映画は生きものの仕事 「出版ダイジェスト」 12月1日
仕事のひとつの節として、「水俣一揆」と前作「水俣-患者さんとその世界」のシナリオをまとめる話から発展して、この五年間に必要あって書いた文章のほとんどが一冊の本として出版されることになった。元来そのつもりでなかったので、改めて読む気もなく、ただ誤字の訂正しかしなかった。が日付順に並べてみると、制作日誌的なプロセスや試行が錯誤的にせよ鮮明であり、どうして映画が作られたかが率直に出ていると思うので、敢えてドキュメントの一つになればと、出版社のすすめにまかせることにした。題は、『映画は生きものの仕事である』というすでに発表した映画私論のタイトルそのままにした。筆無精なのと「映画論嫌い」もあって映画についての文は少ないので八年前の『留学生・チュァ・スイ・リン』から『パルチザン前史』までたどって収録されている。
たかが映画ではない
先日、仙台で近作の上映に参加した折、少年のような高校生を含む三人がこもごも「「パルチザン前史」と「水俣」を相ついで見る機会があったが、二つの作品の間にどういうつながりがあるのか」と聞かれて一瞬戸惑った。主題でいえば、一 方は火焔ビン闘争であり、一方は漁民の生活と重なった人々の怨念の記録である。劃然と対象はちがい、その雰囲気も異相である。そのことを指すのかと思って訊いてみると少しちがう。そのひとりは土方をやりながら、全金属本山の闘争に加わっているという。あの映画をみて土方になって労働しすでに一年、改めて「パルチザン前史」が分ったという。恐ろしいことである。たかが映画として見ることをしない世代が形成されているのである。この青年は別格としても、青年たちは私が水俣におもむいたのは、パルチザン五人組の精神をもって、はじめて行けたのだろうと解しているようである。本人にそんな内的必然を絵でかいたモチのように画いてみることは出来ない。はじめゲバラの思想を彼の写真で構成しようなどと思っているうちに、日本で武装のことを考えている集団が京都にいるというので、人を介して”主人公”滝田修に会ったのが運のつきで、計画は全く変り、京大バリケードの中で数カ月起居を共にした結果出来た映画であり、一方、「水俣」は、すでにあるかかわりをもっていたが、出来ればそこから逃げたいと思っていた私をはげまし、まきこみ、渦中に追いこんだ熊本・水俣の人びととの出会いから生まれた映画である。課題はつねに向う側から来て私をとらえたのである。しかし奇妙にも、映画はつねに前作、作品史に規定される。前の映画の軌跡の上を一見はずれているようにみえても、やはり前作の影響をおとし、そのモチーフの深化をどこかで果したい欲求に身をまかせていくものなのであろう。一つの映画で初めにもった構成が変わり思想そのものがメリメリと変わることについてはすでに本の中の一文に書いたが、同様に自分でいくら方向転換を試みても、潮流に逆らうもののようである。
自前の闘争へ
私自身、戦後の党派の活動、学生運動、日中友好運動を通じて旧タイプの”運動家”の資質を色濃くのこしており決してそれから自由でなかった。その呪縛は党派に所属すると否とにかかわらず、私の中にあって私を開放しなかった。しかし記録映の仕事を得て、私はつねに現実、その本物とむきあう作業に熱中でき、複数の実作者、カメラマン、録音、製作とのスタッッフで作るこの画国独自の方法にいわくいいがたい托し方をしてきた。『パルチザン前史』の描いた対象世界は私をかえる上で大きな影響をのこしたのである。『人間がまずあって革命がある』(滝田修)・・・という当り前のことを組織括動、戦闘表現、そのデテールのすべてに照らし合せ、洗う作業に立会った気がした。それは教條から引用されたものでなく、なまの対話の中から無恰好に孕まれ産まれた思想ではあったが、旧左翼、新左翼が、自戒しつつもそのわなに自らはまった”党派(セクト)”の思想を破壊する上で私にとって待たれた新らしいそれであった。そして、「最も弱い立場の人びとの中で動き、愛されそこで生活を共にしたものたちで、自前の武器をつくり、自前の闘争を行え!」というよびかけに年甲斐もあらばこそ、うなずいたものである。下とか底辺という発想は好きではないが、私のように左右の説に心わずらう性向のものにとってただ一点、そこから学びとることの出来る人びとはそこにしかない。またそこの人はー写実(えいが)に登場することも発言することも辞さぬものをもっているのである。『パルチザン前史』はしかし、かくすべきであるという「べき」のことばが多いかも知れないが、闘争の底にながれる学生の下放志向の懐胎・誕生のあとはとどめている。その後の彼らについて全局面をフォロウしているわけではないが、やはり「パルチザン五人阻」と問題をたてたときの初心は失っていないように思える。仙台で大学をすて、全金属本山の闘争に加わったという、つまりそこで学問なるものをしている元学生の表情は近頃まれな美しいものであった。このことは私の次の作品を規定するのである。
映画ではなく肉体の行動へ
『パルチザン前史』から水俣へのつながりの間に、一時、水俣からの逃避志向が働いた。水俣病についての勉強をすればする程、石牟礼道子氏の”苦海浄土”を映像の念頭においてみるとき、とても関わる力量に至っていないと自覚したし、何より病気のもつ絶対性ともいうべきものから、私の相対的日常的感性がはじかれたからである。一方に決して治癒することなく、今後どのような形をとって更に崩壊してゆくか分らぬ肉体をもつ人に、カメラをどこでどうむけたらよいのか決まらなかった。私は私の今までの映画の方法ではとれないということまでは分った。何かを壊さなければならないことまでは決った。しかし不安である。私にとって、極めてわずかの経験だが絶対的なものに直面するという時、放心に似た状態が生まれる。なりふりが分らず、人へのかかわりの気持ちも失ない、どこにも行き場のない、ただ突ったっているという心理状態のときがある。こうなることを、一番怖れた。だが、『パルチザン前史』の終わりから始まるものとして水俣にむきあうことは一つの必然とも感じていた。ではどうしたか。どうしようと思ったかといえば、熊本の「告発」の渾動を支えた人の尻馬にのって、映画ではなく体の行動に一歩ふみ出したときに、状態はとけはじめた。二カ月間私は私なりに、ビラ・デモ・座りこみなどの中で動き、その間に、患者像が大きく変っていた。それは、患者さんは漁民であるということだった。単純なことだが、生き、働き、泣き、笑い、海辺に生活を営む人びとの世界が少しずつみえてきたことだ。それまで、私には、病者が前景にあってそのうしろに人間があることがつかめなかった。熊本の「告発」や市民会議の人々が、使命感などという一枚皮のものではなく、苦も楽もあり、どこか、物つきの道楽のような様を見たことにもよる。そのひとり渡辺京二氏が「あんたつきおうてみなさい。漁民は面白かですよ」という。決して、その時「患者」とはいわない。その言い方には、私をひきつけるものがあった。恐らく、映画はこのときの開眼によって一歩ふみ出すことができた。現地主義といわれるかも知れないが、スタッフ全員が水俣ついてから映画を考えようと一見無策・無責任ともいえる方法しかしそれしかなかった唯一の過程を経て、水俣にゆけたのである。
映画がこわれた
その時、私はパルチザンの五人組を考えつつ、労働に入ると決めた青年たちが、どこで停み、考え、どこで自ら、弾条を見つけて「下放」の地に至るであろうか考えざるを得なかった。方針をみつけ、方法をみつけることは言葉ではやさしいが実行はむつかしい。三百人近いパルチザン部隊の中でいくつの五人組が地にひそむであろうか、何処に、どのように。それはやはり難事業のように思えた。だが、京都特有のゆっくり加減で、いくつかの組的団結をとげた部分が生まれているときいた。
私はスタッフの間で、水俣でのパルチザン五人組とあえて称して酒をのみ、私たちの過程を洗いつづけた。その時もまだ映画の構想は不定形であり、本格的な撮影に至れなかった。チッソに対する攻撃材料には事かかない。行政の不備は露わである。患者さんの裁判闘争は進行中で私たちにはカメラの場を与えてくれる。私好みの告発の運動のみずみずしさは私たちの身辺をつつんでいる。だが、あえていえば、それらは、今まで撮ろうとして撮れた何物かに近い。私たちがここに根拠とするもの、患者さんそのものをまるごととる試みしか新らしい未知性はない。ところがそこで小賢しくも私の頭を占めるのは、どの患者さん選んでとるのかという映画屋の構成神経である。全部の人を登場させるのは不可能だ。あまりに長篇になる。また同じ症状の人を並べることになりはしないか-つまり変化がない……などという映画的思考がはじめはつよく私をしばっていた。だから、映画はとれないまま一・二週間がすぎた。「全家庭を訪問して撮ろう」とまず口を切ったのは大津幸四郎カメラマンである。ついで「胎児性は全員記録しよう」と皆で言った。えらぶことなく全家庭すべてをどこまで辿れるかが、私たちの行動目標となった。限られた予算、フィルムであり、この決定は金がかかるのである。それに痛むプロデューサーの顔も、またそれぞれの妻子の顔も浮ばなかったわけではない。だが、この地点ではじめてカメラは本格的に回りはじめたといえる。つまり「映画」がこわれたのだ。私たちは二〇時間以上のフィルムをとった。それは全部、見てもらいたいものである。熊本では三晩半徹夜でそこの人々は見た。そしで映画に登場した患者さんはひとりも編集上カット出来なくなった。その結果三時間近い映画になってしまったのである。映画の”常識”はまた私の手で破らなければならなかった。その是非は別として私は水俣で映画を教えられ、水俣で修行をはじめたと思わずにはいられないのである。