書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 とりとめのない話 黒木和雄 <1989年(平1)>
 書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 とりとめのない話 黒木和雄

 土本典昭との出会いー岩波映画時代

 このフィルモグラフィー展で何か話してくれ、ということですが、生来人前で話すということが苦手で困ります。しかし土本(典昭)にはたいへん思義があるもんですから、それでも、ここに引っ張り出されて、なにかみずから進んで火中に飛び込んだという按配です。ところが、さて何を話していいのか、今朝まで考えてみたんですけど、さっぱり思いつかなかったわけで・・・。
 私が話すということも、石牟礼道子さんの『苦海浄土』とか、水俣をテーマとした十五本の映画を眼の前にしますと、まことに傍観者的で、見当外れのことになるような気がするわけです。進退きわまった感じです。
 しかし、まあ、土本との三十年におよぶつき合いに免じていただいて、私の話を許して下さい。土本と私はほとんど同世代です。昭和二十九年に私は岩波映画製作所に入ったんですが、その二年後に土本と出会うわけです。
 土本が映画というものを選ぶまでの思いは、彼の『わが映画発見の旅』(筑摩書房)という本にほぼ塗り込められているわけですが、私はこの本が、日本の戦後の映画史の中でおそらく貴重な文献になっており、金科玉条として映画作家を志す人びとが繰り返し読むべき名作だと思っています。その土本に、私がどのようにして出会うことになったのかを少しお話ししておきたいと思います。まあ、土本との”出会い”ですね。
 当時はほとんどの青年が路頭に迷うほどの就職難でした。
 私のことでいえば、当時から何か一種の被害者意識のようなものがありまして、それは戦中は軍国主義であり、天皇制であったわけです。そしてその当時はスターリン主義というか、そこからくる被害者意識ですね。つねにそういった形で、政治というか、観念的なものに責任を転嫁させながら、自分は被害者なんだとみていた気がします。ようするに甘いんですね。政治や社会に対する見方がなっていない。映画の仕事を始めることによって、はじめて現実とぶつかることになる。日常というもののもつ重みを、いやというほど身にしみて思い知ることになるわけです。
 ただ、そういう生活の中でふと思ったことはあるんですね。映画だったら、ひょっとすると自分が持っている、そうした被害者意識のようなものから問題を整理できる場になるんじゃないか、と。少年時代、私は満州、いまの中国東北部にいたんですけれども、日本人の経営する映画館が数館ありまして、自分の国を見たいという欲求からだったんでしょうか、まあ、これも後からつげたリクツなんでしょうけれども、とにかく小学生のくせに学校をさぽって、映画館に行きました。『鞍馬天狗』、『右門捕物帖』、『路傍の石』、『綴方教室』、それにドイツ映画も若干ありました。
 そういう中で、小学校の五年くらいの時でしょうか、吉村公三郎監督の『暖流』を見てショックを受けたことが忘れられません。どういうところにか、といわれると困りますが、とにかく新鮮で生々しかった。考えてみますと、私たちの世代は、世界の映画の、ちょうど黄金期の作品を見て育ったといえないこともありません。日本映画もひとつの成熟期を迎えていたわけですね。就職口の見つからないなかで、映画をやりたいと直感したのも、やはり戦後の映画の洪水のような、めくるめくような作品群を見ていたからでしょうか。で、幸いに劇映画じゃなくニュース映画らしいけど、岩波書店の子会社に岩波映画という会社があるけどどうか、という話があった。将来監督になるとかならないとかということには全く関係なく、とにかく職業に就きたいという思いと、映画に近接している世界だったらいいんじゃないか、という気持ちです。
 岩波映画での私の面接ですけど、監督の高村武次さんと重役の吉野馨治さんだったんです。その時に憶えていますのは、吉野さんが、「君は記録映画って知っているか。文化映画はどうか」っていう質問ですね。私は全く知らなかった。とういうより、劇映画とか記録映画とか、そういう観念がないんです。いっぱしに『キネマ旬報』など読んでいても、思い出すのはせいぜいドイツ映画の『民族の祭典』、『美の祭典』、それから戦争中のニュース映画くらいだった。ただ、ニュース映画に対する嫌悪感がありまして、見るのはほとんど劇映画だったわけです。科学映画というものがあることすら知らなかったんです。
 それで、君は多分、劇映画をやりたいんじゃないか、だったら、そのことはあまり口に出さずに、当面の仕事を黙々とやりなさい、と、うちでは劇は撮れない、それでも劇映画をやるという気持ちだったら、自分の心の中で反芻していきなさいー。そういう言葉だったかどうかは別にして、そのような意味合いのことをおっしゃったのが吉野さんだったんです。私は、吉野さんがどういう人か知らなくて、町役場の書記みたいな印象の方だったもんですから、かつて東宝のキャメラマンであり、優れたドキュメンタリーのキャメラマンであることも知らなかったわけです。
 それから採用が決まって、即日飛ばされたのが、高村さんの『佐久間ダム』の現場でした。
 そんなわけで、映画といえば劇映画しか知らなかった私は、ヘルメットをかぶり、作業服に地下足袋姿で助監督のセカンドになりました。
 私の眼に映ったのは、巨大なダム工事現場の想像を絶する世界でした。アメリカ製の掘削機械が縦横無尽に動きまわっている。
 高度成長期で、企業が急速に自己宣伝を始めた時期に合致していたわけです。岩波映画も、企業として食いつないでいかなければなりません。岩波という看板で、いわゆる一流と称する企業からの発注がどんどんきていたわけです。そこには、PR映画で経営的な基礎をしっかり固めるというひとつの戦略もあったんだと思います。そこで、現場のスタッフが足りないわけですね。どうも、どちらかというと、頭脳明断ならずとも肉体労働に耐えられるという体力で私も採用されたらしい。友人だから許してくれるかも知れませんけど、私の二年後に入った土本も私と同じように、体力をみこまれて採用されたとしか思えないふしがあるんです。
 そんなわけで、暖昧なままに入ったのが私なんですが、助監督稼業がなんなのかも全く知らず、ロケ現場の段取りは普通にやりますが、夜はいかに楽しく酒を飲んで一晩すごすかということに精力を費やすみたいなことだったわけです。
 その年の三月にはビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が被曝し、六月にはベトナムのディエンピエンフーが陥落しているのですが、ロクに新聞も読まない。体力を消耗して豚のように眠る日がつづきます。いま考えてみると、高村さんの助監督としても最低だったのではないかと、ジクジたるものがあります。
 その頃にはまたもや、甘えの被害者意識が浮かんできます。少年時代、そして戦後に見てきた日本映画と自分がいまいる現場があまりに違うような気になるわけです。映画人として自覚しようとすると、どうも自分は映像の辺境にいるんじゃないか。そんなことを思って、だんだん毎日が面白くなくなってくるわけです。
 矛盾するようですが、面白くないんだけど、楽しいというか。合宿して、そこで出会ったスタッフと交歓し合うこと、飯が食えて酒が飲めるということはあるんです。就職するまで、ほとんど栄養失調みたいな日々をすごしたんですが、働いて三度三度飯が食えるという喜びと、企業の”チンドン屋”をやっているという自己卑下とが奇妙に混交しておりました。
 先輩の羽仁進さんは、”PR映画状況”の中にいた私にとっては、エリートじゃないかというふうに映っていましたね。なんとも貴族的な雰囲気を漂わせているようにみえるのです。しかも、作るものが小惜らしいんですね。非常に柔軟で素晴しいんです。だから羽仁さんの作品を見る時は、良い所を見ないで悪い所ばかり見ょうとしていたような気がします。やはりひねくれていたんですね。すでに『教室の子供たち』という作品がありまして、映像と録音とを柔軟に使いこなして、しかも登場してくる子どもたちに対して、作者の距離感がないんです。大人の眼じゃないんです。子どもたちの思いの高さで子どもたちを、羽仁さんはとらえているんですね。その作品を見て、私は、この人はすごい人だな、とてもかなわないなと思ったわけです。
 いずれにせよ、私がいままで見てきた劇映画のフィルムとは異質な、不定型のものが、羽仁さんの映像世界にはあったのです。それが何であるのか、私には理解を超えるものがあったことはたしかです。それはゴダールの登場をすでに予感させるものがあったといったら、羽仁さんに失礼であり、いささかキザな表現ともなるでしょうか。彼につき合っている羽田澄子さんとか小熊均さんも、どこかできっとお互いに交感し合っているんだろうな、という羨望の念で見ていました。やっかみもちょっとあったとは思うんですげれど。
 その「羽仁組」に、社を去った小熊さんの後釜として、土本典昭という男がついたということを知ったわけです。土本はPR映画の『新しい鉄』の製作進行をしていました。
 羽仁さんの場合、徒弟制度的なものはなく、協力者としてスタッフを選んでいましたが、その土本典昭という男が”羽仁組”のチーフ助監督といいますか、相談相手といいますか、一気に”抜擢”された。その頃の土本をはっきり認識したのは、横須賀の久里浜にある”下士官クラプ”の中でした。
 説明が遅れましたが、私はなぜか演出をまかされて、横須賀の火力発電所のPR映画を撮っていたのです。”下士官クラブ”とは、地元の合宿所の通称です。
 そこに、劇映画『不良少年』のスタッフとして、土本がやってきたわけです。吉野さんが「当社では作らない」とおっしゃった、岩波映画の劇映画の第一回作品を、羽仁さんが撮ることになったのです。そして土本は、羽仁さんと浴衣がけで楽しく談笑しているわけですね、非常に流暢な標準語で。
 後で分かったことですけれども、土本は麻布中学の出身ですから、スマートなはずで、自由学園の人と対等に話しあっている。その時は全く知らなかったんですが、土本の『わが映画発見の旅』を読んで分かるんですけれど、自分の町内のように東宝の撮影所に出入りしていたわけですね。おそらくセットも覗いたであろうし、試写室も覗いたかも知れない。羽仁さんと組むことによって、そしてそれ以前に伊勢長之助さんと組むことによって土本は映画がもっている表現の本質みたいなものを掴みかけていたと思いますね。
 『不良少年』の後、土本や私が、「日本発見シリーズ」というテレビの番組をそれぞれやることになったんです。一九六一年から六二年にかけてのことだったと思います。その時、私の『群馬県』と、土本の『東京都』がオクラになったんです。そのことで、スタッフワークのよかった岩波映画の内部に若干、亀裂のきざしがみえたといいますか、はじめて、ものを作ることで育ってきた人たち、その現場にいる私たちと、経営をしなくちゃいけないという立場との、一種の自己矛盾というか、その対立が始まったわけです。
 そのことが、同じ演出をやってきた土本、それから先輩格の藤江孝さん、小川紳介、岩佐壽弥、東陽一、それにカメラの鈴木達夫、大津幸四郎、田村正毅、録音の久保田幸雄君らと、土本はそういう表現をいっさい使っておらず、これは私の言葉ですが、”チンドン屋”、いわゆる主人持ちのPR映画からなんとか逃れるすべはないものかと、大変に不遜なことを考えたわけです。
 私自身はといいますと、まだまだ観念的でして、つまり純粋映画は作れないものだろうか、と。スポンサー付きでない映画は作れないだろうかと考え始めるわけです。
 で、そのことは確かに十人十色でして、それぞれ皆で抱えている問題を持ち寄ろうということにしたんです。これが”青の会”だったんです。とにかく、自分の仕事、内外の劇映画、記録映画を問わず、やっていること、見たもの全部を報告しあい、自分の認識を照合しあうといいますか、それを酒を飲みながらやったわけですね。気違いのようにね。
 この”青の会”は、私にとってもそうなんですけど、土本にとって彼の映像作家としての形成の中でとても大きなことになっていったと思います。岩波映画に入るまでの問題、まあ、これはいわゆる前衛党の問題でもあるんですが、いってみれば、運動者から表現者へ変わろうともがいていた時期ですね、今にして思うと。この時期、土本たちと一緒にすごした日々は、私にとっても非常に幸せなことだったと思うわけです。運動者から表現者へ移っていく、ということは、運動者を第一義とするなら、表現者は第二義ではないか、あくまでも運動者と伴走しながら、表現を通じて革命に回帰していく、伴走していくと言いますか。”革命”という言葉は、いまや、やや意表をつくような言葉になってしまったことが非常に残念なことなんですけれども、だが、そういう状況の中で、表現者としての純粋性をいかに保てるかというようなことを、一生懸命考えた。その稚拙とも思えるほどに原則にこだわってみたことが、私たち”青の会”の青春だったんじゃないかと思うんです。そこから、旅立っていくわけですね。

 亀井文夫を乗り越えた土本の”水俣”

 最近見た映画に『映画女優』というのがあります。そこで溝口健二が、田中絹代を起用して『西鶴一代女』を撮るくだりが、感動的に語られている。その映画が傑作かどうかは今はワキに置きまして、その中で田中絹代が京都駅に着きますと、溝口健二が出迎えて旅館に案内しまして、溝口は帰ってしまうんです。それから何日もの問、何の音沙汰もなくシナリオもこない。そしてある日、文楽の浄瑠璃をやる三味線女の資料がドツと届き、これを読んでくれ、と言われる。しばらくして、突然、田中絹代のいる旅館に溝口健二が現れ、今から文楽を見に行く、というわけです。それからまた、何日たっても何の連絡もこない。ついに田中絹代は激昂するわけですね。私のようなスターを京都まで呼んでおいて、一週間も二週間も何もしないで、何の打ち合わせもない、資料というか、学術書、研究書のたぐいをいくら積んだって、俳優としての演技が膨らむものでもないと、ぼやくシーンがあるんです。
 私にとって、溝口健二という監督は、『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』がありまして、それから戦後の『西鶴一代女』、『雨月物語』にいくんですけれども、人間のリアリティーをそれなりに追求した作家であり、ある到達点を示している映画作家だと思うんですね。
 亀井文夫さんが、溝口健二と田中絹代とのエピソードを、「いわゆる、あれは時間つぶしだよ」と、「巨匠であることの体面を保つために、なおかつ、シナリオと演出プランがまだ熟していないので、格好をつけてやってるんだ」というようなことをおっしゃったことがあるわけです。「撮影所内のヒエラルキーにのっかかったもんだ」と。
 亀井さんがおっしゃった射程の中では正解だと思うんですが、同時に、そう言ってしまうと、溝口健二という作家の全体像は、若干見失われているのではないかという思いもあるわけです。
 実は、いま私は溝口健二の話をしたいんじゃなくて、『映画女優』という映画を見て、亀井文夫という監督のことを思い出していたのです。といいますのは、土本が尊敬する瀬川順一キャメラマンから繰り返し聞かされていたのが、亀井文夫の『戦ふ兵隊』の話だったんですね。土本は瀬川さんから『戦ふ兵隊』の話を聞くことによって、一つのドキュメンタリーの目標といいますか、一つのあるべき姿を思い描いてきたんじゃないかと思うんです。
 私も不勉強で、『戦ふ兵隊』を見たのは一九七五年だったんです。『上海』を見たのも六九年だったと思います。とても遅いんですね。同じ頃に亀井さんの映画を見た土本は、見るのが遅すぎたといって切歯扼腕するわけです。これには全く同感で、私も、山中貞雄の『人情紙風船』を見た時に、遅すぎたと痛感したことがあります。
 戦後、『上海』と『戦ふ兵隊』を乗り越えたドキュメンタリーがあるとすれば、それは小川君の三里塚から山形にかけての農民たちの魂に分け入っていった作品であり、水俣に腰を据えて患者さんたちと共に生きた土本の作品だと、私は思っているわけです。この二つのドキュメンタリーの潮流が、戦後はじめて『上海』、『戦ふ兵隊』を乗り越えたと、これは私の判断なんです。
 実は私は一九六六年に、貧相な「土本典昭論」を、あるところに書いたんです。その時、亀井文夫のようなプロパガンダ映画を作らないように、土本の処女作にはその可能性がある、といったような、身の程を知らぬ暴言を吐いたんですね。しかし、いまは違います。七十歳を超えられてなお『生物みなトモダチートリ、ムシ、サカナの子守唄』を作られた亀井文夫というドキュメンタリーの先達を、わたしは誇りにしたいと思います。
 土本の水俣をずーっと見続けながら、その中で石牟礼道子さんの『苦海浄土』も拝読したわけです。その詩的高揚をはらんだ叙述の文章、そして即物的な記述とのあいだの裂け目がひきおこす戦慄を、何にたとえればよいのか・・・とにかく、わたしは言語的な表現として、たいへんなショックをうけたんです。
 私がとやかく言うことはないのですが、ある文芸評論家が、『苦海浄土』はノンフィクションの世界の一つの金字塔だ、と指摘されているんですね。つまり、石牟礼道子さんというひとりの女の方が、水俣病に冒された人たちの内的な現実に、身を寄せるようにして入り込みながら、なおかつ、その無明の世界にみずからの信念を重ねあわせて、一つの糸を紡いでいくわけです。無明の世界を無明の世界として追いつめている外的な現実といいますか、そういったいろいろなものに対して、手厳しく、社会学者のような眼をもってにらんでおられる。
 お読みになったら分かると思いますけれども、最初に山中九平という子どもの患者さんの世界へのアプローチがあり、その次に、大学の先生の細川一さんの診断書が、突如としてつながっていくわけです。その構成の発想そのものが、私にとっては、土本たちと昔やっていた”青の会”の論議と重なるのです。石牟礼さんは、まさしく『苦海浄土』という実作をとおして、フィクションに対する絶望を身をもって実践している。それは、間違いなくひとつの表現の到達点を示してくれているわけです。そのようにして、また土本たちの描いた映像も同時に、ドキュメンタリーとフィクションをよじりあわせてきたといいますか、その軌跡、その表現の苦闘の記録にもなっていると思うんです。
 またまた彼の『わが映画発見の旅』の話になるんですが、私の鈍感さといいますか、土本と長年つきあいながら、彼の本当の気持ちというものなど少しも分かっていないなと思ったことがあります。六五年に彼は、テレビの「ノンフィクション劇場」で水俣を訪れているわけです。題名は『水俣の子は生きている』ではなかったでしょうか。その時に、土本は水俣の患者さんたちから激しく叱咤されるんですね。それでうろたえるわけです。水俣の路上で絶句する、全身で。サルトルではないんですけれども、吐くように地べたにしゃがんで苦悶するんですね。そのことが、何気なく淡々と書かれているんです。
 土本はキャメラマンと毎日、水俣の海の底に散らばっている陶器の破片を、何の目的意識もなく撮ることでしか、自分の生を確かめられないといいますか、運動者から表現者へと自らを卑しめながらですね。これは、私の言葉ですから誤解のないように。つまり、自分を卑しめながら表現者として自立しようとした時、土本の考えていた人びとといいますか、被写体といいますか、民衆といいますか、そこから拒絶される。そうした人びとのために自分は来たんじゃないか、という思いはあっても、肝心の彼らから完全に門前払いをくってしまうわけですね。ここに、土本典昭という映像作家の回生の契機があるんじゃないかと思うんです。そうした苦悶に土本は耐えたんですね。
 そして、高木隆太郎という男と出会ったことがあると思うんです。高木隆太郎にとって水俣は故郷であるわけで、映画人として故郷にどう帰るべきかということを、彼はつねに考え続けていたんだろうと思います。その時に、六五年五月に水俣の路上にうずくまって、自問していた土本と出会ったことになりますね。
 彼が土本と組もうと思ったところに、たいへん宿命的な、戦後映画史の中での記念すべき出会いがあったんじゃないかと思う。水俣ということから、誰でも逃げることはできる。水俣というのは、とてもしんどい作業ですから。だけど土本は水俣と、そうして出会っていくんですね。小川君は古屋敷村や牧野村と出会う。
 それから、若いキャメラマンの一之瀬正史君とか清水良雄君、演出の小池征人君、西山正啓君、製作者の山上徹二郎君とか、高木に言わせると”健康な世代の重層”ですね。そういうものが脈々とあって、土本の今日が支えられていると思うんです。水俣の路上でうずくまった土本が立ち上がって歩き出す。水俣から下北半島、そしてカナダへと、空間と時間を拡げたところに、土本は出ていくわけです。それは全世界に拡がっていく。
 劇映画しか知らなかった素人の私が、土本たちとのつきあいを通じて知り得たことは記録映画は二流の仕事ではなく、映画芸術のもっとも尖鋭的で創造的な第一線になっているんだ、という自負と、想像を絶する苦悶の歴史でした。
 土本や高木たちは、水俣の十五本の映画を”巡海映画”と称した。”巡海”というのは、海をめぐるということで、まことに名言といいますか、”海の工作隊”とでもいうのか。
 私自身のことを棚上げしていわせてもらえば、土本は再び工作隊員として、いまは表現者としての工作隊員として、見事に土本のいうところの”転向”を果たしているのではないかと思います。