書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 プロデューサー論 高木隆太郎
プロデューサーの仕事
プロデューサーとはどんな仕事をするのか。そして、どんな仕事をもってすればプロデューサーの仕事を全うしたことになるのか。そのようなことをできるだけ具体的にお話ししたいと思うんです。だけど、プロデューサーというのはとても分かりにくい仕事をするわけで、プロデューサーとは何ぞやということをまずお話ししてみようと思います。でも、劇映画のプロデューサーのように製作費が膨大で、また、シナリオをあらかじめ作り、そして監督や役者を用意して、なおかつ配給を決めて映画をプロデュースするという仕事じゃなく、非常に零細な独立プロダクションの場合、どこへ行っても、プロデューサーは何をするんですかと必ず聞かれます。それはおそらく、大手の映画会社では、プロデューサーという役割が、九九%ビジネスとして成立していると思うんですけれども、私たちの場合は逆に九九%ビジネスではないところに、プロデューサーの仕事が成立しているんじゃなかろうかと思うほどの感じがします。
記録映画の場合には、まず映画の作り始め、あるいは企画のスタートから、いろんな方々に協力をお願いしているわけです。例えば、メジャーの劇映画の場合には、先程言ったように、シナリオライターから役者さんからスタッフ、一応、全部、一つのビジネスのべースがあると思いますけども、私たちの記録映画の場合は、全くそうしたベースのないところで、例えば、記録映画の被写体になるべき内容についての協力や素材の提供をお願いすることから、実際、相談相手となる相手のご自身に出演をしていただくことのお願いをすることもあるわけです。それから、資金の調達ですね。このような映画を作るからお金を借してくれと、銀行に、ビジネスとしての融資を持ちかけても融資は受けられない状態なんですね。だけど、そういうところを一つ一つお願いして協力していただくように歩く。そこで当然、「あなたはどんな立場なんですか」と聞かれるのですが、端的に分かっていただくのに、通念としてのビジネスにあてはめて「一本の映画はトータルに一つの事業であり、その事業を一つの会社になぞらえるなら、プロデューサーは社長です」というような言い方で、相手に分かっていただいたりすることがままある。融資がようやく決まるころに、なかなか大変な仕事ですね、と言われますけど、とにかく、プロデューサー、製作者という立場は基本的にトータルな責任を負う。俺は本来、そういう宿命にあるし、それはどこにもケツの持っていきようがなくて、自らが選んだ責任であるというようなことを思うわけです。
企画を練って予算を立ててスタッフを編制して資金の保障をして、そして映画の製作が前へ前へと転がっていくような条件を整えつつ、そして映画が出来上がったら、それを世に出すと。世に出して世の中で成立させ、同時に資金を回収することにもつながるわけですけれど、というようなことの全体を成立させる役割を持っているのが、プロデューサーという仕事であろうというふうに思います。そして、今までの体験から言いますと「借金で映画を作り、その映画で借金を返す」。そして、メジャーの向こうを張り、金をかけてマスオペレーションに挑戦するのではなくて、費用をかけずに成り立つべき共感と交流の範囲を耕し広げることである。この二つが、私たちの記録映画の製作者の骨格であろうかと、思うようになりました。かといって、私がそれを十分に果たしているような有能であるかというのとは、全く別の問題ですが、プロデューサーとは何ぞや、という時には、そういうことであろうと思います。
借金で映画を作り、その映画で借金を返す
その中で一番何といっても重いのが、お金の問題だと思います。長い水俣病の裁判が終わって補償金が水俣病の患者さんたちの手元に入り、世の中から”水俣御殿”などと中傷や誹謗がなされた経過があったんですけれど、患者さんたちが、どん底の生活、病苦とそこからくる貧窮というものの中で闘い続けた後に補償金というまとまったお金として入った場合に、ある意味での狂い方というのか、そこに思慮分別を求めるのが無理なぐらいになり、そのような状態の中で、ある患者さんが「世の中で何が悪いことをするっていったら、お金ほど悪いことをするもののなかばい」というようなことをおっしゃって、私もつくづくそう思ったんです。お金は魔物だというふうには思います。それは全く違った意味では人の一生、あるいは労働、汗の結晶、あるいは心の固まりであったりする一面も持っているわけでして、そうした魔物のお金を使って映画を作らなきゃならない。そうすると、そのお金のどの顔、あるいはどの価値を使って映画を作れば、それは作ってよかったという映画になるのか。いわば、その辺が要だと思うんです。やっぱり、お金とその価値と、その価値につらなる人間関係という、かなり際どい善悪の境界、そこをいかに踏み外さないでお金を作り、お金を使うかということが、実をいうとプロデューサーの一番の仕事かもしれないと思います。
私の師匠にあたりますが、今、岩波映画の社長をしておられる高村武次さんという方が、私、最初に岩波映画の中でプロデューサーという仕事をする時、「プロデューサーの資格というのは、お金をちゃんと作ってお金をちゃんと使うということが第一に問われる資質じゃなかろうか」というようなことを言われました。それで、それから数年後の一九六八年に、現在は幻燈社という所で劇映画を作っております東陽一という映画監督が『沖縄列島』という映画を作ろうと思っているので、その映画のプロデュースをやれと強要され、私は岩波映画を辞めるんです。別に強要されたから恨んでいるわけでもなんでもなく、どこかですごく喜んでいた面もあるんです。請われるということはとてもうれしいもんですから。その、岩波映画を辞めるにあたって、高村さんに「君は金の苦労をせにゃいかん。会社が苦労するんじゃなくて、君が個人的に苦労しなきゃいかん。それに際しては、金は友人を失うこともある。人間関係を壊すこともあるのだから、その点だけはよく気をつけろ」とさとされたことがありました。
それで、世の中の真っ只中にポーンと出て、一銭もお金のない者たちと、東さんの『沖縄列島』という長編の記録映画を作り始めたんです。その時に、お金と人間関係という高村さんの忠告といいますか、それが心の芯のほうにありまして、メジャーというものと違う、私たちの記録映画作りの原則をどこに据えるかという点で、先程話しましたように「借金で映画を作って、その映画で借金を返す」ということを大原則にしようということを自らにも言い、スタッフでも確認するというようなことがありました。
そして、そのお金を借りてスムーズに返せないという時に人間関係が壊れるのか。それとも、人間関係がさらにお金を通じて深まるのか、これが課せられた宿題であろう、一つの理想であろうと思い、今でも思っています。つまり、命から二番目のお金というものを使わせてもらい、それによって人間関係が深まらなければ、それはやっぱりそのようにして映画を作った、人間関係が切れるような関係で作ったとすれば、きっと良い映画ではないだろうというように今も思っています。
それでもやっぱり、本当に世の中じゅうのお世話になって映画を作っているわけですから、不義理がたまり、そうすると心が自由でなくなってきて、というようなことが放っておけばそうなっちゃうわけで、なおかつそれで一層自由になるという道はどうだろうか。それは毎日の自分との格闘ではなかろうかというように思っています。
そのようなことが、劇映画の、メジャーのプロデューサーと違い、簡単に言えば無手勝流、まあ、いわば荒野の中で映画を作るというようなことの基本的な戒め、あるいは基本的なテーゼというようなことじゃなかろうかと思います。これは、決してプロデューサー一般論ではないかもしれません。開き直って言いますと、私の特殊性、私はこのようなプロデューサーでありますというようなことです。
それじゃ、具体的にどのように映画を作るか、具体的な仕事を実例でもってお話しするほうが分かりやすいと思います。今、振り返って一番どん底のピークだったと思う映画は『医学としての水俣病ー三部作ー』という仕事だったと思います。三篇の上映時間が合計四時間三○分の作品です。その話にふれる前に、東さんたちと『沖縄列島』を作ったわけですが、当時は、沖縄が返還される前でして、沖縄に行くのには外国と同じでパスポートやビザが必要だというんで、渡航手続きをするのにプロダクションの名前がいるという程度で「東プロダクション」としたわけです。この「東プロダクション」で『沖縄列島』をやり借金を返しおおせたら、それで清算して解散するということをみんなで話し合って決めたプロダクションだったわけです。劇映画メジャーに対しまして「映画の製作それ自体が運動だ」と。一つの作品に限って、作ることと観せることを一つの運動として全うしようと決めてやったわけです。だが、観せるための費用が観てもらった収入を上回り、スタッフ全員でアルバイトして借金を返しても一○○○万円の映画製作費の大部分が債務として残った。でも、映画を作り終え、全国を回り、どうも何か思いを遂げてみたら「これがやれたんだから、もう一つ何かやれるんじゃないか」ということもあったんです。そうした私たちの内部的な要因だけではなくて、私の郷里の熊本の人たちが『沖縄列島』の上映にこんなに一生懸命協力したのはお前に水俣の映画を撮らせたかったからだというような、人とのしがらみもありまして、それで、土本と、『水俣ー患者さんとその世界ー』をやろうということになったんです。
そこから、現在に至っているわけですが、その水俣の映画を作るにあたって、記録映画のそれと、劇映画『やさしいにっぽん人』を同時にやろうと、一本目の映画を終え少し野心というのでしょうか、それがでてきまして。劇映画で『やさしいにっぽん人』を、片や、『やさしいにっぽん人』のドキュメンタリーとして『水俣ー患者さんとその世界ー』を撮るというような、いかにも若気の至りといえばいえるようなそういうテーマをつけまして。一方には、劇映画『やさしいにっぽん人』などという、自分たちで劇場のネットワークを持たない映画がそれだけで成立するはずがない。やはり、きちんとわれわれが少しでも自分たちで担いで歩いて上映ができるというような『沖縄列島』で勝手の分かった記録映画との二本柱がないと成立しないだろうという考え方もあったわけです。マイナーの映画製作の要諦の一つに、”作ることとは決めることだ”もあると思いました。
『医学としての水俣病ー三部作ー』の場合
そして一本目の水俣を撮り、どん底という『医学としての水俣病ー三部作ー』の話に戻りますと、この作品は実をいうと三本一緒に作ることになったわけです。それは、日頃、夢見ていた不知火海という海、つまり汚染された海とそこで起きた水俣病事件という一つの、いわば、私は現代文明のカタストロフィーだというふうに思っているわけですけれども、その舞台、あるいは背景である不知火海には営々と続いてきた人びとの暮らしがありますし、それが壊された経過、壊された時代がいわば水俣病事件なんですけれども、それでもあくまでも営々と続いた津々浦々の生活があります。物心ついてからこだわり続けてきたテーマがありまして、私のお袋をずっと見てて、津々浦々の女の業を背負ったそのような海を撮りたいと。これは『不知火海』という映画になるんですが。まあ、あるべき海というか、本来の海というか、その中にいわば水俣病の問題が浮かび上がるであろうし、患者さんたちの本当の立場や信条、逆にいうと優しさがその中からこそ浮かび上がってくるんじゃないかというような、映画としてはかなり難しいだいそれた野心ですけれどもやりたかったわけです。もしかして、カメラを回しても回しても、フィルムを回して映ってこないかもしれないくらい難しいテーマだと思っていました。撮影に入ってからだいぶ経ったある日、私が水俣に行ったらスタッフの撮影助手の一之瀬正史君が、「高木さん、映ってきたみたいだよ」と言ってきた。その感じというのは、一之瀬君同様、スタッフが一生懸命カメラを海に向けていてくれているんだなという感じがありまして、私は一瞬、ホツとしたことがありました。
そのような難しい映画をやろうという時、やはりそれを支える仕事というのがなければとてもやれる自信がない。そこで、これはちょっと不謹慎な考え方かもしれませんけれども、水俣病はやはり一方では非常に医学上の大問題なわけで、しかも、それまで医学も出会ったことのないような大変な病気に遭遇している。そこで、見たこともないことに遭遇した後の医学の対応の過程が科学として問われなきゃならん、それは日本ばかりか世界中の大変な学問資料であろうという考えが当然あると思ったんです。そこで、せめて一時間以内の中編が、例えば病理とか臨床とか公衆衛生的医学とか、そのようなテーマで三本できるとすれば、売って歩けば売れると。そのような映画を片や作って、片や撮っても撮っても映ってくるかどうか分からないという、不知火海を腰を据えて撮ろう。そんなつもりで取りかかったわけです。取りかかるにあたってはいろんな出来事があり、その出来事がいかにも私たちの映画作りの立場を尊重しているようなことでもあるわけです。
例えば、まず第一に私たちの”無名性”といいましょうか。岩波映画というところにいた時は、映画を撮らせて下さいという場合でも、「岩波映画でございます」といえば、どこかでポーンと分かるところがあったわけですが、ちょうど、この映画は「青林舎」と名前を変えたばかりで、「青林舎でございます」といっても、あるいは、その前の「東プロ」で「東プロダクションでございます」といっても、それはどこの馬の骨か全く分からないわけです。それに、どれくらい、確かな仕事をするかという信用もない。映画を撮るにあたり、水俣病の研究者の方たちに協力を要請して歩かなければならない。そこには、やはり看板も何もないところで出会って、一生懸命に話をして、話の中から意図をくみとり、その真っさらな関係の中で協力をするかしないかということが成り立つか成り立たないかということがあるわけですね。ところがやっぱり、世の中というものはいいもんで、たとえ何かの証明書がなくても、真っさらの出会いから人間関係が成立していくことがあるわけです。
当時、水俣病の研究者は熊本大学の先生たちが圧倒的に多いわけですけど、そうした熊本大学の医学部の研究者たちもどこかでは無名性というか、水俣病の研究過程で、有機水銀による中毒であるというようなことをかなり長い時間かけて実験して、それこそ偉い大学の先生ではなくて、一人の、ちょうど私たちが今からこのような映画を作りたいというのと同じように、水俣病の原因を究明していった過程で東京のいわばオーソリティーから、地方の駅弁大学の何が分かるか、というようなことをずい分と言われた悔しさを持っている。まだまだ、その悔しさが過去のものになっていない状態ということでもあったかもしれませんけど、やはり、誠実なやつには誠実に応えようという関係が、本当に嬉しいことに、一つずつ成立していった経過がありまして。なかには、やはり水俣病の映画をやろうなんていうことで、直観的に左翼じゃないかというふうに思われる方もおられ、「大丈夫だろうな」と聞かれたこともありました。とにかく、「あんたたちは、結局、手作りですな」といわれる関係になったりして、全面的に協力をしていただくことになったような経過がありました。
で、私は、半分負け惜しみですけれども、やっぱり基本的に無名性が大事なんだと思っています。劇映画とはいいませんが、メジャーのプロデューサーが、お金がドーンとあって、有名で何か後ろ盾があったりして、あいつがそういってあの人の紹介でこうなれば仕方ないなとか、あるいは、そういう後ろ盾のしがらみだからどんどん人間のつながりが成り立っていくようでは、多分、どこかでダメな映画ができるんじゃないかということを、まあ、ゴマメの歯ぎしりというか、そう思っているわけです。大きな組織では経験できない楽しみだと。そうした”無名性”というもののもつ出会いで、思惑としては究極の夢のような『不知火海』という映画を撮り、片方では内容的にも比較的撮る材料の揃っているという作りやすさ、それから作ったらきっと売れるであろうというふうに経済的支えというようなことも考えて、『医学としての水俣病』を二本のレールとして考えていたんです。
ところが、そうは問屋が卸さないというよりも、逆に、『医学としての水俣病』の映画が大変なテーマだったわけです。これは、まさにプロデューサーの読みの甘さが問われるわけで、大学の研究者の協力は全面的に得られて本当に良い関係になればなるほど、そのテーマの深さと大きさといいましょうか。とにかく、それこそフィルムはもう、後で編集する時に、土本がフィルムに溺れるんじゃないかと思うくらいフィルムが回りました。『不知火海』もようやく撮り始めることになり、プロデューサーとして「作ることを決める」という一つの要諦、志を達成したんですけど『医学としての水俣病ー三部作ー』という映画は当初の思惑の一時間モノ三本というのが、一時間半モノ三本で出来上がったんです。今の大学というところは意外と映画を使わないところで、研究者という方々もどういう訳か知りませんが、映像というものについてどうも認識が足りないんじゃないかと思うくらい使わないんですね。この映画ができあがった後、そのことを痛感させられることになるんですが、大学の講義の時や学会の時にスライドを使うということはよくあるんですけど、映画を学生の教育のために使うということは非常に少ない。しかも、一部が一時間三○分の映画のわけで、どこにも使いようがないわけですね。ですけれども、何とかしなきゃならないわけで。
記録映画の上映システム
三部作の三篇で上映時聞が四時間四○分。それに、この映画のもう一本のレールの『不知火海』も観せたいという、私たちの強い思いがあったわけでして、二つ合わせると七時間一○分になる。それまで『沖縄列島』や『水俣ー患者さんとその世界ー』の上映を通じて、全国各地に自主上映のグループのネットワークも多少は出来ていましたが、とにかく七時間一○分の上映というパターンはなかったわけです。一日で観られない人たちには何日かに分けて観てもらおうとか、いろいろな上映パターンを考えたんですが、『水俣ー患者さんとその世界ー』でお世話になった岩波ホールに相談に行ったところ、高野悦子さんの快諾で、この二本の映画の上映を二十日という長期上映が実現することになったんです。
そこで、私たち、上映館を持たない記録映画の上映システムにふれますと、この岩波ホールで上映収入が確か五二八万円ありました。しかし、上映にあたってのポスターやらチラシ、そして通信費や宣伝も含まれますが、上映にかかる経費がやはり必要でして、この経費が三四八万円かかったんです。だいたい、記録映画の上映会は、上映収入と直接の上映経費はトントンになり、とても製作費のほうまで回らないのが、経験からきた”常識”なんです。この場合、『不知火海』だけで製作費は一、一一一万九一二円かかっておりまして。今、思っても、この年、一九七五年から七六年は本当にどん底でした。先程も言いましたように、歩けば売れるだろうとの考えで、もちろん、営業化しなければ、という思いもありましたが「医学としての水俣病』が、あてにしていた大学関係者にほとんど売れない。この年は暗かった。
一時間ぐらいと考えていた作品がなぜ一時間三○分になったかですが、これはこの『医学としての水俣病』だけではないんですが、プロデューサーとは、と、初めにふれた話がお金ですが、このお金ということには、現場にいるスタッフとの絶えざる”闘い”といいましょうか。そういうものがいつもある。とにかく、記録映画には劇映画のようにシナリオというものがないわけで、撮影に入った頃はまだしも、最後のいわゆる土壇場になりますと、まあ、当然、大詰めという状態ですから、現場から「あと、フィルム、五○○○フィートくれ」といった声が届いてくるわけです。そこでいつも腹を立てるのはプロデューサーなわけでして、五○○○フィートのフィルムを現場に渡すということはネガ現像、録音、そして、もちろんスタッフを拘束する日数もかかることになり人件費も膨らんでくるわけでして、現場の「フィルム」という声とは違う、予算というものを考えるわけなんです。現場はもうひたすら、これを撮らないと映画にならないという対象しか頭にないわけですから。そこで「なぜ五○○○フィートなのか」と現場に入るわけですが、やはり、いい仕事をしないと借金は、返せないわけです。私の原則は「借金で映画を作り、その映画で借金を返す」ということがありますし、現場の、しかも監督に分があるわけです。プロデューサーは負けるといいますか、記録映画のプロデューサーの宿命といいますか、業のようなものなんです。撮れたもので勝負といいますか。まあ、とにかく『医学としての水俣病』を撮り終えた後の、誤算の経済的ショックは大きく、この時で、株式会社の資本金も入れて私の借金の累積は四五○○万円を超えていたんです。
そこで一組一四五万円の『医学としての水俣病ー三部作ー』、まあ、このプリント販売を企図したわけですから、一応のところまで売り切るまでは自主映画を作らないことにしたんです。暗かった。とにかく売れませんでした。環境庁がワンセット買ってくれたというようなことぐらいで、その後、約半年間売れずに暗黒の正月を迎えるというようになりましたけれども、その正月が過ぎた時に急に京都大学からワンセット注文したいという葉書がきまして大変な年賀状だったわけです。実をいうと、こちらがびっくりして、どういう経過で注文をされたんだろうかということを大学に問い合わせたら、病理学の翠川修先生が注文してくれと言われたから頼んだということだったんです。翠川先生に会って、もう藁にもすがるような思いで会いたずねましたら、実に簡単な話で、「大阪であの映画をやっている時に学生が見なきゃならないというんで見に行ったんだよ。ところが君、あれは大変な学問上の仕事じゃないかね。だから大学に言って予算をとって買うことにしたんだよ」と言われるんですね。そんなことが簡単に出来るんなら、どこの大学だってそうしてくれりゃいいじゃないかということになるんですけれども、まあ、そのことに大変、元気づけられ、その年はとにかく全国の大学の医学部への行商も始めたんです。
ここでまた、プロデューサーとは何ぞや、ということになりますけど、このプリントを今、売って歩いている行商が、この映画の製作の第一線だったなという感じを掴み始めてから、やっと元気が出ました。元気が出ると、どこへ行ってもまず合計で四時間三○分の映画、三本で一四五万円という金額、そこでどこの馬の骨か分からない奴がそんな映画を担いで買ってくれと言いに来たというのに、どこの大学の教授室からも一回も門前払いもうけませんでした。一生懸命に話し、一生懸命その話を聞いてもらえたけど、「京都大学は例外だよ」といわれるんです。プロデューサーとしての製作の第一線は、行商の現場だなと思いました。
成果というのは、そういう行商の中から勇気を逆に拾い直していったということであろうと思うんです。当初の予算が一本五○○万円で一時間モノ三本で一五○○万円と思っていたのが『不知火海』も含めて、その三倍の四五○○万円というような費用がかかってしまったわけですけど、それが、行商での一喜一憂ですが、応援に守られてというか助けられて三年、四年の中で二十数セット売れました。費用その他全部回収したとは言えませんけど、あの映画を作らないことを決めた暗黒の正月から考えますと、とにかく額面上の元は取ったということがありまして、これは、私の大変に貴重な経験になっているというふうに思います。
作品を世に生ましめること
劇映画や岩波映画というしっかりした背景や”有名性”とは全く無縁なマイナーの道を歩いてきまして、やはり言えることは「俺は上映の引き受け手がなければ作りたい映画が作れないようなヤワなプロデューサーではないぞ」という気負い、そして、人と同じで、作品は世に生まれ出なければならないということだと思っています。作品を世に生ましめることがプロデューサーの第一義であると。そして、お金でいいますと、絶対に夜逃げをしないことを決め、常に借金と同じ額の生命保険を掛けること。それが、作品によって一つの共感と交流の範囲を耕し広げていくことを生み出していくのではないだろうかというふうに思っています。非常識がどこかで成立しえる世の中であるようですし、もっともっと今はしんどい世の中になりつつありはしないかと思いますけれど、基本的に私たちの基本的な映画作りというのは、細流は決して大河にならないで、なろうと思つてもなれる能力がないのかもしれませんけれど、とにかく、細流で野山を流れ流れているようなことで、何とか映画を作り続けていきたいと思います。
現代の科学技術で、最近、「ボインジャー」というアメリカの翼の長い、ひょろ長い胴体の飛行機が世界を無着陸で無給油で一周した新記録が、つい去年の暮れ、達成されたというニュースがありました。細い流れということと、どこかで私の心の中では一脈通じるんですけれども、その「ボインジャー」じゃありませんが、飛行機でいえばどんどんスピードが上がって、いわば超音速というところまで民間の飛行機ですらもいくという、そういう技術の追求が続いている。ますます技術というものが巨大化していっている。私たち、そうした現代文明を全部否定するということはできないと思うんですけれども、例えば、翼の長い、それもかなり柔構造の翼がフラフラする飛行機で二人の男と女の人がゆるやかに世界一周する。そうした技術のチャレンジが現代の科学と技術であるならば、そのような技術のほうに加担したくないというふうに思います。これは、水俣病センターの相思社の柳田耕一君という人が「今の時代に逆ネジを回したい」というような言葉で表現したものと通じるんじゃなかろうかと思います。
まあ、期せずして水俣の映画を作り、薬害の映画を作り、水問題の映画を作り、原発問題の映画を作り、というふうにしてきましたけれども、最初から「こうしよう」という方針があったというよりは、何となくそういうような映画を作ることになってきて、それを振り返ってみたら、どこかやはり一貫した何かが私たちにあったんだと思います。そのようなことを、流れを太くしないで今後もやっていきたいと思います。