書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 ドキュメンタリー映画の作り手の栄光と「悲惨」について -あとがきにかえて-
1987年、早春にもたれた「土本典昭フィルモグラフィー」の中軸となった映画研究者・記録映画の現場の各氏による『ドキュメンタリー映画に関するシンポジューム』が、二年の歳月を経てこのような形で一冊のテキストになった。
もともとフィルム「個展」に伴って「講座」にしつらえてあることから、爼上になる当人にとっては汗顔のいたりであった。会場でも各氏の話を縮こまって物陰で聞いた。あたかも「神をおそれぬ所業」に思えたからだ。だが各氏の映画の話を文字として追って、あらためてドキュメンタリー映画についての豊かな思想が様々に姿を現していることを知らされ興奮を覚えた。企画の底にある「ヨイショ」されることへの暗々裡の期待とでもいった手前勝手さは、各氏のそれぞれの映画への夢と志によって浄化され、自分の気はずかしさなるものは自分にある卑少さと、反面、夜郎事大さにあることを改めて気づかされた。それ程にキラキラとした触発があった。
冒頭の蓮見重彦氏の文章には映画・文明批評の奥深さに驚かされた。ファインダーのなかから始まる選択とフレームからの排除、つまり対象をクローズ・アップすることからくる特権化の指摘などは、ボリビアのホルヘ・サンヒネス<ウカマウ集団>の主張する「群像を撮る場合におけるカメラによる恣意的なクローズ・アップの多用への戒め」を理論化したものに思われた。羽田澄子氏の率直な自己表現や、師事した羽仁 進氏の評価軸の緻密さには畏怖した。
今回の講座の眼目は記録映画の各パートにそれぞれの映画表現の内実を語り教えて戴くこと(企画者山上徹二郎)に置かれていた。それは自分にとっても初耳のことが多かった。今までかなり面識がありながら、いやそれゆえにことあらためて聞きただすことのなかったドキュメンタリー観や、それぞれののフィルム(現場)体験をなかだちとしての意見、解釈、批評であった。それは私の曖昧さ、いかがわしさ「悪賢しさ」をも照らし出しもした。痛い擦り合わせであったが爽快でもあった。仮に叩き台が私のフィルムであったにせよ、ともにドキュメンタリー映画への共通のおもいに結ばれている。同時代性というべきか、ドキュメンタリー掘窄の共同的作業というべきか、それには目を凝らさざるをえない。(そのボリュームゆえに掲載できなかった野田真吉、高村武次、大津幸四郎、桜井善一郎氏らの言葉も忘れえない)ここに深く謝意を表したい。
私たちの映画への出発が岩波映画製作所の主に助監督群のなかから生まれた「青の会」であることは小川紳介、黒木和雄らによって言及されている。われわれにとって映画の青春であったことは確かだ。そこでの私のテーマは「スタッフ論」だった。
今回のシンポジュームいらい、さらにそれについてのこだわりが深まる。
映画スタッフ論とは、映画はその対象とむきあう作り手との関係性、同時にそのスタッフ間の精神的、感性的運動の緊張、高揚の結果がフィルム面に定着されるという「理屈」である。その創作過程におけるそれが映画の質を決める、つまり、ひとつのフィルムという「生き物」の産まれかたに関わる論である。それはともに驚喜して舞い上がる祭りの結果に似ている。異質の人々のもつそれぞれの核のぶつかりあいで生まれる作品が映画になる…フィルムをちぎれば血のでるようなものにしたいと思ったからだ。それを黒木は「舟頭多くして舟進まず」の諺を借りて「舟頭多くして舟、山に登る」と評した。
ここにはハングリーだった映画青年群像の集団製作実現への可能性が鮮烈にあった。ドキュメンタリー映画の方法論に厳然と内在するデモクラティックな人間関係の在り方に触れていたのである。スタッフはヨコ並びで競い合うというのが大前提だった。
ドキュメンタリー映画における感動の主な因子は人間の存在感、とりわけ質感と情感にあろう。劇映画のようにいわゆる原作なるもの、文学としてすでに取得しているストーリーやドラマティックなものから構想をたすけられ、さらに配役により演技者を選択できる質の映画とか、舞台の上の演出家と俳優とのつくりだす世界とも違う。まして詩人とは異なった創作のプロセスだ。ドキュメンタリー映画の場合、対象の存在感に加えて、それとそこに向き合う映画スタッフ自体の映画行動やプロセスに、もし生き物らしいドラマが感得できなかったとしたら、どこで人々を感動させえようか。
出来ればスタッフのとの「生理」のつながりにまでいたりたい。文中の小川紳介氏の語る、黒木和雄氏とのいわゆる「青の会」時代、ホモと誤解されたエピソードには冗談を超えた真実がある。スタッフと妻といずれをより愛したかと問われれば困る。別ものだとはいうもののいかがわしいかぎりである。
映画は出産に似ている。スタッフとの関係は性のある情念に果てしなく近い。複数の人間原子の核融合というべきか。フィルムのなかの映像への共同幻視にともに狂えるかどうかだ。その間の愛憎に似た関係は、カメラマンの瀬川順一氏のいわれる「映画を(カメラマンとして)私有する」というということばに端的に表現されていよう。
今回の各氏のことばの基調にはドキュメンタリーの現場の特有なコミニュケーション、つまりプロデューサー、カメラマン、録音、編集、音楽などの関係性にもフォーカスが当てられている。いわゆる演出家だけではなにも出来ないからこそ映画が映画なのだという単純なことに帰着する。(その稀有な例外は鈴木志郎康氏などだ。本文収録)だがしかし、現実にはスタッフに亀裂が生まれ、別離があり、かたくなな背反が生まれている。みずから設定した「映画スタッフ論」なるものに、みずから背き苦しむことになっている。それは私情怨恨のレベルではなくまして利害でもない。人間としての生き方についてなのだ。
映画は武闘集団に似ていなくもない。合戦のあと「一将功成って万骨枯る」の感懐が自他ともに襲う。何某の「作品」と括られがちだ。いくら無名性を志向しようとも、個々の映画につきまとう記名性から逃れることはできない。新作が生み落とされた時、「この監督のカメラアイは…」といった類いの言い方がある。かりにもカメラマンに、あるいは録音、照明に言及される事は少ない。「監督」の意思、分別とは別のメディアのなかで、ある整理が働く。やがてはそれを当然と受容する。それはみずから「スタッフ論」の放棄につながっていく。記名性、知名性そして有名性そのものがドキュメンタリー「作家」の落とし穴になりかねない。
この違和感とのあらがいは全く無名だった25年まえの『青の会』いごつきまとっているそれを根底的に解決できないでいる以上、自分自身の変質をまぬがれがたい。連続的な仕事であればあるほど「スタッフ論」は絶えず形骸化し風化する危険にさらされる。現に盟友と称した水俣シリーズのプロデューサーとも私は袂を分った。棘は刺さり放しだ。仕事を重ねる毎に虚名はさいの河原の石を積むがごとくである。あらたに映画を作ろうとする時、いつもその痛みの記憶と、それとうらはらな思い上がりとの自己葛藤がある。惰性や小手先の才覚ではことがすまない。つまり思念のすえは全くのゼロから出発するほかはなと思う。もたれかかる旧い基盤を自らの手で壊し、自分の座り場所を自分の手で転覆するしか手がない。よくぞ言った。「一期一会」とは知恵あふるる古人の言葉だと思う。
旧知のスタッフも絶えず変化してやまない。たとえばドキュメンタリーにおける編集とはスタッフの魂の在所をラッシュ・フィルムのなかに捜し出すことから始まる。それが初心だ。その初心ゆえに、いかに同じスタッフと組むことを切望しようと、一作ごとの再会に賭けを置き、その都度のスタッフ論を創りたいと思う。映画をお互いに「私有」するためにである。齢を経てなお当たり前の言葉を自分にいいきかせるのを許してほしい。
このシンポジュームの各氏のそれぞれの創作の根底にあるのは映画行為における自由である。記録性への限りない興味とおののきである。そしてスタッフの形成への願望である。ドキュメンタリー映画こそ他者であり異質の核をもつスタッフの共同創造性をわれわれに誘いかけてやまない。それが私にとって予想を超えた励ましだった。たとえ失敗や過誤があろうと、その全プロセスを記録しさらけだしていく…それが映画といわずドキュメンタリーなるもの持つ質であると思うからだ。 (89,4,24)