書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」記録とは何かー土本典昭作品が問い続けてきたものー 佐藤忠男/黒木和雄/土本典昭
岩波映画という場所
佐藤忠男 同時代を知っているという意味で司会をすることになりました。私がお二人を知った頃の状況からお話しします。私たちが映画の世界に入った一九五〇年代の半ばは劇映画の全盛時代で、ドキュメンタリーというものがあるのは知っていたが、教育映画、PR映画といったものと考えていました。PR映画は業界の中だけで、社会の表面にはほとんど出てきません。教育映画は試写もやらない、製作会社からフィルムライブラリーを通じて学校に行くもので、映画ジャーナリストの目の前には現れない。したがって、ほとんど視野の外にありました。もちろん、戦争中の亀井文夫監督の偉大な業績は畏敬の的でした。当時まだ活躍していらしたが、伝説的作品の「戦ふ兵隊」などはプリントが失われて、一九七〇年代まで見ることができなかった。作家的な方法も独自のものがあった亀井さんの歴史的意義を別にすれば、映画ジャーナリストが食いつくような面白さをドキュメンタリーには感じていなかった。観る機会もほとんどありませんでした。
一九五四年にできた羽仁進監督の「教室の子供たち」は、ドキュメンタリーが新しい映像的な世界を切りひらいた、むしろ映画の一つの先頭に立つような作品が現れたと、みんなをあっと驚かせた。それは羽仁進個人の名声のようになって、ドキュメンタリーはそれ以上に注目はされませんでした。ただ、岩波映画には羽仁進だけでなくて、若い人たちの面白い動きがあるらしいことは伝わっていました。PR映画で過激に実験映画的なことをやっているらしい、面白いことをやっているらしい。そういうものは特に試写してもらって観ていました。
駆け出しの批評家だった私は、その頃、岩波映画にルポに行ったことがありました。当時、岩波映画の若い人たちが出していたタイプ印刷か何か、雑誌のようなものがあり、それを見て非常に驚きました。そこには、岩波映画の幹部級の監督や編集者、伊勢長之助さんらの方法についての批判論文が載っていた。その頃の撮影所は非常に封建的で、偉い人を撮影所の中の人間が批判するなど想像だにできない。それをやったのが増村保造ですが、それ以外には想像もできないことでした。ところが岩波映画は不思議な会社で、若い人が平気で先輩を批判というか、分析している。こういう会社もあるのか、それは岩波映画という会社の新しい性格だろうと思っていました。
そういうわけで注目はしていましたが、その中から黒木さんの「海壁」、「わが愛北海道」なんて作品が出てきた。これは結構面白かったです。その以前から黒木さん、土本さんは岩波映画に入っていた。ドキュメンタリーの将来とか可能性、役割などに対するお考え、あるいは志というか、意気込みをすでに持っていらっしゃったのかというところからお聞きしたいと思います。
土本典昭 岩波映画というのは妙な会社で、尊敬すべき有名な監督やキヤメラマンがおられました。もちろん岩波映画生え抜きの羽仁進さんもいらしたし、まったく学生気質そのもののような純度を持った若い女の監督さんもおられる。黒木和雄さんの名前は入社したすぐの頃から聞かされていました。そういう人たちとの付き合いというか、その中での共有した目標はあったと思います。しかし、ではドキュメンタリーにどういう可能性があるのかということは、羽仁進さんらの作品以外には目の前にお手本、サンプルになる作品はなかったような気がします。私に与えられた仕事は製鉄関係のPR映画であり、それにとらわれざるをえなかった。そうした中で、まずPR映画をどういうふうにして、自分のものとして作れるのかが、一番関心がありました。その点で、黒木さんの考え方・・・大枠としてはPR映画かも知れないけれど、PR映画の中にも作家性を主張していく、誰にも真似できない、観る人が観ればわかってくれるような映画の作り方があるのではないかという考え方がとても新鮮でした。現実的にはPR映画しか作る条件はなかったから、その中に”自分”をどういうふうに込めるか、自分に引きつけるか、そういう可能性があるかどうかも含めて、試みたいと思っていました。
佐藤 岩波に入られたのはどういう経緯ですか。
土本 僕は学生運動をやっていて、二八歳までまともな仕事先には就職できませんでした。その頃住んでいた家の隣に岩波映画の重役、吉野馨治さんがいて、僕のことを気にかけてくれていました。羽仁さんの映画『教室の子供たち』を観て感動し、その人がいる会社で映画を作れればと思いました。吉野さんは私の経歴をおおよそ承知の上で招いて下さったのです。
佐藤 黒木さんの場合はどうだつたのですか。
黒木和雄 私は劇映画志望だったのですが、撮影所に行きそびれて、私のいとこの大学の同級生だということで、岩波映画で演出をやっていた高村武次さんを訪ねました。神保町の、今の岩波ホールの隣に、小さな木造の倉庫みたいなみすぼらしい建物があって、岩波映画製作所と看板がかかっていました。ちょっと悪い予感がした、こういうところで働いてもどうしょうもないなあという予感。しかし、土本さんの話に出た吉野馨治さん、大変にこやかな優雅な方が出てこられて、面白半分に僕と漫才風に話された。吉野さんが劇映画出身で、ドキュメンタリーにおいても優れたキヤメラマンであることはあとで知ったのですが、劇映画志望の僕に興味をお持ちになったのだと思います。
ちょうど宣伝映画の受注が増えて、若い人が足りなかった、その僥倖でなんとか採用されました。何かよくわからなかったけれど助監督になったのが始まりです。劇映画志望だったから、終始、岩波映画にいることが腰掛けだという感じは抜けませんでした。
佐藤 当時、大手の映画会社はものすごい倍率の試験をやっていて、縁故は別として、本当に秀才中の秀才でないと入れませんでした。そういうところには入らないが、実は一番優秀だというような人たちが、岩波映画が居心地のいいところで、入りやすい、たまたま入れるところで、非常に有能な人材が集まった。今、第一線で活躍している素晴らしい人が二〇人くらいは数えられます。そういう人たちが集まったというのは、今から考えると、納得もできますけれど、不思議ですね。お互い、仲間同士で何か心が触れ合うとか、そういうことがあったのでしょうね。
土本 なんだか侍が集まっているなという感じはしました。岩波映画だけでなく、別室の岩波写真文庫には名取洋之助さんという責任者がいて、その周囲に東松照明さん、長野重一さんや、写真のプランナーの気鋭の人材がいました。それから若手の共産党員のフリー助監督、のちに彫刻家になりまししたたが、兄弟子格の藤江孝さんといった先輩もいました。そういう人たちが、僕たちに映画とは何かということ、フリーの作家として考えるべきことをずけずけいう、そういう意味の民主的な雰囲気がありました。さっきおっしゃったような、上役を批判するわけでもないのですが、別に批判とも思っていないような上下のない雰囲気でした。
佐藤 それが、あの当時の日本の映画界から見ると異様でした。その中で黒木さんはリーダー格だったのですか。
土本 仕事で顔を合わせるのはずっとあとになりましたが、黒木という男がいるということは知られていました。助監督や新人たちみんなの、気持ちの上の頼りのようでした。
黒木 自分ではわかりませんけれど。よく言えば梁山泊ですが、悪く言えば浪人のたまりみたいな感じで、明日はどこに行くかわからない、全体に宙づりの感じで、最初は岩波映画で過ごしました。岩波映画に入って助監督になりましたが、当時ドキュメンタリーという言葉はありませんでした。文化映画、教育映画、PR映画という言葉しかなくて、ドキュメンタリーという言葉は、だいぶ経ってからどこかで覚えたという感じです。土本さんと会っても、お互いに将来が見えないのです。
PR映画の限界
佐藤 やむを得ず集まったような感じですが、そこで共通の目標みたいなものが生まれてきたような気がします。土本さんが、PR映画でも自分流のものができるのではないかとおっしゃったけれど、そういう合意みたいなものは生まれてきたわけですか。
土本 一人ひとりの思いは個々だったと思います。僕にも自分らしい映画を作りたいという願望はありました。しかし、映画を作るチャンスを生かして何とか自分の映画を・・・というのが精一杯でしたね。
一つ言いますと、作った作品を自主配給するような、自主映画運動がまったく見えなかった時期です。岩波映画の中で、かなり良質なスポンサーの下で何か作れるかどうか。私には、岩波映画の創立期から育った羽仁さんのドキュメンタリーや、あるいは時枝俊江さんや羽田澄子さんの社会的な記録映画の可能性はなさそうでした。いわば企業のための”商品”ですね、そういう映画しか作れないのではという先の見えない状況はありました。
僕が入って二年目、一九五七、八年くらいに岩波映画がテレビ作品を作り始めたのです。当時の映画人は、テレビ作品は映画とは思わない、”電気紙芝居”だと言う。
しかし僕らにしてみれば、PR映画を作っても、その多くは一般の人々に観られない、株主総会でやったり、営業用に企業の端末でPR活動に供されるような宿命にある。そんな映画ではなく、少なくともテレビであっても人々に観てもらえる方が期待できました。そういう映画とテレビの深いオーバーラップの時代に、テレビの可能性も考えながら僕はやりましたが、映画でやりたい気持ちはもちろんありました。それが当時の私たちには共通していました。
当時の私たちの難儀は注文映画としてスポンサーとの関係です。彼らに言われるままにカットされたり、縮められたりするようなことを許さない作品の独自の質・一体性というのが果たしてあるのか、ないのか。フィルムを規制や検閲でカットされるのは、どこかフィルムに隙があるからだ。完壁に映画としての体躯を持っていたら、それは仮にPR映画だとしても、いたずらに切るのを許さないような作品の強さがあるんじゃないか。だが、うまくはいきません。現に僕のものも切られました。テレビもお蔵になりました。そういう悔しさから、絶対に負けないような強靭さが持てるのか、どうか。こんなことを自作やそれぞれの仲間の作品を俎上にのせて侃々誇々やっていました。
佐藤 切られたのは、どういう作品で、どういうところが切られたのですか。
土本 岩波映画のテレビ作品で言いますと、僕の場合は「地理テレビ」といわれた各県シリーズの『山梨県』と『東京都』でした。『山梨県』は、ラストに富士山麓の米軍演習場に反対する忍草の入会地の農民、特におばさんたちの反対行動をもってきたのです。山梨県のシンボルである富士山の麓にはこういうことがある。ジャーナルな考え方かもしれません。それが抵触してお蔵になりました。『東京都』の場合、この大きな課題を三〇分の一本にするには省略がいる。戦争が終わった時に人口が二〇〇万から三〇〇万だった東京は、僕が映画をつくる時、一〇〇〇万の大台に乗った。その増えた分の七〇〇万人は、全部地方に縁のあった人だと概算できます。つまり東京は地方の人たちの力によって支えられてきた、どこを歩いても地方の固まりがいっぱい見られる。特に金の卵といわれて東京に移動させられた中学卒業の人たち、こんな話を焦点にしたわけです。そうしたら、東京を地方の寄せ集めみたいに描くとは不謹慎だというので、どこというのではなくて、作り替えさせられました。
佐藤 それは誰にカットされたのですか。
土本 スポンサーです。そして管理職の手で改編されました。当時のスポンサーは意欲もある代わりに、ものも言う。金も出すけど、口も出す。しょうがないスポンサーでしたけど、その相手と拮抗するのは面白かったです。
佐藤 黒木さんの『わが愛北海道』はかなり評判になったでしょう。
黒木 土本さんと同じ各県シリーズで、『群馬県』と『北海道』を作りました。『群馬県』は、かかあ天下とからっ風というモチーフで、男は全部ダメで、女だけが元気だと描いて、即座にお蔵になりました。同時並行していた『わが愛北海道』はアラン・レネの影響を受けまして、トップシーンに真っ裸のヒロインと恋人がニシン御殿でのたうち回るみたいなのを撮りまして、そのラッシュを観た経営者とスポンサーが絶句しまして。まだ撮影が続いていますから、僕を降ろすわけにいかなくて、上を下への騒動になって、すべてをカット、ほとんどNGでつないだのが『わが愛北海道』です。そうしたことから、土本さんにしても私にしても、もう潮時だな、岩波映画ではもう可能性は追求できないという思いは日増しに感じていました。
佐藤 絶対切られないと言っても、それは仕方ないですね。
土本 本当にそうです。国鉄のPR映画だった『ある機関助士』の場合もありました。おおむね好調のうちに最終段階の試写があったのですが、国鉄の映画に助言をするグループ、著名な批評家を含む四人の顧問グループが、具体的に三カットをあげて直せと言った。どうしても直せなかったから、困った僕は姿をくらまして会社に出ず、一カ月近く、徹底的に逃げ回ったのです。結局、一カットだけは直しました。その時は「青の会」のメンバー、小川紳介君や岩佐寿弥君が、「頑張らなければダメだ、僕たちが将来映画を作るためにもここで負けないでほしい」と詰め寄ります。そういう仲間たちの気迫をバックにして、僕も自発的に改定のカットを撮影して仕上げるということもありました。
佐藤 仲間内で「青の会」という勉強会をやったわけですか。絶対に切られない映画を作るための勉強会。
土本 ええ、そういうのを目指して。
佐藤 黒木さんも「青の会」に加わっていたのですか。
黒木 そうですね。お釈迦さまの手の内であがく孫悟空という感じで、土本さんにしても僕にしても、行き着く果て、宣伝映画の限界というのはわかっているのですが・・・。もっとも、ブニユエルが『忘れられた人々』をPR映画で作ったことは、生かじりに知っていまして、なんとか可能性があると思い込みたかったけれど、どう詰めてもPR映画は可能性がない。絶望ではなく、失望というか、こういうところで岩波映画のプロセスは止まったような気がします。まだその頃は、ドキュメンタリーとか劇映画とか分けて考えて、話していたわけではありませんでした。小川さんもまだ劇映画志向があったし、土本さんは羽仁さんの劇映画『不良少年』の編集をしていましたから、この二人が、その後ずっとドキュメンタリーでいくとは思っていませんでした。
自主製作ー自主上映へ始動
佐本 あの頃はまだ自主映画はほとんどなかったでしょ。
黒木 まったくなかったです。
佐藤 それで何とかなると思われたのですか、お二人とも。
土本 自分で仕事を選んでやれるような立場に立ちたいということは、その気になればすぐに決めらうれますよね、フリーになると宣言すればいいんだから。しかし、フリーになっても、良い仕事のできそうな条件を見つけることの方が先です。僕はテレビのドキュメンタリー番組に希望を持ちました。「ノンフィクション劇場」のキャップの牛山純一氏とは早大からの友だちでしたし、企画にも参加しました。しかし、「ノンフィクション劇場」での二、三作目で蹉跌しました。それが『留学生チユアスイリン』です。これは母国シンガポール政府の動向を案ずる彼、チユア君を、私が明日から撮るという時に、テレビ局上層からストップがかかりました。一九六五年です。困りました。日本に失望し傷ついている彼に、ストップされたから、やめますとはいかない。そこで、急遽ロケ班を作って、撮影しました。キヤメラマンの瀬川順一さんや、プロデューサーの工藤充さんらに助けてもらい、手の空いている仲間で撮影しました。一応の勝利で終わる映画です。しかし出来上がったものの、どこで見せるかというアイディアがない。自主上映という経験がありませんから。では、闘った学生たちが、どこかへ担いでいって観せるかというと、闘って勝ちはしたけれど、千葉大学の学生にはそれだけの組織性がありませんでした。結局、観たい人にはタダで貸しますから、観てくださいということで、やりましたが、自主上映という運動にはなりませんでした。それができるようになったのは、一九六八年以降、小川紳介でいえば『日本解放戦線・三里塚の夏』から、僕の場合は『パルチザン前史』をステップにして『水俣ー患者さんとその世界ー』という流れの中でです。時代とみんなの力で作らせていただいたのです。
佐藤 今のお話に出てきた日本テレビの「ノンフィクション劇場」というドキュメンタリーのシリーズは重要な存在でした。松竹の大島渚一派なんかが追い出されたり、大手の映画会社から多くの監督たちが追われた時期で、彼らはあそこで食いつないでいました。「ノンフィクション劇場」などテレビのドキュメンタリーはなかなか活発で、非常に野心的な人たちが続々とあそこに蝟集した感じでした。それでもやれないテーマが、自主上映になっていったのでしょうか。
土本 僕の場合にはそうでした。ですが『水俣の子は生きている』は番組で作ったものですし、『留学生チユアスイリン』のあとにも何本か「ノンフィクション劇場」で作っています。そうしたことを思えば、テレビという可能性はあったかもしれません。ただし、水俣に関しては、スポンサーがつきにくい反体制系列の映画でした。やはり、自主製作ー自主上映しかなかったことははっきりしていたと思います。
佐藤 土本さんの作品が関心を惹くのでしょうけれど、上映活動というのは重要ですね。この点で、何かご苦労はありましたか。
土本 ずいぶん、みなさんのお力を得たと思います。あの時代の自主上映がなければ、今の自分はないと思います。なぜ自主上映ができたかというと、それに代わるべきメディアがなかったということがあります。
佐藤 一時期の「ノンフィクション劇場」なんかはよかったのだけれど、ああいつた問題提起をするようなドキュメンタリーがテレビからなくなってしまう。そこで、土本さんが言われたように、自主上映が重要な役割を果たしたのですね。
黒木 ドキュメンタリーの分野では、東陽一さん、小川さん、土本さんがそれぞれ自主製作ー自主上映でやっていく流れができたけれど、それは劇映画にはつながりませんでした。あの当時、劇映画では森川時久監督の『若者たち』が共産党系の団体や労組の協力を得られたことによって、唯一、自主上映に成功した例です。時代に呼応した表現として、劇映画よりドキュメンタリーのほうが直接的なものだという意味で、自主上映運動と有機的なつながりを持てたのだと思います。ドキュメンタリーで自主製作ー自主上映が成り立っていく過程を見て、感心しましたし、いろいろ学ぶ点もありましたが、劇映画とは別のことだということに、僕は絶望感のようなものも感じました。
PR映画『ある機関助士』と『ドキュメント路上』の虚々実々
佐藤 土本さんが書かれた文章で、『留学生チユアスイリン』について、珍しいことがあるから撮るのではなく、中に入っていって、そこで映画を撮ることが一つの渦を巻き起こして、ドキュメンタリーになったのだとおっしゃっている。この留学生に周囲の人たちはあまり関心を持っていなかったが、キャンパスに乗り込んで大袈裟に撮影をやったら学生たちが集まってきたと。それを読んで、ドキュメンタリーは新しい発展をみせたと感じました。羽仁進さんのドキュメンタリーもある意味では、そういうものだったわけです。それまでの撮り方と違う撮り方をすると、何か新しいものが出てくる。それがさらに発展したという気がして、その頃から、私もドキュメンタリーに興味を持つようになりました。土本さんの作品ではドキュメンタリーの方法を強烈に意識していることを、どの作品でも感じますが、その発展の過程というようなことをお話しいただけませんか。
土本 その都度わかつて作っていたというものではありません。最近思い出してみて、自分で、そうだつたかと改めて思ったことがあります。『ある機関助士』は国鉄の安全PR映画だから、国鉄の労働者の協力を得るのは簡単だったと思われるかもしれませんが、当時の組合運動は反体制で固まっていました。当局が言う安全管理とか、生産性を上げろとかいう指導に対して、組合は、合理化反対を掲げて抵抗して闘っていましたから、体制サイドのPR映画、まして安全をテーマにした映画への警戒心はいつもありました。
毎年PR映画を一本作っていた国鉄当局が、その年一九六二年、たまたま三河島事故が起きたために、安全をテーマにもう一本作らざるを得なくなった。結構な額の予算が出て、十四の映画会社のシナリオによる受注競争になりました。
事故後の推移を見ていますと、その事故責任は過密ダイヤなどにあるのではなく、全部、現場の機関士らの不注意にあったとされていくことには強い違和感がありました。国鉄労働組合側の言うとおり、過密ダイヤが一番の問題でしょう。問題は、このことを暗喩するシナリオをどうやって国鉄当局に認めさせるかです。また、登場してもらう本物の労働者に、この映画への協力とまではいかないにしても、こちらの真意をどうわかってもらえるかを考えました。
あれは六〇年安保闘争から二年あとの頃です。労働組合は力がありました。事故のあった常磐線の尾久機関区には、国鉄労組の中でもとくに強い分会があり、その青年部長が現在、JR総連の委員長になっている松崎明さんでした。「もし企画が通れば、これだけのお金を使って常磐線の映画を作るチャンスが私にはある」といって、あなたたちと一緒に、常磐線の神経の磨滅するような運転実態をありのままに描いた映画を作れないだろうかと持ち掛けました。そうしたら、彼はすぐにわかつて「それは面白い」ということになったのです。
国鉄広報側としては東海道線に新しく導入した、絶対に衝突を防ぐような自動警報・制御装置を紹介してほしいと期待し、現場案内までしました。で、ほとんどの映画プロがそのようなシナリオを書いたわけです。僕一人が別行動でした。組合青年部長の松崎さんの手配で作業帽から紺の作業服まで借り、もう一人の助士という形で機関車に乗って、上野ー水戸間を往復した。二回往復したと思います。それで事細かに描き込んだシナリオを書きました。結果的には国鉄当局は映画製作プロ一四社の中から、意表を突いていた僕のシナリオを選んだんです。ここが面白いのですが、当時の国鉄の人間は蒸気機関車そのもの、その機関士、機関助士の仕事がすべて理屈抜きに好きなのです。
この映画の主役、機関士から助士まで労組の推挙の方です。当局もそれに気がついているのですが、彼らの”根っから機関車好き”が万事をOKさせました。その脚本を選んだうえは自分たちも協力してのめり込んだわけです。つまり、労働組合のバックアップで撮ったのが、あの映画です。そこが映画の面白いところですね。画面に出るのが本物の現場の労働者だけに、非協力の気持ちがあれば表情に出ます。そういう労使の屈折の中で、希有な労働の質が描けた作品だったと思います。
続いて撮った『ドキュメント路上』も同じです。警視庁の肝いり、全面的に協力するということでスタートした交通安全のPR映画です。タクシーの運転手の日常を通じてそれを描くということは、プロデューサーや警視庁には通しておきました。それは受け入れられました。まだ自家用車が少なかった当時、死亡事故の多くがタクシーに関わる事故でしたから、タクシーの安全が一般の人の関心だろうと思われたのでしょう。
実際には、タクシー運転者の神経で描くことを考えました。それには労働条件などで闘っている職場はないだろうかと、全国自動車労組連合に行って、ストライキをやっている会社はないかと聞いたら、ありました。六〇人くらいの労組で、会社を倒して、自主管理でやっているメトロ交通という所でした。警視庁からスポンサー同様の協力が得られますから、パトカーや交通裁判所などは撮影OKです、しかし、この職場や登場する運転手はそちらで出してくださいと頼みました。それも職場の青年部会の賛意を得て、楽しみ半分で付き合ってくれました。頃は東京オリンピック前、強引に道路工事、高速道路建設が進められている時期で、事故は過去最高でした。タクシー労働者としては、これは自分たちの側の映画だと思ってくれたのでしょう。彼らの溜まり場、食堂での職業病の胃下垂論議の場面などはほとんどアドリブでした。みな病気もちですから。
佐藤 あれは警視庁をスポンサーとして製作されたのですか。
土本 最初は、警察庁交通局長とプロダクションの重役との堅い約束で始まったのです。「交通安全映画を作るから、買い上げてくれ」「では、買いましょう」と。それが確約だったから、何の契約書もなしに、警視庁はどんどん協力してくれた。白バイも持ってくる、いろんな広報用の展示物も持ってくる。しかし、出来上がった映画を観た警視庁の担当者は「これは映画青年の遊びですね」と言った。その一言でパーです。これは見破られたなと思いました。
佐藤 スポンサーと製作側の虚々実々のやりとりを、いかに見事にクリアしたかということになるんだろうけれど、それだけじゃ続かないでしょ。
土本 続きません。”無敗のドキュメンタリー”。どころか、大敗れに敗れたドキュメンタリーなわけですから。
佐藤 土本さん、黒木さんにとって、PR映画から技術的、演出的な面で何か得たものはありますか。
土本 PR映画の資金は保証されていましたから、比較的お金をかけた撮影、照明など貧乏プロダクションでは考えられないようなスタッフを得ることができました。それは本当に、学ぶというか、いただくことにしていました。これをいかに自分に取り込んでいくかという問題は映画の習得過程ではあると思いますが、しかし、それ以後が虚しい。
黒木 PR映画に可能性がないと申し上げたのは、基本的に商品や企業を否定することができないという点においてです。そういう絶対的な壁があります。それを韜晦していかに描くかという問題に、見切りをつけざるを得なかった。しかし、土本さんがおっしゃったように、前段階として、映画のメカニツクな面、キヤメラとかマイクの技術を身につけるにはいい場所です。とはいっても、PR映画そのものの中には可能性はないし、現在でもそう考えています。
”水俣”を撮るということ
佐藤 『水俣の子は生きている』(日本テレビ「ノンフィクション劇場」)は、土本さんにとって非常に重要な作品ですね。これについて話していただけませんか。
土本 これは僕がはじめて水俣に入った作品です。一九五六年に発見された水俣病が一つの山を越えたのは、一九五九年の見舞金契約という形で一応の幕が引かれた時です。水俣病の発生はもう終息したといわれ、のちに”空白の八年”と指摘された時期がありました。
この時期の水俣病事件の新しい問題は胎児性患者をどうするかでした。大人、子供を問わず、自分で有毒の魚を食べて発症した患者は見舞金契約の対象になりましたが、胎児で母親の胎内で中毒して生まれた子供たちは想定外というか、予想しなかった存在です。しかし、この子供たちの症状は最重症です。はじめは脳性小児麻痺とされていましたが、死んだ子供を解剖して、はじめて有機水銀中毒を確認して、水俣病患者に加えたのです。問題は赤ん坊扱いのためか補償額は最低であり、入院治療の体制も不備で、当時は家庭で介護されるほかない生活をしていた。『水俣の子は生きている』に描いたとおり、その病苦と貧窮は直視できないものでした。
しかし、これを伝える全国的なメディアはなかった。水俣病事件について唯一報道されたのは、NHKの「日本の素顔」(一九五九年)だけでした。胎児性患者について報じたメディアは皆無でした。ただ、『熊本日日新聞』だけがその子供らの近況を記事にしました。それをキャッチしたのが「ノンフィクション劇場」の牛山さんです。たしか二枚の切り抜きでした。地元の熊本短大(現在の熊本学園大学)のサークルが、その子供らを支援しているという美談としてです。幸い、桑原史成さんの写真がありましたが、まだ出版以前でした。牛山純一プロデューサーの直感で、これは番組になると感じたのでしょう。
私は下調査にまず熊本市に行きました。しかし、これはえらいテーマだと思いました。というのも、熊本大学の先生方に会うと、「きみ、よくやる気になったね、私らだって怖くて水俣に行けない」というような話をなさるわけです。ついで熊本のジャーナリストやNHKの資料を調べるにつれ、怖くなりました。真顔で「今は入れるものではない、寝た子を起こすのかと言われますよ」というのです。まして紹介者にもなってもらえない。もし不用意に水俣の現地に行ったら、企画すべてが破産するのではと、考えるだけで足が萎えました。どう胎児性患者を捉えたらいいか。そこで頼みにしたのは二回の訪問で彼らと面識があり、さらに卒業後は水俣にボランティアとして入る決心をしたケースワーカー志望の女子学生の存在でした。主人公となる生徒、西北(現姓、永野)ユミさんという方です。彼女の水俣訪問に同行することで、描ける範囲で胎児性患者を描けたらと決め、熊本で、彼女やそのグループ、指導教員などの同意を得ました。水俣病の実態を知ってほしいという気持ちだったのでしょう。そこまでで、その時は水俣現地には行けませんでした。単身で行く勇気は私にはなかったのです。
彼女が水俣に行く日、キヤメラマンを連れて、都合三人で水俣に入りました。彼女は予想どおり、水俣市役所では歓迎されました。当時、水俣市当局は水俣病が忘れられていくことに不安をもっていました。ケースワーカーの予算すらなく、もどかしい思いをしてきたでしょう。だからメディアの取材は画期的なことだったようです。特に胎児性患者についてはもっと知られたいと思っていた。だから、協力的でした。市立病院の撮影も自由でした。しかし、大人の患者は全員、キヤメラを忌避しました。病室に入れましたが、皆、逃げます。娘盛りの女性患者と西北さんがベッドの向こう側にしゃがんで話し合うのを、二人の髪の毛だけしか写らないまま撮影したのです。ひどい話です。人生ではじめての仕事の場所としてボランティアを決めた西北さんには、思いもしなかった患者との出会い方です。キヤメラがなければ、どんなに良かったでしょう。彼女は善意の固まりなのに、私たちは何者かと問われている。「お前さんたちは何しに水俣に来たのか」「水俣病事件を新聞なんかに報道されたが、チツソに楯突いたと言われ、傷ついただけだ」と患者たちは問責しているのでしょう。自分たちは正義の味方どころか、これでは加害者ではないか。盗み撮りもしかねない人間ではないか。病院の初日から自己嫌悪に襲われ、撮影はもうやめよう、記録映画は自分にはやれないのでは、とまで思い詰めました。この記憶は、僕の水俣体験の中で、今でも突き刺さっています。
佐藤 どのように反発されるのですか。
土本 その当時は、”この子を撮っても、少しもよくならない”ということに尽きます。あとで変わっていきました。裁判で絶望から希望の手がかりが見えてから変わりました。長編「水俣ー患者さんとその世界ー」の時期には良くなりましたね、裁判に訴えていましたから。裁判に訴えていた患者たちは言うことを持っている、その人たちの思いを見つめて、時間をかければ撮れました。映画の必要性はそれを発意した「水俣病を告発する会」から原告患者全体に知らされ、同意も得ていましたし、私らスタッフも患者多発地帯のド真ん中に生活の拠点を作ってもらい、所在ははっきりしていました。しかし、自分から撮ってくれとは、誰も言いません。患者同士、お互いの顔を見て、誰が最初に映画に撮らせるかを見ています。一カ月くらいは風景や街ばかり撮りましたが、人間相手には、何とも動きのとれない時期がありました。で、やり方を変えました。外から内へと撮っていくことにしました。外とは患者本人ではなく、その妻や夫、遺族などです。彼らからその故人の水俣病を聞くことです。内とは患者集団の真ん中にいる、患者の中でもっとも中核というべき少年患者や胎児性患者です。はじめは僕たちが映画に撮っても、過去のことであり、そうは傷つかないであろう年配の遺族たちの思い出から撮って、彼らを撮り終えてから、だんだん生きて、いわば生身の成人患者へ。そうした患者をほぼ一巡して撮り終えてから、最終段階で胎児性患者とその家族の撮影に進みました。胎児性患者は家族の気配を察知しながら暮らしていますから、母親などが心を開いている時は自然なのです。つまり一番ナーバスな胎児性患者を最後に回すというような撮影順序をとったことで、なんとか各様の患者の全容を撮れました。「俺の子供をいつ撮るんか。あの子こそ水俣病の中の水俣病患者ぞ」といった親の気持ちを聞いたのもこの最終段階でした。三五年前、裁判で闘っていた時代です。
ですが、水俣病は一応終わったとされる今になるとまた違います。患者さんは水俣病一色で自分の人生の最後を締めくくりたくないのです。というのも全水俣市をあげて水俣病事件を忘れようとしてきた歴史があるからです。今でこそ、患者の中から語り部として語る機会が市営の水俣病資料館に作られるようになりましたが、水俣病事件五〇年の中で、近々この一五年のことです。
水俣は生きている。決して滅びなかった。水俣市としては水俣病を忘れられるものなら脇に置いて、新産業誘致の方向を求めたかった。汚名の街というイメージを一新したかった。しかし、公害の原点として世界に知られるようになった今、ならば水俣病事件の教訓をもとに環境問題を発信する街にしようという市政の転換がありました。一九九〇年代からです。その甦りへの願望ともいうべき運動はやはり進みました。水俣病資料館や慰霊の記念公園ともいうべきメモリアル・オブジェもでき、資料館では語り部コーナーを設けて患者の声を聞くという、かつては考えられなかった試みが定着しました。私が最近まとめたビデオ『みなまた日記ー甦る魂を訪ねて』はこうした水俣市の変化の中で、市民権を得始めた患者の生きる姿を撮ったものです。
今までにたくさんの水俣の映画を撮りましたが、市民権を得られない患者、つまり患者ゆえに市民社会から切り捨てられてきた人々です。その人たち一人ひとりの決意によって映画に登場していただいた。しかし、撮られたことに当人のプラスはなかったでしょう。むしろ、ここに生き、住み続け、そしてここで死にたいと願っている患者にとっては、マイナスにさえ思える。そうした患者の水俣病隠しは、私が水俣に行った四〇年前と基本的には変らないのです。
この十数年、毎年水俣市は慰霊祭を催し、ヒロシマ・ナガサキに倣って、水俣病受難者の死者の名簿を慰霊のオブジェに残そうとしています。名前だけ献ずるのですが、市の要望にいまだに協力しない多くの患者がいることでも、その水俣病隠しの根強さは明らかでしょう。しかし、こうも思っている。”水俣病を二度と起こしてはならない”・・・これは患者も水俣市民も、もう体にすり込まれた共通体験と意識になっているのは確かです。しかし、率先して叫ぶ患者はごく限られています。
佐藤 それは患者さんたちの気持ちとして当然なのでしょうか。マスコミの関わり方に問題があったのでしょうか。
土本 両方です。患者さんはマスコミに助けられています。それは熊本水俣病裁判の勝訴判決の日、渡辺栄蔵原告代表が、まっさきに新聞、テレビに支援のお礼を言ったことでも明らかです。マスコミに助けられたと思っています。しかし、本来、被害者がテレビに出ると、水俣では必ず白い眼で見られます。目立ちたがりとか、お金を欲しさにとか言われるなど、ろくなことはありません。患者の辛さは世間の眼です。問題は映画よりテレビです。それは誰の家の茶の間にもいきなり映りますから、それがどう受け取られたかは気になりますよ。それはどうしようもない。この気苦労は水俣病事件の頭からついてまわってきました。
ただ、水俣では一つの山を越えた一九九〇年代から、誰が水俣の教訓を語り伝えていくかが公けに求められる時代になりました。だが、受難者たちはこの状況の転換についていけません。そうした風化の中から、少数ですが、すっくと立っている患者が見えます。やはり裁判を闘った患者、あるいは未認定患者運動を続けてきた患者、そこから水俣病を自分の抱える生き方として訴えをやめなかった患者、十数人です。少数ですが、状況に磨き上げられ、現代を見据える意思と受難者全体を抱擁する魅力あふれる人たちでした。
一九七〇年当時、裁判に、チッソとの自主交渉の時代をともにした支援者には、あれだけの闘いを闘った患者なら、今も続けて闘って欲しいと仮託する人も少なくない。しかし、闘争形態は変わりました。記憶と祈りが闘いなのです。近代合理主義と利潤追求、物質文明の謳歌を問い直し、水俣の失ったものから未来を再発見しようという、質の高い思想的な運動が水俣から生まれている。それは確かです。その兆しを新作ビデオ『みなまた日記ー甦る魂を訪ねて』の撮影の過程で見ました。
ドキュメンタリー製作者の資質
佐藤 黒木さんは、土本さんの仕事をどうご覧になっていましたか。
黒木 岩波映画で製作していたのは、基本的にはドキュメンタリーの形式を取っているが、内容的には完全に宣伝映画で、可能性が完全に閉ざされた中で、劇映画かドキュメンタリーかという岐路に立たされた思いがしました。その人が持って生まれた資質というものがあります。私はどうも人の前で正直に喋ったり、裸になれない、ドキュメンタリーに向いていないという感じがありました。土本さん、小川さんには、裸になって他者と相まみえるというか、相手の懐に飛び込んでいく、私の資質ではない資質がある。岩波映画の中で付き合っていくうちに、資質の差をますます感じたのです。土本さんは土本さんなりに、水俣と出会わなくてはならなかっただろうし、海外の多くの同じような人たちと出会っているけれど、それはもう資質の違いであって、私にはとてもできない。水俣への初期の入り方を聞いても、一途な誠実さを感じます。私はどうしてもフィクションに逃げてしまうところがあって、現実から目をそらして、観念的に役者でそういう苦悩を描くためにはどうしたらいいかというほうに行ってしまいます。まともに現実を採取して再構成していくことには、資質の問題が大きく関わるような気がします。それは、土本さんには全然かなわない。彼は「親和力」という言葉を使いましたが、対象に対して、あらかじめ相手に飛び込んでいく、無私になれる。フイクシヨナルな部分を全部かなぐり捨てて、そういうものを振り払って相手に飛び込んでいく資質、それが彼のドキュメンタリーを支えている。七転八倒しても、そういう資質が僕の中にはないことを、土本さんと知り合うことによって、痛感しました。
佐藤 土本さんは、私が知り合った頃から黒木さんのことをよくおっしゃっていたけれど、黒木さんをどう見ていらしたのですか。
土本 黒木和雄には原則というのがあります。特に政治的に判断する必要に迫られた時に、彼は正しいことをぴしっと言います。どこでこういう感性をつくったのかわかりませんが、判断力の正しさというか、思想性というのか、そういうものを感じます。昔ですが、韓国料理屋に行って、まだ日本語があまりうまくない韓国出身のママさんの口調を僕が真似したら、彼が怒りましてね。僕も悪いと思っているのだから許せよと言っても、許さないくらい怒る。そういった怖さというのを垣間見ました。普段は文句も言わない、優しい友人ですけれど、何かの時にはぴしっと自分の思っていることを譲らないで通すのを見てきました。時には喧嘩して、行き違いもありましたけれど、その点の信頼感を僕は失ったことはありません。
黒木 ちょっと褒めすぎだな。
佐藤 黒木さんが監督した『キューバの恋人』は、土本さんがプロデューサーになっていますが、どういう経緯があったのですか。確か、これからキューバに行くという時に、何かの関係で私も一緒にいて、気勢をあげていたことが記憶に残っています。
黒木 尊敬していた日活のプロデューサーの大塚和さんにお願いしたいと、最初は思っていました。ところが熊井(啓)さんか今村(昌平)さんの仕事か何かで、ダメだったものですから、身近で一番信頼できる男は誰だろうと考えた時に、土本さんが浮かびました。彼はきっぱり何回も断ったのですけれど、無理矢理に引っ張り込んだのです。本当に迷惑かけて、忸怩たる思いでいます。いろいろ話せば一時間くらいになりますが、反省しちゃうと一分で終わりますね。
『キューバの恋人』は、私にとって最初で最後の自主製作で、惨敗した、恥ずかしい思いが強い作品です。多くの仲間を傷つけ、挫折して、客観的には映画界を去らざるを得ないという感じに追い詰められたもので、記憶から抹殺したいと思ってきたのです。製作にも不安はありましたが、どういう見せ方をするのか、自主上映の明確なビジョンもない状態で見切り発車した。周りはみんな時期尚早だとかいうことで止めたのですが、猪突猛進で作ったわけです。はじめての自主製作ー自主上映ということで、土本さんがそばにいてくれないとできないという思いが強かったと思います。大手の映画会社を出た人たちとはまったく別に、新しい世代の人間たちが劇映画の自主製作に乗りだした最初の作品でもあり、参加した岩波出身者の中で劇映画の経験があるのは、『不良少年』の編集をした土本さんだけでした。私は自主製作ー自主上映の路線を踏み違えたという自責の念が強かっただけでなく、経済的なダメージも大きかった。個人的な問題としては映画作家としてどう立ち直るかということに集中したというのが、当時の本音ではないかと思います。そんな私を見かねた人から、ATGの『日本の悪霊』の話があり、逃げるようにそちらへ行った。『日本の悪霊』は『キューバの恋人』の翌年に公開されていますから、反省する時聞が足りなかったという感じがすごくしています。
土本 僕は『キューバの恋人』を作る過程にあまり愉快な記憶がなかったものですから、悪いけれど、きちんと完成した作品に対面していませんでした。最近、DVDを黒木さんが送ってくれたので、観まして、これは僕が観ていたのと同じ作品なのか、作り直したのかと思うほど、ショックを受けました。僕がどこかで望んでいたキューバのドキュメントなのです、この映画の彼の一番の芯が、ドラマではなくて。・・・ごめんなさい。だけど、ドキュメンタリーとしてかけがえのないものが残ったと思って、大変に嬉しかったですね。
黒木 『キューバの恋人』の負担というか、参加したことで土本さんは深く傷ついたと思います。そんな彼を仲間が支えて、ドキュメンタリーでいくという、彼本来の方向をきっちり決めたのではないかと思います。
実名の記録とその責任のとり方
佐藤 その後、土本さんは『水俣ー患者さんとその世界ー』から非常に長いこと水俣の仕事を続けられるわけですが、そこで一番大変だったのはどういったことですか。
土本 そうですね。今の言葉でいえばプライバシーの問題でしょうか。実像と実名の記録の問題です。医学論文ではどんなお医者さんでも患者さんの本名は書きません、職業的に秘匿の義務があるからです。文字の世界でもそうです。石牟礼道子さんも、患者さんの本名は書いていません。水俣病の記録で、写真と映画だけが、肖像を撮って、そのものを出さなければどうにもしょうがないのです。最近はテレビなどで顔を消すとか、声を変えるとかいろいろな方便があるけれども、それならば私は撮りたくない。
最初のテレビ映画『水俣の子は生きている』で、ただ一つ、僕が敢えてやったことは、桑原史成さんの撮った胎児性患者のパネル写真の目にベたーっと貼られた目張りのテープを剥がしたことです。熊本短大のサークルの連中がカンパのために街頭に展示した胎児性患者の顔に貼ったビニールテープのことです。学生さんたちもいろいろ考えて目張りを貼ったと思います。この映画のストーリーから言えば、何の脈絡もない行為です。ただ、何より社会的な受難者なのに、水俣病を患者の”恥”と見倣すような扱いに耐えられなかったのです。剥がして、桑原さんの狙った締麗な彼らの眼の写真を私自身が見たかったし、他人にも見せたかった。ですから僕の責任で剥がす、私が責任持つからと言いました。どういう責任の取り方かわかつてはいませんでしたが。
その後、水俣では全部本名を出しました。声も、表情も撮り、そういう人たちの生活をまるごと撮ったのに、仮名を使えるわけがないのです。撮られる患者も、自分が仮名で登場するなんて夢にも思っていない。もしそうだとしたら、撮られたくないと言うでしょう。今まで四〇年以上、水俣の映画を十数本作ってきたけれど、全部、本名を出してきました。これは、僕にしてみれば、不安と表現し難いしんどさがあります。いつあの映画の上映を止めてくれと言われるかが問題になってきたからです。時間経過が主因かもしれない。例えば患者さんの子供が大きくなって結婚する時、親が水俣病であることを知られたくない。撮影した時と家庭の事情も、家族の世代も交替して、あの時は確かに承諾して撮らせたけれども、もう使ってほしくないということがある。すでに水俣病の写真作品にはそうした例がありました。
世界的に水俣病事件をしらせたアメリカ人、ユージン・スミスさんの代表的な写真に、母親に抱えられて湯舟に入る胎児性水俣病の少女の、いわゆる「水俣の母子像」と言われる名作があります。およそその一枚で水俣の悲劇を象徴しているものです。それは一九七一年、裁判闘争のただ中に家族の承諾を得て撮影、発表され、ご存知のように水俣病事件の存在を『ライフ』や写真集で世界に知らせた歴史的な写真です。それが発表から二七年後に、今後の展示、使用の中止ということになりました。少女はとっくに亡くなっていましたが、遺族、両親のたっての希望、「もうこの子を休ませてやりたい」という言葉で写真は両親に返されました。つまり使用しないとの約束を版権者との聞で取り交わしたのです。著作権を持つ故人(ユージン・スミス氏)の妻で、やはり写真家のアイリーン・スミスさんは非常に悩まれたに違いない。しかし、写された側の肖像権を尊重することと、運動に理解のあるご両親の気持ちの葛藤を十分知ったうえでのアイリーンさんの判断は正しいと思います。この写真の決定権は写された相手に帰属するということは建て前であって、相手の人格的な主張を尊重するか、どうかということに尽きるでしょう。
こういった事例も含めて、撮った実名の世界というものに対して、患者なり実在の登場人物が生きているかぎり、僕は何らかの責任ある対応をとっていかなければならないと思います。それはケース・バイ・ケースであり、闘うこともあるでしょう。プライバシーは事例ごとに違うでしょう。写真や映画の肖像権をどう扱うかは映像作家の闘いの中身だと思います。
佐藤 水俣病のシリーズで極め付きの問題作は、私は『医学としての水俣病』ではないかと思います。それまでにも医学映画はずいぶんあって、岩波映画も作っていましたが、それは医学的にすでに証明されていること、それに付随したことを描くものです。「医学としての水俣病」の場合は、みんなが明解に言わない、暖昧に指し示していることを、こうではないかと突きつめていく。それには相当勉強しなければいけないけれど、度胸というか、医者の権威などというものを乗り越える何かがないとやれないでしょう。
土本 当時、熊本大学医学部の講師だった原田正純さんの成果とその人格を見ていて、そういう人を作り手の手本として自分の背中に背負っていましたから、怖くなかったですね。あらかじめ先生方にはっきり言ったのは、この映画では監修者は置きません、素人の僕にわかるようにあなたの仕事を解説するという形で、一人ひとり、同格に僕と付き合ってもらうことをお願いしました。お医者さんたちも、世の中に発言しなければいけないという時期でしたから、その方法でなければ参加できなかったと思います。水俣病の専門家、そのオーソリティが二十何名も一斉に映画という”証言台”で、自説を公開するわけですから、Aの方の意見とBの方の意見が違うことも当然あり得る。その場合、全部、土本の責任でやっていくという形にしたほうが、専門家の先生も登場しやすかったと思います。
佐藤 牢固としてできているような社会でも、隙間が出てくる、そういう時と場合をいかに捉えるかですね。
土本 患者のセンスでものを見ていきますと、本当によく見える時があります。患者から離れてものを考えると、新聞の論調や医学雑誌の論調に影響されますが、実際に患者が自分の体をどう見ているのかということから突きつめていく患者の水俣病像把握には、医学は所詮、勝てないのではないでしょうか。原田正純さんはそのことを良く解った方でした。
佐藤 『不知火海』は、問題が少なくとも表面化してはいない所にじつは問題があるはずだと問題提起してゆくという内容ですね。
土本 まさにそうです。あの当時は、まだ天草など遠い所に患者がいることは、証明されていませんでした。水俣の対岸の汚染はその僻地ゆえに放置されていたと思います。水俣病の映画は、それまで二時間を超える長い映画しかなかったので、一九七六年に四三分の『水俣病”その20年”』を作ったのを機に、巡海映画と称する天草・離島での上映運動をやりました。対岸の天草、離島などは、それまでは情報の未到の地だったのです。”巡海映画”とは海めぐり、漁村めぐりという意味です。スタッフ四人で小型バスを借用して、とことこ離島と不知火海を歩きました。それに助監督、キヤメラマン、キヤメラ助手といった若手メンバーで、四カ月間、延べ七六回、子供を含め約八五〇〇人に見せました。その記録を『わが映画発見の旅ー不知火海水俣病元年の記録ー』(筑摩書房)という本にまとめました。その後、僕たちが巡回したところから、数千人の申請患者が出ました。観せた人より多いでしょう。巡海映画の後半には全部落の大半が観賞してくれました。多分、隣近所の人々と肩を並べて頷きながら観たことでしょう。情報をみんなで観る、噂はそこから始まる。ですからこの地域から申請者が出てきた経緯を見れば、巡海映画によって風通しが良くなり、お互いに刺激され、改めて自分のこととして水俣病事件を見直し始めたともいえる。それは、ちょうど電話やテレビが離島の各家庭にも行き渡った七〇年代後半だった。だからサブタイトルに『不知火海水俣病元年の記録』と付けたのです。
佐藤 今、土本さんの全作品を上映する、その中にくだらない作品が一本もないというのは大変なことです。一貫してテーマがはっきりしている。スポンサーを騙してでも、労働に視点を合わす。あるいは労働の使い方の過ちといいますか、公害はその例でしょう、そこを見据える。単純に社会正義というよりは、社会正義を主張できる人がどれだけいるのかということを明確に言っていて、それと自分との関係を見ている。これが作家というものだと思います。私にとって、土本さんと友人と言えるかどうかわからないけれども、知り合いであるということは、重要なことです。私が何か恥ずかしいことをやったら、土本さんにバカにされると思う、そう感じさせられる重要な存在です。
黒木 吹き溜まりのような、行方定めぬ人間たちが、神保町の一角に集まったところで知り合って、土本さんにしても私にしても、生涯映画を撮っていけるか、はなはだ心許ない感じでいました。街頭でデモをしたり、日中友好関係に関わったり、ある意味では映像と無縁だった二人が神保町で出会って、映画に魅せられていく過程、青春を共にしたというのが、僕にとっては非常に嬉しい。佐藤さんがおっしゃったような意味で、畏敬すべき仲間の一人、とてもかなわないなと思う。土本さんを中心として、多くの若者たちが、信頼している人たちが集まって、大きなうねりがあった。そういう中から生み出された傑作の数々があると思います。何と言っても、まだまだ現役の作家として生き続けてほしい、『みなまた日記』に続く、もっと面白いものを作ってほしいと思います。本当に尊敬すべき親友の一人であり、こういう友人を持てたことは誇りです。
土本 黒木さんの励ましには岩波映画時代から変らないものがあります。有り難いです。会社の名前で出すのはおかしいと思うけど、プロデューサーである高木隆太郎さんのやってきた仕事、黒木さんのやってきた仕事、そして私の仕事はそれぞれ”岩波映画的”ということで実は、在るべき映画への憧憬といったものを語っていたと思います。僕にはごく自然にあるんです。それが良かった、悪かったではなく、岩波映画の仲間には相談したい、あるいは吉野馨治さんがおられた時には、必ず観てもらいたいと思っていました。あの岩波映画の空間はものを作り続ける上で、あるレベル、ある”線”でした。そういう岩波映画の持っていたおかしな空気、映画への憧憬空間といったものに支えられて、私はこの五〇年やってこれたのかもしれないと思っています。