水俣というヤスリ顧みて、いま-戦後30年の検証-9 「東京新聞」 8月1日付
映画を目下「水俣」においている。かかわりの疎密のムラを省いて言うなら九年になる。その間、私は水俣からの逃亡を何度か試みた。第一回の出会いはNTVの仕事で「水俣の子は生きている」という一番組であった。私は一般の身障者や重症心身障害者すらカメラをむけることをさけてきた。だがこの場合、私たちが「便利」のひとことで許してきた新文明の生んだ毒であり、独占資本の体質そのものから生まれた殺人であるという観念の上のいかりから、その地に行けた。しかし、そんな物指しはこっぱみじんにこわれたのである。
水俣病、とくに胎児性の子供は一目見たら、いままでの人間なるものの観念を根こそぎうち破られる存在である。見なれた工場、コンビナートのイメージからありとあらゆる近代文明の生産物のことごとくの結末が、ここひとりの人間、ひとりの幼児の体にしかと負を定着して、固まったような存在なのである。自分の健康が、この対象の患者自身の病疾と、うらはらにはりつけられた関係者なのである。他の執病に純医学的にいば、これよりひどい症状の人もいよう。しかし原因結果が明確に病児の家のむこうにある工場から工場労働者もふくむ、すべての人々の手によって生み出され、その工場一つ廃棄しないまま、企業の、まるがかえで生きているという言いわけを封じないまま、この子供の身の内に毒を押し込んだ構造は、人間の類としての危機に公然と自らふみ込んだことになる。これは毒殺毒害の承認、否認のいずれかであって、中間はない。そのことを迫られる程の鮮烈な存在があったのである。
もし彼らに、死だけがあるなら、映画は絶対撮るべきでもなく、私は映画を捨てたであろう。しかし、致死量をわずかにまぬがれたが故に生きている患者たちは、残された脳幹の働きによって、ようやく人間の形をし、人間としての最低の喜怒哀楽を分かつことが出来る。それは人間であること、他の生きものでなく、まさしく人間のひとりであることを全存在で告げているのである。
私は最初に出会ったこのような「植物人間」や胎児性の子供を目撃したとき、それを撮るどころか、手をかけたり、言葉をかけたりすることも出来なかった。私ははじめて記録映画を選んだことの是非にむき合わされた気がした。これは写真や映画での間接体験では決して得られないものである。どのようにすぐれた描写をもってしても、目撃に勝てない点で水俣病は一つの峰をつくっている。
映画に入って十年目に私は、いわば好調に歩んできた映画生活に一つのトゲがささった。文部大臣賞や芸術祭賞といったものが、いつしか作家的地位を世間的には保障しはじめ、もしこれを見なかったら、体制内エリートとして、いく分か変革的な方法をもつ「作家」とし保護され埋め込まれて、私の戦後をいやしたことになったかも知れない。私の党を見放すことに苦痛もなくなったかも知れない。また私もそうしたかった。二度と水俣病を見るまいと思いもした。その後数年、ドミニカ、シベリア、キューバと仕事をつづけたうらには、その条件下でエリート・コースを拒絶する志向は辛うじて保ったものの、水俣で負った根源的な問いの棚上げの季節であったことはほぼ間違いない。単純にいえば、水俣で初めて、私は映画を撮りたくも、カメラをまわしたくも、金しばりにあったように、もっというなら、映画を撮るのがいやになり、反吐が出るまで自分に絶望したーそれを正当に見つめ、自分を立て直すのが怖かったのであろう。
私は逃れるように他の仕事に横這いした。それは良い仕事ではなくなった。酒と女と精神の荒廃は一どきに来た。どういう因果か不幸はまとまって来た。二女は白血病で死んだ。そのわずかの罹患期にその子はあり余る程の献血を得、過分の野辺の送りをした。それは皆、友人たちによってであった。無名の不遇のひとりの少女のために動いた知己未知の人々に、私は子供とその死を託すことが出来た。そこに私はあらためて、私は大々の幻視の「党」と私自身の逃亡の距離のひどさを自ら恥じ責めることが出来た。
「水俣-患者さんの世界」を作るまでの五年間に、私はそのような道程を辿らざるを得なかった。そして改めて体験した水俣は私にとって映画のためのやすりであっった。 「何故映画を選んだか?」と問いに答えられない程の現実が日々あるのである。
「患者さんの到った高みに身をゆだねている」といったことを他人から言われるときももある。そう言う人に反論はない。患者さんのもつ明るさとともに、そのうかがい知れぬ煩悩もまだ私の未だ描けない所、つまりは私が未熟だからだ。漁民であり、生括者であり、固有の表現者(うた・おどり・講)であった人びと。その人々を疎外し、その極で毒殺殺害したとき、他所の地、東京からひきずった映画表現とその思想は、どこで真の価値観の変革を求められるか。
戦後二十九年、いまその試しのたしかな地として水俣にあいむかいたいだけなのだ。