書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 記録映画の録音 本間喜美雄 <1989年(平1)>
 書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 本間喜美雄 記録映画の録音

美を意識させる音の採り方

土本 御紹介します。青山録音センターの本間喜美雄さんです。最近作では「はじけ鳳仙花」の現場録音とミキシング一切をやってもらいました。録音歴三十年で、山本薩夫作品などの助手をふり出しに、最近ではドキュメンタリーまで守備範囲の広い方です。現場の話などをお聞きするのに、話の引き出し役にたのまれたわけですが・・・。

本間 録音の本間です。

土本 本間さん、劇映画の録音と記録映画の場合の違いといった点から。

本間 劇映画はあらかじめ脚本が決められており俳優さんがそれを演じるわけですから、録音機材及びマイクの位置などは脚本や演技をみて設計できます。むろん、画面に出しません。
 問題は記録映画やドキュメンタリーの場合なんですけれども。音を採るということは今では誰にでもできる事ですよね、これだけいい録音機が普及してますから。ただその採り方・心得です。マイクや、カメラもそうですけど、誰かにそれを向けるということは、相手にとっては武器を向けられたような気持ちにさせますよね。向けられた相手にとっては本来非常に辛いことなんです。だから、なるべくマイクを直接に向けまい向けまい、それでいていい音が採れないものかと、いつもマイク・ポジションの調整に気をつかうわけだけど、そこがとても難しい。
 「映画を撮りに来ました」といって喜ばれるならいいんですけど、ドキュメンタリー映画の場合その逆のほうが多いのです。撮る側と撮られる側が充分に納得というか信頼関係の足りないうちに、現場で撮影部はカメラを立てる、録音部は鉄砲のようなマイクを相手に向けるようにセットしてしまう、これでは向けられたほうは非常に怖いことになって当然だと思うんですよね。記録映画の場合いつも思うことは、相手がどこまで気を許し、どこまで自然な会話ができるか、でしょう。マイクも心理的には相手の人にとっては武器に見えかねませんからね。
 土本さんとやった『はじけ鳳仙花』の場合はそのことは解決されていたわけですが、マイクの位置については考えました。映画で見た人はマイクがどこにあるか分からないと思う。画面で二人が動きまわり、勝手に話し出したりしてますからね。それを追うカメラはどこにあるのかつてー。今、テレビのインタビューなんかで、胸のえり元あたりにポツと小型マイクをつけさせますよね。これはぼくは観客に対してとっても失礼だと思うんです。画面の中の声は自然に意識せずとも耳に聞こえてくるもんであって、あえて、ここにマイクが付いていますって見せてしまうのは映像的に言って、非常に不愉快なんですよね。あらかじめ準備できるシーンの場合は出来るだけマイクは目立たないほうがいいと考えるんですが、そのへんが実際の現場になると難しいんです。要するに音を採るにしても”美”を意識する必要があるということです。『はじけ鳳仙花』の場合、富山妙子さんのアトリエの中だけの世界で、そこでのインタビューや作品製作だけの撮影でしたね。実は撮影前に半日ぐらいアトリエでの土本さんと富山さんのふだんのやりとりを正面から見ていたんです、どうやってこの会話の音を採ろうかと。はっきり言えば、土本さんにマイクをもってもらって、彼女に向けていてもらえばインタビューはクリアに採れるんですが、それではあの映画のような結果にならなかったと思うんです。全く自由なやりとりの録音にはですね。
 それで、富山さんの着ていた上っぱりにマイクを埋め込むことにしたんです。ワイヤレスの小さなマイクを袋をつくって縫いこんだんですよね。そこをたたいたり、手がふれたりするとボツボツと音が出るんですけど、そのような事に気をつかえばオーバーにいえば心臓の鼓動の音まで聞こえてくる時もあるわけです。その音がとれた時は「しめた」と思うんです。

土本 ともかく動きよかったというかやりとりを自然に出来ましたね。僕のイジワルさもまるだしになりましたけどー。

本間 土本さんと富山さんが日本憲兵の貌をどう描くかをめぐって低い声でやりとりしたり、絵について論じあうところがありますね。もちろん土本さんにもマイクを縫いこみましたけど、実はステレオで採っているんです。土本さんの声と富山さんの声を分離できるようにですね。何故そうしたか。つまりあとで、どういう編集方法になるか分からないからです。僕がミキシングするとき、土本さんの声だけを大きく聞かせる場合もあるかも知れないし、あるいは要らなくなって消す場合もあると思ってステレオでそれぞれに分離して録音しているんです。その他にもう一本マイクを使いました。アトリエ全体の効果音や仕事の音、手先の動きで出る音、リトグラフの印刷機の音やインクの音などを、いまはやりのガンマイク(超指向性マイク)で同時に採っているわけです。これは編集されたあと、音の処理の段階で非常にやりやすかった。つまり、録音の現場で八○%、音の処理が出来ていたという感じで、あとは音楽のことを考えていればいいと思っていました。

土本 対話のほかに、吐息とか、うめきとか、木炭のコンテで絵をデッサンする擦る音までがカツチリとシンクロで出ていましたね。臨場感というよりも、さらに音としての表現がありましたね。

本間 そうですね。

記録映画における同時録音の重要性

土本 ところで、僕の場合、同時録音のシステムを手に入れたのは一九七○年代の前半からです。何しろ高価なものなので。ですから『水俣ー患者さんとその世界ー』の頃は、音と絵が別々だから、声と唇が合っていないんです。カメラは回転ノイズがすごいので、カメラのやすんでいるときに同じ内容のことをもう一ぺんいってもらうように水をむけるとか、つまり現場では音と絵とが収録にあたって矛盾しあうわけです。
 岩波映画の創立者のひとりで、吉野馨治という戦前からの名キャメラマンがいましたね。又聞きですが「どうして劇映画から科学映画に転じられたのですか」と聞いたら、「トーキーができてからカメラは非常にやりにくくなった。マイクが優先して、科白を採るのにマイクが前に前にと出る。そのマイクが映らないようにするため、カメラのフレームがどんどん制限される。ちょっとパンしてもマイクがバレる。トーキー以前のようにカメラが自由闘達に動かせなくなったんで面白くないからやめた」というんですね。劇映画の世界でもカメラとマイクの絶えざる競い合いがあったんですね。

本間 むかしはフィルムの感度も悪いし、マイクもよくないし、相互に自由にできなかったんですね。今は機械が進歩していますから。それについ十年ほど前までは記録映画はやはり「絵」が主体の世界だったんじゃないですか。

土本 そうですね、僕が記録映画に入った頃(一九六○年代前半)は絵にナレーションをかけ、音楽を入れれば出来上がりというふうでしたよ。

本間 大部以前から世界的にシンクロでない記録映画は相手にされませんでしたね。あるプロダクションで製作した長編記録映画をヨーロッパの映画祭に出した。出来ばえがいいのでノミネートされたんですが、いざ審査となったらシンクロしていないというので除外されたという話を聞きました。日本はかなり音の扱いは後れていたんですね、国際的にみてですね。

土本 僕の『水俣ー患者さんとその世界ー』もシンクロしていないため、つっこんだ批判を受けました。この言葉がこの表情の中から語られたのかどうか、といった厳密さが。優れた言葉であればあるほど疑われてしまうんです。二回観られるともう「これには嘘がある」と指摘されかねないんです。

本間 言葉の表現はたしかにその厳密さを求められますね。しかし音一般はまだ表現の方法がいろいろあると思いますね。
 第一条件は主題の音声をちゃんと採るかどうかです。それがあれば画面の他の音は表現的に創れるんです。よく言うんですが絵の中にある音、例えば自動車や電車の動いているときの音は誰でも採ります。停まったときも停まったままの音を採っている。「停まっているときの音」や「絵」に映っている日常の音は皆想像がつくわけですよ、だから「停まったときの音にわざわざ神経を使わずに!」というんです。「その時には画面に映っていない周りの音に神経を使え、何かあるはずだ、そのときに耳にする音が大きなテーマになる場合が多い」「絵に映っていないものの音が加わることで絵に広がりが出るし、もっと深さや奥ゆきが出るはずだ」とね。絵に音が加わっていく、つまり想像力をよびおこす音を探せというわけです。そのためには、あらゆる状況を想定していろんな種類のマイクを準備することが必要です。そういうのがこれから大事だと思いますね。

録音部はゆたかな音を採ることにある

土本 僕は少数スタッフで、つまり予算がないので録音部なしでロケしがちです。ですから自分で録音もします。そうするとテープの残りの長さが気になる、一方でマイクが手元にあるため、質問の声がバカに近くなったり、ついにマイクをさし出したまま質問したりすると、何か遠くの声になる。これでいつも録音ダビングの段階で怒られますよ。

本間 日本の場合、録音部というのは・・・なんていうのか、裏方さんは裏方さんでいいんだけど、現場で刎ねられるというか、カメラや照明からですね。依然として画面本位なんですかね、録音部の力についての認識がスタッフの中でも暖昧なんです。そんなふうに対されて、我慢できないとき、ぼくは喧嘩してやめてもいいと思うんですよ。音を採るには機械があれば採れるわけです。ただ音を採るだけなら。本当の音、まるごとの昔、表現ゆたかな音を採るのは録音部だと思うんです。監督の現場での要望以上の音が採れるかどうか、こちらは監督がどういう編集をしようと、どんな音を求めようと、音を出していけるーそうするには録音部としての設計や準備が要るわけです。それをよく分かってもらえないとね。
 人間の声って、その人の肺活量の大きさ小ささでも違うんです、その人その人で。声が小さいとかカン高いとか、いろいろある。相手の声質によってマイクをセットする場所が違うんです。どうベストの声を採るか、できるか、と。

土本 なるほど、ナレーターの場合でも、ですか。

本間 この人は息の漏れがつよくて、マイクをふいたようになると思えば、マイクポジションを上にして口元にむけたりですね。それから唇のピチピチをどうするかとか。ささやくようなときは、口の正面ではなく横においてみるとか。怒鳴るときは怒鳴るときで、口とマイクの位置を変えるとかね。だから声を採る段階でもうミキシングの作業が始まっているわけです。

土本 話は変わりますが、今回『はじけ鳳仙花』のなかで身世打鈴(身の上ばなし)の歌という富山妙子さん原案の指定がありましたね。でもその原曲はなかったわけで、あわてましたね。そのとき本間さんはふしぎな音律のテープを用意しておいてくださった。それに合わせて李礼仙さんが即興で節まわしをつけて成功した。あれには驚きました。

本間 あのテープはスタジオのスタッフが韓国旅行のときあつめておいたものでした。いつか役に立つと思って。
 身世打鈴は詞ですよね、だから詩の朗読なら問題はないが歌となるとリズムですよね。歌ということでいくとちょっときつい。メロディーではどうも違う。で、あのテープは韓国の朝鮮語のお経のテープなんです。お経ですからタンタン、タンタンというリズムがある。で、李礼仙の耳にイヤホーンをさして、リズムをとってもらい、そのリズムに合わせて詞をつけてもらったー彼女が詞を出したいときに出し、休むときには休みーそれが李礼仙さんでうまくいきました。あれは難しいですよね。

土本 それにしても、マイクは鼻息まで気にするわけですか。

本間 マイクは一番、風に弱い、風と振動に弱いですから。よく注意していても風のノイズが入ってしまうんです。現場で突然、風の吹き出すときがあるわけですよ。そこで風防(風よけのアタッチメント)をつけるんですが、自分の体もつかいます。自分の体の向きでうまく風を切って(防いで)おけば、かえっていい、きれいな風の音が入ることもある。レシーバーでテストをしますが・・・。
 風といえば、『風』という富士フィルムのデモンストレーション用フィルムを見たことがありますか?あれは嵐の中の砂丘とか台風の波打つ港とか風のイメージばかりで綴った作品ですが、あれは現場にマイクは一度もいっていないんです。たとえ行っても、録音不能ですから、風がつよくてですね、全部擬音で構成しました。
 例えば砂丘の砂と風ですね。畳表を買って来て、そこに砂と米と小豆でしたか、それをのせて扇風機で吹かせるんです。もちろん扇風機の風の音も計算に入れるんですけど。それを画面の砂の流れに合わせて砂丘の傾斜の風音として流すんです。これは成功しました。
 風に吹かれる落ち葉の音は、うちの助手が、スタジオ近くの明治神宮の森に毎日行って落ち葉を拾ってきては糸でつないで吊して、遠くから扇風機で、サラサラ、サラサラとね。そんなことを暇をみては毎日やっていて、バカじゃないかと言われたりして。
 波濤の音といいますか、荒波が岸にぶつかる音です。ドドドってね、あれです。それを出すのに、皆さんが着ている洋服の裏生地ですね、あれを裂いて作ったんです。裂く音をいろいろにとってそれを六分の一くらいにスピードを落として作ったんです。砕ける波はバケツに粉石けんを入れて泡立たせ、それのつぶれる音でね。これは技術展示会等でのデモ用作品として、今でも見られるようです。

映像と音楽の相互作用

土本 ところで映画の最終段階は録音ーミキシングですね。セリフ、音声も付いている。効果音も入っている。そして、音楽・音響も用意してミキシングに入るわけですけど、音楽の扱いが僕にはいつも迷うんです。ドキュメンタリー映画の場合ですね。

本間 まず、音楽を映像のBGM(バックグラウンド・ミュージック)として使うんなら無いほうがいいですね。そうした音楽は成立しないと思うんです。作品のテーマに合った音楽の場合、それをどんなにしぼったボリュームで入れても、合った音楽なら生きるはずです。音楽の録音の時ー今回の『はじけ鳳仙花』もそうですがーラストの音楽はピアノとシンバルですが圧倒的ですよね。それをダビングするとき、自分の耳というか、リズムというかそれで音楽をミキシングするわけです。ともかく自分のリズムと呼吸が合わないということは、観るほうにも合わないと思うわけですよ。自分のリズムがいかに大事かということですよね。
 音のボリュームを単に上げたり下げたりすることだけなら簡単なんです。ところが音を絞るということはものすごくきついんですよ。その絞りー自分の呼吸とリズムが合っていてはじめてどんどん、深く入りこんでいけるんです。

土本 音楽が高いと画面が見えなくなってしまうことってありますよね。『水俣の図・物語』の絵の分析とパノラマのシーンにほとんど三○分近くの音楽を武満徹さんにつけてもらったんです。全編いたるところに音楽はありますが、ここのシーンは石牟礼道子さんの詩も重なるところです。詩の場合も音楽の場合も絵にとらわれず詩人、音楽家それぞれ自由に想を練って創ってもらいダビングのとき、はじめて絵と音声と音楽をミキシングしたんです。驚くほど、たし算ではなく掛け算の効果が出てびっくりしたんです。絵をたどるカメラワーク(瀬川順一)と音楽の転調が偶然ぴったり合ったりして作曲家もその一致性は意外だったようです。ところが音楽が前面に出る部分は絵が見えなくなり、音楽が絞られると絵がうき出て、眼で画像をたどれるーこれは不思議な経験でしたね。

本間 とくに文字、字幕の場合はそうですね。『はじけ鳳仙花』のエンディングで映像のシーンはある程度のボリュームでいっているけど、絵が終わってスタッフ・タイトルがローリングで出る字幕だけのシーンではかなり抑えているはずなんですよ。文字が読めなくなるというか見えなくなっちゃうので。抑えても音楽は生きているんですね。気持ちよく終わっているはずです。

土本 なるほど。それだけ音楽はすばらしいというか、同時にこわいというか、いつも記録映画における音楽ということで悩みますね。

音を表現にまで高める

本間 メディアによって録音というかミキシングは違います。劇場上映のフィルムとブラウン管を通じて観られるテレビの場合は全然違いますよ。テレビは家庭の受像機で、そのモニターで聞きますから、大きい音と小さい音の比は六対四ぐらいでないと小さい音が聞きとれなくなっちゃうんです。例えば劇場用フィルムや、とくにCMの場合、八対二ぐらいの音量の差があってもいいんです。やはり劇場の場合は大きなスピーカーで席に大勢いて音を吸収しますから八対二の割合でも高音も低音もでるわけですよ。静かな音はちゃんと静かな音として聞きとれます。テレビの場合は自ずと音のレベルがきまっています。家庭の中で聞くんで、そんなにボリュームを上げて聞くわけではないから、低音はほとんどが消えちゃうんです。それで「音楽が聞こえない」とか苦情が出るわけです。
 話は少しそれますが、テレビの仕事で面白い実験をしてみたんです。急に僕にまわってきた仕事なんですけれども。あるテレビ局の仕事でしたが二○メートルの風が吹いている中で、楽器の音を奏でるという造形作家の撮影です。その録音なんです。なにしろ風速二○メートルという条件下で音を採るということでその局の録音部の全員が断ったらしいんです。で、僕んところに話が来たんですね。で、いいよということでやりました。絵は風が吹きあれているわけ、しかしその楽器の音楽はスキツと入っているのを見て、局の部長がすっ飛んできて「どうやって採ったんですか」って訊かれたわけ。
 その時あらためて思ったんですけど、皆、機械(録音)に頼っているんですよね。それは確かにそうなんですけど「二○メートルの風が吹いていて、音なんか採れるわけがないじゃないか」とすぐそういう発想の仕方をやっちゃうのね。僕は集音マイクとスコップを用意して、楽器の真下に穴を掘って、そこにマイクを埋めたんですよ。そのマイクの上に楽器があるわけです。風は地上を吹きぬけるから風のボコボコいう音なんか入らないわけです。三○メートルの風でも全然関係がない。で、楽器の音はどんどん入ってくる。何というのかな、機械は使い方次第ですよ。マイクだって古い型のでしたけど、要は応用力だと思うんです。

土本 そうか、なるほどね。テレビ時代になってから、映画のようにフィルムと音を別々に採って、コードでつないで回転数をシンクロさせるなんて苦労はないから、ビデオ撮影のドキュメンタリーはシンクロが当たり前になってしまった。確実にしゃべりはシンクロしていますよね。ところが音が表現にまでなっているか、あるいは胸をうつものになっているか。例えば耳元のささやきとか唇のつぶやきまで採れているかどうかというと、そうなっていないことが多いですね。羽田澄子の『痴呆性老人の世界』なんか小声とか内緒ばなしとか、老人の耳元で「おしつこ大丈夫?」といったささやきですよね。それが実によく採れている。何かモジョモジョ言っているといったシーンではなくて、モジョモジョの中身をきちんと採っている。そうした現場録音が基本でしょうね。本間さんは最終ダビングの責任を負っておられて、どういうことを気にされますか。

本間 音というものは仕上げになってくると自分に対して心理作戦を課すんです。三○分の作品なら三○分いっぺんにやっちゃう。人によっては五分ぐらいにロールを分けますけど、僕の場合、細かくすると、テーマをがっちり自分で押さえたという感じがなかなかうまくいかないんです。五分きざみではぶっ切れそうな気がしてですね。本番というのは一回しか利かないですよね、二回できないんです。それで、あえて一気にいくように自分を心理的に追いこんでいくわけです。

土本 どんなにバリエーションの多いフィルムでもですか。

本間 そうですね、本番という場合、つまりダビングの「本番!」というとき、僕はもうミキサーという立場から離れて、もう観る側、聴く側にまわっているんですよね。だから一回しか観ないというのかな。僕は、「間違いました、失敗したんで、その部分から、つまり途中からの分をやりましょう」というのがちょっと出来ない。一回というのはそういう意味です。テストは何回でもしますよ。しかしこの”三○分”は一回しかないって思うわけです。どこかに自分のごまかしがあったら絶対に本番に行かない。だいたい失敗するのはロールの頭のほうでしくじっているんでね。もうロールの三分の一いったら、あとはぶっ通し本番です。本番は、ともかく一回だけ。

土本 ミキシングしながら、観る人の気持ちを先取りしているわけですか。

本間 観る人は一回ですからね。