書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 私のドキュメンタリー映画の手法 羽田澄子 <1989年(平1)>
 書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 私のドキュメンタリー映画の手法 羽田澄子

 記録映画とは

 こういったところでお話しするものですから、考えをまとめようとして、まず思ったのは、記録映画というのは何だろうか、と自分に質問してみたんです。実は、この質問を、たびたび自分に問いかけるんですけれども、正直言ってちゃんとした答えができないわけなんですね。なんと言うんでしょうか、自分自身の考えを最後まで問い詰めないところでやめちゃうんです。でも、今日はそういうわけにいかないんじゃないかと・・・。
 で、まあ、世の中には、劇映画があってアニメーション映画があって、それから記録映画というかドキュメンタリー映画があるというふうに分類されているわけですね。じゃあ、何が記録映画か、と考えてみますと、ドキュメンタリータッチであるとか、そういう言葉がありますから、方法論、あるいは方法というように考えてもいいのじゃないかと思ってもみたりするんです。
 しかし、それは一つの表現方法なわけで、ここまでが記録映画であるという非常にはっきりした境界線があるかというと、これは、私は考えてみると、そうした境でもって記録映画は考えられないんじゃないかと思ったわけです。記録映画にははっきりとしたセンターつまり中心といいますか、があるけれど、そこからいろんな手法が、劇映画の演出とオーバーラップしたりする部分までのびていったりして、境界がつけがたいもんじゃないか、と。
 というのは、私自身、自分で記録映画を作っていながら、これが記録映画の純粋な表現方法であると言いきれない部分にまで自分の手が伸びていく場合もあるわけです。そうすると、記録映画って何だろうということを、また、自分に問い直すわけですけども。私、結論から言ってしまうと、記録映画というのは確かに表現方法の一つでありますが、そして、そういうふうに使われているけれども、私は記録映画とかドキュメンタリーといった場合には、それは表現方法というものを含みつつ、その最も奥深いところでは一つの作家の精神というものと関わっていると思うわけなんですね。その精神の在り方と表現方法とが深く関わって、そこで一つのドキュメンタリーというものが存在するんじゃないかな、と。今回、ここでお話ししようと思って考えてみたら、常に自分でそう思っているな、と気がついたわけです。でも、私は理論家ではないので、ドキュメンタリーの理論というものをうまくお話しできませんから、自分自身が、どういうふうにして映画を作ってきたかという中から、ドキュメンタリーがどんなものかということを分かっていただければ、と思うわけです。

 岩波映画入社のころ

 私は女で映画監督なもんですから、いろいろ珍しがられてというとおかしいんですけれども、男の方ならそんなに誰も珍しがらないと思うんですけど、たまたま女なもんですから、一体どうして映画監督になったのかとずいぶんいろんな方に聞かれるんですね。で、そうたずねられると、私もなんとなく具合が悪いっていう感じがするんです。私は、なにも映画を作りたいといって映画監督になったわけじゃなくて、なんとなく自然にドキュメンタリーを作るようになってしまったんです。そのへんが恥ずかしいわけなんですが・・・。
 岩波映画創立の時から岩波映画に入っておりました。じゃ、映画の仕事で入ったかというと、そうじゃありませんで、写真文庫という本の編集で入ったんです。それまで、ものを創造する仕事に自分が携わるというようなことは全然イメージしておりませんでした。だから、写真文庫という本の編集、一冊の本を自分が責任を持って作り上げていくのですが、とてもとまどいながらものを創造するという仕事を自分の仕事として始めたわけです。
 写真文庫といいますのは、写真を使った本でして、名取洋之助さんという、戦前の日本の写真界に新風を吹き込まれたキャメラマンで、日本人としては初めて『ライフ』のキャメラマンになった方なんです。その方が編集長で来られたわけです。そこに、羽仁進さんがおられ、私は、最初、羽仁さんのお手伝いをしておりました。写真文庫は、映像でもって語らしめる、映像からいかなる情報を読み取るか、そのためには、一枚の写真をどこに置き、何枚使って、一つのメッセージをどう伝えるか、ということを考えながら作られた本です。そうした発想で写真を扱ったのは、日本で、名取さんが最初だったわけですが、その名取さんの仕事を通じて、映像との付き合い方といいますか、そのことを私は身につけていったわけですね。
 そうした仕事をしていましたが、岩波映画ですから、その片方で、映画を作っていたんです。本の編集をしながら、こう横目で、映画作りを見ていたわけです。映画を作ること自体、相当に面白い仕事らしいと思ったわけです。二年ほどして、岩波映画もフィルム製作がだんだん軌道に乗ってきてスタッフが欲しくなったわけです。で、まず最初に羽仁さんが映画のほうに移っていかれ、私に「やってみないか」と声をかけて下さったんです。岩波映画に入った時、実は、岩波映画で作るのは、文化映画とか教育映画と、当時、言われていたものでして、いまは、そういうものを全部ひっくるめて記録映画というふうに言っておりますけど、私は、教育映画なんていうのは面白くないだろうから作りたくないと思っていたんです。でも、横でそうした仕事を見てて面白いなあと思うようになっていたんです。
 私はあまり体が丈夫なほうではなかったものですから、映画の現場はとても大変だと聞いておりましたのでシナリオでも書こうかなと思って映画のほうに入ったわけです。それで映画のシナリオを書きました。書いたら、会社の重役が「自分で書いたシナリオが、どういうふうにして映画になるか見たくないか」と言われたんですね。で、私は、もちろん見たいから「見たい」って言いました。「それじゃ助監督をしろ」と言われたんです。
 岩波映画は昭和二十五年に発足したんですけど、その頃は発足したばかりですからメンバーはみんな若くて、学校出たての二十五歳までの人たちが中心になっておりました。いってみれば、誰も映画の経験がないわけです。しかし、非常にユニークだったのは、重役であった吉野馨治さんが、映画は素人でも作れると言っておられたのです。当時の映画界は、一本の映画を監督するまでには五年も十年もたたき上げ、助監督の修業をして、それでやっと一本撮れるということでした。このことは、現在でもたいして変わっていないと思うんですけど。ところが、吉野さんは、西も東もわからなくてというとおかしいですけど、映画の技術を知らなくても自分が何か作りたいと思う気持ちがあれば、映画というものは作れるものだというふうに考えておられたわけです。
 そこで、私は、自分の書いたシナリオの映画の助監督につかされたわけです。映画の仕事に移って半年も経たない時ですね。ところが岩波映画にも映画の世界らしい封建的なところがありまして、助監督というのはこういう仕事をするもんだ、ということは何も教えてくれないわけですね。いきなり「君は助監督をやりなさい」と言ってポッと監督につけられたんです。考えてみますと、その時、私を助監督につけられた監督は本当に迷惑したと思うんですね。ポッと、「よろしくお願いします」と言ってついたわけです。監督が迷惑そうな顔をしておられたのを、いまでも思い出すんですけれども。「あの、私は何をすればいいんでしょうか」と聞きましたら、「君は助監督なんだろう。助監督というのは映画ができるようにすることを全部やるんだ」と怒られたんです。
 助監督の仕事はこんなにひどいものかというのを、その仕事をして、初めてしみじみ知ったわけです。非常に小さな仕事でしたから、私一人しか助監督としてつかなかったのですが、助監督というのは、身近なところからいえば、まず、スタッフを朝起こし、御飯の面倒をみ、出発する手配をし、現場に行ったら、撮影のためのいろんな準備をし、お昼御飯の用意をし、帰る時は、帰る手配をする。その日の撮影のこと全部、助監督が面倒を見るわけですね。私は、世の中にこんなに忙しい仕事があるとは考えてもいなかったわけですね。とにかく、現場に私がいないと、「どこにいる!」と怒鳴られる。で、何かちょっと品物が足りないと「どうした!」と怒鳴られる。そして、その時には、次のロケーションの段取りもしておかなきゃならない。
 その最初の仕事をした時、ついに御飯を食べたという記憶がないわけです。食べている暇がない。スタッフ全員にどんぶり飯というんですか、それを出すんですね。みなさん、食べるのが速いのです。私は、もう、学校時代から食べるのがのろくて、いつも、お弁当食べるのはビリッコになっていたんですけど、映画のスタッフの御飯を食べる速さときたら凄まじいわけです。丼物をとると、私は上にのったおかずしか食べる暇がなくて、一カ月ぐらいほとんど何も食べないで、仕事をしたような、食べもしなければ寝もしないという感じで、それで一日中、怒鳴られ・・・。これが助監督というものか。親が見たら涙を流すだろうとつくづく思いましたね。
 たぶん私は、助監督としては終始、落第だったんじゃないかと思うんですね。それでも、仕事に慣れてくると少し余裕ができてきて、この次はあれをやればと自分の動きの段取りもできてくる。すると、いろいろなゆとりもできてきます。そうなると、その時についた監督が何をやっているかを見ることができるようにもなるわけですね。どうしてこんな撮り方をするんだろう。もっと違った撮り方をすればいいのにと思いながら監督の仕事を見たりしました。そういう記憶がいまだに残っているところをみると、そんなことを思いながら仕事をしていたんじゃないかなと思うんですね。

 羽仁進監督のもとで

 そうしているうちに、羽仁進さんの助監督をやることになりました。そして非常に感銘をうけることになる『教室の子供たち』の助監督をすることになるんですね。それまで、戦前からのベテラン監督さん何人かの仕事についていました。それらの作品での演出方法は、例えば、嵐がやってくる。その嵐はそのまま撮れますけど、嵐を伝える、まあ、ある気象台から次の気象台にですけど、その時、嵐の中を気象台に駆け込んで電話で連絡するシーンを設定したとすると、ドキュメンタリーといっても自然にそういうことが起きるところを待って撮るというのは、なかなか難しいことなので、演出して撮るんですね。それが実に見ていてもわざとらしいわけです。役者がやるんじゃなくて、気象台にいる人にやってもらうわけですけど、慣れないし、緊張してこちこちになり、わざとらしい芝居になるんです。
 ところが、羽仁さんの『教室の子供たち』は、それまでの記録映画の発想と、発想から違っていたわけですね。それまで、記録映画といいながら、シナリオはきちんと書くわけです。シナリオのあるシーンはどういうのかを、あらかじめスタッフ全員に分かるようにですね。だけど、羽仁さんが考えた『教室の子供たち』は、教室という一つの状況の中で、はたして子どもたちがどんなことをするのか、それを見ていて撮ろうという発想があったわけです。算数の時間ならその時間に子どもがどんな反応を示すのだろうか、それを撮ろうと考えるのです。それ以前ですと、算数の時間に、この子は困った顔をするとか、間違いを先生は注意するとか、シナリオで話の運びをきめて作っていたのです。
 しかし、羽仁さんは、教室で起きる真実の姿を撮ろうと思ったわけですね。『教室の子供たち』は、その後の記録映画に大きな刺激を与えた作品なんです。いま見れば、もう、そうした映像をすべての人が見慣れているので、これが新しかったのかと言うかもしれないけれど、当時は、大変に新鮮な映像だったわけです。つまり、子どものこんな生き生きした自然の姿がどうしたら撮れたんだろうとみんな驚いてしまったんですね。はじめ私たちは、子どもの自然な姿を撮るにはカメラがあっちゃまずいんじゃないか、だからカメラは隠れようっていっていたんです。教室の端に幕を張ってそのすきまから撮ろうとしたりもしました。でも、子どもたちに、あ、あのへんがへンだって、すぐ分かつちゃうわけです。私たちも不自由で動きがとれません。これではだめだというわけで、カメラを教室の中にぽーんと持ってきたわけです。最初、子どもたちはカメラの周りに群がって、これはどうだとか大変だったけど、さすが一週間近くなると飽きてきて、私たちが、毎日毎日、教室に行っても、もう意に介さなくなっちゃったんですね。そうなってから撮影に入ったわけです。東京の下町、墨田区の小学校でしたが、二学期から三学期にかけて、その小学校に通って撮ったわけです。一日中、子どもたちをみつめていました。やっぱり、この『教室の子供たち』で記録映画の世界は変わったと私は思っています。こういうふうにして人間を撮ることができるということは大変に勉強になったわけです。

 監督として独り立ち

 その『教室の子供たち』が終わってから、私は、自分の作品として『村の婦人学級』と『古代の美』という、これは三十歳の頃だったと思うんですが二本続けて作りました。で、その監督になった時のことですが、助監督になったときもこれほど大変な仕事はないと思っていたんですけど、監督になったら、こんどは監督ほど大変な仕事はないと思ったわけです。監督は何も段取りをしなくいいんです。スタッフの中で監督が一番偉いんですけど、その偉さがのしかかってくるんですね。いったい、何が大変だったかというと、それまで、私もシナリオをいくつか書いていたんですけど、そのシナリオライターの座標に監督が立っていてはダメなんだ、ということを痛切に思い知らされるんですね。もっと違うところから監督は見てなきゃいけないんだということが初めて分かったわけです。映画の最終的な決定権というのは、監督にあるわけで、全面的に監督が責任をしょわなきゃならない。つまり、作品全体の責任を背負う重さを、私は監督してみて初めて知りました。内心、この撮り方でいいのか悪いのか、ひょっとするとこうかな、と思っても、そんなこと言えないわけですよ。私はこうです、と言わないと、スタッフの人たちがどう動いていいか分からないわけですよね。一つ一つ、びしっと決定していかなければならない。決定する重さを、しみじみと思いました。
 それに、私としても、いままで作られてきたような映画を作るんじゃつまらない。私は、私の映画を作りたいと思うわけです。するとスタッフから、いままでの作りと違うという質問が当然に出てくるわけですが、私はこう考える、と説得しなきゃならない。だから、私自身がどういう映画を作るかを、スタッフに納得してもらうには、真剣勝負のようなせめぎ合いをいくつもいくつもやる場面があったわけですね。そういうのを乗り越え乗り越え、まあ、作品を一つ作り、二つ作りと重ねてきたわけです。
 その二つの作品を終えたところで、私は自分の健康上の問題で頓挫してしまったものですから、自分の作品が作りやすいという状況までいかないところで現場から離れてしまいました。それでも、二本の作品があったということは、私の実績としては貴重なものでした。この二つの作品でも私と現場でケンカしたスタッフが、出来上がった作品を見て「こういうのを作りたかったのか」と言ってくれたわけです。とにかくスタッフとの信頼感を得るという映画製作で最も重要なことの最初のステップを踏んでいたわけですね。このあと私は一九五八年から約十年近く現場から離れるわけです。この十年間というのは、記録映画の世界に大きな変化が起きた時代でした。

 羽仁、土本、黒木監督らの独立の中で

 羽仁さんは『不良少年』、そして『充たされた生活』を撮り、土本さんは『ある機関助士』を作られ、岩波映画を出て『路上』を作るというふうに独立されていったし、黒木さんは『とべない沈黙』を撮られる。それから、東さんも独立して『沖縄列島』を撮られる。それから小川さんは『圧殺の森』を作られるというふうに、岩波映画で働いていた、野心に燃え才能のあった人たちがどんどん独立していった時代なわけです。
 私は、みんなのことを素晴しい人たちだと思ってみておりました。そして、次から次に生み出される作品を仰ぎみる思いで眺めておりました。土本さんは、今回上映されているような素晴しい作品をたくさん作られていますが、ごく初期のもので私の印象に強く残っている、一本のテレビ番組の作品があります。土本さんは一時、岩波映画で「日本発見シリーズ」という各県の風土や生活、産業などを撮っていくシリーズをやっておられ、その一つで佐賀県を撮ったんですね、そのなかに有明海のムツゴロウという魚を捕る場面があります。それを、土本さんは実に執拗に撮ってるんですね。有明海は潮がひいた後、泥んこの干潟になるんです。そこを、ソリのような板に箱と足を乗せて、漁師が泥の中を足でこぐようにしていきながら、カギをつけたヒモのついたさおでムツゴロウをひっかけて、箱に入れていくのです。そうした漁師たちを、土本さんは延々と撮ってるんですね。とてもねばり強く。本当にねばり強い映像になっていたんです。
 土本さんのこと、私たち友達は”ドロちゃん”というアダ名で呼んでいるんですけど、これは土本さんの名前の”土”でもあるのですが、ムツゴロウの泥んこのカットを見た時、これは本当に”ドロちゃん”じゃなきゃ撮れないなという印象を持ち、実に、名実ともに”ドロちゃん”だと思ったんです。その後、土本さんは『ある機関助士』、これはカラーの三五ミリでピシツとした作品でして、次に『路上』を撮られた。これは、あるタクシーの運転手の話でした。
 この頃から、フランスでヌーベルバーグが台頭した影響も大きかったと思いますが、新しい映像感覚というのが出てきたと思っています。羽仁さんは非常に自然な姿の映像を撮ることで新しい面を開き、土本さんは、独特の作家の意識で切り取っていく映像というんでしょうか。それから、黒木さんは非常にデザイン的と言っていいんじゃないでしょうか、そういう映像の作り方を開いたわけですね。
 この時代、私は自分が現場に出ていないものですから、ただただ、みんなの仕事を感心しながら見るばかりという時代で、自分で映画を作るようなバイタリティーもないし、映画を作るようになるなんて思ってもいなかったわけです。指をくわえて眺めているだけでした。しかし、うらやましいという気持ちはありまして、「アー、あんなふうに映画が作れたらどんなにいいだろう」と思っておりました。

 職人としての技術をみがいて

 私がようやく現場に復帰できたのは、四十歳を越してからだったんです。私は現場に出てまたへたばるんじゃないかと、会社は思っていて、なかなか出してくれませんでした。シナリオを書いたり、編集したり、そうした仕事をずーっとやっていました。復帰したときは、人間関係は、また一からやるのと同じようなものでした。いってみれば処女作『村の婦人学級』を作った時と似たような意味で、スタッフの信頼感を得るという作業を四十の時から始めたんです。復帰して、一作、二作は、ある程度つらい思いをしながら作ったものですから、映画を作る仕事がこんなに大変ならもうやめようかどうしようか、と思いながらやった仕事もいくつかありました。それでも、そうやって積み重ねていくうちに、やはり気心の知れたスタッフというのができてきて、だんだん仕事もしやすくなってきたわけですね。
 ところで、私が岩波映画でながい間やってた仕事というのは、いってみれば、職人の仕事なんですね。どういうことかというと、会社で作る作品というのは、ほとんど、スポンサーから発注された仕事が多いのです。つまり、官庁や企業の企画作品なんです。記録映画は上映して回収するというシステムが弱体なので、どうしても製作会社は製作費のつく受注作品を作ることが主力になります。いわゆる劇映画の場合は上映によってもうけを上げ、それによって、また作るという循環を一応しているのですが、記録映画は上映する組織を持っていませんからどうしても、受注作品に頼るという体質から業界として、抜けられないのです。ですから、自分の作りたい作品を自主的に作っておられる土本さんや小川さんたちは、映画を作られた後、上映で製作費を回収しようと大変な精力を使っておられると思います。しかし、企業で働いていた私の場合などは、この企画は大変に面白い発想だから面白い映画になるだろうと思っても、製作資金がないのでまず作ることはできません。作るのは資金を出す発注者がいて、何らかの目的があるものになるわけです。私ども、会社の中の監督、演出家は、会社から「ここでこういう作品を作るから監督してくれ」と頼まれ、そうした条件を満たせる作品を作るということになります。だから、監督をする人のその人らしい作品はありますけど、とにかく、要求された条件を満たす商品を作る腕がなくてはいけないわけですね。職人としてちゃんとした作品を作るということが、まず要求されるわけです。ですから、私は、岩波映画の中で職人としての技術というのを非常にみがいてきたわけです。こういう目的で予算はこれくらいで、どういう人に見せるか。そうした範囲内で作品を作るにはどうするか、といった技術をだんだんと護得していったわけです。
 そこで、技術は次第にうまくなって、ちゃんとした作品を作れるようになってきたわけですが、四十歳で復帰しまして、そうした作品を作っているうちに、やっぱり、私の中で、なんとなく、物足りないというとおかしいんですけれども、そういう気持ちがどこかに出てきたんですね。スポンサーのいる映画ですから、「あんまり奇をてらうようにしないで平凡にやって欲しい」とか、表現技術に対しても干渉を受けることが何回かあったりするんです。そうすると、私としては、作品の全部の作り方をまかせてもらえれば、こうした映画は作らなくてすむと思うことが何度かあったわけです。で、「何かもっと違うものを作りたい。もっと違うものを作りたい」という思いが次第に私自身の中にたまってきたんです。私はすべてにスロースターターなものですから、人から笑われたりするんですけど、その時に思ったのは、つまり、こうした根元的な欲求不満という気持ちに、羽仁さんにしろ、土本さんにしろ、黒木さんにしろですね、岩波映画から巣立っていって自分の世界を開いていった人たちは、すでに十何年も前に、私が今、到達した精神状態にあってですね、自分の道に進んでいかれたんだなあと、やっとその時に思い至ったのです。

 『薄墨の桜』の出来るまで

 やっとここまできて、私はじゃあ、どうしたかということになるわけですけれども、皆さんご存じかもしれませんが、私が最初に作った自主作品というのは『薄墨の桜』という作品なんです。岐阜県の梶尾村という村の山の中に、樹齢が一四○○年余といわれている桜の木が一本あるんです。それを撮ったんですけど、樹齢が一四○○年というのは、よく考えていただきたいんですけども、聖徳太子の時代よりも古いわけです。そうした時代から、その一本の桜がずーっと生き続けて、いまもまだ、花が咲いているのです。そういう桜に、私は偶然のことで出会ったのです。昭和四十四年のことですから、私が復帰して四年目ぐらいのことです。桜のちょうど花時に、偶然見るチャンスがあったんですね。その花、木を見ながら、本当に、こんなに生きていて、こんなにも今、花が咲いている。生きものなわけですけど、こんな生きものがあるってことが信じられない思いがして。しかも、その姿が、えもいわれない不思議な姿なんですね。で、その時に、私は、あーあ、この木一本だって映画ができるくらい凄まじい木だな、とふっと思ったんです。しかし、その時は、まだ自分が映画を撮るなんて思っていませんでした。ただ、この木一本でも映画が撮れる、撮ってみたいと思ったんです。映画が撮れる、なにか、そういう可能性を本当に自分の中に感じたんです。
 実際に、この『薄墨の桜」をスタートさせたのは、初めてその一本の木を見てから三年目なんです。私にとっては初めての自主製作の作品でして、自主製作の映画をスタートさせるということが、いかに、精神的に大変かつてことを、初めて知ったのです。初めて監督になった時も、相当、精神的に大変だって思ったんですけど、土本さんや、黒木さんや、小川さんたちが、どんな思いで自主作品を作り始めたのかということを、私自身も自分で自主作品を作ろうと思った時に初めて知りました。やはり、本当に大きな決意がいるものだったのですね。
 私の作った自主作品は、たった一本の桜を撮ったというものですけれど、それでも、撮ろうか撮るまいかと、大変でした。とにかく、撮ろうと決心するのですが・・・。まず私の良いパートナーになっていてくれていたキャメラマンの西尾(清)さんに、おずおずと言ってみたのです。「実は、こういう桜の木があって、私はちょっと自分で撮ってみたいという気もするんだけれども」というような、非常に歯切れの悪い言い方で、ですね。「どうだろうか」と言ったら、西尾さんが即座に、「羽田さんが撮るんだったら、僕、何でも手伝うよ」と言ってくれたんです。「やろうよ」と言ってくれたんですね。私は、桜の木なんかに興味を持つ人はいないと思ったんですけれど、西尾さんが「やろうよ」と言ってくれた時、私は、この映画、作らなければいけないんだと、思ったんです。
 私は背水の陣をしかないとなかなかことをスタートさせられないんですれれども、人に言っちゃったことは、一種の背水の陣になったわけですね。一人に話せば、その人の周りに私たちの友達がいますから、話が広がっていくわけです。「あの映画、いつ、どうなるの」と人から聞かれることにもなり、私は「やめた」とは簡単に言えないことになります。だから、人に言っちゃったことによって、一種の背水の陣をしいたわけです。そうなると、カメラはどうしようか、フィルムはどうしようか、ロケ費はどうしようか、どうやって現像しようか、ということがたちまち起きてきました。
 幸いなことに、私の主人である工藤(充)が小さいながら、映画のプロダクションを持っていたものですから、工藤がプロデューサーをひきうけてくれて、そこで一六ミリのカメラとフィルムの世話と現像その他、製作的なことは面倒を見てもらうことになって、私は、この作品をスタートさせることができたのです。
 しかし、桜の木を撮りたいというのは、なかなか言いにくいわけですよ。なぜかというと、土本さんにしても、小川さんにしてもですね、みんな、凄い映画を撮っているわけです。反体制的なソシャルドキュメントをみんな自主作品として撮っているんですね。そうした友達の中でですね、私は桜の木を撮りたいと、なかなか言い出しにくかったもんですから、人にも言わなかったし、夫であり、プロデューサーである工藤に言う時も、非常に控え目に言ったのです。「実は、かくかくしかじかの桜の木を撮ってみたいんだけれど・・・」と言ったら、「ああ、八ミリで撮るのか」と言われたんですね。で、私、「あのー、できれば十六ミリで撮りたいのですが」と言ったら、「ふーん、じゃ、うちのカメラを使うのか」ということになって、それで工藤のところのカメラを借り出すようになったとか。とにかく、なかなか周りに言い出せなかったのでした。
 私は、この自主作品を作ることによって、今まで、岩波映画という会社の中で仕事をしてきて、助監督も大変だし、監督も大変だと思っていたんですけど、実は企業の中の仕事に慣れていた自分が、映画を作るという仕事の原点を見失っていたと気がついたのです。自分が作りたいものを作ろうと思いたってみると、製作とか助監督とか、そういう仕事を全部一人でやらなければいけないのですね。つまり、列車の切符買いからロケの交渉からですね、荷物運びからタクシーを呼びに行くのからですね、宿の手配からなにからなにまで、全部一人でやるわけです。で、キャメラマンの西尾さんにも悪いけど、カメラの助手は付けないことにして、二人で始めたわけです。監督とキャメラマンの二人で、全部をカバーする仕事をやったわけです。私は、そこで、本当に映画を作るというのはこういうことかと、しみじみ思い知ったわけですね。
 その時は、岩波映画にまだおりましたから、しかも、会社の仕事が非常に忙しい時期でしたから、西尾さんと私の休日をうまく合わせることが難しい。西尾さんは西尾さんのローテーションで動いている。私は私のローテーションで動いているから、二人の休日が重なることがなかなかないわけです。それで、ようやく三日とか四日とかいう時間をとって、一本の桜の木のある梶尾村に通ったわけです。二人で機械を背負って行ったわけです。機材を山のように背負って桜のところにたどり着く。と、もうそこに来るまでに精力の半分は使っているわけです。桜の木の下に着き、二人で顔を見合わせて「フーッ」とタメ息をついてですね、「やっと来たわね」というわけで、そこから「撮ろう」「あー、撮ろう」というふうにしてやったわけです。自主映画を作るって大変だと、その時に思いました。しかも、一本の桜の木の四季を撮りたいと思っていたもんですから、春夏秋冬、雨の時、花が咲いた時と撮りたくて通った。なにしろ、二人のスケジュールが合わないもんですから、結局、春夏秋冬のひとめぐりを撮るのに二年半かかりました。それから編集に一年半もかかって。時間がないものですから、いつまでも編集がはかどらなくて一年半もかかってしまいました。出来上がったのは、四三分の短い作品なんですけれど、とにかく、手伝ってくれた人たちが、撮影が終わってもなかなか出来上がらないものですから「羽田さん、あの映画、いつ出来上がるの。もう出来ないんじゃない」なんて、いろいろ皮肉を言われたんですけど、撮影を始めて四年かかって、やっと作り上げたんです。昭和五十一年になっていました。

 桜を見た時に震え、神楽を見た時に震えた、それを映画に

 やっと、最初の自主作品が出来上がった時にですね、私がすぐに電話をかけたのが、実は土本さんだったわけです。その時、恐る恐る、「土本さん、私は、そのー、自主作品を一つ作ったんだけど見てもらえるかしら」と言ったら、「見るよ、どんな作品?」と言うから「実は岐阜県の山の中に古い桜の木があるので、それを撮ったんだ」と言うと「フーン」と言って、土本さんは電話の向こう側ですごく不思議そうな声を出しておられたんですね。それから、土本さんに初めて、最初に見せたわけです。その時、土本さんは、せっかく作ったんだから、これで映像個展というのをやろうよと言われて、土本さんの肝煎りで、岩波ホールで一晩、私の他の作品と一緒に、この『薄墨の桜』のお披露目の意味の映像個展をやったんです。これが、私の最初の自主作品『薄墨の桜』が世に出た最初の上映だったんです。
 その時、土本さんが私にしみじみとですね、「僕はどうも分からないけど、なぜ、今、桜なの?」と言われました。私は、「なぜ、今、桜?といわれでも困るんですね。なぜ、今、というわけじゃないけど、私は桜に何かを感じたものだから」と答えたのです。土本さんは「ふーん」と言われただけで、釈然としない表情でしたが、それでも私が自分の作品を作ったことをとても喜んでくれて、いろいろ応援してくださったんです。それにしても、「なぜ、今、桜なの?」と聞かれ、私は、それへの返事にとても困ったんですね。鮮烈な政治意識をもって、社会派ドキュメンタリーを作っている土本さんからみたら、私の精神状況は不可解なものにみえても仕方がないと思うのですが、でも、私はこの『薄墨の桜』を自分で作った後、すーっと自分の世界が開けた気がしたのです。
 つまり、職人としてだけ仕事をしていた私が、自分が作りたいように作れるものを作った。そのことは私にとって、大変な世界が開けたわけですね。で、私はもっと自分のものを作りたいと、その後に思うようになったんです。その時、何を作りたいと思ったかというと、神楽の映画を作ってみたいと思ったんです。それから五年かけて、『早池峰の賦』を作ったのです。その時も、土本さんに「なぜ、今、神楽?」と聞かれました。「なぜ、今、桜?」「なぜ、今、神楽?」と聞かれた質問に対して、実は、土本さんにはっきりした答えを私はしていないのですけど、どうもこうしか言えないのですね。つまり私は、なぜか、桜に、神楽に、感じたんです。なぜ、今ということではなく、私の何かが、そういうものと共鳴したというんでしょうか。樹齢一四○○年の桜を見た時に私の心が震えたんですね。神楽を見た時に、私の心が震えたんです。その時は「日本の情勢がこうだから、今、これをやらなきゃならない」という発想じゃなく、なにか、私はこうやって生きてきたげれども、例えば桜を見た時、私の魂が震えたという意味での出会いをしたわけなんです。そして作ったものが、私なりのドキュメンタリー、と言われるものだったわけです。
 私は、ドキュメンタリーの中に、『薄墨の桜』のようなものがあってもいいんじゃないか、と。まあ、一種の開き直りかも知れませんが、そう思っているんです。ドキュメンタリーの世界というのは、非常に豊かなものであって、「必ず、こういうものでなくてはならない」というのはないんじゃないか、と思っているわけです。私は、土本さんのドキュメンタリーはドキュメンタリー映画の世界のセンターというか中心にあるものだと思っています。で、私のドキュメンタリーは、ドキュメンタリーの世界のどこかずーっとぼやけた中心からずれたところにあるんじゃないかという気もするわけです。でも、ドキュメンタリーは、かくあらねばならないと言って、表現方法を拘束されるものではないし、素材を拘束するものでもない。それから、ものを見る見方だって拘束されるものじゃないと思うんです。映像表現の世界はもっと豊かであって、非常に自由であってもいいんじゃないかと思うんです。だから、私はたまたま自分の魂に響いたものを自分が作りたいように作った結果が、人がドキュメンタリー作品というものになったのです。
 重要なのは、これはドキュメンタリーであるかないかということではなくて、作品を作る人が、何に感動し、何を作ろうとしたかということが、作品のセンターにきちっと存在しているかどうかということではないでしょうか。いってみればあらゆる映画作品に言われることなのかも知れないのですが、ドキュメンタリーの場合でもこのことが最も大切なことじゃないかと思うんです。いわゆる記録映画と言われる作品は本当にたくさんあるわけです。記録映画というか非劇映画という分野で分類されるものは、年間で二○○○本近いものができてくるわけですね。でも、その中で、本当のドキュメンタリーと言われるものは何本あるかと言ったら、数えるほどしかないと思うのです。私が本当のドキュメンタリーと思うのは、その作品の中に作った人の魂があるもの、その人ならではという表現方法を持っているもの、そうした作品が本当のドキュメンタリーじゃないかと、私は思うんです。
 私は撮影する対象、問題、手法などから、ドキュメンタリーとは何かと分類的発想で考えることは、作品を作る側の私たちには何の役にも立たない、と思っています。私はそんなことにこだわらずに作品を考えていくことが大切なのであって、そうすることで、もっと多様なドキュメンタリーも出来てくるし、映像の世界が豊かになるんじゃないか。私は、そういうふうに思っているんですね。つまり、ドキュメンタリーと言われるところから出発しても、今までのドキュメンタリーの手法からはみだしてしまう表現も出てくるし、劇でもなくドキュメンタリーでもなく、既成概念からはみだす表現も可能だと思うのです。これから、私自身がどういう表現方法を持ち、どのような映像の世界に歩んでいくか。これは自分でも分からないことなわけです。誰でも、これから先、自分がどういうふうになるかというのは、分からないことですから、私自身も分からない。いったい、私はこれから後に、何に感動し、自分の魂が何に震えて、どういうものを作っていくようになるのかは、自分でも分からないことです。だけど、私がいま思っているのは、詩人が詩を書くように、絵かきが絵を描くように、私の魂が感動したものを映画にしたいということです。私がものを作りたいと思い、作れる条件のある間は、あらゆる既成概念に束縛されず自由に作品を作っていきたい。そういうふうに思っております。