書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」テレビとドキュメンタリー映画ー表現におけるタブーと規制をめぐってー田原総一朗/森達也/土本典昭 <2005年(平17)>
 書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」テレビとドキュメンタリー映画ー表現におけるタブーと規制をめぐってー田原総一朗/森達也/土本典昭

 テレビドキュメンタリーとの関わり

 田原総一朗 土本さんは僕の岩波時代を知らないと思います、大先輩ですから。僕は大学に七年いて、就職する段になった時、朝日新聞社とかNHKとかマスコミを八つ落ちて、九つ目に受けた岩波映画に入りました。それには、ちょっとした出来事がありました。面接で朝の九時に呼ばれたのですが、受験者がいっぱいいて、昼になっても面接の番が来ないのです。だから、昼飯を要求しようと僕が言った。何度も落ちていますからね。一人だけ、やろうと手を挙げた男が清水邦夫です、今は劇作家の。彼と二人でラーメンをせしめて、それで僕と清水くんは入れたのではないか。撮影部のキヤメラ助手をさせられたのだけれど、僕はものすごく不器用な人間で、最初の仕事でいきなり干された。半年くらい干されていた間は、ちょうど一九六〇年、安保ですから、毎日デモだけやっていました。楽しかったですね。

 土本 僕はその当時、すでにフリーでしたので、職場で仕事を一緒にするということはありませんでした。僕はわりと気さくに誰とも話すほうだから、そういった形でお話ししたことはあると思います。田原さんはものすごく切れる人なんです。

 田原 そんなことないよ。

 土本 それと、仕事に対する決断が鮮やか。テレビの仕事を、ここしかないという形で考えていたと思います。僕なんか、まだ映画かテレビかという感じがありましたが、田原さんははっきりしていました。しばらくして、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の花形ドキユメンタリストとしてやっておられる時に、僕もフリーでそこの番組をやって、知恵を借りたりしました。

 田原 すでにその頃、岩波の黒木和雄さん、土本さんは並び称されていた。羽仁進さんの『不良少年』という作品は、実は土本さんの作品なのです。全部、土本さんがやった(土本註、これは田原さん一流の言い方、首尾一貫して羽仁進さんの映画です)。

 森達也 今日は僕、お二人と一緒では何も言えないですね。唯一の共通点のテレビということで言えば、田原さんは映像時代があってテレビに行き、土本さんはかつてテレビをやっていらしたということでしょうか。

 土本 そうでしょうね。僕は岩波映画にいて、テレビのいわば草創期に関わりました。果たしてテレビで人間をきちんとらえ、生き方や闘い方を描くことができるのか見極める時期でしたね。ドキュメンタリーではどのようなチャンスがあるのかが、僕にとって重要なことでした。当時のテレビで、僕の一番身近だったのはNTV(日本テレビ)の牛山純一さんの「ノンフィクション劇場」です。彼が企画の段階から僕を呼んでくれて、今までにないものができないかという基本的なところを議論しました。牛山純一さんと組んだ「ノンフィクション劇場」初期の二、三年というのは、僕にとってはテレビが一番よく見えた時期でした。しかし『南ベトナム海兵大隊戦記』の第二部の放映中止から微妙に変わりました。この第一部は称賛はされましたけれど、その政府の介入以後、牛山氏にもいろいろな配慮があったと思います。牛山さんは大胆なところと、ある種の引っ込み思案なところが極端に分かれるようになって、僕は引っ込み思案のほうの企画に巻き込まれるようになったので、彼とあまり仕事をしなくなった経緯がありました。例えば「すばらしい世界旅行」シリーズなどです。その後は、テレビに合わない仕事ばかりするようになりました。
 テレビがダメだと思ったのは、一九六五年頃の『留学生チユアスイリン』の製作中止からです。この企画には牛山さんも乗って、順調でしたが、留学生の新年会の日からクランクインしようというその前日、局の上層からストップがかかった。どういう理屈なのか。マラヤ人留学生のチユア君はイギリスの植民地からの独立の仕方に異議を申し立て、在日英国大使館に対しデモに行ったことを理由に、日本の文部省の国費留学生の資格と千葉大学の学生の身分を剥奪・除籍されたわけで、国に対して裁判を起こしていました。NTV当局としては裁判係争中の問題については片側に加担するような番組作りは相応しくないという理由で、牛山さんを通じて引導を言い渡したわけです。困っている牛山さんの声や様子から、これは彼と闘争してもダメだ、明日のクランクインに、僕が約束通りキヤメラを回しているかどうかが、チユア君に対する信義の決め手だと思った。そこで自主製作のはしりでしたが、仲間たちで映画を作った。この出来事は、テレビについて、ある種の危うさを自覚するきっかけになりました。

 田原 僕が東京12チャンネルに入ったのはオリンピックの前年の秋で、オリンピックの年の四月に開局しました。岩波映画の最後の頃、今のテレビ朝日、当時の日本教育テレビの女性ディレクターから、幼稚園の番組の構成を頼まれました。岩波映画はPR映画はたくさんあるけれど、実はドキュメンタリーを作ろうと思うと大変なのです。企画を何度も出して、それでもうまくいかない。ところが、その女性ディレクターに思いつくことをいい加減に喋ったら、それでいきましょうと即座に決まった。映画の場合、それでいきましょうと言ってから企画が通るまでに、何十回も会議があるのですが、いつまでにシナリオを書けばいいのか聞いたら、今晩中にお願いします、場所もありますと彼女は言った。しかも本番は明後日だと。こんな素晴らしい世界があるだろうか、こんないい加減なところなら何でもできると思ったのが、テレビに行こうと思ったきっかけです。
 当時の12チャンネルは、牛山さんとか、吉田直哉さんとか、実績のある人たちがいるところに行けない、新聞記者になれなかった、あるいは既存のテレビ局に入れなかった、そういう連中が流れ着いてきた吹き溜まりでした。岩波映画は学生運動の吹き溜まりだった。12チャンネルは、単なる吹き溜まり。吹き溜まりは素晴らしいと思った。テレビとは、なんて誰も喋らないのです。管理職もテレビを知らないのだから。そこが素晴らしい。なまじっか牛山純一さんとか、ちゃんとした人がいると放送中止になるけど、12チャンネルには誰もいませんから、何をやっても、責任さえとればいい。
 僕は12チャンネル時代に、警察に二度パクられました。パクられても、オンエアちゃんとしましたよ。処分になっていない。どこかからクレームがきたって、責任を持てばいいのです。
 今も同じ考え方でやっています。だから、しょっちゅうクレームはきます。12チャンネルの時からわかっていたのですが、相手を説得しなければダメ、一方的な撮り方はダメなのです。そういうことも含めて、テレビというのは、いかに自分で責任をとるかということだと思います。

 土本 ドキュメンタリーはキヤメラで撮る、マイクを突きつけて声までとって、その人の表現を記録する仕事である以上は、どうやったって責任がつきまとう。よく顔をぼかして出ていますけれど、知っている人が見たら、この人だってわかるはずで、隠していることにならないと思います。水俣病の患者みたいな人たちの場合、匿名で撮るか、本名できちんと位置づけて撮らせてもらうかということは、相手にとってとても大事なことです。そういうことが、文章と違って、映像の仕事をする人間の一つのこだわりだと思います。

 森 僕は一九八〇年代末からフジテレビで「NONFIX」とかを中心にフリーランスでディレクターをやってきました。「NONFIX」以外にも、テレビ朝日の「ザ・スクープ」とか、テレビ東京の「人間劇場」とか、フリーですから各局のニュース番組も一通りやりました。でも作品として残っているのは、ほとんど「NONFIX」ですね。深夜で特定のスポンサーがついていないなどの要因があって、テレビ的な規制がとても薄い枠だったんです。だからかなり自由にできた。でもその「NONFIX」でさえ、撮影早々に制作中止に追い込まれた作品があって、それが最終的には自主製作となって『A』になるわけです。テレビから追われたという意識はありました。だから『A』には、アンチテレビでやってみようという、半分意地みたいなものがありましたね。一人ですからキヤメラも自分で回すしかない。ナレーションはつけないし整音もしない、モザイクも入れない、エフェクトなどの加工も一切やらない。要するにシネマ・ヴェリテです。ところがそんな意地から派生した手法が、逆に自分を触発したんです。客観公正だの不偏不党だの、お題目としてすり込まれてきたテレビ的な束縛から解放されて、とても自由でした。テレビ時代には決して感知できなかった撮る快感みたいなものに、やっと気づきました。例えば土本さんがおっしゃったように、テレビ全般に蔓延するモザイクは、実はほとんど意味がない加工です。近親者や近所の人に対しては、モザイクはほとんど機能しないと同時に、赤の他人、つまりテレビの前の不特定多数に対しては、顔を隠したってほとんど意味はない。つまり本当に被写体を守ることが目的じゃなくて、人権に配慮していますとのポーズでしかない。しかもこれがポーズでしかないことへの自覚がない。テレビが持つ表層的な属性を、モザイクは的確に表象化しています。容疑者の顔を晒しながら、手錠や腰縄にモザイクをかける行為もこの延長です。明らかに矛盾なのにそれに気づかない。何よりもモザイクで映像を汚すことに対して、プロの映像屋なら当然抱くはずの葛藤やためらいが消えてしまっている。

 田原 12チャンネルに入って、一三年間ドキュメンタリーばかりつくっていました。一番世の中で評判になったのは「ドキュメンタリー青春」という番組です。12チャンネルというのは面白い局で、吹き溜まり、編成や営業からはスポンサーのPR番組を作るような話しかこない。私は自分の番組は全部自分で企画して、自分で売り込みました。「ドキュメンタリー青春」はスポンサーになってくれた東京ガスに、営業・編成を連れて、自分で売り込みに行きました。実質的には、僕が営業もやったわけです。東京ガスに僕を紹介してくれたのは牛山純一さん、そういう意味では、牛山さんにとても恩義がある。
 青春というのだから若い人を撮るのですが、東京ガスの条件は、公序良俗に反しないこと、というものだった。ところが、結果的には全部、公序良俗に反するものばかりでした。全共闘とかフーテンとか。なぜそれができたのか。当時はフィルムですから、放送の二日前にスポンサー試写がある。そこで私がはったりかまして、いかにこれが意義のある番組で、放送することが東京ガスにとってイメージアップになるかとやるわけです。今だから言いますが、それは不安いっぱいですよ、警官隊とがんがんやっている、時には爆弾作っているところを撮るわけですから。その後に、ちょっとずるい手ですが、新聞や雑誌でテレビの評論を書いている人たちをお招きして、なぜこの番組を作ったのか、いかに意義があるかをお話しする。
 12チャンネルではドキュメンタリーを作る時に、まず三つ条件があった。NHKにはのちに「現代の映像」になる吉田直哉さんの「日本の素顔」、日本テレビには牛山さんの「ノンフィクション劇場」と、ブランドものが揃っている。12チャンネルはノーブランド、粗悪品というイメージです。粗悪品がブランド商品にどう勝負するか、ほとんどは勝負しないが、僕は生意気にも勝負してやろうと思った。勝負するためには、NHKや日本テレビが絶対企画できないだろう番組を作る。向こうは頭がいいからアイディアは出る、だけど絶対にできないと思うものを作ろうと考えた。二つ目は、それで視聴率を取る。そうすれば、結果的には問題にならない。他局がやれない、それはつまり、やばいものです。やばいものを作るためには、視聴率がよくて、スポンサーからクレームがこない、評判がいい。まずスポンサー試写をやって、必ず評判がいいぞとはったりをかます。それから評論家向けの試写をします。評論家はだいたい人がいいですから、言ったことを書いてくれる。視聴率はもちろんいいです。そうすると、翌日か翌々日に新聞、朝日が褒め、毎日が褒め、読売はあんまり褒めないけど、日経が褒め、それで雑誌が褒めてくれる。評判がよくて、視聴率がいいと、東京ガスはなんとなくこれはいいのかなと思う。だから、警察にパクられてもできちゃう。楽しくて仕方ないんです。

 森 僕の場合は、確かにテレビで扱いづらいテーマを取り上げた作品が多いけれど、田原さんみたいな確信犯ではぜんぜんないですね。そんなに気がきくタイプでもないので、あんまり考えていない。例ば『放送禁止歌』は、放送してから部落問題はタブーなんだよと言われて、そうだつたの、みたいな。まあ今のは少し極端に言いましたが、でもそういう感じがすごくあって、『A』の時だって、タブーに切り込もうとか善悪の二元論に対抗しようとか、そんな戦略なんて皆無でした。どうやって信者たちに被写体となることを了解させたのかとよく聞かれるのだけど、どうやっても何も、僕以外には誰もドキュメンタリーのオファーをしていないのですから。ハードルが高いわけじゃなくて、自分たちで勝手に高いと思い込んでいる。あのオウム・パニックの時代に、誰もドキュメンタリーを作るという取材交渉すらしていないことに、あとで気づいて、僕はびっくりしていました。自分では普通のつもりだし実際に普通です。でもいつのまにか突出してしまう。つまり周囲が普通じゃないんです。
 だから田原さんもおっしゃったように、みんなが言うほどテレビは不自由ではないという実感はあります。実は日本のメディア状況は、世界に類を見ないほど自由な環境に置かれているんです。ところが自分たちで勝手に狭めている。
 昔のテレビ状況はやっぱり違いますよね。たまたまこの間、NHKのアーカイブスを見ていたら、被写体が喋っている時に突然ディレクターがフレームの中に入ってきて、打ち合わせと違うからもう一回とか指示をするそんな状況が、そのまま作品の要素になっているんです。今村昌平さんの『人間蒸発』を彷彿させるショットでした。牛山さんが残した文章を読むと、ドキュメンタリーは主観なんだと当たり前のように主張しています。中立公正なんて一言も書いていない。『留学生チユアスイリン』や、自民党から圧力を受けて放送を中止した『南ベトナム海兵大隊戦記』などの前例は確かに昔もあったけれど、でも技術が進化してテレビがメディアの盟主になる過程と並行して、テレビ・ドキュメンタリーの現状が閉塞の一途を辿っていることは、まちがいなく断言できると思います。

 土本 テレビの草創期に関わった経験から言えば、企画を出して、これはまずいと自分で引っ込めさせられたものに、”沖縄”がありました。それから”被差別部落”の問題。だけど、水俣映画の一作目『水俣の子は生きている』は「ノンフィクション劇場」で撮ったのです。まあ、あれほど大きい問題だと、僕も含めて世の中が認識する以前の水俣ですから、通ったのだと思います。やはりNHKラジオの切り拓いた録音構成というか、その跡継ぎとしてテレビの世界で出てきたルポルタージュ風の、吉田さんなんかがやられた「日本の素顔」、ああいつた仕事を横目で見ながら、俺たちも何かやろうという機運は各局でもあったのではないでしょうか。

 田原 テレビでドキュメンタリーを作る環境が変わったのは、時代が変わったのだと思います。一九七〇年代の中頃までは、体制、反体制というのがはっきりしていた。もっと具体的に言えば、自民党政権をぶつ倒せば向こうに青空が見えてくる、自由な世界が拡がるという感じがみんなにあったと思う。全共闘運動が連合赤軍事件で崩壊したあと、そこがなくなるんです。つまり、自民党なんかぶっ壊したって、もっと大きな仕組みがあって、そこにどうしょうもなくふん縛られているということ。それを歌にしたのが、かつてで言えば尾崎豊だろうし、全共闘のあとで自分探しをして出てきたのがオウムだろう。オウムも尾崎豊もふっとんだ今、そこがわからなくなっている。反体制をやっていれば何となく意味ができた頃はまだ楽だった。今、反体制って何だろうと。
 『華氏九一一』がアメリカで大当たりしたと聞いて、当たり前だと思った。アメリカはブッシュか反ブッシュかの二つに割れていた、アメリカ人の半分は反ブッシュだったからです。
 従来の体制、反体制というイメージが、どうも一九八〇年代に入ってから、ちょっと違うという感じになって、このへんからドキュメンタリーが難しくなっちゃった。森さん、オウムはけしからんというのが警察をはじめあるけれど、オウムの青年たちはみんな、真面目な男たちですよね。中には変なのもいるけど。そっち側からやろうとしたんでしょ。

 森 突然、「朝まで生テレビ」になっちゃいましたね。さっきも言ったように、オウムに対して当初の取材交渉をしている段階で、明確なモチベーシヨンがあったかといえば、自分でもかなり疑わしい。単純にあの頃は、フリーの立場としてはオウムを撮らなければ仕事にならなかったんです。ただ、施設内で撮影を始めてすぐに、なんでこの人たちはこんなに善良で純朴なんだろうと感じました。凶悪な殺人集団であるとか、洗脳されたロボットたちだといった描写がメディアには当たり前のように流通し、日本社会もこれを信じ切っていた。でもそんな視点でオウムを解析してもどこにも到達できない。むしろ、純真で善良だからこそあの事件は起きたのではないかというレトリックから考えないことには、何もわからないのではないかとは、撮影を始めてすぐに皮膚感覚として自分の中に芽生えたと思います。実際に今も付き合いのある信者は大勢いますし、拘置所で実行犯たちにも面会はよくしていますが、皆共通して真面目です。
 同じような例を挙げると、アルカイダの分子が新潟に潜伏していたという報道が少し前にありました。現場に行ってレポーターや記者が、職場や地域に聞き込みすると、一人残らず口を揃えて、あの人は真面目で誠実で優しかったと言う。テレビの場合は、それでスタジオの司会者やコメンテーターたちが困惑していましたね。アルカイダなのに優しいというレトリックがどうしても飲み込めないんでしょう。
 僕に言わせれば当たり前で、真面目な人じゃないのならアルカイダになど参加しません。もっと楽に生きますよ。でもそのアルカイダが、実際に多数の人を殺傷していることもまた事実です。まあこの人の場合は、実際にはアルカイダとは無関係だったようですが、とにかく邪悪だから人を殺すとか、善良な人は被害者になるとか、そんな発想では今の世の中で起きている様々な事件や事象はわかりません。わからないからさらに危機管理意識が強くなって、社会にとっての異物を悪と決めつけてこれを攻撃するという悪循環に嵌ってしまいます。こんな状況では最早、田原さんが指摘するように、左右の対立軸とか体制反体制とか、そんな古きよき時代の座標軸はもはや機能しません。いろんなものが溶解してきでいる。僕はよく左翼とか言われていますけれど、マルクス・エンゲルスも読んだことがないし、プロレタリアート草命なんて信じてもいない。それがなぜ左と言われるのかよくわからない。体制に異を唱えて、さらに僕の場合はいい年してロンゲ(長髪)なんで、何となく左なんですね。確かに右翼にロンゲは少ないけれど。
 そういえば『A2』では右翼の街宣車に乗りました。乗れと言うから乗っただけなんです。よくぞ乗ったみたいなことを言われて当惑しちゃうのだけど。ちょうどあの頃は上祐さんが出所して来たばかりで、彼が居住する横浜の施設にキヤメラを持って行ったら、右翼がビルを包囲している。周りの群衆は、オウムやっちゃえとか殺せとか大騒ぎしているのだけど、右翼の人たちの主張は、どうもそんな単純じゃないんですよね。ところが、テレビも新聞も、とにかくメディアはほとんどその場にいたと思うけれど、右翼の話をちゃんと聞かないんですね。だから話を聞かせてくれって言いに行ったら、お兄ちゃんおまえだけだよ、来い来い撮れ撮れみたいな感じでね。構造は「A」の時と一緒です。聞きに行った僕は普通なんです。だって撮影に行ったのだから。周りのメディアが普通じゃないから浮いちゃうんです。その場にいた右翼は、あとで聞いたんだけれど『南京一九三七』の時に、横浜で劇場を襲撃してスクリーンを破った人たちです。要するに民族派としていちばん純粋で、同時に過激な人たちです。でもね、映画を観てもらえればわかるけれど、憎めない人たちですよ。右翼もいろいろいますけれど、何よりも彼らは真面目です。優しさもあります。主義主張として僕は、国家とか民族とかに価値など絶対に持ちたくないし少なくとも右寄りではないけれど、でも彼らは好きです。思想が違つてはいても尊重します。『A2』の上映初日にも来てくれました。あんまりお客さんが少ないので見かねたのか、森さん、ポスターを貸せと言うんです。悪い予感を抱きながら、何に使うの?と聞いたら、街宣車に張ってやるって。大真面目なんです。でも、それだけは勘弁してください、というようなこともありました。一度だけ、お願いして劇場で舞台に上がってもらったこともありました。

 タブーへの挑戦としてのドキュメンタリー

 田原 ドキュメンタリーをやりたいのであれば、人間に興味がなければダメですよ。僕は「ドキュメンタリー青春」で、魅力のある人間を追いかけた。僕にとって魅力のある人間というのは、自分がいい加減だから、命がけで生きている人間です。当時はやっぱり全共闘であり、その後は土本さんがやった、京大の『パルチザン前史』なんかに出た連中であったり。フーテンも、一所懸命フーテンやっている、怠け者じゃなくて。学生運動や爆弾事件のえん罪は何度もやりましたけれど、警察からがんがんやられている。闘っている人は、真剣でしょ。真剣に生きている、命がけで生きている、時代と切り結んでいる、そういう人間をやりたい。今でもたくさんいます。
 ドキュメンタリーが衰退した最大の原因は、暗いから。暗いものはあまり見たくないのです、本当は。暗いのは良心的で、明るいのは体制的だなんて大間違いです。僕は長くやっているから言うんだけれど、プロかアマチュアかというのは、客を掴むかどうか。土本さんは、水俣で延々生きてこられたのは、客を掴んだからなのです。客を掴めないのはプロじゃない。僕はよくドキュメンタリーの民放祭なんかの審査員もさせられました。最後に並ぶ八作品くらいは、病気か戦争がテーマです。それで、ある時言った。僕は病気や戦争はもう採点しないと。作る側にいるテレビ局の連中は、弱者が好きなのです。世の中の一番弱い人を探してきて、こんなに可哀想、こんなに可哀想とやっている。可哀想なら、自分が可哀想な生活をしてみろと言いたい。局の社員で、ボーナスももらって、月給も高い奴が、そんな弱々しい人たちを見つけてきて偉そうに言うなという感じを僕は持っている。そんなもので、客を掴むことはできません。

 土本 私が水俣病患者から受け取ったものは、いかなる政治的な意図でも目標でもない・・・。患者が願ったのは、俺を返せ、俺を認めろ、俺をどうするんだということを国に問うた、周りの人にも問うったことです。そのことはストレートに日本の繁栄とかそういうものを信じこまされてきた僕たちには、そこなんだなとすぐにわかることでした。これは、共通のイメージがあります。あの時代は、底辺はものすごく貧しかったです。本当に貧しい人は切り捨てられ、チャンスを得た人が這い上がっていくという時代の出来事でした。日本の戦後史をつくり変えたかどうかという観点でいえば、水俣病事件は、言ってみればあまり大きな事件ではないかもしれません、一過性の出来事と見ればです。しかし、人類の明日を垣間見るという予言性がありました。そういう憤激がありました。撮っていくにつれて、見えなかった矛盾や葛藤が明らかになりましたね。それがドキュメンタリーの面白いところだと思います。

 森 テレビに比べて、映画を観てくれる人の数は、ゼロの数が三つも四つも違う。『A』『A2』はそれぞれ一万人ちょっと。テレビでいったら、コメ印と業界では言うのだけど、要するにコンマ以下、〇パーセントみたいな数字です。僕も最初は、映画ってたったこれだけなのかという感覚がありました。テレビ的な体質が僕の中にあったからです。でもね、徐々にわかってきたのだけど、テレビは本当に一過性なんです。何百万人が視聴しようが、その実感も全然ない。視聴者から多少リアクションがあったとしても、せいぜい電話で受け答えして終わりみたいな感じで一〇年やってきて、でも映画はそうはいかないわけです。上映していく過程で、地方に呼ばれたり、打ち上げに参加したり、そんな状態が続くんです。そうすると面白いもので、僕の中で作品が変わっていくのです。もちろん編集も何も変えていないけれど、上映を重ねることによって何か触発されていくみたいな部分があって。たぶん、作品について初期の頃に言っていたことと、今はだいぶ違うはずです。そういう意味では飽きないです。作品への愛着も湧きます。テレビの作品だって、もしかしたら上映という形態をとっていけば、同じような現象が起きるのかもしれない。ただしそのためには商業を切り捨てなければならない。それは無理ですね。だからそもそもテレビはそういうメディアです。ないものねだりをしても仕方がない。それはそれで長所もありますから。
 ただし繰り返しになるけれど、テレビの自由度は実は低くはない。テレビ朝日の「朝まで生テレビ」の存在がそれを証明しています。あの番組を、テレビ界の治外法権にしちゃ駄目なんです。やる気になればできる。ところが業界関係者は無自覚に自縄自縛して、そのうえで規制が強いよなんて溜息をついている。パカじゃないかと思う。

 田原 幸いテレビ朝日の上のほうが僕を信頼していて、クレームがくると、すぐに掛け合いに行きます。どこがいけないんだと。生ですから、クレームはあとからくる。そこがまたいいんです。もう放送は終わっている。文句があるなら、次に出て反論しなさいよというので、出ることもある。自分で責任を持てば、テレビというのは結果良ければすべて良しなんです。
 例えば、今はタブーでも何でもないけれど、かつては部落問題はタブーだった。だから、やろうと思っていました。そうしたら、野坂昭如さんが「朝生」で差別用語をがんがん喋ったのです。普通、テレビ局には使つてはいけないタブーの言葉があり、それを使ってしまった場合は、例えば「今日の野坂さんの発言に不適当なものがありました、訂正します」とやるのだけれど、僕はやらなかった。その代わり、なんで差別用語を喋ったらいけないのか、このことを今度やりますとやった。できるまで半年かかったけど。まず部落解放同盟に行きました。差別、差別と言うことでは差別はなくならない、思い切って、自分で裸になって言いたいことを言ってみろと、けつこう口説きました。そうしたら、面白がって、やろうじゃないかということになった。部落解放同盟と、共産党系の全解連、自民党にも自由同和会というのがある。これが全部仲が悪いのです。三者をはじめてスタジオに集めて、最初から最後まで差別用語乱発でやったの、面白かったですよ。
 部落問題をやろうと言い出したら、まず局の上のほうがやめてくれと言います。上なんて屁でもないですから、これはやっつけて。問題は、ネットが全部、放送しないということでした。放送しないと一番頑張ったのが、大阪の朝日放送です。部落問題のうるさいところほど放送したくない。その説得は大変だった。最後のほうは強迫です。部落解放同盟が出ると言っている、それを放送しないのは差別じゃないかと。結局、部落問題を四回やりましたけれど、テレビって結果オーライですから、やって視聴率がよくて褒められると、今度はやってくれという話になります。
 天皇の戦争責任についても同じでした。天皇が亡くなる前に、やたらマスコミの自粛があったけど、やろうと。そんなこと、前例がない。局の上のほうは、それだけは勘弁してくれという。ちょうど韓国でオリンピックがあったので、オリンピックと日本人というのでやる、ただし一五分だけで、途中で僕がテーマを変えちゃう。それは困ると言う。生本番で僕が変えるのであって、局を裏切ることを親切で言っておく。これだけ言って、やった。そうしたら、一人だけ約束が違うといって帰った男がいました。栗本慎一郎という男です。そういうもので、結果的に問題なければもっとやってくれということになる。どこで押さえるか、行っちゃうかということなのです。僕はテレビの人間ですから、単純に、一回、一回だと思っています。いつ辞めてもいいと思っている。そこで、逆に言うと持っちゃったんですね。
 そういうことから、二回くらい街宣車が一五台くらい僕のマンションに来て、田原は非国民だ、田原を何とかしろと一時間くらいやるのです。結局、その右翼に、何か文句あるのかとやった。それで、面白いのだけど、街宣車で来たのを中心にして、七〇団体と僕一人で討論会をやろうという話になった。一時間半、九段会館でやりました。そうしたら、別のほうから五〇団体が出てきて、あいつらはインチキだ、俺たちが本物だ、やるかと言うから、今度は高田馬場で三時間やった。当然、昭和の戦争はいいか悪いかという話になって、対立します。右翼って面白い。三時間やりきると、握手攻めになるんです。考えは違うけど、方向は同じだとか言ってね、それで終わりです。

 土本 田原さんのようなキャラクターは、ただ単に企業から生まれるんじゃなくて、まったく一人の闘いだったと思います。12チャンネルにいた時代のことを思い出したのですが、田原さん、覚えていますかね。あなたがあるインタビューをとって、確か平和運動の著名な人だったと思うけど、その中に天皇という言葉がやたら出てくる。それは引っ掛かるので、その言葉をサイレントした。言葉を消したらわからなくなるかもしれないけれど、意図的に天皇という言葉をプツンプツンと切ってオンエアすれば、天皇という言葉を切ったなということが視聴者にわかるんじゃないかと言いましたね。これは、ちょっと考えたことがない発想でした。企業やテレビ局と喧嘩して、武勇伝を残す人もいるかと思いますが、田原さんの場合は、決して自爆しない。あくまでも闘い抜く場を失わないで、闘い続けてきたという点では、僕なんか学ぶことがたくさんありますね。

 田原 ちょっと弁解させてください。私が自爆しない理由の一つは、神を持っていないことです。九・一一で国際貿易センターに突っ込んだのも、地下鉄サリン事件を起こしたのも、神に命じられたからでしょ。もう一つ、思想も怖いんです。連合赤軍事件というのは、まさにマルキシズムと心中した、思想が人間より偉い。私は、幸か不幸か、思想はないし、神もない。だから自爆しないんです。
 今、戦争に向かった時代と似てきていると言うけど、何がといえば、保身が一番働いている。個人、個人の保身。もう一つ、世の中が相当変わっている、その変わり方が見えなくて怖い。一つ、政治の話をします。自民党は誰が見ても保守です。民主党は、自民党との違いを明確に導き出せなければ、民主党ではない、違いを言うとすればリベラルしかない、保守とリベラル。だけど、民主党は怖くてリベラルと言えないのです。今の時代の一番怖いのはこれだと思う。違いを出したところは全部、共産党も社民党も惨敗しているのです。僕は自民党より、ちょっと民主党のほうがいいんじゃないかという気持ちがあるけど、リベラルと言えと迫ったら批判になっちゃうから、言いにくい。タブーじゃないけれど、そういう気持ちがちょっとある。本当は自民党が保守だから、民主党はリベラルだと言うべきなんだ、でも怖くて言えないんですよ。僕は、これが今一番不安で、何とかしなければいけないと思っているところです。

 森 二大政党制がついにきたみたいな報道が多かったですね。でも記者だって、おそらく本気でそう思っていないはずなのに、どんどんそれを煽ってしまう。これで健全な民主主義が復活するんじゃないかという幻想を与えてしまう。報道によって、自民党と、ほとんど自民党と同じ構造を持つ民主党が構築する幻想のデモクラシーが、二極構造として正当化されてしまう。本質的な二極でも何でもないのに。

 田原 メディアが自分で煽りたいと思っている。二極になったほうが、一極より健全だと思っている。その違いがだんだん出てこなくなった、これが怖い。
 なぜこの前の戦争で、新聞が戦争賛美をやったのかというと、古い話だけれど、日露戦争が始まる前は、日本の新聞はほとんど反戦なんです。ところが戦争が始まったら、全部、賛成になっちゃう。なぜかというと、反戦は売れなくなっちゃうから。最後まで頑張った、黒岩涙香のところも反戦では売れないから賛成に変わって、その時にしょうがないから辞めた記者が幸徳秋水です。彼は名記者だった。そこが時代の怖いところです。圧力なんて何もない。

 森 丸山真男は、新聞が真っ先に転向すると言いました。確かにそのとおりで、転向したその理由は、売れなくなったからです。朝日にしても、確かに結構頑張っていたけれど、東京日日、今の毎日ですね、これが行け行けドンドンに旋回して部数を伸ばしたことで、いつのまにか翼賛報道に転向してしまった。僕はでも、これをあっさりと批判できないんです。部数を気にすることはある意味で当たり前だから。メディアを批判するのは簡単だし、なんでテレビはこんな体たらくになっちゃったんだと嘆くことも簡単だけれど、でもこの理由は単純で、僕ら、つまり市場がそれを選んでいるからです。テレビを変えようと思ったら、テレビ単独で変わることはあり得ない。メディアは民意なんです。ドキュメンタリーの環境も含めて。僕らがもっとドキュメンタリーを見ようと思ったら、テレビも変わるでしょう。

 田原 マイケル・ムーアの『華氏九一一』が大ヒットしたのは、アメリカのテレビが真っ向からブッシュ批判をしなくなったから、テレビの衰退なのです。テレビの経営者が、要するにマネーゲームで、ジャーナリズムなんて意識がない。経営者がそうだと、真っ向からブッシュ批判をしない。それをマイケル・ムーアが真っ向からやっている。僕の目には、反ブッシュの宣伝映画だとしか思えないくらい極端なものだけれど、アメリカ人はあんなにブッシュをこてんぱんにやってくれるものをはじめて見たのだという、痛快なんです。テレピが衰退したからマイケル・ムーアが出てきた、そういう意味では、森さんも土本さんも、チャンスなのです。

 撮ることの加害性への葛藤の中で

 森 究極的にいえば、僕は表現はすべて何らかの意味でプロパガンダだと思っています。だからムーアをプロパガンダだからとの理由で批判する気はない。ただ『華氏九一一』の場合は、それが余りにも政治的というか、特定の思想に作品が奉仕してしまっている。それが嫌なんです。ブッシュを降ろすために作ったと彼は公言しているけれど、彼の主体じゃなくて、政治的メッセージに作品が全部収斂しちゃっている、逆算しているわけです。これに対して、ブッシュを降ろしてイラク戦争をやめさせようというのがムーアの主体なんだと言う人がいますが、それは全然違う。そこには主体が抱く葛藤や煩悶などもない。要するに表現ではなくスローガンです。
 今日、土本さんはドキュメンタリーは葛藤だとおっしゃった。以前僕は、土本さんが水俣を撮っている頃に、キヤメラの後ろで嘔吐していたことがあると聞いたことがあります。いたいけな患者の女の子を撮ろうとして、お母さんが怒った瞬間に嘔吐したと。噂って尾ひれがつきますから、もし間違っていたら訂正してください。だけど、僕は思うのだけど、それだけ土本さんは、撮ることが加害であることを意識していた。水俣の被害者である彼らを被写体にしてまた加害することに、嘔吐するほどに内面で葛藤していた。田原さんはメディアの保身という語彙を使ったけれど、これは裏返せば、メディアが持つ加害性への自覚が希薄になってきたとも言えるんです。テレビの人間にそれだけの覚悟や葛藤があるかどうか。土本さん、どうですか。ずっと水俣を撮り続けてきて、加害性、撮ることが人を傷つけるということをどう考えていらっしゃるのか。

 土本 吐いたという話を書いたことはあるけど、しょっちゅうあったのでいつだったかは定かではないです。森さんのおっしゃったことには、二つ見方があります。作家の僕自身の加害者性とプライバシーを踏み越えるキヤメラ・映画の加害性です。あとの加害性は、メディア自身によって時に過剰なまでに自己規制することにもなります。そういう規準のはっきりしない自己規制は困ります。これとの闘いはその都度あるでしょう。
 映像記録の場合、キヤメラの加害性が一番はっきりしています。特に望遠レンズなんかつけたら、機関銃みたいに見える。キヤメラを回す時、シュートという言葉を使いますが、”射る”という意味です。キヤメラで一方的にシュートするという、非常に暴力的なメカニズムが映画にはつきまとうわけです。そうした加害性を背負っている僕が肚を決めるのは、撮ったけど、その責任は一生持ちますということしかないです。でも、それは言うほど簡単ではない。とてもじゃないけど、そこまでやっていられないという気持ちもあります。葛藤です。
 僕は水俣を少々長くやりすぎたのではと時に思いますけれど、長くやらなければ見えてこないこともある。その点、一つの事件を半世紀近く見たことは良いことだと思います。
 僕は「海は死んだ」とか「水俣市は滅びつつある」といった描き方はしてきませんでした。すこしでも見えた自然の甦りや漁民の生活のリズムの復活は撮ってきました。その点では加害者ではなく支援者でもなく、記録者に徹しようとしてきたと思っています。
 最近、水俣の映画を、外国に行って観せますと、あんなことを犯した企業(チッソ)は倒産して、漁民は飢えに苦しみ、患者は病気を抱えて、あの町はもうめちゃめちゃに寂れたのではないかと、遠慮しながら聞かれるのです。ところが、そこでも人は生きてきたのです。患者となっても、生きていく間は生き甲斐を探していく。水俣市はあれだけ美しい風景に取り巻かれて甦っていく。そこを描いた現在形の映画は撮っていませんから、自分でも無責任だと思いました。
 一方メディアの記録には特有の傾向があります。水俣のような悲劇の地は、悲劇で終わっていたほうが話がわかりやすい。水俣は公害企業によってダメになりました、人類の教訓として取り返しのつかない悲劇でした。その時点で終止符を打ち、次は別の問題にいきます、バイバイ、と言ったほうが簡単です。しかし、”取り返しのつかない”悲劇の地でも生きていく人々がいる。自分で納得のいく生き方をしたい。事件が半世紀ともなれば、新しい愛が生まれ、新しい生き方が生まれ、新しい人々がいると。しかし、それはドラマではない普通の日常です。だが甦りの兆しはあります。それが見えるかどうかです。
 最近作のビデオ(『みなまた日記ー甦る魂を訪ねて』)はそういう日常と甦りの兆しを描いた”私家版”です。私家版というのはいわゆる”商品”じゃないという意味で、自分で勝手につけているんですが、売れても売れなくても、今の水俣の記録という意味で残しておこうと思ったからで、責任を感じて作ったわけではありません。楽しんで作りました。それは水俣に、患者さんの遺影集めで一年滞在した機会に、撮りたくて撮ったビデオ素材で作ったものだからです。
 これは一部の支援運動のリーダーには失望されました。告発運動から見たら、シャープなメッセージがないと言うのです。どういうことかと聞くと、かつての僕の水俣映画には一貫してそれがあったのにと言います。それはわかります。しかし、どこかで、悲劇の水俣は悲劇的であり続けて当然と見るかたくなさと同じでしょう。でも海は死んではいません。世代は子や孫に継がれていきます。その自分たちの生き方を見守っていてほしいという気持ちです。かつて怨みの黒旗がありました。だが、患者はいつまでもチッソを呪誼し、体制を恨み続けることはできません。被害者はあくまで闘い続けるべきだというのは勝手だが、僕は今、そうは思いません。生きてきたという現実のほうを思います。あの町は潰れなかった。人が生きてきたし、子供が生まれたし、海の魚を食い続けた。あの当時、水俣は潰れたとか、海は死んだとか言ったメディアは、目を洗って水俣の今を見てほしい。私たちが励まされるような自然との対話が復活しています。小さい兆しですが、意味は大です。そういった意味で、加害しつつ記録してきた四五年間、今にしてようやく見える甦りを、どう記録するか、加害者であったことで、やれることもまた発見できるであろうと考えています。

 森 この間アウシユビッツに行きました。今は半分、観光地になっています。多大な被虐の展示なんです。全部見終わった時にどんな感慨を持つかといえば、ユダヤ人は本当に言語を絶するほどの加虐をされて、迫害され、蹂躙された。それは確かです。でもアウシユビッツは、加害者であるナチスドイツへの思いが働かないような装置になっている。強いてあそこでイメージするとしたら、とんでもないモンスターです。邪悪で狂暴なナチスドイツで思考が停止してしまう。
 ドイツには反ナチ法があって、例えばハーケンクロイツを壁に描いただけで捕まる場合がある。ヒトラーの『マインカンプ(我が闘争)』も出版できない。アドルフという名前はもう誰もつけない。日本の戦後補償に比べて、ドイツはちゃんとしているとみんなは言う。もちろん確かにちゃんとしているところはあるけれど、ちょっとこれは違う部分で、ドイツは止まっている要素があるのじゃないかと感じました。むしろ日本みたいに、いつまでも反省しろとか反省していないとかの議論があるほうが、もしかしたら多少はましな部分があるのではないかという気がちょっとしましたね。
 被虐の記憶だけではなぜいけないのか。第二次世界大戦後が終わったあとにホロコーストの存在を知って、全世界が驚嘆し、同情し、そして萎縮しました。なぜならユダヤへの差別は、連合国側も含めて全ヨーロッパにありましたから。被虐の記憶と後ろめたさとが相乗して、イスラエルという国家への承認につながった。それ自体はもちろん悪いことじゃないけれど、パレスチナの民が故郷を失った。この不均衡さの帰結が中東戦争を経過して、九・一一から今の状況につながっている。大事なことは、被虐の歴史は語り継ぎながらも、同時に、加害者に対しても思いを馳せることだと僕は思っています。でも特にオウム以降、北朝鮮に対してもそうだけれど、悪事をなした人や組織への厳罰論が高まっています。わかりやすい例はブッシュです。加害者が邪悪や凶暴などの語彙とあっさりと等号関係を結ばれてしまう。ならば連鎖は続きます。世界は今、その悪循環の中にどっぷりと浸かっている。この連鎖を止めることができるのはメディアなのに、今はそのメディアが、この構造を声高に煽っている状況です。

 田原 今の中東の問題は実はイスラエルなんですが、『華氏九一一』はそのことに一言も触れていない。つまり、それはアメリカのタブーなんでしょうね。たぶん、弾圧とかそういうものではないタブーなんですね、きっと。そう感じました。

 森 僕の定義では、ドキュメンタリーは間接話法なんです。実際のもの、実際の人を撮るからこそ、作り手の暗喩が問われるんです。もちろんマイケル・ムーア的なドキュメンタリーもあっていい。予定調和の逆算のドキュメンタリーもあっていいんだけれど、でもメタファーを駆使しないドキュメンタリーなど、作っていて面白くないだろうなと思います。

 田原 それでいうと、「ボーリング・フォー・コロバイン』で面白かったのは、突撃インタビューだった。マイケル・ムーアがアポなしで突撃インタビューしている、これは面白い。『華氏九一一』は突撃インタビューが最後に一発しかない。議員に「あなたは息子をイラクに送りますか」とやる、もっとあれを連発すべきだったなと、私は思っています。テレビでドキュメンタリーを作れない一つの理由は、土本さんがさつきおっしゃった、被写体との戦争、闘いなんです。被写体を否応なく踏みつけちゃうんです。土本さんが水俣で、いくら患者の人たちの味方であろうとしても、やっぱり傷つけますよ、出た人を。傷つけるのは、相当辛い仕事です。傷つけたくない、出た人に喜んでもらいたい。喜んでもらうと、こちらに痛みがない。この典型が「プロジェクトX」です。あれは全部、成功物語でやっている、つまり出た人は喜ぶ、撮る痛みを感じなくていい。だから、僕はあれは非常にインチキな作品だと思っている。
 撮る側が痛みを伴う作品は、今でもテレビでできるんです。特に若い人たちには可能性がある。そのためには、今の時代をもっと掴まなければ、どこに問題があるのかを見なければ。それは、いっぱいあります。そこを掴まなければいけないけど、掴みにくくはなっている。さっきも言ったけど、体制、反体制がない。どこで掴むのか、難しいところです。マスコミというのは褒めあげれば、必ず落とします。例えば、鈴木宗男をやっつけるのは楽なんです。だけど、鈴木宗男について一所懸命やっている奴はいない。いいか悪いかと言えば、悪いんです。だけど鈴木宗男の悔しさみたいなものを、僕はわかってやりたいと思っている。中川昭一なんて、中川一郎の息子でしょ。鈴木宗男は何もないじゃないですか。あれでしか、彼は政治家になれなかった、その悔しさを、きっと彼は表現できないのです。そういうテーマはいっぱいあります。

 マスメディアの情報とドキュメンタリーの役割

 土本 僕らが何か表現して、それをご覧になった人が、どこでそれを確かめるか。結局、その現地に行き、問題になった人と直接に語り合う、そういう気持ちを起こさせるドキュメンタリーであってほしいと思います。映画は実地の目撃にかないません。実践こそ最高の認識です。水俣では映画を見た人々が水俣に来て、そのままここに住みつき、問題に関わり続けているという事例が、ごく少数ですけれどもあります。映画を観たままでは気の済まなかった人々です。
 今、イラクの情報は多い。反戦とか、イラク戦争反対とか、いろんな言葉が積み重なって、だんだんそのインパクトをなくしていく情勢が来るのではないかと、僕は思っています。例えばイラクにアメリカ軍が入る一カ月くらい前に、世界中で二〇〇〇万人のデモがあった。それはマスで伝えられていますけれど、二〇〇〇万の一人ひとりを思えば、それはものすごいことだったと思うのです。僕は同じ頃、日本のデモに参加しましたけれど、せいぜい一万人か二万人、本当に寂しいデモでした。しかし、そのデモに来た人の参加以前と以後の変わり方はそれぞれにあったと思います。
 事実を知りたければ、映像で満足しないで、行動で認識し、満足するような暮らし方を選ばなければいけないんじゃないか。たとえ、どんなに少ないデモにせよ、出た人の心が伝わるような、そういった日本の運動に注ぐ目をメディアも考えてほしいと思います。ちょっと、ないものねだりかなという気もしますけれど。

 田原 土本さんは大先輩だから、敢えて言うと、日本のイラク戦争反対のデモというのは、何のためのデモですか。

 土本 自分は反対だという意思表示のためです。

 田原 昔、ベトナム戦争の時にベ平連というのがあって、アメリカのベトナム介入に反対する運動をしていた。これは暴力闘争反対、つまり暴力を使わないのです。しかしベトナム解放戦線あるいは反体制は、爆弾も銃も全部ある、それを応援しているあなた方が暴力をふるわないというのはおかしいんじゃないかと言ったことがあります。ベトナムを応援するなら、ベトナム戦争でアメリカをやっつけたいなら、僕の本音で言えば、ベトナム解放戦線に行って参加する、闘う。イラク戦争反対ならば、ブッシュをやっつける。そのためにどうするのか、テロをやるか、そこを考えなければいけないと思う。だって、アメリカは明らかに暴力でやっているんだから、暴力で中東をやっているわけでしょ。それともフランスあるいはロシアと連帯するのか。その時に、日本でデモして、それは良心の問題のデモ精神ではあるんだけれど、一体ブッシュを変えられるのかどうか。僕は、今の時代はそこだと思うのです。どうやったら、ブッシュのアメリカを変えられるのか。実は、自分の良心の表現としてのデモではダメだと思っている。

 土本・・・。今、日本の中でデモに出ていく人が非常に少ない。本当に二万、三万という数があったらいいところじゃないか。メーデーにしてもそうです。人に会いに行かない、人に巡り合わない、人と一緒に歩かない、人と一緒にプラカードの釘を打たない。このところの日本というのは何なんだろうと思うのです。
 外国のデモンストレーションの報道を見てみますと、カットは短いけれど、そこに映っている映像には、夥しい手作業が繰り広げられていたのだということがわかります。プラカードの作り方一つにしても、いろんなゼッケンの作り方にしても、夥しい手作業があったことが感じられます。日本のテレビで、日本でもいろいろ反対運動がありましたという時に出る映像は、一言で言えば、警察が撮ったとしてもちっとも違いがないような、フラットな映像しか紹介されなくて、そこに登場している一人ひとりが目に浮かんでこない。どうもワンパターンで、そういった民衆の動きについてはメディアはその細部を飛ばしがちです。永い間に人々はテレビや新聞での扱いはせいぜいこれっぽっちということを知っている。テレビでも、生き生きした民衆の実像を作っていく努力が必要ではないか。
 繰り返しになりますが、アメリカのイラク攻撃に反対して全世界で二〇〇〇万のデモがあった、その最盛期でも日本では悲しいほど少ない。どうして人間、こうなっちゃったのか。現地に行かなくても、実際に何の行動をしなくても、この種のテレビで観ただけで気が済んでしまう。メディアの情報は過剰なまであり過ぎはしないか、映像で表現する者としてそう思います。いくら水俣の映画を作っても、実際に水俣に行って目で見て、海辺の空気を吸う以上の感動が与えられるかどうか。映画を長くやってきても、その問題意識はいつも頭にありますね。

 田原 土本さんのおっしゃるとおりで、僕を含めてマスメディアの傲慢さというのは確かにあるでしょう。その点は反省しなければいけないと思います。

 森 テレビでドキュメンタリーが改めて見直されている時期にきていると思います。マスメディアが事象を情報にわかりやすくパッケージ化する傾向が強まれば強まるほど、ドキュメンタリーの領域と意義が重要になってきます。ただしメディアの補完だけでは『華氏九一一』になってしまう。大切なことは自らの思いとその表象です。
 テレビは何百万人、何千万人が同時に視聴するわけで、田原さんが指摘するように何が起きるかわからない。そういった不確定要素も含めて、加害性があるんだということ、場合によっては責任なんかとれないということを自覚しています。この自覚が、まずは最初の責任です。もちろん開き直るのではなく、責任をとれる範囲でとることは当たり前、ただ同時に、とり切れるような生易しい領域ではないということも心に刻むべきです。
 最近ちょっと感じるのは、どんどん主語、一人称が消えていくということです。例えばテレビ局への抗議でよくあるパターンだけど、被害者の気持ちを考えているのかというような内容が多い。『A』『A2』についても、被害者を主語にしてこの作品を批判する人がよくいます。そんな人に限って、あなたは被害者じゃないのだから、あなたの思いをまずは教えてくれというと、きょとんとしているんですよね。自分はどう思ったのか、自分は何を感じたのか、そういった文法が消えつつある。そうなると主語は、国家とか我々とか、そんな集合名詞にいつのまにかすり変わる。一人称じゃないから、成敗しろとか許せないとか、述語も簡単に暴走します。これはメディアも同じなんです。公正中立や不偏不党などの美辞麗句で、誰もが一人称でものを考えなくなっている。
 社会全体の右傾化とか、ナショナリズムの勃興とか言われているけれど、本当の意味でのナショナリズムはそんな簡単なものではない。どこかに偽装があると僕は見ています。ただ、付和雷同というか、まさしくマスゲーム的な動きをするという特性は、確かに日本人には強い。北朝鮮は独裁者の元でマスゲームが展開するけれど、日本人は自由意志でマスゲームに突き進む。これ、実は自由意志のほうが怖いんです。抑制がきかないから。かつてこうして戦争状態に突入したという記憶が途切れています。

 土本 森さんの作家の責任論をもっと聞きたいのですが、もう時間のようで残念です。最後に、僕が田原さんにかねがね思っていることを申し上げたいんだけれど、田原さんは日本のジャーナリストでも特異な方だと思います。岩波映画やテレビ局に所属していた時期も、貴方のお仕事は個人の営為でしたね。著書も『原子力戦争』や『日本の戦争』などを次々に発表しておられる。ともに記録書として愛読しました。貴方の存在感、その発言力が大きいだけに、時にもっともっとやってくれと思うこともあります。しかし、人への仮託はだめです。自分のやれることを、もっとやるべしということでしょう。お二人とも、自分を見つめてのうえのお話だったことが私、聞き手にとって何より刺激的だったと思います。今日はどうも有り難うございました。