書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 別なリズムを創りだす 高橋悠治
映像に音楽をつけるということ
記録映画に音楽をつけるというのはどういうことか。具体的にどういう作業をするか。音楽の側からいうと、記録映画でも劇映画でも、そんなに変わらないと思いますね。現実はまことにきびしいことなんです。映画を撮り終わって、最終段階に入っている。そこでラッシュを見て、数日のうちに作曲をして録音をして曲を作ってしまわないと、もう、その映画の公開日がせまっているのが普通なんですね。映画作家は劇映画にしろ、記録映画にしろ、一年くらいかけていろいろやっているが、こちら側が使える時間というのは一週間、よくて二週間とかね。だいたいそういうことですから、普通に考えれば、いい音楽が出来るわけがない。だから、映画を見て音楽が印象に残ったなんていうことは、まずなくて当然だと思うのです。
映像に対してどうすべきかという理論はない。あるいは、あっても役に立たないですね。結局、映画は一つ一つちがう。それに音楽をつける。だけど、音楽をつけるという言い方も、期間ということ以上に、ある種の規定なわけでしょ。なぜ映像が先に決まっていて、音楽をその映像に合わせなければいけないのか。現実問題として、映像が出来ている、それを見て、音楽を考えるということになるわけだから、それは仕方がないとすれば、つけ方が時によってさまざまというふうにならないと、実際にはやっていけないわけです。ラッシュというのは、もちろん音がなにもなくて、ナレーションもなくて、映像がただ音もなく回っているわけですね。それを見ていると、たいがい眠くなって寝てしまう。こういうことは、本当は言わないほうがいいのだが、実際はそんなもんですね。それで、その眠いなかで、どこに音楽をつけるかというのを決めるわけです。
二十五、六年前、武満徹さんの助手を二年くらいやっていたかな、僕は。そこで、記録映画や劇映画やいろんなことをやって、楽器の使い方とか音楽の録音の仕方をいろいろ実験したりしたわけですが、その時に、武満さんについていて、大変いいと思ったことが二つあったんですね。一つは、映画監督が「ここに音楽をつけてくれ」という箇所の半分くらいを断ること。このことは、とても必要になってくるんですね。なぜかというと、音楽に求められていることは、情緒を盛り上げるとか、そういうことが多いのね。ところが、それをやってしまうと画面がすごく安っぽく見えてくるということに気づいていないのが普通かな。そこで、ここには音楽はいらないということを強調して、やっと映像が自立していく。それが音楽家の仕事なわけ。
それともう一つは、作曲料をまけないこと。これは、なかなか出来ないことですね。一回でも、作曲料をダンピングやると、もう、そのようなランクの音楽家になってしまうわけですよ。
さて、どこに音楽をつけるか。コマ割りのカット表というのをもらう。このカット表というのは何分何秒といくつのコマというふうに書いてあるわけです。それを計算して(何コマが一秒だったとかいうことは毎回忘れるわけだけど)なんとか計算して何秒の音楽が必要なのかを割り出す。最近は、例えば、坂本龍一さんは、その部分のビデオをもらうわけね。ビデオをかけながら時間を計り、シークエンサーでテンポを割り出して、それに合わせて音楽を作ってしまう。そうすると、ピツタリ合うわけですね。ピッタリ合うことがいいことなのかどうかは別の話なのですが、そうしたやり方は作業としては楽になるわけです。というのは、普通、ラッシュを見たら録音の日までは記憶に頼って、あんな映像だったかなと思いながら音楽を作るのが実際の作業なわけだから、ビデオを見ながら音をいろいろ動かしてみるというようなことができれば、いろいろなアイデアも浮かんでくるだろうしね。
映像のリズムと音楽のリズム
次にカットに対してどういうふうに音楽をつけていくかになるのですが、カットというのは映像のリズムなんですよね。例えば、カメラが動いていく。そこでパンする時とかカットする時とかね。それによって映像のリズムが変わってくるんですよ。そのリズムに対して、どう音楽のリズムをつけていくのか。音楽のリズムというのは、例えば4ビートというようなリズムでなくて、このカットにはこんな感じの音楽、次のカットには違う感じの音楽、その音楽の変わり目が映像の変わり目と合うか合わないかというようなことがあり、そこで、映像のリズムと音楽のリズムの間の”対位法”というようなものができる。エイゼンシュテインの頃から、「映像のモンタージュ」に対して「音のモンタージュ」があるといわれてきた。これは、映像と音楽の二つのリズムの交錯が映像を見る人に生理的に作用することを言ったと思うんですね。
一九四○年代ですけど、ハンス・アイスラーとアドルノが共同で書いた『映画音楽の理論』という本があるんです。アドルノは映画の社会判的な面を書いて、アイスラーは音楽のつけ方を書いているわけね。現在、アイスラーはブレヒトと一緒に仕事をした作曲家として知られているけど、映画の音楽もずいぶん書いていて、ヨリス・イヴェンスの映画とか、アラン・レネの「夜と霧」も、そうですね。このアイスラーの理論というのは、ブレヒトの演劇の理論と同じように、むしろブレヒトより先にあった考え方なんですけど、音楽は画面に対して情緒的につけるのではなくて、批判的なコメントとして対立していく。そういう機能をもったものだというふうに言っているわけ。この考え方というのは、その当時の考え方だから、それが「正しい、正しくない」は一概に言うことはできないと思うんだけど、”カット変わり”ということを非常に重視していることは確かですね。それに従って音楽の大まかなリズムが決まる。そうでないと、画面のリズムと関係なしに音楽が流れていくことは、既に音楽が情緒的であるということなんです。普通は画面が変われば音楽も変わるというのが定石なんだけれども、これをずらすこともできて、非常に効果的なんですね。ゴダールの『パッション』の音楽の使い方はそういうふうになっているんですね。画面が変わる前に音楽が変わってるとか。
映画音楽に作曲家は希望を持っていた
それから楽器ですね。楽器の組み合わせをどうするかということ。音楽のトーンを決めるうえで半分ぐらい、それで決まる感じがしますね。普通、劇映画というのはオーケストラを使うことになっていて、オーケストラを使うことは、絢爛豪華のようだが割と特色がない。どこにでもある音がするというようなことになるわけです。そうじゃなく、ある特殊な楽器を際立たせることで映画の特徴がでてくる場合がある。例えば、ジェームズ・ボンドが出てくる時にべースギターが鳴るでしょう。あのように。それからもう一つ、映画音楽は必ず録音されるわけだから、コンサートではありえない楽器の組み合わせができるわけですよ。大変、音の小さい楽器と逆に大きな音の楽器とを組み合わせるということが簡単にできるし、また、場面場面によって出てくるものと何かを結びつけるような、違う楽器と組み合わせてみるとか。とにかく、コンサート音楽というのは、ある楽器を選んだら、その楽器でどこまでもいかなきゃいけない。じゃないとお金がかかってしょうがないしね。ある楽章はギター五つで次の楽章になったら弦楽四重奏というようなことをしていたら全然合わないわけです。だけど映画だったら、そういうことが出来るし、そのほうがいいわけね。お金がある時は。だから、はるかにコンサート音楽よりも自由な面もある。そういうふうに、映画音楽というジャンルができた頃はね、作曲家はすごく希望をもっていたんだね。これこそ、コンサートなんかの規模と違って、どこにでもいって映像とともに聴かれるわけでしょう。それに、楽器もいろんな組み合わせができる。機械の面でもそうで、録音するマイクロホンとか、いろいろな可能性がためせる。形式的にもすごく自由。さまざまなジャンルを自由に使いわけることが出来る。
そういう希望を持っていたけど、当然、そういうことは起こらなかったわけです。逆に、いまでは、クラシック音楽を映画に使うことが流行して、そのほうが誰かに映画音楽を作ってもらうより、いい音楽があるわけだから、クラシック音楽を使ったほうがいいということになってしまった。それは、映画音楽の可能性ということが、現実に裏切られてしまったという感じがあるのね。少なくとも、近代的な世界においてはそういうことになってきてると思いますね。
その話をもうちょっとするとね、楽器を決めて音楽を書き、どこかの録音スタジオに行って映像を見ながらそれに音を合わせる。そこまでが、だいたい音楽家の仕事で、ところが、最終的に画面から聞こえてくるのは、ダビングの時に、その音楽をどう使うかというのを誰かが決めるわけです。たいがい録音の人が決めてしまう。すると、どういうことになるかというと、ある場面が始まり音楽が鳴る。そして、何秒かするとスーッと音量が小さくなって、そこにナレーションが入ってくる。ナレーションが終わるとまたしばらく音楽のつづきで、それがなんとなく聞こえなくなる。というのが、普通の映画音楽の聞こえ方のような気がするんです。だから、映画というものが、映像があって音があって言葉があって、世界をつくる。これは、いくら記録だといっても、一つのそういう世界をつくらなければしょうがないわけだからね。ところが実際は、一つのストーリーがあり、まずナレーションがあって、それに合わせて画面があって、情緒を盛り上げるために音楽がちょっとあってということになりがちなんですね。
ここでまた、画面に対して批判的に音楽でコメントをつける、情緒的な関わりを否定するという、アイスラーの理論ですね。これは、ブレヒトもそうだけど、一九三○年代の時代的な傾向の一つだと思うんです。ところが、印象に残る映画音楽というのはだいたい情緒的なのね。画面によって現実を批判的に描く機能を超えた何かがあるという気はしますね。現実を厳しく描いていても、そこに何か、その次元を超えたものが起こらないと映画として、また見に行きたくならない。ただし、画面では不十分だから、音を出して盛り上げてくれとよくいわれるんですけど、音楽だけではそういう具合にはいかないんですね。画面として鮮やかな印象がなければ、それに対して鮮やかな音というのはつかない。だから音楽で画面を助けることもできない(その逆は誰も求めていないだろうな)。
僕の子どもの頃、映画が戦争のすぐあとに、学校に回ってきた。マンガ映画とか、科学映画かもしれない。なんであっても、映画を見ることは特別の楽しみみたいなものね。そこにはちょっと秘密っぽいものがあるわけ。子どもは一人で映画館に行っちゃいけませんと言われても、こっそり見に行く。そうしてできていく映画に対する期待をあまり裏切ってもらいたくないという感じは、いつでもあるんですね。それは劇映画であろうと記録映画であろうと同じだと思う、記録映画のほうがはるかに難しいかもしれない。現実に進行してる何かを映画にするということになると劇のように思い通りには動かせないが、最後にどこか秘密めかした感じ、ちょっと浮き立つような感じ、映画であるというだけで魅きつけられる何かができる・・・。
アジアの田舎の映画館で
タイの田舎町で映画館に行ったことがあるんです。そこで、本当に映画館とはこういうもんだな、という感じがあったね。それも映画を見に行ったんじゃなくて、コンサートに行ったんですけどね。その田舎町の映画館というのは、そういう、なんでもやる場所なわけ。その日は、その近くにロケにきていた映画の監督が出てきて何かしゃべる。それから主演女優とかそういう人たちが出てきて歌を唄ったり、なにかしてる。それが終わると、三人組の漫才があるわけ。長々とやるんだけど、それがすごくおかしいらしい。それから、宝くじの当選番号の発表がある。それが楽しみで来ている人たちがいる。それから、バンドが出てきて、自分たちの歌をやる。宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシユ」、あれは映画館の楽士なのね。昔は映画がかかると、弁士が出てきて説明して、それからオーケストラが(オーケストラといっても三十人ぐらいかな、最大で)選曲した音楽をやって、そこに人びとが集まってくる。オーケストラが無い所ではピアノでやるわけですよ。お金がなくて映画館でアルバイトをしたという人は、その頃ずいぶんいたわけ。シヨスタコーヴィチも映画館のアルバイトをやって、やっと食べていた時代があった。その頃にあった映画への想いみたいなものを、画面の中に入ってしまった音で、黙って画面を見つめているだけの人たちにどうやって伝えられるか。大変だという気がしますね。
タイでは、まだ弁士というのがあるそうで、そういう、画面の内と外、そこらで楽器が鳴っているとか、そうしたものが入り混じって映画館があるという在り方は、音楽のためでもあるんですね、本当は。インド映画とかはメロドラマで主題歌がやたらと入ってきて、前近代的ということになるわけでしょうけど、それが楽しみの基本的な形だと思うんですね。なんとなく華やいでいる。インドネシアでもそうみたいですね。インドネシアの作曲家を一人知っていたけど、ヨーロッパの現代音楽がどうのこうのと言いながら、映画音楽を書いて暮らしている。そういうところで、いろんな自分の音楽ができるんですね。コンサートをやったって人は来ないわけだからね。いろんな音楽を組み合わせて映画音楽を作る。そこに画面をつける。そういうふうに映画を作り直してしまったほうが映画も面白くなるんじゃないかと思っているわけですが、現実的にはなかなかそうはいかないんですね。
他人の運動を代弁することは出来ない
なにか聞きたいこと、ありますか?
ー映画に音楽をつけて下さいという時に、どのように頼まれるのですか?内容を盛り上げて下さいとか自由につけて下さいとか。あるいは、高橋さんのテーマ音楽をヒットさせるぐらいのをつけて下さいとか。
高橋 ヒットさせようなんてくる人はまずいませんね。どこか他の人の所に行きますね。
ー製作者の方が、音楽は映画のあくまでも添え物的に入れようと思って頼むのでしょうか?
高橋 添え物だからと言って頼む人はいないよ。音楽はいかに大事かということをみんな言いますけどね。それにもかかわらず、添え物であることは確かなんですよ。音楽を抜いたって変わらない映画がほとんどですからね。
ー高橋悠治さんがお話しされると楽しみにして来たんですげど、タイや韓国の民衆運動と音楽の結びつき、そうしたお話を聞けるのではと思ってやってきたんですが・・・。
高橋 そういうことを代弁できると思っていたこともあったけど、それは出来ませんね、結局。
ーどうして変わったのですか?
高橋 そうですね。現実にある何かがいやで、他の理想を求めるというのは当然だし。そのためには一人じゃ出来ないから運動を作るわけでしょう。ところが、運動を作ると、その運動自体がその反対している当のものによく似てくるということがよく起こるのね。「水牛楽団」も七、八年やったでしょう。いろんな運動と関わりを持つ。フィリピンや韓国のことも分かってくるし。「運動」が必要だということも分かるんだけど、もうちょっと違うことが出来るんじゃないかという気になってくるのね。しばらくやっていると。それ以上やったら繰り返しになってしまう。ただ、それぞれの持ち場、それぞれの通っていく時期はあるんですね。だから、そうしたものが無駄だというのではないけれど。だから、他人の運動を代弁するということは出来ないというふうに思うようになった。それから、他人の理想を代弁することも出来ないね。未来の世代のために何かをするというのはやはり、ちょっと危ないんじゃないかと思うんですよ、今は。
「水牛楽団」をやっていてしばしばぶつかったのは、ある事をやろうとするだけでもう評価されてしまうことの危険ね。民衆のために音楽をやろうというのは一つの意図でしょう。それだけで、いいということになってしまうわけ。そうなると、もう音楽としては進歩がない。そうして評価される運動というものがある。ところが、作品としてのね、作品という言い方もあまりよくないんでしょうが、創造にまで至らないという危険ね。こういう歌をやります、ということで評価されちゃ困るんですよ。そうじゃなく、その音楽が、今までなかったような何かをそこに見せてくれるとか、そういう瞬間をつくりださなければね。この人の歌、この人の音楽、そういうものとして認められるということにならなくて、なんとなくみんなで一緒にいる、この現実に取り組んでいる、素晴しいで終わってしまう感じね。それは広がりを持たない運動ね。だから、こういう社会はいやだ。だれもが、灰色の生活をしているから、反対運動を組織する。それもまた、だれもかれも同じ、という具合になってしまう。どこまで行っても独り立ちすることがない。そういうことは非常に厳しいね。例えばアイスラーの思っていたような、映画に対する音楽の位相でもちょっと怪しいと思っているんですね。ドイツのような国では、当時、ナチスが片方にあった。そのナチスに反対するほうも、「批判、批判」といっても同じことを強制するメカニズムの裏側にすぎなかったという面があるんじゃないかとね。映画音楽で言えば、音楽が、画面のリズムに同じリズムをつけるのでもなく、批判的コメントと言って、一定の距離のとり方をするんでもなくて、別のリズムの可能性はいくらでも見つかると思うんですね。どれが正しくどれが正しくないとは言えない世界じゃない。あたえられた画面に対して、いかに自由にリズムを創っていけるかということじゃないでしょうか。
ータイや韓国、フィリピンの音楽の状況と比べて、日本の音楽の状況との違いみたいなことは、どんな点にあると思いますか?
高橋 そんなにいろいろ知っているわけじゃありませんけれど、タイの状況が本来的なもので、日本はそれに対して先進国のゆがみがあるという具合には思えない。それぞれにゆがんでいるということがあるんじゃないかな。
ー聞きたかったのはですね、そういうことじゃなくて、人間が生き生きしている時にどういう表現をするのか、どういう創造性が発揮されるのかというところで、具体的に、ということなんです。
高橋 タイやフィリピンのほうが生き生きしているなんて言えないと思いますよ。あちらとこっちの状況が違うからよく見えるわけ。だげど、タイの人は別に当たり前だと思っているから、それは何も見えてないよ。だから、自分で見えていなければ、そこから発展することなんでありませんよ。そう思うね。
ーだけどですね、別にヨイショしているわけではないけど、学ぶところは学ぶわけだし、批判するところは批判する。
高橋 そういうこととは思えないな。つまり、さっき、タイの映画館の話をしたでしょう。あれは別にあれでいいというんじゃないんですよ。そんなふうになるわけがない、日本でね。タイだってそういうことが続くわけはない。日本の映画館のようになっていくに決まっている。だけど、違うものが存在し得るという一つの切り口みたいなものです。それは、自分で創らなきゃしょうがないわけでね。タイの例をとればね、そこに現れている空間のつくり方とか時間のつくり方は、全く別な材料を使ってできるような気がするな。それは、映画館であって宝くじ売りがいて、ということじゃなくてね、どういうふうに人びとが違う楽しみを持ちよるかとか、違う時間がどういうふうに重なるかとか、そういうことなのね。といっても漠然としているでしょう。しかし、これは漠然としていても仕方のないことなのかな。はっきりと言ってしまったらなくなってしまう世界もあるんですね。