書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 三里塚から牧野村ヘ 小川紳介
「三里塚」の映画では生き物が撮れていない
牧野村(山形県)に入って、ようやく『1000年刻みの日時計・牧野村物語』という映画を創り終えたばかりなんです。その牧野村に入る前後あたりからのことを、まず、話させて下さい。
牧野村に行く前、三里塚に行っていろんな作品を撮りました。その中に『第二砦の人々』という映画があります。ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、簡単に言えば、国がそこの土地に空港を作る。欲しいんだ!よこせ!ということを、法律を盾にとったり、お金をバラまいたり、人間関係を使ったり、さまざまなものを使って、その土地に暮らす農民を踏み潰していく。そういう国のやり方があって、それに対し、反対する農民が闘った、「局地戦」があったんです。そのドキュメンタリーを僕たちも撮っています。
その時に、こういうことがあったんです。穴を掘ったんです。三里塚の土はベースが関東ローム層で、関東ローム層というのは、ご存じのように火山灰土です。雨が降るとベタベタして、乾くと灰みたいに飛ぶ、非常にコエ持ちの悪い、水ハケの悪い、畑としても、田圃としても悪い。そうした土を長い間の悲願でしょうね、三里塚の農民はそこに堆肥を入れたり、客土したり、いろんな手当てを繰り返して、土壌改良をして、少しずつ良い土にしていったんです。空港というのは、農民たちが長い年月をかけて作り上げた、この作物を育てる作土層を、ブルドーザーで剥がして、コンクリートで埋めていく、そういうものなんですね。話を戻します・・・この火山灰土の下が砂礫層だったんです。完全に砂です。かつては海の底だったんでしょう。そこで農民が穴を掘ったんです。国の非道に反対して。農民、学生、労働者、僕たちも、この地下の穴蔵の砦に龍りました。その時の忘れられないエピソードをひとつふたつ話します。
穴を掘っていくと、当然ですが、周りから水がチョロチヨロと出て来るんです。地下水がしみ出して来るんですね。普通はパイプを差し込んで水を抜くんです。でも、この時はパイプを用意してなかったし、一気に攻め落とされないように掘った、曲がりくねった長い穴でしたから、わずかずつジトッと出て来る水なんですけど、溜ると周りの土砂を崩しますから怖いです。抜くのが非常に難しいんで、どうするのかな・・・と思って見ていたら、木の小枝をたくさん運び込んで、農家の人は日ごろ木の算定をやっているから、パツパッパツと枝を切るのはうまいんです。そうして、いちばん先端の小枝の先を片っ端から穴の中の砂のところにドンドンと差し込んでいくの。そうすると毛細管と同じ理屈で、全部、そこに水が寄ってくる。そして自然と太い幹に水が集まってくる。
また、砦を作る時、すぐそばの山から切り出した長さも太さもマチマチな生木で柵を作ったんです。シノという道具で針金をギユツと巻き、木と木を組み合わせていくんですが、その手を休めずに仕事を進めながら、一目で木の捩れや力のかかり具合を見ぬいて、次々と木と木を噛み合わせていった。力学的に無理がない頑丈な柵がみるみる出来上がっていったんですね。
この砦のドキュメントの後に『辺田部落』という作品を作らせてもらうんです。その後、三里塚を一度、離れるんですが、三里塚で、田圃なら田圃、畑なら畑に行ったりすると、もうね、撮れないんですよ。生き物が撮れないんです。僕たちには生き物が全然分からないのです。三里塚は農地ですから、何より生き物を育てているところです。農家の人は、一番簡単なことを言うと、生き物を育てているんですね。豚であろうと、鶏であろうと、牛であろうと、スイカであろうと、ブドウであろうと生き物なんですね。それを育てている。ところが、僕たちは観念としては分かりますが、生き物というものが具体的に分からない。いまなら、少しは分かるようになりました。
生き物というのは、結局、個体差ですよね。行きつくところは個体がみんな違うということですから。稲でも、一株一株、みんな違いますからね。でも、その時、それがすごく分からなかった。そこで、生き物が分からないで生き物を扱う農民の闘いが撮れるのかな、という事があった。
僕たちは映画が出来上がるとほうぼうへ、その映画をもって廻るんですよ。そういう点では、土本(典昭)さんと全く同じ仕方をしていますが、つまり、映画というものを初めから終わりまで作るんです。映画って、僕たちにとっては観てもらうことも含めての行為なんですね。ですから、出掛けていった先の、映画会場の雰囲気や状況によっては、ある場面で思い切ってスイッチを止め、そこへ僕たちが出ていって、この画面だけでは伝わりにくいかもしれないけど、「こういうことを言いたかったんです」とか、喋っちやったりするんです。『辺田部落』も全国を廻ったんですが、多くの農家の人たちが、「生き物が撮れていない、だから農民も撮れない」と突いてくるんですよね。
牧野村での稲作りから見えてきたもの
山形県に、詩人の真壁仁さんを中心にした文化運動がありまして、文化運動って、いやな言葉ですがね、まあ、農家の人たちの詩を作るグループがありまして、その人たちが『辺田部落』を見てくれた時に、僕は「生き物が撮れない」という話をしたわけです。そうしたら「よく分かる。だったら来ないか。ここには何もない、事件もない、普通の村だ」とね。何か三里塚にいて農民が分かったようなカオをしてるけど、農民なんてどっこい、そう甘くないよ・・・と言外にあったんですよ。そこで、「ようし!行こう」となったんです。ちょうど十四年前のことです。田圃が借りられるということで、僕たちは田圃を借りて入ったんです。山形県の蔵王の麓の牧野という村です。牧野でははじめ、何よりも三里塚から「赤い鳥」がやって来たという評判が先に立っちゃって、それで、村の人たちは、僕たちになかなか近づかなかったんですね。その時、僕たちスタッフにあった共通のモチーフは、先に言ったように、染み出す水を集めるために即座に枝をパツと差し込んでいける、そういう自然との感応性というものを自分たちの体で感じとろう。あるいは、生き物一個一個の個体差を的確に掴む。そういうことが、果たして僕たちに可能なのか。それとも、それが出来ないとすると、僕たちは何を失っているのか。まあ、そんなことでした。勿論、映画を撮ることを目的として、それが大前提にあったんですが、フィルムを回す以前に、まずこのことがあったんです。
牧野に最初に行った時には、田圃しかやらなかった。やっぱり初めの三年間は稲作りを熱心に教えてもらったんです。もっとも、ブドウでもよかったんですが、稲を作ると飯がタダで食える。そういう発想と、そこに減反で空いた田圃があった。それと、牧野という村が、たまたま果樹と稲作が中心の村であったということで、稲をやったに過ぎないのです。田圃といっても、今は一枚で三反歩なんていう機械化の為の田圃ですからね。昔のように「田ごとに映る月」というのはないんです。僕たちの田圃も、縦一○○メートル、横二四メートルの二反四畝です。周りも同じようなのがズーッと並んでいます。遠くからではとても区別がつかない。でも、近寄ってジーッと見ていくと、一枚一枚違うんです。まず、そこに植わっている稲の姿が違う。株の大きさ、茎の太さ、葉色の濃さ、丈の高さ、節間の長さ・・・。それに土の色や水の感触、どんな雑草が生え、どんな昆虫が棲んでいるか、一枚一枚の田圃、それぞれが微妙に違ってます。また、その中から一枚の田を選んで見ていっても、そこも決して真っ平で均質な「面」ではない事に、すぐに気がつきます。例えば、一見、一枚の緑のカーペットのように見える稲群の下には、田圃の土があります。ちょっと足を踏み入れてみれば、よく分かりますが、この土の世界がまた複雑なんですね。ヒザぐらいまでズブズブ埋まっちゃう所、クルブシぐらいでスイスイ歩けるがザラザラで砂っぽい所、小石がゴロゴロして痛くてたまらない所・・・。一枚の田圃の中を一○○メートルなら一○○メートル田植えしていくとすれば、その間にはいろいろな土質や土の層のところを歩くことになるんですね。さらに、田圃の土には、その地面の下を流れている地下水の高さなどというものも、大きな影響を与えます。地下水が田面スレスレまで上がっているような箇所があるとすれば、そこは年中水びたしになっているわけです。「水のかけひき」と言いますが、良い田圃の条件の一つに「自在に水が出し入れ出来る」ということがあります。水を出して田圃を乾かす目的の一つには、水を入れていた間に減っていった酸素を、再び土中に入れてやることなんです。しかし、その箇所が年中水びたしだったら、そこに植えられた稲の根は、やがて酸欠から根腐れをおこしていく。この田圃の土の世界から目線を上げると、そこには稲群が並んでいるわけですが、これもまた、一株一株実に違っているんです。稲そのものが、いや稲だけじゃなくて作物そのものが、そうだろうと思いますが、一株一株の稲もまた、その個体、個体が各々個性をもっています。僕たち十年以上、一株一株の稲を撮ってきて、その観察データからみましでもそうなんですよね。田圃の稲の世界は、だいたい間口、奥行きともに四○センチぐらいのもんでしょう。深さは、どんなに立派な根でも九○センチぐらいなもんですから、そのうち作土層は一五センチほど、スキ床、二~三センチであとは心土層が五○~六○センチです。そうです。この狭い世界で稲は生きているんですよ。稲にとって必要な世界は、その狭い世界です。で、その狭い世界に流れてくる水、流れてくる風、押し寄せてくる大気、太陽。一株一株の稲はこういったものすべてを、みんなそれぞれの個体差で受けとめて生きているんです。僕はいま喋りながらも、全部、頭の中に浮かんでいます、イメージが。実に一株一株がユニークなんです。
そういう世界をやっぱり知りたかった。今から十四年前から現在までいろいろなことがありました。連合赤軍の諸君が出した問題があります。天皇と真正面から闘った若い諸君がいます。亡くなった方もあるし、いまも牢屋につながれている方もいます。いろんなことがあります。みんな痛いし、辛い。忘れることも出来ません。そういう時に、僕たちは田圃で稲を作っていたんです。これやっぱり重いですよ。そりゃ僕たちにとっては重いことですよ。冗談を言いながら笑いながらじゃなければ、やれないからやってたけど、実際の世の中いろんなことがあるわけですよ。しかも、この時代に生きて映画を作っている集団ですから。しかも、この十四年間、僕と一緒にやって来たスタッフは、みんな若くって、素晴しいエネルギーもあって、一生懸命だったですからね。でも、この時代にズーッと稲を作っていたことは確かなんで、その時に僕たちが掴んでいったものというのは、結局、いま考えると、ああ、やっぱり人間って、生き物と共存していくんだな。それが体で分かったことです。
もう亡くなられたんですが、林竹二先生がわりと近くに住んでおられましたから、たまに僕たちの所に遊びにこられました。ある時、僕たちが蚕を置いていた最中に、奥さんとご一緒にプラッと来られたことがありました。もう全員が忙しい盛りだったんですが、林先生が僕たちが蚕に桑をやっている近くに座っておられて「いやー、僕は一つ悔いがあって、それは生き物を直接、自分の子どもたちに触らせなかった。自分の仕事の都合でね。生き物と一緒に子どもたちを育てることが出来なかった。それが本当に残念だ。いま、君たち、本当にいいことをしている。こうして生き物と接しているということはいいことだ」、フツと僕にそう言われて、その時はよく意味が分からなかったけれども、いま、その林先生の言葉が分かります。そうしたことをしながら、生き物を掴んでいったわけです。
もっとも、村の人にとってはこんな事は珍しくもなんともないわけですから、みんな無関心でしたね。「あの当時はみんな冷たかったね」っていま、僕たちは村で大っぴらに言ってますけど、田圃を教えてくれる人以外、訪れる人は少なかったですね。稲を教えてくれた人は漆山輝彦さんという村の人ですが、初めから三年間だけ教えてくれる約束でした。三年経つと、その人は「もう教えないよ。ライバルだ」と言った。「もう、ライバルだ。あんた方勝手にやれ」と。それはいい意味で、獅子が子を谷に落とすということだったんですが、僕たちは困るわけですよ。稲が一株一株ちがう生き物であること、田圃がとてつもなく複雑な世界であること、その一つ一つを、具体的に掴んで、その上で、絶えず、変化していく気象と照らし合わせて、次々と先を・・・読んでいかなければならないんですから。考えてみれば、農業ほど、賭博性の強い職業はないでしょうね。だって、春に種を蒔くでしょう。それが秋に実るって誰が保証するんですか。競馬のほうがずっと効率がいい。すぐ結果が分かりますから。稲は半年分からない。
農家の「言い伝え」をプレパラートで確認する
ちょっと話が外れましたが、先程のことに戻ると、どうやって先を読んだらいいか・・・誰も具体的には教えてくれないわけです、絶対に。教えてくれないというのは、彼らが、曾祖父から祖父へ、祖父から父へ、父から息子へとーまあ、伝承っていうか、農家には一軒一軒に「言い伝え」があるんです。言い伝えといっても言葉は補いであって、身体から身体へ染み込んで伝わっていくものだと思います。例えば、微気象って言いますが、一枚一枚の田圃には、それぞれの微々気象があるんです。隣の田との畔が高いか、低いか、傍らに木があるか無いか、そういうちょっとした違いで、その田の日当たりとか、風の吹き方がみんな違って来ます。これを分かるためには、いろんな天候条件を毎年毎年繰り返し体験することなんです。田圃の土についても、長年に亙ってあちこち少しずつ手を加えてきている。水の出し入れについても然り・・。まあひょっとすると、先祖代々、二百~三百年分くらいの情報が一枚の田圃には積み重なっているんですね。そして、この伝承という情報は、自分がその田圃で働いている時に、一番生き生きと自分の体に働いて来る。だから、他人に伝えようと思っても、よく伝わらない。伝えきれないものなんです。
じゃあ僕たちはどうするか。それをどう受け止めるのか。僕たちは、この伝承というものが、農民が代々「身代をかけて」やってきた厳しい実験の結果であって、非常に科学的な裏付けを持っているものだろうと考えました。また、そのことを確かめてもみたかった。で、僕たちは僕たちの科学的方法を使う以外になかったんですよ。田圃の土層を調べたり、土を分析したり、地下水の様子を調べたり、また、田圃に直接プレパラートを差し込んで、そこにいるバクテリアの状態を調べたり。まあ、いろいろやりました。他に「伝承」に迫る方法がみつからなかったんです。そんな事ばかり七~八年やっていました。その結果、「言い伝え」として語られて来た田圃のノウハウは実に科学的なものだと分かりました。そんな仕事をスタッフで続けているうちに、いろんなことが自分たちの手に掴めてきたんです。その一つを一枚の顕微鏡のプレパラートを例にとってお話しします。
あるサンプルの切片を固定したプレパラート、同じサンプルのプレパラートは大学にもあり、研究所にもある。大学に行ってそのプレパラートを貰ってくるとか、図書館へ行って本を開けば、研究所が写した写真がでています。それで理解したと思う。でも、僕たちは今度は違っていたんです。単に稲に関する知識を増やしたいということではないんです。稲の世界を、身体を働かせて知りたい、土の中に生きている菌を実相として掴みたい。つまり、僕たちにとって大事だったのは、自分たちがプレパラートを作るという行為、知るということが問題ではなくて、そのものを掴んでいくプロセス、そこに至る経過そのものでした。試行錯誤というか、数かぎりない失敗の連続でしたが、この経過を経ることによって僕たちは、初めて生き物の世界に近付いていけたんです。人間を記録させてもらう時には、礼儀作法ってあるわけですけど、稲にも、土中の菌たちにもそれは同じです。僕たちは、彼らの豊かで、チャーミングな世界を見せてもらうために、まず、彼らの礼儀作法を習う必要があったのです。
例えば、稲の細胞組織を顕微鏡で見るためには、それなりの手続きがいります。まず、調べたい箇所を小さく切り、更にそこを五○分の一ミリから一○○分の一ミリに切って、スライドグラスに載せ、カバーグラスで覆う。簡単に言えば、この手仕事がプレパラート作りなんですが、これが大変なんですね。植物細胞は水で包まれ、中も水で充満された薄い膜みたいなものです。簡単に薄く切れない。すぐグシャツと潰れて植物切片を美しく切るのは難しいです。特に稲は、同じ禾本科でも難しいとされていて、普通はもっと組織が大ぶりなトウモロコシでやっちゃうらしいです。同じ働きをもってるからでしょうね。でも、僕たちは稲にこだわって稲でしかやらなかった。田圃から稲を抜いてきて置いておくと、当然、水っけが多いですから、干上がってしまう。カビがついちゃう。ハサミで切れば、ペチヤツと潰れて細胞が壊れちゃう。結局、キチンと見るためには、サンプルをあらかじめパラフィン(蝋)づけにして、固めて、パラフィンケーキというものを作る。これをミクロトームという機械で切る。この知識を手に入れるまで、つまりこれ以下のやり方では、決してうまく切れないとわかるまで、僕たちは黍ガラにサンプルを挟みカミソリで切ることからはじめて、幾つもの失敗の過程を踏んだわけです。で、結局、僕たちはミクロトームの中で一番値段が安い簡易ミクロトームという手回し式のものを買って使うことにしました。
この時、僕が非常に無力だと思ったのは、日本の学問の本です。「薄く切るにはミクロトームを使えばいい」と、そうした事しか書いてない。問題は、つまり、僕たちが知りたかったのは、具体的にミクロトームを扱う時のコツとか、注意したほうがいい点、手や指が知らなきゃならない知恵なんですね。どういうことかと言いますと・・・やってみると一番分かるんですが、冬、ミクロトームを使う時、その刃が冷えているんです。サンプルを固定しているパラフィン(蝋)は温度に対して敏感なものですから、冷たい刃が当たると蝋は硬化して反るんです。切るそばから切片がカールして、中のサンプルが一緒に崩れてしまうんですね。これが夏になると今度は蝋が刃に付くんですよ。そうした変化する刃に対してどうするか。つまり切る前に気温を膚で感じて、今日、刃には寒いなと思ったら、手でもって刃を温めてやる。少し温まったら切る。今日は暑いな。湿度が高いなと思ったら扇風機で冷やしてやる。僕たちの身体がミクロトームの刃やパラフィンが感じている温度や湿度を感じるようになっていく、そういうことなんです。そういう手続きを経ないと、こういうものは姿を現してくれないんです。その時、僕は、植物というか、生き物がどんなに精密で複雑で、どんなに大変な構造を持っているか、逆に理解出来ていくような気がしたんです。
十数年間の試行錯誤が『1000年刻みの日時計・牧野村物語』である
さて、そうやって十何年間かいるうちに、村の対応が、だんだん変わってくる。どういうことで変わってくるかというと、僕たちは何より一生懸命に米の反収を上げたくて、田圃で土をいじったり、水ハケを調べたり、バクテリアを調べたり、いろいろやったわけですね。その結果、分かってくる事がある。それを田圃に応用するわけです。例えば、水ハケの悪いところは明渠にして、水を抜いてやる。土質を調べて、土の性質を読んで肥料を塩梅しながら蒔いてやる。同じように土質を読みながら水の掛け引きをやっていく。勿論、これらは育っている稲の成長に良くも悪くも直結していくわけです。ちょうど、僕たちの田圃は、都合が良いのか悪いのか、町に通じる県道沿いにあったもんですから、そこを行き来する車やバスで村の人が見ていくわけです。いわば、大勢の村人注視の中での稲作りでした。村の平均反収が八俵から九俵です。僕たちは十一俵はとっていました。そのことと、稲の姿が良かった、元気な稲だったんですね。まあ、考えてみれば当たり前ですよね。大勢で暇にまかせてやっているんですから。だけど、そのことが村の人たちをどれだけ僕たちに近付けたか分からないですよね。ある時、気がついたら村の人が、わざわざ車を止めて、僕たちの田圃に下りてきたんです。「いい稲だ!」って、穂に触ったりね。畔に腰をかけてタバコをのんでいったりする。そんな時に、稲田を吹き越す風が、葉を揺るがせて音をたてて通り過ぎたりすると、その風音を聞きながら「どうも近ごろの稲の葉音はサワサワ軽い音だなあ。昔はもっとザワザワしてザツザッザツと重い音だった。機械植えになってコヤシのやり過ぎだろう」と、僕に話しかけてきます。葉は勿論、稲は珪酸というガラス質のもので、その表面が覆われています。それが風で触れ合って音をたててるんです。そして、この珪酸はいろんな病菌を防ぐらしいんですが、今の機械稲の音が軽いということは、チッソ過多で珪酸質が少ないんでしょうね。そして、嬉しいことに「お前らの稲は硬くていい音をしてる・・・」そう言ってくれたりするんです。僕たちはそういう硬い稲を作りたいと思っていましたから、とても嬉しいわけです。いまの世の中、本当に暗いと思いますが、しかし、まだその稲の葉の音が分かる人、土の分かる人、その微妙な音差を聞きわけることの出来る人がいることも確かなんです。そんなふうになってきて初めて、村の人と自由に対話が出来るようになってきた。僕たちが都会の人間だからといってへんに遠慮しないし、僕たちも結構遠慮なく話す。田圃を仲立ちにして前よりズッと自由な形で村の人びとと接することが出来ました。一つだけ新作の映画の宣伝言わせてもらえば、そういう中で、自分たちが好き勝手に作った映画が『1○○○年刻みの日時計・牧野村物語』なんです。
いまでは二千枚近いプレパラートが溜りました。その結果、何が分かっていったかというと、けっきょく、よく分からないんですけども、ただ、何か、生きていくー人間だけが生きているんじゃなくて、さまざまな生き物がこの世界にあって生きていく。だが、僕たちがそういう世界を感じとれる力をかなり失っている。そのことが自分たちを通じてよく分かったんです。特に、僕ら自身の手がもともと持っていた力を、いま失っているんじゃないか。手が持ったくさんの可能性を失っているんじゃないか。いつか、石牟礼(道子)さんともお話ししたことがあるんですが・・・。あるところまで土中の微生物の世界を調べていった時に、『古事記』を読んだんです。その『古事記』のある部分というのは、見事に土中の世界を活写しているんですね。どう考えても、あの時代には人間の世界に顕微鏡はなかった。じゃあ、どうしてあんなにリアルに・・・例えば、地獄に落ちていく、他界にいってまた帰ってくる話がありますげど、そこに出てくる細かい、実に正確な土の描写は、あきらかに土の中の世界を知っている人間じゃなければ書けないはずです。それは、僕、自分の実感で分かりました。石牟礼さんとーやはり昔の人は手の先にも顕微鏡があった。手の先が目だったんじゃないか。そういうふうにして、人間は五感を次々と鍛えていったんじゃないか。それが想像力と結びつくことによって、他界を含めた世界像を作ってきたんではないかーとお話ししたことがあるんです。何か、そんなふうな、一番肝心なベーシックなものがですね、牧野村での十何年間、僕たちを触発したと思っているんです。
「山の神」が物語る村の世界
もう少し、牧野についての話を続けさせて下さい。稲に大切な水のことなんです。みなさん山の神様ってご存じですよね。「山の神」というのは、秋の終わり、山に戻って山の神になり、春、里に帰ってくると、「田の神」になるわけですね。山の神様はどういうコースを通って往復するか。それを書いている本を知っている方がいらっしゃいますか?ほとんどいないはずですよ。天狗じゃあないし飛んでくるわけはない。僕は「山の神」がどうして、どういう経路を通って田圃に来るのか。ある日、突然、不思議に思ったんですよ。途中で会ったという話は幾つか残っているんです。そんな時は乞食のような恰好をしていたとか、時には俵を背負っていたとか、いろいろありますよね。そのなかに堰に近い所で会ったという話があります。つまり、堰というのは、山から水を運んできて、田圃に水を入れる用水路のことですが、僕は山の神はこの堰に沿って往復したんじゃないかと思うのです。僕たちの村の一番古い堰は、一○○○年前に作られたと文書に記されているんですけど、堰は壊そうと思ったら簡単に壊せるんですよ。堰の始まりは当然山の上のほうですが、堰幅が一五センチか二○センチぐらい、せいぜい、その辺から出発するんです。田圃つぶそうと思ったら、極端に言えば、そこをチョコチョコって踏んじゃえばいいんですから。これは何回も登った僕の実感です。だから獣がそこを通ることを一番恐れるんですよ。カモシカが足でポーンと蹴って石が入っても止まることがある。落ち葉がそこに溜って止まったという事件が実際何回もあったんですから。それをよく、山の人と里の人がケンカをした・・・。「里人の文化が山人の文化を駆逐した」なんていうことを軽く言う事がありますが、基本的には里の人は、山の人に水を止められたら・・・という恐れをつねに持っていたと思いますね。まして、一○○○年くらい前の話ですから。山は今よりズッと深くあったでしょう。しかも、そこに人が住んでいたとすれば、その人たちは山を熟知しているわけで。彼らの足の裏は山の地図です。山の人間は足の裏に山の地図を持っているんですよ。そういう人たちがいたんです。恐らく縄文時代から。そういう人たちが、本当に怒って堰の水を止めちやったら、田圃は干上がりますよ。里の人よりはるかに山のことは詳しいんですから、喧嘩になりません。そこで、山の人と里の人たちの間で伺らかの交換条件があったはずです。つまり「あなた方は水を守ってくれ、われわれは田を作る」と。「その代わり、水を守ったお礼にかくかくしかじかのものをさし上げる」とね。僕たちの村では、毎年十月二十一日だったかな、牧野の「山の神」がいるところは村の上のはずれ、本来の村境だった所なんですが、そこに、朝早く村人が集まってみんなで「餅」を置くんですよ。今は火を焚いて食べて帰っちゃうんですが、これなんか、そういう習慣の名残りだと僕は思っています。
そのほかにも、堰にまつわる「伝承」はいっぱいあって・・・。もうひとつ、「堀切観音の話」をさせて下さい。僕たちの田圃に水を運んでくる堰を、一○○○年前から守っている水神様は、堀切観音というお観音様なんですが、そのお堂に一人の乞食が住みつくんです。昭和の初め頃から彼が死んでいく昭和二十二、二十三年頃まで。ちょうど日本が戦争をやっていた時代です。自分が勝手に「オレはお観音様の別当をやる」と言って、そこで寝泊まりをはじめた・・・。彼は近くの山の村のお大尽だったんですが、彼の代で家が潰れる。オヤジと彼、ニ代続きで酒、女、バクチ、おきまりのコースです。で、三~四代前からの彼の家の歴史を村の人に聞きますと、まあ一言でいえば、近代によって、お金によってモミクチャにされてきたんですね。およそ一○○年問。で、僕は、何で彼は他所へ行かないで、ここで乞食をしたんだろう。「乞食は他所でするもんだ」って、何となく僕は思っていましたから、びっくりして。そしてまた、何で彼は自分の母親も、祖母も、そのまた母親も、お龍りして祈っていたその堀切観音のお堂に住んだんだろう。その時、彼の心にあったものは何だろうって、不思議に思い、この話に魅きつけられたんです。土方巽さんと宮下順子さんの二役でこの話を映画の中でやってもらいました。
本当にね。そういう世界。山に入り堰を見て、これは壊せる。簡単だ。こんなに簡単に壊せる堰をどして一○○○年も前から壊さずにとれたのか。じゃあ何があったのか。そういうふうに見ていくものの見方は、田圃の中で、稲や土と交感させてもらい、顕微鏡でその実相を掴みとろうと、試行錯誤していった時に教えてもらったんです。
「青の会」時代のことのことを聞いて下さい。
いま、ここで話したような生き物の世界、もちろん人間もそう。その世界をドキュメントでもってうーんと掘ってみたい。ものすごく豊かで、なんでいうのかなキラキラと輝いて、本質的にパワーがあるものを。いまも権力はいろいろやっています。でも、一株の稲、一枚の田圃を熟知しているのは誰か。そこに立ち続けている農民、人間です。その世界を少し見せてもらったんです。農民って、極端にいうと田圃一枚ちがえば全く違う人格なんです。生き物を扱っている人は一人ひとりが固有の位置で固有に生きています。その固有の位置というのは、一人ひとりが具体的に生きている具体的な世界であり、実は個性でもあるわけです。やっといま僕は、一株一株の稲が、一人ひとりの人間が「ここから後へは一歩も退けない」と発信している、そのことを掴みかけた。そんな気がしています。僕はまた自分が新しい出発点に立っていることに気がつくんです。まだまだドキュメンタリーは面白くてやめられないんじゃないか。僕の現在の正直な報告です。