記録映画はひとびとの合作である 生きることについて 牧方市・牧方市教育委員会 <1992年(平4)>
 記録映画はひとびとの合作である 生きることについて 牧方市・牧方市教育委員会

 こんにちは。きょうは、お招きいただきましでありがとうございます。二、三年前にちょっと病気をしましたので、あまりこういう機会を得ずにいたのですが、久しぶりに最近の水俣のことについて話したいこともありますし、最近考えていることなども含めて、テーマに沿った話をできればと思っています。
 きょうは、三つぐらいの柱を立てて話したいと思います。
 一つは、”なぜ記録映画を私が選んできたか”ということを前置きにして話したいと思います。
 それから、結果としてそうなったんですが、私が水俣にかかわって二五年になります。一人の映像の仕事で二五年間、同じ地域、同じひとびとと出会って映画を撮るということによって、結果としては、大変に得難い体験をしたと思います。たまに一回行って撮るというようなこともありますが、二五年間、一つのテーマを続けてきた、特に記録映画という方法を通じて接してきたということで、どうしてもひとびととの出会いが深まらざるを得ません。さらに、つくったフィルムとして二五年間なりの積み重ねがあります。そうすると、私自身を離れてフィルムが逆に私に問いかけてくるとか、あるいは問い詰めてくるということが起きてくるわけです。記録映画の現場の話などを含めながら、二つめには、”なぜ水俣か”ということを話したいと思います。
 最後に、やはり水俣から教わってきたことだと思いますが、”記録”ということをもう一度映像の世界で考え直してみたいと思っています。生活のつづり方、原爆の体験記、あるいは戦争の体験記というような”文章による記録運動”が民衆の中に始まっておりますが、”映像による記録”というものは、映画自身、文字の社会よりもはるかに短い歴史しかありませんし、また、映像が本当に”記録”として自覚されてからも短い時間しかありません。現在でも、”映像による記録”の方法は、思想的にも、形式的にも、技術的にも自身変化しております。わかりやすく言えば、みなさんのお手元に写真機があった時代から、ビデオが各家庭にある、キャメラもあるという時代ですから、”映像による記録”というものは本当に広がってはいるんですが、まだ、どういうものか道を探っているという時だと思います。三つめに、”映像による記録”の活動というのは、語り継ぐべき仕事の中にどのように位置づくものだろうかということを一緒に考えてみたいと思います。

 なぜ記録映画を選んだのか

 先ほど、司会者の方から、私はもっと若いと思っていたと言われましたが、難しい年配になりました。年齢相応の落ち着きも貫禄もないんですが、数えで六三歳になりました。考えてみれば自分の生きた時代というのは、どういう時代であったのか。また、記録映画を自分の仕事として選んで、かれこれ三五年ぐらいになりますが、私自身が映画の勃興期、記録映画の誕生の時代に生まれ育ったものですから、見るという側からも、ある意味で”映画の時代”の影響を受けています。そういう中で、現在、結果として記録映画をやっているということについて振り返って、自分にとって記録映画は何かということを考える年配にもなっていると思います。
 今、映画をやりたいという若い人が十人いるとしますと、その中で記録映画を希望する人は一人いればいいところです。やはり多くは劇映画にいきたいということです。記録映画をやりたいという若い人の心の中には、記録映画、あるいはテレビドキュメンタリーと言ってもいいんですが、その中で、時代と切り結んで自分の表現活動をしたい、現実と格闘してみたいというような映画青年とはかなり違った”時代の子”として何か自覚している気配がありまして、人数を問わず、ドキュメンタリーというものについて考える人が出てきていると思っているわけです。
 そういう若い人から、取り立ててお尋ねするというような気配で聞かれるのは、「なぜ、劇映画でなくて記録映画なんですか」という質問です。「なぜ、あなたは映画といいながら、記録というものに一生を使ったのか」「なぜ、今でも記録映画のことを考えているのか」と聞かれるんですが、逆に私はお尋ねするわけです。「劇映画の人に、「なぜ、あなたは劇映画ですか」って聞いたことありますか」と。映画の仕事をした人に、「なぜ、あなたは映画か」という聞き方はするけれども、黒津明に「あなたは、なぜ、劇映画を選んだんですか」と、”劇”をつける人はいないんです。ところが、記録となると「なぜ、記録映画ですか」とお聞きになるんです。
 そこには、まことに正直な反映があると思います。日本の記録映画が残した歴史的な質感、質感といってはおかしいんですが、”記録映画”という言葉から響いてくる何かがあるんですね。あるいは、記録映画が世の中に受け入れられている形の認識がある。言ってみれば、記録映画は映画の中における主流ではない。傍流というのでもないけれども、一流ではない。一流という言い方もまたおかしいとすれば、特異な選択・・・記録映画というのは特異な選択ではないかと。
 映画という場合には、やはり劇映画の世界という認識があると思うんです。それは、ちっとも間違ってないと思います。日本の記録映画の歩んできた道を見ますと、残念ながら、往々にして大きな誤りと、自己主張のない、時代に引っ張られた動き方をしてきたと思います。日本のドキュメンタリーの運動というのは、作家のあり方というものについて、本当に命をかけて主張するということができなかった。”記録映画”という言葉には、そういう前史がついて回っていると思うんです。
 その認識は、私にとって非常に同感なところがあります。できれば良質のジャーナリストになりたい、あるいは民衆の側に立ったジャーナリストになりたいと考えていた私が記録映画を選んだのは、ご年配の方がいれば時代を思い出していただきたいんですが、私は戦後の学生運動の結成から、朝鮮戦争の時代に学生運動が背負わなければならなかった反戦運動とか、戦後五年にしてやってきたレッドパ-ジといいますか、共産党追放、戦争中の共産党員の排除という問題に教授たちがもう一ぺんおとしいれられるかもしれないというようなことに対して、学生としてレッドパージ反対闘争などをしてきました。その当時は、私は日本共産党に属していまして、まもなく事情があってやめてフリーでやっておりますが、学生として活動することも全部マークされており、ついに大学を卒業するということができませんでした。いわば、学生として札つきのレッテルを張られたような身分でしたので、私には職業的新聞記者といった、報道や表現の世界というものにたどりつく可能性が全くありませんでした。そういった中で私がかろうじて見つけた職場というのが、映画の仕事でした。
 その時代は、後でおおまかな流れを申し上げますが、一言で言えば、戦後、日本の国、独占資本が自信を持って日本の産業社会を設計していくという中で、いろいろな形で企業の大PR映画が求められた時代です。テレビはまだ生まれたばかりで、日本の主要なメディアではなく、まだ映画が非常に大きな力を持っていた時代ですが、言ってみれば、資本の映画、総資本のPR映画というようなものが大量に求められていった時期に、岩波書店と言えば良心的と言われてるんですが、その子会社ですから非常に自由主義的な雰囲気はありましたが、岩波映画製作所という会社に、そういう大資本PR映画の働き手として職を得ました。一年間、その職に携わり、以後、フリーになって映画作家の道を歩むわけですが、起源としては、ジャーナリストを選んだつもりが、大企業のPR映画の片棒を担ぐというような皮肉なめぐり合わせで、私の生活はスタートしたということになります。
 ただし、そこには大変な希望もありました。岩波映画製作所には何人かの優れた若い先輩がおりまして、みなさんのご承知の名前で言えば、羽仁進さんという人がいました。羽仁五郎さんと羽仁説子さんの息子さんで、記録映画からスタートして劇映画をつくったり、世界的なスケールのアフリカの動物の映画をつくったり、反核映画をつくったりしておられますが、私の師匠でもあります。それから、『痴呆性老人の世界』とか、『美しく老いるために』にという作品をつくった女性監督の羽田澄子さんがいました。それから、先輩格で、『病院は嫌いだ』という映画で昨年度のドキュメンタリーのコンクールなんかを総ざらいしている時枝俊江という女性監督がいました。
 その人たちに共通しているのは、戦後、最も良質な社会教育映画運動の流れを、岩波映画がつくろうと思ったところの考え方によって育てられ、機会を与えられ、彼らは映画のベテランではなくて、映画の技術としては多分に幼稚だったかもしれませんが、新しさにおいて冒険ができるというような形で、世の中に作品を問うていったということです。そのことによって今までの古いパターンの記録映画に対して非常に新鮮な登場をしてきたという時代でした。
 その人たちは社会教育映画という宝物のようなジャンルをつくりあげていくセクションにいたのですが、私たちはそういったことをわきに見ながら大資本のPR映画をつくっていました。しかし、人との交流はありましたし、作品を勉強するという機会はありました。そういう中で、特に私は羽仁進さんの記録映画の方法に、大変な衝撃を受けました。

 私の時代の映画

 また後で、羽仁さんのことには触れたいと思いますが、今になってこういうことだったのかと記録映画はひとびととの合作であるわかる、私の時代と映画との重なり具合を話してみたいと思います。
 今、三十代の人は、生まれたときからテレビがあり、映画館に行く経験がなくても映像には触れ得る時代に生きていると思います。そういう人たちが、これからは世の中の主流を占めていく時代だと思います。私の時代の映画ということを話すにも、なぜ話すかというポイントが要ると思うのですが、私の時代にも新しいメディアとしての映画が私たちの目の前にあったということです。映画の持つ説得力というか、迫力というか、そのモンタージュ、ナレーションも含めて、たたき込まれてくるすさまじい力を私たちは戦争中にいやというほど知りました。しかも、私たちは子ども心にそういう映画を求めてきた・・・。その映画を追いかけて、並んで、熱狂して見て日本のアジアにおける膨張、拡張、軍事的侵略について、「何かすばらしいアジアの解放を日本がしているんだ」「我々は”鬼畜米英“と戦わなきゃいけないんだ」というような形で、まことにすんなりと物事を考えていくという習慣をつけられてきました。そこには、恐るべきものがあったわけです。
 私が生まれた昭和三年、つまり一九二八年という年は、昭和天皇の即位の年です。私の典昭というのは、”昭和のご大典”なんですね。父親が、”昭和のご大典”を記念するのにこれがよかろうというのでつけた名前ですが、昭典とか典昭というのは同じ世代に随分います。みんな、国家的に何十年に一回しかない歴史を名前に刻んだと思うのですが・・・。
 簡単に申しますと、私の生まれた頃というのは、日本の映画が、特に教育映画、文化映画がじわじわと生まれてきた時代なんです。それは、一つには、”映画法”というものの前身である取締規則等によって、教育映画はどういうものでなきゃならないかというような国家の指示が業者に流されて、映画業者が国策にあった教育映画をつくろうとしていました。その中には、農村改善とか、衛生とか、いろんな意味で庶民に必要な知識の記録映画もありましたが、メインは戦争をいかに理解させていくかという映画にだんだんと変わっていったー、そういう時代に私は生まれたと言えます。
 後年調べてみますと、劇映画に並んで、文化映画というか、記録映画をいかに国家が重視したかということがわかってくるんですが、一つには、国家は、ニュース映画を徹底的に管理しました。さらに、劇映画と並んで、必ず記録映画(文化映画)を上映するというきまりができるわけです。劇映画だけ見にいくわけにはいかない、ニュース映画(文化映画)があって劇映画を見るという設定で、二時間なり二時間半なりの一つのプログラムができているという状態が、戦争の直前から太平洋戦争いっぱい続きます。

 記録映画と戦争

 記録映画という分野が、このような形でだんだん国家的に統合されていくわけです。戦争を一番知らしめる方法として記録映画の力が使われます。劇映画の中にも戦争をテーマにしたものはできるんですが、中日戦争を舞台にした実録戦争ものの記録映画が大ヒットするようになり、劇映画には及びもつかない動員力を持つようになるというような時代が現れます。そういったものに並行して、なぜ我々は現在戦うかということをこと細かに解説した”解説映画”が流れるようになります。
 その解説映画のパターンというのは、例えば、「日本がなぜ満州を確保していくか」「なぜ日本がアジアと手を結ばなきゃいけないか」ということについて、日本が徳川以来、太平の眠りのごとく鎖国している間に、日本を取り巻く情勢としては、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツといろんな欧米帝国主義がアジアの各民族を圧迫して、アジアは全部植民地になってしまい、塗炭の苦しみにあると。そういったものを解き放つ我々日本はアジアの盟主なんだと。それぞれの諸民族と理解を深め、手をとって、アジアを独立させようと。そのために日本は軍事力を持った各帝国主義とアジアにおいて一戦を交えなきゃいけないんだというようなことが、地図を使い、歴史資料を使い、最先端のモンタージュを使って、繰り返し繰り返し出てくるわけです。
 その中で、亀井文夫さんは、その仕事によって獄中にぶち込まれるわけですが、亀井さん以外の監督たちの手によって、各戦線の行軍の足跡が次々に映画になります。後で亀井さんに聞きますと、あの当時、戦争記録映画が非常にはやったのは、そのフィルムの中に出征した自分の肉親が出てきゃしないかと、自分の知っている顔が出てきゃしないかということらしいです。上海から便りは来たけれども、『上海』というフィルムのどこかに出てきゃしないかというので、親戚一同が一人の出征兵士のために映画館に足を運んだから、あれは当たったんだよと皮肉を言っておられましたが、そういった面も含めて、記録映画が大変な力を持ちました。
 後々の教訓ですが、ヒトラーが民族の祭典とか、ニュールンベルグ記念日のパレードだとか、いろんなナチスの映画をつくったときに費やしたエネルギーというか、金のかけ方というか、それの世界への配給の仕方のおびただしい努力などを考えますと、国家が国家的な事業をやるときには必ず記録映画を使っていることがわかります。記録映画を牽引力にして、劇映画をそれに従わせていくというようなパターンがあるんだなと後で気がつくわけです。そういった形で、非劇映画ー劇映画でない映画、ドキュメンタリーとはあえて申しませんが、実写ものとかなんとか言われた記録映画ふうの映画の持っている力が私たちを取り巻いた。それによって、子ども心ながらも、天皇に対する大変な帰依、戦争に対する協力、死に急ぎーやっぱり私なんかの命があるうちに戦争に行って、国のために役立って死にたいというような思いに少年としての心をかき立てられました。その一番の教育をしたのは、その一つはと言ってもいいんですが、明確に記録映画であったと言えます。
 戦後になりまして、私たちは思想的にも大変な、それこそ、比較すれば今のモスクワの青年たちの気持ちかもしれませんが、堅く信じていたものが全部壊れていく、かつての権威がガラガラと音を立てて崩れていく、大人は一切信用できない、過去に聞いた事実がすべて偽りだったかもしれないというような状況になりました。そんなときに頼るべきものとして生まれましたのは、「真相はこうだ」といったようなラジオの報道とか、『日本の悲劇』といったような、戦争中のフィルムを使いながら、真実はこういうことであったというような記録映画でした。若干の期間でしたが、そういったものが我々を励まし、目を覚まさせることになったのですが、戦争が終わってまもなくすると、私たちは再びおかしなことになってきたんです。それは、アメリカの占領でした。
 私は敗戦がちょうど中学卒業の年でした。多感なときで、娯楽と言えば映画しかないという時期ですから、どんなところへでも映画を見に行っていました。敗戦の翌年かに亀井文夫さんが、戦争中の身柄拘束や監視つきの生活から戻って東宝でおつくりになった『日本の悲劇』という記録映画があるんですが、その中で天皇の役割を、戦争中の軍服の馬上姿の天皇から、背広を着て帽子を振って巡回する天皇にオーバーラップして、その変身を映画的テクニックで表現したわけです。そのことが、当時のGHQの天皇を温存しようという政策に、ある危倶を持たせたのだと思いますが、本当に民主主義的な映画なんですが没収されてしまいました。この没収ということによって、占領軍の考え方というよりは、占領軍をもってすればいともたやすく没収ということができるんだ、要するに、文化が右にも左にも軽く消されていく時代がまた始まったんだということを感じさせられました。
 これも後に知るんですが、原爆に関して、私たちが非常に尊敬していた人たちの間で密かに語り継がれていた事件があります。日本映画社というところが戦争中には国策的な映画をつくっていたわけですが、その中にいた良心的な人々の手によって、広島と長崎に原爆が落ちたときの記録映画が敗戦直後から撮られます。米軍が上陸して、米軍の指示も含めて、その記録映画を撮っていきます。それを日本のために使おうとか何とかということ以前に、ともかくこの惨苦は記録しておこうということで記録しておいたんですが、それがほぼ撮り終わったころ、全ネガフィルムを米軍に没収されてしまいます。没収されるまで、原爆の全貌をフィルムで隅々まで撮ったということは話題になっていましたので、いつ公開するのかということが次にクェスチョンとして残っていたんですが、誰も何も言えなくなってしまったー。どこに行ったのかも喋れなくなってしまったー。つまり、米軍がそれを没収してしまったわけです。ある一定の歴史的な時間を経て、アメリカで秘匿の必要がなくなり、アメリカの国内法によって解禁されたので、今はフィルムが出てきているわけですが、占領下においては、原爆について大変に優れた記録がありながら、日本にはネガがなかったわけです。
 ところが、占領の後にわかったんですが、あるプロデューサーが二度と同じ誤りをしてはいけない、我々はこの記録を何としてもそういった圧迫から逃れて残しておかなきゃいけないというので、フィルムを一本焼いて、仲間うちで隠しぬいていたということがあって、実は日本に一本だけフィルムが残っていたんです。それは占領が終わって時間がたつてから発表されましたが、そういった事実が象徴するように、真実を述べるということが非常に困難な時代というのを戦後に再び体験しました。

10/8 戦後の映画の復興

 だから私は、映画というものについてどこか憧れ、どこかに本当の映画をつくる困難というものは十分に知りながらも、こんな便利な芸術なんてあるものかと思っていました。何か撮ったとしても、モンタージュによっては天皇制賛美の映画にも軍国主義賛美の映画にもなるし、ナレーションを変えれば反天皇制の映画にもなると。そんないい加減な映像に何の価値があるのかということで、かなり映画に対して信頼を失っていました。
 しかしながら、その当時、記録映画の世界にではなく劇映画の世界に、すばらしい映画手法をたたき込んだ映画が登場してきました。その代表は、黒澤明、山本薩夫、今井正なんかですが、その東宝映画の映画労働者たちと私はわりと接触がありました。たまたまですが、その人たちが仕事をしていたきぬた撮影所という東宝の牙城ーそこは労働運動の牙城でもありましたーから五分のところに私は住んでいたんです。ちょっと行けば、監督はいる、役者はいる、キャメラマンはいるという映画人街に住んでいましたから、そういった映画がどういう雰囲気の中で生まれてくるかというのはよくわかっていました。
 例えば、私はそのころ二十歳過ぎぐらいだったんですが、三十から四十ぐらいの東宝の人たちが、非常に若々しく声を弾ませながら、東宝から名作ができる、名作ができると、我々の愛する映画ができるんだと情熱に燃えている雰囲気が私にも伝わってきました。
 みな、後になってしまいますが、回顧録を見てみますと、こういうことが書かれているわけです。つまり、今までの映画界では、プロデューサーが筋書きや大まかな企画を考え、シナリオライターがそれを脚本にして、監督を選んで、選んだら監督に一切任せて、役者もそうなんですが監督の力量で映画を撮っていくと。監督が一番”要”で、監督の権力を最大限尊重し、映画の現場をリードするという一種の”組制度”といいますか、そういったようなシステムを確立していたわけです。そしてそれは戦争中も戦後もあまり変わらなかったと思うんです。ところが、東宝の現場の若い人たちが私たちの目の前で生き生きしていた、あるいは私が東宝を見に行つてなるほどなと思った、そういうふうに東宝の人たちを活気づけたものは何だったのかといいますと”企画製作委員会制度”というのがあったわけです。一つの映画をつくるときに、脚本の段階で予定されたスタッフ全員が集まって、この本はどこが間違っているとか、正しいとか意見を言い合ったり、それからどんなふうにつくっていくという演出についてキャメラマンも意見を言うとか、そういった意味で、いわば映画製作について横並びの意見を言い合えるというように、製作のプロセスが開放されていったんです。
 溝口健二という監督について、伝説的になっていますが、監督が西を向いていたら、みんなが西を向いているみたいなカリスマ性を持った監督のイメージとは全く違って、黒沢明といえども非常に若々しくスタッフの才能を感知していったというか、みんながそれを助けたというか、そういう運動があって東宝の映画ができていました。記録映画が本当に死に絶えてしまったような占領下において、戦後の日本の映画の精神といったものが東宝を基礎として生まれ、しばらくの間、”独立プロ運動”というものをつくっていたと思います。そういう流れの中で、私は映画への魅力を失わないまま、記録映画には絶望するという妙な形で、しかし食うために岩波映画製作所に入るというようなことになりました。

 羽仁進の新しい試み

 なぜ、羽仁進とさっき申し上げたかといいますと、羽仁さんの映画を見て、私は初めて嘘の言えない映像というのがあるという発見をしたからなんです。一口で言いますと、小学校の新入生の才能への目覚めというか、学習への目覚めを描いた『教室の子どもたち』いう羽仁進さんの映画がありまして、その新鮮さにおいて度胆を抜いた映画なんですが、今までの映画常識を破った映像のリアリティを持っていたわけです。
 今ではテレビの方もやっていますし、みんながほぼ獲得した技術ですが、一つは、キャメラとひとびと(子ども)とがとけ込み、キャメラを意識しなくなって、ありのまま、そこに教室の生活を繰り広げるという環境に徹して撮影したということです。
 もう一つは、キャメラを長く回すことによって、コンテとかでいろんなふうに予定した子どもたちの表情なり、姿なり、行動なりではなくて、どんどん変化していく子どもたちの偽らざる姿をキャメラが撮り込んでしまうという方法をとったことです。
 それからもう一つは、今は当たり前になりましたが、その当時はまだ大変高いもので、誰も容易に使えなかったキャメラですが、一眼レフのキャメラを使ったということです。つまり、ファインダーで覗いた世界が、フィルムに写っている世界と全く変わらないというものです。マイクを置いておきまして、そのときにしゃべった言葉は、マイクで必ず録音しておくという技法、今はビデオキャメラは全部そうなっていますから、おかしくもないんですが、当時としては画期的手法でした。一眼レフ系のキャメラというものについて細かく言いますと、それまでのキャメラは、レンズがあって、フィルムを現像すると、どういうフレームにー枠ですね、どんなふうに写っているかということは脇のファインダーで見ていたんです。キャメラの場合、近いところではこの枠でとってくださいという修正マークが書いてあると思いますが、キャメラのレンズと脇のファインダーの軸度との差があります。それは、キャメラマンにとっては非常に修練を要することで、ファインダーを見ながらも、どこからどこまでが映っているのか、何は入っていないかということを確認するのに大変苦労したんですが、一眼レフというのは、覗いてるフレームがそのままフィルムになるということで、極めて大胆な映像が可能になったわけです。
 それと同時に、考えたものを映画に撮っていくようになりました。シナリオがあり、コンテがあり、「はい、今そこで何とかしてる人の顔を撮って」というような脚本を持って、顔だけ撮るといったようなモンタージュの撮り方じゃなくて、キャメラを覗きながら、そこに出てくる人物の変化を見る、その人物のありのままの姿をファインダーの中で見て、考えていくという、考えるキャメラになっていったんです。写すキャメラから、考えるキャメラへ、見つめて、考えていくキャメラになっていったーつまり、撮っているキャメラマンに思想がなければ、記録映画はできないという世界が到来したわけです。
 それは、監督とキャメラマン、あるいは録音、照明なども入りますが、それぞれが”一つの映画をつくる”という流れをつくる一人一人の要素であって、それぞれが共同して撮影行動を行わなければ映画が撮れないと。しかも、そのような中で撮れた映画には、巧まずして大変に優れたリアリティが獲得されるわけです。それから、そこでスタッフたちがキャメラを回しながら何を考えていたか、どういったところに感動したかということが伝わってくるような、キャメラマンが監督の言いつけではなく、自分の判断で回していくような可能性が広がったと言えます。創作者が一つの集団の中で本当に一人一人になるわけですから、中身はよくなるに決まっています。こういうことが、羽仁さんが、大胆に映画の常識を破って作り上げた方法だったわけです。
 それを見たときに、私は、”映画は何かを語れる”と初めて思いました。私がついた師匠は羽仁進さんだけです。後は、どなたにもついておりませんが、十分だったと思っています。こうして映画生活に入りました。

 誰が記録映画を残しているのか

 その後、私は現在まで映画をやってきて、日本のいろんな節目節目を見てきました。その節目節目で必ず引っ張り出されるのは大型記録映画です。オリンピックとか、天皇の成婚とか、万博の展示とか、海洋博の展示とかというのは、やはり大きい記録映画にされています。映像というものは、資本の意図を伝える最大最強の武器になっていますし、似たようなことがテレビで出てきていることはみなさんもご承知だと思いますが、そういうときには劇映画ではなくて、”本当”ということをかぶせた『何とか記録』という形で出てきています。
 ところが、その記録映画というのは、その事実に対して必ずしもフリーな立場で撮った記録ではなくて、製作者、あるいは国家なり、企業なり、そういったものを企画した側の意図が色濃く流れ、刻印されているわけです。つまり、彼らにも自分たちの世界を残したい、残そうという意識があるんです。
 みなさんの中に劇場で「朝日ニュース」とか、ニュース映画をご覧になった人、おられますでしょうか。この十数年、おそらくもうないと思います。今、東京で上映している館は二つだけです。それでいて、今、何社動いているかといいますと、五社です。社員を抱えて、毎週、記録映画、ニュース映画をつくっているんです。その人たちに仕事を与え続けている一番の注文手は文化庁と総理府で、加えて宮内庁があります。つまり、天皇の記録、政府の記録、国家的な記録について、彼らはちゃんと残しているんです。テレビとは別にフィルムで残しています。だから、彼らは彼らの記録映画を残すのに対して、では、私たちが私たちの記録を本当にどう残すのかということについて、この年になってぞっとするような思いで考えています。
 もう一つ言いますと、いくらテレビの時代になってもフィルムが必要なんです。テレビのメカニズムは、ビデオにせよ、ディスクにせよ、理論的に開発されてから今日までの改良の時間しかありませんが、フィルムはカラーを含めて、もう数十年の経験を持ってきています。チャップリンの映画をご覧になっても傷がないのに驚かれると思いますが、保存状態がよければ、白黒は今後どれだけ持つかわからないくらい画期的な映像です。カラーも三原色に分解してテクニカラー方式でやれば、撮りたてのような色を失わないと言われています。ビデオはどうかというと、今までのところ惨敗の歴史です。ディスクとかいろんなことをやっていますが、ぼやけて、磁力性の劣化によってだめになっていくというふうになっていまして、本当の記録はもう一ぺん映画というところに立ち戻っています。NHKは、天皇の即位のときに、大変な買い物ですが、最新の三五ミリの映画の機械を五台買いました。テレビ時代のテレビ局が、なぜ最新鋭の三五ミリの機械を買ったかといいますと、ハイビジョンに対応し、保存するためには、三五ミリがもう一度見直されてきたということなんです。
 私は映画だから映画のひいきをして、映画の復権のことについてちょっと触れましたが、そういうような形で、誰が記録映画を残したか、どういうふうに意図が貫徹されているかということは、大体つかんでいただけたのではないかと思います。

 水俣との出会い

 私は、その後フリーになりました。フリーというと恰好がよかったからフリーになったようなところがあるんですが、体のいい半失業状態で、その中で、とんでもない映画もつくりました。金のために、食うためにつくりました。しかし、こういうものをつくっていきたいというのは頭の中にありました。
 いろいろやって、油ののりかかったとき、一九六五(昭和四十)年に、私が映画を撮れるようになり監督という名前がついてから五年目ぐらいなんですが、水俣に出会いました。それから現在まで、重複した中身はありますが、例えば日本語版を英語版にしてちょっと手を加えたというのも含めますと、水俣関係の映画を十五本つくっています。十六本目を何とかつくろうということでセットしておりますが、現在はロケしておりません。
 なぜ、そうなってしまったかというのは結果論でありまして、最初はテレビの取材でたまたま撮りに行ったのが第一作です。これはテレビ局の所管下にあるため、私が見てくださいという以外には、今は見られないと思いますが、一九六五(昭和四十)年に、最初に水俣に触れたフィルムです。二本目が『水俣ー患者さんとその世界ー』という作品で、あるいはこの中にも見ていただいた方があろうかと思いますが、それを撮るまでに五年間の空白がありました。『水俣ー患者さんとその世界ー』を撮りましたのは、水俣病が世の中にいろんな形で知られ始めた頃です。以後、今日まで、それぞれの節目でいろいろアングルを変えて撮っています。
 ヒューマンドキュメントスタイルの”水俣もの”をつくるということから、水俣の地域社会の全体像をつかむという形で撮りました『不知火海』といった映画のタイプのもの、それから、丸木さんたちが『水俣の図』を書かれましたが、そういうものを通じて、文学者、音楽家、絵かきと、三者の水俣へのオマージュをまとめたフィルムとか、いろんなふうに形を変えてつくっておりますが、その中で一番歴史的に残るのではないかと思うフィルムは、『医学としての水俣病』という三部作です。これは、医学として水俣病は.とうなっているのかということを取り上げたフィルムで、三部作になっていまして、全部で四時間半になります。大ざつばに言えば、第一部が歴史的な面を扱ったもの、第二部が理論的な面、病理的な面を扱ったもの、第三部が、どうやって水俣病を見つけだすか、どうやって手当をするかという角度で描いたものというような三部作です。それも一本、一本と数えていくと十五本の映画があるわけです。
 なぜ、記録映画を選んだのかという点は多少端折りましたが、流れでわかっていただいたと思います。なぜ、水俣病かということについては、滑り出しは無我夢中で撮り、途中からやはり水俣のことを続けてみようというふうに変わったわけです。最初にテレビで撮ったときのことは忘れられませんが、それは、水俣病の”み”の字も話題にならなかった時期の訪問記なんです。日本のテレビのドキュメンタリーとしては、NHKの流れに匹敵する大変な潮流だと思いますが、NTV(日本テレビ)に『ノンフィクション劇場』というのがありまして、そのスタッフと一緒に企画し、考えて、つくった番組の一つとして水俣の訪問記を取り上げたんです。
 私が行きましたきっかけは、その数年前までは、普通の脳性小児麻痺と言われて処理されていた子どもたちが、医学的に胎児性の水俣病であると認知されて非常な衝撃を与えたことがありました。それで、胎児性の水俣病の子どもたちがどういう状態なのか、どういうふうに遇されているのかということを取り上げてみようということで、私が本を書きまして、取材に行きました。
 そのときには、第二の水俣病と言われている新潟水俣病もまだ起きていませんし、いろんな文学作品もまだ生まれていませんし、患者も立ち上がっていませんでした。どういう状態かというと、「水俣病はもう解決した」と言われて、そして、わずかな補償を感謝して受け取って、つつましく音も立てないで生きていた時期なんです。
 当時の水俣の医学行政としては、というとオーバーな言い方になりますが、市立病院とか、水俣市役所の担当課は悩みを持っていました。胎児性水俣病の子どもは十何人いて、うちにいる子もいれば、病院にいる子もいる。そういう子どもたちを訪ね歩くケースワーカーがぜひ必要だけれども、予算が十分じゃないので、そういう人を置けないと。水俣病はもう終わったとされているし、終わったんだけれども、人はまだ生きているわけだからケースワーカーが欲しいということがありました。私たちは、「そこだ」と思って、そのケースワーカーをサブ主人公として映画をつくったんです。今の言葉だとボランティアというんですか、お金は要らない、私はその子たちのために働くという、そういった短大出の若い女性の水俣入りをテーマにして、水俣病の患者の記録をつくりました。
 そのときに、私は大変な怖い体験をしました。それは水俣病が怖いのではなくて、水俣病を抱えた人たちの、私ごとき取材者に対する”怒りと脅威”だったんです。私はどこかでよかれと思って胎児性水俣病の子どもを撮影しているというつもりがありましたし、私自身が水俣に足を踏み込んで、繁栄している企業の影でこんなことが起きてたまるかという疑念も持っていましたし、私の持っているジャーナリストらしい正義感みたいなものが掻き立てられたものですから、本当に疑いもなくキャメラを持って飛び込んでいったわけです。ところが、たまたまある漁村で、自宅にいる子どもを訪ねていくシーンなんですが、まだその子どもがそこらにいるなんて思わないでキャメラをガラガラ回していましたら、回している中に子どもがいたんですね。それを、その子どもの親は、知ってて隠し撮りしたと思ったらしくって、ものすごく怒りだしたんです。その子を抱えて部屋の中に閉じ込もって、それでも胸がおさまらないものですから、そのお母さんが延々とかき口説くわけです。「あなた方は我々の村に来て映画を撮ったりした」と。そういうことがあったのは五、六年前なんですがー。「いくら撮ってくれても子どもはちっともようならん。よくなるなら、いくら撮ってくれでもいいけど、撮ってくれて何になるか、見せものにするだけじゃないか。もう寝た子を起こさんでくれ。あなた方は黙って撮った、許されるか」というわけです。こちらは弁解のしょうがないわけです。たまたま回したら中にいたって言ったって、キャメラを持ってうろうろしていたわけですから、弁解のしょうがないんです。周りに人だかりしていたんですが、みんなお母さんの言うことに共感して、私たちを見つめているわけです。本当に針のむしろというか、いくら謝ってもどうにもならない、つまり、怒られっぱなしで後ずさりするようにしてそこから逃れるというような顛末だったんです。
 そういったことから、映画を撮る気力をすっかり失いまして、逃げ帰ったらテレビに穴をあけるし、かといって、撮り続けて、恰好をつけた番組にして起承転結をつけるなんでいうことは及びもつかない。自分はこんなに馬鹿だったのかと思うぐらい映画的に腑抜けになっているわけです。何も考えられない。私の映画人生もここで終わりだ。えらいものにぶつかってしまったと。映画を撮るということは大変な”原罪”を持っているし、本当にひとびととかみ合わないでこんなことをやってしまって、しかも、映画をつくるということはテレビ局との契約になっていますし、ギャラは半分もらっていましたから、撮らないって言ったって、どうしようかと。これは廃業するよりしょうがない。「ごめんなさい」って、そのまま帰ろうと思いました。キャメラマンも悩んだと思いますが、私が一番悩みました。
 そのときに、宿屋にいてもしょうがないし、漁民のいるところには近づけないし、病院にも行けないし、どこにも行けないものですから、海のそばに行って、キャメラを持って何を撮ろうかというようなことをしているうちに、海のものを撮ろうよということで、海岸の情景を撮っていましたら、何かおもしろくなってその情景をいくつか撮ったりしていました。それで、やっぱり映画を撮らなきゃいけないということになって、何とか勇気を出して、それから人とのつき合いのやり方を変えました。次には本当に、腰低く、遠慮しながら、わかってくれる人を見つけて撮影したということがありました。
 えらい世界だということと、患者の苦しみがどんなにグロテスクに地の中にしみこむかのように存在しているか、あるいは、全然目に見えない、市民に聞いたって、水俣病患者なんて見たことないといったようなまちの中に、確実にすさまじい人たちがいるということがわかりました。しかし、もう二度とこんなところはごめんだと、こんなものを撮るぐらいだったら、もう映画をやめようというようなつもりをもって帰ったわけなんです。しかし、記録映画がおもしろくなってきたところですし、それだけ悪戦苦闘しただけあって、そのフィルムはかなりいいものになりました。

 「告発」の運動

 その好評も手伝って、仕事が次々にくるものですから、いろんなテーマのドキュメンタリーテレビを撮っているうちに、水俣の情勢がすっかり変わってきたんです。私が撮りに行ったときには、何年間かもう本当に沈黙して、寝た子を起こすなという言葉どおり眠りこんでいた水俣の状況が変わったんです。
 その変わったことのポイントは、私が初めに撮りに行ってから、水俣には手を触れなかった五年の間に起きた画期的なことというのは、一九六五(昭和四十)年に、新潟の水俣病の問題が起きましたが、それに絡めて熊本の水俣病について、あれはチッソの工場排水による病気なんだということを一九六八(昭和四三)年、政府厚生省として認めたということです。こんな騒ぎになると思って政府は認めたわけではないんですが、患者にとっては、「やはりそうか。我々の受難はあのチッソか」と。それまでもそういうふうに言ってきましたが、チッソは一度も認めてないということで、「我々の償いをせよ。償いには金しかない。謝罪と償いを求める」という形で行動に立とうということになって、いろんな動きが出てきました。一口に言いますと、会社の懐柔によって絡めとられた患者と、会社の懐柔に対して極端に嫌悪した患者と二手に分かれました。そして、後者の患者グループは少数派ですが裁判に立ちました。その裁判が水俣病に火をつけたわけです。石牟礼道子さんたちの組織づくりと、文集づくり、それから運動づくりが始まり、機関誌づくりが始まって、いわゆる水俣病第一次訴訟というのが起きたわけです。その中で、最もみなさんの記憶に残っているのは”告発”という言葉だと思うんですが、”告発”の運動が起こりました。
 その運動が起きたときに、私の属していた集団に熊本県生まれの高木隆太郎という独立したプロデューサーがいたのですが、その人を通じて、君たちの間で映画をつくってくれと要望がありました。裁判闘争は、熊本で行われる裁判だから全国の目に映らない、どうしても全国に知ってもらわないとということで要望がありました。さて、誰が引き受けて、どうするかというので、東陽一という映画監督が仲間におりますが、彼がよかろうかとかいろんなことがありました。そのとき私は逃げ回っていたんです。もう私は嫌だ、あそこだけは絶対触れたくない、あんな怖いところはないというので、逃げ回っていたんですが、事態を見ていますと、これはひょっとしたらあれだけの体験をした私以外には、あの苦しみを乗り越えられないんじゃないかと思い始めたんです。言葉はきれいなんですが、だんだんその気になってきました。
 ところが、目の前ですばらしいムーブメントが、運動が起きていくわけです。熊本の地方の一事件ではなくて、全国の問題として水俣のことを知ってほしいという石牟礼道子さんやその仲間たちの表現活動や実践的な運動とか、東京に出てきて政府厚生省に訴える直接行動とか、いろんなことが起きてきました。いろんな訴えが東京の各界に伝えられ、それから大変な衝撃の書と言われた『苦界浄土』によって、みな、心から洗われるというようなことが、文学的事件としてもありました。そんなことで東京に人の輸ができてきたわけです。それを撮ったら、それだけで映画になるということはわかっていたんですが、どうもそういう運動の波から映画に入れないんですね。私はどちらかと言えば、そういうものはお手の物で、そういうのを撮らせたらうまいんです。だけど、そういうものを撮ったってどうにもならないというので、キャメラマンやなんかと相談して、三か月間、運動だけやろうと言ったんです。私は運動だけやる、キャメラもマイクも一切持たない、そこで勝負しようというので、それから運動だけしました。
 私は、政府厚生省におどり込んだ隊長をやりましたので、逮捕されて、三日間、築地署へ放り込まれたりしたんですが、それも後で全部プラスになりました。水俣で紹介されるときに、「この人は映画監督だけれども、実は、あのときに捕まって・・・」というとみんな知っているわけです。ああ、あのときに築地署で臭い飯食ったのかということで、名刺代わりにいきなり使われたりして助かったりしています。

 「水俣ー患者さんとその世界ー」の撮影

 それで、映画をつくることになって、水俣での滞在地を石牟礼さんの紹介で見つけてもらったんですが、一番うるさい女の人のうちだったんです。怖い女の人なんですね。今でも怖いんですが、その人のうちは一家全滅でしたから、なんといっても患者たちの中心なんです。患者の現存の地なんです。みんな死んでしまって、部屋が空いているからということでした。部屋を提供してもらって、飯の世話をしてもらって、撮っていったんですが、私には数年前の恐怖の体験があるものですから、キャメラがすぐに回せないんです。まるで宝の山に入ったように、目の前に水俣病の胎児性患者、こちらも患者、こちらも患者、そのうちにはしょっちゅう人が訪ねてくるんです。訪ねてくる人はみな患者という世界にいるんですが、キャメラが回せない。その人たちには集団的に紹介してもらいましたから、私が何をやっているかはわかってもらっていますが、そのことと撮ることのあいさつの仁義とは違うと思いますから、どうやって話をつけていこうかと迷った時間が長くありました。長くっていっても一か月ぐらいですが、その間、ろくなものを撮らない、景色を撮ったりしていました。
 撮らないでいようとすると、「誰々が死んだから、すぐキャメラ持ってこい」って言うんです。死んで、葬式撮ったってしょうがないんですが、そうすると、またどこかから患者がとんできて「今、死にかかっているけど、この人は認定されないで死んじゃうんだから、死ぬところをちゃんと撮ってくれ」と言うんです。ところが、もう末期ですから、水俣病の症状なんか呈していないんです。あと二、三時間で死ぬという人ですから、撮ったって、水俣病の患者かどうかわからないわけです。ところが、このまま死んでしまったら一銭にもならないから撮ってくれって言うんですが、撮りようがないんです。だから、そういうのは撮らないで謝って帰ってきたり、いろんなことを繰り返しました。
 そこで決めたことは、裁判をしている人、いわゆる訴訟派患者に関しては、症状の重い、軽いにかかわらず、全員撮るということです。一人も除外しないで撮る、片っ端から撮っていくぞということなんです。それで、軽い人から撮っていこうと。軽い人というのは、患者の遺族です。その人には、もう年月がありますから語ってくれます。そうして語ってくれた人、撮った人には必ず見せることにしたんです。フィルムを東京で現像して、あなたのことはこう撮ったということで見せると。だから、撮っては映写し、撮っては映写しということを、一人一人やっていくということをしました。条件が違いますから、撮る舞台もいろいろで、例えば、海の中のタコを採る仕事の人は、タコ採りのシーンを撮ったり、ある人が女の網元であれば、女の網元の漁の風景を撮ったりしていますから、どんどん膨らんできます。
 ところが、胎児性水俣病の最重症児が最後まで怖くて撮れなかったんです。最後まで人間的な感覚はその子に中に生きていますので、その子は不快は「不快だ」ということを表明できるんです。「イヤだ」ということは表明できるんです。みなさんもどこかの写真で見たことがあるかと思いますが、仰向けになって目をむいている女の子なんていうのは、拒否してるんです。あの目付は「イヤだ」って言っているんです。それが、水俣病の痙攣かのように見えるんです。水俣病の一部であるから嘘ではない。嘘ではないが、彼女の持っている素顔ではないわけです。異様な状況に対して身構えて防御しているんです。今、嫌がっているなというのを親はわかっています。病人で、いろんな硬直をしています。顔も痙攣していますから、決して整つてはいませんが、その子にも本当に美しい顔のときがあります。それが、どこかでわかります。それが撮れるかどうかというのが、最高の課題なわけです。
 その子が素直な顔を見せるのは、親と親が許した訪問者にだけなんです。親がその訪問者と喋るトーンを聞いていて、「ああ、お母さんの仲良しで、喜んで、私のことを包み隠してくれる何かのテレパシーを送っている人だ」ということを理解したときに、その子は本当にきれいな顔になるんです。笑うわけです。その笑い声にしても、「ギャー」という声なんですが、絶叫のように聞こえるんです。私は、それを悲鳴だとばっかり思っていたら、それは家族の中ではしゃいでいる声なんですね。それが喜び声だというふうに聞き分けられるようになるのに、二か月ぐらいかかったわけです。
 私たちの滞在していた家から道一つ隔てたところに、その子はいたんですが、そうやって、やっぱりわかってきて、それで、撮らなきゃいけないんですね。そうなるまでに、三十世帯ぐらいあった人たちはもうあらかた撮っていました。最後の段階でその子を撮ることのOKを取ったわけです。そうすると、その子も私たちの声を道一つ隔てて聞いていたんですね。知らない世界のことーでも、私たちはしょっちゅう遊びにいっていましたから、そのときの親の話し方、親が私たちとどうつきあっているかということで、その子どもは判断するわけです。それで、キャメラを持っていって、ライトを持っていってもおかしくない顔というか、素直な普段の顔になっていたんです。この美しい顔だけは、私は映画でしか撮れてないと確信してます。その他に、その子の美しい顔を録れているのと言えば、ユージン・スミスのお風呂に入っているところの写真くらいだと思います。その子がお風呂に入っている顔をよく見れば、非常に美しい顔をしています。だから、あれは大変なフィルムだと思います。あれには、やはりアイリーン・スミスという女性の、女どうしの深いつき合いがあったからだと思います。
 そういったことで、水俣の第一作目は印象が深いのでいろいろ申し上げましたが、やはり人との出会い方をきちんとつくらなければ、本当の像に迫れないということが、私が学んだ一つの酷烈な例です。

 民衆の記録としての映像

 みなさんが今、いろんな映像を見て、ときに非常に感心される映像があるとすれば、それは、ある原則を貫いている映像だから感激されると思うんです。例えば、自分のことを語る場合に、非常に上手にインタビューに対して語っているひとびとがいるとします。そういう人が撮れる場合というのは、簡単に言うと、喋りたくなったところを撮っていると言っていいと思います。その人が本当にロをあけたくなったという、心の切り開かれていくところを撮っているとき、そこにはいわゆる圧倒的な”語り”があります。やはり隠しキャメラではなくて、目の前にキャメラがでんと座ってて、写されるということは百も承知した上で、それでいてキャメラに向かって「私はこれだけは言いたい、聞いてほしい」というような気持ちが成熟した場合に、最高の証言が飛び出してくるし、最高の言葉が出てくる、”語り”が出てくるということがあると思います。
 結局、それは記録映画を撮る場合の大変な課題なんです。簡単に言うと、人の肖像をかっぱらってくるのが記録映画の仕事みたいなところがあるんです。私は、好きでよく見ているんですが、”どっきりカメラ”というのがありますね。ふすまか何かの影で撮っておいて、だまくらかしてあっと驚かせる、そういう隠しキャメラなんかに対する魅力は捨てがたいところがあるんです。しかし、罪のない、遊びならやりますが、やはり人の尊厳に関する話では絶対に撮らないと私は決めているわけです。私の映画はほとんど隠しキャメラでは撮っていません。
 そういったことを決めて、なおかつ獲得すべき絵としては、相手の表現と一体化するということなんです。日頃、そんなにも際立って自分自身を表現してないんですが、ギリギリ絶対のキャメラの前で自分を表現したいーそれは、前もっての話は十分ありますし、いろんなことを経てからですが、そうして飛び出してくる表現は、やはりその人の最も典型的な中身が飛び出してくるものですし、その表現は技術として非常に大変なものを持っていることが多いわけです。ですから、そういうつき合いの仕方しか記録映画の撮り方はないんだというふうに思います。映画を撮る人の場合にも、撮らない人の場合にも、無限のひとびととの出会いを楽しみにというか、そのことを覚悟していかないと記録映画というのは撮れないんです。
 例えば、石牟礼さんの文章を私が読んでみますと、患者の名前は全部わかってますからわかるんですが、石牟礼さんは少しずつ名前を変えてるんですよ。そっくり変えてることもあります。名字も変え、名前も変え、それから、引用した医学レポートなんかの場合には、彼女は×山〇江とかいうふうにちょっとではわからないようにしています。カルテなんかが持っているプライバシーの問題がありますし、医者はプライバシーを外に出してはいけないということがありますから、学術論文なんかにも使いますが、固有の名前を消して仮名に近づけていきます。それでも、中身で描かれたもののリアリティがあれば、文学としては成り立つわけです。
 ところが、記録映画はできないわけです。その人の顔を撮らなきゃいけないし、その人の声を撮らなきゃいけない。今、横を向いて、ばらばらとフィルターがかかって、音声が変なふうに変えられているのがありますが、あれは、本当のことを言っているはずなのに「どうしてそうなってるの?」と思うわけです。そんないい加減な撮り方だったら撮らなきゃいいじゃないかと思うんです。そういうのが必要なこともあるかもしれませんが、はやりすぎていて、僕には非常に不思議なんです。あんなのはもう、映像の一番最悪のパターンだと思うんですが・・・。まあ、それはそれとして。ドキュメンタリーには、どうしても最悪の場合、肖像のチョッキン切りみたいなところはありますが、そこから、やっぱり創造の最高の形態としての合作というか、出演者との共作、共同行為というか、そういったところまで高めなければならないと思うんです。それは、記録映画の困難ではなくて、特質であり、やっぱり輿味だと思うんです。
 そのときに、撮られる人はどういう意図を持ってそれに応えるかというと、まず第一に、味方だということです。何か対立する出来事であるとしたら、自分サイドの人間だということです。その人は信頼できるという信頼感と、自分の映像を撮った上で裏切るということはないだろうという確信です。撮られたものと自分とが、私という演出スタッフを通じて、つながりが切れないだろうという確信です。つまり、違うように表現されたとしても文句を言ったら直してくれるというところまでつながる、漠然としたつながりです。撮ったけれども、全然だまくらかして撮って、全く反対の表現に使うということなんかもよく見かけます。それは、例えば憎い警官を撮ったり、悪い政治家とかの場合には、ひょっとしたらありなのかもしれないと思いますが、とてもじゃないですが、民衆の記録を撮るということの上では、やはりできないことだと思います。
 そういうことから言いますと、ある人は、「君のは患者べったりだ。患者サイドの映画だ。公平ではない」と言うんです。私は、「公平ではない」と言うんです。やっぱりどちらかの側に立つ真実しかないと言います。「あなたは、右も正しい、左も正しいという判断で何が撮れるのか」と。どちらかを撮るということの中にあちらも含まれて撮っているはずなんです。両方撮らなければ見えないものではなくて、必ず、この人の中に詰まったあちらに対する見方と証言があるはずなんです。そのどちらに興味を持つかと言えば、私はやはりその人の中に詰まったその反対者としての思想を大事に取り上げていきたいと思うんです。いわゆる公平に、両方の言い分を聞いて、「さて、どちらが正しいでしょう」という映画をつくることは、私にはできません。
 それで、後で、そのことの証言的な確かさとしてはどういうことになるかという問題になります。患者のサイドの証言を撮ったものは、果たして後々に見て公正であろうかどうかということになります。そこが、実は映画の表現の自由なところなんです。表現されたものを、本当として見る人が受け取るか、映画のごまかしとして受け取るか、そこが問われるわけです。
 私が羽仁進の映画で発見したのは、映像は本当のことを撮り得るという手法なんです。本当のことを表現するという手法を私がその映画で忠実に守っていく以上、見る人は、その絵によってその人の全人格をかけて受け取ってくれるということ、それにしかないと思うわけです。それが私の考えたこととはもしかしたら違うかもしれません。違うかもしれませんが、その映像と対話して受け取っていただくならば、それが、映画を見たその人の次の証言になっていくと思うわけです。他のことは、本を読んでいただければいいと思うんです。いろんなことをやっていただければいいと思います。記録映画には、そういう”資料性”と、”事実性”と、それから”表現性”という三つの要素があってはじめて、見られ、残っていくというふうに水俣をやっていて思います。

 水俣病を記録すること

 テレビで大失敗し、次の長編で何とか撮ったつもりだったんですが、その映画を撮って、裁判が一応勝訴に終わりますと、世の中の流れは「水俣さようなら」になります。水俣よりもっと大事な問題があるわけですから、ジャーナリズムの重点は変わっていきます。そのことは、水俣を撮っている人間にはわかります。特に、東京に住んで水俣に撮りに行くとよくわかるんです。熊本の新聞では、水俣病の記事はいつも多いんです。トップになっているんです。ところが、同じ事件が東京では小さい記事としてしか出ない、あるいは出ないんです。切抜きしているとわかるんです。東京に帰って切抜きしていると、ちっとも切抜きがはかどらないのに、熊本に帰ると、同じ時期でもたくさんにたまるという情報の差があります。だから、そういった意味では東京から水俣に撮りに行くということは、日本の鼓動というか、肺活量というか、ある問題のついての波を知るにはとてもいいことなんですが、東京では波が終わったなと思うときに考えたのは、やはり、この問題は撮り続けないと本当にだめだなということでした。
 最初の長編をつくった後、その映画を見せにいくと、やっぱりこういう点もあった方がよかったのではないかと言われる一番の問題、つまり、医学の問題が足りないんじゃないかということでした。それはそのとおりだということで、『医学としての水俣病』三部作を撮ったりしました。そうすると、カナダから”インディアン”が来て水俣病を訴える、そうすると、それをまた撮りたくなるし、撮ったフィルムを持ってカナダの”インディアン”に見せにいくということをやりたくなるしと、いろいろありました。そのうちに水俣病の二十年の映画をまとめておこうかというようなことでやっているうちに『水俣病ーその二十年』をつくりました。そして『水俣病ーその三十年』というのが最近作ですが、今、三十五年になりました。『水俣病ーその四十年』というのをまだつくらなければいけないのかというのが、反面ではすごくゆううつです。本当は、私は水俣病以外にもいろんな問題に色気があり、興味があるんですが、水俣を離れられないというふうに思っています。
 今の時期が水俣にとってどういう時期かということを簡単に申し上げておきますと、変な比喩ですが、断末魔の臨終間際の人の生き方というか、ホスピスと言うのでしょうか、それと非常に似かよった感じを私は水俣に対して持っています。というのは、つかず離れずとも言えますが、水俣病の二十五年を映画で見てきた、映画に収めてきたわけです。ディテールにこだわって見てきたわけです。そうした目で見てみると、やはり、現在の水俣病患者の置かれた状況は、大きく言って水俣病事件の臨終期というふうに私は思っています。ある意味で”幕引き”という言葉が運動の仲間からも使われています。「水俣病は終わっていないー。しかし幕引きが始まった。我々は幕引きにこうしてやっぱり訴えなければいけない」という文脈で伝えられています。
 みなさんが日常的にお聞きになるのは、”和解”ということだと思うんです。つまり、裁判の判決ではなくて、裁判係争中のことについて、裁判所が”和解”を勧告して、患者はそれを受け取っているというような内容だと思います。さて、患者は誰を相手にして裁判をしているかと言いますと、国、県、チッソ、この三者の共同責任を問うているわけです。ところが、現在までにいくつもの”和解”が次々に出ていますが、ほとんど同じパターンなんです。チッソは和解すると言うんです。それから、知事が替わって、県も和解に応じると言っているんです。ところが、国は、和解の意思は全然ないと言っています。その点から言って、国の和解に対する反対というものが、今、焦点になっています。国が加害責任を認めるのか認めないのかということが、水俣病解決の焦点になっているかのようです。
 長きにわたる裁判、長きにわたる水俣病事件ー、先ほども申しましたように、『水俣病ーその四十年』をつくらなければならない。これまでに、多くの人が死にました。現在、患者は非常に老齢化しています。平均年齢が七十いくつになっています。生きて、問題を抱えてる人の年齢からいって、あと十年もたつとあらかた患者は消滅してしまうのではないか。つまり、何らかの”和解”の形で解決されるか、あるいは、”和解”によっても救われない人たちも死んでいくわけです。今、死んだ患者については、問題を掘り起こして認めるということはしないということを決定してます。死後認定はしないということを決めていますから、もう十年だと思います。そこで、現存するのは胎児性水俣病の子どもです。現在、四十に近づこうとしていますが、そういう患者については、ほとんどが既に補償されています。ですから、問題として取り上げていくことは、補償の問題ではなくて、その人たちの人格の問題として、どういうふうに生きていくかということではあり続けるわけです。しかし、水俣病の係争としては、もう十年も経てば、一応物理的に終わっていくわけです。
 現状で”和解”を急ぐのは、患者の老齢化ということは基礎にありますが、その中で一番の焦点は、どの人を水俣病患者とするかという認定基準が争われているわけです。水俣病は、その地域の人が全部、影響を受けたわけですから、線が引けないはずなんです。それは、水俣病事件の持つ特色なわけです。つまり、海のものを食べて発病するわけですから、水銀をどこかから持ってきてなめたわけではないんですから、重い、軽いの個人差はありますが、みな、影響があるわけです。
 その中で、今、手足のしびれ、熱い、冷たいがわからない、痛い、かゆいがわからない、触覚がないというような手足の感覚障害の人が訴えているんですが、水俣病の医学には、いろいろとややこしい規定がありまして、政府は、そういった症状にプラス言葉がよくしゃべれないとか、視野狭窄とか、その他の症状がもう一つ合併していないと水俣病というふうには認定できないと言うんです。なぜならば、手足のしびれを起こす病気は、それだけを取り上げれてみれば、これこれ何十とあるからだと言うわけです。
 ところが、そこで忘れられているのは、どこで生まれて、何を食べて、どういう家族と一緒に暮らしている人かというような疫学なんです。そういう点から見ると、肉親は認定されてて、片方は何の病気かわからないけれどもしびれてるというようなことになるわけです。手足のしびれというのは、本当に、それだけでも相当実生活は大変なんです。見かけが人と同じような姿形をしているがゆえに、同情も情けもないし、その人たち自身、普通の生活をしようと思って焦るから、余計にその疾患はその人たちを苦しめているわけです。
 「手足のしびれなどの症状があるということは、医学的にみて、他の症状を必ず持っているはずだ。それがとり出せるか、とり出せないかは医者の態度による」と極論する原田正純さんというような医者もいるわけです。その気になれば、絶対に手足がしびれている以上、ほかのものもある。しかし、とり方によって、ないという先生もいるだろうと。それは、水俣病に対する歴史的な認識、医学者の思想が狂っているからだと、まあ、そこまでひどくは言いませんが、原田さんは怒るわけです。そういった中で、現在、どのように考えられているかというと、手足のしびれだあるというだけでは水俣病とは言いがたいと、しかしながら、その地域に住んでいるんだから、何らかの手当は必要であろうと。医療費はみましょう、病院に行く費用はみましょう、というようなことで裁判の和解を進めているというような状態です。
 賠償金に当たる一時金についての話題も出ていますが、水俣病の被害者で裁判をしている人は今のところ問題になっている人の全体の半分以下なんです。あと半分以上の人が、裁判という方法ではなくて、直接交渉を求めたり、いろいろして闘ってきた人なんです。その人たちの病状は患者仲間のちゃんとした目がありますから、とんでもない人が患者なんて言っているわけないんです。お前は患者に決まっているという者同士が相寄って闘っているわけなんです。ところが、現実は、裁判をしている人の方が有利で、直接交渉をしているような人たちに対しては、めちゃくちゃな判断とわずかな救済しかぶら下げられていないという状態なんです。
 水俣の中で、やはり基本的に重い人から次々に解決されていったというように、外堀をうずめそしていろんなものをうずめてきた歴史ですから、現在、それ以上に医者の救済は得られない、県なんかの同情的な救済は得られないというような状況になっています。いろんなことで、運動は闘い方の目安を失って、非常に苦しいところにきています。
 その人たちの寿命はあと十年だろうというふうにクールに言いますが、その人たちが一番嫌なことは、長きにわたって言葉にされてきたよ”ニセ患者”という言い方なんです。「あなた方は金が欲しいために、しびれたの何だの大げさに言って、やっぱり補償金が欲しいんじやろう」と。補償金をもらった人さえこういうことを言う人もいるんです。もう解決された患者の中にも、わしらの場合は本当にひどかったが、お前ごときで一人前のことを言うなというような気持ちもあるんです。「俺が水俣病の本家だ」というのがあるんです。軍隊と同じです。早く軍隊に行ったヤツが偉いみたいに、早く病気になった人が偉いというようなところがあります。それもおもしろいんですが、国とか、事件の全体の尺度から見たら本当に微々たることで、基本は変わらないわけなんです。しかし、そういった現実があるわけで、やっぱり”ニセ患者”の汚名を着て、強欲張りだとかなんとか言われて、地域の昔からあったつながりをズタズタにされてそのまま死ねるかということなんです。
 水俣には、非常にたくさんの水俣病と言わないで死んでいく層があります。「少しぐらいおかしいが申請はしないできた」とか、水俣の市民社会のいろんなことを考えて、「私は明らかに水俣病だと思うが、金が欲しいなんてみっともないことは言わない、だまって死んでいく」という層があります。それから、それに耐えきれなくて、医療の問題を軸にして「何とかおとしまえつけてくれ」という人がいます。
 その両方ともが一つのことでは一致しているんです。何かと言いますと、「水俣病ということはあった」と。訴えようが訴えまいが、「私は水俣病として苦しんだということを認めてほしい」ということなんです。苦しんだ代わりに、水俣病を二度と起こさないような教訓にしてほしい。どこかでその苦悩の代表として受け取ってくれたり、感謝してくれたり、いたわってくれたり、あなた方の存在を無駄にしないというように、新しい人間の歴史の流れの中にきちんと位置づけて、それなりに考えてくれるならば死ねるわけなんです。それは、水俣病ということを自覚していて、私たちが行くと、「こんなふうな状態だよ」と言いながらも、にっこりと笑って、「だけど私は申請はしない」という人はいるわけです。どこかで自分でそう決めたんでしょう。でも、自分が水俣病で苦しんだということは絶対に隠さないんです。「水俣病じゃないから申請しない」というのは当たり前ですが、「私は水俣病だ」ということを語りながら、「申請はしない」と言うんです。しかし、その人の中にも自分たちの、この不知火海の人たちの苦しみはちゃんと”水俣病事件史”というようなものの中に位置づけてほしいというのはあると思うんです。
 それは、ちょうど臨終の人に、あなたが生きていた意味はどういうことであり、あなたが死んであとに残る人に遣す言葉は何であり、あと生き残った者は、何に励まされて生きていくのかということを教えてくださいというような関係と非常に似ているわけです。やはりそれでなければ今、水俣の人はうかばれないわけです。
 今、裁判とか、和解とか、まだまだいろんなことがありますが、水俣病みたいに、絶対に片方が無辜なる人で、片方には意識的犯罪があったわけですから、”和解”という言葉もおかしなことだと思います。両方の加害・被害が、場合によってはどこかで入れ替わるようなケースの事件なら”和解”ということがあっていいと思いますが、絶対に被害者が加害者になり得ないような漁民と企業の間の犯罪、民衆と国家との間の犯罪において”和解”というのはおかしいと思うわけです。その”和解”ということがある限り、あまり物事は進まないというふうに思いますが、残る問題としては、そういう問題が明らかにあるわけです。水俣病をどういうふうに私たちが残していくことになるだろうかということにかかっていることだと思っています。

 水俣を繰り返さないために

 ちょっと時間がないので端折りますが、そういうことで、私のフィルムは、方々で見ていただいた後は、静かに眠っていればいいんですが、今、世界のいろんなところで水銀汚染が出てきているんです。それは、水銀というものがたぐい稀な有用な物質だからなんです。触媒としても、金を取り出すにしても、水銀の持っている特性というのは大変なものです。しかも、日本政府が水銀汚染について形式的には言いますが、水俣病の怖さを方々の国に知ってもらう努力なんか何もしていませんから、同じ事件が次々に起きてくるわけです。それが”発展途上国”とか、新しい工業を設置した、レイアウトした地区から起こってくると。都市生活者の間というよりも、自然の生物を、その地場のものを食べて住んでいるネイティブな人の間に起こってくる。そういったケースが次々に出てきますので、私はフィルムを持ってソビエトに行ったり、アルメニアに行つたり、いろんなところに今でも行っているわけです。つまり、そういうフィルムは、そういう情報は、求められることが止まないわけです。普通、フィルムをつくったら、あとはしかるべきところが保管していて、そこに行けば見れるというシステムになって、監督がいちいち持って歩くなんていうことはないようになってほしいものだと思うのですが、やはりこのフィルムの場合、扱いがそうはなっていません。国の環境行政の組み方に、そういったフィルムの普及なんてことは入っていませんので、ややこしいことになっています。被害者の中から直にフィルムを見せてくれという人が来ます。それから、被害者は現地、水俣へ行くわけです。
 ところが、みなさんも水俣に行ったらびっくりされると思いますが、普通のまちです。水俣に行っただけでは何にもわかりません。あるコースをとって、患者に会うチャンスをつくらない限り、水俣病のことはわかりません。今、やっぱり運動の蓄積として、水俣病センター「相思社」というのがあります。そこに手作りの歴史考証館が三年前からできてます。これは、率直に言って、高校の展示室に毛のはえたぐらいのものですが、写真は大変なものがあります。大作家の写真があります。それから、展示指導はちゃんとした学者がやっています。しかし、それを裏付ける金の点が貧弱ですから、まことに玉石混交、お粗末な展示館です。そこに、私のフィルムは全部ありますが、訪ねてきた人が二時間の映画なんか見ていられませんし、そういうものをどうするかというオーディオ化もできていません。しかし、そこでできることはどういうことかといいますと、そこの展示館では、チッソと国の責任をはっきり書いておけるんです。ところが、今、水俣の市政が不思議に変わってきました。一口に言うと、伺を計画するにも水俣は、日本の地方自治、地方行政、土木建設行政、その他衛生行政の中で筆頭の都市になっています。プランを立てれば、建設省も金を出すし、厚生省も金を出すし、いろいろ地方を助成する資金をトップにくれるらしいんです。行政にとって水俣は、大変に申し訳の立たない地域なものですから、理屈がつく限り、どんどんくれるわけです。それをどう得るかということから逆算したプランとして、”水俣の環境復元プラン”というのができています。その復元プランの最終段階の大テーマは何かというと、「水俣をして、世界の環境復元の発信地へ」ということなんです。環境のひどさを味わった水俣でなければ学べない情報を水俣から発信すると。水俣に訪れた人は水俣の美しい自然を見ると同時に、そこで水俣病の悲惨な歴史も学べますと。それを克服し回復して、自然をもと通りにし終えた水俣というのが、そのプランの最終的なイメージのようです。水俣病隠しの市政の歴史から、国・中央の金を期待しての一八〇度の転換です。そのプランのために、もう十何年前からヘドロの海の埋め立てがありまして、今、そこへ行けば菜の花がいっぱい咲いています。もはやヘドロは見当りません。
 そういうふうに、証拠を次々になくしていくというようなことがある一方で、今、大変な予算をかけて市当局は”水俣病資料館”というものをつくっています。その資料館の設計は、原発立地にあるPR館を担当してきた業者がやっています。原発のそばのPR館にお行きになった方、おられますでしょうか。展示があって、どこにモニターがあってとか、ボタンを押すと五分ぐらいでパッと見たい絵が出てきて説明して、あとホールに行くと映画をやってくれるみたいな図解入りの展示館がありますが、そういったノウハウレベルの資料館の建設が一九九二(平成四)年九月に開館予定で進められています。
 今、そこではチッソのおかげで病気になったということは言いますが、チッソ、国、県の犯罪については一切述べておりません。有機水銀が流れた場合に人類がどんなひどい目に遭うかということは、ユージン・スミスのものとかいろんな写真を買いまくっておりますから出ることでしょう。しかし、その原因がいかなるところにあり、どういうことで苦しみをこれだけ長引かされ、これだけなっていくに至ったか、そういった展開はその資料館ではなされておりません。
 だから、今、私たちは水俣の資料をどう残すかということで大きく迷っています。市の行政がつくったところに収めた方がエアコンもいいし、資料室の状況もいいし、金もあるわけです。金の点で言えばそこに託すに限るんですが、託す気にはならないわけです。私たちの水俣病の手作りの資料館は、高校の文化祭に毛のはえたようなところからやっていっておりますが、新しくできる資料館の意味を見届けないことには、やっぱり水俣病の資料をそこに集中するということはできないなと思っています。市の資料館を見た人の十分の一か、二十分の一が、もう一つの私たちの資料館にも足を運んで、なぜ、水俣に二つの展示館があるのかということを考えることによって、初めて水俣の二つの姿がわかるのではないかと考えて、ちょっと居座ろうというふうにみんなで語っているところです。しかし、大変な局面に来ています。彼ら加害者側は”幕引き”をしています。また彼らの記録も始まりました。記録の保存も始まりました。そうすれば、我々はどうしたらいいかということになると思います。そういった意味で、私のできることはわずかなことですが、これからもまだ水俣の被害者たちに連れ添っていきたいというふうに思っているところです。

 資料としての映像

 最後に一つだけ、先ほど申しましたことで言わせていただきたいんですが、戦後、記録映画をつくった私たちの一つの結果ですけれども、ひょっとしたら記録映画は一つの資料に成り得る時代になったんではないかと思います。映画の発達史全体から見て、例えば、戦争中のニュース映画を本当に良質な構成にしていけば、そこからも日本の戦争の何たるかの質感が伝わってくるように、もっと自覚して撮っていったいろんな戦後の各界の記録映画、あるいはテレビ記録は、歴史資料に成り得るわけです。そういった映像が、非常に商業主義的な範囲で歪められていった時代ならともかく、自主製作という形で始まった運動があり、あるいはテレビの中の良質な部分がつくったドキュメント、これらはやはり新しいメディアとしての歴史資料になり、歴史証言に成り得ると思います。それは、つくった人の思い込みの重い、軽いを超えて、そのフィルムという物質は残り続けて、やはり喚起するものを発信し続けるーそういったものなんですね、映像というものは。しかし、それには記録映像を批判的、創造的に扱う姿勢がなければ、生き生きとしたものとして使うことは難しい。しかし、映像には次の時代に語り継ぐ力があることは忘れないでほしい。ですから、これからのドキュメンタリーについては、何年か後まで明らかに証言性を帯びるであろうというものについては、本当に表現の限りを尽くして残しておく必要があると思います。そのことは、必ず歴史的に役に立つときがある、そういうふうに扱う資料としての見方がこれから生まれざるを得ないわけです。それは、”文字の記録”と併用することは多いと思いますが、文字もあり、何もあり、映画もあるというように、三つ揃えば、やはりその”時代の記録”というものは立体的になっていくわけです。
 そういった意味で、記録映画について、瞬間風速にまかせて一時で使い捨てていく映像もあるでしょう。あるでしょうけれども、やはり、映画の歴史の中で初めて、あるいは映像の歴史の中で初めて資料として位置づけられる、それだけの年輪というものを、映画は時代とともに経てきたという時だと思います。だから、今まで予想もしなかったアングルから記録ということ、記録映画ということを考えていく、あるいは、他のメディアと共同作業をしていく、他の民衆の記録作業と並行していくと。上手、下手ではなくて、そういうことを自覚的にとらえられなければいけない時期に来たのではないかと思います。
 ビデオというものの効用もやはり大変なものがあると思いますし、ハードは大体みなさんの手に入るようになりました。ソフトを何にしていいかわからないー。
 簡単なことですが、今、東京である女性監督が、都会の中にぽつりと生きている、家族と一緒に生きているんですが、あるおばあさんのせっせとした仕事を映画に撮っているんです。洗いはりとか、何々漬けとか、雑巾縫いとか、それから昔のおばあさんがやっていたことです。本当に雑巾をどういうふうに縫うのかとか、自分のやっていたことを残しています。そういうことを残し始めて二年になりますが、おそらくそれは、日本の何かを後々に残すということになるのではないかと思います。何も新しいグルメを描くことではなくて、おばあさんがつくっていたやり方を丹念に記録しておくというようなことを自覚して、始めています。だから、そういった日常のことがやがては記録になってしまう時代に私たちは生きているのではないかと思います。少し時間が長くなりましたが、どうもありがとうございました。(拍手)