亀井文夫・『上海』から『戦ふ兵隊』まで 『講座 日本映画第5巻 戦後映画の展開』 初版1月14日 岩波書店 <1987年(昭62)>
 亀井文夫・『上海』から『戦ふ兵隊』まで 『講座 日本映画第5巻 戦後映画の展開』 初版1月14日 岩波書店

 最近の亀井文夫は古典的作品『上海』『戦ふ兵隊』に話が及ぶと、つとめて何気ないようなエピソードを語られる。”反戦映画”ときめてかかる質問者に、
 「僕には反権力とか抵抗とか気負ったものは何もなかったわけで、まじめに戦争している人には悪いが、むなしさというか、戦争のばかばかしさを言いたかっただけだ」
 あるいは、これらが、戦時下だけに当然さまざまな制約と闘って成り立ったものと心得てきくと、「あの当時の東宝の文化映画部というところはリベラルというか若さというか、私にやりたいことをやらせてくれた」
 「上海に撮影にいく三木茂には、新聞に出ている勇士や有名人の戦死者の墓などはあまさずとってくるようにと言ったかな」
 「僕はもともと中流の上ぐらいかな、めぐまれた育ち方をしたので、いざとなれば映画なんかやめても喰えると思っていた。赤ん坊が権力のこわさなど知らないように、自分の作りたい映画をつくってきただけだったようだ」と、淡々たるものである。
 しかしフィルムの上での亀井文夫の作業をみるとき、とてもそんな暢気な仕事でないことが分る。
 『上海』、この映画は戦火を交わし、少なからぬ犠牲を払ったあとの占領地の記録である。画面に一発の実砲も発射されず、一すじの曳光弾も登場しない。
 上海は一八四三年、アヘン戦争の結果、勝者英国との間の南京条約により開港させられた。のちアメリカ、フランスなど列強も加わり、それぞれに租界をもち黄浦江岸を外国領土化していた。
 昭和一二(一九三七)年七月七日、盧溝橋軍事衝突以来、華北での総攻撃がはじまっていた。さらに八月一三日、上海に敵前上陸、上海を占領したが、当然外国の権益に手をつけることは出来なかったため、列強各国のごうごうたる非難の中で上海の軍当局はその統治に腐心していた。前線の主力はすでに南京攻略にむかい、上海はその後方の戦略拠点となっていた。
 東宝映画第二製作部(のちの東宝文化映画部)は『上海』『北京』『南京』の長篇三部作を企画、その第一陣として三木茂カメラマン、松井翠声(解説者)そして録音の藤井慎一は当時カメラ一式に匹敵する重量のある同時録音器材を携え、一〇月頃より現地に入った。
 周辺に画になる戦闘はすでにない。だが生なましく報道された戦場談の現場、武勲ときめく軍人・兵士の取材には事欠かなかった。
 当時小学生だった私たちには、ニュース映画がきわめて刺激的だった。戦闘機、爆撃機、戦車、艦船そして、それぞれの戦闘服をきたりりしい兵士や軍人像はあこがれの的であったし、皇軍の常勝を信じた。”チャンコロ”(中国兵の蔑称)は逃げるもの、負けるものと決めている。宣撫班はいつどこでも中国民衆や子供に食糧を与えてにこやかである。ニュースの映像で見る戦争は今なら劇画ででもあろうか。そのおぼろげなニュース像がひっばがされるような異質な感覚が、この映画の導入部から、いま見ていても私の身体に足もとから這い上ってくるものがある。
 ナレーションは淡々と情景を語り、ときに聖戦の趣旨も折りこみ、耳で聞き、字面で読む限りニュース映画とさほどのちがいはない。だが画質が全くといっていいほどちがう。ひとつひとつの画面とシーンの展開にひきこまれるにつれてこの戦場のもつリアリティが謎をとくように知的に明らかにされていく。抑制された音楽は軍歌調は一切なく、観る人の意識をつむがせる役割を果している。
 前半部の海軍陸戦隊の上陸地点のシーン。そこでかれらをむかえうった中国兵の陣地の分析からはじめている。じっくりと見せるゆるやかな移動、クローズ・アップで手さぐるようにカメラは見ていく。一見変哲もない農村がカメラの解剖によって幾重にもしくまれた迎撃戦のそなえをもった陣地であったことが分る。橋を落して防御線にされた泥深いクリーク。擬装トーチカや墳墓までが、その外観のまま銃眼がくりぬかれている。無防備の農村と見て虚をついたつもりの陸戦隊が中国狙撃兵の徹底抗戦にさらされたことが克明に伝わる。日本兵士の木の墓標が白々と立つ。上海上陸作戦の勇ましいだけの話が、ここでは苦しめぬかれたであろう悪夢の地としてうかび上ってくるのだ。
 市街地の戦闘は更に激しい。
 外国租界に近い住宅密集地区に将校の案内で足をふみ入れる。水・食糧を後背地の租界から補給され、国際都市上海ならではの地の利を生かした戦術が日本軍を悩ませた。中国兵は居住民の精通する迷路のような、路地やぬけ道の一つ一つを至近戦の足場に、アパートの一室一室を砲火点にかえて頑強に抵抗したあとをカメラはあますことなくうつしとる。その室のねぐらに落ちていたパンの英文印刷の包装紙から、それが英米合同租界からの補給であることが分る。将校の一通りの説明を越えてカメラは姿のない中国軍隊のさまを凝視し模索してゆくのだ。
 被弾によってくり抜けられた壁からの白い光線が逆に室の隅の暗みを闇としてきわだたせ、敵のひそむところに思わせる。すべてのすきま、台所や物置まで防護のための物かげに変えて至近戦での死闘がくりかえされたことを思わせる。中国兵士と民衆が組んで彼らの街に立てこもったとき、一つの街角、一つのアパートを占領することがどんなに危険で徒らに日本兵の死を招くか、敵地での一進一退の戦いが日本の軍隊にとっていかに不利であったかを画面は痛いほど思い知らせる。ふつうのニュース映画のナレーションなら、恐らく軍旗のもと、いかなる抵抗も無益であったなどというものであっただろうが、この画面からつたわるのは中国兵士の死闘の臭いである。
 もしも、と思う。このシーンのナレーションだけかえれば、そのまま中国の解放戦史の映像資料になりうるかも知れない。そこにはカメラの感じた戦慄と畏怖がにじんでいる。蜂の巣のような弾痕とパンの空袋から上海で抵抗した中国兵士たちの鎮魂歌が生まれないとも限らない。
 さらに眼に灼きつくのは中国民衆の眼差である。
 共同租界に示威的に展開されたパレードのシーン。これに先行して”上海の日本人”が描かれている。大手をふってまかり通る日本居留民、日本商店、安バー風の慰安所と、あたかも伏線のようにあって、このデモンストレーションになる。一見のんびりした勝者の入城の光景。その前列に日の丸の旗をかざして振る日本人居留民たち、そのうしろに、貝のように口をとざし、空ろでも、安らぎでもないキッとした眼差の中国人がぶあつく肩をよせている。当時、便衣隊と中国のゲリラ兵士をよんだが、この眉根につよい光をみなぎらせるいく人かの中国青年の顔を見ると、つい便衣隊がそこに混っているようなこわさがある。四億の民を敵にまわす大戦争の緒戦の地でのこの抵抗感をすでに見る思いがするのだ。カメラはパレードを見る大群衆の不気味さをそのまま見せている
 夜、人影の絶えた軍政下の街、そこで餌をもとめる野犬のショット、決してアップでなく、建物の間を小ねずみほどの大きさにしか見えない犬どもを、不安定なサイズで追う数カットで一シーンにまとめている。犬のバックに人の息をひそめる空間があることを物語る秀逸なシーンである。これがもしワンカットに留っていたら、単に情景にしかならなかった。カメラマンと、モンタージュが見事に一致したシーンの例であろう。
 以上の極めてクリティカルなシーンはこの映画の核であっても、全部ではない。この上海での日本軍の武勲と統治のありようを収めないわけにはいかないからだ。
 たとえば同時録音での忠実なインタビュー・・・、作戦指揮者、戦闘体験をもつ兵士、空襲して帰投直後の”荒鷲”たちの戦果話などが随所に挿入されている。
 日本人小学校のどこか上気した少国民たち。中国人の小学校で教育にたずさわる元教師らしい兵士と中国人児童との鬼ごっこといったほのぼのした情景も描かれている。上海の治安や、水道、交通の復旧、食糧事情について語る担当軍人・兵士の面貌は、今風に見ても変らない日本人の顔、実直そうな農民の顔である。その限りでは軍服の下に、宣撫班員の肩書きぬきの素顔がしのばれる。そうした人々が、日支親善の接点をつなげているといいた気である。カメラも何の作為もなく、素直にそれらをフォロウしている。
 映画の終りに近づくにつれ、こうした彩りが多くなる。糧食の支給風景や、孤児院のフランス人司祭が日本軍に謝意を表したり、中国孤児たちに片言の日本語で「お手手つないで」をうたわせたりする。飢えた民衆、見捨てられた子らが投げ与えられたパンに示す無心なよろこびにむけるカメラには何の批評の眼差もない。すなおに「よかったね」である。
 こうしたシーンの並べ方は亀井のおかれた状況の中での戦術的配慮であったのか、あえて異化効果をねらったのか判然としない。このようなシーンにおける三木茂のナイーブなカメラは異化効果になりがたい善意と思いやり一色だからである。氏の『上海』での本領は戦争の悲惨を発見した部分にあったといえるだろう。

 三木茂は許される限り、多面的に個性的に上海を撮った。分析的・即物的に戦跡のディテールをとり、”上海の日本人(軍)”そして中国人の眼差、上海の国際都市の質にも眼を注いでいる。かつて枠の中に限定された劇映画のカメラワークをはらいのけ、ふんだんに移動やワイド効果をつかうことで重層的映像を獲得した。
 一方、心ひかれる生きものや風景である限り、理屈ぬきにカメラをたのしんだようだ。
 これらが混然たるまま亀井の前に呈示されたときから、三木の『上海』についてのこまかな読みとりがはじまり、構成・編集者・亀井の『上海』の創造作業がはじまった。
 亀井の編集は時間順序でも空間単位でもない、独特の映画の流れつまり感性の流れと知的発展順序にそい、その編集過程はつなぎ方によって変幻きわまりないといわれる。そこで私のとりわけての関心は、三木の映像と亀井の構成とのはざまと、そのよじり合せについてである。亀井は現地に立ち合わなかった。むろん現地での演出をしなかった。冒頭でのべたように、新聞で報じられ、人々に親しまれている戦場のエピソード、知名な勇士、英霊となった人々の地をたどれば、それで最低、映画の商品価値はあろうと思ったというそのあっけらかんさと、完成した作品の密度との間に亀井のはかり知れない映画的才能が秘められている。
 三木茂は劇映画のカメラマンとしてすでに名声も高く、映画歴は亀井よりはるかに長い。だが、スタジオで監督のイメージを画面に変えるしごとにあきたらず、より創造的な撮影技術の可能性をもとめて、若々しいジャンルの記録映画に転身した人である。自らめざした所を晩年、三木は「云うならばカメラマンは、写真技術に溺れた単なる撮影技師ではなく、写真技術を表現の手段とした映画作家であるとの自負に立っていた」と語っている(『三木茂映画譜』二四頁、ユニ通信社、昭和五四年)。つまり、演出家と比肩する”カメラを持った演出家”を自負するカメラマンであった。事実、編集・構成作品ももっている。その彼が自分の眼で確かめた『上海』の核心は何であったか。
 私は三木が戦争讃美者であったとは毛頭思わないが、反戦的思想に裏打ちされた映画カメラマンとも思わない。だが作家である。彼の演出作品『黒い太陽』(「皆既日蝕の記録」昭和一一年)で太陽のドラマと、それを捕えようとするカメラマンの技術の戦いのドラマを見事に重ねた人である。『上海』で激戦地の跡を辿った三木が、その中でカメラのもつ発見性、凝視性、分析性に新しい視覚的試みをした。シナリオ的なものがあり、前もってねらったものではない部分にむしろ映画的昂奮を感じたようだ。即物的にとりながらさらに三木の詠嘆も感傷もないまぜている。ある構成を予見し、それに合わせて撮ったというフィルムではない。あえてストレートに言えば「戦争は愚かだ」につきる。
 それがストレートに語れる時代でないことを百も承知でさまざまの上海を撮ってきたー。
 
 その機微をつたえる証言がある。
 野田真吉は亀井文夫論をその著作『日本ドキュメンタリー映画全史』((現代教養文庫)社会思想社、昭和五九年)にくわしく展開し、私は教えられること大であるが、次のようなエピソードが語られている。
 「四時間近い試写をおえ、映写室は点灯されたが、会社幹部は誰も席を立たない、黙りこんでいる。重苦しい沈黙が室内を占領した。戦意昂揚的な作品を期待していた会社幹部は思惑がはずれたのであろう、途方に暮れた長い沈黙がつづいた。たまりかねた松崎プロデューサーが「どうだね 亀チャン?」と亀井にたずねた。彼はボソッと独り言のように、だが自信のこもった声で「いい、いいよ、いけるね」と答えた。彼の答えがきっかけとなって、やっと一同は黙りこんだまま席を立ちはじめた」(四八頁)

 亀井文夫はそのモンタージュとシーンの構成にあたって、全ラッシュ中、もっともすぐれた”三木の発見”をテコにし、それが全編の中で消しがたく観る人の心に刻みつけられるように智慧のすべてをつくされたと思う。
 軍の期待するシーンが周到に用意されながら、それが逆にむなしく透明になっていくように、ナレーションもあえて耳にたこの出来ていることばをつかうことによって相殺している。基底音を音楽にこめて、そのシーンにとどまりがちな印象を流産させている。だが、終章の構成に最も苦慮されたのではなかろうか。あるいは無手勝流であったのか。
 「いや、終り方はあんな風にしなけりゃ、当時は・・・」と亀井に言われそうな気がする。終章に色濃い宣撫班的な情感はいなめない。この感情は「あの時代」を知る年輩の作家の場合、「あの時代では・・・」とほぼ同じ答えのようだ。そして私以下の世代はやはりひっかかる。だがこのギャップに結着がつくことはないだろう。私以下の世代が「あの時代」にどう想像力を働かせるかである。
 「あの時代」を覗い知るために、特高月報復刻版をくってみた。毎月ごとに厭戦、反軍の庶民の言動がひとつひとつ”共産主義的言動”として列記されている。「支那にゃロシアがついている。必ず敗ける」とか「兵隊にとられて一日七〇銭、将校は大金をもらって酒と女にゃことかかない」「働き手をとられて百姓ができるか」といったたぐいだが、このたぐいの「反戦言動」が昭和一二年九月だけで三三例、その大部分が人中で喋ったことで密告によって検挙されたものである。巷間にはあまたの言動が本音として交わされていたであろう。ここで見るべきは密告、摘発がふつうの人びとによって行なわれていたことだ。
 なかにはバスの中で放言したために昂ぶった乗客たちの袋だたきにあったり、行進する出征兵士に「かあちゃんが首を長くして待っとるぞ、早う帰ってやれ」といったばかりに兵士たちから投石をうけた例もある。
 『上海』を撮った「あの時代」である。新聞記事には一行も出ない話だ。
 スパイ防止スローガンに「壁に耳あり障子に眼あり」とあるように、周囲の人をまずうたがえの時代でもあった。
 亀井は人も知るソ連留学生である。レニングラード映画専門学校に学びソヴエート映画の手法と思想を学んだ人である。とりわけ特高の見えざる監視下にあるものと思われた。だが実際には当時の東宝第二製作部は加納竜一(原爆映画プロデューサー)、木村荘十二(『彦六大いに笑う』の監督)、吉野馨治(のち岩波映画創立者)などリベラルな人びとに囲まれての仕事だったようだ。作家同士の横のつながりも親密なものがあった。
 『上海』は公開されるや予想をこえる観客を動員した。ニュース映画にならされた人びとの目にはどれほど鮮烈であったろう。
 「みんな、映画の中に兄弟や知り合いがおりやせんかと見に釆たわけよ」だそうだが。
 この成功は他の記録映画作家に影響をおよぼしたに違いない。とりわけ同じ東宝文化映画部の同僚を刺激したであろう。
 三部作の二作目『南京』を担当した構成編集者、秋元憲の場合どのようであったろうか。南京攻略は陥落を祝うべく、提燈行列の準備までして待たれた大作戦であった。
 『南京』は大作として予定されたにかかわらず、秋元は現地にいくことはなかった。今まで通り撮影、録音スタッフだけである。
 そもそも構成・編集機構を独立部門化していたのは何故だろう。第一には経費節減かも知れない。或いは演出力のあるカメラマンを擁していたことから現場はおまかせーの慣行がそのまま定着したのかも知れない。記録映画は構成が決定するとして創作力の点で構成者を優遇しているかのようだが果してそうだろうか。
 「あの時代」である。会社の時局便乗的営業方針から見れば、この方式は極めて管理しやすい構造といえる。極論すれば、かりにカメラマンが軍部を刺激するようなカットをとってきても、構成部門でコントロールできるからである。映画企業としての自己規制、自己検閲のチェック機構がここで働くのだ。
 一方カメラマンも撮影に技術的ミスさえなければ・・・と逃げ道を用意されかねない。スタッフの共同性、一体性なるものは、このシステムの中では、よほどの作品への愛情がない限り、途切れ易いといえよう。
 構成者はそこでひとり、映画的構成にとりくむが、当然のこと自己検閲的な気くばり目くばりが必要となる。それが企業上層に対してであろうと、軍部にであろうと特高にであろうと、その意向に鋭敏ならざるを得ない。そしてそこでの表現上での闘いはつまるところ個々の作品の力量、資質、映画的手腕に左右されるということになる。
 脚本の事前検定を命じた映画法の制定は昭和一四年四月だが、それへの暗い予感を誰しも感じていたに違いない。そうした時代にあって、構成者は何の力によって自分の映画を守れるであろうか。
 亀井の場合、自ら言われるように「赤ん坊のように欲しいものは欲しいでやってきた」のかも知れないが、問題はその装置性、しくみにある。今日も同じ問題をかかえている例がある。あるTVの下請けプロダクションの場合、現場は一切まかせるとしても、編集権だけは会社の専属の編集者の手中に集中するシステムをとっているところがある。作品性とともにその番組カラーの統一、営業的判断、そして更には政治性思想性のチェックをそこが行なうのだ。構成・編集こそ、権力者の映画への管理・支配の要であり、逆立ちした円錐のように全重力がその底の一点にあつまるところと思う。亀井や秋元の場合も、そのしくみ上、プレッシャーをひとり背負わされる点では同じであったであろう。
 話を三部作にもどそう。すでに企画にのっていた『南京』は、南京攻略作戦の進捗に合わせ、『上海』スタッフの現地ロケの終りをまってはじまり、かれらはその機材一式をひきつぎ南京にむかった。スタッフは「実写映画」時代からの報道カメラマンの第一人者、白井茂が起用され、録音は『上海』の藤井慎一、進行米沢秋吉である。
 白井茂の残された記録性にとむ自伝『カメラと人生』(ユニ通信社、昭和五八年)によれば、南京攻略(昭和一二年一二月一三日)の翌日、軍のトラックで戦塵と異臭のただよう南京に入った。そしてその日から、銃殺のため処刑地の揚子江河畔に連行される長蛇の列を目撃した。だがカメラは廻せなかった。
 「撃ったのを見た事は事実だ。しかしみんなへたなのが撃つから弾が当っているのに死なないのだ。そこへいくと海軍の方はスマートというか、揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴落す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く。浮いたところをボンと殺る。揚子江に流れていく。そういうやり方だった。」(一三八頁)
 彼はその目撃に憔悴し、いく晩も悪夢にうなされた。撮らなかったことの悔いではなくその残忍さに打ちのめされたからのようだ。
 だが南京攻略シーンはなければ困る。そこで城壁をよじのぼり、日章旗をたてるシーンを再現してもらって撮った。戦死者の火葬のシーンは現実そのままをカメラと録音におさめたという。
 「この火葬のありさまをシングル録音で掃影したが、この録音の、炎のバリバリ燃える音はスクリーンを見る観客の胸をえぐったものだ」(同頁)と白井茂は書いている。
 南京大虐殺の血を洗い流し、行進予定場所の中山路のとりかたづけのすんだ一ニ月末、松井石根陸軍大臣以下全軍がラッパの響くなか威風堂々と入城する様が、『南京』のハイライトになった。
 現場の演出・撮影を兼ねた名手白井茂にとっての『南京』は戦争の苛酷さに圧倒され手も足も出せない現場であったようだ。
 このフィルムの結果を見て、秋元憲はいかなる感慨をもち得たろうか。まして、南京大虐殺の話を聞いたであろう。その事実を知りながら、全体の構成を考えるとき、『南京』の作品的運命はすでに決定されたといえる。撮影禁止されたにせよ白井の大虐殺の目撃体験から、以後の南京の描写に三木茂のようなカメラによる悲劇の発見の眼がよみがえるべきだった。酷かもしれないが、秋元の切歯扼腕を思う。
 野田真書は前出書の中で『南京』について、
 「日本軍の大虐殺のあった南京攻略直後の、南京の状況はあれこれ撮影されていた。だが大虐殺に関する撮影はすべて禁止されたそうだったので『南京』はよくみかけた戦勝ニュースの域を出なかった。
 兵の姿もいつものにこやかな後方陣地風景であり、沈黙を強いられている中国民衆の無気味さも感じられなかった。南京の冬の日だまり報告という感じであった」(八六頁)と厳しい(この作品は完全消失して今はない)。
 だがこれはカメラマン白井ひとりの責任ではなく、当時の東宝文化映画部のとったシステム、つまり構成編集の分業の結果でもあろう(昭和一五年白井茂は亀井作品『小林一茶』でその本領をいかんなく発揮した)。秋元はこの体験から、更に演出家の現場主義の考え方をつよめたこともうなずける(「記録映画と鉄鋼脚本」『映画評論』昭和一三年六月号)。

 三部作のしんがり『北京』は昭和一三年度『上海』にひきつづいての亀井作品である。カメラマンが川口政也に代った他、『上海』とほぼ同じ現地スタッフによって作られた。
 この作品も現存していない。シナリオだけが残されている。亀井の執筆によるもので撮影対象とそのシーン毎のねらいが詩や散文の形で書きこまれている。製作に先立って『北京』の企画意図を論文「記録映画と構成」にこうのべている。
 「僕がさきに発表した習作『上海』は、僕らの間では記録映画の”悲劇もの”と呼んでいる。そして今製作に取りかかった記録映画『北京』は、或る意味で”恋愛もの”と呼ばれてもいいと考える。
 古い文化の都北京は、砂漠の中のオアシスにもたとえられる。またろうたけた美女の如くでもある。生活の砂漠に立つ僕らが”失われた地平線”北京を空想し、そのふところにとびこんで心ゆくまで陶酔してみたい-それが映画『北京』のネライである」とのべ、観客をとりこにし恋愛ものにひたり切れるように北京を描いてみせるー記録映画にはまだまださまざまの表現の芸術的可能性がかくされているーとも書いている。あやういかな亀井文夫といいたくなるような文章である。
 『北京』のシナリオは全篇、詩篇で書かれている。その詩情にそって北京をとってほしいという亀井の願望をつづったものだ。
 
 ファーストシーン紫禁城の主題は乾隆帝と虜囚の美女、香妃のむごたらしい悲恋の回想である。トルコ産の白煉瓦の浴室、浴徳殿を舞台に回教徒の娘をおかす帝の話を八百字近く費やして詳説し、最後の一行に、「支那芝居をかりて、過去の幻想を表現するのもいいだろう」とそのシーンを結んでいる。扱いはカメラマンにまかせているのだ。
 天塩のシーンでは、空を強調して、
 「ここに立つ僕らは、如何にも天が近くなったような気がする。天空が、ひしひしと身に迫るのである。地上の塵を知らない、高い風が古い時代の天子の祈りの声を吹き流してくる」
 前門街などのシーンは幻想にひとしい。
 賑やかな雑踏を想定して、
 「北方人が悠々とラクダをひいて通る。
 スリが走る。群集がワメク。
 嫁入の行列が通る
 葬式の行列が通る
 罪人が大八車にのせられて街をひかれて行く。
 ひかれてゆきながら、彼は自分の罪状を声高らかに誇らし気に怒鳴って行く。
 城門外で死刑になる罪人なのだ
 貧民の若い女が「易」を見てもらっている
 盲目の女琵琶師が「没法子」的一曲をうたっている・・・」
 更にイメージが延々と書かれている。
 支那芝居のシーンに「あくまでエロティックな唄と踊り/退廃廃文化の妖しい香り」は分らないでもないが
 蒙古風来、蝗の様に 日本軍の様にと突然、日本軍のイメージが出る。「疾風が砂塵をはこんでみるみる街中のすべてをおおう。その風の過ぎる間、街は一時完全に機能を停止する。車が停る。物売りが地上に布をかぶってうずくまる。やがて風が去る。空は再びあかるく美しくかがやく」これもひとつの暗喩であろう。「前門街あたりでこの風をキャッチ出来たら素晴らしい」ともある。幽幻の美女に似る北京をおそい、そして去る嵐、蝗の群のようにーそれは日本軍だ、と。ここで撮るカメラマンの身になってこのシーンを考えるとき、「どうすりゃいいのだ」といいたくなる。しかも嵐の舞台には前門街あの幻想シーンの場所が望まれている。これが記録映画のシナリオであろうか。
 この「日本軍の様に」の場面をさかいに、一転して王克敏新政府主席のインタビュー、皇軍司令部、寺内大将の話、宣撫班の訪問、そしてラストが陸の荒鷲隊となる。「突如!そののどかな夕空に爆音がとどろき、一機、二機、三機・・・東洋平和の使者たちが〇〇方面爆撃に出発したところだ・・・うろこ雲はあくまで美しく、春はすべてをなごやかにつつんでしまう」-そして終る。
 北京の詩篇的描写から、竜頭蛇尾のように後段は時局むけのものでたたみこまれ、作品として恋愛物として見ても全くつながっていない。
 現実に出来上った作品は見ることが出来ないが、『上海』のラスト処理がここではシナリオの形で先取りされているように思えてならない。
 この『北京』にふれた文章は次をのぞいて手もとにはない。悪質な批評家のものだ。映画批評を通じて、軍国主義宣伝を吹きこみ、当時、朝日新聞の権威を背に「Q」氏として一見筆鋒するどく記録映画に”精神”を注入して倦むことなかった津村秀夫は、『北京』についてこう酷評している。「(『北京』の失敗の原因について)、一見して当事者たちが北京という歴史の錆のついた、複雑な古都に眩惑され、引きずり廻されたとしか思われない自信のなさにある。即ち好奇的な眼しか働いていなかったのである」(前掲書三三頁)。彼の眼にそう映じたものであれば、おそらく『北京』は戦争とむきあった作品でも、ましてそれを謳ったものでもなかったであろう。津村のこの酷評のゆえに救われる気がする。彼の戦争遂行のための精神力涵養に、これは役立たずの映画の見本だったようだからだ。
 ながながと消失した二本の長篇映画についてのべたのは『戦ふ兵隊』に至るまでの、つまり氏に言わせれば「いろいろ試行錯誤を重ねながらやっていたんです」と笑いとばされるであろうジグザグの過程に、私は『上海』の成功のゆえに、軍部・会社のずれた思惑にせよ、一映画作家への更なる期待の形をとってのプレッシャーと、それに耐えた孤独をみるからである。
 そして更に言うなら、同じ構成者として『南京』の秋元憲が、おそらく『北京』のシナリオを念頭に入れつつ、「演出者は記録映画の撮影に必ずや同行すべきものだ」と悲鳴に近い論をのべていることに注目したい(前出「記録映画と鉄鋼脚本」)。『南京』の現場が編集台の上にしかなかったことからの無念があったからであろう。記録映画の真実性を自分の納得のいく形でつかむには現地に身をおくことだ!と。
 また三木茂も亀井にかみついた「カメラ・ルーペ論争」がある。『上海』完成直後と思われるが、それは亀井が「カメラマンは眼かくしされた馬だ」と座談会で発言したことではじまった(昭和一三年「三木茂の回想」より)。カメラマンがルーペ内だけで絵づくりし、ルーペの狭い中にとらわれすぎているといった意味である。これに対して演出家こそ観念にしばられている点で、眼かくしされた馬同様ではないか、もっと撮影とその表現を通じてしか映画はないことを知るべきだという点につきた。(対談参照)
 これらは同僚演出家の演出家現場主義と、盟友カメラマンと角度こそちがえ、亀井の”構成編集至上主義”にむけての批判とみることが出来る。『上海』から『北京』にいたる間に発表したと思われる「記録映画と真実」「記録映画と構成」の二論文で見る限り、亀井は自説をつよく主張している。
 「キャメラは現象をとらえる。編集はキャメラのとらえた現象を発展の流れの中にあてはめ、観客の頭の中に真実を構成する。キャメラが真実を撮影するのではない。編集が真実を構成するのだ。・・・発展の流れ、流れこそ映画の生命だ」と規定した上で具体的な各論を展開している。この根幹は今も亀井の映画方法論の基底にあるであろう。
 では、『戦ふ兵隊』の現地ロケに何故彼は参加する決心をしたのであろうか。
 「火野葦平の『麦と兵隊』、それに発禁になったでしょう、石川達三の『生きている兵隊』、これらは感動的だった・・・」と亀井は言う。
 首都北京でも、後方上海でもなく、『戦う兵隊』の場合は前線を描く。戦場での一個の人間の肉体、一軍馬の生命、果しない進軍の実態はいかようなものか。これらを文学作品から触発された彼は、文字に書かれたものが発禁の目に会うならば、映画でその制約を破れないものかという彼らしい挑みがあったのではなかろうか。それは亀井の「構成・編集こそ映画」という論への反論・批判に対するみずからの答えを探るものでもあったと思う。

 プリントが発見されたという報らせで、日映試写室で『戦ふ兵隊』を見たのは一五年ほど前のことである。「ああこの映画をせめて一〇年前に見たかった」と嘆息するほど刺激的だった。広野をゆく軍隊の大ロング、戦場のさらにはるかな大ロングに「小隊長どのー右の川は深くて通れません」というやりとりが、同時録音でききとれた。ナレーションがない映画だけに、その効果は立体的な迫力をもっていた。当時、私の作品にも同時録音方式を手さぐりしていただけに、すでに戦中、ドキュメンタリー映画の方法論として見事に使われていることに驚き、そのプリン卜を見ることの遅きに失したことがくやまれたのだ。
 もっともこのロケの裏話は映画入りした頃から、瀬川順一カメラマンからくり返し聞かされていた。彼も東宝教育映画の出身で、『戦ふ兵隊』の撮影助手であった。だからまだ見ぬ前から、有名な病馬のくずれ倒れる死のシーンなどほぼ頭の中に入っていたほどだ。その話も、「夕陽はどんどん落ちるし、マガジンの中のフィルムの残尺は少ないし、いつ馬がひざを折るか、ハラハラしながらとったんだ。亀井さんは全カットつかったんじゃないかな」といった風に、である。

 亀井は「この映画は厭戦だ反戦だといわれるが、とる前に陸軍報道部の人たちと話したら、彼らの方が言うんだよ。こんどの映画はニュース映画みたいに派手なのではなく、もっと戦争の下づみとか裏側を描いてくれと。だからそこを淡々と撮ったわけだ」とこれも事なげに言う。
 この映画ではすでにふれたように一切のナレーションは排除され、三〇枚足らずの簡明な字幕で語られている。移動する軍と同行する難行軍にもかかわらず同時録音方式の撮影をし、現実の音声の存在感で画面を支えている。弾道音、射撃音、砲声の効果音、音楽のひたすらな、しかし物語り性をすてた旋律。それらが心理学から逆算したように正確につかわれている。
 三木茂のカメラは移動のスピードのこまかな違いまで計算し、『上海』よりも更に焦点の定まった、そして対象をどっしりと引きつけたシーンを撮っている。亀井演出と三木撮影設計の切りむすびが観る私の眼をひきつけてはなさない。戦場となった中国の空、大地、草木、そして馬、ロバ、蝶の扱いの重層性あるあつかい。ネコ、野犬から蝿や顕微鏡下のコレラ薗までが、主題を浮き上らせる役どころに鮮やかにカッティングされている。
 字幕の文字による想像力の喚起の作用もさることながら、メイン・タイトルの書体と、字幕のそれの緊密な統一、その筆致は”兵”の質感が、これしかないといった、チビ筆による習字風にしあげられている。このように神経のゆきとどいた字幕は稀であろう。
 カッティングと間のとり方、とくにフェイド・アウト(溶暗)の呼吸は真似できないものだ。
 まず出だしから戦火で焼ける家と家を失った農民の描写で始まる。字幕は「いま大陸は/新しい秩序を/生み出すために/烈しい陣痛を/体験している」とある。「痛」という字だけが眼に残る。そして難民の列、ひびわれた田んぼの表面、その悲劇の上に果てしない空が雲をうかべている。眼かくしした地蔵尊、その絶妙な間をきりさいて、日本軍の戦車が次々と驀進してくる。これ以上は戦車音に耐えがたい限界の時間一ぱいで、シーンは音楽とともに前線の根拠地に変る。この呈示部だけで作家亀井文夫の映画の文体にひきこまれるのだ。
 野戦の駐屯地は病気と疲労で、三度の飯をつくるのもものういような倦怠感につつまれている。移動撮影はその戦場の生活空間をすべてあますところなく伝えるようにくり返し兵と馬と仮の駐屯地全景を見せる。砲声のこだまが間欠的に観客の腹に重くひびく。顕微鏡下のコレラ菌のうごめきにもその砲声が重なる。
 戦争とは病気に耐えること、応急の場所をいとわず手術をうけること、のみ水を節すること、病兵、負傷兵と起居を共にし進軍の命令をただまつこと、戦場なるものが、こうしたディテールにあることを黙念と凝視する画面によって伝えている。
 部隊が去ると村人が姿をあらわす。決して日本人映画スタッフと交わらせようとはしない視線。彼らからつき離されている距離感があらわにカメラで示される。字幕は「また部隊が去った/その日から/農民は働きはじめる」「しかも/ここには最早/戦火のうれいが/なくなったのだ」。いくつもの部隊のよぎるたびに避難していた彼らの姿が、「また」「その日から」でよみとれる。「戦火のうれい」は「また」くるであろうと暗示する字幕の効果は、字もまたひとつの映像であることを示している。
 中国の正規軍は後退し、日本軍は奥深い大陸各地におびき入れられ、占領地の点と補給路の線、つまり点と線だけ確保し、その維持にくぎづけにされている時期である。その硬直状態をぬってゲリラ戦が展開されている。武漢にむかう部隊につきそう撮影班。その撮影班すら足手まといとしてつき放すこともしばしばだったほど疲労した部隊だったという。
 こうしたロケ隊の味わう索漠感は、見はなされて死に瀕する病馬、重い荷をひく牛のあえぎ、撮影の歩哨兵の影ににじませられている。
 名峰、慮山、慮峰につらなる山脈。一塊りの部隊のどうして制覇できる大陸であろうか。無益な戦い、徒労に果てる行軍、字幕は言う。
 「悠久な大陸の自然に/歴史の一頁を/刻みこんでいるのだ」この自然にとって侵略者の戦火は一過性のものにすぎぬと言い放つにひとしい。
 この映画の語り草になっている最前線の中隊本部の場面、一シーン、一カット(実は同じサイズの三カットに分れているようだ)二〇分であるがこれは再現シーンといわれる。同じポジションで中隊長室のほぼ全景を引きっ放しで撮っているため、かえって現実味がつよい。戸外のうごきが出入口ごしにうかがえ、それが見えない敵の陣地まで心理的に眺望できているかのような錯覚にとらわれる。中隊の全面的協力による演技だが、実際にあった三日前の戦況をそのまま再現してもらったため、ことばのやり取りがナマで緊迫感にみちている。記録と劇との堰を軽がるととっばらってみせた演出と撮影の大胆な設計である。「敵はメチヤメチヤに撃っております」「そうかメチヤメチヤに撃っとるか」などの伝令と中隊長のうけ答えに日常会話の軽みさえある。
 亀井文夫によれば、戦死者の屍を焼く、そこに音階の狂った兵たちの君が代が流れるシーンがカットされているようである。その焼く火の影のほのめく陣営のくらい部屋で、戦死者の妻の手紙をその遺骨の前でよむシーンに連続しているらしいだけに惜しまれる。おそらくのちのちまで公開を意図した会社が亀井に無断でカットしたものらしい。会社もプロである。軍部の怒りを避けるためなら、善悪は別としてまさに”的確な”削除であったといえる。
 このシーンは亀井のモンタージュによって、事実性と衝撃力を絶対値として、感動を感傷とないまぜてふき上げるものであったろう。観る人々はそれにうたれ、軍部はおびえるーまさに刃をぬいて戦争にかりたてたものに切っさきを合わせるほどの勇気があってのことだ。眼を光らせる軍部はそのシーンを名指し、厭戦映画の烙印を押すことが出来る。亀井はいわゆる”玉虫色”の表現にせよ、公開できるものにしようと智慧の限り眼を配って作ったであろうが、このシーンは最も無防御である。死と君が代と屍やく業火と妻の手紙-これではあまりにストレートな激情の流露ではないか。だから鋏で切られた。その他のシーンは鋏をうけつけない剛直なかつ、屈折し、お互いにねばらせたモンタージュで組立てられている。武漢での疲れ果てた兵士のシーンなどその移動や音響処理などで、どこで鋏がいれられよう。又、一シーン・一カットの中隊本部にしても、敗色濃い状況の戦闘指揮にせよ、中途で切ってはどこにも落着しがたい連続性をもっている。こうした亀井の本領、『戦ふ兵隊』の方法の凄みと完成度をみるとき、このシーンのカットの出来事に作家と権力(会社も含め)の表現の攻防における一騎うちを見る思いがする。そしてカットされたフィルムですら、全篇のテーマがいささかも崩されていないことに改めて圧倒されるのである。
 武漢に入って最初のロシア正教会のシーンは甘美だ。理由なく私は好きである。たたずむ若い白系ロシア人娼婦の佇みが眼にやきついている。索漠たる進軍の果に、戦火の中にあって、ほとんど無傷に残ったネギ坊主の塔。亀井のソヴィエト・ロシアへの郷愁がエゴのようににじみ出している。あらためて『北京』の詩篇風のシナリオを思う。このシーンの想いは、戦場を踏破した亀井のみゆるされた詩人としての表現であろう。全篇中きわだって個性的なシーンだ。印象的なものー疲れた兵と咲きみだれるダリヤの花、そして蝶といった名ショットをあげていけばいとまがないが、私が『上海』と決定的に違うレベルに突きすすんだものと感嘆したのはラストである。
 字幕「この日/はや 裏町には/文字通り焦土の中に/うごめく生活の意欲をみた」
 この「生活の意欲」とは物を煮るナベをあさることであり、菜を明日のために漬け物用の数枚の葉を干すことであり、子供が小犬に再会し抱くことができただけである。日本軍の救済などのシーンといったものに一顧もくれずに終る。『上海』のラストシーンに埋めこんだ仕掛けとは決然と別れている。
 私は『上海』からあえて『北京』という幻のフィルムをひきずり出し、そして『戦ふ兵隊』の現地体験をへた氏の軌跡をたどったとき、この映画はやはり軍部によって拒否される運命にあったことが分る。亀井の映画技術やその芸術性を畏れたのではなく、正当にも亀井文夫の存在を畏れたのである。昭和一六年一〇月の治安維持法による逮捕は、亀井文夫と戦争との必然的な結果であり、軍部の求めた強制凍結処理であった。それゆえに、私たちは、私たちにとって、『上海』から『戦ふ兵隊』の過程を今後の自分の道標として、ふり返りつづけなければならない。亀井の胸をかりて足腰をきたえなければならない時代なのである。
 映画から一旦離れられた亀井は、いま、遺言の映画だといいながら生きものの世界から人類をみる『生物みなトモダチ』をつくっている。そのシナリオはこまやかな心でつづった一大詩篇であった。彼は全く変らざる人であるのだ。