私論・ドキュメンタリー映画の三十年 『講座 日本映画第7巻 日本映画の現在』 初版1月8日 岩波書店 <1988年(昭63)>
 私論・ドキュメンタリー映画の三十年 『講座 日本映画第7巻 日本映画の現在』 初版1月8日 岩波書店

 岩波映画製作所

 映画青年でも、映画ファンでもなかった私が記録映画の仕事についたのは神武暑気をむかえた一九五六年初めである。学生運動と日中友好運動の常任活動家をへて二八歳になっての職業選択がそれであった理由のひとつは、記録映画がPR映画時代をむかえ働き手を求めていた時期に遭遇し、私のように通常なら企業に忌避されるサヨクすら、働きものと見られれば参入できた時代だったことだ。
 有力な伝手があった。当時、映画人村といわれた東京世田谷の砧近くに親と暮していたが、その隣人が東宝映画文化映画部出身の岩波映画製作所常務吉野馨治であり、中学時代からの私を知っていた人である。共産党員とも言われたが、彼の口からは聞いたことはない。折にふれての話はカメラマンとしての撮影体験談などであった。それも私が水をむけての上での話で、日頃無口で有名な人だった。だから彼から契約雇用の申し出があった時、すでに固まった話のようだった。よろこんでお受けした。永い半失業生活を脱け出られ、結婚のメドもつけられたからだ。
 奇しくもその五月、水俣奇病が発見確認されていた。私は映画の仕事に入って一〇年のちの一九六五年から足かけ二〇年あまりこの水俣病事件史にかかわっているのだが、あえて「私論」というように私にとってのドキュメンタリー映画論は、この三〇年の個人史とその同時代の作家たち及びその作品に限られるであろう。ここでは私の水俣連作は省略し、専ら私の体験した同時代のドキュメンタリー映画の三〇年をたどることにしたい。

 岩波映画製作所(以下岩波映画)はまったき意味で戦後派ドキュメンタリー映画の学校の観があった。そもそも岩波映画は、活字メディアから映像の時代を予感した、岩波書店の社長岩波雄二郎、小林勇専務の発起による。科学者中谷宇吉郎の推す『雪の結晶』『霜の花』の撮影スタッフ、吉野馨治、小口禎三らをトップに一九五〇年に創立された。戦後アメリカ占領政策に授けられた子どもの視聴覚教育・成人向け社会教育としての映画運動に、新しく科学映画、文化映画の種を蒔くこと、そのためにも劇映画製作のオマケ的存在であったり傍流におかれていた記録(文化)映画製作体制を面目一新することでもあった。創立者に羽仁進を加え、日ならずして高村武次、羽田澄子、時枝俊江を入れ、撮影部に科学映画の吉田六郎の下、写真関係の大学、専門学校卒を採用した。ベテランの撮影技術者の下、社会ドキュメンタリーむきのジャーナリスト、女子大卒、そして写真専門学校や大学の写真コース卒のカメラマンの卵が募られた。白いキャンバスばかりだ。吉野・小口らが「個人ではない、集団でつくるのが映画だ。だから監督名などは附けなくてよい。岩波映画製作所のタイトルがすべてだ」としたのも、新しい製作スタイルに対する自信のあらわれであったろう。
 作品が増えるにつれて、レッドパージでフリーになった監督・カメラマンも迎えられた。吉野らのめがねにかなった人達で後進の指導も兼ねてほしいという、もうひとつの仕事が託されている趣きであった。実技指導や合評が盛んであった。撮影・録音の機材は必要な限り順次取り揃えられ、理由のたつ限りフィルム使用量オーバーも許された。零細なこの種の業界では稀なことである。
 「演出は何を表現したいか、言いたいか、それを考えよ、それを撮るのがカメラマンだ。演出家はサイズやレンズなど一切考えなくてもよい。何が欲しいかを語れ」と撮影技術者出身の幹部は口ぐせのように言う。演出志望にとっても撮影志望にとっても元気の出る話だが責任も自覚せざるを得ない。学校の観があったというのはこのゆとりの事である。採用されて、私はこの社の三系統のドキュメンタリーを見ることになる。それは当時の記録映画の動向を代表する作品でもあった。

 科学映画

 ひとつは科学映画の系である。微速度と接写、顕微鏡撮影といった吉野・小口らがつみ重ねた技法をついだ吉田六郎撮影・構成による『蚊』(一九五四)、『かえるの発生』(一九五五)である。これは現実の時間・空間を自由に変換した非日常の世界だ。たとえば数時間分を数十秒に、環境から抽出した生命の個体の運動のクローズアップといった風に。ファインダーの中で蚊のこれからの産卵の姿態や卵の列の長さまでがあらかじめカメラマンの中で計算されている。極微の接写であれば、手もとの一ミリの狂いが画面では枠からの逸脱となる。超接写レンズ下の小さな主役たちにむけての照明、ピントワーク、極微な移動、パンショットー。これには演出の介入の余地はほとんどない。カメラマンの成功と失敗の経験があり、計算の上に勘がなければ撮り得ない。ニクいのは画面にその対象を独占して愛撫しているような官能美さえただよわせるカメラマンの技術である。これには羨望の念をかりたてられた。私は「やはりカメラの方がいいな」と思ったが、すでに配属先はPR映画の製作進行と決っていた。

 PR映画

 第二の系はPR映画だ。『佐久間ダム・第一部』(一九五四、演出高村武次、編集伊勢長之助、撮影小村静夫、スポンサー電源開発)、海外版の『日本の鉄鋼』(一九五五、演出・編集伊勢長之助、撮影瀬川順一、スポンサー日本鉄鋼輸出組合)、ともに岩波映画ならではと、巨大資本の広報活動担当者の注目を浴びた代表作である。
 『佐久間ダム』も科学映画的手法を基調にして作られた映画だ。ダム水没の村の命運にふれていないと同時に、電源開発を誇示するといった企業イメージの謳歌もない。ただひたすらに着工前から第一期の完遂までの工程を追ったものだ。それが工事の経過の後追いではなく、工程表に組まれた予定がいかに緻密に立てられているか、また予想される困難がいかにあらかじめ計算されているものか描くことで、知的ゲームと意志の記録ともなっていた。だから映画的サスペンスを感じさせた。
 アメリカの近代工法、巨きなクレーンや強力なブルドーザーがダムの基盤づくりに駆動して、つるはしとモッコの時代との懸隔を思い知らせる一方、岩に発破の穴をうがつドリル労働者の髪や顔に附着する石の粉、白髪、白毛となったマツゲのクローズ・アップ(今なら珪肺病の証拠写真だが)をも見せる。抑制の利いた構成である分だけ、景観の変容が人智の勝利に写る。構想雄大なこの工事が敗戦国ニッポンのよみがえりのように映じる。一九五二年頃、日本共産党の方針のもと、山村工作隊員として小河内”軍事”ダム反対で闘い、巨大なダム建設をうとましく見つめてきた私ですらふとそう思う作品となっていた。この『佐久間ダム』の三部作はその科学的探究心を底流として共鳴を誘うものであった。だがこの作品のもつふしぎな清潔感、透明感は以後のダムの作品には薄れていく。初発の作品にのみ輝く初心と言えるかも知れない。二番せんじ、三番せんじをやらされるかも知れない私たちには、映画に入ったつもりが独占資本の意志表示の先端部に立たされる日を予感させるものであった。
 『日本の鉄鋼』は、いわゆる外人部隊のつくった異色作だった。外人部隊とはフリーの契約者だけで編成されたスタッフである。岩波育ちの新人はそれぞれ社会教育映画づくりの本流に残された。撮影は東宝文化映画出身で、亀井文夫の『戦ふ兵隊』ではカメラマン三木茂の助手を努め、戦後『ジャコ寓と鉄』『銀嶺の果て』でカメラマンの位置を不動にした瀬川順一である。共産党員であり東宝争議でも中心活動家であった。構成・編集の伊勢長之助は編集の第一人者であった。助監督は戦後独立プロに働いた藤江孝、照明は京都のレッドパージ組と、劇映画体験豊かな、プロフェッショナル集団である。この映画は国内むけではない。独立(一九五二)を期に、欧米の最新鋭設備を導入、稼動を開始した鉄鋼業界の世界にむけての号砲の役割を担って、各国語版にダビングされた映画だった。
 原料の鉄鉱石から製品となるまでの鉄が主役である。工場や設備は充分に描かれているが、カメラは”鉄の詩”に焦点をしぼった。労働者も鉄の動きのかげの調教師のようで、労働讃歌には至らない。溶鉄から最終製品まで、形の変化、色の変調、自由に鍛造、成型されるさまを、鉄を主役にすえて撮った映画である。オートメーション化された大工場は時に大ロングでその全容を見せるが、カメラは寸暇も惜しむように、鉄の流れにそって走る。そのもの珍し気な眼は子供のそれに近い。
 鉄塊が圧延ロールにかかるときの、スピードの変化にあわせた移動撮影や、メッキ糟から出る結晶模様のあるブリキ板とともに上る垂直クレーン、赤い線条がシルエットの労働者の手でさまざまな弧線を描く場面など鉄と呼吸を合わせたカメラの動きである。この映像の質は映画のヒロインへのカメラワークに似ている。”惚れて撮る”という言葉がある、それだ。
 共産党員かそれに近いスタッフが、資本のPRのためになぜチンドン屋の役廻りを演じるのかーという私にわだかまっていた意地悪な見方が次第に薄れた。「このスタッフは工場を映画スタジオに見たててやりたい放題やっている」。彼らの気持が分る気がした。設備は大道具で鉄が映画スターだ。かねてから鉄のすべてを撮ってみたいと思っていたスタッフの、「これは千載一遇のチャンスだ」といわんばかりの蛮声が画面の裏から聞こえる気がした。「ああ、この人たちは勝ってる」と思う。瀬川の「鉄」映画第一回作品である。いってみればこれは技術者・カメラマンの戦い方であろう、演出を志す私がこれほどまでに熱中できるか、と不安が残った。

 羽仁進の教育映画

 第三の系は何といっても羽仁進の『教室の子供たち』(一九五四)だった。すでに観る機会があって、岩波映画への誘いを、すすんで受ける動機ともなった作品である。同じ頃、岩佐氏寿脚本、京極高英演出『ひとりの母の記録』(一九五五)が作られていた。ドキュメンタリー風といっても、養蚕農家の親子役を地元長野の農民から選び出し、せりふのあらましを与えて撮った社会教育用の作品である。桑をつみ、蚕に追われる母の姿を娘の眼と手記で綴ったもので野面の夕景、農家の夜の生活など叙事詩的ではあったが、羽仁作品の輝きには太刀うち出来なかった。
 羽仁進のこの仕事は当時新しい試みであった。一眼レフ系カメラ、常時取り付けられた照明、そして忠実な音声録音。これらで子どもたちの体と心の動きを、成長と変貌の軸でとらえたものである。あきらかに現場でシナリオがつくられている。(羽田澄子がはじめて助監督として付いている。)
 この映画は下町の小学二年生の新学期から学芸会までの記録である。ひっこみ思案の男の子、わがまままる出しのやんちゃ坊主、おしゃまで世話ずきのおねえちゃん、しりごみする女の子-この子らに絞って定点観測的にその日々を撮る。ときに子らの家庭環境ものぞく。児童たちの心理ウオッチングと言うべきか、子どもはいかにまわりからの電波をうけ、発信しかえし、片ときも休まぬ精神の運動をしているかが分る。その個性のそれぞれの発信の糸がからみ合い、ひきあって、集団性をつくる、その過程が感動的なのだ。グループごとの手工、紙でくさりをつくる仕事ぶりを観る。晴れの学芸会のおかざり用である。おしゃまなおねえちゃんは誰もがウキウキするような雰囲気をかもし、傍の子のしごとぶりにも眼くばりを絶やさない。一方、わがまま坊主は文句ばかりつけてとなりの子を縮み上らせ、仕事は一向にはかどらない。しりごみ勝ちの子は手仕事には熱中する。それぞれのグループの成果を出来上った紙のくさりの長さで見せる。一番短いくさりをつまんで照れるわがまま坊主、はしゃぐおねえちゃん。子ども自身による”教育のめざめ”の一瞬である。同時にそれは映画による発見のわななくような興奮をつたえるカットたり得ている。ひとりひとりの子どもを見続けるーそのプロセスの凝視があってはじめて、このシーンをドラマティックにとらええたのであろう。
 
 面白かったのは小村静夫のカメラワークである。むろん羽仁らとのねらいの打合わせはあってのことだが、それまでカメラのボディのわきのファインダーの小窓で見ながらのカメラワークとちがって自由な裁量を楽しんでいる。
 撮り進む途中のラッシュ試写で、同じサイズや子供の表情が単なる反復やくり返しに見えて、編集が出来るかあやぶまれた。編集の定石のカッティングにあてはまらないフレームの連続だからだ。「演出家しかつなげない」「音がつけば分るかも・・・」というあやぶみのなかで、ひとり吉野馨治は「面白くなる」とはげましたそうだ。小村静夫カメラマンの対象にむけたレンズのうごき、心の動きでピントを送るフォーカスワークにしきりに感心していたという。のちに羽仁にフィルムの使用倍率(完成尺数と使用尺数比)を聞いてみたら、意外に少なかった。「撮ったカットはみんな面白かったから大ていつないだ、一倍半位じゃないかな」という。
 『不良少年』で私は羽仁に師事した。撮ったフィルムに本来NGはないーと思うことにしたのは、この羽仁の『不良少年』の仕事を通じて、彼のフィルムの解読力というか、表現の発掘のしかたに大きく触発されたからだ。撮れたカットをどう読みとるかの問題である。技術的に明らかなミスは別として、いわゆるNGは撮った時点の錯誤や動揺の内面の記録でもある。NGがときに生きることもあると考えると解放的になった。私はこの考え方に心ひかれた。
 仕事始めに三つの系の最高作品に接しられたのは幸いだった。そこにドキュメンタリーの原型がすべて揃っている気がしたからだ。

 思えば一九五〇年代後半の岩波映画はドキュメンタリー映画のカオスであった。新旧の流れの交叉する場であった。戦時中にデビューした文化映画の派、戦後の民主的映画人による独立プロ運動の経験者たち、岩波映画の育てた羽仁、『村の婦人学級』(一九五七)の羽田澄子、『町の政治』(一九五七)の時枝俊江ら新人群と三世代にも相当する人材の厚みがあったのである。
 私が仕事についた五六年、すでに年産一七、八本だった製作本数は、神武をこえる岩戸景気の波にのり、安保の一九六〇年頃には五五本に伸び、民間テレビ局も四局、そのドキュメント番組も年間五六本に及んだ。このひろげられた制作の場の吹き溜りに第四の世代ともいうべき新入社員、契約者、フリーの青年が集まった。なかには変り種の劇作家清水邦夫や劇演出家秋浜悟史、テレビドキュメンタリストでのち評論家となった田原総一朗など、のちに作家や彫刻家、音楽家に転じた人たちもいたが、映画以外眼中にない仲間もいた。ボスも居ない代りに師も見当らない。だがそれを奇とも異とも思わなかった。仲間だけが見えていた。

 作家集団・青の会

 当時、演出・撮影の助手時代を共にした世代に黒木和雄、小川紳介、東陽一、岩佐氏寿、楠木徳男、岡田道仁、土屋信篤(以上演出)、鈴木達夫、故清水一彦、大津幸四郎、奥村裕治、田村正毅(撮影部)、録音部の久保田幸雄、岡本光司、編集の加本悠利代らが居た。演出部はテレビドキュメンタリーやB班手伝いなどの他は、黒木を除いてまだ作品をつくる機会に恵まれていなかった。(このメンバーによって、のちに青の会がつくられることになる。)
 職能団体もないではなかった。記録映画作家協会は一九五五年に発足していた。『血のメーデー』(一九五二)、『月の輪古墳』(一九五四)、『日鋼室蘭』(一九五五)など運動的映画を作った作家、助監督らが中心になっていたが、野田真吉、松本俊夫らによる戦後責任論、政治主義的偏向批判論に興味をもつにとどまり、岩波映画の若い世代は殆んど加入していなかった。PR映画などにおける実作活動と党派的言動の間に隔りのある作家たちを身近に見飽きたせいもある。とくに触発されないのだ。
 それにひきかえ刺激的だったのは今村昌平(『盗まれた欲情』(一九五八))や、大島渚(『愛と希望の街』(一九五九))らいわゆる松竹ヌーベルバーグの出現である。それはフランスのアラン・レネ、ゴダールらのそれより身近かで親密な感じで受けとった。彼らがそれぞれに小集団の中で切嵯琢磨していたからだと黒木が吹聴し、アジった。彼が一番外の映画事情に敏感だったからだ。私などは井の中の蛙にひとしかった。
 当時の私の目には、自立したドキュメンタリー運動は日本ドキュメントフィルムにこもった亀井文夫しか見当らなかった。『生きていてよかった』『流血の記録 砂川』(ともに一九五六)、『世界は恐怖する』(一九五七)の連作は指標のように仰ぎ見る高みに思えこそすれ、PR映画の底辺に居た自分たちがすぐ後追いできるものではなかった。むしろ野田真吉の地を這うような記録『忘れられた土地』(一九五八)につながりの思いがもてた。ドキュメンタリー映画の理論家松本俊夫の、アバンギャルド的手法を試みた『安保条約』(一九五九)には私はついていけなかった。映像に官能や情念が感じられなかったからだ。

 黒木和雄の方法

 岩波映画のわれわれ第四世代の輿望をになったのは黒木和雄だった。岩波映画はそれまで企業の大型PR映画はベテランの契約者にゆだねていたが、東京電力の久里浜火力の建設記録に彼を起用した。第一部『海壁』(一九五九)、第二部『ルポルタージュ・炎』(一九六〇)、ついで北海道電力の広報映画『わが愛・北海道』(一九六〇)の三作である。われわれのエースの登板と誰しも見た。そして仲間の多くは”黒木組”に参加した。
 PR映画状況の中で作家たりうるか。「亀井文夫は戦時下、軍部のもとで『上海』『戦ふ兵隊』と、その個性を貫けたではないか。」とかつて亀井の門下生だった楠木徳男は言った。黒木組とのこる仲間は機会あるごとに集まった。黒木組をコアにした場合は、映像論がいたってしやすかった。ラッシュを仲間に見せた上での合評であったし、その合評の中から次の映像への着想・ヒントを促すという集団製作性を重んじたからだ。シナリオやカット割りを前にしての演出手法談義は出るべくもない。撮らなければならない対象は決っているがそれをどのように映画的に圧倒的なカットとして撮るか、どのように幾層もの重なったイメージをつくるか。たとえば音楽でいえば単音でなく、ステレオ的な多重なトラックをもつ一カットを撮りうるか。『戦ふ兵隊』の疲れた兵隊シーンのように-。対象の単なる記録ではなく、それを作り手の側の姿勢、位置、感応のしかたの記録と重ねたい。「外面と内面の記録の統一ーこれがテーマだ」と皆思っていた。
 ふだんならアラン・レネやゴダールを例証にできるが、実作中は撮ったばかりのカットを俎上にしての論議になる。一カット毎に、長過しや望遠レンズや移動などの試みをしているので、ラッシュフィルム(編集用のポジフィルム)は好個のテキストでもあった。
 巧いとか下手という次元の話は出ない。失敗のカットを叩くこともまずなかった。皆が面白いと感じたカットの徹底した腑分けに興じた。熱中して撮ったカットであるだけに、現場での演出・カメラそれぞれが費やした思考や感覚処理は湯気のたつほどだ。それをまわりで根掘り葉掘り問い直し、聞き耳をたてる。自分を戯画化する癖のある黒木、淫すれば徹底的に淫してつっこむ小川、乾いた発想で問題を再構成する東、からみの酒癖まるだしの土本。その中心に自分のカットを再検討する担当カメラマン。それを聞く撮影助手たち。そこは秀逸なカットを盗んで共有する場であった。
 黒木組の編集段階の一、二カ月間、論議は白熱化する。はじめの棒つなぎの段階は単なる観賞者でいられるが、編集が煮つまってくるとそれぞれにカットが記憶され、各自勝手に頭の中の編集がはじまる。それと黒木のそれとのつき合わせになる。そのガヤをたのしむ風が黒木にある。編集はその都度ガラッと変る。「成る程」という納得と「それならば」という提案-カットはもはや補修や黒味で傷だらけになり果てる。「これじゃテンポもリズムも分らない」というほどつぎはぎだらけ、すべてが分るのは黒木だけといった頃合に、彼の編集は終る。こうして『ルポルタージュ・炎』全四巻のラストの一巻は特徴的なモンタージュでしめくくられている。労働のディテールに続く発電所の点火、炎の誕生を機に、東京の街、鼓動する兎の心臓、疾走する物体、あらゆるエネルギーの細片が寄せあつめられ、前衛的モンタージュの映画として感覚的に成立していた。東陽一は「日本ではじめてキュービズムの作家が生まれた」と評した。
 だがスポンサーという存在がある。PR映画作家の対スポンサー作戦は個々にちがう。黒木は頭をかき謝り通しだが結果として方針を通すやり方を好む。スポンサーは独善的な仕事だと怪しみながらも「面白い」ことは認める。その空隙に乗じてパスするという趣きであった。

 これにつづく『わが愛・北海道』には東、小川、岩佐らが進んでついた。青の会の主なメンバーがこの一作に集まった。故清水一彦カメラマン特有の官能的映像は各シーン、各カットにあますところなく発揮され、詩篇のような映画となった。黒木の発見した少女の演ずる道産子の娘(のちの真理明美)と、東京のデベロッパーの愛と抱擁のシーンは企業PRの枠を超えるとして物議を呼んだ。この一篇は五年後の『とべない沈黙』への跳躍台となった。ドキュメンタリーとフィクションの境界をとっばらった作品をつくりたい彼の意欲はすでにあらわなものになっていた。

 六〇年代

 安保闘争の一九六〇年から万国博覧会の一九七〇年までの一〇年、映画産業のピークはすぎる。テレビメディアに娯楽の座を奪われるなかで、”映像文化”は企業PR、国家行事PR、パビリオン展示となって再編成されていった。一方、ベトナム戦争を前にしての中ソの分裂は日本の各運動局面にも分裂と無力化をもたらした。べ平連などの市民運動に代表される、ひとりひとりの意思にもとづく反戦、反体制運動は、フランスの五月革命、中国文化大革命と呼応しあい影響をうけ、日本の学生運動へと発展した。この流れの中で記録映画を志すものにも回生の機会が訪れつつあった。管理されたテレビ体制、産業PR映画が主柱となった各プロダクション状況、大広告媒体に系列化された企業と映像作家の組織化が進行するなかで、個人あるいは小集団の自立した活動が待たれる大衆状況も生まれつつあったからである。だがそれを先取りする前駆的な職能団体の活動は見えなかった。戦前のプロキノ運動の流れをつぐコミュニスト映画人の主流は記録映画作家協会に集まっていた。だが六〇年代後半からの日本共産党の大衆文化団体へのセクト的干渉、分裂工作は原水爆禁止運動から文学団体に及び、記録映画作家協会もその例外ではなかった。岩波映画に入って間もなく反党中央分子として党籍を消されていた私の場合、抵抗のよりどころを組織に求めることはなかった。かといって分断され孤立させられた作家がどこまで既成のものに異議申し立てできるか分らないまま、現場での抵抗の形を探っていた。一方で企業PR映画体質の強化もその分断・分裂の状況を利してすすめられていた。
 岩波映画でも、六〇年代後半からスポンサーの干渉が眼立つようになった。比較的自由につくれた地理TVシリーズ、各県別の番組『日本発見』で三作品の完成後キャンセルを見た。土本の『山梨県』が忍草の富士山麓基地反対闘争に触れたという理由で、同じく『東京都』が地方上京者の目から見た東京という描き方の暗さを理由に、黒木和雄の『群馬県』は意表をついた表現が奇抜すぎるとして、オクラもしくは他の作家の手で改変された。土本の『ある機関助士』(一九六六)も篇中二カットのさしかえで二カ月もめる事態をひきおこした。機関助士が足の指の爪を切る超クローズ・アップを削れという。とるに足りない理由-足の指は通常、外国人の不快感を誘うというのである。
 大島渚の『日本の夜と霧』の上映中止事件は決して他人事とは思えなかった。彼は劇の世界でホサれながらTVドキュメンタリーに拠りつつ創造社をつくった。”幅広い芸術運動集団ではなく小グループを”という彼の考えをあとで知った(鈴木清順の共闘会議での発言)。この同人を糾合した小グループによる映画運動体の志向には、同じ時期の記録映画界の動きに対する大島の批判がこめられていた。日共中央の官僚主義的指導下にあった記録映画作家協会に対して批判的なメンバーにより、のちの「映像芸術の会」結成への動きがはじめられていた。これも全国的、職能的横断組織を想定した作家集団であった。こうした動きにシンパシーをもちつつも、私は現場スタッフとしての運動を求めていた。岩波映画の若い部分にそれだけの集団的結束力があったからである。
 危機意識に駆られるわれわれは青の会をつくった。そのただなか、黒木和雄の『あるマラソン・ランナーの記録』(一九六四)事件が起きたのである。これが「青の会」の試練であった。
 この企画は六四年東京オリンピックをもりあげるため、トレーニングにはげむ選手生活のあれこれを描くものであったが、黒木はマラソンの君原選手ひとりに焦点をあてて描いた。ひたすらに「なぜ走るのか」を考えながら全身を走るマシーンに鍛え上げられていく青年をリリックに描いた作品である。これに「資金援助したスポンサー企業の商品、商標をさり気なく入れよ、さもなければラストにタイトルで示せ」というプロダクションの注文が入った。この注文『あるマラソン・ランナーの記録』はアマチュア・スポーツ規定にも反する。黒木がこれを拒否したことから衝突となり、日共系作家がその説得に立つという構図になった。
 この年、松本俊夫、野田真吉、西江孝之、松川八洲雄らに青の会のメンバーも加わって結成した映像芸術の会にとって初の作品擁護の闘争の相手が、日共系の記録映画作家協会になろうとは予想しなかった。この闘いの結果、映画の中味は守られたが、演出家が借りて見ることも出来ないという形で報復された。

 スポンサー・企業からはありうることとしていたが、加えて党派的組織のブロックによる作品の封鎖もありうるとの認識にたって、青の会は今後の映画のつくり方を零から始めなければならなかった。
 半失業のフリー作家に加えて、岩波の社員、長期契約者二十数名がつぎつぎに社を去った。そして新宿の小さなバー「ナルシス」の一角を根城に、酒をのみラーメンをとって夜毎といってよいほど「青の会」をもった。会則もなく、役員もなく、会費もなく、いつ入っても出てもよく、誰か喋りたいものが喋ることでよかった。各自作品の話を持ちよっての報告と腑分けに熟した。
 幸いなことに撮影、録音、編集にいたる各パートの顔が揃っていた。三、四組のスタッフ編成が出来るメンバーである。二、三年間のつながりで気心はすべて通じあった集団となっていた。
 時間の予定のない討論である。ツケの許されたナルシスの閉店後は、雑魚寝用に借りたアパートで話を続け、そしてまどろむ。話のピークは深更に開きはじめるのだからやむを得なかった。
 ひとりひとり個性もちがい核もちがう。そこでの映画の共有とは何だったか。岩佐氏寿の言うとおり果して”映画する”ことが出来るかどうかを確かめあうこと、その自分の肉体と精神をさらけ出しての問いであり主張である。あえて反論を強引にひき出してまでも、異質の核を洗い出しあう。それは一種、性愛にも似ていた。「まるでホモ集団だ」と気づいて嗤い合う。事実それぞれの妻や愛人たちは、二年三年に及ぶその狂気に苦しめられた。”映画”をめぐる三角関係の悲劇も起ったのである。まさにナルシズムにみちた「ナルシス」の時代であった。

 六五年、松川八洲雄脚本による黒木和雄の『とべない沈黙』(ATG)がクランク・インした。スタッフはほぼ青の会で占められた。誰も劇場用劇映画の経験がなかったが、ひとりも奇としなかった。ストーリー性への関心のなさに半ばあきれ半ば愕きながら見たが、黒木の実験的映像で、触発にみちたみずみずしい映画となっていた。それは”明日の映画”を予感させるものだった。
 私はTV企画としてキャンセルされた半亡命のマラヤ留学生の映画『留学生チェア・スイ・リン』(一九六五)を藤プロの自主作品としてつくり、事実上以後の自主製作の第一歩をふみ出していた。小川は「黒木や土本には作品がある。映画やTVに参入の可能性がある。自分にはまだそれがない」といって、『青年の海ー四人の通教生たち』(一九六六)の製作に入っていった。そして一年余の間にたてつづけに『圧殺の森』『現認報告書』(ともに一九六七)を撮り、その後、三里塚へとむかった。

 分水嶺となった国家イベント

 七〇年万博は映像万博ともいわれる。企業の映像パビリオンの競争の場でもあった。多くの映像作家がその才能を求められた。それに先立つ六四年の『東京オリンピック』(市川崑監督)にも多くの撮影技術者の参加が求められた。国家的イベントには必ず記録映画大作が求められ、企業の国家レベルの博覧会(海洋博、筑波博、そして海外での博覧会)には大広告媒体を通じて作家の映像展示が競われる時代の到来である。
 六〇年代、万博にむけての一、二年間は大衆の激動状況と全く重なっている。自主製作のドキュメンタリーは既成プロダクションでは影をひそめた。特枝俊江『夜明けの国』(一九六七、岩波映画)、今村昌平『人間蒸発』(一九六七、ATG)、土本『シベリア人の世界』(一九六八、日映新社)などにとどまる。
 一方、『日本解放戦線・三里塚の夏』(一九六八、小川プロ)の跡を追うように、東陽一『沖縄列島』(一九六九、東プロ)、岩佐氏寿『ねじ式映画・私は女優?』(一九七〇、シネマネサンス)、土本『パルチザン前史』(一九六九、小川プロ)、宮島義勇『怒りをうたえ・第一部』(一九七〇、自主製作)などが個人、小集団の手でつくられ、各地での上映委員会方式による上映運動が起された。
 巨大企業による映像とゲリラ的な小集団の映像が七〇年をめぐってあらわれたことになる。
 『パルチザン前史』で大阪駅前街頭闘争を撮る最中は、私は「万博まであとXX日」の電気文字を眺めていた。『水俣・患者さんとその世界』(一九七一)に登場する巡礼たちは、万博入口でカンパ活動をして機動隊の規制にあった。「万博か反万博か」のスローガンさえあった。同じ世界、同じ街、同じ海、同じ素材を描いてもことごとく対立するのは当然であろう。七〇年は作家諸個人にとっての分水嶺であった。決して固定化はしないが事実である。

 八〇年代の上映運動

 小川プロの三里塚

 話を一挙に一九八七年現在に移したい。自立したドキュメンタリー作家の仕事がつづいており、受けとめる観客と上映活動家の層がマイナーなりに存在しつづけている。新人の登場とともに新しい映画方法論を生み出している。その通年史的な物指しのひとつとして小川プロが位置している。
 一九八七年、小川紳介・小川プロは『一〇〇〇年刻みの日時計-牧野物語』を完成した。三里塚で『辺田部落』(一九七三)を撮り上げ、山形県上山市牧野に移りすんでから十三年の到達が二二〇分の長篇に結実している。この間『ニッポン国・古屋敷村』(一九八三)をはじめ『どっこい人間節』(一九七五)、『クリーン・センター訪問記』(一九七六)、『牧野村・養蚕篇』(一九七七)、『三里塚・五月の空 里のかよい路』(一九七七)などがある。一母里にこだわってきた小川の仕事としては三里塚の『日本解放戦線・三里塚の夏』から二〇年間の映画方法論がこの作品を生んだとも言える。各作品毎に小川プロ方式を生み出してきた。現場的には田村正毅の技術の発展があり、芸術的には小川紳介の大胆な実験があり、上映もまた固有な人脈づくりをつみ重ねてきた。が、何といっても共同生活を保ちつづけた歳月の長さは比べるものがない。その映画手法も注目すべき足跡を見せている。
 『圧殺の森』ではカメラの大津幸四郎の能力をひきだし『三里塚・第二砦の人びと』(一九七一)では田村正毅の体質をあますことなく発揮させた。とくに16ミリ一カット四〇〇フィートの長過しは撮影の一方法ではなく、どこまで緊張を持続し、ルーペの中の小さな四角形のフレームと、その枠外の世界をつなげ関係づけるかーそれはカメラマンの生理と思索をあますところなくひき出した点でユニークな演出力であり、『辺田部落』はそのドキュメンタリーの完成ともいえる作品であった。方言の字幕スーパーと小川じしんのモノローグも独創的だ。

 『一〇〇〇年刻みの日時計』にも小川プロ・ドキュメンタリーは脈打っているが、今までのリアリズムに徹した映画の文体とちがうデフォルメがある。
 この新作には劇もある。劇の中にいくつもの伝承が描きこまれている。村人総出でラストをしめくくっているが、これは各シーンに登場した人々の群像が、”村”となるシーンである。米つくり、稲育て、田んぼ、あぜ直し、稲の生命、その核の世界、受精と求心的に掘りすすめた前半のユニークな構成で心に残るのは稲のみではなく、稲を育て、稲の命をとり得た小川プロの集団の記録でもある。稲の一生(一年)を十余年かけて一年分の”刻み”に象徴化した事じたい前人未到の仕事といえよう。
 小川プロは科学映画として”稲の一生”を撮ったのでもなく、まして田んぼの改良映画をつくったのでもない。一粒の稲の受精といういのちの誕生そのものから逆に、里に山に、宇宙にひろがる関係性の発見を呈示している。それが映画だからできた。小川プロの全スタッフの集中と年月があって可能となった。それがこの映画となった。記録映画でも劇でもない、映画的営為それじたいの映画化である。
 だがひっかかる点もある。
 小川プロ作品の巨きさへの評価はゆるがないが、私にはこの映画の劇シーンー再現劇、集団史劇、土方巽の幻想劇に、ある戸惑いを覚える。とくに土方巽のパントマイムは、彼の肉体性において画然と自立しており、姉さん役の宮下順子の演技とかみ合わない。宮下順子の人間としての存在は素朴で優しいがドラマ的な演技のからみは”演出”されていない。土方巽は彼の想像力の世界でひとり遊んでいる。蔵王山の水ひきにまつわる話の史実と伝承のドキュメントであることは小川紳介の分析と考察をへて確かなことであろうが、それがドラマに編んではじめて感応しうるという表現には残念ながらなっていないように思える。
 村の鎮守の五巴神社の由来にもとづく百姓一揆の村人衆と代官、御詠歌を唱ずる女たちの一幕は野外劇として独創的な場をつくり出している。だがどうして、稲作や生きものにむけた濡れたようなクリアな画面でなく、劇のシーンに限って特殊なフィルム現象で一変させたのであろうか。画面の荒びの効果は、私には欲求不満をさそった。またカメラの禁欲的ともいえるフィクスはドラマ性の抑制となって、村人の生気もそのフォルムの中に押しとどめてしまった。この野外劇そのものを対象とする、田村らしいドキユメンタルなカメラワークが見たかった。劇の設定の精神そのものを記録映画的に表現する方法も残されていたであろう。村人全員による映画的祭礼を意図したとしても、記録と劇との境界を画質できわだたせたことが私には分らない。
 それにひきかえ、ラスト近くの木村みねの御不動様や山の神との語らいは、圧巻に思えた。田村正毅カメラマン独特の長過しに見る老婆の幻視のリアルさ、生き生きした語りローそれをラスト近くに見て、人びとの心の古層にむき合える小川プロの浄福感に共感し解放された。そしてラストシーンは小川プロと牧野の人びとの関係性を一カットで見せてくれる。ブラスバンドの幼いリズムもよい。村の音の世界であろう。
 だがラストの富樫雅彦のドラムシーン(スタッフ・タイトルが重なる)はきわだって独立した映像ゆえに字幕が読めなくなり、その器楽的な音響によって、それまでの村の音の世界がたち切られる。とはいうものの、トータルな里の印象の復元を妨げるものではない。小川プロの作品の系列につながる太い線が底に一貫しているからだ。劇の形にせよ、いままで通りの聞き書き的なシーンにせよ、三里塚であるいは古屋敷で彫った人間の肖像と肉体の息づき、その人びとへの関係性は同じなのだ。属人属地主義映画であり小川と小川プロの映画の個性で貫かれている。

 個人映画・里の映画

 ここである点で鈴木志郎康の個人映画の極点的作品と通底している気がしてならない。『草の影を刈る』(三時間二〇分、一九七七)や『十五日間』(一時間三〇分、一九八〇)。前者は買い求めた中古の16ミリカメラで、ともかく日没をとることから始める。生活の空間としての団地の窓からの眺めをとる。某月某日の日誌を語る。やがて子ども、妻、母の葬儀と対象は繁殖していく。旅に出る。それはつとめ(NHKのカメラマン)をやめる気持をかたるシーンになる。凡そ撮ったシーンの全てがつながれ反復される。それに詩人である彼のことばが重なるとき、ぬきさしならない彼の三年間が定着される。『十五日間』では、無人カメラを前に自画像をとりながら、その行為の無意味さに厭気がさす。それでも撮る。物事には終わりがあるように最後の日に、自分のこの行為が自分をひとつ変えた、と確かめて映画行為を終える。つまり二作とも生活し存在する自分の、映画による確認である。個人がカメラあるがゆえに発見できた心象の、絵とことばによるいわば微視的記録なのだ。

 小川プロの生活の世界は里であった。里の人との人間関係が暮しの原点であり、主題の稲の生育も実現できた。この映画はその関係性をあますところなく外化し全村民をひとりのこらず登場させる発想を得たところで完成のあかりが見えたのではないか。里のくらしを生活し”映画する”という実に根源的な映画づくりを実現した。
 数千年前の土器の時代を掘り起こし、数百年前の故事を再現し、百姓一揆の面魂を演じさせる演出も、根は里への限りない返礼と祭事に似た小川紳介個人の敬虔な愛情表現ではないか。前述のドラマーのカットもそこで解る。あえて”個人”というのは、登場する小川プロのひとりひとりの描写の厚みにも通ずる。ある過し方が一貫している。その官能性が映画を彩っていると思う。その意味で巨大な個人映画が出来上ったといえよう。生きること暮すこと、それは映画をとることと同義語だと言葉でいうのはやさしい。しかも極めてむつかしいことだ。だがそれがまた真実の映画のうまれでる方法のひとつであり、この門をすぎてはじめて自由を手にすることができる。

 小川プロが「青の会」を旅立っていらい二〇年、時に二〇人を越すスタッフとその家族をひきいて三里塚へ、そして牧野村へと移住した。そこがスタッフのいのちと生活、つまり暮せる場所だった。暮しが映画に、映画が暮しになったということだ。仮に小川プロが九州に暮しても『一〇〇〇年刻みの日時計』をそこで作ったであろう。ドキュメンタリーの原像といえる。だが誰もが模倣できる形ではないのである。

 社会派の流れ

 若いドキュメンタリー志望者が後を絶たない。「どこから始めたらよいか」、それに答えるエピソードを紹介したい。
 アテネフランセ文化センター映画技術・美術講座(倉岡明子ほか)の生徒の卒業制作『東京クロム砂漠』(一時間四七分、一九七八)がそれである。講師たちはテーマだけ与え、ラッシュの検討会の外、一切手をかさなかった。山武伸貴、若月治、小田博ら五人のスタッフは三年がかりで東京の下町のクロム工場の労働災害にあった元工員たちと有害なクロム鉱滓埋立地の住民被害者の訪問記をまとめた。
 初めてのインタビューのぶざまさが冒頭のシーンだ。足をはこぶごとに顔なじみになる。若いスタッフが可愛くてしかたのなくなった元工員の老人が、段ボールでつくったクロム炉の模型をつくって仕事の手順と毒の発生のしかたを見せる。落語長屋風の語り口。やがてノロ棒のあっかいをパントマイム風に演じ、クロムであいた鼻の穴にチリ紙をぶっ差して爆笑しあう。死を待つ人もいる。青色のにじみ出すまっ黄色の地面で遊ぶ子ら。鉱滓廃棄の埋立地の上に立ち並ぶ団地の影が巨大な墓標のように見える日没時の空撮で終わる。この映画は新人とベテランの作品という区分を超えている。
 講師をしていた私と鈴木志郎康は「青の会」方式を彼らに伝えた。ラッシュをめぐる批評とディスカションで学ぶ方法である。意識的に一度もロケに同行せず、編集にも録音にも同席しなかった。同じく講師の大津幸四郎がラストの空撮-経費が高いため失敗できないーだけ手伝った。ドキュメンタリーのいわば常道を三年間固執した結果、社会的評価にたえる作品として呈出し得た例である。

 家庭生活まるまるをある期間映画づくりで暮らした例もある。『六ヶ所人間記』(一九八五)の場合である。アテネフランセを退職した倉岡明子は結婚した山邨とパート労働者になっている小田(ともに前出の映画講座の生徒)、それに二歳の子どもと三カ年の夏冬を彼女の郷里の青森ですごし、そのつど、むつ小川原開発、いまは核サイクルと核廃棄物処理場予定地の村、六ヶ所村を訪問する。反対派で荒地にポツンと頑張る農民や、土地を売ったばかりに難民化した人びと、満州開拓から下北へ、そして開発によって再び土地を追われて途方にくれる人びとを方言の世界に浸りきって記録した。二歳で画面の中にわりこんできた男の子が五歳になって親のしごとにすっかりなじんでいるところで終わる。すべてを貯金と借金でまかない、あとも同時通訳として働き、借財を返している。丁寧に作ったら二時間五〇分の長尺になった。この長さになれば上映は他人がひきうけない。また青森、下北に余暇を作っては上映に歩く。この作品は、一九八六年度のマンハイム映画祭の特別賞を得た。

 映画が職業として成立することに望みをかけず、道楽のように、しかし着実にメッセージを送る人たちも出てきた。
 8ミリ映画の軽量性と個人製作の容易さを利しての自主製作がそれである。半ば無償性をもつこれらの映画は市民運動の母胎の小グループの間にストレートに入りやすいようだ。
 大学映研出身の山谷哲夫『うりならまんせいー一九七七韓国から』(五八分、一九七七)、『沖縄のハルモニー 証言・従軍慰安婦』(一時間二六分、一九七七、ともに無明舎)。
 高校教師・森正孝『語られなかった戦争-侵略』(一九八〇)、元小川プロ・現在フリーの福田克彦『三里塚ノート 草とり草紙』(一時間二二分、一九八六)などもその例である。
 上映はいずれも映写機をたずさえての「映画と報告」といったスタイルである。『語られなかった戦争-侵略』は資料、写真、ニュースのコピーによる南京虐殺事件や石井細菌部隊の告発である。これは労組の8ミリグループや教育関係者の手で、教科書改悪反対運動の教材として急ピッチの普及をみたことは特記されていいだろう。映画の発展途上国の8ミリ・ビデオ運動とどこか似かよっている。第三世界の映画と同質のものが日本にもあるのだ。

 長篇化するドキュメンタリー

 今日でも、社会的ドキュメンタリーの出現をうながす震源は国家や地域や制度から疎外され差別されている階層にある。少数者、弱い立場の運動ばかりだ。資金は乏しいが上映運動でその回収を補うという切実な事情でも共通している。
 初めから立場性がそこに牽引されているだけに中立性はあり得ないが、映画独自の脚力の強さをもつことが課せられる。
 そうした連作を試みているのが小池征人だ。クロロキン薬害問題を扱った『薬に病む』(一時間四七分、一九八〇)、公害患者の低農薬みかんづくり運動の内部問題にメスを入れた『水俣の甘夏』(五五分、一九八三)、被差別者の不安と共生をうったえた『人間の街 大阪・被差別部落』(二時間、一九八六、以上青林舎)、国鉄解体前夜の労働者群像を描いた『日本鉄道員物語・一九八七』(一時間四九分、一九八七、幻燈社)があり、彼は目下、原発ヒバクの下請労働者の調査に入った。
 水俣をニ〇歳台のスタッフで一年二か月の長期ロケでまとめた香取直孝、樋口司郎らの『無辜なる海ー一九八二年・水俣』(一時間二五分、一九八三、フィルム工房)は”水俣志願”ともいうべき心情でつくられた佳作である。
 西山正啓は身障者の女性同士の国際交流を描いた『みち子とオーサ』(一時間二〇分、一九八二)、教育解放をテーマに名取弘文を追った『おもしろ学校の一日』(一時間三〇分、一九八五、ともに記録舎)、そして、「日の丸」「君が代」拒否の集団自決と世代への語りつぎを描いた『ゆんたんざ(読谷山)沖縄』(一時間五〇分、一九八七、シグロ)を発表した。
 小池、西山はともに水俣映画シリーズのスタッフである。その上映経験も生かして、青林舎、シグロ、小川プロの開いた上映人脈に加えて、作品毎の観客動員計画を立てているが、制作資金の回収までに長期間を費やしている。
 ある社会運動集団への加担から出発する映画にも落し穴がいくつもある。その最たるものは、集団や運動の主張のPRに堕することだ。かつて既成左翼映画人の陥ったテーマ主義や”政治”主義による独善性や”集団催眠性”の前轍を忘れてはならないだろう。
 彼らの映画ばかりでなく、多くのドキュメンタリーが二、三〇分の短篇映画の枠を超えて長篇化している点共通している。インタビューにせよ、人物・情況描写にせよシンクロ録音(音と画面の同期性)や長廻しによって、全体像をとらえようとしているからだ。例えば小池の場合、『人間の街』で行政的に改善されたかにみえる住居(団地)によって失われた共同性への老人の嘆きを描く一方で、部落差別に生きるなかでつかみ得た非差別社会のユートピア性を若い人々に語らせている。
 若い作家には私の世代にありがちな贖罪意識はない。西山は沖縄の人の口をかりて、「沖縄人の戦後貴任」を語らせ、やまとんちゅう(本土人)から戦争のいけにえにされてきた被害者意識との訣別の声を記録している。
 日本映画学校(校長・今村昌平)出身の在日韓国人青年呉充功の『隠された爪跡』『払い下げられた朝鮮人』(ともに一九八六、麦の会)の二部作(あわせて一時間四六分)は関東大震災のとき、軍の命令で無辜なる朝鮮人を自分の手で殺した老人のざんげを聞き出している。「告発するのではなく真実を知りたいためにー」という姿勢ゆえに日本人の告白を引き出し彼らの悔恨を深く刻んでいる。

 現実を無作為のように荒々しく提出した作品に渡辺孝明の『寿ドヤ街・生きる』(一九八一、横浜ドキュメントフィルム)がある。ドヤにふき寄せられた前科のある人、売春婦として生計をたててきた人たちの証言である。小川プロの『どっこい人間節』のスタッフであった渡辺はドヤ仕事の稼ぎでカメラをかり、フィルムとテープを買う。撮ったフィルムはそのほぼ全部をつないで磁気テープ方式で音声をつけただけ。いわばその”半完成品”をかついで、東京湾岸のドヤや在日韓国朝鮮人部落などを巡回上映している。映画はそうした最下層民や、東南アジアの出稼ぎ労働者、ジャパゆきさんといった集団に入るための身分(自己存在)証明書といった趣きなのだ。だから「作品」とは言わない。

 故佐藤満夫、故山岡強一らの『山谷やられたらやりかえせ』(一時間五〇分、一九八六、山谷製作委員会)は寄せ場に巣喰う戦闘服集団、天皇主義右翼・日本国粋会金町一家とそのバックに立つ機動隊と日雇全協山谷争議団の、文字通り死闘の記録である。この映画は同族同種の被差別者を、撲殺される精神病者の病院に、また、強制連行のまま死んだ朝鮮人を筑豊炭鉱の無縁仏にと鎖をつなげる。ラストは占領下インドネシアで強制労働させた記憶のまま日本語が定着して教科書に載った”ロウムシャ”の文字のアップで終わる。
 佐藤は撮影協力のビラに「完成までの二年間、私ども(撮影班)は寄せ場に常駐して、皆さん同様の日雇労働に従事しながら撮影します」とその立場を明らかにした。そして暗殺された。その後撮影を続行し、編集に当った争議団のリーダー山岡強一は、これを完成して上映運動に移る矢先に短銃三発を打ちこまれて即死した。映画がこれほど殺意をもって遇せられた例はない。山谷の生の描写部分が殺人者らの恐怖の核心であったであろう。
 監督が暗殺された日にクランク・インしなければならなかったスタッフの迫力はカメラの技法の問題をこえてすさまじい。日雇の労賃のピンはね、小バクチのテラ銭かせぎを追いつめる争議団、夏祭りの宴での爆発的エネルギー。そして寒空の中、軒先に凍える人たちに争議団のひとりが粥をさし出しながら「先輩 センパイ」と肩に手をかけるシーンの生活感覚は、スタッフの「ここに暮しながら撮る」という挨拶文の語感を思い出させる。つまりここに暮す映画集団だから殺した。これが社用車で取材にくるTV局レポーターなら殺しはしなかったであろう。これは渡辺の『寿ドヤ街・生きる』よりも、より尖鋭な戦いの場の報告であり映画の文体はアジ・プロ映画に似ている。血ぬられたフィルムのみ放てるメッセージであろう。だが欲をいえば、終章にもっと山谷の生活と暮しが見たい印象がのこる。労務者個人個人に親しみたいのである。
 こうしたドキュメンタリーの長篇化は映画を鑑賞の姿勢から”映画体験”を迫る情念の結果であろう。記録映画=短編映画というかつてのパターンがやぶられているのである。

 原一男の三作品

 一九八七年、原一男が一ニ年ぶりに『ゆきゆきて、神軍』(疾走プロ)を発表し、日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞などを受賞した。『さようならCP』(一九七二)、『極私的エロス・恋歌一九七四』(一九七四、ともに疾走プロ)と同様に撮影兼演出である。前二作が、いわゆる一人称カメラであり、原自身がカメラを手に発言したり、相手にやりこめられたりするカメラであったのに比べ、今回は第三者の位置に居る。視るカメラとして、沈黙している。『さようならCP』の身障者家庭の描写や全裸シーンを挑発的に撮った原、『極私的エロスー』で出産シーンに立ち会った原、この二作では彼は観るものを彼の一人称カメラに強引に誘いこむことで、観客の座を許さない方法をあえて選んだ。観客を視姦の共犯者にしたて上げた。故にこの二作の登場人物に、視てしまった申し訳なさと後めたさが残り、原の眼を通して見る限定性に縛られて、その人たちへの共感を抱くに至らなかった。他者を撮りながら、核心は原自身の内面のドキュメンタリーに反転し、原の人格が残りこそすれ、登場人物ドキュメンタリーが稀薄なのである。そして視姦の日常性が観るものを撃つ-。これは不思議な映画体験であった。
 『ゆきゆきて、神軍』の主人公は奥崎謙三、著書『ヤマザキ、天皇を撃て!』や、天皇にパチンコを放ったとして知られた人物である。映画は彼の天皇と元軍人の戦争責任を問う行脚を軸として展開している。
 撮影は彼が元中隊長の息子に重傷を負わせた事件で中止、その新聞の詳報をラストに置いてしめくくっている。映画的に最も反戦反軍のシーンとなったであろうニューギニア戦線ロケのフィルムはインドネシア政府に没収された。もとより満身創痍の製作過程である。しかしここに出ている奥崎のキャラクターの抜群な面白さと、戦友に対する個人の戦争責任の執念深い問詰行動だけでも充分戦慄的だ。
 敗戦後の軍隊組織の中で、飢えをしのぐために弱い立場の兵を逃亡未遂の汚名の下に銃殺し、その人肉を喰ったという、戦後一貫して隠しぬかれた事実を問いつめる。その伽として二人の犠牲者それぞれの妹と弟を同伴して相手を窮地に追いつめる。元戦友から白人や原住民の人肉を喰った告白を引き出してはじめて許す。親族らが調査行なかばで手をひくと、替え玉に自分の妻と友人を当てる。このあたりから奥崎の”シナリオ”の破綻が見える。もともと公憤と私怨のないまざった気持のバランスがここでくずれるのだ。自分でもへマを打った、「相手の心にコトバがつきささらない」と直感した途端に奥崎は暴発する。彼自身思っても見ない激情の噴出であったろう。原は不意うちを喰らいながらカメラをむける。その瞬間、原自身の内なるドキユメンタリーの鼓動が伝わってくる。
 この場面で奥崎はその激情を鎮めるように、「自分のあとの人生の何年かは刑期に当てる覚悟だ」とつぶやく。ここが奥崎の素顔と真情の流露したシーンだ。だがこのとき奥崎のシナリオの次の頁は呈示されていない。彼のシナリオでは、のちに直接行動として元上官への”天誅”へとつづくのだが、それは撮られなかった。それがこの記録の救いであり、作品の奥行きを深くしていると思う。
 原が反戦反軍のモチーフを頭に描いて、至難な素材に挑戦したことは疑いない。しかし映画の依頼人たる奥崎は映画の迫力を先取りしている。これは彼の人生の賭けであった。原作、演出、主演を独占して私怨を公憤に昇華させるべく劇場犯罪を着想したのではなかったか。その執念の全容に戦争の影がある。だが行為自体は周到に準備された主役の演技であろう。非日常性だけが映画につづられることになった。
 タブーに挑戦できる神軍兵が二重三重にしくんだ演技によるカタルシスは充分にあっても、問責されぬく旧兵士を仇役視することで、彼らとも通底するわれわれ自身の加害性をえぐるべきだった牙そのものが、映画からは失われた。奥崎のヒロイズムのまま固定されたことで、観る側はおびやかされずに済む。やたら面白い映画という感想にとどまることになるかも知れない。この点で奥崎の劇的なるもの・非日常は描かれても、彼の日常とその真実はついに記録できなかったというべきかも知れない。もし原のカメラが前二作のように物を言い、対話する人間的格闘をもつカメラであったら、ドキユメンタリーに稀有の新天地を開いたであろう。それはただに反戦反軍の記録をこえて、戦争をいまだ終われないでいる象徴的な人間の全記録としてである。原の個人映画としての特異性が次に何をうみ出してくれるであろうか。

 アジアへ向かう動き

 紙数はつきた。羽田澄子『早池峰の賦』(一九八二)、『痴呆性老人の世界』(一九八六、岩波映画)、時枝俊江『絵図に偲ぶ江戸のくらしー吉左衛門さんと町の人々』(一九七八)、『越後上布』(一九八二、ともに岩波映画)、松川八洲雄『ヒロシマ・原爆の記録』(一九七〇、日映新社)、『不安な質問』(一九七九、たまごの会製作委員会)などに触れたかったが、それぞれ三〇年余の創作力を持続する人たちである。とくにその作家論に興味を覚えるため概説は困難である。
 最後に在日韓国・朝鮮人監督による作品群にふれたい。
 元基秀、滝沢林三、高岩仁らによる歴史ドキュメント『江戸時代の朝鮮通信使』(一九七九、映像文化協会)、『イルム・なまえー朴秋子の本名宣言』(一九八〇)がある。戦時下に強制連行され在日朝鮮人労務者の実力的抵抗を掘り起した『解放の日までー在日朝鮮人の足跡』(一九八五、ともに労働映画社)は三時間二〇分の大作である。呉徳沫の今日的テーマを扱った『指紋押捺拒否』(一九八四、「指紋押捺拒否」製作委員会)、作家朴寿南の自著の映画版、朝鮮人・韓国人被爆者の証言をあつめた『もうひとつのヒロシマーアリランのうた』(一九八六、青山企画・李海光・「アリランのうた」製作委員会)など、日本の在住者でなければ記録しがたい映画がつくられている。日本人の描いた韓国・朝鮮人をテーマとしたものにも福田孝『サラムとの出会いー画家呉日』(一九八一)、『ウリナラ ソウルーパリー東京』(一九八六、記録社)、前田勝弘『自由光州』(一九八一)、富山妙子・土本『はじけ鳳仙花-わが筑豊、わが朝鮮』(一九八六、ともに幻燈社)がある。
 在日韓国人・朝鮮人のこれらの作品はすべて、この七、八年間に相継いで製作されたものばかりである。その勢いには力がある。異国の中でひとりひとりが個人で作り上げた迫力がある。この作品群は遠からず発信地日本からかれらの祖国へ、そしてアジアへと伝わることになるであろう。そして国家や企業の商品映画ではなく、集団・個人の映画こそその回路を拓く力をもつにちがいない。