きの中でのエリツィン氏の十月訪日(九三年)と、その政治的腕力は、索漠、寂寥をきわめたロシア人島民への精神的支援として、激励の効果を与えて締め括ったといえる。
 同じ九三年、この島の空前の危機と警備力の低下の時期は、密漁から密輸をふくめ、日本漁船の稼ぎどきにもなった。一時的にせよ、露骨なまでの”略奪漁業への先祖帰り”であった。
 一方、ロシアの武力行使にも”大国主義への先祖帰り”を見ないわけにはいかない。
 国境警備隊が、だ捕の前後にカレイ刺し網の根室漁船に対し、警告のうえとはいえ実弾を使用し、船長の左ももに全治二、三週間の怪我を負わせた。いかに日本漁船が挑戦的であったにせよ、武装して密漁しているわけではない。これはロシア側の謝罪に値する。
 だが不幸なことにこれについての対応は、承服できないものだった。この発砲者は罰せられなかったばかりか顕彰された。
 それに抗議した日本にたいしロシア外務省カラシン報道部長は「今年の日本漁船の密漁は延べ七千六百九十件に上った」と指摘した。以後、その数字は一人歩きし、機会あるごとに引用された。この事実を挙げての批判に対し、それを否定する日本側には、それに反論する数字も調査もなかった。それは暗黙の是認を意味する。ポキージン地区長も、「違反がロシア側に見付からないことは一切ない」と、密漁の見逃しはあっても、確認はしていると念を押した。
 九三年十二月、ロシアの議会選挙が行われ、もっとも右翼的なロシア自由民主党が極東においても想像を越える支持率を得た。サハリンでは三十四%である。
 ジリノフスキーの公約は、デマゴギッシュにせよ、ロシアの対日関係についての潜在的な極右的意見を明解に列挙してみせる。
 「領土問題は存在しない。日本には一メートルたりとも領土を渡さない。オホーツクはロシア人の内海として外国漁船を締め出す」。そしてもし領土要求を撤回しなければ極東艦隊をもって封鎖するというものだ。これが北方四島においてそのまま肯定されたとは思えない。コサックの来島を断った島民たちが今も島にいる。だが憂さは晴らしたろう。

 密漁者を追い詰める

 ロシア人の窮迫について、もう十分に述べたつもりだ。一方、根室、羅臼の漁民の追われかたも尋常ではない。道東に関していえば、根室管内で密漁・自粛の声は強まっている。にもかかわらず、カレイ刺し網とカニ籠漁の密漁事件は絶えない。なぜか。
 北洋漁業は、公海でのサケ・マスを追われ、底引き網を禁じられた。小型でも数千万円の先端的な操法機器を搭載し馬力をパワーアップした。その銀行利子負担だけでも容易ではない。スケトウ景気はこれからも続くと信じ込んで、ピカピカの砕氷型新船に投資を重ねている。一見豪奢にみえる陰で、多くの漁協がそれぞれに貧乏神に取り愚かれている。
 「過剰投資したものが越境操業する。沿岸でも地道にやっていればこうまではならないだろうに・・・」との批判の声も漁民の中から出ている。もっぱら、地道に育てる漁業をめざす自立した漁協からだ。しかし漁民をあおって一斉に過剰投資に追い込んだのは誰だろう。
 中国人の密入国に、訳も分からぬまま遊んでいる漁船を賃貸しした根室漁民のことは記憶に新しい。この十九トン船漁民の困難を見過ごして、取締りだけ強化しはじめた道の方針は、”自然淘汰”をまっていると北海道新聞は批判している。非情な法の執行だと零細漁民の目には映っている。とくに十九トン船以下の漁民が干されていく。
 釧路の百二十四トンの沖合底引き網漁船が択捉島沖で操業して捕まった。沖合での底引きは資源保護上の規制がもっとも厳しい。「百トン船の密漁とは」。それが釧路から択捉島まで出向いて違法操業をしていたのかと同情は少なかった。「密漁にも程度がある」のだった。
 北方水域最良のカニ漁場、三角水域ですら、試験調査船は九三年度、カニ資源は前年比の半分に激減しており、「もはや”開発”された漁場と見るべきだ」とその衰弱を報告している。ここはカニ資源が無尽蔵にあるといわれた水域である。この調査報告は根室に暗欝な衝撃をあたえた(九四・六・八、北海道新聞)。

 密漁根絶作戦「群来九四」

 九四年に入ってから、密漁にたいしてロシア側の準軍事的作戦がモスクワで組まれ、極東は一斉にそのキャンペーンに入った。それは国境警備隊がかつて所属したKGB、それを引き継いだ保安省の編成替えによって、連邦国境警備局に格上げされ、大統領直属組織になったことのアッピールも兼ねていた。
 すでに九三年四月には、「国境法」により武器使用を認められていた。今も続く密漁者への実弾威嚇、傷害事件は、この法令によっている。
 総司令官ニコラエフ氏は「領海侵犯への注意を喚起し、これを国家レベルの問題に格上げする」という(九四・二・三、朝日新聞)。「発砲することもある」、「太平洋艦隊の出動もあり得る」など日本漁民にとっては最後通告的な声明が出された。
 このモスクワからのテコ入れに連動して、サハリン州政府知事クラスノヤーロフ氏もインタビューで「ロシア軍が択捉島から飛行連隊を撤収したことが日本漁船の領海侵犯の激増をもたらした」と発言、エリツィン大統領の東京での「北方四島からの軍隊撤退」に逆らう見解を述べた。知日派で漁業専門家でもある知事だけに、日本漁船の密漁によほど我慢ならなかったと読み取れる。
 またこれは、諸外国漁船にも向けられていると警告している。ロシア当局は、日本漁船だ捕七十七隻を最高とし「中国十一隻、ポーランド十隻、韓国四隻」もだ捕したと発表した。だ捕されたのはオホーツク公海部で乱獲していた、いわば”常連国”の漁船である。
 北方四島、南クリル行政府当局にも、変化が起きた。”国後島の大統領”といわれ、ビザなし交流の主役だった地区議長テレシコ氏は、私たちも面会した「漁業秩序を断固作る」と述べた漁業担当副知事メドベェジェフ氏につぐ、州漁業局次長の席に着いた。
 九四年二月、日本の「北方領土の日」、南クリル行政府のポキージン地区長は「日本はロシアへの人道的援助額をはるかに上回る、十億円以上の水産資源を北方水域から略奪している。われわれへの一番の援助は、密漁をやめることだ」とあからさまに批判した。サハリン州政府も、「日本漁船の密漁による被害総額は九十二億円に達する」とその数字を示した。
 これらのロシア側の反密漁キャンペーンに対し、日本側は日ロ協議の席上「越境操業は”日本固有の領土”における日本の国内法違反で、ロシアに”領海”侵犯と非難される理由はない」との十年一日のような反論を繰り返すのみだった。
 だ捕はつづいた。日ロの地先協定によるロシア二百カイリ内で操業のタラ延縄に不法操業があったとしてだ捕されるや、根室管内の小型はえ(延)縄協議会は全二十九隻に帰港を指示した。「まさかタラ船までが」と根室では緊急会議が開かれ、違反者を「除名せよ」という自粛の声も上った。マダラはいままでは、多少の不法操業は見逃されていたからだ。その前例を見ないロシアの厳しさに震撼した。
 ロシア国境警備隊スカピノフ海軍司令部第一次長(海軍大佐)は四月末から北方領土周辺で、海軍からロシア漁業委員会の監視船、税関も総動員し、作戦「群来九四」を実施すると発表した。サハリン州副知事も「偵察衛星で監視し、この十月まで三段階にわたってこの密漁根絶作戦行動を続ける」という。
 この作戦は事前予告の効果があったためか、この時期、日本漁船のだ捕はほとんどなかった。それに比して、ロシア船が次々に挙げられた。ロシア漁船の密漁防止と水産物の日本の港への密輸も対象にし、「輸出許可のないロシア漁船(密輸船)が日本に向かっているのを確認すれば、漁業権も輸出ライセンスも剥奪する」と強い声明を出した。
 
 ポキージン提案

 北海道では良く知られているが、ポキージン提案の意味について考えるまえに、簡単にその経過について触れておこう(主として北海道新聞道東版による)。
 九四年三月二十八日と四月四日の二回にわたって、南クリル地区(国後、色丹島)のポキージン地区長から「北方水域での”民間協定”による漁業協力」の提案が根室市にテレックスで送られてきた。具体的には貝殻島でのコンブ漁のように、日本漁船が入漁料を支払って、魚を獲る形なので、地元では”貝殻島方式”という。
 大矢快治市長は「地元漁民にとっては、一九八六年、三角水域(色丹島沖)から締め出されていらいの悲願」と受け止めた。各漁協や漁業関係者も、実現への期待を表明した。だが壁がある。外務省の出方がどうかだ。
 外務省は”貝殻島方式“は戦後の歴史的経過もあり”特例中の特例”として認めるが、「地区長クラスの(ポキージン地区長)提案では大きな事態とは考えられない。領土問題と絡むので、しばらく静観する」というものだった。外務省としては「不法占拠されている北方領土を、ロシアの所有と認めることに繋がるおそれがある」のが第一、しかも、このような問題がロシアの一自治体から日本の根室市当局へ提案されるのは理解できない。つまり、モスクワ・東京レベルの問題だ、というのだ。
 「島についての日本の主権」はどうなるか。それは根室市長が最初に危倶した問題点であった。また、ポキージン地区長の漁業についての権限が不明である。すでに再三指摘したように、クォーターの実権はモスクワ段階、サハリン州段階、そして地区段階に三分されている。「サハリン州知事の提案ならまだしも、南クリル地区には通常、漁業権はないはずだ」という日本側の質問に対し、ポキージン地区長は「モスクワにも了解をとる」と答えた。
 ついで四月十六日、モスクワのロシア外務省、パノフ外務次官は時事通信のインタビューに答えるかたちで「日本の法的立場を損なわずに、漁業協力は可能だ」として中央政府として基本的にポキージン地区長提案を支持表明した。これ以後、地区関係者の発言は柔軟になった。
 ポキージン地区長は「ロシアはいつも禁止ばかりで、操業水域を狭めてきた。これでは両国の相互理解と善隣友好には役立たない」と提案の理由を説明した(四・二十二、北海道新聞)。
 またテレシコ・サハリン州漁業局次長は「入漁料による外貨は、資金難の地区にとって、のどから手がでるほどほしい」(向上)。
 四島からの生の声が聞こえる。モスクワはまだ堅いが。
 例えば、モスクワのロシア漁業委員会ジラーノフ次官は、「漁業委員会はポキージン地区長の”貝殻島方式”を支持する。コンブやウニ漁は対象になり得る」と限定的ながら政府として支持した。
 
 「漁業資源の保護基金」

 このように順を追って見たのは、ロシア側では北方四島の地区段階から、州へ国へと支持が上に登っていくさまを紹介したかったからだ。これまでの貝殻島コンブの民間協定でも、サケ・マス交渉、日ロ地先漁業交渉でもすべて東京ーモスクワで決められ、州、地方、そして末端に流されてきた。それが逆流の形をとっていることに新らしさを覚える。しかも作戦「群来九四」の場合はモスクワからの上意下達の線であるように思える。その作戦とこのポキージン地区長提案との違いはなんであろうか。上記のポキージン氏、テレシコ氏の率直な物言いはいままでにはなかった。
 日本の外務省は依然として、これに消極的な姿勢を続けている。すでにのべたようにロシアの漁業委員会や外務省は、四月段階ではやばやとポキージン提案への支持を表明している。
 一か月後の五月二十七日、根室市を訪れた外務省・西田恒夫ロシア課長は根室・道東の首長や漁業関係者を前に講演、「(島と根室などの)地方間の提案であって、政府として新たな問題意識で取り組む考えはない」とニべもないものだった。これでは地元の落胆ぶりは目に見える。

 とはいえ、その後の政府の動向は、地元の高まりによって、北方領土にたいする国家の主権を損なわない形で民間協定の線に近づいている。外務省の基本路線をどこで守るか、その大義名分にこだわりつづけている。そもそも”入漁料”とは外国の二百カイリ内操業に支払われるものだ。北方領土水域では、あくまで入漁料のかたちを採りたくない。それに代わるお金の払い方の方式に苦慮している。「人が住む家の目の前で、よその人が来て魚を獲ったら、お礼するのが、どこの国でも礼儀だろう」。これは二百カイリ条約が出来た頃によくでた比喩だ。
 根室管内の漁協ではポキージン提案に応じた場合の水揚げの予想を十四万トン、二一百六十二億円、その水域での漁船の操業隻数、千五百隻と見積もり、実質的にその水揚げの十一%分をロシア側に”入漁料”として支払うという”貝殻島方式”のバリエーションを考えている。
 外務省ではその入漁料分の名目に「漁業資源の保護基金」の案が練られているという。それでは使途は特定されることになる。ロシア側では筋の違う条件つきの返事と解するかも知れない。北方領土が「日本固有の領土」であるなら、その資源の保護は、その費用ともども日本の責任であるはずのものだからだ。私には、ポキージン地区長の真意は「今までの密漁という夜の闇の部分を、白昼の問題として公然たる交渉に組み替えよう」ということに尽きると思う。その代償をかれらは入漁料と言い切って不都合があろうか。外務省は北方領土問題が片がつくまで、目を逸らし続けられるのか。
 ロシア外務省パノフ次官はこの九月次のように朝日新聞のインタビューに答えている。「(入漁料提案の問題で)領土問題を有利に運ぼうという意図はない。政治的な思惑で、漁民の生命を脅かすべきではない。(すでに交流や共同の経済活動がはじまっている今日)ベルリンのように”クリルの壁”を築く必要はないし、それは不可能だ」。次官の言葉の奥には国境なるものは人間を苦しめるというベルリンの壁の痛みが残っている。

 ”海も魚も”

 ”島か魚か”。この根室で生まれ、矛盾の端的な表現としていわれてきた言葉にもう別れを告げるべき時がきたのではなかろうか。
 「島」とは国家の主権の象徴であった。第二次世界大戦のすべての交戦国との平和条約が締結されたにもかかわらず、隣の大国、ソ連邦・ロシアとは北方領土の帰属ゆえに決着していない。だが、その島において、魚をめぐる地方・地域住民レベルのパイプはいやおうなしに太くなっている。ポキージン提案の核心は「しかしパイプはある」と指摘したことだろう。
 北方四島のロシア人漁民は日本人の密漁(漁業)を眺めながら、自分たちも海の恵みで生きたい、生活も楽にしたいと思ってきたに相違ない。「入漁料とは島の生活を支え、発展させる資金なのだ」と包み隠しもしない。

 今四島にはロシア人密漁者も押し掛けている。択捉島では他の州、例えば沿海州、マガダン、カムチャツカからの密漁者と四島のロシア人漁民の、漁場をめぐる葛藤が表面化しつつある。国後島でも自衛策として、独自に漁民の監視船を持つ話まで出ている。いずれそのロシア内部の矛盾も爆発するだろう。その根底には資源の枯渇についての恐れがあるからだ。
 乱獲や金儲けのために海の資源を枯渇されたら、日ロ漁民は、死なば諸共である。それについての日ロ漁民間の協議の機会は待たれているのだ。それをさておき、国権の証しである北方領土の帰属をめぐって果てしない論議を数世代に亘ってやるのかどうか。
 日本人元島民の、北方四島についての危倶は絞られていた。島は戻ったが、魚のいない海、死んだ海になっていたらすべては無駄になるー。この漁民たちの危機感が北方四島問題の最大の課題であろう。
 もともと、”島か魚か”の言葉の主語は国家・国民の選択として、であろう。もともとを正せば”島”より海ではなかったか。”海も魚も”の思惟がもとめられている時代がきているのだ。
 ポキージン提案がもし、地域の自治、あるいは漁業共同体としての島の内側からの発想であるならば、国後島やホルムスクのコルホーズのリーダーたちの顔が重ってくる。「協同組合」的地域社会の胎動かも知れない。

 今ロシアに”秘密”はなくなりつつある。軍事につけ、核につけ、徹底して丸裸になっている国、”愚行”さえも、これだけさらけ出している国は他にあろうか。それが希望である。隣の国と仲良くとはだれでもいえる。ポキージン提案をどう受け取るか、ボールはこちらになげられている。すぐにも話合いに入ることだとおもう。
 今回、オホーツクで小集団のリーダーに会ってきた。漁業集団としての旧コルホーズ員を抱え、どうやったら国から自立し、全員食っていけるのか、そのことに心を砕くひとたちだった。ロシアは「失業のない国」ではなくなった。だが、そのモラルの下に生を受けた世代である。かれらが試みる生活の実験には時間がかかるだろう。ポキージン提案とはそのような回路を示してはいないだろうか。
 
 この北方水域の激動の最中、九三年六月、ニューヨークで開かれたグリーンピースほか十の国際NGO(非政府組織)と世界自然保護基金(WWF)の会議があった。そこで「公海操業も”入漁料”を」という提言がなされた。「すべての海洋生物は生態系から見て健全な保全対策と管理規制のもとにおかれるべきだ」。そのために「資源保全基金」の設立を、という提言である。
 その対象魚として、マグロやマダラなど、いわゆる高度回遊魚が上げられているが、スケトウにしてもイワシ、サンマ、サバ、そしてサケ・マスにしても、地球的な資源として見ることでは同じであろう。
 ベーリング海で激減したスケトウ資源の保護のための、三年にわたる国際的禁漁は成功した。ロ、米、韓、中、ポーランド、そして日本も協議を尽くした。それなのに、なぜオホーツクの公海部の各国漁船の乱獲問題は決着しないのか。ロシア人の”オホーツク・内海”意識への牽制ないし無視としかいいようがない。
 羅臼沖のスケトウの激減はロシア漁船との競合操業のためなどではなかった。オホーツク公海部での恣意的な大乱獲の結果である。日本漁船はそれに加わってはいない。しかしベーリング海の場合と危機のかたちは同じである。オホーツク公海部について日本がその協議に熱心という話は聞かない。オホーツク海での略奪漁業の歴史のシッポがまだ取れていないのではないか。
 北洋漁業、さらにさかのぼる露領漁業史的教訓の一章は、あきらかに日本人の手で書き始められなければならないだろう。