水俣から不知火まで(抜粋)
水俣病にかかわりをもちながら
ハンターラッセル症候群とよばれる知覚障害、視野狭窄ぐらいは現実の患者さんから知らされたし、文献的にも知ることが出来た。だが映画にそれを獲得出来なかった。
ある患者さんから「父の死ぬ前の写真(映画)をT先生はうつしていかれたつばい」とか「Ⅰさんは八ミリがうまかで、ようとらした」という話をきいていたし、それをたどって断片的には前々作「水俣」にも使用したが、それが全面的に解放される日を待っていたといえる。裁判のある間は問題もあるのでテレビや新聞などに出さないようにしようと先生方とも話していたとⅠ氏はあとで語られた。嘗く、
その医学的発言が行政の根幹にかかわる立場にあったりする場合、フィルムの管理に個人の判断あったであろう。
医学が私有化されてはならないことは明らかである。同様に史上初めてのこの惨事の実態を秘匿することもあっては ならない、タイミングも政治的に操作されてはならない。
フィルムも、おびただしい写真も、県庁の中に葬られることなく、べきである。しかし、水俣の歴史の示すところそうはなってこなかった、それを「隠匿」といい「密ぺい」といわれでも仕方のないことである。フイルムの公開、フィルムそのものの生命が、いま手を入れなければ、破損しつくすまでになっており、その永久的保存はわれわれでなければならぬ
水俣病にかかわった日本中の学者が二つに分かれ、論争をはじめた時期、つねに患者さん側から物事をみようとす る記録映画グループで、「告発」運動の一員でもあるわれわれの立脚点は、時にある立場の先生にとってみれば異相のものであったに違いない。しかし、今回医学フィルムの公開に関しては、だれひとり拒否した方はいなかった。そのコメントには永い間の見解があり、フィルム、リコピーし、ネガを作ることには協力が得られた。
私は水俣病を放射能被害と同じほど重く見ている。そしてヒロシマ・ナガサキの場合、アメリカは、日本側で撮影した記録を十数年にわたって返還せず、その後も、日本政府の管理におかれているのを知っている
水銀はチッソ工場敷地そのもの、その残滓プール、そして港、水俣湾、ひいては不知火海に、今も推定約一千トンの水銀が拡散しつづけ、それによる微量摂取型の新しい形の水俣病の可能性が叫ばれてきた。一方では申請せずにうめいていた患者さんが次第に申請をはじめ、その数が一カ月に七十名に達し、行政が十教年、それをかくれみのとしてきた認定審査会が機能を失いはじめた。
何が水俣病なのか、医学という符殊な学問の城砦(じょうさい)の中に特殊に管理されている水俣病の病理、病像を患者さんの世界にもちはこび、開きたい
「医学としての水俣病」はこうした水俣病を考える場合の討論の素材として役立てたい
ネガ・ポジタイプのフィルムではなく、反転現像フィルムのため、たった一本のプリントしかなくそれが何十回の試写のため、すり切れ破損し、土砂ぶりの雨のような傷の闇の中で人が狂い死んでいく。映画でしか伝え得なかったであろう。素人の助手らによって撮られたフィルムは、その映画という方法故に、世界的な業績となっている。
イラクは有機水銀剤で消毒されたアメリカからの小麦をパンで摂取し死者六百名、患者は一説に十万名に及ぶといわれる。その地で上映され、とくに科学者に強い衝撃を見たという。文明が人そのものを死に追いやる段階に入った今日、とくに被害は漁民に集中したことを世界と重ねうつして読みとったのだと感じないわけにはいかない。「水俣病の教師は患者さんである」と原田正純氏(熊大)、医学者のそれぞれの医学を、こもごもそのままのべたつもりである。しかし、その対象世界は患者さんであり、その現実の病像はひとつのものであろう。今日、有機水銀による汚染という現実、一つも改められていないというからこそ医学は立論さるべきであろう。