次なる労働者の記録映画の予感 『思想運動』 7月1日号 活動家集団思想運動
全逓労組の企圃製作の映画である。しかし作った高岩仁氏、浅沼氏、岡田道仁氏らはしばしばわたしの仕事のスタッフでもあり、その仕事に注目してきた。なかば内側の人間として、その映画の生まれる日に立会った気がしている。だから、他者的批判は恐らく不可能である。
ひき裂かれた職場をいきいきと記録
水俣から帰った直後、この映画のダビングを見せてもらった。わたしとしてはかねて高岩氏が労働省の映画をとりたいといっていたことの意欲の内実はたしかにわかった。それまでわたしの中には、総評の労働者の闘いの映画製作はあまりしてこなかった。労働運動の形成期から一貫してずり落されている労働者は観念的にはいつも映画の対象として意識してきたが、既存の労組、とくに大労組には情宜活動の一環として映画製作の経験もありその能力もあるだろうとして、対象から無意識にはずしてきた。その独善はこのういういしい一編で改めなければならない。
全逓の青年労働者、制服・制帽を脱げば、Gパン・長髪・サングラスのふさわしい屈託のないひとりの青年に見える。もし町角であっても、流砂のように無関心に行きすぎるようなひとりの青年の中に、分裂した組合、夕テに裂かれた職場で、どんなに権利をよみがえらせようと腐心し、鼻血の出るほどの対話をしているか、ひとりの組合員を全逓の戦列に招くためにどこまで深くつきつめ合い、長い時間をその仲間一人ひとりにむけて費やしているか、そうしたことが、否応なく見えてくるからである。部外者のわたしでさえもう二度と今までのような眼で赤自転車の労働者を眺めることはできない。「今、あなたの職場はどんなになってますか?」と気易く聞きたくなる。そのナイーブな感性をわたしは好きだ。
それだけに、欲求不満を抑えかねるのだ。欲が出るのである。”五人組”の日常活動、その組織を支えているもの、オルグの人間的な資質や作風その長い工作の瞬間をへて一人の人間に五人組の全重量をあつめてかかわっていく、そのデテールを丸ごと見たかった。その点で人間が今一つねばっこく出てこないのである。この映画がデモ・スト映画でなくドキュメンタリーの目と耳で対象を撮ろうとしていればこそ、そう思う。しなやかなカメラワークやすぐれたアップ・ショットはあとでのべるとして、映画が必死で伝えようとしている「説得」の中味を見ていたいのである。音声のすばらしさに見あうべき映像の新たな方法が採られていない。カメラによる人間の表情の変化を、決意に至る過程を凝視してほしかった。その一部しじゅうを産児のように取り出してほしかった。その力量がすでに高岩氏らにあることを熟知しているだけに、わたしは惜しまれてならないのだ。
全逓中央の企画として、この映画は三・二六スト前後の記録として立案されたと聞いている。資料映画であったという。だがこの映画の場合、まかれた種子より果実は明らかに大きい。しかし出発点が質料、記録の一部分として考えられていたのであって、こうしたドキュメンタリー映画としては発想しなかったという経過はある。でなければ、四日間の河内局(東大阪)のロケといった寸法は了解も理解もできない。高岩氏がその条件の中で精一杯の仕事をしていることは感性豊かなシーンの数々で解らせてくれる。だが、それとひとり歩きする映画の総体の質の点検とは別である。かれがよく知るところであろう。この映画のテーマは文字通り”説得”である。それがどんなに今の全逓労働者の闘いの中心にあるか字幕に日く、「全逓組合員六六名郵労六六名、中立五名」、まさに見事な分裂策動の結果がこの数字に固定している。ストをするにも職場闘争をするにもつねに多数派たり得ない構造が一目でわかるだけに、仲間を「獲得」することがどんなに緊急で日常的な現場活動かが部外者のわたしにもわかる。まして全逓労組員の少数な現場ではより以上の逼迫があろう。「五人組」の活動がつづけられており、映画に描かれているように、余暇の時間にオルグ方針を討論し、さらに小組を作って郵労の労働者の下宿や家にゆく。夜うち朝がけである。茶菓子や夜食をぶらさげて「迷惑は承知の上」のさしでの話しこみにゆく。説得する側もされる側も個人的にはゆとりのない生括、矛盾にがんじがらめの状態の中で一つよろければより過酷な生活条件や職場条件にころげ落ちる話である。映画の中に例として両方から語られた全逓組合員「山下君」のように職制の監視にとりまかれて、幻覚症状が昂じついに発狂に至るといった昨日、今日の仲間のことが頭にこびりついている上の新し合いである。わたしたちは映画を見てあらためてこの映画が実に大きなテーマに突き進んでいったのだと思い知らされる。
思想闘争を描く困難
高岩氏たちが、四日間の日数で、このテーマの中心に取り組み、そこしかないと思い定めたのはまったく正しい。しかも、そこに同席し、カメラをまわし、テープをとれたことはー記録映画を、作るものなら誰もが思うであろうーそれは極めて稀有で恵まれたことだ。それは、
第一に、選んだ河内局の若い労働者諸君の昂揚感と実践力によって導かれたからであろう。
第二に、氏が、ニュース的に資料的にといわれようが、そこが全逓の映画教育の中心環だと考えたからにちがいない。
しかし、その中心テーマの部分が描き切れなかったのは何故だろう。高岩氏は苦渋をこめて映画スタッフとしてメッセージに書いている。
「ストライキというと、その現場に出かけてピケやデモばかりとっていました。これでは言うならば苦労した闘いのぬけがらだけをとっていたようなもので労働者の感動をよぶわけがないことがよくわかりました…」
「オルグの四時間はその中で自分自身の思想のすべてが点検され、捉えかえされ、向上してゆくのがよくわかり、とても感動しました。これだと思いました。」
「……あの闘いの重要なもののほんの一部しか捉えきれていません。どうかあとの部分は映画をみたあとの討論で補って下さい。」意図と結果について率直なことばである。しかしなぜもっと映画をつくる上の状況についての自己省察と企画者への訴えがのべられないのか。
わたし自身の映画でも、今日のドキュメンタリー映画でもこの説得シーンに比肩するしんどいジグザクの思想闘争は描き切れていない。そのシーンは映画としても”教育”としても十分に強いインパクトをもつであろう。”これを映画にすることこそ”という意図をとげるためには、説得が根づよい活動のピークであり、説得される側もする側も裸にむき作業つまり労働者の横つながりの行為の原基運動の場であると考え、いかに映画としてそのシーンに到れるかについて、映画以前にイマジネーションの共有が少なくともあるべきではなかったか。企画者全逓とスタッフが同じじテーマについてそれぞれを出し合う関係があれば、少なくとも四日間のロケといった寸法は出なかったはずである。少なくともスケジュール化し難いテーマとまず考えるはずである。
スケジュール闘争に合わせたカンパニアという追尾様式、附随様式こそ、今までのそれが、とかくデモ・スト映画に落着かせざるを得ない一因ではなかったか?だからといって四日間のその時点に合わせた企画を放棄し拒否すべきだというつもりはない。映画のとりはじめはそんなことで始まる。そのあとの流れ、プロセスとして、映画はその中心テーマを求めて、独白にスケジュールを捉え返し状況を変えていくこともまた映画に固有の仕事固有の責任のとり方だとわたしは思う。全逓という組合には、そうした環流をうけ入れる民主主義と平等観、自由感はあるものと考える。もしそれがなければ、いわゆるPR映画・広報映画とどこで質を異にすることができよう。映画に登場する青年労働者の活動が魅力的で人間的であればあるほど、映画のスタートの肺活量がまず小さかったことを、他ならぬ高岩氏は指摘できる人間である。それを自己批判としてフィルムとともに提出できる限られた人間である。そうすることのできるだけのフィルムの力を実証した当事者だからだ。
では、どうしたらよかったろうか。グツグツ言うのはやさしいが、わたしのことに返して考えればどうだろう。わたしにも話があって、「オルグ活動」「説得活動」がいまの課題だ。三・二六はそれをへて闘われるときいたら、とたんに飛びだしかねない。「説得」の中味やその重量を考えずに既成のパターンを考えて現地にいき、とたんに前進を欠き、頭をかかえ、立往生するかも知れない。そしてすでにロケ現場に来てしまった以上、”映画人”=プロとして、全逓中央との約束は果たそうと上向きに仕事をして事萎えて果てたかも知れない。ただカメラの対象は現場にあることだけが可変カとして働くだろう。労勝者に「映画」の仕事をすべてぶちまけ、相撲で言えば関取の胸をかりて仕切直しするーそして労働者に迷惑をかけながら、いぎたなくその職場にペタンと腰を下してから考えはじめるーそこからスタッフと現場の労働者との親密な関係をつくり、そしてはじめて「説得行動」の場にカメラとマイクを存在させるということとなろう。テーマがテーマだけに欲が出るのだ。高岩氏らは「説得」の現場まで驚くべき早さで到った。しかしそこに固執しきれぬままに時間切れとなった-とわたしは推測する。
映画観変事への契機になり得たか
わたしは新しいタイプの”組合”映画を観た。いつかはわたしもそれをとりたいという欲望をかきたてられている。実のところ、RR映画育ちのひねくれもののわたしは、こと映画に関する限り、プランナーはいつもある権力をもっているものであった。金、製作条件、そしてそのテーマの制約等々。その意味では、大労組の中央でも、そんなに変わるものではなかろうという漠然たる偏見がある。中央は動脈硬化で、末端こそ神経と血管の生きている場所だという観念がある。その眼でいつも労勘組合の映画を横眼に見てきた気がする。その偏見を破ってくれるものとして、わたしなりにこの映画に愛着しているのだ。河内局の現場はたしかに高岩氏らの映画を変えた。高岩氏らは全逓の映画観を同志的に変えたかどうかである。-といまわたしは思う。説得、オルグに集約された労働運動のドラマを撮るという方向は何と心ふるえる事業であることか。作り手の言うように不十分で欠点だらけであろうと、手垢にまみれた”説得”とか”オルグ”がこんなに充血した現場の闘いであることを示した点で新鮮でさえあった。いまでの政党・労働組合の”団結映画”の水準とはすでに別である。労働運動が今日、「五人組」という組織形態を河内局で実態化生活させていることだけでも、学生運動や他の分野で未だ到らない高い運動の次元ではないか。それがどのように作られ持続しているのか、知りたい欲求に駆られる。学習会もさることながら五人組ごとのビラ作り、その毎日のビラまきなど興味はつきない。ああここに記録映画の豊かな世界があるな、と思わせる。あれこれとタテマエの話はぬきになり、ポリポリとあられをかじりながら(その昔は歯ごたえがあった)相互につぶやきになり、「オルグされて入ってもオルグされんで入っても、オレは同じと思うんやが…」「おれらがやっていけばきっと何かが変わると思うんや」と相手の心にやさしくのべる声は耳にのこる。力みのない闘いのプロセスの生活の声というか空間の音は確実にのこる。映画を貫く感触はひとつの青春映画でもあった。とくにそれをカメラの側から強調したのは、労働、しかも熱達した日常の仕事を克明に分析したカットである。切手の上を叩きつづけるスタンプ作業、すり切れたインク台、仕分け作業、神経と労働の過密を描いた一連の描写力、かれらの住んでいる住民区の路地をぬってはしる自転車をこぐという日々の仕事と時間と地域とのつながり、黙々とした仕事場とオルグするコンクリート塀の片すみの語らいの場所、これらのショットは労働者の生理とカメラマンの生理の重ねられた映像であり、したがって一カットことに固有の生命があって、モンタージュをはじくような力をもって労働そのものを表現して、カメラマンが現場でむきあったものそのものとの関係を描いた。その事物と労働描写に見られる、異様なまでに意志的で、強靭な凝視力をもつカメラ・アイから次が始まるのだなと感じる。
映画のラスト、三・二六スト集会で、数人の新加入者に一個づつ小さな全逓バッジが渡される。そのひとり高橋さんにある不安とも恥らいともうけとれるかげりはリアルであった。かれを説得した五人組の表情もまたいたわりとやさしさにみち、始まった新たな人間関係の位相をくっきりととどめて印象的である。この実に静かなさめた日常的な幕切れは、むしろ連続するオルグ・説得を示唆している。だからこそわたしにはひとつの大きな予告映画に思えるのだ。